前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
息をするように伏黒甚爾は生きている。生きてるから息をするんだってね、ヘヘッ、うまいこと云ってしまったな
「ひぎぃ」
「うわ、色気ねぇ声」
云うに事欠いて、それですか。
我ながら、潰れたカエルのような声が出たとは思う。
多分、普通の女の子だったら『きゃっ』とかそういう感じの可愛らしい声を出す場面なのかもしれない。でも私は別に可愛い女の子ではないので可愛い声は出なかった。
だいたい、いきなり両手で腰回りを掌握されて可愛らしい反応なんてできっこないじゃないか。普通にびっくりした。
「つーかお前、ちゃんと飯食ってんのか? ぺらっぺらじゃねーか。内臓どこにあんだよ」
「いやちゃんと食べてるし内臓は詰まってますよ」
別に私、ガリガリではないと思う。太ってはいないけど痩せてもいない、あえて云うならまぁ多少痩せ気味というやつだ。細いってのは硝子みたいな子のことを云うのだ。
甚爾さんは心底不可解そうな顔で私の腰をべたべた触っている。いや、あの。セクハラでは? 犯罪行為では?
厭らしい手つきではないので不快ではないけど、なんか落ち着かない。そもそも甚爾さんが私のようなちんちくりんをどうにかしてやろうなんて思うわけもないし。
でも、考えてみてほしい。
甚爾さんは天与呪縛のフィジカルギフテッドの持ち主だ。
呪力がからっきしでも、パッと見ただけでわかるほど鍛え上げられた肉体を持っている。
その甚爾さんなら、やる気になればこのまま私の腰をギュッとやって私を真っ二つにすることなんて簡単なのだ。えぐい。
怖いと思いませんか。
私は怖い。
下手に騒いでギュッとされたらたまらないので、私はおとなしくされるがままになっていた。
そうして虚無の顔で甚爾さんが満足するのを待っていたら、いきなり訪れた浮遊感。
甚爾さんが私の腰を掴んだまま、そのたくましい腕でまるで小さな子供にするように私を持ち上げたのだと気付いたのは、呆気に取られて目を開けた時だった。
「軽ッ」
「ぎゃー!? 待って待って普通に怖いんですけど!?」
よく少女漫画なんかである、『軽いな、まるで羽が生えているみたいだ』とかいうシチュエーション、あれをときめきだけで恐怖心もなくやり過ごせるのはきっと少女漫画ヒロインだからに違いない。
だって少女漫画ヒロイン適正皆無な私は、こんなにも恐ろしい。ドキドキの意味が違うでしょうが。
いわゆる高い高いの格好のまま微動だにしない甚爾さんの筋肉は称賛に値するけれど、やられているこっちはたまったもんじゃない。
怖い。
だって今目線が甚爾さんより上にあるのだ。
普段160cm前後の平均身長からいきなり1m近くも上に持っていかれ、しかも足場はなくただ甚爾さんの腕に支えられているこの状況、冷静でいろというほうが無理がある。ちょっと泣きそう。
まさか私がこんなに怖がるとは思っていなかったのか、少々驚いたように目を瞬いた甚爾さんは漸く私を地面に下ろしてくれた。地面に足がつくとこんなにも安心できるものなのか。ありがとう地面、当たり前すぎて有難味を忘れていたよ。先輩と結婚できなかったら地面と結婚しようかな。
「思ったより軽くてびびったわ」
「知的好奇心を探求するのは結構ですけど、私以外でやってもらえます!?」
「他の奴だとごちゃごちゃうるせーだろ」
「じゃあ私も今後はごちゃごちゃ云うのでやめてください」
「聞こえねぇ」
「むぎゃー!!!」
甚爾さんは私を子ども扱いしすぎでは?
大きな手でほっぺたを掌握されて誠に遺憾。私は自分が超絶可愛い美少女じゃないことを自覚してるけども、だからといって醜態を晒しても恥ずかしがらないほど羞恥心は捨ててない。
わかりますか?
美形と呼んで過言ではない甚爾さんに至近距離でほっぺたむぎゅむぎゅされて不細工面を拝まれている一般人の気持ちが。
ビニールで作られたアヒルのおもちゃのようにむぎゅむぎゅし続ける甚爾さんの腕を叩いてみてもびくともしない。鳩尾めがけてパンチを繰り出してみても私の拳がダメージを負っただけだった。
この筋肉ダルマ。口に出さずにそう考えただけなのに、何故か甚爾さんは目を細めてにやりと笑った。
ひぇ。
美形のその顔は駄目ですって、心臓に悪いですって、怖いですって。
っていうかそもそも今は授業中で私は甚爾さんに游雲の扱いの指導をしてもらっているところだったのだ。
これまでの人生で武器なんて箒とモップ(あとゲームの中でなら消火器とか椅子とか熊の置物とかエクスカリバールとか伝説の剣とか)くらいしか手にしたことのなかった私が、易々とこの特級呪具を使いこなせるはずもなく、自分の身体に当たるわ手からすっぽ抜けるわ、これっぽっちもうまくいかない。
じゃあどうして大人しく高専の保管庫に戻さないのかというと、これは甚爾さんの計らいだった。といっても決して単純な優しさなんかではない。自分が使っていた武器を黙って高専に取り上げられるのが面白くないから、だそうだ。
更にどうして私なのかと云うと、五条は術式があるので武器なんか必要ないし、夏油も呪霊がいるし体術そのものも玄人並、硝子は戦闘向きじゃない。
消去法で私だ、と。
いや、あの、私も出来れば戦闘員ではないと思いたいんですけど。
そんな主張は当然の如くシカトされ、自分の身は自分で守れた方がいいだろう、という非常にそれっぽい、しかし浮かべる笑みが綺麗すぎて逆に嘘っぽい甚爾さんによって強引に決定された。上もそれでいいらしい。もっと反対していいんだよ腐ったミカンさんたち。
まぁそんなわけで甚爾さんが高専に来ているときはこうして特訓してもらっているわけだ。成果は訊かないでほしい。痣ばっかり増えてることとは何の因果関係もありません。
で、いつも通りの特訓中、武器がすっぽ抜けるのは純粋な握力不足もあるけれどそもそも握り方が悪いということで、実際甚爾さんに游雲を握ってもらってコツを教わっていたところだった。
同じに見えるんだけどなぁ。でも教えてもらった通りに握ってみたら確かに力が入りやすいし、手からすっぽ抜ける頻度も減った。あとは握力付けろだそうだ。はい。か弱い女の子ですみません。
いやしかし、甚爾さんってがさつで適当でめんどくさがりでがさつでがさつで人にものを教えるのなんて全然向いていなさそうなのに、なかなかどうしてわかりやすい指導をしてくれる。がさつだけど。
五条や夏油と手合わせしてるときはかなり激しいし、あれ本気でやってない? と思うこともしばしばだけど私を相手にしているときは明らかに私に合わせてくれているのがわかる。ちなみに硝子はこういう授業中はやることがないのでだいたい見学しているか、今日みたいに保健室にいることが多い。
やっぱりなんだかんだ云って甚爾さんって優しいんだよなぁ。というか、悪い人という感じが全くしないのだ。
美形だけど悪人面なのに不思議だなぁと考えて、ふと思いつく。
甚爾さんには呪力が全くない。
で、呪力とは人間の負の感情から生まれる『負のエネルギー』。
つまり、甚爾さんには負のエネルギーがないということ。
それって、甚爾さんは負の感情自体持っていないってことなんじゃないだろうか。
いやまぁ腹が立つとか痛いとか苦しいとか純粋に感じることはあったとしても、呪力にならない程度のものでしかない、とか。うーん、ちょっと難しい。
とにかく、私は甚爾さんは決して悪い人ではないと思っている。
禪院家を出てからのことは詳しくは知らないし、何をしていたか多少の想像は出来ても、それがいわゆる悪行ではないような。
例えば何かを殺したり壊したりしていても、悪意を持ってそうしたのではなく、それが依頼だったから遂行したというだけなんじゃないだろうか。
だって、弱っちい私が傍に居ても甚爾さん殺そうとしたりしないし。
もちろんそれだけが理由じゃないけど。
でも甚爾さん、恵くんと津美紀ちゃんのお父さんだしなぁ。やっぱり悪い人ではないと思うんだよなぁ。意地悪なだけで。
物理的に地に足ついたことで安心した私が甚爾さんについて思いを馳せていると、ぱちっと合った視線。
それから、にんまり笑って私の頭をぽんぽんと撫でる甚爾さん。
ずるい。ずっるい。
だって、そんな顔されたらこれ以上怒れないと思いません!?
私が世界一好きなのは夏油の顔だけれど、人並みに美形は好きなのだ。
ついでに普段のニヒルな甚爾さんを知っていると、このいつもよりちょっとだけ優しそうな顔はギャップが過ぎる。これは照れる。
顔が赤くなるのは絶対仕方ない、私のせいじゃない。甚爾さんが美形なのが悪い。
これがプロのヒモの実力か、と内心感心していると。
――ゾワリ
急激に感じた悪寒は、殺気に似ていた。
咄嗟に游雲を構えてあたりを見回したけれど、そもそもここは高専の結界内だ。外部からの敵なんてよほどのことがない限りあり得ない。
まさか高専に保管している特級呪物を狙いに来た何者かがいるのだろうか。原作で偽夏油が真人を使って呪胎九相図を盗み出したように。
考えて、けれど即座に否定する。
あれは偽夏油と真人がいたから実行できたことだ。やろうと思ったって、その辺の呪詛師程度に実行できることではない。五条も夏油も甚爾さんまでいるようなこの状況では、あまりにも非現実的すぎる。
そうしてハッとする。
勢いよく心当たりのある方向を振り返って、力が抜けた。
……この殺気の犯人は、夏油だった。
「何か云い残すことはあるか」
「傑、それ俺のセリフ」
メタるな。ついでにそのセリフは私に刺さりまくるから本当にやめて。
隣の五条も引くほどのえぐい殺気は、間違いなくこちらに向けられている。
待って待って私多分あんたの一番弱い呪霊けしかけられても死ねるんだけど。なんで玉藻前出してるの。それの出番十年後のはずなんだけど。めっちゃアラート鳴ってるし、普通に怖いんだけど。
思わず甚爾さんの背中に隠れると、更に殺気は鋭くなった。
甚爾さんの腕と体幹の隙間からちらりと覗き見てみたら、夏油は顔も見たことないくらい怖い顔してる。
それはそれで格好いいと思うのだけど、その殺気が私に向いてるとなると悠長にかっこいいなんて云っていられない。
「お前、俺を盾にするとかいい度胸してんな」
「だって私じゃ夏油に敵わないですもん」
あ、あいつマジで私のこと殺したいのか。生きていてほしいなんて云ってくれたのは、やっぱりあの場の社交辞令だったのかもしれない。
仲良くなれたと思っていたので、これは本気でショックだった。
だって甚爾さんの後ろに隠れて余計に怒るってことは、そういうことだろう。
ちょっとしゅんとしていたら、首だけ振り返った甚爾さんが不思議そうな顔をして云った。
「お前、それ本気で云ってんのか」
「え? 何がです?」
「…………」
途端、甚爾さんは呆れたような顔をした。えー。えー!
どうしてそんな可哀想なものを見る目をされなければならないのだろうか。確かに夏油に勝てないから甚爾さんを盾にするような情けない女かもしれないけれど、だってしょうがないじゃないか、私は雑魚、向こうは特級。死にたくないなら逃げるしかない。甚爾さん、ちょうどいいところにいたんだもん。そりゃ盾にもするでしょ。
そんなわけで盾よろしくお願いします。
ぐいぐい押してもびくともしない甚爾さん本当なんなの。
まぁなんだかんだで甚爾さん優しいし、ここにいる限り私が夏油に殺されることはないだろう。
でも結局どうして夏油が怒っているかわからない以上、今後の関係には大きな支障が出てくるはず。なんとかしてお怒りの理由を探らなければ。
でもどうしたもんかなぁ、あの顔、とてもじゃないけど人の話聞けるようには思えないんだよなぁ。
夏油は沸点こそ高いけれど、一瞬で沸いて一瞬で覚める五条と違って、一度怒ると長続きするタイプなのだ。めんどくさい、もとい扱いにくい男である。
しかも今の場合、夏油が怒る理由に全く心当たりがない。
だってさっきまで私は普通に甚爾さんに指導を受けていたし、五条と夏油はふたりで手合わせしていたはず。
そこで五条と喧嘩になるならともかく、何故こちらに殺気が向くのかさっぱりわからない。
「いつまでそうしているつもりだ」
出来ればあんたの怒りが収まるまで。
と云いたいところだけど、そんなこと云ったら余計火に油を注ぐような気がして何も云えない。ついでに甚爾さんも何も云わない。助けてくださいよと小さい声で云ってみたけれど、めんどくせ、と小声で返された。んもー!
こうなったら無理やりにでも甚爾さんと夏油をぶつけて、その隙に硝子のところに逃げてしまおうか。五条は多分面白がって私の味方はしてくれないだろうから、この場合はちょっと遠くても硝子に頼るのが最適解な気がする。硝子なら私の味方なはずだし。
ではどうやって甚爾さんをぶつけるかと貧相な頭をひねって考えていると、低い声で夏油に名前を呼ばれる。
ひぇ、怖。呪いこもってない?
「こっちに来なさい」
「ぅえっ」
正直あの顔の夏油の近くに行きたくない。
なんで夏油が怒ってるのかもわからないし、何もしてくれないけど甚爾さんの後ろにいる方が安全なような気がする。
そう思って固まっていると、小さくため息を吐いた甚爾さんにまるで犬猫にするように襟首をひっつかまれて背中を押される。ぐぇ。苦しいんですけど。
「おら、行け」
「え、えーっ、でも……」
「これ以上俺にくっついてたら持って帰って食うぞ」
ダッシュで夏油のところに向かった。私甚爾さん好きだけど、そういうんじゃないんで。
もちろん甚爾さんにそんな気がないのはわかっている。ほら、なんだかんだ云って結局は奥さん大好き人間だからね、甚爾さん。
でも一応私もうら若き女子なわけで、貞操観念くらいはあるんです。
明らかに怒っている夏油と不穏なことをいう甚爾さん、天秤にかけたら今後のことも考えて、大人しく夏油の云うことをきいておいた方がいい気がした。
ちょっと甚爾さんを気にしながら夏油のところに行くと、玉藻前を引っ込めた夏油は打って変わった笑顔で迎えてくれた。
あ、あれ? 殺気は?
直前まで視線だけで死ねそうな殺気ばしばし放ってたはずなのに、私に向ける笑顔には殺気はこもっていないし、嘘でもないような気がする。
私が来たことにホッとしているようだし、あれ、殺気は気のせいだった?
と思ったのも束の間、私から甚爾さんに視線を移した瞬間再び冷たい殺気が放たれる。
も、もしかして夏油、さっきから殺気を向けていたのは私じゃなくて甚爾さんに対してだったってこと?
確かにふたりは普段から折り合いが悪いけど、それは初対面の印象が悪かっただけで最近は徐々に軟化していたような気がしていたのに、いったいどうして。
甚爾さん今日は別に夏油とも五条とも話してないのに、と思っていると、もう一度今度は優しく名前を呼ばれて、咄嗟にした返事は変な声になってしまった。
いやだ恥ずかしい。
しかし夏油はそんなことは気にしていないような笑顔で続けた。おい後ろで笑ってる五条、お前あとで覚えてろよ。
「あとで話があるからね」
「わ、私はないよ」
「私があるんだよ」
もーやだよー怖いよー。
なんで笑顔なのにこんなに怖いんだよこの男ー。
案の定五条は笑ってるだけで助け船も出してくれないし、今硝子のところに逃げたら余計夏油怒りそうだし、完全に八方塞がり。
私、今日のことは絶対に忘れない。特に私を売った甚爾さん、許さん。
そういう意味を込めて半泣きで甚爾さんを睨んだら、甚爾さんはだるそうに耳をほじりながら云った。
「そんなに心配なら、首に紐つけて部屋で飼ってりゃいいだろ」
「そういう趣味はない」
「へーへー、そうは見えねぇけどそういうことにしといてやるよ」
「どういう意味だ!? というか生徒に必要以上のスキンシップをするな、淫行教師」
「教師じゃねーし非常勤だしー。羨ましいからってキレんなよ、ガキ」
「羨ましいわけじゃない、この子に触るなと云っているだけだ」
「自分のモノに手ぇ出されんのが我慢できねぇってか? お前、そのうちその束縛癖嫌われんぞ」
「……やはり一度、叩きのめす」
「も、もー! やめてよ夏油、危ないよ!!」
「ちょっと黙っててくれないか。これは私のプライドの問題なんだ」
そんなプライド捨ててしまえ。
だいたい、游雲が羨ましいならそう云えばいいのに。私だって使いたくて使ってるわけじゃないのだから。なんなら夏油が使った方が呪具冥利に尽きるんじゃないか? こんな4級術師に使われるより特級術師が持っていた方が様になるし、今からでも全然譲るよ游雲。
今にも飛び出していきそうな夏油の腕を必死で引っ張りながらどうすればいいか考えていたら、いつの間にか気配を殺した五条が近くにいた。
なんだ役に立たない顔だけ男。
「なぁ、ちょっと耳貸して」
「何!? 今忙しいんだけど!?」
「だから、傑を止める方法教えてやるよ」
にっこりと極上の笑顔を浮かべる五条には嫌な予感しかしない。経験上、こんな綺麗な笑顔を浮かべたときの五条は碌なことをしたためしがないのだ。
が、今の私は藁にも縋りたい。
とにかく、さっきとは状況が違うのだから、このふたりが衝突するのは避けたいのである。どっちも強いから一度ぶつかればお互い……いや少なくとも夏油は軽傷では済まないだろうし、そもそもふたりがぶつからなければならない理由はないはずだ。
仕方なく、五条の耳打ちを受け入れて。
「……それ、余計怒らない?」
「ぜってー大丈夫だからやってみろって」
「……失敗したら五条も地獄に道連れにしてやるから」
五条の提案は、至極簡単なことだった。
でも、同時に非常にハードルの高いことでもあった。
だから不安に思ったのに、何故か五条はこの案に絶対の自信があるらしい。
ほんとかぁ?
疑心暗鬼になりつつも、このいがみ合いが終わるならそれでもいいか、と思いもする。
いやでも。
だってさ。
うぅん。
しかしあまり悩んでいる時間もない。今引っ張っている夏油の腕が離れてしまったら、即バトルが始まってしまうだろう。でも私もいい加減腕が限界。
どうする。
どうする!?
――ええい、ままよ!
「夏油、もうやめて!」
――ぴたり。
「お願いだから甚爾さんとも仲良くしてよ、あんなんだけど結構いい人なんだよ!」
――ぎゅう。
「わ、わかった」
「本当!?」
――ぎゅうぎゅう。
「わかった、わかったから、その」
「じゃあ、約束ね。もう甚爾さんと無駄な喧嘩しないでね?」
「わかった、しない! もうしないからちょっと離れてくれ!!!」
夏油の叫びは悲痛なもので、可哀そうになったので私は大人しく云われた通り離れる。
離れる。
ということはつまり、ついさっきまで私は夏油にぴったりくっついていたわけで。
まぁ、単刀直入に云うと、私は夏油の背中から思い切り抱き着いていた。
これが五条の助言だった。
『傑の背中に抱き着いてみな。ぜってー止まるから』
にわかに信じがたい言葉だったけれど、実力で止めることが出来ない以上私は五条の言葉を信じるしかなかった。
半信半疑だったし、いくらこれっぽっちも異性として意識していなくても顔だけは世界一好きな相手だし、そもそも私には大好きな彼氏がいるのに、彼氏以外の人に抱き着くなんて、と考える自分もいた。
が、多分先輩はそれしか手段がないのなら迷わず実行するべきだと云ってくれると思う。私の頭の中のイマジナリー先輩はそう云っていた。
なので、ことが収まってから先輩には謝罪メールを送ることにして、私は恥をかき捨てて五条の言葉を実行に移したのである。
「効果は抜群だ」
「な、だから云っただろ」
今初めて私は五条を尊敬した。あとで甘いケーキを焼いてあげよう。
私が離れても飛び出して行かず、その場にしゃがみ込んで項垂れてしまった夏油にホッとしていると、甚爾さんがケタケタと楽しそうな笑い声をあげた。夏油から仕掛けなければ甚爾さんは別にやりあう気はないらしい。ああよかった、甚爾さん、こういうところは大人だ。
まぁ発言は子供だけど。
「抱き着かれただけでそれとは、若いねー」
「もー、甚爾さん煽るのも駄目です!」
「へーへー」
そう云って甚爾さんは時間を確認すると、今日はもう帰ると云って一度事務室に向かっていった。ああ、スーパーのタイムセールあるもんね。多分津美紀ちゃんから何か頼まれてるんだろうな。微笑ましい。
甚爾さんが去ったことで、一応この場の収束は出来た。
この様子ではもう夏油も怒っていなさそうだし、五条がへたにつつかなければ大丈夫だろう。まぁもし五条と夏油が喧嘩するなら別に止めないし。いつものことなので。
ところでまだしゃがんだままの夏油くん、いい加減私も凹みますよ。
私に抱き着かれたのがそんなに嫌でしたか、不快でしたか。そんなに立ち直れないほどでしたか。私だって好きで抱き着いたわけじゃないのに、そう落ち込まれると傷付く。
いや、まぁ、うん。
とにかく今は事態の収束を喜んで、根本的な問題解決に努めよう。
ってことで。
「はい夏油、これ」
「……え?」
「え、游雲が欲しかったんでしょ?」
「は?」
「え?」
お互い頭の上にはてなを飛ばしまくっている。五条だけが爆笑して転がりまわっているので、そのまま呼吸困難にでもなればいいのにと思った。
「……游雲が欲しかったんじゃないの?」
「ど、どうしてそうなったんだい」
「だって、羨ましいって」
ぽかん。
顎が外れそうなほど大きな口で固まる夏油に、さすがの私もこれが見当違いなことだったのだと気付く。
「え、あれ、もしかして違う? じゃあなんで夏油怒ってたの?」
甚爾さんが非常勤講師として高専に来るようになってから今まで、任務やらなにやらで夏油が授業を受けたことがなかった。なので、私が游雲を使うことになったのを知ったのも実は今日が初めてだった。
だから、あんな貴重な呪具を私なんかが使うのが面白くないと思ったんだと思ったんだけど。
え、違うの?
多分あとで甚爾さんは文句云うかもしれないけど、上層部は何も云わないだろう。なんなら私よりは夏油が持っていた方が安心だと思っていそうでもある。
だから別に現場の判断で夏油に游雲譲っちゃっていいかなぁって思ったのに。
……違うんですか?
なんだか妙な沈黙が流れた。
私は夏油があんなに怒った理由がまたわからなくなり、夏油は私が何もわかっていないと気付いてさらに大きなため息を吐いた。
何その呆れた顔。顔が良ければ何してもいいわけじゃないんだからな。
ところで五条が笑いすぎて息出来てないみたいなんだけど、大丈夫? 小麦粉持ってこようか? もっと咽って苦しめばいいと思うよ。
ごほん、と気を取り直した夏油は、急に真面目な顔になって話がある、と云ってきた。さっき云っていた、話したいことというやつだろう。
結局夏油が怒っていた理由が謎のままなんだけど、掘り返したら面倒なことになりそうな気がしたので保留にしておこう。あとで甚爾さんに訊こ。
というわけで一応私も真面目に聴く態勢なっているので、そろそろ五条は笑い死んでほしい。
「いいか、君は女の子だろう。あんなやつに身体をべたべたされて黙ってるんじゃない」
「うーん、まぁでも甚爾さんだし」
「は!? 伏黒甚爾になら身体をまさぐられてもかまわないっていうのか君!?」
「やらしい云い方やめてもらえる!? そう意味じゃないし!!」
「じゃあどういう意味だ!! だいたい君は無防備すぎるんだ! 隙だらけだから今日みたいなことになるんだろう!!」
「甚爾さんが私のこと本気でどうこうしようなんて思ってないのわかってるし、あんなのちょっと人との距離の取り方わかんない若干コミュ障入った甚爾さんなりの冗談だよ!! っていうか夏油にそんなこと云われる筋合いないんですけど!!」
「私が嫌だから止めたんだ!!」
「私は夏油の所有物か!? 心配してくれるのはありがたいけど限度がある!!!」
「じゃあ君の彼氏に訊いてみろ、絶対あの先輩は私の味方だ!!」
お前なんで人の彼氏勝手に味方につけてんだ。
◇◆◇◆
その日の夜、私は早速先輩に電話を掛けた。
もちろん今日の出来事を報告するためである。
いつもなら自分の部屋で掛けて先輩との貴重な時間を楽しむのだけれど、今日ばかりは共有スペースのソファを陣取った。
絶対の自信をもって先輩は自分の味方だとほざいた夏油はもちろんのこと、面白そうだからという理由で五条も硝子もいる。見学料取るぞと云ったら言い値で払うとのことなので、その命をもって支払ってもらおう。
というわけでかくかくしかじか。
「先輩どう思います!? 私悪くないですよね!?」
『夏油くんが全面的に正しいね』
「えー!?」
「よかった。先輩は普通の思考回路の持ち主で安心しました」
『ありがとう、夏油くんがこの子の近くにいてくれて本当に僕は安心してるよ』
「な、なんで…先輩まで夏油の味方なんて……」
『あのね。君は少し危機感がなさすぎ……いや、これは今更だね。云っても多分無駄だから、夏油くん、よろしくね』
「任されましょう」
「ちょ、ちょっとぉ! なんで夏油が先輩と仲良くすんのよぉ! やだー!」
『連帯感って生まれるものだよねぇ』
「ええ、本当に」
五条と硝子は後ろで大爆笑していて、夏油は電話の向こうの先輩とわかり合うように息を吐いている。
は?
はぁ?
彼女は私なのだが?
なんで私より夏油と先輩がわかり合ってんの?
全然理解できないんだけど。
「浮気……」
『違うからね』
違うみたいです。安心しました。
そして私の意思を完全に無視した夏油と先輩との間で交わされた会議の結果、私は今後不用意に甚爾さんと接触してはいけないことになった。授業は仕方ないけど、その場合常に夏油が見張っているそうだ。いやお前も授業受けろ~。
というかそんなこと甚爾さん知れたら余計面白がるに決まってるのに、頭良いくせに夏油はたまに馬鹿だと思う。
でも。
『僕、傍にいられるわけじゃないし君たちの詳しい事情とかもわからないけど、いつも心配してるってことだけはわかってほしいな』
なんて先輩に云われたら、答えはイエスかはいかヤーしかないでしょう。ちょろい? 対先輩にだけだから問題ないです。
その後はしばらく雑談をしてから、怪我だけは本当に気を付けて、との優しく温かい言葉を頂き、もう夜も遅いので先輩との電話は終了した。
「私、この前先輩には会えなかったからちょっと残念だったんだけど、良いキャラしてんね」
「でしょう!? 私の先輩は世界一素敵なんだから!!」
「その素敵な先輩に危機感が欠如してるって云われた気持ちはどうだい?」
「夏油嫌い」
「!?!?」
「ぎゃはははははは!!!!!」
「自業自得過ぎてほんと笑うわ」
夏油、ちょっと先輩と仲良いからって調子乗ってませんか。
正直私、先輩が女と浮気してるとか云われたら仕方ないなって諦められるけど、夏油と浮気してるって云われたら正気でいる自信ないんだよね。
ということで夏油、お前は私のライバルだ。負けねーぞ。
「先輩ともあいつとも恋のライバル認定される傑、面白すぎねぇ?」
「もう三人交際してればいいのに」