ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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最終話『始まりの物語』

◆◇◆

 

 

 黒の中に、ソルは立っていた。

 

 

 空はない。

 地面もない。

 風も、光も、音もない。

 ただ、どこまでも深い黒だけが広がっていた。

 

 リーファウス平原でもない。

 フリューゲルの大樹の下でもない。

 ロストブルーでもない。

 

 ここは、レムの内側。

 嫉妬に呑まれた少女の心の奥底。

 救済の魔女の中にある、誰にも届かなかった場所。

 

 

「……レム」

 

 

 ソルは、その名を呼んだ。

 黒が揺れる。

 遠くで、小さな背中が震えていた。

 膝を抱え、顔を伏せ、青い髪を揺らす少女。

 黒い和服もない。

 禍々しい角もない。

 ただ、ソルの知るレムが、そこにいた。

 

 

「お兄、ちゃん……?」

 

 

 レムが顔を上げる。

 泣き腫らした目。

 怯えた瞳。

 それでも、ソルを見つけた瞬間、そこにかすかな光が灯った。

 

 

「お兄ちゃんっ!」

 

 

 レムは立ち上がり、ソルへ駆け寄ろうとした。

 だが、足元の黒い影が彼女の足を掴んだ。

 すると、レムは立ち上がることなく、また蹲ることを選んだ。

 

 

「っ……や、です……来ないで、ください……お兄ちゃん、レム、レムは……」

 

「落ち着け」

 

 

 ソルは歩み寄る。

 影が、彼にも絡みつこうとする。

 けれど、ソルは退かない。

 

 

「会いに来た」

 

「会いに……?」

 

「ああ」

 

 

 ソルはレムの前に膝をついた。

 

 

「お前に、会いに来た」

 

 

 レムの瞳が揺れる。

 

 

「レムを……助けに来てくれたんですか」

 

「そうだ」

 

 ソルは言い切った。

 だが、その答えには続きがある。

 レムも、それに気づいたのだろう。

 彼女は不安そうにソルを見上げた。

 

 

「でも……お兄ちゃん、何か隠しています」

 

「……」

 

「レムを助ける方法、見つけたんですよね」

 

「ああ」

 

「それは……お兄ちゃんが、苦しむ方法ですか?」

 

 

 ソルは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 レムの顔が歪む。

 

 

「嫌です」

 

「まだ何も言ってねぇだろ」

 

「嫌です。レムにもわかります。お兄ちゃんは、また一人で背負うんです。レムのためって言って、またどこかに行くんです」

 

「少し長い旅に行くだけだ」

 

「それなら、レムも一緒に連れていってくださいっ」

 

「――それは駄目だ」

 

「どうしてですか!」

 

 

 レムが叫んだ。

 黒い空間が揺れる。

 

 

「一緒じゃなきゃ嫌なんです。もう、一人は……! 一人は嫌なんです……!」

 

 

 その声は、幼かった。

 姉に置いていかれた少女。

 役立たずだと自分を責め続けた少女。

 やっと兄と呼べる人を見つけて、そこに縋ってしまった少女。

 ソルは、ゆっくりと手を伸ばした。

 レムの頭に触れる。

 

 

「一人じゃないだろ」

 

「……」

 

「お前はもう、一人じゃない。フェルトがいる。メィリィがいる。エルザがいる。クロムウェルの爺だっている」

 

「でも……」

 

「役立たずでもない」

 

 

 ソルは言った。

 

 

「お前は、俺の大切な妹だ」

 

 

 レムの瞳から、ぼろぼろと涙が落ちた。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

「それに」

 

 

 ソルは、ほんの少しだけ笑う。

 

 

「お前を、きっと俺より大切に思ってるだろう姉サマもいるしな」

 

 

 レムの唇が震えた。

 

 

「お姉ちゃん……」

 

「ああ」

 

「でも、レムは……お兄ちゃんと……」

 

「レム」

 

 

 ソルの声が、少しだけ低くなる。

 

 

「兄離れの時間だ」

 

 

 レムの顔が、くしゃりと歪んだ。

 

 

「いや、です」

 

「嫌でもだ」

 

「お兄ちゃん!」

 

 

 レムがソルの服を掴んだ。

 

 

「待って。行かないで。レムを置いていかないで……! お兄ちゃんは、レムのお兄ちゃんなんでしょ? そう言ってくれたじゃないですか。レムのこと、大切な妹だって……!」

 

「ああ」

 

「なら、行かないでください……っ!」

 

 

 ソルは、レムの手をそっと包んだ。

 小さな手は震えていた。

 離したくないと、必死に縋っていた。

 

 

「レム」

 

「嫌です……」

 

「これから俺は、俺がこっちに来た歴史を抹消する」

 

 

 レムの震えが止まった。

 

 

「……え?」

 

「俺とお前が出会った事実を消す。俺が過去に来たことも、俺がレムの兄になったことも。

 ――全部なかったことにする」

 

「なかったことに……?」

 

「……ああ」

 

「お兄ちゃんと、出会わなかったことになるんですか?」

 

「そうだ」

 

「レムが、お兄ちゃんって呼んだことも?」

 

「ああ」

 

「お兄ちゃんが、レムの頭を撫でてくれたことも?」

 

「ああ」

 

「レムが……お兄ちゃんの妹になれたことも?」

 

 

 その問いに、ソルは少しだけ答えを遅らせた。

 

 

「……そうだ」

 

「嫌です」

 

 

 レムは首を振った。

 

 

「そんなの、嫌です。レムは、やっと見つけたんです。お姉ちゃんじゃなくて、誰かの代わりじゃなくて、レムを見てくれる人を。レムのことを妹だって言ってくれる人を」

 

「レム」

 

「置いていかないでください……っ」

 

「置いていくんじゃねぇよ」

 

「同じです!」

 

 

 レムは叫んだ。

 

 

「覚えていられないなら、同じです。出会わなかったことになるなら、同じです。お兄ちゃんがレムのお兄ちゃんじゃなくなるなら……そんなの、死んじゃうのと同じです」

 

「違う」

 

 

 ソルは静かに言った。

 

 

「生きるんだよ、お前は」

 

「……」

 

「俺を忘れても。俺と出会わなくても。お前は生きる。姉サマと一緒に。フェルトたちと一緒に。俺がいなくても、お前は一人じゃない」

 

「でも、レムは……お兄ちゃんがいいです」

 

「……そうか」

 

「そうです、だから……!」

 

「――だから、兄離れの時間だ」

 

 

 レムは泣きながら、ソルの服を掴む手に力を込める。

 ソルは、その手を無理に外さなかった。

 ただ、言わなければならないことを言った。

 

 

「俺が来た歴史を消すだけじゃ、足りねぇ」

 

「……足りない?」

 

「俺とお前が出会わなかったことになれば、少なくとも、お前が俺を兄として求めて嫉妬に呑まれる因果は切れる。けど、それだけじゃ駄目だ」

 

「どうして……」

 

「パンドラが欲しがってるのは、俺と出会ったレムだけじゃねぇ。『嫉妬』に適合できる器だ」

 

 

 レムの瞳が揺れる。

 

 

「器……」

 

「お前には、瘴気を吸って浄化する力がある。ラムには、世界中のマナを取り込める天稟がある。その二つが残れば、俺が消えても、パンドラはまたお前たちを利用する」

 

「お姉ちゃんも……」

 

「ああ」

 

 

 ソルは頷いた。

 

 

「だから、(わか)つ。俺とお前の出会いだけじゃない。お前たちを魔女にする因果そのものを、ここで切る」

 

「……」

 

「ラムからは、角と天稟を奪う」

 

 

 レムの息が止まった。

 

 

「お前からは、瘴気を吸収するチカラを奪う」

 

「レムの……力を……」

 

「そして最後に」

 

 

 ソルは、レムの奥にある黒い影を見た。

 

 

「お前から、嫉妬の魔女因子に適合する才能を切り離す」

 

 

 レムは、小さく首を振った。

 

 

「それじゃ、お姉ちゃんも、レムも……」

 

「弱くなるわけじゃねぇ」

 

 

 ソルは静かに言った。

 

 

「世界に利用される器じゃなくなるだけだ」

 

「でも……お姉ちゃんの角は……」

 

「あいつならお前といるためにそれくらいの運命は受け入れるだろ」

 

「……レムのこれも、レムがお兄ちゃんの役に立てた唯一の力です。これがなくなったら、レムは」

 

「問題ねぇよ。大丈夫だ。そんな力なくても、お前は大丈夫だ」

 

「何を根拠に言うんですか……?」

 

「お前が、俺の妹だからだ」

 

 

 レムは何も言えなかった。

 ソルも、それ以上綺麗な言葉で飾らなかった。

 救うために奪う。

 生かすために失わせる。

 それは正しさではない。

 それは優しさだけでもない。

 けれど、必要なことだった。

 

 

「世界は、俺とお前が出会ったあの日まで巻き戻る。世界中が永劫回帰に晒される。俺が過去にいた事実も、お前が救済の魔女へ至る未来も、ロストブルーへ続く滅びも、全部なかったことになる」

 

「みんな……忘れるんですか」

 

「たぶんな」

 

「フェルトも、メィリィも、ロムさんも、エルザさんも、お姉ちゃんも……レムも?」

 

「ああ」

 

「お兄ちゃんのこと、忘れるんですか」

 

「ああ」

 

 

 レムは、声を失った。

 ソルは続ける。

 

 

「それでも、もし」

 

「……」

 

「もし、お前が覚えていられたら」

 

 

 レムが顔を上げる。

 

 

「遠くないうちに、一人の男が生まれてくる」

 

「……」

 

「きっと、何も覚えていない。お前より二回りは年も下だ。根暗で陰険で卑屈な野郎で、金にがめつくて、素直じゃねぇ奴だ」

 

 

 レムの涙の奥で、ほんの少しだけ表情が揺れた。

 

 

「……っ、それってお兄ちゃんのことですか」

 

「かもな」

 

「ひどい言い方です」

 

「事実だろ」

 

「そんなことありません」

 

 

 レムは泣きながら首を振る。

 

 

「お兄ちゃんは、優しいです。かっこよくて、強くて、意地悪で、でも本当は誰より優しくて……レムの、大切な……」

 

 

 言葉が詰まった。

 

 

「大切な、お兄ちゃんです」

 

 

 ソルは笑った。

 どうしようもなく、痛そうに。

 けれど、確かに笑った。

 

 

「それでもよければ、――俺を見つけに来てくれ」

 

 

 レムの目が見開かれる。

 

 

「見つけに……」

 

「ああ」

 

「絶対、絶対、また会えますよね?」

 

「約束はできねぇ」

 

「お兄ちゃん!」

 

「でも」

 

 

 ソルはレムの額に、そっと拳を当てる。

 軽く、小突くように。

 

 

「俺は、忘れねぇ」

 

「……」

 

「全部忘れられても、世界が変わっても、俺だけは忘れねぇ。俺だけは絶対に、お前らをなかったことにはしねぇ。だから、もしお前が俺を見つけに来たら、俺はきっと、お前を見つけ返す」

 

 

 レムは息を呑んだ。

 涙が頬を伝う。

 けれど、今度は泣き崩れなかった。

 

 

「……お兄ちゃん」

 

「ああ」

 

「レム、覚えていたいです」

 

「そうか」

 

「レム、お兄ちゃんを見つけます」

 

「ああ」

 

「きっと、見つけます」

 

「ああ」

 

 

 黒い空間に、亀裂が走る。

 外側の世界が、光に包まれ始めている。

 時間が来た。

 ソルにも、それがわかった。

 けれど、まだ終わりではない。

 レムから、最後の因果を切り離さなければならない。

 嫉妬の魔女因子が選んだ才能。

 レムを真なる救済の魔女にしてしまった、最も深い黒。

 

 

「レム」

 

「はい」

 

「ここから先は、俺一人で行く」

 

「もう、行ってしまうんですか」

 

「ああ、お前とは、ここでお別れだ」

 

 

 ソルは優しい顔でそう告げた。

 レムは涙を拭った。

 まだ泣いている。

 それでも、必死に笑おうとしていた。

 

 

「お兄ちゃん」

 

「ああ」

 

「行って、くるんですよね」

 

「ああ」

 

 

 何度も、何度も、泣きそうな顔で息を吸って。

 レムは言った。

 

 

「──いってらっしゃい、お兄ちゃん」

 

 

 その言葉を聞いて、ソルは笑った。

 太陽のように。

 空無き大地の地獄で、それでも誰かを照らそうとした少年のように。

 にかっと、笑った。

 

 

「ああ」

 

 

 ソルの体が、黒の奥へ沈んでいく。

 

 

「行ってくる」

 

 

 レムの姿が遠ざかる。

 そして、ソルはさらに深い黒へ落ちた。

 

 

◆◇◆

 

 

 幽世。

 

 そう呼ぶほかなかった。

 そこには何もなかった。

 空も、地面も、光も、風もない。

 ただ、濃い瘴気が満ちている。

 

 世界の外側。

 因果の狭間。

 忘れられたものが沈む場所。

 そして、嫉妬の魔女因子に焼き付いた記憶の底。

 

 そこで、ソルは目を開けた。

 

 

「……ここは」

 

 

 体がある。

 いや、体の形をしているだけだ。

 肉ではない。

 魂が、自分を自分だと思っているだけ。

 周囲には、黒い瘴気が満ちている。

 その中に、人影があった。

 黒い影に覆われた、誰か。

 

 

「嫉妬の魔女……?」

 

 

 ソルは目を細める。

 

 

「いや、お前は――」

 

 

 影が揺れる。

 そこにいたのは、成長した女だった。

 長く伸びた青い髪。

 穏やかな顔立ち。

 悲しげな瞳。

 少女ではない。

 大人の姿をした――レムだった。

 ソルの知らない時間を生きた、未来のレム。

 肉体を持つ本人ではない。

 嫉妬の魔女因子に刻まれていた、救済の魔女レムの記憶の残滓。

 ソルを何度も殺し、ルナに嫉妬し、ラムの姿をしていた未来の可能性の残影。

 彼女は、静かに微笑んだ。

 

 

「……やっと会えましたね。お兄さん」

 

 

 その呼び方に、ソルの胸が痛んだ。

 

 

「……お兄ちゃん、とは呼ばねぇのか」

 

 

 未来のレムは、困ったように微笑んだ。

 

 

「呼べません」

 

「なんで」

 

「呼べるはず、ないじゃありませんか」

 

「……」

 

「私は、あなたに甘えてはいけないんです。私は、あなたの妹でいる資格をなくしました」

 

 

 その言葉は、泣き声ではなかった。

 長い時間をかけて自分に言い聞かせてきた、罰のような声だった。

 

 

「私が、殺したんです」

 

 

 未来のレムは言った。

 

 

「あなたを。あなたの妹さんを。何度も、何度も」

 

「レム」

 

「姉様の姿をしていたのは、嫌われたくなかったからです」

 

 

 声が震える。

 

 

「私だと知られたくなかったからです。卑怯、ですよね」

 

「……」

 

「会いたかった。けれど、会えば嫉妬に狂ってしまうとわかっていた。あなたが私以外の妹を大切にしているのを見たら、壊れてしまうとわかっていた。――それでも、会いに行きました」

 

 

 未来のレムは、両手を握り締めた。

 

 

「私は、あなたに会いたかった。会ってはいけないとわかっていたのに」

 

「それで、俺たちは出会わなかったことにするしかなくなった」

 

「はい」

 

 

 未来のレムは頷いた。

 彼女の瞳から、涙が落ちる。

 震える声音で彼女は言う。

 

 

「どうして、私たちは出会ってはいけなかったんでしょうか」

 

 

 ソルは答えられなかった。

 

 

「あんなに、嬉しかったのに」

 

「……」

 

「あなたと出会えて、あなたと過ごせて、あなたの、妹になれて」

 

「……」

 

「どうして私は、レムは……お兄さんの妹になってはいけなかったんですか?」

 

 

 その問いは、刃だった。

 ソルの胸を貫く刃だった。

 

 出会ってはいけなかった。

 そう言うには、あまりにも大切だった。

 

 出会わなければよかった。

 そう思うには、あまりにも救われた。

 

 けれど、出会ったから世界は壊れた。

 出会ったから、レムは魔女になった。

 出会ったから、ソルは妹を失い、仲間を失い、何度も死んだ。

 その全部が事実だった。

 

 未来のレムは、両手で顔を覆う。

 

 

「レムが悪いんです。レムが馬鹿で、役立たずで、愚図だったから。お兄さんを長い間苦しめました。レムが、全部レムが……!」

 

「もう、お兄ちゃんって、呼んでくれないのか?」

 

 

 未来のレムの言葉が止まった。

 彼女は顔を上げる。

 涙で濡れた瞳が、ソルを見る。

 

 

「っ、そんな資格、あるはずないじゃないですか」

 

「……」

 

「お兄さんをずっと苦しめてきたんですよ。お兄さんの妹さんを殺しました。お兄さんの仲間も、お兄さん自身も殺して、それを何度も繰り返して……っ! お兄さんから全部奪ったんです。なのに、その結果、お兄さんが消えてなくなるなんて、そんなの……」

 

 

 言葉にならない。

 悔恨。

 懺悔。

 後悔。

 罪悪感。

 どんな言葉でも足りないものが、彼女の喉を詰まらせている。

 

 ソルは、しばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと息を吐く。

 

 

「じゃあ、一つ聞く」

 

「……はい」

 

「お前は、俺が嫌いになったか?」

 

 

 未来のレムの目が見開かれる。

 

 

「そんなわけ、ないじゃないですかっ……!」

 

 

 叫ぶような声だった。

 

 

「嫌いになれるはず、ないじゃないですか……! レムは、お兄さんが好きです。ずっと好きです。お兄ちゃんって呼びたかった。傍にいたかった。妹でいたかった。なのに、レムは……!」

 

「なら、それでいい」

 

「よくありません!」

 

「いいんだよ」

 

 

 ソルは、未来のレムへ歩み寄る。

 

 

「俺も、お前を嫌いにはなれねぇ」

 

 

 レムの涙が止まる。

 

 

「……どうして」

 

「……」

 

「どうしてですか!」

 

「俺が兄だからだ」

 

 

 その答えに、未来のレムは息を呑んだ。

 ソルは続ける。

 

 

「お前がどれだけ馬鹿やっても、どれだけ泣いても、どれだけ間違えても、嫌いになんてならねぇ。そうやって見捨てられるなら、最初から兄貴なんて名乗ってねぇ」

 

「でも、レムは……」

 

「お前の罪は消えねぇ」

 

 

 ソルは言った。

 優しいだけではない声で。

 

 

「俺も忘れねぇ。ルナが死んだことも、ロストブルーが滅びたことも、俺が何度も負けたことも、お前が魔女になったことも。全部忘れねぇ」

 

「……」

 

「許すとか、許さねぇとか、そんな綺麗な話にはしねぇ」

 

 

 未来のレムが震える。

 

 

「じゃあ、レムは……」

 

「お前の罪は俺が忘れねぇ」

 

 

 その言葉に、未来のレムの顔が歪んだ。

 

 

「それだけ……ですか」

 

「ああ」

 

「責めないんですか」

 

「責めてほしいのか」

 

「……わかりません」

 

「なら、必要ねぇな」

 

 

 ソルは苦く笑う。

 

 

「でも、お前が泣いてるとこは見た。お前が後悔してることは聞いた。お前が俺を嫌いになってないことも知った」

 

「……」

 

「なら、もういい」

 

「よく、ありません……」

 

「いいんだよ」

 

 

 ソルは、未来のレムの頭に手を置いた。

 かつてそうしたように。

 何度もそうしたように。

 

 

「お前は、戻れ」

 

「戻る……?」

 

「俺が消すのは、俺とお前が出会った因果だ。お前そのものじゃねぇ。お前は戻る。姉サマのところへ。フェルトたちのところへ。俺がいない世界へ」

 

「そんなの……!」

 

「大丈夫だ」

 

 

 ソルは笑う。

 

 

「俺が覚えてる」

 

 

 未来のレムは、涙をこぼした。

 

 

「お兄、ちゃん……」

 

 

 初めて。

 未来のレムが、そう呼んだ。

 ソルは頷く。

 

 

「やっと呼んだな」

 

「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」

 

 

 レムはソルへ縋る。

 大人の姿をした彼女は、それでも泣き方だけは、あの少女のままだった。

 

 

「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

「ああ」

 

「レムを、許さなくていいです。嫌ってくれていいです。だから、だから……!」

 

「嫌わねぇって言ってるだろ」

 

「じゃあ、行かないでください……!」

 

 

 ソルは、レムの頭を撫でた。

 

 

「悪いが、それは無理だ」

 

「……」

 

「俺は行く。嫉妬の因子も、俺とお前の出会いの因果も、全部連れていく」

 

「お兄ちゃんは、どこへ行くんですか」

 

「さあな」

 

 

 ソルは笑う。

 

 

「適当などっかに始まり直すんじゃねぇか」

 

「また、会えますか」

 

「お前が見つけるんだろ」

 

「はい」

 

 

 レムは涙を拭った。

 まだ泣いている。

 それでも、笑おうとしていた。

 

 

「レムが見つけます」

 

「ああ」

 

「絶対に、見つけます」

 

「ああ」

 

「その時は、また、お兄ちゃんって呼んでもいいですか」

 

「好きにしろ」

 

「怒りませんか」

 

「怒るかよ」

 

「迷惑じゃありませんか」

 

「しつけぇな」

 

 

 レムは、ようやく小さく笑った。

 

 

「お兄ちゃん」

 

「ああ」

 

「――いってらっしゃい」

 

 

 その言葉に、ソルは目を細める。

 未来のレムの体が、光にほどけ始めていた。

 救済の魔女だった記憶。

 嫉妬に呑まれた未来。

 何度もソルを殺した因果。

 レムを魔女へ導いた才能。

 それらが、彼女から切り離されていく。

 ソルは手を伸ばす。

 未来のレムの手に触れる。

 最後に一度だけ、強く握った。

 

 

「行ってくる」

 

 

 レムは泣きながら笑った。

 

 

「はい」

 

 

 幽世が割れる。

 光が差す。

 

 

 そして、ソルは一人、嫉妬の黒を抱えて歩き出した。

 

 

◆◇◆

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 世界は、巻き戻る。

 

 

 憂鬱、怠惰、暴食、憤怒、色欲、強欲、虚飾。

 ソルはすでに、七つの魔女因子をその身に宿していた。

 そして今、レムから最後に残された二つ――嫉妬と傲慢の魔女因子を得る。

 

 九つ。

 すべての魔女因子が、ソルの内に揃った。

 

 それは、世界を巻き戻し、変革する権利。

 過去を圧縮し、因果を別ち、滅びへ至った未来をゼロへ還す資格。

 

 ただのやり直しではない。

 因果を別つための回帰。

 

 ソルが過去に現れた事実を消すための回帰。

 レムが救済の魔女へ至る道を断つための回帰。

 ラムが世界を背負う器となる未来を外すための回帰。

 ロストブルーへ続く滅びを、ゼロから別つための回帰。

 

 ラムは、天稟たる角を失う。

 世界中のマナを取り込む器ではなくなる。

 

 レムは、瘴気を浄化する特別を失う。

 魔女因子を際限なく受け入れる器ではなくなる。

 

 そして、嫉妬はレムを選ばない。

 ソルが、その因果を持っていく。

 

 ソルが、レムと出会った事実ごと。

 レムを魔女にした才能ごと。

 

 全部、ゼロから別つ。

 

 フェルトも。

 メィリィも。

 エルザも。

 ロム爺も。

 ラインハルトも。

 ラムも。

 レムも。

 

 誰も、彼を覚えていない。

 

 それでも。

 ソルだけは忘れない。

 

 不忘。

 それは呪いではない。

 約束だった。

 仲間たちに託された誓い。

 

 レムに残した、いつか見つけるための光。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 ――二十年後。

 

 

 そこには青空があった。

 それはどこまでも高い空だった。

 偽物の陽光結晶ではない。

 煤けた天井でもない。

 崩れかけた地下の灯りでもない。

 本物の太陽が、世界を照らしていた。

 

 

 泣き声が響く。

 小さな命の声。

 青空の下で、『一人の赤子』が生まれた。

 その赤子は泣いていた。

 泣きながら、何かを掴もうとするように小さな手を伸ばしていた。

 

 誰も知らない。

 その子が、かつて空のない地獄で王と呼ばれたことを。

 

 誰も覚えていない。

 その魂が、妹を救うために何百年分もの地獄を背負ったことを。

 

 誰も知らない。

 彼が、世界の因果をゼロから別ったことを。

 

 けれど。

 赤子は、泣きながら空を見た。

 

 青い空。

 広い世界。

 天と地に挟まれた、当たり前の景色。

 その魂だけが、覚えている。

 空のない地獄を。

 

 ルナを。

 ノインを。

 ツヴァイを。

 フューリーを。

 ズィーヴァを。

 アインツを。

 フェルトを。

 メィリィを。

 エルザを。

 ロム爺を。

 ラムを。

 レムを。

 

 そして、自分自身を。

 

 空のない世界で生きたソルにとって。

 その青空の下に生まれた世界は。

 幻想のようで。

 

 

 ――まるで、異世界のようだった。

 

 

 だから、ここから始まる。

 

 ゼロから別ち。

 ゼロから生まれ直し。

 ゼロから、また誰かと出会うために。

 

 彼の新たな人生が。

 

 

 彼だけの、『異世界生活』が。

 

 

◆◇◆

 

 ――ゼロカラワカツイセカイセイカツ fin

 

◆◇◆





 これにて、『ゼロカラワカツイセカイセイカツ』は完結となります。
 ここまでお読みいただいた方に、心より感謝申し上げます。
 最初から最後まで拙い作者の物語ではございますが、誰かのひと時の楽しみにでもなれば幸いです。

 物語はここで完結ですが、後日談を1話だけ投稿する予定です。
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