聖園ミカの初恋   作:ずゆ

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なるようにしかならないよ

 一日の終わりは、あまりにも美しい夕焼けと共に訪れた。あれは茜色と呼ぶのだとセイアが教えてくれた。驚いたのは、日暮れの空が目まぐるしく変わる様子だった。一度お茶を淹れるために戻り、もう一度窓の外を眺めると、ついさっきよりもずっと暗い色に落ちて、茜色はどこにもなくなってしまっていた。月と夜空との境界線は非常に曖昧で、薄ら雲というのは実在した。私は自然に涙を流していた。自分でも知らない間に、その景色に心を奪われ、感極まっていたのだ。

「あと二日しかない」とセイアは言った。「ミカは辿り着くことができるだろうか」

「なるようにしかならないよ」

「なるようにしかならない……命が掛かっているというのに、随分と楽観的だね」とセイアは言った。

 彼女の言う通り、私は多分今の状況を(本来捉えるべき重みよりもかなり)楽観的に捉えていた。私には上手く命が掛かっていることを実感できなかったのだ。毒林檎もキスも何もかも、非現実の王国での出来事のように思えてならない。思うに、私の脳は色のついた机の木目の美しさを記憶するのにいっぱいいっぱいになっているせいで、そういう目先のこと以外に割くはずの部分が正しく機能しなくなっているのだ。

 

 お湯で湿らせたタオルで全身を拭いて、ベッドに入った。小さな小屋には一人分のベッドしかなかったけど、セイアはこの世界で眠ることが出来ないと言っていたから、ありがたく私が使うことになった。

 寝室の灯りを落としてしまうと、視界は色が見えないのとほとんど変わらないものになってしまった。しかしそのお陰で段々と脳が他のことについて考える余裕を持ち始めて、横になってからようやく私は毒林檎の件を考え始めた。

 私に与えられた選択肢は二つしかない。ミカが助けに来てくれることを信じて毒林檎を食べるのが一つ、ここで生きていくことを決めて毒林檎を食べないのが一つだ。難しいのは、この話がつまりミカを信じるか否か、という二択ではないということだ。前者の場合、私はミカの気持ちに答えるということも意味する。毒林檎を食べるということは、ミカのキスを待つ、ということに等しい。

 私はミカの事をどう思っているのだろうか? 思考は暗闇の中で壁にぶつかり、跳ね返り、少しずつ遠くへ飛んでいった。そして段々と意識がぼんやりしてきて、気づいたときには微睡の底へと落ちていた。

 

 翌朝からその日の昼過ぎにかけて、私はセイアと穏やかな時間を過ごしていた。つい一昨日の夜までは仕事で奔走していたから、少し時間をかけて朝食を作ったり、洗濯物を日向で乾かしたりすることは、幾分と久し振りに感じられた。一度包丁の使い方を誤って指から血が出てしまったが、私は傷の処置をするでもなく、自分の中の血が赤いということにしばらく見とれていた。色が見えるというのは、中々来れない場所に旅行に来た感覚と似ている。

 頭の片隅にはずっとミカがいた。もしも彼女との出会いが違った形のものだったらどうだろうな、と私は考えた。私はパン屋の店員で、彼女はそこの常連客だったらどうだろうか。店で話す間に仲良くなって、二人きりで出かけるようになったとか、あるいはもっと違う形でも、人の出会い方というのは多種多様にあるはずなのだ。そしてほとんどの出会い方であれば、彼女の孤独や私の立場に悩まされることはなく、純粋に私と彼女の気持ちだけで決められるはず。いや、どうだろう。私の思考は一度そこで立ち止まって振り返った。どのような出会い方でどのような関係であっても、私と彼女の気持ち以外に何を考えることがあるというのだ? 私は一度面倒なことを取り払って、聖園ミカという女性だけを見つめてみた。良い所ばかりではない。考えが甘くて、人の頼り方を分かっていない部分もある。そういうことを知れたのはこの出会い方をしたからだろうな、と思った。総合的に見て、どれだけ言い訳をしても、私が彼女に惹かれているのは言い訳のしようもない事実だった。私の思考はもう一度歩き始める。そこはアルジャーノンが解いたような、複雑で入り組んだ迷路だった。

 

 小屋の外を散策しているときに小道を見つけて、せっかくだから行ってみようとセイアに提案した。彼女は読んでいた本に栞を挟み込んで、椅子を引いて立ち上がった。

 小道は山の麓の方へ続いていて、三分ほど歩いた辺りで急に視界が開けた。海が大きく見えた。

「海岸線まで降りてみよう」

 

 日の落ち始めの空を反射した海は、水しぶきの一粒ごとがきらきらと光っていた。浅瀬なら底が見えるほどに水は澄んでいて、海岸には私達以外の誰もいないし、何もなかった。そんな様子だから、海岸線に漂着している海流瓶に気付くのはそれほど難しいことではなかった。

「む?」

 先にそれに気づいたのは彼女で、屈んで拾い上げてみせた。砂を払うと、中には手紙が収められていて、彼女は不思議そうに眺めていた。

「手紙?」

「はて、私の記憶が正しければ白雪姫にこのようなものは登場しないのだが」

「開けてみようか」

 木で随分と硬く栓がされているせいで、大きく息を吸って力んでも、中々外すことは出来なかった。一分くらい格闘した後、栓は気が抜けるほど軽い音を鳴らして外れた。中には紙が二枚入っていて、私は濡れないように服で手を拭ってからそれを抜き取った。

 

手紙(一枚目)

   もうすぐ産まれる貴方へ。

 

 手紙の頭を読んで、すぐに差出人を見やった。そこに刻まれていたのは、もうずっと見ていない、母の名前だった。名前の文字がまるで顔を見た時のような深い安堵感を与えてきて、極めて自然に嗚咽と涙が漏れた。

 セイアは私が手紙を読んでいる間、声を掛けることなく静かに私を見守っていた。きっと私は相当取り乱した表情をしていたのだろう。

 私は夢中になって手紙を読み進めた。日付は私が産まれた三日前になっていて、少しの言葉が書かれた一枚目の後には、水彩画の描かれた一枚の絵が続いていた。私が九歳のときに死んだ母は、絵を描くのが好きだった。その絵の左下には、「病院の窓からの景色」と書いてあった。

 単調な青空が広がっていて、建物群や街路樹が、その葉の一枚に至るまで丁寧に描かれている。記憶にある限りでは、私はその絵を見たことがなかった。私に色が見えないと分かったときに捨ててしまったのだろうか。

 

「あの手紙には何と?」

 セイアとようやくまともに会話が出来る心持ちになるまでに、海はすっかり暮れきってしまっていた。もう月が出ていて、私は身体中の水分を使い切って泣いたような気分だった。

「死んだ母からの手紙だったよ」

「……そうか、あれは君宛の」

「不思議なこともあるんだね」

 私は手紙を丁寧に畳んで、胸のポケットに入れた。カイロを入れたようにじんわりと、胸に熱が広がった。

 

 毒林檎は唐突に私の前に現れた。静かに本を読んでいたセイアにおはようと声を掛けたのと同時に、彼女が向き合っている机に一つの林檎が置いてあるのに気が付いた。

「おはよう、先生」

「うん。それが?」

 私はテーブルの上の林檎を指して言った。

「毒林檎だよ」とセイアが言った。「急ぐ必要もない。まずは顔でも洗って来たらどうだい?」

 彼女に言われた通り、私は顔を洗い、歯を磨いてから戻ってきた。毒林檎は暖炉の炎よりも黒っぽい赤をしているそれは、時間の経った血が滲んでいるようにも見えた。

 

「どうする、先生?」

「食べるよ」と私は答えた。特に迷うようなこともなかった。

「もう一度言葉にしておくけれど」とセイアは言った。「これを食べれば、君はこと切れる。ミカが助けに来てくれればいいが、来なければ君はずっとこの世界で死んだことになってしまうのだよ」

 私は頷いた。

「それでも食べるのかい?」

「私はミカを信じているし、ミカのことが好きだから」

「そうかい」

 毒林檎をまな板の上に置いて、丁寧に切り分けた。今日の朝食は自殺用の毒林檎だ。死ぬために毒林檎を切っているのは、中々に奇妙な気分だった。時折まな板の上のそれが、小さな自分の分身にも見えた。

 

「遅効性の毒だ。全て食べて、一時間後に死んでしまう」

 皿洗いをする私の背中にセイアが語り掛けた。さっきまで毒林檎が乗っていた白い皿は、毒の一滴も残さないほど綺麗に流されて流し台の横に立て掛けられた。

 これから死ぬんだな、という漠然とした理解が頭の中にあった。今日の日が沈むまでにミカが来れば助かるし、ミカが来なければ助からない。窓の外の太陽は空の真上くらいまで昇っている。それらは作り話のように実感のない靄となって私の頭の中にあった。

 

 私が死ぬまでの一時間は、想像もしなかったほどゆっくりと過ぎていった。時間の進みが遅すぎて、何かの手違いがあったのではと思うくらいだった。

「これから死ぬというのは、どんな気分なんだい?」

「思いのほか悪くない気分だよ」

「ミカは真に君を思っているよ。変わろうとしているし、実際に変わってもいる。しかし、いささか自罰的だし、そのくせ幼稚でもある」

「誰しも欠点の一つや二つ、あるものだよ」

「君にもあるのかい?」

「楽観的な所とかね」

 

 いずれにせよ色を見るのは最後になるからと、私は家の周りの色々なものを見て回った。見たことのない草木が小さな実をつけていて、小さな鳥が囀りながらそれを必死に啄んでいた。

 家の周りを散歩するだけのつもりだったのに、セイアもついて来た。すぐに戻ってくると言ったけど、戻るまで毒がまわっていない確証はないからということだった。あまりに実感が湧かな過ぎて忘れかけていたけど、確かに私は死ぬのだった。死は着々と私に近づいてきている。知覚できない死の予感というのは、知覚できるものよりは怖くない。

 花を見ていた。おそらくは見たことがあるけれど、名前がすぐには思い出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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