ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十九.五話『誰ガ為に』

◆◇◆

 

 

 ソルは、再び立った。

 

 背には、五匹の獣。

 黒い鬣を揺らす獅子が、低く喉を鳴らしている。

 影の猫が、音もなくソルの足元に寄り添っている。

 呪印を纏った痩せた獣が、震えながらも前を見ている。

 目端の利く盗獣が、笑うように牙を覗かせている。

 老いた角を持つ獣が、静かに戦場を見据えている。

 

 それは、魂ではない。

 死者が蘇ったわけではない。

 だが、確かにそこにいる。

 ソルが忘れなかったもの。

 ソルの魂に焼き付いた生き様。

 空無き大地で共に生き、共に戦い、共に死んだ者たちの残影。

 瘴気に記憶を与え、不忘で形を結んだ、ソルだけの仲間たち。

 

 レムの影が、わずかに後退した。

 黒い救済の魔女は、血のような瞳でソルを見ている。

 その顔に、理解の色はない。

 ただ、妬ましいものを見るように。

 ただ、欲しいものを見るように。

 黒い角を揺らし、レムは微笑んでいた。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

 

 甘い声だった。

 壊れた声だった。

 ソルは歯を食いしばる。

 胸の奥では、六つの魔女因子が軋んでいる。

 そして、背後から流れ込んだ四百年分の瘴気が、今も肉体を内側から削り続けている。

 立っているだけで、全身が裂けそうだった。

 魂の器が悲鳴を上げている。

 それでも、倒れない。

 倒れている暇などなかった。

 

 ソルは視線を横へ飛ばす。

 黒龍ジズが、神龍ボルカニカの龍殻へ牙を突き立てている。

 白銀の龍殻はなお抗っているが、先ほどまでより明らかに動きが鈍い。

 フェルトの祈りを奪われた影響か、王統の血に応じた光が弱まりつつある。

 ラインハルトはその間を縫うようにジズの爪を斬り、黒い息吹を裂き、パンドラへ斬撃を飛ばしている。

 

 だが、白い魔女は死なない。

 剣聖がジズの首を裂いても、パンドラが微笑めば傷は戻る。

 ラインハルトがパンドラの胸を貫いても、次の瞬間には「貫かれていなかった」ことになる。

 

 英雄がいる。

 世界の希望がいる。

 それでも、戦場は終わらない。

 終わらせるべき相手が、まだ笑っているからだ。

 

 

「ラインハルト!」

 

 

 ソルが叫ぶ。

 剣聖が、ジズの爪を斬り払いながらこちらを見る。

 赤い髪が、黒い瘴気の風に揺れていた。

 龍剣を握るその姿に、迷いはない。

 だが、消耗はある。

 剣聖であっても、虚飾で戻る災厄を相手にし続けるのは、終わりのない水を斬るようなものだった。

 

 

「こっちは持ち直した」

 

 

 ソルは言った。

 声は掠れている。

 だが、通った。

 

 

「レムとジズ……両方いけるか!?」

 

 

 ラインハルトの目が細くなる。

 

 

「両方か」

 

「ああ……」

 

 

 ソルは五匹の獣を背負い、黒い瘴気を纏ったまま、真っ直ぐに言った。

 

 

「お前にしか任せられねぇ」

 

 

 その言葉は、敗北ではなかった。

 丸投げでもない。

 これは、信頼だ。

 世界最強の剣聖へ、世界を守れと頼むのではない。

 レムを救うために、時間を作れと頼む。

 ソルが一人では届かない場所へ行くために、外側の世界を支えてくれと頼む。

 

 

「できるか?」

 

 

 問いは短かった。

 ラインハルトは、わずかに笑った。

 それは誇示ではない。

 傲慢でもない。

 ただ、任された者の顔だった。

 

 

「やってみせよう」

 

 

 その一言で、十分だった。

 

 

「……頼む。借りるぜ、お前の力」

 

 

 ラインハルトは龍剣を構え直す。

 ジズが吠える。

 黒い救済の魔女が影を広げる。

 その二つの災厄の前に、剣聖は立った。

 

 

「――その為に、僕がいる」

 

 

 その言葉を聞いて、ソルは頷いた。

 世界を守る剣聖が。

 今、この一瞬だけ。

 ソルの、レムを救う戦いのために剣を振るう。

 それで十分だった。

 

 ラインハルトが踏み込む。

 龍剣が閃く。

 ジズの黒い爪が斬り落とされる。

 同時に、レムの影がソルへ伸びる寸前で、白い斬撃に断たれる。

 影は悲鳴のように震え、すぐに再生しようとする。

 だが、その度にラインハルトの剣が走った。

 殺すためではない。

 止めるための剣。

 世界を守る剣聖が、いま初めて、誰か一人を救うためだけに剣を振るっていた。

 

 ソルは振り返る。

 パンドラがいた。

 白い魔女は、変わらず微笑んでいる。

 まるで、全てが予定通りであるかのように。

 まるで、ソルが立ち上がったことすら、この祭りの余興に過ぎないとでも言うように。

 

 

「妹さんを救うことは、諦めてしまったのですか?」

 

 

 柔らかな声だった。

 だが、その言葉は刃より鋭い。

 パンドラは知っている。

 ソルが何を失い、何を背負い、何を捨てられないのかを。

 知った上で、微笑んでいる。

 ソルは歩き出した。

 背後に五匹の獣を従えながら。

 

 

「いいや」

 

 

 黒い瘴気が、ソルの右手へ集まる。

 大樹から取り込んだ四百年分の澱みが、彼の腕に黒い紋様を刻んでいく。

 

 

「その前準備ってやつだ」

 

 

 パンドラの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。

 ソルは告げた。

 

 

「――お前を殺す」

 

 

◆◇◆

 

 

 パンドラを殺す。

 それは簡単な言葉で、最も困難な行為だった。

 ソルは右手を振るう。

 

 

「――〝バン〟!」

 

 

 不可視の砲撃が、白い魔女の胸を貫く。

 確かに貫いた。

 肉を裂いた手応えも、魂へ届いた感覚もあった。

 だが、次の瞬間には外れている。

 パンドラは何事もなかったように、少し横に立っていた。

 

 

「――もし」

 

「チッ」

 

 ソルの背後で、黒獅子が唸る。

 ノインの生き様を宿した黒い獣が、大地を蹴った。

 牙が白い魔女の上半身を噛み砕く。

 骨が砕ける音がした。

 だが、その顎は空を噛んでいた。

 

 影猫が走る。

 ツヴァイを象徴する影が、パンドラの背後を取る。

 音もなく迫り、首筋へ爪を立てる。

 だが、そこにパンドラはいない。

 

 呪獣が地面に呪印を刻む。

 フューリーの慎重で臆病な優しさを帯びた呪いが、白い魔女の足元を縛る。

 しかし、パンドラは最初から縛られていなかったことになる。

 

 盗獣が笑うように跳ねる。

 ズィーヴァの素早さを宿した獣が、パンドラの逃げ道を盗む。

 彼女の背後を閉ざし、左右を塞ぎ、前へ出るしかない状況を作る。

 だが、パンドラは逃げる必要などなかったことにされる。

 

 老獣が低く唸る。

 アインツの叡智を模した獣が、戦場の理を読む。

 

 虚飾がどこで現実をずらすのか。

 どの瞬間に事実を書き換えるのか。

 その綻びを見抜こうとする。

 それでも、パンドラは微笑んでいた。

 

 

「無駄です」

 

 

 彼女は言った。

 声は穏やかだった。

 戦っているというより、理解できない子どもに教え諭すような声だった。

 

 

「私は、そういう存在ではありません」

 

「知ってるよ」

 

 

 ソルは血を吐きながら答える。

 大樹の瘴気を取り込んだ反動で、体の内側がずっと焼けている。

 足元に落ちた血は赤黒く濁り、地面に触れた瞬間に煙を上げた。

 

 

「だから、ただ殺すんじゃねぇ」

 

 

 パンドラの目が、わずかに細くなる。

 その表情に、初めて観察する側の興味が滲んだ。

 

 ソルは歩く。

 一歩。

 また一歩。

 五匹の獣が、その後ろに並ぶ。

 

 ソルは未来を知っている。

 ロストブルーの未来を。

 救済の魔女が世界を滅ぼした果てを。

 三大神獣が国々を滅ぼした未来を。

 ラインハルトが勝っても救えなかった未来を。

 国が沈み、人が追いやられ、空のない地獄が生まれた未来を。

 

 その未来に――パンドラはいなかった。

 

 救済の魔女の隣にも。

 世界の終わりにも。

 ロストブルーの地獄にも。

 叡智の書が示した未来のどこにも。

 ソルが何度も死に、何度も戻り、何度も救済の魔女に敗北した記憶の中にも。

 パンドラはいなかった。

 

 ならば。

 

 

「お前はここで死ぬ」

 

 

 ソルは言った。

 

 

「俺は、それを知っている」

 

「もし、それが貴方の見間違いだったら?」

 

 

 パンドラが微笑む。

 いつものように。

 世界を飾ろうとする。

 認識をずらそうとする。

 記憶を柔らかく塗り替えようとする。

 

 なかったことに。

 そうではなかったことに。

 見間違えたことに。

 聞き間違えたことに。

 思い違いだったことに。

 現実を、白く飾ろうとする。

 

 だが。

 

 

「――違う」

 

 

 ソルの声が、それを拒んだ。

 ――不忘。

 忘れない。

 塗り替えさせない。

 未来にパンドラがいなかったことを。

 ロストブルーにパンドラがいなかったことを。

 救済の魔女の隣に、虚飾の魔女が立っていなかったことを。

 

 ソルだけは、絶対に忘れない。

 

 

「俺は見た」

 

 

 ソルは言った。

 

 

「お前がいない未来を、俺は見た。俺は覚えてる。お前がどこにもいなかったことを、俺は忘れねぇ」

 

「記憶とは、不確かなものですよ」

 

 

 パンドラは微笑む。

 

 

「痛みで歪む。願望で変わる。恐怖で曇る。貴方が見た未来も、本当にその通りだったと言えるのでしょうか?」

 

「言える」

 

 

 ソルは即答した。

 

 

「俺は忘れねぇからだ」

 

 

 胸の奥で、『暴食』の影が蠢く。

 パンドラの名へ食らいつく。

 存在の輪郭を噛む。

 白い虚飾の皮を剥がすように。

 そこにいるものの名前を、形を、逃げ場ごと喰らおうとする。

 

 『色欲』の力が、それに重なる。

 魂の形を固定する。

 別のものだった。

 そこにいなかった。

 そうではなかった。

 その逃げ道を塞ぐ。

 虚飾が飾る前の輪郭を、無理やり世界へ縫い止める。

 

 『不忘』が、虚飾の上書きを拒む。

 忘れない。

 忘れさせない。

 ソルが覚えている限り、パンドラのいない未来は変えられない。

 パンドラの笑みが、初めて止まった。

 

 

「……これは」

 

「逃がさねぇ」

 

 

 ソルは踏み込む。

 五匹の獣が同時に動く。

 黒獅子が正面を砕く。

 影猫が足元を縫い止める。

 呪獣が魂へ呪印を刻む。

 盗獣が未来への逃げ道を盗む。

 老獣が虚飾の綻びを見抜く。

 

 そして、ソルが右手を伸ばす。

 

 

「お前に未来は来ない」

 

 

 パンドラの白い瞳が揺れる。

 揺れた。

 初めて。

 そのことに、ソルは気づいた。

 虚飾の魔女が、揺らいだ。

 

 

「だから」

 

 

 ソルの手が、彼女の胸へ届く。

 

 

「ここで死ね」

 

 

 黒い瘴気が、白を貫いた。

 今度は逸れない。

 今度は外れない。

 今度は、そうではなかったとは言わせない。

 

 虚飾の魔女が、崩れる。

 白い衣が黒に染まる。

 肌が罅割れ、髪がほどけ、彼女を形作っていた現実の飾りが剥がれていく。

 

 今度は、戻らない。

 見間違いではない。

 聞き間違いではない。

 そうではなかった、とは言えない。

 

 ソルが覚えている。

 ソルが忘れない。

 その記憶が、虚飾を縫い止めている。

 

 

「……なるほど」

 

 

 パンドラは、崩れながら微笑んだ。

 死にゆく者の笑みとは思えないほど、静かだった。

 

 

「これが、不忘……美しい、ですね」

 

「黙って死ね」

 

「貴方は、やはり――」

 

 

 最後の言葉は、黒に呑まれた。

 白い魔女が消える。

 その胸から、白く歪んだ小さな光が零れ落ちる。

 

 ――虚飾の魔女因子。

 

 逃げ場を失ったそれは、吸い込まれるようにソルの胸へ入った。

 

 

「ぐ、あ……ッ!」

 

 

 瞬間、ソルの魂が悲鳴を上げた。

 七つ目。

 怠惰。

 色欲。

 憤怒。

 暴食。

 強欲。

 憂鬱。

 そして、虚飾。

 

 魂が軋む。

 器が割れそうになる。

 視界が白く染まり、黒く塗り潰される。

 自分の記憶が、自分のものではなくなりそうになる。

 いま見ている戦場すら、別の形に飾り直されそうになる。

 

 誰かの声が聞こえた。

 

 これは違う。

 これはそうではない。

 貴方は最初からここにいなかった。

 貴方は誰も救おうとしていなかった。

 全部、見間違いだった。

 全部、思い違いだった。

 

 

「黙れ……ッ」

 

 

 ソルは胸を押さえる。

 七つの魔女因子が、魂の中でぶつかり合う。

 大樹の瘴気が、それらを呑もうと暴れる。

 五匹の獣が背後で唸る。

 

 それでも、ソルは倒れない。

 倒れるわけにはいかない。

 時間がない。

 彼は振り返る。

 

 ――地面に倒れるラムを見た。

 砕けた白い角。

 奪われた天稟。

 血に濡れた姉。

 黒い角の妹を見つめながら、なお手を伸ばそうとしている女。

 

 

「ラム」

 

 

 ソルは手を伸ばす。

 虚飾の権能を、初めて使う。

 万能ではない。

 パンドラのようには扱えない。

 過去を好き勝手に改変することなどできない。

 死をなかったことにするには遠すぎる。

 壊れたものを完全に戻すには、ソルの魂が耐えられない。

 せいぜい、直近の事象へ薄い布を被せる程度。

 見間違いを、現実へ押しつける程度。

 それも一度きりに近い。

 使えば、さらに魂が削れる。

 虚飾がソル自身を喰おうとする。

 

 それでも、ここで使う。

 

 

「お前は」

 

 

 ソルは言った。

 

 

()()()()()()()()。そうだろ……!」

 

 

 世界が揺れる。

 虚飾が、現実へ被さる。

 砕けたはずの白い角が、ゆっくりと形を取り戻す。

 完全な再生ではない。

 本当の意味で治ったわけではない。

 過去が完全に変わったわけでもない。

 

 ただ、今この瞬間だけ。

 まだ折れていなかったという虚飾が、ラムへ被さる。

 ――白い角が輝いた。

 

 ラムの目が見開かれる。

 奪われた天稟が、一時的に戻る。

 世界のマナを取り込み、蓄積し、撃ち放つ器。

 けれど、今そこに立ち上がるのは、傲慢の魔女ではない。

 妹を救う姉だった。

 

 

「……貴方」

 

 

 ラムが掠れた声で呼ぶ。

 

 

「手が足りねぇんだ。手ぇ貸せ」

 

 

 ソルは言った。

 

 

「ジズを任せる」

 

 

 ラムの目が細くなる。

 血に濡れ、力を奪われ、虚飾でかろうじて立っているだけの体。

 それでも、その目に、かつての辛辣さがほんのわずかに戻った。

 

 

「誰に命令しているの」

 

「お前以外の誰がいるんだよ」

 

「……いいわ。今は問答している時間はないもの。ラムの手を貸してあげる」

 

 ラムは立ち上がる。

 白い角が、大気を支配する。

 ジズが吐こうとした黒い息吹を、風が喉元で押し戻した。

 黒龍が苦しげに吠える。

 

 ラムは片手を上げる。

 大気が鎖となり、ジズの翼を縛る。

 風が首へ巻きつき、黒龍を地へ伏せさせる。

 倒すのではない。

 殺すのでもない。

 押さえ込む。

 それでいい。

 

 

「ラインハルト!」

 

 

 ソルが叫ぶ。

 剣聖はレムの影を斬り裂きながら応じた。

 その剣閃は美しい。

 だが、いつものように全てを終わらせる一撃ではない。

 殺さず、壊さず、影だけを断つ。

 それは、剣聖にとっても難しい戦いだった。

 

 

「レムを殺さず、そのまま影だけを抑えられるか?」

 

「難しい注文だ」

 

 

 ラインハルトは龍剣を構える。

 黒い影が牙を剥く。

 レムの血の瞳が剣聖を睨む。

 

 

「だが、やってみせよう」

 

 

 ラムがジズを抑える。

 ラインハルトがレムの影を抑える。

 

 

「立てる奴は立て! 倒れた奴は引っ張れ! 兄ちゃんたちの邪魔だけはさせんな!」

 

 

 フェルトが倒れた者たちへ叫び続ける。

 声は掠れている。

 だが、まだ折れていない。

 

 

「穴を埋めろ! 前に出すぎるでない! 今は踏ん張ってでも耐えるんじゃ!」

 

 

 ロム爺が再び人を動かす。

 先ほど奪われた経験は完全には戻っていない。

 それでも、フェルトを守るという一点だけは失っていなかった。

 

 

「お願い……あと少しだけ、力を貸してぇ……!」

 

 

 メィリィは震えながらも残った魔獣を呼ぶ。

 加護は奪われ、かつてのようにはいかない。

 それでも、まだ彼女の声に反応する子たちがいる。

 

 

「ふふ、死に損なうのも、悪くないわね」

 

 

 エルザは血を流しながらメィリィの前に立つ。

 不死性は弱まり、傷は塞がらない。

 それでも、刃を握る手は離さない。

 

 

◆◇◆

 

 

 外側の障害は、整った。

 

 完全ではない。

 誰も万全ではない。

 誰も余裕などない。

 

 それでも、役割は揃った。

 

 ジズを抑える姉。

 影を留める剣聖。

 戦場を支える仲間たち。

 

 そして、レムと向かい合うソル。

 残るは一つ。

 レム本人。

 黒い救済の魔女の奥にいる、本当のレム。

 ソルは黒い影へ向かって歩く。

 レムがこちらを見る。

 

 

「お兄ちゃん」

 

 

 声が甘い。

 影が手を伸ばす。

 ラインハルトの剣が、その影を割る。

 開いた隙間。

 黒い救済の魔女の奥へ続く、ほんの一瞬の裂け目。

 そこへ、ソルは手を伸ばした。

 

 

「兄ちゃん!」

 

 

 背後から、フェルトの声が飛んだ。

 振り返らない。

 振り返れば、足が止まる気がした。

 それでも、その声は確かに届いた。

 

 

「レムを、頼んだぞ!」

 

 

 ソルは小さく息を吐いた。

 

 

「ああ」

 

 

 短く答える。

 その横で、ラムがジズを風で縛りながら、血の滲む唇を開いた。

 

 

「ラムの妹を、頼んだわよ!」

 

 

 その声は、いつものように高慢だった。

 けれど、ほんのわずかに震えていた。

 姉としての声だった。

 ソルは口元を歪める。

 

 

「命令すんなよ、お姉さま」

 

「命令よ……必ず連れ戻しなさい」

 

「……上等だ」

 

 

 ラインハルトが、影を斬り続けながら言った。

 

 

「ソル」

 

「なんだ」

 

「世界を――」

 

 その先は、言わなかった。

 救え、とも。

 託す、とも。

 頼む、とも。

 だが、それで十分だった。

 ソルは黒いマフラーを握る。

 

 

「俺は世界なんざ救わねぇ」

 

「知っている」

 

 

 ラインハルトは静かに答えた。

 

 

「だから、君に頼むんだ」

 

 

 ソルは笑った。

 苦く、短く、けれど確かに笑った。

 

 

「面倒なもん押しつけやがって」

 

「君ほどではないさ」

 

 

 その一言に、ソルは背を向けたまま肩を揺らす。

 精神へ潜る。

 魂の奥へ落ちる。

 一度きり。

 失敗すれば、もう戻れない。

 肉体は残っても、魂が嫉妬に呑まれるかもしれない。

 レムを救えず、逆に全てを奪われるかもしれない。

 それでも、行く。

 

 五匹の獣が、背後で静かに彼を見送っている。

 ノインが。

 ツヴァイが。

 フューリーが。

 ズィーヴァが。

 アインツが。

 魂ではない。

 本人ではない。

 けれど、確かにソルの背を押していた。

 

 ラインハルトが影を斬り続けている。

 ラムがジズを縛っている。

 フェルトたちが戦場を支えている。

 全部が、ソルを送り出していた。

 黒い影の向こうで、レムが微笑む。

 

 

「お兄ちゃん」

 

 

 愛をねだる声。

 嫉妬に濡れた声。

 けれど、ソルには聞こえた気がした。

 その奥で、泣いている小さな声が。

 お兄ちゃん、と。

 助けて、と。

 レムは、言わない。

 救済の魔女は、言わせない。

 だから、ソルが言う。

 

 

「待ってろ、レム」

 

 

 黒い影が、ソルの腕へ絡みつく。

 冷たい。

 重い。

 深い。

 それでも、ソルは退かない。

 

 

「今、会いに行く」

 

 

 迎えに行くのではない。

 救いに行くだけでもない。

 会いに行く。

 もう一度、ちゃんと向かい合うために。

 そして、いつか別たなければならない因果を、その手で抱き締めるために。

 

 

 黒い影が、彼を呑み込んだ。

 

 

◆◇◆

 

 

 外では、ラムの白い風が黒龍を地へ縛っていた。

 剣聖の刃が、嫉妬の影を斬り裂き続けていた。

 仲間たちが、崩れた戦場を支えていた。

 

 だが、勝負はもう外にはない。

 

 黒い救済の魔女の内側。

 嫉妬に呑まれた少女の心。

 そこにいるはずの、本当のレムと、もう一度出会えるかどうか。

 

 世界の命運は。

 兄と妹の物語は。

 

 

 たった一人、ソルの手に託された。

 

 

◆◇◆

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