白金燐子の夏期講習。 作:かーねーしょん
「叔父さん、お久しぶりです。勇樹です。えぇ、今駅に着きましたので。……はい、ありがとうございます」
ある酷く暑い夏の日のこと、一人の男が電話をしながら住宅街を歩いていた。勇樹と名乗るその男は猛暑日だというのに全身をスーツで固めていて、しかし汗一つ流すことなく朗らかな笑みを浮かべながら通話先の叔父との雑談に興じていた。
「そうですね……確か前にこちらに来たのは大叔母さんの三回忌ですから……二年ぶりになりますかね。あぁ、今公園見えて来たのでそこで待てばいいですか?」
事前に待ち合わせ場所として教えられていた公園の目の前に辿り着き、その事を叔父に伝えようとした勇樹は公園から帰るであろう一人の幼い女の子とすれ違った。
「……っ!」
その瞬間、勇樹は突如呆然とした顔を浮かべ、手から携帯がするりと抜け落ちる。その音に驚いたのか、携帯の電話口から発せられる心配する声を無視しながら、勇樹が振り向けばその女の子が勇樹に背を向けて過ぎ去って行くのが見えた。
「あの子は……」
すれ違う瞬間に見えた女の子は黒い髪をしていて、丸い瞳が特徴的な女の子だった。その女の子を見た時から勇樹の心に稲妻のような衝撃に襲われ、胸の鼓動はうるさいくらいに高鳴り続けていた。
そしてその鼓動が落ち着いてきた頃、心配して急いでやってきた叔父の車に乗りながら、勇樹は窓の外の風景を見る振りをしながら一つの未来を思い描いていた。それは、この『夜嶋勇樹』という人間が産まれて来た時以来の問い掛けの答えに足りうるもので。いずれ訪れるその未来の実現に向けての算段を立てながら、勇樹は小さく笑みを溢した。
(──あぁ、やっと分かったよ。ボクが今このセカイに産まれて来た意味が。キミに、出会う為にだったんだね……)
そうして、幾ばくかの時を経て、勇樹は女の子の◼️◼️となった。
──少女には、とても頼れる『先生』がいる。
その先生はとても優しく、穏やかで、いつも少女の心に寄り添ってくれるとても頼れる人間だった。その先生との出会いは少女が小学生の頃の入学式のことだった。
「おや、キミは……新入生だね? こっちは在校生の入口だよ? 迷子かな?」
「その……あの私、列からはぐれちゃって。それで……」
「ふむふむ。それでなんとか戻ろうとしてこんなところまで来たんだね。怖かったろう? ボクが入学式の会場まで連れて行ってあげるよ」
一人で行けるよねと親元から離され、並ばされた新入生の入場列から外れてしまい、どこかもわからない校舎の中取り残された不安と恐怖で涙ぐんでいた少女の前に現れたのがその『先生』で。その時の先生の瞳はどこか愛おしいものを見つけたような、それでいてどこかほの暗いものを隠すような眼をしていた。
「えっと、でも……」
「ハハハ、怖がらなくても大丈夫だよ。さぁ、おいで」
そんな自分に向けられている先生の瞳がほんの少しだけ恐ろしく思えて、少女は差し出された手を取ることをほんの少し躊躇った。けれど、それを見た先生が浮かべたちょっと困ったような、どう接すればいいのか探るようなぎこちない笑顔がなんとなく可笑しく感じて。その手を取ってみようと、少女は思ったのだ。
「分かり、ました。お願いします、その……『先生』」
「うんうん、いい子だね。さぁおいで、ボクがキミを皆の所に連れて行ってあげるよ。よろしくね『燐子』」
そうして、先生と歩きだしたところで少女──白金燐子は目を覚ました。視線を横にやれば空は既に曙を超えており、時計は既に八時を過ぎて、燐子が学校に行く時間に差し迫っていた。
「いけない……! 今日、終業式なのに……!」
そうして慌てて準備をしている最中、燐子のスマホに一件の通知が届く。それは『先生』と銘打たれた相手からで、燐子がスマホを与えられた中学二年から三年の夏になる今まで毎朝の習慣となった朝のメッセージに何とはなしに燐子は送られてきたメッセージを確認する。
──やぁ燐子、おはよう。今日は暑くなるから水分はしっかり摂るようにね。ただでさえ寂しい終業式なのに倒れて生徒を見送るなんて僕は嫌だからさ。それじゃあ、今日も学校で元気に会えることを祈っているよ。
「夜嶋先生……」
先生から送られてきたメッセージ。その画面を見た燐子は無意識にスマホを胸に抱く。何故かは分からないけれど、先生からメッセージが来るたびに嬉しくて心が弾むような、けれどどこか不安で心がざわつくようなそんな気持ちになるのだ。そして、その揺らぐような心を感じるこの時間が燐子はとても好きだった。
「えと……『ありがとうございます。先生も体調に気をつけて下さい。私も、寂しいかもしれません』と。……っていけない、そろそろ学校にいかないと……!」
暫くその心の揺らめきに浸った後、先生からのメッセージに返信をした燐子は今の時間を思い出し、慌てて準備を再開する。そうして暫くした後、登校の準備を終えて部屋を出ていき誰もいなくなった燐子の部屋に、夏の訪れ。告げる蝉の声が響いていた。
ピロリ、とSNSの通知音が鳴る。周囲に誰もいないことを確認した勇樹がチラリと画面を見ると、そこには唯一の生徒とも呼べる『燐子』の文字があった。
──ありがとうございます。先生も体調に気をつけて下さい。私も、先生と会えないのは寂しいかもしれません。
「くく……」
その文面を見て、勇樹の口が歪み笑い声が零れる。本当に自分の生徒は可愛らしい。そう思いながら彼は燐子のメッセージにある寂しいという言葉に想いを馳せる。
(寂しい……ね。そう思うなら何年も苦労して
自らが仕掛けた布石が順調に進んでいるのを感じながら勇樹はスーツの裾を捲り、その腕に刻まれた古傷をそっとなぞる。
「あぁ……早く来ないかなぁ。燐子」
歩く、歩く、歩く。温暖化した夏の日射しは朝だというのに容赦なく燐子の肌を照らす。そんな日焼け止めを塗っているにも関わらず、今にも日焼けしてしまいそうな通学路を進んでいると、燐子はある公園の前で足を止めた。
「ここは……」
その公園は、燐子の記憶の片隅に微かに残る場所だった。まだ燐子がピアノを始める前くらいの頃によく遊んでいた思い出公園。流石に当時と比べて遊具はくたびれてしまっているものの、あの時の面影は今もなお残されていた。そんな懐かしさに燐子はつい足を止めて公園に魅入られてしまった。
「でも、どうして急に……」
この道は燐子にとっては三年近く通ってきた道だったはず。なのになぜ突然、このような懐かしさに襲われるのだろうかと燐子は首を傾げる。
「……あ」
そうして記憶の奥底を探っていると、燐子はいつかの夏の日を思い出した。その日のことはあまり覚えていないけれど今日と同じような蒸し暑い日で、ここで誰かと出会ったような気がしたのだ。
「……いけない、早くいかないと!」
そこからさらに記憶の糸を手繰ろうとしたところで燐子は通学中であったことを思い出して走り始める。過ぎ去って行く彼女の視界の端に微かに揺らめく陽炎が、今はここにいないスーツの男を映したような気がした。
「ね~先生~。夏休みなにすんの~?」
「ははは、先生は始業明けのテストとサッカー部のやつらとデートばっかりだよ」
「わー! つまんなさそー! ねね、良かったらうちらと息抜きしよーよ!」
「ありがとう。でも先生はテストで三島が赤点取らない方が助かるんだけどな?」
「ひー! 勘弁してよー!」
──面倒だなぁ。
終業式が始まる前の教室、終業式が始まる前の教室、楽しそうに話をする女生徒と男性教師がいる。女生徒の方は楽しそうに先生である勇樹に夏休みのことを話しているが、それに対して勇樹は興味もない
(心から
こういった会話も大事だとは思うものの、それがストレスにならないかと言われれば別問題で。心の内に濁った感情が溜まるのを感じながら、勇樹は目の前の女との会話を続ける。
「縺昴l縺ァ縺昴l縺ァ縲√%縺ョ繝舌Φ繝峨′繧√■繧�¥縺。繧�>縺��縲ゅ↑繧薙°縺薙≧繧ィ繝「縺�▲縺ヲ縺�≧縺九ょ�逕溘b閨エ縺�※縺ソ縺ヲ繧�」
「あぁ、そうだね。いい気分転換にはなるかもしれないし、今度聴いてみようかな」
(あぁ、これが燐子になってくれたらなぁ)
少しずつ溜まっていく濁った感情。それを発散させる為に勇樹は彼女と出会ってから数年間、幾度となく繰り返した現実逃避を頭の中で繰り広げる。思い返す昨日の燐子の姿を目の前に立つ人形にトレースして、彼女と話している感覚を擬似的に呼び起こす。そうすることにより目の前の女は勇樹にとって人形から燐子へと変わり、言葉を交わす心的負担もいくかは軽減されて、多少穏やかな気持ちになりながら勇樹は
(……やっぱり駄目だ。何度やっても人形じゃあ燐子にはなれない)
けれどそれも長くは続くことはなく。目の前の人形から発せられる僅かな言葉遣いの違い、所作の齟齬、そしてなによりその命のあり方の違いはやがて人形に被せた燐子の皮を突き破り、また再び勇樹の目の前に人形が現れる。そのことに僅かな落胆と苛立ちを抑えながらも、そういえばと彼は目の前のなにごとかを囀ずり続ける人形に対してあることを思った。
(この
それは、目の前に立っているはずの女生徒を最低の疑問で。けれど勇樹にはそんなことはどうでもよく、なんなら彼にとってこの疑問自体もどうでもよかった。けれど夜嶋勇樹という『人間』が『人形』蔓延る世界に紛れ込む為の
(さてはて、これの名前はなんだったかな。石田……は違うか、戸田……でもなくて。丸山……は確か別のクラスか)
「お、おはようございます……!」
適当に思い付く名字を土台に記憶を探っていると、教室の扉が開いて控えめな声が勇樹の耳に届く。その声に惹かれるように勇樹が扉の方を向けば、そこには僅かに息を切らした燐子が教室に入ろうとしていた。そして彼は笑顔を浮かべて、人形との会話を打ちきり燐子の方へと歩き始める。そうして燐子の傍に立つと彼は優しく明るい声で声をかけた。
「やぁ、燐子。おはよう」
そんな彼の頭には、先程まで考えていた名前のことなど欠片も残っていなかった。
後編は多分早めにきます。