髪の毛が爆発するような表情をして、ミカは真っ赤にその頬を染めた。
「先生のことを?」
「ここで問うているのは、恋愛感情として彼のことが好きか、ということだ」
「どうして」
「どうしてそんなことを? 必要であるからに他ならない。好きでなければこの役割は成り立たないからだ」
ミカはしどろもどろになりながら、部屋のあちこちを見やった。シマエナガはその間何も言わなかったし、本のページが勝手に捲られることもなかった。
「まあ、好き……かな」
「やれやれ」
随分たっぷりと時間を使ってから答えたミカに、シマエナガはため息交じりに言った。
「その程度なら読まない方がよろしい。本の世界に飛び込むのがどれだけ危険だと思う」
シマエナガは本棚の上に立って、貫くような目線でミカを見た。彼女の心臓の脈打つのを、まじまじと観察しているような素振りだった。
「行くよ」とミカは言った。「先生のことが好きだから」
「よろしい」
彼女は足元に積みあがる本を踏まないようにしながら、書見台の方へと歩いて行った。もっと近づいた。字が見える。
彼女は本に顔を寄せた。部屋が暗いせいで、かなり近づけなければ文字を読むことは出来なかった。
白い紙の上にインクで書かれた黒い文字は、その上で揺らめいているようにも見えた。文字の一つ一つが独立して意思を持ち、勝手に何かを始めようとしている。彼女は本の右端に指をかけた。──刹那、本は粉々になった。
「えっ」
早送りにした解体作業のように、書見台の上の本はミカが触れた箇所から粉々になり、伝播するように広がって全体が粉になった。かろうじて紙切れなのは分かるが、シュレッダーにかけたなんてものではない具合に木端微塵に分解されていた。
「不味いことになったな」
「何で、先生は大丈夫なの?!」
ミカはいきなりのことにパニックを引き起こしていた。地下で酸素が薄いせいもあってか、過呼吸を起こしていた。
「落ち着くんだ、扉が壊れたに過ぎない」
「先生は大丈夫なの?!」
「扉が壊れても、外も中も何も変わらない。世界は本に宿ってはおらぬよ」
「なるほど……触った所から粉々に……」
ウイが懐中電灯を持ってきて、粉々になった本をちりとりで集めた。
「ヒナタさんもそうでしたから、もう驚きませんよ……わざとではないようですしね」
「ごめんね……」
「いえ……古い本は劣化が進みこうなることも……とは言えここまでのことは珍しいですが、ない話ではありませんから」
「直せそう、かな?」
「難しいですね、可能な限りは修繕しますが……」そこまで言って、ウイは何かに気が付いたように話を変えた。「そういえば、ミカさんが探していた本は。この……」
ウイは題名を求めて、比較的原型を保っている表紙を慎重に見ようとした。
「えっ、『白雪姫』? どうして、ずっと見つかっていなかったのに」
「そうなの?」
「ええ……いつの間にか持ち出されたのだと思っていましたが、今になって」
「無理なお願いだとは思うんだけど」とミカは言った。「三日以内に直せないかな、この本がどうしても必要なの」
「三日、ですか……それは物理的に無理です」
ミカは今にも泣きだしそうだったが、迷惑をかけないために堪えていた。唯一の扉は粉々になってしまい、彼のいる世界とこの世界は断絶されてしまった。
「申し訳ありません……ですが、材料を揃えるのにも、一週間はかかりますから」
「ううん、大丈夫。私の都合だから」
「無理にでも修繕させるべきだ」
古書館を後にしてミカの自室に戻ってから、ようやくシマエナガは口を開いた。
「できないよ」
「他に方法はあらない」
「見つけてないだけかもしれないよ」
「やれやれ」
「本の世界について、知ってることを全部教えて」
「解決の糸口が見えるとでも?」
「教えて」
「やれやれ」
シマエナガはもう一度深くため息をついた。深い井戸の底からやってきた、地の欠伸のような深いため息だった。
「優れた創作は力を持つ」シマエナガは自身の本の世界に関する知見の全てを語り始めた。「時間の洗礼を受けたものは特に」
「『白雪姫』だったの、あの本?」
「聞き給えよ。私が話しておる」
「ごめん」
「本とは、世界を繋ぐ扉に過ぎない。ほとんどの場合は小窓だが、あの本は違ったようだ。『白雪姫』、あれは大きな扉だ。だからかの男は通れてしまった。しかし出るには物語を終えねばならない。物語の完遂と言うべきだろうか」
「完遂?」
「筋書きをなぞる必要がある、ということだ。白雪姫は魔女に渡された毒林檎を口にして息絶え、王子の口づけによって生き返る。だから聞いたのだ、かの男が好きなのか、と」
「えっ」
ミカは古書館のときのように、もう一度頬を赤く染めた。
「つまり、私は、キスするために先生の所に行くってこと?」
「他に何がある」
「へ、へぇ~」
「戸惑っている場合ではあらない」目の泳ぎ始めたミカを鎮めるために、シマエナガはわざと厳格に言った。「扉は失われた。代替の手段を探さねば、もう時間は三日とない」
「どうして三日なの?」
「『白雪姫』は三日で終わる。そこが刻限なのだ」
結局その日の内に手がかりになるようなことは何一つとして見つからなかった。彼女はトリニティの資料館に赴いて、一般向けには公開されていない資料の山を隅々まで読み込んだが、本の世界の存在を示すような記述は一つも見当たらなかった。あまりにも集中していたせいで昼食をとることも忘れていて、出入りを許可した生徒が夕方に呼びに来なければそのまま何時間でも読み返しているような具合だった。
「これは五つ目の古則なのかもしれない」
諦めて自室に戻って来ても、ミカは沈んだ表情をしていた。雲を焼きながら茜色に染まり沈みゆく夕陽とは対照的に、草木も眠る深い夜がそのまま顔に浮き出たように見えるほどの沈んだ表情だった。
「五つ目の古則?」
「楽園の存在証明である。本の世界は楽園なのかもしれない」
ミカはいつかセイアが言っていた話を思い出した。真の楽園は外に出る必要がないが故に楽園の到達者は観測されない、よって楽園の存在証明は不可能である、という話だった。
「そんな良い場所なの? 本の世界は」
「行かぬことには分からぬだろうよ」
「セイアちゃんはどうやって行ったの?」
「主のそれは其方の持ち得ぬ力だ。参考にはならない」
ミカは大きく息を吐いてベッドに倒れ込んだ。精神的な疲労が圧し掛かってきて、重力が何倍も強くなったように感じられた。
「いや、しかし」とシマエナガは思いついたように言った。「夢の中で主と接触できれば、あるいは……」
「そっか! セイアちゃんに何か聞けるかも」
「そのまま眠るのは良くない。風呂と食事くらい取るべきだ。どれだけ急いていても、身体が資本である」
「ご飯用意して」
「この小さな体躯でなければできたのだが」
結局、夢の中でセイアに助言を貰うことは出来なかった。翌朝になって目覚めたとき、シマエナガは既に起きていて、昨日寝る前に平皿に入れておいた水をまだ少しずつ飲んでいる所だった。彼女は細々とした身支度を済ませてから、ふと気になってネットニュースを開いて、彼の失踪が話題になっていないか調べてみた。しかし目につくのは下らない各学園の抗争の話や、一時的な流行に乗じた話題ばかりで、それらしい記事は一つとして見当たらなかった。
「それはそうだろうさ」とシマエナガは言った。「考えてみるといい。もしそのようなことを発表すれば、このキヴォトスは大混乱に陥る」
「確かに」とミカは言った。
「本が扉って言ってたよね」
「うむ」
「じゃあ他の『白雪姫』からじゃ入れないの? それならどこにでも」
「時間が足りない」
「時間?」とミカは聞いた。
「人が通れるだけの大きな扉は、簡単に作れたものではあらない、ということだ。時間の洗礼を受けなければ、それは扉足り得ぬ」