「切符なんて持っていないよ」と私は言った。
「胸のポケットに」セイアは簡単に言った。
彼女に言われて漁ると。シャツの胸ポケットの中には一枚の紙切れが入っていた。そこには本の栞を入れていたはずなのだけど、細かな装飾なんかはそのままに、栞は切符に姿を変えてしまった。
「車掌が来たようだね」
列車が駅をたってからしばらくして、〈顔のない男〉が後ろ側の扉からやってきて、私達の隣に立った。
男は帽子を深く被っていて、顔のない顔は半分くらいが隠されていた。白い──今まで見てきた色とそれほど変わりない、ということだけど──手袋を私の前に差し出した。
反射的に切符を差し出すと、車掌はホチキスのような器具で切符に穴を空けて私に返した。その後でセイアの方を見たが、車掌はセイアに切符を要求することはなかった。
「乗客の切符だけを切る。私は乗客ではない」とセイアは言った。
「そろそろ教えて欲しい、色々と」
「何から説明すべきだろうか」
彼女は三十秒くらい悩んでから、慎重に話し始めた。
トリニティの古書館の地下には〈禁書〉と呼ばれる本が多数存在する。禁書指定される要因は様々であり、政治宗教文化的タブーや猥褻暴力などの過度な表現によるものが主な要因として挙げられる。
「禁書はその指定理由と共に地下で管理されている。が、一冊だけ指定理由不明の禁書があった」
「どういうこと?」と私は聞いた。
「禁書のリストに名前はある。しかし指定理由の欄は空欄、実物を探したが部屋になかった」
彼女によれば、私がここへ来る前に読んだ本がそれだったのだろう、ということだった。ずっと見つかっていなかった禁書が今になって一般本棚に紛れ込んでいたのかは疑問だが、とも付け加えた。
「半年前、私はその光景を夢に見ていた」
「私が禁書を読む光景を?」
「そう。そして私も目覚めたらあの駅にいた。先生、君と同じようにね」
以前聞いたことによれば、彼女の見る夢には確定したものと不確定のものが入り混じっているらしい。紅茶と牛乳のように、と彼女は例えていた。分離することは不可能だが、混じっていることは分かる。そして別々に見れば、判別も出来る。
確定しているものを変えようとするのは無意味だと彼女は教えてくれた。古書館で禁書を読まないようにと忠告されれば、別の場所で別の形になってそれが現実となるだけのことだ。確定した未来は変えようとしても、そうなるように帳尻が合うのだという。
そんなことに気が向かなかったせいで今の今まで気が付かなかったが、列車はいつの間にか銀河を走っていた。車窓からは色とりどりの星が、黒とも言い切れない黒の中で輝いていた。
「一つ聞きたいのだが」と彼女は言った。
気を悪くしたらすまない、と前置きをした上で彼女はその質問を切り出した。
「先生、君は色が見えないのかい?」
「うん、見えないよ」と私は正直に答えた。
〈先天色覚障害〉というのが、私が三歳のときに伝えられた私の目の不具合の名前だった。色が見えない。私の世界にあったのは白と黒と、その濃淡だけだった。
インクが紙に滲むように、私の心臓はゆっくりと鼓動を逸らせていった。色のついた座席に座って、色のついた車内を眺めていると、深い井戸から何かがこみ上げてくるような気分だった。これが色なのだ、と私は思った。世界は眩むほどに美しく鮮やかなのだ。
キヴォトスに来てからそのことを誰かに打ち明けるのは初めてのことだった。言い出さなければ気づかれない程度のことだし、余計な心配や気遣いをさせたくなかったというのが主な理由だった。
色が見えないからといって、致命的な問題が生じる訳ではないのだ。そして大して悲しくもない。あるいはずっと昔からのことで忘れてしまっているだけかもしれないけど。
「そうなのだね」セイアは物憂げな表情で言った。
「今は見える。不思議なことに」
「此処が本の中の世界だからだよ」と彼女は言った。「力を持ちすぎた本は人を呑んでしまう力を持ちうる。そしてその中では誰しも同じものを見る。見え方は異なってもね」
「ふうん」と私は言った。
列車は銀河の中を進み続けた。走った後にレールはなく、奥行きが掴めない不思議な空間が広がっているだけだった。二十分くらい走っただろうか、列車は少しずつその速度を緩め、やがて完全に停車した。いつの間にか駅に着いていたのだ。
「降りよう」
通路側の彼女が立ったのを見て、私も反射的に立ち上がった。窓から覗く限りでは、列車はさっきまでの銀河とはかなり様相の異なった場所に停まったようだった。
扉の擦りガラスからは昼の陽射しのようなものが差し込んでいて、私は反射的に目を覆った。列車はどこに停まったのだろう?
扉を開けたとき、同時に瞬きをした。意識的にした訳ではなかったけど、結果的に私はその瞬きを強く意識することになった。一瞬の暗転を境に世界ががらりと変わってしまったのだ。
無人の客車だった、私がノブを握った側は暗い森になっていて、開いた扉も客車のものではなく、その森の中にある小さな小屋のものになっていた。幕を下ろした隙にセットを入れ替えた舞台のように、私を取り囲む何もかもが変わっていた。
セイアの呼ぶ声で私は現実に引き戻された。より厳密に言えば周囲に意識を向けられるようになった、と表現した方が適格ではある。ここは明らかに現実ではないのだから。
「君はこの世界から抜け出さなければならない」
君は? セイアは違うのかと聞くと、彼女は違うと答えた。
「本を読んだのは先生、君だけだ。私はいつでも出られる」
「それは良かった」
彼女のことは心配しなくても良いというのは、ひとまずの安心材料になった。
「〈登場人物は物語の奉仕者であってはならない〉という創作論を聞いたことはあるかい、先生?」と唐突に彼女は言った。
私はしばらく考えた後でない、と答えた。
「どちらでも構わない。この話を引き合いに出したのはその是非を問うためではないからね。つまりだ、先生。君はこの物語に奉仕しなければならない。物語を終えないことには、この世界からは出られない」
「この物語?」
「禁書の名を言っていなかったね」とセイアは言った。「君が読んだのは『白雪姫』、その原本だよ」
彼女の話をまとめると、この世界から出るために私は物語を完遂しなければならない、ということだった。私は幼少期に絵本で読んだ白雪姫のストーリーを思い出そうとした。シンデレラとかラプンツェルが混ざってくるせいでしっかりと思い出せたかは定かではないが、大筋は記憶している。
「お姫様を見つけなければいけない?」と私は聞いた。
「いいや」セイアは首を横に振った。「君は毒林檎を食べて、こと切れなければならない」