◆◇◆
黒の中に、ソルは立っていた。
空はない。
地面もない。
風も、光も、音もない。
ただ、どこまでも深い黒だけが広がっていた。
リーファウス平原でもない。
フリューゲルの大樹の下でもない。
ロストブルーでもない。
ここは、レムの内側。
嫉妬に呑まれた少女の心の奥底。
救済の魔女の中にある、誰にも届かなかった場所。
「……レム」
ソルは、その名を呼んだ。
黒が揺れる。
遠くで、小さな背中が震えていた。
膝を抱え、顔を伏せ、青い髪を揺らす少女。
黒い和服もない。
禍々しい角もない。
ただ、ソルの知るレムが、そこにいた。
「お兄、ちゃん……?」
レムが顔を上げる。
泣き腫らした目。
怯えた瞳。
それでも、ソルを見つけた瞬間、そこにかすかな光が灯った。
「お兄ちゃんっ!」
レムは立ち上がり、ソルへ駆け寄ろうとした。
だが、足元の黒い影が彼女の足を掴んだ。
すると、レムは立ち上がることなく、また蹲ることを選んだ。
「っ……や、です……来ないで、ください……お兄ちゃん、レム、レムは……」
「落ち着け」
ソルは歩み寄る。
影が、彼にも絡みつこうとする。
けれど、ソルは退かない。
「会いに来た」
「会いに……?」
「ああ」
ソルはレムの前に膝をついた。
「お前に、会いに来た」
レムの瞳が揺れる。
「レムを……助けに来てくれたんですか」
「そうだ」
ソルは言い切った。
だが、その答えには続きがある。
レムも、それに気づいたのだろう。
彼女は不安そうにソルを見上げた。
「でも……お兄ちゃん、何か隠しています」
「……」
「レムを助ける方法、見つけたんですよね」
「ああ」
「それは……お兄ちゃんが、苦しむ方法ですか?」
ソルは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
レムの顔が歪む。
「嫌です」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「嫌です。レムにもわかります。お兄ちゃんは、また一人で背負うんです。レムのためって言って、またどこかに行くんです」
「少し長い旅に行くだけだ」
「それなら、レムも一緒に連れていってくださいっ」
「――それは駄目だ」
「どうしてですか!」
レムが叫んだ。
黒い空間が揺れる。
「一緒じゃなきゃ嫌なんです。もう、一人は……! 一人は嫌なんです……!」
その声は、幼かった。
姉に置いていかれた少女。
役立たずだと自分を責め続けた少女。
やっと兄と呼べる人を見つけて、そこに縋ってしまった少女。
ソルは、ゆっくりと手を伸ばした。
レムの頭に触れる。
「一人じゃないだろ」
「……」
「お前はもう、一人じゃない。フェルトがいる。メィリィがいる。エルザがいる。クロムウェルの爺だっている」
「でも……」
「役立たずでもない」
ソルは言った。
「お前は、俺の大切な妹だ」
レムの瞳から、ぼろぼろと涙が落ちた。
「お兄ちゃん……」
「それに」
ソルは、ほんの少しだけ笑う。
「お前を、きっと俺より大切に思ってるだろう姉サマもいるしな」
レムの唇が震えた。
「お姉ちゃん……」
「ああ」
「でも、レムは……お兄ちゃんと……」
「レム」
ソルの声が、少しだけ低くなる。
「兄離れの時間だ」
レムの顔が、くしゃりと歪んだ。
「いや、です」
「嫌でもだ」
「お兄ちゃん!」
レムがソルの服を掴んだ。
「待って。行かないで。レムを置いていかないで……! お兄ちゃんは、レムのお兄ちゃんなんでしょ? そう言ってくれたじゃないですか。レムのこと、大切な妹だって……!」
「ああ」
「なら、行かないでください……っ!」
ソルは、レムの手をそっと包んだ。
小さな手は震えていた。
離したくないと、必死に縋っていた。
「レム」
「嫌です……」
「これから俺は、俺がこっちに来た歴史を抹消する」
レムの震えが止まった。
「……え?」
「俺とお前が出会った事実を消す。俺が過去に来たことも、俺がレムの兄になったことも。
――全部なかったことにする」
「なかったことに……?」
「……ああ」
「お兄ちゃんと、出会わなかったことになるんですか?」
「そうだ」
「レムが、お兄ちゃんって呼んだことも?」
「ああ」
「お兄ちゃんが、レムの頭を撫でてくれたことも?」
「ああ」
「レムが……お兄ちゃんの妹になれたことも?」
その問いに、ソルは少しだけ答えを遅らせた。
「……そうだ」
「嫌です」
レムは首を振った。
「そんなの、嫌です。レムは、やっと見つけたんです。お姉ちゃんじゃなくて、誰かの代わりじゃなくて、レムを見てくれる人を。レムのことを妹だって言ってくれる人を」
「レム」
「置いていかないでください……っ」
「置いていくんじゃねぇよ」
「同じです!」
レムは叫んだ。
「覚えていられないなら、同じです。出会わなかったことになるなら、同じです。お兄ちゃんがレムのお兄ちゃんじゃなくなるなら……そんなの、死んじゃうのと同じです」
「違う」
ソルは静かに言った。
「生きるんだよ、お前は」
「……」
「俺を忘れても。俺と出会わなくても。お前は生きる。姉サマと一緒に。フェルトたちと一緒に。俺がいなくても、お前は一人じゃない」
「でも、レムは……お兄ちゃんがいいです」
「……そうか」
「そうです、だから……!」
「――だから、兄離れの時間だ」
レムは泣きながら、ソルの服を掴む手に力を込める。
ソルは、その手を無理に外さなかった。
ただ、言わなければならないことを言った。
「俺が来た歴史を消すだけじゃ、足りねぇ」
「……足りない?」
「俺とお前が出会わなかったことになれば、少なくとも、お前が俺を兄として求めて嫉妬に呑まれる因果は切れる。けど、それだけじゃ駄目だ」
「どうして……」
「パンドラが欲しがってるのは、俺と出会ったレムだけじゃねぇ。『嫉妬』に適合できる器だ」
レムの瞳が揺れる。
「器……」
「お前には、瘴気を吸って浄化する力がある。ラムには、世界中のマナを取り込める天稟がある。その二つが残れば、俺が消えても、パンドラはまたお前たちを利用する」
「お姉ちゃんも……」
「ああ」
ソルは頷いた。
「だから、
「……」
「ラムからは、角と天稟を奪う」
レムの息が止まった。
「お前からは、瘴気を吸収するチカラを奪う」
「レムの……力を……」
「そして最後に」
ソルは、レムの奥にある黒い影を見た。
「お前から、嫉妬の魔女因子に適合する才能を切り離す」
レムは、小さく首を振った。
「それじゃ、お姉ちゃんも、レムも……」
「弱くなるわけじゃねぇ」
ソルは静かに言った。
「世界に利用される器じゃなくなるだけだ」
「でも……お姉ちゃんの角は……」
「あいつならお前といるためにそれくらいの運命は受け入れるだろ」
「……レムのこれも、レムがお兄ちゃんの役に立てた唯一の力です。これがなくなったら、レムは」
「問題ねぇよ。大丈夫だ。そんな力なくても、お前は大丈夫だ」
「何を根拠に言うんですか……?」
「お前が、俺の妹だからだ」
レムは何も言えなかった。
ソルも、それ以上綺麗な言葉で飾らなかった。
救うために奪う。
生かすために失わせる。
それは正しさではない。
それは優しさだけでもない。
けれど、必要なことだった。
「世界は、俺とお前が出会ったあの日まで巻き戻る。世界中が永劫回帰に晒される。俺が過去にいた事実も、お前が救済の魔女へ至る未来も、ロストブルーへ続く滅びも、全部なかったことになる」
「みんな……忘れるんですか」
「たぶんな」
「フェルトも、メィリィも、ロムさんも、エルザさんも、お姉ちゃんも……レムも?」
「ああ」
「お兄ちゃんのこと、忘れるんですか」
「ああ」
レムは、声を失った。
ソルは続ける。
「それでも、もし」
「……」
「もし、お前が覚えていられたら」
レムが顔を上げる。
「遠くないうちに、一人の男が生まれてくる」
「……」
「きっと、何も覚えていない。お前より二回りは年も下だ。根暗で陰険で卑屈な野郎で、金にがめつくて、素直じゃねぇ奴だ」
レムの涙の奥で、ほんの少しだけ表情が揺れた。
「……っ、それってお兄ちゃんのことですか」
「かもな」
「ひどい言い方です」
「事実だろ」
「そんなことありません」
レムは泣きながら首を振る。
「お兄ちゃんは、優しいです。かっこよくて、強くて、意地悪で、でも本当は誰より優しくて……レムの、大切な……」
言葉が詰まった。
「大切な、お兄ちゃんです」
ソルは笑った。
どうしようもなく、痛そうに。
けれど、確かに笑った。
「それでもよければ、――俺を見つけに来てくれ」
レムの目が見開かれる。
「見つけに……」
「ああ」
「絶対、絶対、また会えますよね?」
「約束はできねぇ」
「お兄ちゃん!」
「でも」
ソルはレムの額に、そっと拳を当てる。
軽く、小突くように。
「俺は、忘れねぇ」
「……」
「全部忘れられても、世界が変わっても、俺だけは忘れねぇ。俺だけは絶対に、お前らをなかったことにはしねぇ。だから、もしお前が俺を見つけに来たら、俺はきっと、お前を見つけ返す」
レムは息を呑んだ。
涙が頬を伝う。
けれど、今度は泣き崩れなかった。
「……お兄ちゃん」
「ああ」
「レム、覚えていたいです」
「そうか」
「レム、お兄ちゃんを見つけます」
「ああ」
「きっと、見つけます」
「ああ」
黒い空間に、亀裂が走る。
外側の世界が、光に包まれ始めている。
時間が来た。
ソルにも、それがわかった。
けれど、まだ終わりではない。
レムから、最後の因果を切り離さなければならない。
嫉妬の魔女因子が選んだ才能。
レムを真なる救済の魔女にしてしまった、最も深い黒。
「レム」
「はい」
「ここから先は、俺一人で行く」
「もう、行ってしまうんですか」
「ああ、お前とは、ここでお別れだ」
ソルは優しい顔でそう告げた。
レムは涙を拭った。
まだ泣いている。
それでも、必死に笑おうとしていた。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「行って、くるんですよね」
「ああ」
何度も、何度も、泣きそうな顔で息を吸って。
レムは言った。
「──いってらっしゃい、お兄ちゃん」
その言葉を聞いて、ソルは笑った。
太陽のように。
空無き大地の地獄で、それでも誰かを照らそうとした少年のように。
にかっと、笑った。
「ああ」
ソルの体が、黒の奥へ沈んでいく。
「行ってくる」
レムの姿が遠ざかる。
そして、ソルはさらに深い黒へ落ちた。
◆◇◆
幽世。
そう呼ぶほかなかった。
そこには何もなかった。
空も、地面も、光も、風もない。
ただ、濃い瘴気が満ちている。
世界の外側。
因果の狭間。
忘れられたものが沈む場所。
そして、嫉妬の魔女因子に焼き付いた記憶の底。
そこで、ソルは目を開けた。
「……ここは」
体がある。
いや、体の形をしているだけだ。
肉ではない。
魂が、自分を自分だと思っているだけ。
周囲には、黒い瘴気が満ちている。
その中に、人影があった。
黒い影に覆われた、誰か。
「嫉妬の魔女……?」
ソルは目を細める。
「いや、お前は――」
影が揺れる。
そこにいたのは、成長した女だった。
長く伸びた青い髪。
穏やかな顔立ち。
悲しげな瞳。
少女ではない。
大人の姿をした――レムだった。
ソルの知らない時間を生きた、未来のレム。
肉体を持つ本人ではない。
嫉妬の魔女因子に刻まれていた、救済の魔女レムの記憶の残滓。
ソルを何度も殺し、ルナに嫉妬し、ラムの姿をしていた未来の可能性の残影。
彼女は、静かに微笑んだ。
「……やっと会えましたね。お兄さん」
その呼び方に、ソルの胸が痛んだ。
「……お兄ちゃん、とは呼ばねぇのか」
未来のレムは、困ったように微笑んだ。
「呼べません」
「なんで」
「呼べるはず、ないじゃありませんか」
「……」
「私は、あなたに甘えてはいけないんです。私は、あなたの妹でいる資格をなくしました」
その言葉は、泣き声ではなかった。
長い時間をかけて自分に言い聞かせてきた、罰のような声だった。
「私が、殺したんです」
未来のレムは言った。
「あなたを。あなたの妹さんを。何度も、何度も」
「レム」
「姉様の姿をしていたのは、嫌われたくなかったからです」
声が震える。
「私だと知られたくなかったからです。卑怯、ですよね」
「……」
「会いたかった。けれど、会えば嫉妬に狂ってしまうとわかっていた。あなたが私以外の妹を大切にしているのを見たら、壊れてしまうとわかっていた。――それでも、会いに行きました」
未来のレムは、両手を握り締めた。
「私は、あなたに会いたかった。会ってはいけないとわかっていたのに」
「それで、俺たちは出会わなかったことにするしかなくなった」
「はい」
未来のレムは頷いた。
彼女の瞳から、涙が落ちる。
震える声音で彼女は言う。
「どうして、私たちは出会ってはいけなかったんでしょうか」
ソルは答えられなかった。
「あんなに、嬉しかったのに」
「……」
「あなたと出会えて、あなたと過ごせて、あなたの、妹になれて」
「……」
「どうして私は、レムは……お兄さんの妹になってはいけなかったんですか?」
その問いは、刃だった。
ソルの胸を貫く刃だった。
出会ってはいけなかった。
そう言うには、あまりにも大切だった。
出会わなければよかった。
そう思うには、あまりにも救われた。
けれど、出会ったから世界は壊れた。
出会ったから、レムは魔女になった。
出会ったから、ソルは妹を失い、仲間を失い、何度も死んだ。
その全部が事実だった。
未来のレムは、両手で顔を覆う。
「レムが悪いんです。レムが馬鹿で、役立たずで、愚図だったから。お兄さんを長い間苦しめました。レムが、全部レムが……!」
「もう、お兄ちゃんって、呼んでくれないのか?」
未来のレムの言葉が止まった。
彼女は顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、ソルを見る。
「っ、そんな資格、あるはずないじゃないですか」
「……」
「お兄さんをずっと苦しめてきたんですよ。お兄さんの妹さんを殺しました。お兄さんの仲間も、お兄さん自身も殺して、それを何度も繰り返して……っ! お兄さんから全部奪ったんです。なのに、その結果、お兄さんが消えてなくなるなんて、そんなの……」
言葉にならない。
悔恨。
懺悔。
後悔。
罪悪感。
どんな言葉でも足りないものが、彼女の喉を詰まらせている。
ソルは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「じゃあ、一つ聞く」
「……はい」
「お前は、俺が嫌いになったか?」
未来のレムの目が見開かれる。
「そんなわけ、ないじゃないですかっ……!」
叫ぶような声だった。
「嫌いになれるはず、ないじゃないですか……! レムは、お兄さんが好きです。ずっと好きです。お兄ちゃんって呼びたかった。傍にいたかった。妹でいたかった。なのに、レムは……!」
「なら、それでいい」
「よくありません!」
「いいんだよ」
ソルは、未来のレムへ歩み寄る。
「俺も、お前を嫌いにはなれねぇ」
レムの涙が止まる。
「……どうして」
「……」
「どうしてですか!」
「俺が兄だからだ」
その答えに、未来のレムは息を呑んだ。
ソルは続ける。
「お前がどれだけ馬鹿やっても、どれだけ泣いても、どれだけ間違えても、嫌いになんてならねぇ。そうやって見捨てられるなら、最初から兄貴なんて名乗ってねぇ」
「でも、レムは……」
「お前の罪は消えねぇ」
ソルは言った。
優しいだけではない声で。
「俺も忘れねぇ。ルナが死んだことも、ロストブルーが滅びたことも、俺が何度も負けたことも、お前が魔女になったことも。全部忘れねぇ」
「……」
「許すとか、許さねぇとか、そんな綺麗な話にはしねぇ」
未来のレムが震える。
「じゃあ、レムは……」
「お前の罪は俺が忘れねぇ」
その言葉に、未来のレムの顔が歪んだ。
「それだけ……ですか」
「ああ」
「責めないんですか」
「責めてほしいのか」
「……わかりません」
「なら、必要ねぇな」
ソルは苦く笑う。
「でも、お前が泣いてるとこは見た。お前が後悔してることは聞いた。お前が俺を嫌いになってないことも知った」
「……」
「なら、もういい」
「よく、ありません……」
「いいんだよ」
ソルは、未来のレムの頭に手を置いた。
かつてそうしたように。
何度もそうしたように。
「お前は、戻れ」
「戻る……?」
「俺が消すのは、俺とお前が出会った因果だ。お前そのものじゃねぇ。お前は戻る。姉サマのところへ。フェルトたちのところへ。俺がいない世界へ」
「そんなの……!」
「大丈夫だ」
ソルは笑う。
「俺が覚えてる」
未来のレムは、涙をこぼした。
「お兄、ちゃん……」
初めて。
未来のレムが、そう呼んだ。
ソルは頷く。
「やっと呼んだな」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
レムはソルへ縋る。
大人の姿をした彼女は、それでも泣き方だけは、あの少女のままだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「ああ」
「レムを、許さなくていいです。嫌ってくれていいです。だから、だから……!」
「嫌わねぇって言ってるだろ」
「じゃあ、行かないでください……!」
ソルは、レムの頭を撫でた。
「悪いが、それは無理だ」
「……」
「俺は行く。嫉妬の因子も、俺とお前の出会いの因果も、全部連れていく」
「お兄ちゃんは、どこへ行くんですか」
「さあな」
ソルは笑う。
「適当などっかに始まり直すんじゃねぇか」
「また、会えますか」
「お前が見つけるんだろ」
「はい」
レムは涙を拭った。
まだ泣いている。
それでも、笑おうとしていた。
「レムが見つけます」
「ああ」
「絶対に、見つけます」
「ああ」
「その時は、また、お兄ちゃんって呼んでもいいですか」
「好きにしろ」
「怒りませんか」
「怒るかよ」
「迷惑じゃありませんか」
「しつけぇな」
レムは、ようやく小さく笑った。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「――いってらっしゃい」
その言葉に、ソルは目を細める。
未来のレムの体が、光にほどけ始めていた。
救済の魔女だった記憶。
嫉妬に呑まれた未来。
何度もソルを殺した因果。
レムを魔女へ導いた才能。
それらが、彼女から切り離されていく。
ソルは手を伸ばす。
未来のレムの手に触れる。
最後に一度だけ、強く握った。
「行ってくる」
レムは泣きながら笑った。
「はい」
幽世が割れる。
光が差す。
そして、ソルは一人、嫉妬の黒を抱えて歩き出した。
◆◇◆
◆◇◆
◆◇◆
世界は、巻き戻る。
憂鬱、怠惰、暴食、憤怒、色欲、強欲、虚飾。
ソルはすでに、七つの魔女因子をその身に宿していた。
そして今、レムから最後に残された二つ――嫉妬と傲慢の魔女因子を得る。
九つ。
すべての魔女因子が、ソルの内に揃った。
それは、世界を巻き戻し、変革する権利。
過去を圧縮し、因果を別ち、滅びへ至った未来をゼロへ還す資格。
ただのやり直しではない。
因果を別つための回帰。
ソルが過去に現れた事実を消すための回帰。
レムが救済の魔女へ至る道を断つための回帰。
ラムが世界を背負う器となる未来を外すための回帰。
ロストブルーへ続く滅びを、ゼロから別つための回帰。
ラムは、天稟たる角を失う。
世界中のマナを取り込む器ではなくなる。
レムは、瘴気を浄化する特別を失う。
魔女因子を際限なく受け入れる器ではなくなる。
そして、嫉妬はレムを選ばない。
ソルが、その因果を持っていく。
ソルが、レムと出会った事実ごと。
レムを魔女にした才能ごと。
全部、ゼロから別つ。
フェルトも。
メィリィも。
エルザも。
ロム爺も。
ラインハルトも。
ラムも。
レムも。
誰も、彼を覚えていない。
それでも。
ソルだけは忘れない。
不忘。
それは呪いではない。
約束だった。
仲間たちに託された誓い。
レムに残した、いつか見つけるための光。
◆◇◆
――二十年後。
そこには青空があった。
それはどこまでも高い空だった。
偽物の陽光結晶ではない。
煤けた天井でもない。
崩れかけた地下の灯りでもない。
本物の太陽が、世界を照らしていた。
泣き声が響く。
小さな命の声。
青空の下で、『一人の赤子』が生まれた。
その赤子は泣いていた。
泣きながら、何かを掴もうとするように小さな手を伸ばしていた。
誰も知らない。
その子が、かつて空のない地獄で王と呼ばれたことを。
誰も覚えていない。
その魂が、妹を救うために何百年分もの地獄を背負ったことを。
誰も知らない。
彼が、世界の因果をゼロから別ったことを。
けれど。
赤子は、泣きながら空を見た。
青い空。
広い世界。
天と地に挟まれた、当たり前の景色。
その魂だけが、覚えている。
空のない地獄を。
ルナを。
ノインを。
ツヴァイを。
フューリーを。
ズィーヴァを。
アインツを。
フェルトを。
メィリィを。
エルザを。
ロム爺を。
ラムを。
レムを。
そして、自分自身を。
空のない世界で生きたソルにとって。
その青空の下に生まれた世界は。
幻想のようで。
――まるで、異世界のようだった。
だから、ここから始まる。
ゼロから別ち。
ゼロから生まれ直し。
ゼロから、また誰かと出会うために。
彼の新たな人生が。
彼だけの、『異世界生活』が。
◆◇◆
――ゼロカラワカツイセカイセイカツ fin
◆◇◆
これにて、『ゼロカラワカツイセカイセイカツ』は完結となります。
ここまでお読みいただいた方に、心より感謝申し上げます。
最初から最後まで拙い作者の物語ではございますが、誰かのひと時の楽しみにでもなれば幸いです。
物語はここで完結ですが、後日談を1話だけ投稿する予定です。