ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十八.五話『ワルプルギスの夜』

◆◇◆

 

 

 黒龍ジズが、リーファウス平原へ降り立った。

 それだけで、戦場の意味が変わった。

 人と人が争う場所ではない。

 魔女と英雄が競う場所ですらない。

 神話が地上へ落ちてきた。

 そう錯覚するほどの圧が、平原を覆い尽くした。

 

 黒い翼が広がる。

 それは空を覆う幕のようだった。

 羽ばたき一つで風が潰れ、草原が抉れ、魔獣が転がり、人々が地面へ叩きつけられる。

 

 

「踏ん張れぇぇぇぇッ!」

 

 

 フェルトの声が飛ぶ。

 だが、その声すらジズの咆哮に呑まれた。

 黒龍が吠える。

 音ではなかった。

 衝撃だった。

 空気が砕け、鼓膜が軋み、骨の奥まで震わされる。

 ソルの『不退』に守られていた者たちでさえ、膝をついた。

 

 死にはしない。

 即座に裂かれ、焼かれ、潰されることはない。

 だが、耐えられることと、戦えることは違う。

 ごろつきたちが武器を取り落とす。

 魔獣たちが怯え、唸り、制御を外れかける。

 メィリィが歯を食いしばって笛を握った。

 

 

「だめよぉ、逃げちゃだめ……! お願いだから、まだ逃げないでぇ!」

 

 

 エルザが彼女の前へ出る。

 飛んできた黒い鱗片を刃で弾き、笑った。

 

「随分、大きなお腹ね。裂きがいがありそう」

 

「エルザぁ、冗談言ってる場合じゃないわよぉ!」

 

「冗談じゃない、とも言いきれないわね」

 

 ジズの背に、ラムが立っていた。

 白い衣は黒風に揺れない。

 額の白い角が、夕闇の中で冷たく輝く。

 彼女は何も語らない。

 ただ、右手を下ろす。

 それだけで、ジズの翼圧に風の刃が混ざった。

 黒龍の荒々しい蹂躙に、救済の魔女の精密な殺意が重なる。

 

 翼が薙ぐ。

 風が裂く。

 爪が大地を砕く。

 熱が草を焼く。

 平原が、次々に戦場ではなくなっていく。

 踏み締める地面が消える。

 隠れる場所が消える。

 陣形が消える。

 抗うための前線が、ただの瓦礫と穴へ変えられていく。

 

「くそ、範囲が広すぎる……!」

 

 ソルは歯を食いしばる。

 『不退』はまだ生きている

 だが、ジズの攻撃は一撃一撃があまりにも大きい。

 外からの破壊を遠ざけても、足場ごと吹き飛ばされれば立っていられない。

 熱を弾いても、酸素を焼かれれば息が詰まる。

 爪を防いでも、崩れた大地に落ちれば骨が折れる。

 

 守れる。

 だが、完全ではない。

 守れても、戦えなくなる。

 それが致命的だった。

 

「兄ちゃん!」

 

 フェルトが叫ぶ。

 ソルは振り返らない。

 ジズの顎が開く。

 喉の奥に、黒い熱が灯った。

 火ではない。

 熱と瘴気と死者のオドを混ぜ合わせた、黒い奔流。

 

「全員、伏せろッ!」

 

 ソルが叫ぶ。

 次の瞬間、黒龍の息吹が平原を薙いだ。

 黒い光が走る。

 地面が融けた。

 魔獣の群れが半分消えた。

 人は死んでいない。

 『不退』に守られた者は、かろうじて死なずに済んでいる。

 だが、無事ではなかった。

 地面に叩きつけられ、熱に肺を焼かれかけ、恐怖に体を強張らせている。

 庇護の輪から、戦意が削れていく。

 

 ソルの胸の奥で、強欲の魔女因子が軋んだ。

 共に戦う者が減る。

 立ち向かう意思が薄れる。

 それは、そのままソルの弱体化に繋がる。

 

「やはり」

 

 パンドラが微笑む。

 いつの間にか、彼女は黒龍の翼の影に立っていた。

 ジズの熱も、ラムの風も、彼女には届かない。

 

「素晴らしい権能です。けれど、守るものが多いほど、綻びも多くなる」

 

「黙ってろ」

 

 ソルは右手を向ける。

 

「――〝バン〟!」

 

 不可視の砲撃が走る。

 狙いはラムではない。

 パンドラ。

 あの女を先に殺さなければならない。

 ラムに傷を負わせても、ジズに損耗を与えても、パンドラがいる限り、すべてなかったことにされる。

 ソルの砲撃がパンドラの胸を貫いた。

 白い衣が裂ける。

 体が崩れる。

 だが。

 

「もし、見間違えでは?」

 

 パンドラの声が、すぐ背後から聞こえた。

 ソルの背筋が冷える。

 振り返るより早く、ラムの風が迫った。

 ソルは空間を折り畳み、数歩先へ逃れる。

 頬が裂ける。

 血が飛んだ。

 

「ッ……!」

 

 パンドラは無傷で立っている。

 最初から撃たれていなかったように。

 ソルは奥歯を噛んだ。

 届いた。

 殺した。

 そのはずだった。

 だが、結果だけがずらされる。

 殺したという事実が、殺していない事実へ置き換わる。

 理不尽。

 虚飾。

 この女がいる限り、戦いは終わらない。

 

「ラムさん」

 

 パンドラが穏やかに呼ぶ。

 ラムは応じない。

 ただ、ジズの背から右手を向ける。

 今度は、風が槍となって降った。

 ジズの熱が前方を焼き、ラムの風が逃げ道を潰す。

 

 ソルは守る。

 守り続ける。

 だが、守るたびに仲間が倒れる。

 死なせない。

 しかし、戦線から離脱する。

 守るほど、ソルの力は削がれていく。

 

 届きかけている。

 確かに、未来の救済の魔女よりは弱い。

 ラムはまだ完成していない。

 ジズも、かつて世界を滅ぼした神獣そのものには届いていない。

 それでも。

 

 パンドラがいる。

 ラムがいる。

 ジズがいる。

 

 

 その三つが並ぶだけで、戦場は絶望へ傾いていく。

 

 

◆◇◆

 

 

「くそっ、くそくそくそ!」

 

 フェルトは歯を食いしばった。

 人が倒れていく。

 魔獣が消えていく。

 ロム爺が支え、メィリィが必死に指示を飛ばし、エルザが刃を振るっている。

 

 ソルは前で戦っている。

 たった一人で、魔女を止めようとしている。

 それなのに、自分は何をしている。

 

 怒鳴るだけか。

 人を動かすだけか。

 それも必要だとわかっている。

 だが、足りない。

 あの黒龍を止めなければ、全部終わる。

 ソルがどれだけ魔女を止めても、ジズが戦場そのものを壊す。

 

「フェルト、下がれ! あれの前に出てはならん!」

 

 ロム爺が叫ぶ。

 フェルトは振り返った。

 

「下がってどうすんだよ!」

 

「あれは人の手に負える相手ではあるまい!」

 

「だからって、見てろってのか!」

 

 その瞬間だった。

 フェルトの胸の奥で、何かが鳴った。

 音ではない。

 声だった。

 遠い。

 深い。

 古い。

 まるで、地の底から響くような声。

 

 

 

 ――王統の血よ。

 

 

 

「……は?」

 

 フェルトは目を見開く。

 誰かが呼んでいる。

 自分を。

 いや、自分の中に流れる何かを。

 

 

 ――契約は未だ絶えず。

 ――竜は王を守護する。

 

 

「なんだよ……なんなんだよ、これ」

 

 フェルトの体から、淡い赤金の光が滲んだ。

 それを見て、ロム爺の顔色が変わった。

 

「……まさか。いや、そんなはずは……フェルト、お前さん……」

 

「ロム爺?」

 

 フェルトは胸を押さえる。

 血が熱い。

 心臓が鳴る。

 自分のものではない何かが、胸の奥で目を覚まそうとしている。

 ロム爺は、震える声で呟いた。

 

「王家の血が、目覚めよったか……」

 

「何言ってんだよ」

 

 フェルトは吐き捨てる。

 

「アタシはそんなもん、知らねぇ」

 

 だが、声は止まらない。

 

 

 ――願え。

 ――命じよ。

 ――竜は、王の祈りに応える。

 

 

 フェルトはジズを見た。

 黒龍が吠え、平原を踏みにじる。

 その足元で、人が倒れている。

 逃げる場所もない連中が、それでも武器を握っている。

 

 ソルが血を吐きながら、魔女に向かっている。

 メィリィが泣きそうな顔で魔獣を呼んでいる。

 エルザが笑いながら、その前に立っている。

 ロム爺が自分を守ろうとしている。

 フェルトは拳を握った。

 

 

「……知らねぇよ」

 

 

 声は震えていた。

 だが、目は逸らさない。

 

 

「王家とか、血筋とか、契約とか、そんなもんアタシは知らねぇ」

 

 

 フェルトは叫ぶ。

 

 

「でもな!」

 

 

 風が吹く。

 赤金の光が強くなる。

 

 

「今、この状況を変えられるならなんでもいい!」

 

 

 その叫びは、祈りだった。

 命令ではない。

 王としての自覚でもない。

 ただ、見捨てたくないという願い。

 

 それが、血に届いた。

 それが、竜に届いた。

 

 遠く、ルグニカより遥か東の彼方。

 賢者の塔ありしアウグリア砂丘より。

 誰も入らぬ古い祭壇。

 親竜王国ルグニカが、かつて神龍との契約を刻んだ場所。

 そこに眠る白銀の殻が、目を開いた。

 

 魂はない。

 神龍そのものではない。

 かつての力のすべてでもない。

 だが、王家の血と祈りに応じるために残された、竜の殻。

 神龍ボルカニカの龍殻。

 

 大地が鳴った。

 東の方角から、白銀の光が走る。

 雲を裂き、風を裂き、戦場へ向かってくる。

 

 フェルトは息を呑む。

 ロム爺は膝をつきかけた。

 

「ありえん……いや……」

 

「ロム爺、知ってんのか」

 

「……フェルト」

 

 ロム爺の声は震えていた。

 驚きと、悔恨と、長年抱えてきた真実が滲んでいた。

 

「お前さんは……」

 

「……今は言うな」

 

 フェルトは前を向いた。

 

 

「今は、そんな話してる暇ねぇ」

 

 

 白銀の龍が、空を裂いて到来する。

 巨大な龍殻。

 魂なき神龍の抜け殻。

 だが、その威容は黒龍ジズに劣らない。

 白銀の翼が広がり、黒い雲を押し返す。

 ジズが咆哮する。

 ボルカニカの龍殻が応じるように吠えた。

 神話と神話が、リーファウス平原で向かい合う。

 

「すごいわぁ……」

 

 メィリィが、呆然と呟いた。

 その目はジズではなく、フェルトを見ている。

 

「フェルトちゃん、神龍まで従えてるのぉ?」

 

「従えてねぇよ!」

 

 フェルトが怒鳴る。

 

「アタシにも何がなんだかわかんねぇ!」

 

「でもぉ、来てくれたじゃない」

 

「なんでもいい! 使えるもんなら使う!」

 

 フェルトは叫ぶ。

 声が竜へ届くかどうかもわからない。

 それでも叫ぶ。

 

 

「おい、でっかいの! あの黒いの止めろ! アタシらを、守れ!」

 

 

 白銀の龍殻が動いた。

 翼が空を打つ。

 地面が裂けるほどの踏み込み。

 ジズへ突っ込む。

 

 黒龍と神龍の激突。

 轟音が平原を潰した。

 ジズの牙が白銀の首へ食い込み、ボルカニカの爪が黒龍の胸を裂く。

 黒い瘴気が噴き出し、白銀の鱗が砕け散る。

 

 完全優位ではない。

 むしろ、ジズの方が凶暴だった。

 だが、止めている。

 初めて、ジズの蹂躙が止まった。

 それだけで戦場に息が戻った。

 

 

「今だ!」

 

 

 フェルトが叫ぶ。

 

「立てる奴は立て! 魔獣を前に戻せ! 兄ちゃんの道を開けろ!」

 

 メィリィが笛を吹く。

 残った魔獣たちが再び走り出す。

 エルザが笑う。

 

「さあ、続きね」

 

 ロム爺が倒れた者を引き起こす。

 ごろつきたちが叫び、再び武器を握る。

 戦線が、息を吹き返した。

 

 

◆◇◆

 

 

 ソルはその瞬間を逃さなかった。

 

 ジズは神龍が抑えている。

 ラムの意識も、一瞬だけ黒龍へ向いた。

 パンドラは変わらず微笑んでいる。

 

 だからこそ、ソルは彼女へ向かった。

 先に殺すべきはラムではない。

 ジズでもない。

 パンドラだ。

 この女がいる限り、傷は消える。

 敗北は書き換えられる。

 死すら、なかったことにされる。

 

 

「――〝バン〟!」

 

 

 不可視の砲撃が走る。

 パンドラの頭が弾ける。

 だが、瞬きの後には、彼女はそこに立っていた。

 

「チッ!」

 

 ソルは踏み込み、空間を圧縮する。

 距離を潰し、パンドラの懐へ入る。

 右手に黒い瘴気を纏わせ、胸を貫く。

 手応えがあった。

 確かに、あった。

 だが。

 

「――もし」

 

 背後から声。

 ソルは振り返りざまに蹴りを放つ。

 脚がパンドラの首を折った。

 だが、次の瞬間には、何も起きていない。

 パンドラは微笑み、白い衣を揺らして立っている。

 

 焦っていない。

 息も乱れていない。

 むしろ、待っている。

 

 ソルはそこに気づいた。

 この女は、粘っているのではない。

 時間を稼いでいるのでもない。

 

 待っている。

 何かが来るのを。

 何かが成るのを。

 

「テメェ……何を企んでやがる」

 

 パンドラは微笑む。

 

「運命です」

 

「答えになってねぇよ」

 

「では、約束と言い換えましょうか」

 

 ソルの胸が、嫌な音を立てた。

 約束。

 その言葉に、魂の底が軋む。

 

 ジズとボルカニカが激突する。

 ラムが風を重ね、白銀の龍殻を削っていく。

 フェルトが叫ぶ。

 メィリィが笛を吹く。

 エルザが刃を振るう。

 ロム爺が人を動かす。

 

 誰もが戦っている。

 誰もが役目を持っている。

 そして。

 

 ソルは、気づくのが遅れた。

 ……レムが、いない。

 

 

◆◇◆

 

 

 レムは後方の陣地にいた。

 

 負傷者の呻き声が絶えない。

 布を裂き、傷を押さえ、治癒魔法をかける。

 師匠――フェリスから学んだ治癒の技術は、まだ拙い。

 

 フェリスのように軽やかに命を繋ぎ止めることはできない。

 それでも、できることはあった。

 血を止める。

 痛みを和らげる。

 折れた骨を固定する。

 瘴気に侵された者の呼吸を整える。

 レムは、必死に手を動かしていた。

 

 

「大丈夫です。まだ、大丈夫ですから……!」

 

 

 負傷者が呻く。

 レムは手をかざす。

 淡い光が傷を包む。

 それでも、耳は前線の音を拾っていた。

 

 ジズの咆哮。

 ボルカニカの咆哮。

 フェルトの声。

 メィリィの笛。

 エルザの笑い声。

 ロム爺の怒号。

 ソルの、戦う音。

 

 みんなが戦っている。

 みんなが役に立っている。

 

 フェルトは龍を呼んだ。

 メィリィは魔獣を操っている。

 エルザは守っている。

 ロム爺は人を動かしている。

 ソルは魔女に挑んでいる。

 

 レムだけが。

 レムだけが、ここにいる。

 

 もちろん、治療は必要だ。

 自分が手を止めれば、死ぬ者がいる。

 それはわかっている。

 わかっているのに、胸の奥が冷たかった。

 

 お兄ちゃんの役に立ちたい。

 もっと近くで。

 もっと直接。

 あの人を助けたい。

 あの人の隣に立ちたい。

 けれど、前線へ出ても、レムに何ができる。

 

 ラムには届かない。

 ジズには届かない。

 パンドラなど、見ただけで足が竦む。

 

 自分が行けば、足手まといになる。

 わかっていた。

 だから、ここにいるべきだった。

 そのはずだった。

 

 ――ふわり、と。

 

 淡い光が視界の端を通った。

 

 

「……微精霊?」

 

 

 小さな光だった。

 精霊と呼ぶには弱く、ただのマナの粒と呼ぶには意思がある。

 白く、柔らかく、レムの周囲を漂う。

 

 一つではない。

 二つ、三つ。

 小さな光が、傷ついた者たちの間をすり抜け、レムの前へ集まってくる。

 まるで、導くように。

 

「だめです」

 

 レムは首を振る。

 

「レムは、ここにいなければ……」

 

 光が揺れる。

 前線の方へ。

 ソルの方へ。

 お兄ちゃんの方へ。

 

 レムの手が震えた。

 行ってはいけない。

 わかっている。

 前線へ行っても何もできない。

 

 でも。

 もし。

 もし、何かできることがあるなら。

 お兄ちゃんが苦しんでいるなら。

 自分だけが、役に立てる何かがあるなら。

 気づけば、レムは立ち上がっていた。

 

 

「すみません、少しだけ……」

 

 

 誰に言ったのか、自分でもわからない。

 負傷者の声が遠ざかる。

 陣地の喧騒が薄れる。

 白い微精霊のような光が、レムを導いていく。

 足が動く。

 

 自分の意思なのか、導かれているのか、曖昧だった。

 それでも、レムの胸にある願いだけは本物だった。

 お兄ちゃんの役に立ちたい。

 その一心で、レムは歩いた。

 

 

 

 

 

 そして、気づけば。

 彼女は前線にいた。

 

 ジズとボルカニカがぶつかる戦場。

 ラムとパンドラがいる場所。

 ソルが血を流しながら立つ場所。

 

 その中心に。

 レムは、立っていた。

 

 手には、剣があった。

 失われたはずの【愛剣】。

 

 なぜここにあるのか。

 いつ手にしたのか。

 レムにはわからない。

 ただ、その剣が、自分の願いを知っているような気がした。

 

 

「レム……?」

 

 

 ソルの声が聞こえた。

 その瞬間、彼の顔色が変わる。

 

 

「やめろ」

 

 

 レムは剣を握る。

 白い光が周囲を漂う。

 優しい声が、耳元で囁いた気がした。

 

 

 ――貴方なら、役に立てます。

 ――貴方こそが、お兄ちゃんを助けられる。

 

 

「やめろ、レム!」

 

 

 ソルが叫ぶ。

 空間を蹴って走り出す。

 ラムの風を受け、血を撒き散らしながら。

 

 

「やめろォォォォォッ!」

 

 

 レムは泣いていた。

 泣きながら、微笑んでいた。

 

 

「レムも」

 

 

 声は小さかった。

 

 

「お兄ちゃんの、役に立ちたいんです」

 

 

 剣先が、自分の胸へ向く。

 違う。

 これは違う。

 どこかで、そう思った。

 けれど、もう遅い。

 

 

 愛剣が、レムの胸を貫いた。

 

 

◆◇◆

 

 

 世界が止まった。

 

 レムの胸から、黒い光が溢れる。

 同時に、ラムの体が大きく揺れた。

 

 

「――ッ!?」

 

 

 白い角がひび割れる。

 胸に、見えない刃が突き立ったように血が滲む。

 

 レムとラム。

 双子。

 姉妹。

 魂の奥で繋がる二人。

 

 レムの愛剣が貫いたのは、レム自身だけではなかった。

 その願いは、姉へ届いた。

 ラムの傲慢の炉へ。

 白い角に蓄えられた膨大なマナへ。

 暴食の欠片へ。

 致命的な亀裂を入れた。

 パンドラが微笑む。

 

 

「これで、約束は成りました」

 

 

 ソルはレムへ手を伸ばす。

 

 

「レム!」

 

 

 レムの体を、黒い影が包む。

 影は柔らかく、深く、恐ろしく、愛のように絡みついていく。

 パンドラは、その影へ向かって恭しく告げた。

 

 

 

「貴方こそが、嫉妬の正当なる適合者」

 

 

 

 黒い影が膨らむ。

 

 

 

「世界を浄化する聖女」

 

 

 

 王都の空気が凍る。

 

 

 

「運命に選ばれし少女なのです」

 

 

 

 レムの体が、影に呑まれた。

 ラムが叫ぶ。

 

 

「――パンドラッ!! 話が違うわ!」

 

 

 その声には、初めて理性があった。

 傲慢に飲まれていたはずのラムの瞳に、焦りが――否、怒りが戻っている。

 

 妹を見ていた。

 レムを見ていた。

 救済の魔女としてではなく、姉として。

 パンドラは首を傾げる。

 

 

「はて」

 

 

 柔らかく、無垢な顔で。

 

 

「――貴方の聞き間違いでは?」

 

「このッ……!」

 

 

 ラムが動こうとする。

 だが、体が動かない。

 レムの剣がもたらした傷が深すぎる。

 白い角に亀裂が走る。

 

 そこに、黒い影が伸びた。

 影の中から、レムが現れる。

 黒い和服。

 夜を織ったような袖。

 額に生えた、黒く禍々しい角。

 血のような瞳。

 青い髪の奥で、何かが壊れている。

 レムであって、レムではない。

 少女であって、魔女でもある。

 その唇が動く。

 

 

 

「――妬ましい」

 

 

 

 声を聞いた瞬間、ソルの心臓が止まりかけた。

 その声。

 その響き。

 その感情。

 

 ――知っている。

 

 何度も聞いた。

 ロストブルーで。

 ルナが殺されるたびに。

 世界が巻き戻るたびに。

 愛してると囁いた、あの声。

 

 ラムではない。

 ラムでは、なかった。

 パンドラが、静かに告げる。

 

 

「レムさん」

 

 

 黒い魔女が、ゆっくりとパンドラを見る。

 

 

「今こそ、貴方のものを、貴方の姉から奪い返す時です」

 

 

 ラムが目を見開く。

 

 

「レム……!」

 

 

 黒い影が伸びた。

 ラムの胸を貫く。

 白い角から、膨大なマナが引き剥がされる。

 王都から吸い上げた力。

 四都市を滅ぼして溜め込んだオド。

 暴食の欠片。

 傲慢の炉。

 そして、ラムの天稟そのもの。

 

 ――角の才能。

 

 世界のマナを取り込み、蓄え、撃ち放つ器。

 それが、黒い影に奪われていく。

 ラムの白い角から光が失われる。

 

 

「あ、ああ……!」

 

 

 ラムの声が震える。

 レムは見ていない。

 姉を見ていない。

 ただ、奪っている。

 自分のものを取り戻すように。

 あるいは、自分に足りなかったものを埋めるように。

 

 レムの浄化の才能。

 瘴気を取り込み、穢れたマナを純化する力。

 

 そこへラムの天稟が加わる。

 世界中のマナを取り込み、蓄積する器。

 

 瘴気を際限なく吸い込み、清め、あるいは己の中へ溜め込む力。

 ――真なる救済の魔女が、ここに降臨した。

 

 

 

 ソルは、動けなかった。

 黒い角。

 黒い和服。

 血のような瞳。

 今まで、ずっと引っかかっていた。

 ラムの角は白かった。

 だが、ソルがロストブルーで見た救済の魔女の角は黒かった。

 

 それでも、考えなかった。

 そんなはずがないと、切り捨てていた。

 

 レムが。

 このレムが。

 自分を兄と呼び、笑い、泣き、震えながら手を伸ばした少女が。

 

 ――世界を滅ぼした救済の魔女であるはずがないと。

 信じたかった。

 だが、真実は目の前にあった。

 

 

「……お前だったのか」

 

 

 ソルの声が漏れた。

 黒い魔女が、ゆっくりとこちらを見る。

 血のような瞳が、ソルを映す。

 

 

「お前だったのか、レム」

 

 

 レムの唇が震える。

 黒い影が揺れる。

 それは笑みだったのか、泣き顔だったのか、ソルにはわからなかった。

 ただ、声だけが届く。

 

 

「お兄ちゃん――」

 

 

 甘く。

 壊れて。

 愛に満ちて。

 妬みに濡れて。

 

 

 

「――アイシテル」

 

 

 

◆◇◆

 

 

 ワルプルギスの夜は、ここに本当の幕を開けた。

 

 黒龍が吠え。

 神龍が抗い。

 

 傲慢の魔女が砕け。

 虚飾の魔女が微笑み。

 そして、嫉妬の魔女が目覚めた。

 

 現代の魔女たちが集う夜。

 暁を待たぬ祭り。

 世界を浄化する聖女の誕生。

 

 そして、ソルが想い、救いたかったはずの少女が。

 

 

 ついに、世界最悪の敵として立ちはだかった。

 

 

◆◇◆

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