◆◇◆
――嫉妬の魔女という脅威が去ってから十年。
嫉妬の魔女は封じられ、魔女教は滅び、大罪司教たちの名も、やがて歴史の中へ沈んでいった。
救済の魔女。
ロストブルー。
空を失った地獄。
神獣に踏み荒らされた大地。
そんな未来は、誰にも知られない。
誰の記憶にも残らない。
初めから存在しなかったものとして、世界の因果から別たれていた。
親竜王国ルグニカ。
幾度もの危機を越え、滅びの未来を退けたその国の王座には、一人の英雄が座っている。
異世界より召喚され、数多の死線を越え、魔女教の大罪司教たちを打ち倒し、世界を救った少年。
――ナツキ・スバル。
かつて何者でもなかった彼は、いつしか世界を救った英雄となり、王となり、そして多くの愛に囲まれる男となった。
その傍らには、銀髪の王妃がいる。
誰より優しく、誰より真っ直ぐに、王と共に未来を見つめるエミリア。
青髪の王宮女給がいる。
かつて深い眠りと喪失を越え、今は穏やかな笑みで王を支えるレム。
小さな大精霊がいる。
契約者として、伴侶として、辛辣に、誇らしく、王の隣に立つベアトリス。
そして、かつて幼かった少女は、今や一人の女性となり、誰より眩しい憧れを愛へ変えて王に寄り添っている。
後の世は、それを英雄王の華やかな逸話として語る。
けれど、当人たちにとっては、そんな大層なものではない。
朝になれば誰かが起きる。
昼になれば誰かが働く。
夕方になれば誰かが帰りを待つ。
夜になれば、くだらないことで笑い合う。
人々は泣き、笑い、働き、飯を食い、眠り、明日を迎える。
英雄譚は酒場で語られ、子どもたちは王の名を真似て遊び、王都には変わらず喧騒が満ちている。
世界は、平穏だった。
退屈で、つまらなくて、どうしようもなく尊い日常を、今日も続けていた。
◆◇◆
王城の一角。
かつて多くの陰謀と戦火を見た場所も、今では穏やかな陽光に照らされている。
その中庭で、青髪の女性が洗濯物を畳んでいた。
年齢は三十近く。
王宮女給として長く勤め、今では若い女給たちから頼られる立場にある。
柔らかな笑み。
落ち着いた物腰。
けれど、どこか芯の強い瞳。
レムは、今日も王宮で働いていた。
そこへ、不意に声がかかる。
「王宮女給の妹とか、俺は鼻が高くて嬉しいね」
聞き覚えのある声だった。
レムは洗濯物を抱えたまま、ゆっくりと振り返る。
そこに、黒髪の男が立っていた。
黒いマフラー。
悪そうな目つき。
どこか陰険で、素直ではなさそうで、それでも笑うと不思議と人を惹きつける顔。
レムは一瞬だけ目を見開き、それから、花が咲くように笑った。
「お兄ちゃん!」
「よう、レム」
ソルは軽く手を上げる。
レムは洗濯物を置き、彼の元へ歩み寄った。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「見ての通りだ。死んじゃいねぇ」
「お兄ちゃんの場合、その報告だけでは安心できません」
「ひでぇな」
「事実です」
レムはくすりと笑う。
ソルは肩を竦めた。
「ま、元気そうで何よりだ。王宮女給ねぇ。立派になったもんだ」
「お兄ちゃんが穀潰しになっても、レムが養ってあげますね」
「……いや、それは遠慮するって、流石に」
「遠慮しなくてもいいんですよ?」
「する。全力でする。俺にも兄としての意地があるからな」
レムは楽しそうに目を細める。
「では、今は何をしているんですか?」
「ああ。今は、ヴォラキアで仲間集めて、傭兵団みてぇなことやってんだ。魔物倒して一稼ぎってな」
「傭兵団……」
レムは少しだけ驚き、それから納得したように微笑んだ。
「探究家なお兄ちゃんには似合っています」
「探究家ねぇ。そんな上等なもんじゃねぇよ。金になりそうな魔物を探して、面倒ごとに首突っ込んで、仲間に怒られてるだけだ」
「やっぱり、お兄ちゃんらしいです」
「褒めてんのか、それ」
「はい」
「……ならいいか」
ソルは鼻を鳴らす。
レムはその横顔を見つめ、少しだけ目を細めた。
昔より大人びている。
けれど、根っこのところは変わらない。
ぶっきらぼうで、口が悪くて、素直ではなくて。
それでも、誰かを見捨てられない。
レムの知るお兄ちゃんは、ちゃんとそこにいた。
◆◇◆
「レム」
そこへ、別の声がした。
振り返ると、黒髪の青年が廊下から歩いてくる。
王冠こそないが、その立ち居振る舞いには自然と人の上に立つ者の気配があった。
ルグニカ王国の王。
ナツキ・スバル。
そして、レムの夫だった。
「お客さん?」
「はい。レムのお兄ちゃんです」
「ああ、例の! ……って、ん?」
スバルはソルを見る。
それから、少しだけ首を傾げた。
「歳の離れた兄がいるってのは聞いてたけど、それがまさか年下の兄だとは思わなかったなぁ」
「それには深い深い事情があるんです」
「事情が濃そうだなぁ……」
スバルは苦笑する。
そして、何かに気づいたように手を打った。
「ってことは、俺の義兄さんでもあるってこと、なのか?」
その言葉に、ソルの目が細くなる。
「お?」
ソルは一歩前へ出る。
「噂をすれば、人がいない間に妹を垂らし込んだ男ってのはお前さんか?」
スバルの顔が引きつった。
「げっ、これはどこぞの姉と同じシスコンの気配がするッ!」
「おう、勘がいいな。大正解だ」
「大正解したくなかった!」
スバルは後ずさる。
レムは困ったように笑った。
「お兄ちゃん、スバルくんを怖がらせないでください」
「いやぁ、碌でもねぇ奴だったら門前払いしようと思ってたが……」
「え? もう結婚して五年になるのに、今さら門前払いとかあるの? マジで?」
「あるだろ。妹を泣かせたら五年だろうが十年だろうが叩き出す」
「怖い! 発想が怖い!」
スバルが慌てる。
ソルはじっとスバルを見た。
しばらく、何も言わなかった。
その視線は、品定めするようで。
探るようで。
けれど最後には、どこか納得したように緩んだ。
「……いや、その気も失せたよ」
「お?」
「相手がルグニカ王国の王様だってんじゃ、文句の付け所もねぇよ」
「おお、意外と物分かりがいい」
「まぁ?」
ソルの声が少し低くなる。
「ハーレム作ってるのはどうかと思うが?」
「うっ」
スバルが露骨に目を逸らした。
「いやぁ、そのですねぇ、あのぉ、えぇっとぉ……」
「お兄ちゃん」
レムが軽く窘める。
だが、ソルは笑っていた。
意地悪な笑みだった。
それでも、本気で責める色はない。
「いいよ」
ソルは言った。
「レムがこんだけ幸せそうに過ごしてるんだ。何の文句もねぇ」
スバルの表情が変わる。
ソルは、少しだけ真面目な顔で続けた。
「俺のいない間、妹を大切にしてくれて、ありがとう」
スバルは、息を呑む。
そして、少し照れたように頬を掻いた。
「……こちらこそ、妹さんにはいつもお世話になってます」
「ほう」
「ほんと、レムがいなきゃ生きていけないくらいには、お世話になっちまってて……」
レムは頬を赤くした。
「スバルくん」
「いや、事実だから」
「だぁくそ」
ソルが頭を掻く。
「幸せそうにしやがって! 一発ぶん殴らせろ!」
「暴力反対!」
スバルが両手を上げる。
レムは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「ふふっ」
それが呼び水になったように、ソルも噴き出す。
「くく……はははは!」
「いや、笑うところ!? 俺、今殴られそうだったんだけど!」
「ぷっ、あはははは!」
レムも堪えきれずに笑った。
スバルは困った顔をして、それから結局、同じように笑った。
中庭に笑い声が広がる。
穏やかな風が吹き、白い洗濯物が揺れる。
どこにでもある、何でもない時間。
けれど、ソルはふと空を見上げた。
「あぁ……」
その声は、ひどく柔らかかった。
「家族っていいもんだな」
レムが、そっとソルを見る。
「悪くない」
ソルは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「お兄ちゃんの妹さんも、いつか紹介してくださいね?」
レムが言う。
ソルは少しだけ目を細める。
ルナ。
その名を胸の奥で呼ぶ。
「ああ」
ソルは頷いた。
「今度連れてくるよ。俺の大事な仲間も紹介したいしさ」
「仲間の皆さんも?」
「ああ。うるせぇ奴らばっかだけど、悪くねぇ連中だ」
「楽しみです」
レムは微笑む。
その笑顔を見て、ソルもほんの少し笑った。
◆◇◆
「しかし、魔女教を滅ぼした王様ねぇ」
ソルが、どこか感心したようにスバルを見る。
「大したもんだな、お前」
「お? 急に褒められた?」
「茶化すな。褒めてんだよ」
ソルは鼻を鳴らす。
「大罪司教ってのは、どいつもこいつもロクでもねぇ。理屈は通じねぇし、話は聞かねぇし、死に際まで気色悪ぃ。あんな連中を相手にして、最後まで折れずにぶちのめしたんだろ」
「……まあ、うん」
スバルは少しだけ目を伏せる。
軽口で返そうとして、けれど言葉が出ない。
その沈黙だけで、ソルには十分だった。
「大変だったよな」
ソルは言った。
それは、英雄を称える言葉ではなかった。
王を讃える言葉でもなかった。
同じように魔女教と戦い、大罪司教を倒してきた者が、同じ地獄を知る者へ向ける、ただの労いだった。
「わかるぜ。あいつらをぶちのめすのは、骨が折れただろ」
スバルは、ぽかんとソルを見た。
それから、少しだけ笑う。
「……そっか。義兄さんも、こっち側か」
「義兄さんって呼ぶな」
「いやでも、今のはちょっと嬉しかったわ」
「気色悪ぃな」
「褒めてんだよ」
「なら受け取っといてやる」
ソルは肩を竦める。
スバルは苦笑したあと、静かに息を吐いた。
「大変だったよ」
「ああ」
「何回も死ぬかと思ったし、何回も心折れたし、何回も全部投げ出したくなった」
「だろうな」
「でも、俺にもみんながいたから、なんとかなった」
ソルは、その言葉を聞いて口元を緩めた。
「なるほどな」
「あ?」
「いい男じゃねぇか」
スバルが目を瞬かせる。
ソルは視線を逸らし、ぶっきらぼうに続けた。
「嫌いじゃねぇよ、お前みたいな奴は」
「……それ、めちゃくちゃ褒めてる?」
「調子に乗んな。妹を泣かせたら殴る」
「そこは変わらないんだな!?」
レムは二人を見て、ふふっと笑った。
ソルも、スバルも、その笑い声につられるように小さく笑う。
かつて世界を救った男と。
かつて世界を別った男。
違う道を歩きながら、それでも同じ地獄の一端を知っている二人が、何でもない中庭で肩を並べて笑っていた。
◆◇◆
日々は平穏に過ぎていく。
朝になれば、誰かが起きる。
昼になれば、誰かが働く。
夕方になれば、誰かが帰りを待つ。
夜になれば、誰かが今日あったくだらない話をする。
世界は、今日もつまらない日常を続けていく。
仲間と。
家族と。
大切なものと共に過ごす。
それを邪魔する奴がいるなら、ぶっ殺す。
守りたいものがあるなら、守る。
会いたい奴がいるなら、会いに行く。
笑いたいときは笑う。
泣きたいときは泣く。
そうして今日も、生きていく。
ゼロから別ち。
ゼロから生まれ直し。
ゼロから、また誰かと出会い直した世界で。
空は青く、太陽は眩しい。
そして、物語は続いていく。
◆◇◆
fin.
◆◇◆
これにて本当に完結です。
ご愛顧いただきありがとうございました。