◆◇◆
黒い影が、夜を塗り潰していた。
リーファウス平原に吹き荒れていた風が止まる。
黒龍ジズの咆哮も、神龍ボルカニカの龍殻が軋む音も、戦場に響く怒号も、負傷者の呻きも、魔獣たちの唸り声も。
すべてが、一瞬だけ遠ざかった。
誰もが、それを見ていた。
黒い和服。
黒い角。
青い髪。
血のような瞳。
レム。
だが、レムではない。
ソルが未来で見た救済の魔女。
空無き大地を滅ぼし、ルナを殺し、ソルを殺し、世界を永劫回帰へ沈めようとした理不尽。
ラムの姿をした偽物ではない。
傲慢の魔女を名乗った姉ではない。
ソルが違和感の奥底でずっと目を逸らしていた、真なる救済の魔女。
それが、今、目の前にいた。
「……レム」
フェルトが呟いた。
声が震えていた。
勝ち気な金色の瞳が、初めて何を睨めばいいのかわからず揺れている。
メィリィは笛を握ったまま動けない。
さっきまで魔獣たちを操り、泣きそうになりながらも戦場を支えていた少女は、目の前に現れた黒い魔女を見て、唇を小さく震わせていた。
エルザですら、笑っていなかった。
いつもなら血と死の匂いに艶然と口元を歪める女が、今だけは刃を構えたまま、動きを止めている。
ロム爺は唸るように息を吐き、巨大な拳を握り締めていた。
戦場を見てきた老人の目が、亜人戦争の地獄さえ越えた何かを見て、深く沈んでいる。
倒れ伏すラムは、砕けた白い角を押さえ、血を吐きながら妹を見ていた。
その瞳には、つい先ほどまでの傲慢はなかった。
救済を騙る魔女の冷たさもない。
ただ、妹を見ている姉の顔があった。
「レム……」
掠れた声。
届かない声。
黒い角のレムは、その声にも振り向かなかった。
誰も、動けなかった。
敵だ。
頭ではわかっている。
あれはもう、ただのレムではない。
嫉妬の魔女因子に呑まれ、ラムから傲慢を奪い、暴食の欠片を取り込み、世界を浄化するための器となった存在。
止めなければならない。
殺せばいい。
殺せば、この場の被害は止まる。
殺せば、これ以上、奪われるものは減る。
殺せば、世界はまだ踏み止まれる。
わかっている。
わかっているのに。
誰も、刃を向けられなかった。
フェルトにとって、レムは貧民街で出会った同年代の少女だった。
いつもソルの後ろにいて、危なっかしくて、放っておけばすぐ泣きそうで、それでも必死に笑おうとしていた子。
守られるだけでは嫌だと、何かの役に立ちたいと、震えながら前を向こうとしていた子。
──仲間だった。
メィリィにとって、レムは一緒に怯え、一緒に笑い、おままごとをした子だった。
弱くて、泣き虫で、けれど誰かを好きになることだけは誰より真っ直ぐで。
ソルのために何かしたいと願う姿が、どこか自分と似ていて、だから少しだけ放っておけなかった子。
──おともだちだった。
エルザにとって、レムはメィリィの隣にいた、危うくて弱い少女だった。
腹を裂きたい相手ではない。
刃を向けて楽しむ獲物ではない。
恐怖に震えながらも、誰かのために手を伸ばそうとする、壊すにはあまりに柔らかい命だった。
ロム爺にとって、レムはソルが拾い、守り続けた子だった。
貧民街の底で、強くも賢くも狡くもなれず、それでも誰かの傍にいようとした小さな娘。
フェルトやメィリィと同じように、こんな地獄で大人たちが守ってやらねばならなかった子どもの一人だった。
そして、ソルにとって。
レムは。
「お兄ちゃん」
黒い角のレムが、微笑む。
壊れた笑みだった。
甘く、優しく、底なしに歪んでいる。
「アイシテル」
ソルの喉が塞がった。
呼吸が止まる。
心臓が、黒い手に握り潰されたように痛んだ。
技を構えることができない。
指先を向けることができない。
〝バン〟の一言が出ない。
ビッグバンも、アトモスフィアも、魔女因子の力も。
撃てば、レムを傷つける。
殺してしまうかもしれない。
それがわかった瞬間、ソルは何もできなくなった。
「……くそ」
吐き出した声は、あまりにも小さかった。
王だった男の声ではない。
ロストブルーの太陽と呼ばれた者の声ではない。
ただ、大切を前にして、何もできなくなった兄の声だった。
黒い影が、地面を這う。
影は蛇のように伸びた。
静かに。
音もなく。
けれど、そこに触れられれば、何かを奪われると本能でわかるほど、濃密な嫉妬を滲ませながら。
最初に向かったのは、メィリィだった。
「え……?」
メィリィが一歩引く。
反射的に、笛を口元へ持っていく。
だが、音は鳴らなかった。
黒い影が、彼女の足元から這い上がり、細い足首に絡みつき、腕へ、肩へ、胸元へと巻きついていく。
「いや、やだ、なにこれぇ……!」
メィリィが震える。
影は肉を裂かない。
骨を砕かない。
血も流れない。
ただ、内側へ入り込む。
皮膚の下へ。
オドの奥へ。
魂の柔らかい場所へ。
そこにあるものへ、黒い手を伸ばす。
「妬ましい」
レムが言った。
声は静かだった。
なのに、平原のどこにいても聞こえるようだった。
「魔獣とまで仲良くできて、お兄ちゃんの役に立てるなんて」
メィリィの周囲にいた魔獣たちが、次々に動きを止めた。
牙を剥いていた獣が、首を垂れる。
唸っていた魔獣が、怯えたように後退する。
メィリィの命令を待っていたはずの獣たちの瞳から、彼女へ向けられていた繋がりが薄れていく。
「や、だ……」
メィリィが泣き崩れる。
『魔操の加護』。
メィリィが持っていた、魔獣と心を通わせる力。
怖がる子を宥める感覚。
怒る子を制する呼吸。
飢えた子を導く術。
魔獣を道具として使うのではなく、子どもたちのように扱ってきた彼女だけの歪で優しい絆。
それが、内側から奪われていく。
レムは殺していない。
傷つけてすらいない。
だが、メィリィは戦えなくなった。
「メィリィ!」
エルザが駆ける。
刃が閃く。
黒い影を断ち斬る。
確かに断ち斬った。
メィリィへ絡みつく影が裂け、黒い飛沫のように散った。
だが、次の瞬間、影は斬れた端から繋がり直し、今度はエルザの腕に絡みついた。
「――そう、今度は私ということね」
エルザの笑みが凍る。
黒い影が、彼女の傷へ潜り込む。
ジズとの戦いで裂かれた腕。
ラムの風に削られた脇腹。
先ほどまでなら、すぐに塞がっていたはずの傷。
だが、塞がらない。
血が流れ続ける。
いつもなら歓喜の材料であるはずの痛みが、じわじわと死の予感を伴って彼女の体を蝕んでいく。
「妬ましい」
レムの声。
「痛くても、死にそうでも、お兄ちゃんの隣で戦えるなんて」
エルザの不死性が軋む。
血を流しながらも笑っていた女の肉体が、初めて死へ近づいていく。
さらに、影は彼女の戦闘感覚へ触れた。
刃を振るう角度。
殺意を読む勘。
肉を裂く呼吸。
死線で笑う異常な余裕。
敵の内臓の位置を想像し、そこへ刃を導くための本能。
そのすべてを、影が舐め取っていく。
「ふふ……これは、困ったわね」
エルザは笑おうとした。
けれど、膝が折れた。
体が思うように動かない。
斬るべき場所が、わずかに遅れて見える。
殺すための線が、霞んでいく。
メィリィの前に倒れ込むようにして、それでも彼女を庇う。
「エルザぁ!」
「問題ないわ……まだ、死んでいないもの」
その声に、いつもの艶はなかった。
それでも、彼女はメィリィの前から退かなかった。
次に、影はロム爺へ向かった。
「ぬぅ……!」
ロム爺はこん棒を振るう。
巨人族の膂力。
亜人戦争を生き抜いた老獪さ。
裏の顔役として積み上げた経験。
その拳は確かに影を吹き飛ばした。
黒い靄が一瞬、爆ぜるように散る。
だが、影は散って、霧となり、ロム爺の周囲を包み込んだ。
「妬ましい」
レムが囁く。
「たくさん知っていて、迷わなくて。お兄ちゃんに頼ってもらえるなんて」
「ぐ、ぬ……ッ!」
ロム爺の目が見開かれる。
思考が鈍る。
戦場の流れを読む力。
敵の狙いを予測する勘。
人を動かす言葉。
フェルトを守るために張り巡らせてきた策。
亜人戦争を生き延び、貧民街の底でなお目を曇らせなかった老人の知恵。
何十年も積み上げてきた経験の骨組みが、内側から抜き取られていく。
ロム爺は倒れなかった。
だが、指示が止まった。
老人の口から、言葉が出なくなった。
戦場で次に何をすべきか、その判断が黒い泥に沈んでいく。
「ロム爺!」
フェルトが叫ぶ。
その声に反応したように、影が彼女へ向いた。
「ッ――!」
フェルトの胸が脈打つ。
赤金の光が揺れる。
王家の血。
神龍を呼んだ祈り。
見捨てる人間になりたくないと叫んだ願い。
本人に自覚などない。
自分が何者なのかも、まだ受け止めていない。
ただ、それでも彼女の願いは龍へ届いた。
黒い影が、それを見つけた。
「妬ましい」
レムが言った。
「お姉ちゃんみたいに特別で、レムにはないものを持っていて。なのに、そんなに真っ直ぐ前を向けるなんて」
影がフェルトへ迫る。
フェルトは歯を食いしばる。
「来んな!」
叫ぶ。
だが、影は止まらない。
彼女の胸に触れた瞬間、遠くでボルカニカの龍殻が軋んだ。
白銀の龍が、ジズの爪を受け止めながら、わずかに動きを鈍らせる。
「な、んだよ……!」
フェルトの中から、熱が抜けていく。
さっきまで確かに聞こえていた古い声が遠ざかる。
竜へ届いていた祈りが、黒い影に絡め取られる。
神龍を従えていたわけではない。
命じていたわけでもない。
ただ、フェルトの願いが龍殻に届いていただけ。
その願いさえ、レムは妬んだ。
「やめろ!」
ソルが叫ぶ。
影が止まる。
いや、止まったのではない。
向きを変えた。
黒い救済の魔女が、ゆっくりとソルを見る。
血のような瞳が、彼だけを映す。
「お兄ちゃん」
甘い声。
壊れた声。
「ソルお兄ちゃん」
黒い影が、ソルへ伸びる。
その瞬間、ソルの胸の奥で六つの魔女因子が震えた。
怠惰。
色欲。
憤怒。
暴食。
強欲。
憂鬱。
レムにとって、それらは全て欲しいものだった。
ソルの中にあるもの。
ソルが背負っているもの。
ソルが忘れなかったもの。
ソルをソルたらしめるもの。
何度折られても立ち上がる意志。
妹を救うと誓った願い。
仲間を忘れない魂。
魔女因子を六つも抱えながら、まだ自分であろうとする歪な器。
そのすべてが、妬ましい。
「ほしい」
レムが言った。
「お兄ちゃんの全部を、レムにください」
影が迫る。
ソルは右手を上げかける。
──撃て。
撃たなければ奪われる。
撃たなければ、終わる。
そうわかっている。
なのに。
指先が震える。
撃てない。
レムを傷つけるかもしれない。
殺してしまうかもしれない。
──ソルは惑う。
「くそ、くそ……ッ!」
ソルは後退する。
押し込まれる。
黒い影が足元へ絡みつき、膝を掴み、胸へ伸びる。
レムは歩いてくる。
ゆっくりと。
泣いているような笑顔で。
「──アイシテ」
ソルは抵抗できない。
撃てない。
ビッグバンも。
アトモスフィアも。
魔女因子の力さえ、レムへ向けることができない。
ただ、押し込まれる。
影が胸に触れる。
怠惰が引きずられる。
色欲が絡め取られる。
憤怒が黒く溶ける。
暴食が喰われかける。
強欲の庇護が剥がされる。
憂鬱の残響が重く沈む。
ソルの中にあるものが、少しずつレムへ引き抜かれていく。
「やめろ、レム……ッ」
情けない声だった。
祈りにもならない。
命令にもならない。
ただの懇願。
それでも、レムは止まらない。
「──お兄ちゃんがほしい」
ソルの視界が黒く染まる。
未来が重なる。
ロストブルー。
空のない地獄。
倒れるノイン。
泣くツヴァイ。
血を吐くフューリー。
壁に叩きつけられるズィーヴァ。
叡智の書を抱えて沈黙するアインツ。
死ぬルナ。
何度も、何度も、何度も。
救えなかった未来。
勝てなかった未来。
また終わる。
また救えない。
また、レムに奪われる。
また、全部失う。
その瞬間。
──天が裂けた。
◆◇◆
黒い息吹が、戦場を薙いだ。
ジズの咆哮。
あるいは、レムの影が放った瘴気の奔流。
それがソルごと、戦場を呑み込もうとした。
だが、届かなかった。
──一筋の剣閃が走った。
白。
赤。
青。
そのどれでもあり、そのどれでもない、あまりにも澄み切った一閃。
瘴気の奔流が、真っ二つに裂かれた。
黒い死が左右へ割れ、リーファウス平原の遥か彼方を抉る。
その中心に、一人の男が降り立つ。
赤い髪。
青い瞳。
剣聖。
──ラインハルト・ヴァン・アストレア。
世界の希望。
化け物を狩る化け物。
最後の英雄。
彼がそこに立った瞬間、戦場にほんのわずかな希望が差した。
フェルトが息を呑む。
ロム爺が目を見開く。
メィリィが震える手で笛を握り直す。
エルザが小さく笑った。
ジズでさえ、低く唸った。
だが、ソルだけは知っていた。
その希望が、別の絶望でもあることを。
ラインハルトは、レムを救うために来たのではない。
世界を守るために来た。
つまり。
殺しに来たのだ。
「ラインハルト……!」
ソルが叫ぶ。
ラインハルトは、黒い角のレムを見ていた。
彼の表情は静かだった。
怒りはない。
憎しみもない。
ただ、判断があった。
世界を守る剣聖としての、正しい判断。
「君は……いや、君もいますぐここから離れるんだ。
──アレの相手は、僕がする」
ラインハルトは言った。
「待て、違う、あいつは……!」
「待てない。彼女は、もう世界を滅ぼす災厄だ」
その声は冷たいわけではなかった。
むしろ、痛みを知っている声だった。
だからこそ、揺るがない。
「この場で、斬る」
龍剣が抜かれる。
その瞬間、空気が変わった。
ジズの咆哮も、レムの影も、ラムの風も、パンドラの微笑みすら、一瞬だけ薄くなる。
龍剣レイド。
抜かれたなら、世界がその斬撃を認める。
ラインハルトは踏み込もうとした。
その前に。
ソルが、地面に手をついた。
「……頼む」
ラインハルトの動きが止まる。
ソルは頭を下げていた。
血に濡れた額を、土へ近づけるほど深く。
フェルトが息を呑む。
メィリィが目を見開く。
レムの影が揺れる。
ソルは、震える声で言った。
「殺さないでくれ」
「……」
「あいつを、殺さないでくれ」
ラインハルトは答えない。
ソルは続ける。
「力じゃ止められねぇ。俺じゃ、あいつを傷つけられねぇ。わかってる。お前が正しい。ここで斬れば、世界は救えるかもしれねぇ」
拳が土を掴む。
「でも、俺は……あいつを救いたい」
声が詰まる。
「レムを、救いたい」
沈黙が落ちた。
ラインハルトは龍剣を握ったまま、ソルを見ている。
その目にあるのは、怒りではない。
失望でもない。
ただ、重いものを測るような静けさ。
「……救えないと判断した時は、斬る」
ラインハルトは言った。
ソルの肩が震える。
「……ああ」
「猶予は長くない」
「わかってる」
「なら、龍とあちらの魔女は、僕が受け持とう」
ラインハルトの視線が、パンドラへ向く。
パンドラは微笑んでいた。
「けれど、彼女がいる限り、完全には殺しきれないだろう」
ラインハルトは言った。
「時間を稼ぐことしかできない」
「十分だ」
ソルは立ち上がる。
膝が震えていた。
それでも立つ。
「その間に、俺がレムを止める」
ラインハルトは一瞬だけ目を伏せた。
「わかった」
次の瞬間、剣聖が消えた。
ジズの翼が落ちる。
いや、落とされた。
ラインハルトの剣が、黒龍の翼を裂いたのだ。
ジズが咆哮する。
パンドラが微笑む。
「もし、見間違いでは?」
次の瞬間、ジズの翼が戻る。
だが、ラインハルトはすでに次を斬っていた。
爪を。
喉を。
鱗を。
黒龍の災厄を、剣聖が次々に削っていく。
しかし、パンドラがいる限り、終わらない。
英雄でさえ、完全な解決にはならない。
それでも、時間は生まれた。
猶予が生まれた。
ソルは、再びレムと向き合った。
◆◇◆
「レム」
ソルは呼んだ。
黒い救済の魔女が、首を傾げる。
「お兄ちゃん」
「……戻ってこい」
「レムは、ここにいます」
「違う」
ソルは一歩踏み出す。
影が蠢く。
だが、撃たない。
傷つけない。
殺さない。
言葉で届かせる。
それしかない。
「──レムは、幸せです。」
「お前は、そんな顔で笑う奴じゃねぇ」
「──レムは、愛しています。」
「そんな声で愛をねだる奴じゃねぇ」
「──レムは……妬ましい。」
「そんな目で、誰かから奪う奴じゃねぇ」
会話になっていない。
レムの中にある嫉妬が、ソルの言葉を呑み込んでいく。
黒い瘴気が溢れる。
影が膨らむ。
「レム」
それでも、ソルは呼ぶ。
「俺だ。お前の兄だ。だから――」
言葉は最後まで届かなかった。
黒い影が爆ぜた。
ソルの体が吹き飛ばされる。
「が、ッ……!」
空気が肺から抜ける。
背中に、何かが叩きつけられた。
巨大な幹。
フリューゲルの大樹。
リーファウス平原に根を張る、世界樹のような大樹。
その幹へ、ソルは背中から激突した。
骨が軋む。
視界が揺れる。
立てない。
動けない。
黒い影が、ゆっくりと迫ってくる。
レムが歩いてくる。
ソルへ。
お兄ちゃんへ。
「お兄ちゃんの全部、レムにください」
影が伸びる。
ソルの胸へ。
魔女因子へ。
怠惰が引き剥がされる。
色欲が震える。
憤怒が軋む。
暴食が喰われる。
強欲が剥がれる。
憂鬱が沈む。
ソルの視界に、また未来が重なった。
また終わる。
また救えない。
また、レムに負ける。
ノインが死ぬ。
ツヴァイが泣く。
フューリーが血を吐く。
ズィーヴァが笑えなくなる。
アインツが諦める。
──ルナが死ぬ。
ロストブルーが滅ぶ。
ソルは、何度でも負ける。
「……また、かよ」
声が漏れた。
喉の奥から、壊れた笑いがこぼれかける。
もう、どうしようもない。
レムを傷つけられない。
パンドラは死なない。
ジズは止まらない。
仲間は力を奪われた。
ラインハルトですら、時間を稼ぐことしかできない。
何もない。
何も残っていない。
その時だった。
――もし、どうしようもなくなったら、君を支えているものが何か考えるといい。
エキドナの声が、蘇った。
「……支えている、もの」
ソルの背中にあるもの。
今、動けない自分を受け止めているもの。
──フリューゲルの大樹。
四百年の間、成長し続けた木。
──何を糧に?
それは閃きだった。
眩い煌めきがソルの脳内を駆けめぐる。
瘴気はただの毒ではない。
マナの澱み。
世界に生きた者たちの絶望。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
後悔。
──もし、この大樹がそれを吸い上げ、溜め込み、世界を清めてきた器だとするならば。
ソルの目が、見開かれた。
「……そういうことかよ」
エキドナ。
あの魔女は、最初からこれを言っていた。
仲間を思い出せという話ではない。
精神論ではない。
文字通り。
今、自分を支えているもの。
この大樹こそが。
四百年分の瘴気を溜め込んだ、最大の燃料庫だった。
ソルは笑った。
血を吐きながら。
黒い影に胸を掴まれながら。
「本当に、気色悪ぃ助言しやがって」
ソルは背中を、大樹へ押しつけた。
そして、呪術を開く。
大樹の奥へ手を伸ばす。
世界の澱みへ。
四百年分の瘴気へ。
それを、取り込む。
瞬間。
世界が黒く染まった。
◆◇◆
瘴気が、流れ込む。
流れ込むという言葉では足りない。
洪水だった。
濁流だった。
黒い海そのものが、ソルの魂へ叩き込まれていく。
「ぐ、ぁ……ああああああああああッ!」
血管が黒く浮かぶ。
皮膚の下を、闇が走る。
目から血が滲む。
喉が焼ける。
骨が軋む。
魂が膨れ上がる。
器が悲鳴を上げる。
普通なら、壊れる。
即座に壊れる。
肉体が耐えられない。
魂が耐えられない。
自我が千切れる。
数えきれないほどの怒りと悲しみと絶望が、ソルを塗り潰そうとする。
だが。
「──曲がらねぇ」
ソルは呟いた。
不曲。
俺は、俺を曲げない。
「──諦めねぇ」
不諦。
俺は、目的を諦めない。
「──俺は、忘れねぇ」
不忘。
俺は、背負ったものを忘れない。
ノイン。
ツヴァイ。
フューリー。
ズィーヴァ。
アインツ。
ルナ。
ロストブルー。
今の仲間たち。
レム。
全部。
全部、持っていく。
瘴気が形を得た。
黒い闇が、ソルの背後で膨らむ。
──それは獣だった。
──一匹目。
黒い鬣を持つ獅子。
牙を剥き、爪を立て、壊すためではなく守るために立つ獣。
ノイン。
──二匹目。
影のようにしなやかな猫。
音もなく歩き、ソルの足元へ寄り添う獣。
ツヴァイ。
──三匹目。
呪印を纏った痩せた獣。
震えながらも、憎しみに呑まれず前を見る獣。
フューリー。
──四匹目。
細く、素早く、目端の利く盗獣。
笑うように尻尾を振り、影の隙間へ潜る獣。
ズィーヴァ。
──五匹目。
老いた角を持つ馬獣。
叡智を抱え、静かに戦場を見据える獣。
アインツ。
五匹の獣が、ソルの背後に並んだ。
それは、彼らの魂ではない。
本人が宿っているわけではない。
死者が蘇ったわけでもない。
けれど。
ソルが忘れなかったものだ。
ソルの不忘が、瘴気に彼らの生き様を与えた。
彼らと戦った記憶。
彼らと笑った時間。
彼らを死なせた罪。
彼らに託された願い。
すべてが、黒い獣の形を取った。
「……そうか」
ソルは立ち上がる。
レムの影が、わずかに後退した。
五匹の獣が唸る。
黒い瘴気の中で、ソルは笑った。
「そうだ。──俺は、一人じゃねぇ」
黒いマフラーが揺れる。
五匹の獣が、ソルの背に並ぶ。
空無き大地の王。
ロストブルーの太陽。
もう会えない仲間たちを背負う者。
だから、
「お前のことも、一人にはしねぇ」
ソルは、再び立った。
◆◇◆