ゆっくりと微睡の中から意識を覚醒させると、ミカは色のない駅舎にいた。古いテレビのように世界は白と黒のみで表現されていて、駅舎の外にはほとんど何も存在しなかった。そして駅舎の中でさえ、本来居るべきはずの人の姿や、在るべきはずの柱や階段の一部が欠損していた。ここは夢の世界なのだ、と彼女は思った。
「待っていたよ、ミカ」
「夢?」
「そう、これは夢に他ならない」
「大変なの、禁書が粉々になって」
「そんなことだろうと思ったよ」
「先生の所に行ける?」
「ここからでは無理だ」とセイアはきっぱり言った。「しかし方法を見つけた、手紙だ」
「手紙?」
「現実で彼に宛てた手紙が、本の世界にまで届くのを見たんだ。ミカ、目が覚めたら彼に手紙を書くんだ」
「何でもいいの?」
「何でもは良くない」とセイアは言った。「恋文でも書けばいいんじゃないかい?」
ミカは顔を赤くした。
「ね、ねえ、やっぱりキスをする以外に方法はないの?」
「ない」セイアはきっぱりと言った。「それに、こんな形とはいえ君は望んでいたことではないのかい、ミカ?」
ミカは何も言い返せなかった。恥ずかしさもあったが、言い表しようのない複雑な迷いを覚えていた。
「すまない、ミカ」
しばらくの沈黙の後、唐突にセイアがそう言うものだから、ミカはえっ、と頓狂な声を出した。
「君のことを考えず物事を運んでしまって」
セイアの言葉は、駅舎の中により深い沈黙をもたらしたようだった。生温い風が頬を撫でている。
「大丈夫」とミカは答えた。「そうしないといけないくらい、急ぎのことだったのも分かってる」
ミカが目を覚ましたとき、太陽は空の真上にまで登っていて、時計の針はぎりぎり午前を指していた。
「主は何と?」
起き抜けにベッドから出た所でシマエナガに言われた。まだ頭がまわっていないせいで、それが誰の声なのかが数秒分からなくなっていた。
「手紙を書いてって。手紙なら届くから」
長いこと眠っていた影響で、寝起きの声は掠れた酷いものだった。
「なるほど」
「便箋の方がいいかな? 家にはないと思うから、買いに行かないと」
「であれば急いだ方がよろしい」とシマエナガは言った。「あまり時間はあらない。刻限は厳密に今日の日没までだ」
「分かった」
コップ一杯の水を飲み、洗面台に置いたままで着替えを始め、最低限の荷物だけを入れた鞄を片手にミカは部屋を飛び出した。何かを追いかけるように足は早く動いた。
それらしい便箋の五枚入りを買ってきて机に置いてみたが、書き出すというのは簡単なことではなかった。白紙の便箋には指をかける掛かりのようなものがなく、例えるならただの壁を登っていかなければいけないような気分だった。
万年筆を握ったままで、ミカはしばらく悩んでいた。紙の端を装飾する薔薇の飾りの花弁を数えていた。急がなければいけない。しかし適当に書いてはいけない。まずは書き出さないことには始まらない、と思って、宛名を書いた。
「先生へ」
はやりそこから先は迷ってしまった。言いたいことは沢山あるし、言うべきことも沢山あるはずなのに、それらを伝えられる丁度いい背丈の言葉が見つからずに四苦八苦していた。
「ねえ、何を書けば良いと思う?」
「自分で考え給えよ。そして自分で考えなければ、意味はあらない」
「……自分で」
ミカは本文の一文字目にペン先をつけて、迷いながらゆっくりと走らせていった。
シマエナガは長い間ミカの後ろ姿を見ていた。しかしやはり何も言わなかった。
二枚目の最後まで言葉を詰めた後で、引いた目線で手紙を見てみると、奇妙な言葉が羅列されているようにしか見えなかった。今の今まで書いていたのに、書き終えてみると何を書いたのかほとんど思い出せなかった。
じっと見つめていると、文字の一つ一つが動き始めたように見えた。はじめは目の錯覚のように思ったが、じきにその動きは大袈裟になっていって、最後には揺らめいている炎のように大きくなってミカを取り込んだ。紙が風にはためく耳障りな音がどんどん大きくなり、視界はどこからか現れた部屋の中で暴れまわる紙の大群に遮られた。
次にミカが目を覚ましたのは、つい数時間前に見た色のない駅舎でのことだった。起き上がろうと地面に手を着くと、大きな砂粒が手に平にまとわりついた。
「どうやら上手くいったようだ」
シマエナガはミカの肩に乗っていった。
「先生はどこ?」
「ここから離れた場所に光が見えるね?」
シマエナガは線路の先を指した。そこには光のような何かが見えたが、あまりに遠すぎてそれが何の光なのかは分からなかった。
「列車は来ない。走らねばなるまい」
「線路の上を?」
「時間はあらない。色の見えない空では、それが分かりにくいが」
すぐにでもプラットフォームを飛び降りようと考えた所で、ミカは自分が裸足であることに気が付いた。
「靴はそこに」とシマエナガは言った。
つま先が揃えられた新品の白い靴が、駅のベンチの上に置かれていた。小さな薔薇の装飾が施されている、綺麗な靴だった。
「急げ、時間はあらない」
初めて履いたとは思えないほど、靴は彼女の足に馴染んでいた。走りやすい靴だ。彼女は訳も分からないまま走り始めた。とにかくその先に光があって、彼女は手を伸ばした。指は何にも触れなかった。光はずっと、彼女のほんの少し先にあった。
逃げ水と追いかけっこをするような、感触のない疾走をもう十分も続けていた。ある瞬間、あるいは境界線を境に世界に色がついて、何もなかった景色に草木や現れた。美しい景色だったが、ミカの目に真っ先に留まったのは、橙色の太陽だった。
息は切れ切れ、手足も痺れる。足先の感覚はほとんどなくなってきていたが、ミカにとってそれは些細な問題だった。肩に乗ったシマエナガはまるでしがみつくように彼女の服に足で掴まっていた。
そうしてやっとの思いで走り続けた先にセイアが見えた。そのときミカは、身体の中から臓器が出てきてしまいそうなくらいへとへとだった。
「間に合ったようだ、ミカ」
セイアは月の出だした空を眺めながら言った。
「頑張ったね、信じていたよ」
「先生は?」
「中に」
呼吸を整えながら小屋の中に入ると、先生はベッドの上に横たわっていた。眠っているのとは一目で違うのが分かった。呼吸のために胸が上下することも、寝息も聞こえなかった。温かみと音を欠いたそれは、まごうことなき死体だった。
一度落ち着いた呼吸は、再び乱れ始めた。さっきまでの規則正しい呼吸ではなく、浅い不揃いな呼吸だった。目の前で愛する人が死んでいる様は、様々な状況説明があっても受け入れがたいものだった。
「目を瞑っていた方がいいかい?」
ミカが振り返ると、シマエナガはセイアの手の上に戻り、小さく踊っていた。元の鞘に収まったような、見慣れた光景だった。
「どっちでもいいよ」
キスをしなければならない、とミカは確かめるように強く思った。しかしいざ彼の顔を前にすると、ひどく入り組んだ複雑なことのように思えてきた。キスをするとき、一体どのような唇をすればいいのだろう? ファーストキスはミカに激しい戸惑いと迷いを与えてきた。
カーテンの隙間から西日が差し込んできて、彼の顔を照らした。何度も妄想した彼とのキスは、望まぬ形であれ実現しようとしている。
「ねえ、セイアちゃん」とミカは言った。「先生には私とキスすること、ちゃんと伝えてるの?」
「言ったよ。そしてその上で君を受け入れると言っていた」
「……ありがとう」
彼女は小さく息を吸って、唇を触れさせた。その温かみのない彼の唇に熱を伝播させるように、ゆっくりと時間をかけて。
「ファーストキスは先生から欲しかったな」
唇を離した後でミカは言った。
「終わったかい?」
「これで大丈夫なの? 先生起きないけど」
「すぐには解けないだろう。しかしキスしたのなら大丈夫な筈だ」
「そっか」
キスを見届けた太陽は沈み、空は青黒く染まり始めて一気に暗くなった。
まだしばらく時間が掛かるから、紅茶でも飲みながら話をしよう、とセイアに言われて紅茶を淹れた。何にどのような時間が掛かるのかミカには分からなかったが、とりあえず席に着くことにした。
「どうやって出るの?」
「焦らずとも自然に出られるだろうよ」
シマエナガには平皿の水を用意した。
「手紙を書いてここに来たんだね?」
「うん、セイアちゃんに言われた通り」
「ここから出た後で、その手紙を畳まずに燃せば、先生はここの出来事を覚えていることになる」
「畳むと先生は忘れちゃう?」
「多少の間は覚えているだろうが、それもじきに忘れてしまう。世界との繋がりを失うというのは、そういうことだ」
どこからか汽車の音が聴こえてきて、それは次第に大きくなった。静かな夜に圧倒的な異質さを持つその音は、眠りかけたミカを覚ますには十分だった。
「来たようだね」
ミカが疑問を口にする前にセイアが言った。
小屋の外に出ると、線路のない山の中に蒸気機関車が停車していた。地面と車輪のつなぎ目は煌びやかに光っていて、蝶の鱗粉のような輝く粉が舞っていた。
「先生と、あとこの子も連れて君はこの列車に乗るんだ」
「セイアちゃんは?」
「私はその列車では帰れない。元の世界に戻ったら、また話そう」
「うん」
ミカはベッドで眠っている彼を背負った。キスをしたときには微塵も感じられなかった生命の温かみが微かにあり、耳をすませば小さく心臓が鳴っているのも聴こえた。
「ありがとう、セイアちゃん」
「私は何もしていないよ」
ミカが乗り込むために足を上げると、空中に光のスローブができた。背の高い先生を完全に背中に背負うことはできず、彼のつま先は地面を引いていた。