十月の頭のことだった。コツコツ、と断続的な乾いた音で聖園ミカは目を覚ました。寝ぼけ眼で時計を見ると、まだ朝の五時だった。肌寒い外気から隠れるように毛布を深く被ってもう一度眠りに着こうとしたが、その音が頻りに鳴っているせいで意識が微睡に落ちるのを何度も引き留められた。
「何?」
ミカは這い出るようにベッドから出ると呟いた。喉が渇いていて、早朝の空気は冷たい。音はずっと、窓の方から鳴っている。彼女がカーテンを開けると、窓の縁に小さな白い鳥が留まっていた。
「セイアちゃんの鳥だ」
百合園セイアがいつも連れている鳥だった。名前は確かシマエナガだった、と彼女は記憶している。しかしどうしてこんな所に、と彼女は思った。セイアの家からここまではかなりの距離があるし、用心深い彼女が鳥籠を閉め忘れるようなことをするとは思えなかった。
その間にもシマエナガは扉をつついて、何度か甲高い声で鳴いた。聴き馴染みはないが、確かに鳥の鳴き声だった。
「どうしたの? セイアちゃんが餌をくれないから逃げてきたのかな」
いずれにせよこのまま放っておく訳にもいかなかったから、彼女は窓に手をかけて、ゆっくりと開いた。鈍い音を鳴らしながら小鳥一匹が通れるくらいの隙間ができると、シマエナガは彼女の部屋の中に入った。
ミカが窓を閉めて振り返ったとき、シマエナガは床に立ち止まって彼女を眺めていた。何か不思議なものを見るように首を傾げ、元に戻し、そしてもう一度傾げた。黒い点のような眼が彼女を見ていた。
「聖園ミカ」
突然に名前を呼ばれ、ミカは絶句した。男とも女とも言えない奇妙な声で、シマエナガが確かに彼女の名前を発音したのだ。それはココドリが聴いた音を真似るような再現としての言葉ではなく、はっきりとした発言だった。
「端的に話す。我が主、百合園セイアと、あの先生なる男が消えた」
シマエナガは流暢に話し始めた。ミカはやはり何も言えなかったが、シマエナガは彼女に構わず続けた。
「こうなることを主は予見していた。そしてこうなった場合、聖園ミカ、君を頼れとも言っていた」
小さな──片手で包んでしまえそうな──体躯のシマエナガは、その身に反して堂々とした口調で話をしていた。
段々と事態に適応してきたミカの脳は、その非現実的な出来事を処理しようと試みた。シマエナガの言った言葉を思い出し、その意味を理解しようとする。
シマエナガの勧めで心を落ち着けるために水を飲み、椅子に座ってひと呼吸置いてから、ようやく彼女はシマエナガが最初に言っていたことを理解した。
「セイアちゃんと先生が消えた」
「いかにも」シマエナガは頷いた。
その所作は愛玩動物の愛らしい仕草そのもので、聡明な声とは対照的だった。
「そしてセイアちゃんは私に助けを求めた」
「そう」
「それ、本当?」
夢の続きを見ているのではないだろうか、とミカは疑った。本当は時計を確認した後で眠りについていて、ここは眠りと地続きの夢の世界なのではないかと思った。
「夢ではあらない」
シマエナガは彼女の心を読んだかのように答えた。その声には現実的な響きが備わっていて、何より初冬の早朝の空気の冷たさが、これが夢の産物ではないことをありありと伝えていた。
随分と変な話し方をする鳥だな、とミカは思った。そもそも話す鳥を見たのすら初めてだったから、これが鳥の一般的な話し方なのか、飼い主であるセイアに似たせいで小難しい口調になったのかは分からない。
「二人を探さねばならない。見つけられなければ、二人は永久に消えてしまう」
彼女はまだ深く混乱していた。紅茶と緑茶が見分けられないくらい激しい混乱だった。いきなり部屋にやってきたシマエナガが人語を喋り、二人が消えたことを伝えることをそのまま飲み込めるほど非現実に慣れている彼女ではなかった。
しかし、と彼女は思った。これが夢であれ現実であれ、二人が消えたのが嘘であれ事実であれ、行かなければならない。手が伸ばせるなら伸ばさなければならない。その先に何があるかは、後になって振り返ればいいのだ。
「詳しく教えて」と彼女は言った。
シマエナガはゆっくりと語り出した。セイアの予言と、これから彼女が取るべき行動について。
その年の二月頃に、セイアは夢を見た。彼女の見る夢のほとんどがそうであるように、少し先の未来を予見した予知夢であることがすぐに分かった。彼女にはそういったことが直感的に分かる能力が備わっているのだ。
その夢の中で、彼女はトリニティの古書館の扉の前に立っていた。古書館があり、扉があり、それ以外には何もなかった。背後にあるはずの他の建物は跡形すら認められない。夢にはその時々で必要なパーツしか登場しない、というのが彼女の経験則だった。
セイアは扉を開いた。音も手ごたえもなかったから、本当に扉が開いたのかは確かではなかったけれど、彼女は入口の赤い絨毯を踏んで中に入った。古書館にいたのは、先生だけだった。いつも古書館にいるはずの生徒や、ほとんどの本棚の姿はない。彼は彼女に背を向けるようにしゃがんで、本棚に手を伸ばしていた。
「待ちたまえ、先生」と彼女は言った。
彼が手に取った本は明らかに異質なものだった。この世の物ですらないのかもしれない、と思うほどの異質さだった。
彼女は昔に耳に挟んだ、トリニティの古書館に眠る指定理由不明の禁書の噂話を思い出した。彼が手に取った本は、まさに禁じられて然るべき悍ましさと禍々しさを有していた。
「待つんだ、先生」
彼女は表紙を捲る彼の手を止めようと、さっきよりも大きな声で言った。しかし彼は表紙を捲った。そもそも、彼女の声は彼の耳に届いていないようだった。彼はそのまま本を読み始めた。そして消えた。
「消えた?」
ミカはシマエナガの話を遮って聞いた。
「そう、消えた。まるで本に吸い込まれるように、と主は言っていた」
ミカは本に吸い込まれる姿をイメージしてみたが、上手く頭の中で映像としてまとめることが出来なかった。
「主がその夢を見たのが冬の終わりのこと、そしてその夢が現実になってしまった。ほんの少し前のことだ」
「先生は本の中に吸い込まれた」とミカ復唱した。
聞けば聞くほど事態は複雑になっていったが、とりあえず彼女は続きを聞くことにした。
「そして主は彼を追うために夢の世界に行った。何故だかは分からないが、主がそうするのなら、それが正しいことなのだろう」
シマエナガはセイアに全幅の信頼を寄せているのだな、とミカは思った。少なくとも、ちゃんと餌は貰っているようだ。
「私は何をすればいいの?」
「先ずは禁書を見つけねばならない」
「古書館に取りに行くってこと?」
「主の予知夢には続きがある」シマエナガは首を傾げて言った。「彼が消えた後、禁書も消えた」