前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
どうもみなさんこんにちは、この度めでたくこの世界の住人になることを決意した一般通過モブです。
驚くべきことに私には前世の記憶があり、しかもこの世界が前世で読んでいた漫画の世界だというのだから人生ってのは面白い。嘘です全然面白くないです。
ついこの間までは私は漫画のストーリーに沿うために生きていた。
それが正しいことだと思っていたから、そのために死ぬつもりでいたのだ。
だけど、私が死ななきゃ合わない辻褄なら合わせるなと夏油に云われて、漸く私は自分がずっと死にたくなかったことに気付いた。
例え今私が生きていることが間違いなのだとしても。
世界の辻褄に合わないイレギュラーなのだとしても。
私は生きたい。
こんな私の手を取ってくれた人たちと、一緒に生きていきたいと望んでいる。
もしかしたらものすごく罰当たりで傲慢な願いなのかもしれないけれど、この願いが罪で罰だというのなら、神様はどうしてこんなことを願えるように私を作ったのか。
願えてしまえるから、私は願う。
生きたい。
生きよう。
そう決めた。
そうして、私がここにいて変えられる未来があるのならば、変えようと思った。
だって私は、何もしなければ訪れるであろう夏油の結末を受け入れられない。
……というのは少々語弊がある。
前世で漫画としてこの世界を捉えていたときは、そのストーリーを受け入れていたし、そういうものだと思って納得することが出来ていた。
でもこれは漫画の世界でもあの世界と全く同じなわけではないのだ。私がここで生きているのがその証拠だ。
私や、夏油たちにとっても、今生きて存在する人生が世界のすべてなのである。
夏油が非術師を守りたい気持ちと、術師が虐げられることに憤りを隠せない気持ちの間で揺れているのを、目の前でただ見ているだけなんて私には出来ない。
何故なら、今私の前で生きている夏油は、漫画の登場人物じゃない。
私の大切な友人なのだ。
友達が苦しんでいるのを、仕方のないことだと諦めて見ているなんて、そんな薄情な人間にはなりたくない。
だから、私は私にできることをしようと決めた。
「夜蛾先生、お願いがあります」
原作通り、夏油と五条が天元様指名の任務に出てすぐ。
まず私は高専内にいた夜蛾先生を捕まえた。
「私は今から全力で余計なことをします。でも、見逃してください」
我ながら無茶苦茶を云っている。
わざわざ二人で話せるように会議室に呼び出してまで真面目に云う事じゃない。
そんなことはわかっているけど、さすがに夜蛾先生に黙って動くのがどれだけまずいことかもわかっている。
だから、これはお願いや依頼ではなく、ただの宣言だ。
「それは、一体何のために?」
「誰も死なせたくありません」
「誰もとは誰のことだ」
「云えません」
「まさかとは思うが、星漿体のことではないだろうな」
ため息交じりの言葉に、けれど私は頷いた。
「天内理子も含めて、です」
云った瞬間、ビリ、と空気が震えた。
「お前は今自分が何を云っているかわかっているのか?」
低い、夜蛾先生の声。
怖い。
普通に考えて私では夜蛾先生に太刀打ちできないし、純粋にこんな強面な人に凄まれたら怖いに決まってる。
でも、引けない。
「わかっています」
身体よ、声よ、どうか震えるな。
自分自身をそう叱咤し、私はまっすぐに夜蛾先生を見返した。
サングラス越しにでもわかる鋭い眼光が私を捕らえ、見えない手で心臓まで掴まれているみたいに背筋が冷える。
それでも私は視線を逸らすわけにはいかないのだ。
私はこの世界にとって本来異物である。
本当はとっくの昔に死んでいなければおかしかったのに、何の因果か生き延びて、あろうことか生き続けることを選んでしまった。
まったく後ろめたくないと云ったら嘘になる。
だって、あのストーリーが一番の理想だと今でも思っているから。
残酷な未来が待っていても、だからこそあのストーリーは何より美しかった。
それでも。
ストーリーの為に死ぬことばかり考えていた私に、生きて欲しいと云ってくれた人がいたから。
死にたくないと願う自分の気持ちに気付いたから。
私がここにいるのは、世界にとって間違いなのかもしれない。
でも、それでも生きようと決めた。
例え私の存在が間違いであっても、それでもいいのだと思うことにした。
だから私は、優しい人たちの為に、彼らが幸せになるために出来ることは何でもしようと誓ったのだ。
誰にでもなく、自分の魂に。
これは、そのためのまさに第一歩。
ともすれば逃げ出したくなるような恐怖心を振り払い、私は大きく息を吸ってから静かに云った。
「星漿体は、天内理子だけではない。そうですよね」
「!!」
「例え彼女の同化が失敗しても、予備がある。むしろ、そちらが本命の可能性のほうが高い。そもそも、極秘事項である星漿体の情報が漏れたのも、本命を隠すための情報操作なんじゃないですか?」
半分はあてずっぽうだ。
しかし私の予想は、果たして夜蛾先生の顔色を変えるには十分な威力があったらしい。
「お前は、どこまで……」
「何も。先生、私は、そこまで多くのことはわからないんです」
顔色を青くした夜蛾先生に、私はゆっくり首を横に振った。
私は、全部を知っているわけじゃない。
ただ、ほんの少しみんなよりもこの話の結末がわかっている。
天内理子が死に、禪院甚爾は最強に成った五条に殺される。
だけど星漿体である天内理子が死んでも、九十九由基曰く、結局天元は安定している。
それはつまり、天内理子の他に星漿体が用意されていたということにだと予想できる。
ならば、天内理子は死ななくてもいいはずなのだ。
きっとあの物語の背景で、表には出ないような形で天元様の同化は絶対的に保障されていた。
冷静に考えれば、天元様が星漿体と同化できなければ人類の敵となる可能性があるわけで、呪術界は絶対にそれをさせないよう動くに決まっている。同化に関しても何重も保険を掛けていると考えて当然だろう。
多分、天内理子に関してもその何重もの保険の内の一つ。
同化できればそれでよし、出来なくともそこまで困りはしない。
天元様を守ることに比べたら、たかが一人の人間の命も人生も、捨て駒に過ぎない。
「私が持っているカードで助けられる人がいるなら、私は全力で助ける。そう決めました」
間違っているとか、正しいとか、もう考えない。
「天内理子も、その一人です」
いくら私というイレギュラーが発生したストーリーであっても本来死ぬはずだった人を生かそうとするのは、あまりにも大それたことなのかもしれない。
でも。
救いたいと、思う。
まだたくさんのことを経験したいと、大切な人たちと生きたいと願い泣いていたあの子を、私は救ってあげたい。
しばらくの、沈黙。
普段から怒ってる以外の表情はよくわからない人だし、真顔でこちらを見つめてくる夜蛾先生が何を考えているのかさっぱりわからない。
でも、先生は間違いなく優しい人だ。
そしておそらく、甘い人でもある。
「……私は何も聞いていない」
「夜蛾先生!」
「私は今から任務に出かける。その間、お前は自習だ」
目を瞬く。
どういう意味か、一瞬考えた。
先生は任務で、私が自習?
「必要なことをしなさい。ただし、無茶はしないように」
それは、つまり。
見逃してくれるということで。
困ったように笑った夜蛾先生に、私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そうと決まればあとは行動するのみだ。私は会議室を飛び出して、自分がすべきことをするために走った。
今私に足りないのは情報だ。
どうなるか、どうすべきかがわかっていても、とにかく得るべき情報が山ほどある。
一瞬、これから起こることを五条と夏油に未来視したことにして伝えようかとも思った。
でもやめた。
それは、そうすることによって天内理子を助けるための道筋が見えなくなってしまう可能性が大きいと思ったからだ。
だから二人には悪いけれど、特に五条はずっと無下限を発動しっぱなしにするというものすごい負担を強いてしまうけれど、途中までは原作通りに進んでもらうことにした。
今頃は天内理子の通う学校に到着し、呪詛師集団Qと戦っていることだろう。
だから今私は、盤星教『時の器の会』の情報を集める。
夏油曰く元から問題のあった団体だそうだから、叩けば埃は出てくるはずだ。
こういうとき、補助監督として動いていた経験が役に立つ。
懇意にしている窓や機関に手当たり次第に連絡し、盤星教についてのありとあらゆる情報を集めまくった。
すると、出てくる出てくる、きな臭い話。
一部を抜粋しただけでも強要罪、脅迫罪、恐喝罪に横領罪、詐欺罪に略取罪、不動産侵奪罪に有価証券偽造罪……日本国内における犯罪のバーゲンセールである。
報告書をまとめながら、怒りや悲しみを通り越して呆れてしまった。
よくもまぁ今まで警察に捕まらずに活動が出来たものだ。
恐らくそのあたりはうまいこと警察に賄賂を渡したり近場の警察署を買収したりして難を逃れていたんだろうけど、あ、ってことは賄賂罪も追加か。もう役満どころの話じゃなくていっそ面白くなってきた。
いや今は笑っている場合じゃない。
何せこうして情報と証拠を集めて報告書をまとめて、いろんな場所に手を回して盤星教の逃げ場をすべて断ち切るまでに丸々二日使ってしまっているのだ。
ほとんど寝てないけど不思議と全然眠くないのは、ここで失敗したらそれこそ私が生きている意味がなくなるとわかって緊張しているからだろう。
今頃五条と夏油は、天内理子と黒井さんを連れて飛行機に乗って東京に向かっているはず。
もう時間がない。
あとはこの書類を然るべき場所に持って行って事情を説明し、盤星教を締め上げてもらえばいいのだけれど、その前にもう一つだけやることがある。
コネとお金と勝手に高専の名前を使って手に入れた、とある電話番号。
さすがの私も緊張しているので、落ち着くために何度か深呼吸をしてから、意を決して、番号をプッシュしてワンコール、ツーコール。
スリーコール目の途中で通話状態になった電話の向こうの相手に、私は相手が何かを口にする前に先手を打って口を開く。
「こんにちは、孔時雨さん。私と取引をしませんか?」
◇◆◇◆
――いた!!
「伏黒、甚爾さんッ!!!」
人生で初めてってくらいの大声を出した。
こんな場面でまさかフルネームを呼ばれると思っていなかったのか、伏黒さんはピタリと動きを止めてこちらを振り返る。
その間も当然私は足を止めず、全力疾走中。
伏黒さんが銃を構えたままなのは知っていたけど、構わずダッシュして脇を通り抜ける。
これがもし五条や夏油のように実力ある呪術師ならともかく、向かっていくのは弱そうで呪力もほとんどないに等しい私みたいな小娘。いくら伏黒さんがどんな獲物も全力で狩るタイプの人であっても、こんな吹けば飛びそうな雑魚はさすがに相手にもしてくれないと踏んでいた。
予想は当たり、怪訝そうな顔をした伏黒さんは、けれど私が彼の隣を走り抜けるのを見逃してくれた。
ありがとうございます。
心の中でそう叫びつつ、呆気に取られている夏油と天内理子の前に躍り出た私は、その二人に背を向ける形で大きく腕を広げて叫んだ。
「あなたへの依頼は無効になります!!」
「……あん? どういうことだ?」
怪訝そうに眉を顰めた伏黒さんの反応は真っ当だ。
私は寝不足とつい最近まで寝たきりで運動不足だったのが祟って、口から心臓飛び出すんじゃないかってくらい脈は上がってるし心臓ばくばく云ってるけど、これが落ち着くまで待ってもらえるとは思っていなかったので、しんどいのを精神力でなんとか抑え込んで云った。
「『時の器の会』は解体されます。あなたへのもう報酬は支払われない。あなたが星漿体を殺す理由はなくなります」
「ほー、俺が盤星教の依頼で動いてるって知ってんのか。だが、俺はお前を知らないし、お前の言葉を信じる理由はねぇんだよな」
それは当然の言い分だ。
わかっていますと私は頷いてから、もう一枚用意していたカードを切る。
「孔時雨に連絡してみてください。きっと彼は今頃自分の火消しの為に動いているはずですから」
「…………。」
「嘘じゃありません」
胡乱な目で私を睨み付けた伏黒さんは、しかしややあってポケットからケータイを出してどこかへ電話をかけた。おそらく相手は私の言葉通り孔時雨だろう。
素直に私の云うことを聞いてくれたのではなく、今の伏黒さんはもし私の話が本当であった場合を考えた。私の云うとおり時の器の会が解体され支払い能力がなくなっていたとしたら、戦い損の殺し損になる。それを彼は良しとはしなかったのだ。
短いコールの後、いくつか簡単に言葉を交わした伏黒さんは、電話を切って息を吐いた。
それからガリガリと頭を掻き、スッと目を細めて私を見る。
「……お前、何者だ?」
「しがない高専生です」
「ただのガキがなんでこんなことが出来る」
どうやら私の言葉が本当だったと確認できたらしい。
伏黒さんが電話をしている間になんとか息を落ち着けた私は、念の為伏黒さんから目は離さないまま後ろにいる夏油に天内理子を匿うように云っておいた。
伏黒さんなら『時の器の会』に報酬の支払い能力がなくなったと分かればもう天内理子を襲うことはないだろうけど、用心はするに越したことない。何せここで天内理子を殺されてしまったら、私の目的は半分以上失敗になってしまうから。
夏油以上に状況が把握できていない様子の天内理子は、夏油の背中をに盾にしながら夏油と伏黒さんと私を見て完全に困惑顔だ。
うん、わかる、全然意味わかんないよね。
でも、もう大丈夫だから。
絶対死なせないから。
だけどごめんね、それはあなたのためではなくて、夏油を守るためなのだけれど。
でも私の利己的で自己中心的な理由なんて今はどうでもいいのだ。
夏油がしっかり天内理子を守っていることを肩越しに確認し、改めて伏黒さんと対峙する。
いや、これ、めっちゃ怖い。
銃こそおろしてくれたけれど、そんなの関係ない。伏黒さんの身体能力なら、本気を出さなくたって私のことを殺すのはわけない話なのだから。
ゆらゆらと揺らした手は、決して油断しているのではない。あれは、いつでも動ける準備をしているのだ。単に突っ立っているように見えて、瞬時に動けるように重心を取っている。
多分私の話を聞く価値はないと判断した瞬間、伏黒さんは私を殺す。ついでに、後ろにいる夏油や天内理子も殺そうとするだろう。
そうなってはせっかく身体を張った意味がなくなってしまう。
ここが踏ん張りどころだった。
「あなたのおかげですよ」
「はぁ?」
「あなたが星漿体殺害に48時間という制限時間を設けてくれたから、その間私は安心して動けたんです」
「意味がわからねぇ」
苛立たし気に云う伏黒さんに、私はかいつまんで説明する。これは伏黒さんだけではなく私の後ろにいる夏油に向けた言葉でもあった。きっと今頃夏油は私が何を云っているのかわからず混乱しているだろうから、これを聞いて納得してくれればいいと思う。
まず最初に天内理子に時間制限付きで懸賞金をかけたことで、ある程度こちらの能力を把握した何者かが、五条と夏油の力を少しでも削ろうとしているのだろうと気付いたこと。
少なくとも制限時間内には本命である首謀者は出てこないと踏んだ私が、その間出来る限りの情報を集めてこの計画が盤星教『時の器の会』が立てたものだと調べ上げたこと。
非術師のみで構成された『時の器の会』が、孔時雨を経由して伏黒さんを雇ったこと。
そして数時間前、みんながそれぞれに動いている間に『時の器の会』の不正を然るべきに場所に報告し、即座に対処してもらい、事実上『時の器の会』が解体されたこと。
そもそも私は展開を知っていたので厳密には気付いたのとは違うけれど、怪しまれないようにすり合わせるとこんなところだろう。
なるべく余裕たっぷりに見えるように胸を逸らして見栄を張りつつ私は続けた。
「制限時間を設けたのは五条と夏油の神経を削るため。別にその時間内で呪詛師が星漿体を殺せなくてもよかった。ただ、こっちが油断するように偽のゴールを用意するのが目的だった」
「………」
「いくら伏黒さんでも、万全の状態の五条を相手にするのは分が悪いんだろうと思ったんですよね。何せ数百年ぶりの六眼と無下限呪術の抱き合わせですから。結局あなたの目論見通り五条は高専に戻ってくるまでずっと無下限を使いっぱなしになった」
「…………」
「それに気付けてラッキーでした。おかげで私は、制限時間いっぱいを使って念入りに『時の器の会』を潰せた」
「……星漿体を生かしても、五条の坊は死んだぞ」
「死んでませんよ」
「殺したから今俺はここにいるんだろうが」
「あなた、五条の首を落としましたか? 止めを呪具で刺しましたか?」
「!」
「五条は生きています」
そう、五条は生きている。
私が介入したのは伏黒さんが天内理子を撃ったところからで、任務を受けた五条と夏油が向かった先で天内理子がQに襲われたことからついさっきまではストーリー通りに進んでいた。
ということはつまり、死の際で反転術式を会得した五条が今自身の回復に全神経を注いでいるということは決定していることなのだ。しかも今回は、私が硝子を呼んでいるので回復は確実なはず。
だからそこの心配は全くしていない。
いや、全くと云ったら嘘になる。
だって五条が本当に死ぬ寸前の大怪我を負ったということは事実だから。いくら自力で治せるといっても、痛いものは痛いはず。
でも今は、それは考えないことにする。
まず、私にはやることがあるのだから。
「私は、私が手を伸ばして救える命なら救いたいんです。今の場合は、天内理子。そしてそれは、あなたも同じこと」
ぱちくりと伏黒さんは目を見開いた。
かくん、と傾げられた首は、私の言葉の意味を理解できなかったからだろう。
まぁ、敵対しているはずの組織側の人間にこんなこと云われたら混乱するのもわかる。
「あなたは死んでは駄目です」
「――何云ってんだ、お前」
細められた目、ゆらりと動いた手。
殺気なんて込められていない。
一つひとつはなんて事のないその仕草のすべては、しかし私を殺すための予備動作だった。
「今あなたが五条と戦えば、勝つのは五条です。もう五条は、さっきあなたが戦った五条ではなくなっている。そして、次戦えば確実にあなたは死にます」
伏黒さんはもう『時の器の会』の為に天内理子を殺す必要はないとわかっている。
が、それは依頼主が彼に報酬を払えなくした原因である私を殺さない理由にはならない。
その通りだ。
そもそも伏黒さんは天内理子を殺したくて殺すのではなく、お金の為に依頼を受けていた。
お金が手に入らないようになったのは私のせいなわけで、腹いせに私を殺すというのはまぁ理には適っている。こっちはたまったもんじゃないけれども。
でも私にも私の事情がある。
だから、めちゃくちゃ怖いけど私は続けて口を開いた。
「あなたが死んだら恵くんはどうなるんですか」
伏黒さんは、さっきよりも大きく目を見開いた。
私が口にした名前が、誰なのかわかっていないような、不思議そうな顔。
競馬場で孔時雨に名前を出されたときも、誰だっけなんて云っていたくらいだから本当に頭からすっぽり抜け落ちているんだろう。
男だから興味がないとか、息子に興味もないとかそういうことじゃない。
きっと大切な人との思い出が詰まりすぎて、伏黒さんは敢えて恵くんと云う存在を頭から追い出していた。
亡くなった奥さんの忘れ形見。
名前を忘れるほどに考えないようにしないと、伏黒さんは奥さんを亡くしたことを悲しまずにはいられなかったのだ。
それほどまでに、本当は恵くんのことも大切なはずなのだ。
大切な人を亡くした気持ちは、私にはまだわからない。
私の両親は健在だし、祖父母は私が物心つく前に亡くなっている。
ちょっと音信不通になってしまって実はまだ目覚めた連絡も出来ていないけれど、彼氏もきっと元気でいるだろう。
前世でも、身近な誰かが死ぬ前にまず私が先に死んでしまったし。
私はまだ、大切な人を亡くしたことがない。
だから伏黒さんの気持ちは理解してあげられない。
でも、でも。
大切な人がいるという、いたという、その気持ちだけはわかるから。
忘れなければ失った辛さに耐えられないほど大切な人がいたのなら、もしもその人を失ったのなら、それはどれほど――どれほど、苦しいだろう。
そんな人が遺した、たったひとりの息子。
伏黒恵くん。
もしもここで伏黒さんが戦い続けることを選んだら、回復した五条と、肩に傷はあれど不意打ちを食らうわけでもなく手数では圧倒できる呪霊操術の使い手である夏油をほぼ同時に相手にしなければならない。
私だって黙って殺されるつもりはない。どうせすぐ殺されるだろうけど、五条と夏油の有利になる程度の動きくらいはするつもりだ。
途方もないほどに長く感じた時間、私は伏黒さんとにらみ合っていた。
正直に云うと、私の限界はとっくに突破していた。
何故なら、つい先日まで寝たきりだったことを置いておいても、基本的に私は一般人に近いのだ。ちょっと呪力があって使える、一般人に毛が生えた程度の存在。
身体能力はなんなら並以下だし、生まれてこの方ずっと呪術とは無縁の世界にいた私の精神力で真っ向から伏黒さんの殺気に立ち向かっているというこの状況がすでにキャパオーバーなのだ。
絶対に誰にも死んでほしくないという強い意志がなければ、今すぐ泡を吹いてぶっ倒れてもおかしくないのである。
伏黒さんは面倒なことを忌避する性格だから、割とあっさり諦めてさっさと逃げてくれるんじゃないかと思っていたのに、まさかここまで引っ張るとは思っていなかった。
約束の報酬はもらえない、孔時雨は逃げる準備をしている、ここは敵の本拠地で五条は生きているというこんな数え役満で伏黒さんが戦い続ける意味は本来ない。原作通りで云えば、違和感を覚えて逃げ出してくれると踏んでいたのに。
やばい。
怖い。
心臓が痛い。
ほんと何度も云いますけど私は普通なんです、一般人なんです。
こんな強い人に殺気向けられ続けて正気でいられるはずがないんです。
痛いほどの沈黙と、突き刺さり続ける視線。
どうしたら伏黒さんは引いてくれるのだろう。
やっぱり私の考えが甘かったんだろうか。
盤星教を潰すだけでは全然足りなかった?
絶対に伏黒さんを引かせるためのカードを用意すべきだった?
ああ、だとしてももう遅い。
だって私はここまで来てしまった。
今から何か準備なんて出来るはずはない。
中途半端な私が持っているものは何もなく、あるのはほとんど役に立たない術式だけ。
だけどこんなの、伏黒さんを前にしたところで意味はない。
私は、やっぱり間違えた?
碌な力もない癖に、誰かを守りたいと願うなんてあまりにも浅はかだったんだろうか。
今更引くことは出来ないのに、どうすることも出来ない。
ああ、悔しい。
力が欲しい。
守りたいと願ったもの全部を守れるだけの、力が。
どうせ生まれ変わるなら、漫画みたいにすごい能力を持って生まれたかった、と正気を保つための現実逃避をしていたそのときだった。
「おい、何やってんだ」
伏黒さんの、後ろ。
薨星宮本殿の入り口に現れたのは。
「――五条!」
すっかり怪我を治した状態の五条だった。
原作では盤星教本部星の子の家に姿を現した時と全く同じ格好で。服はぼろぼろだし大量の血液がこびりついているけれど、きっと硝子が回復を手伝ったおかげだろう。見た目はとても痛々しいが、一応無事なようでホッとする。
「……なんで傷が治ってる?」
「反転術式です。あなたがとどめを天逆鉾で刺さなかったから、五条は自力で反転術式を使って治しました」
「……お前、俺にそんなこと話していいのかよ」
もしここで伏黒さんが五条と戦えば、今度こそしっかり天逆鉾を使ってとどめを刺すだろう。私が今小声で話した情報は、そうさせるだけの決定的な理由があった。
でも、別に私はそのために教えたわけじゃない。
これは、ちょっとした賭けだった。
ゆらり、と五条の身体が揺れて、一歩足を踏み出した。
その視線はまっすぐ伏黒さんに向かっており、視界に入っているだけで刺すような殺意に息が詰まりそうだった。
これでわかった。
五条は、やっぱり五条悟だった。
五条悟は、最強に成った。
私がストーリーに介入したって、どう足掻いても五条は最強に成るのが決まっているのだ。
五条は、上機嫌になって自分が今この場に立っていることの説明をした。
さっき私が伏黒さんに耳打ちした内容を、事細かに。
術式の開示とはまた違う、単なる情報開示。この展開を私は知っていた。
だから私は咄嗟に、伏黒さんに背を向けて大きく手を広げた。
ちょどそれは、さっきまで夏油と天内理子を守るようにしていたのと、同じポーズ。
そう、それはどこからどう見ても、五条から、伏黒さんを庇うように。
五条は面白いほど顔を歪めて、術式反転【赫】の構えを取った。
それは伏黒さんに向けてだけれど、私は直線上にいる。もし五条が【赫】を放てば、当たっても吹っ飛ばされて打撲程度で済む強靭な肉体を持つ伏黒さんと違って私は死ぬだろう。
足が震えそうに恐ろしかった。
だって私は死にたくない。
「おい、そこどけ。そいつを殺す」
「駄目。殺させない」
「何云ってんだ? それは敵だろ」
「もう敵じゃない」
「ああ!?」
普段の五条からしたら、ここまで私に付き合ってくれているだけで十分すごいことだった。
だって五条からしたら私は今とち狂った行動をとっているはずで、ついさっき伏黒さんに殺されかかった五条が問答無用で【赫】を放って私もろとも殺そうとしてもおかしくない。
そうしないのは、キレていても五条悟という人間が実は非常に理性的だということだ。伊達に天才じゃないってことか。
ただ、今はその理性がありがたい。
最強に成った五条が私程度殺すのはわけないはずだ。指を弾けばきっと私なんて簡単に消し飛ぶだろう。
あの傷を自力で治した五条は、今ハイになっている。
とてもじゃないが冷静とは程遠い状態だ。
もともとが気まぐれな性格だし、本来敵である伏黒さんを庇っている私のことをノリで排除しようとしてもおかしくない。
それでも、引かない、引けない。
私は五条に伏黒さんを殺させたくない。
私は伏黒さんに死んでほしくない。
だって私は伏黒さんに個人的な恨みなんてないし、嫌いじゃない。むしろはっきり云って好きですらある。もちろん恋愛的な意味ではなく。
彼は悪ではないのだ。
世の中を善悪で分けるつもりはないけれど、仮にそうしなければならないなら、伏黒さんは善だと思う。少なくとも、どうしようもない悪ではないからだ。
ちょっと力の振るいどころが違うだけで、本当ならば稀代の術師になれたはずの人。
もしも彼が味方になってくれたら、とても心強いと思う。
そうして私にはこのときなんとなくの確信があった。
伏黒さんは、きっと私たちにとって良い存在になる。それは都合がいいとか使い勝手がいいとかそういう問題ではなく、伏黒さんのような存在がいるだけで私たちが守れるものの幅が広がると、そう思ったのだ。
何の証拠もないけれど、これは確信。
だから絶対に、五条には殺させない。
今この場での和解は無理でも、せめて穏便に解散したい。
ただ生憎割と精神的にギリギリな私から、いくらハイになっていても理性を持っている五条を納得させるだけの言葉なんて出てくるはずもなく、ただ徒に時間が過ぎていく。
思えば、私はこの時初めてサングラスを外した五条と目が合った。今まではまともに顔を合わせていなかったし、医務室で話した時もサングラスをしていたから。
完全に覚醒した無下限と、六眼。
頭の裏側まで見透かされた気分になったけれど、実際その六眼が何をどこまで視られるのかはわからない。
少なくとも術式を読み解く程度には視える目に、私は一体どういう風に映っているのだろう。
前世の記憶を持って生きる私は、当たり前の人間なのだろうか。
もしここを無事に乗り切れたら、ちょっと訊いてみようか。
すると、私の背後にいた伏黒さんが、ハッと皮肉そうな息を吐く。
「あのな、お嬢さんよ。お前、なんか勘違いしてねぇか」
その言葉に、ちらりと一瞬だけ肩越しに伏黒さんを見、すぐに五条に視線を戻しながら問う。
「ご説明を」
「確かに報酬は支払われねぇかもしれねーが、なんで俺が今この状況で引く理由になる? 俺を殺そうとしてるやつがいるなら、そりゃ殺すだろ」
敵は全員殺すもんだろうが、と、伏黒さんは云った。
なるほど、それは、確かにそうなのかもしれない。
でも私は知っている。
無駄だと、自分の利益にならないと判断すれば、プライドも何もなくさっさと逃げ出すのが伏黒さん。彼自身がそう評価していた。
だったらなぜ、そうしないのか。
自尊心は、捨てたんじゃなかったの?
「――覚醒した無下限呪術の使い手、現代最強に成った五条と戦いたいんですか? 五条を否定して捻じ伏せたいですか? あなたを否定した禪院家と呪術界を、あなた自身を肯定するために、いつものあなたを曲げてまで、五条と戦いたいと、そう云うんですか」
相変わらず五条は【赫】の構えを解いてはいないけれど、かまわず私は伏黒さんを振り返った。
冷静になって考えると二重の意味でものすごい命知らずなので二度とやりたくない。
背後には、最強・五条悟。
目の前に、術師殺し・伏黒甚爾。
人が。
一生懸命考えているのに。
誰も死なない方法を考えているのに。
ハッピーエンドの為に頑張っているのに。
あなたがいつも通りの、面倒くさがりなあなたでいてくれたらもっと話は簡単だったのに。
ごちゃごちゃごちゃごちゃ――もう、うるさい。
もっと落ち着いて理性的に説明するつもりだったのに、段々とむかっ腹が立ってきて、気付いたら私は伏黒さんの胸倉を掴んでいた。
まさか私みたいな激弱術師にこんなことされるとは思ってもいなかったらしい伏黒さんは、虚を突かれる形で簡単に身体を傾けた。
驚いたように目を丸くする伏黒さんに、私は怒鳴りつける。
「今! あなたが死んだら恵くんはどうなると思ってるんですか? 禪院家は相伝である十種影法術を使える恵くんを喉から手が出るほど欲しがるでしょうね!」
「!」
「いいんですか? 禪院家に恵くんをいいようにされて、あなたはそれでいいの? お金と引き換えに恵くんを引き渡して、それで満足? 自分とは違って術式があるから禪院家に入っても恵くんは良い暮らしが出来るだろうなんて、本当にそう思ってますか? どうしてあなたは今、伏黒甚爾なんですか? 恵くんを、禪院恵にしたいの? 違うでしょう!」
禪院家を出て、禪院の名前を捨てて。
でもそれだけじゃなく、伏黒という失った奥さんの姓を名乗り続ける意味。
気紛れといわれたらそれまでかもしれない。
深い意味なんてないのかもしれない。
でも、それでも。
「あの子は、伏黒恵でしょう!!」
御三家のことなんて詳しくは知らない。
ただ、一般人の私には想像もできないくらい複雑で面倒な世界なんだということくらいはわかる。
伏黒さんは、その世界では異端で異物だった。
それは少しだけ、私と似ている。
だからというわけではない。
私は、伏黒甚爾さんに生きていてほしい。
恵くんと一緒に、生きていてほしい。
だってきっとそれは、亡くなった奥さんの願ったことだと思うから。
叫んでる間に感情が高ぶってちょっと泣きそうになってしまったのを我慢するためにグッと眉間に力を込めていたから、私は今伏黒さんの胸倉を掴みながら思いっきり睨み上げているような格好だ。
今は伏黒さんがぽかんとしているから大目にみられているだろうけど、これは非常にまずい状態であると思う。
私そのうち死に急ぎ野郎とかあだ名付けられちゃわない? やだ、不本意。
いや、とにかく今はこの勢いを殺してはダメだ。一回でも落ち着いたらもう私は立てない。
ならば、と私は伏黒さんから手を離さないまま五条を振り返った。
私のとんでも行動に呆気に取られていたのは五条も同じだったらしく、【赫】の構えはそのままでもぽかんとしていた。そうして私とまた目が合って、ハッとしたように姿勢を改めた。
「五条、今地上には蝿頭が溢れてる。高専にいる術師だけじゃ手が足りないはずだから、五条はそっちに行って」
「何云ってんだ、まだ、」
「五条」
「!」
「信じて」
もし仮に、五条が全部私の頭の中を読めるならそれでも構わない。
そうすれば少なくとも私が悪事を働こうとしているわけではないということはわかってもらえるだろう。六眼で視えるなら、視たらいいさ。
今この場を円満に終わらせたいのが一番だけど、地上が大変なことになっているのも事実だ。
追い出すような形になるのは申し訳ないが、今の私にはこうするしか方法が浮かばない。
「お願い」
「…………」
念押すように続ける。
しばらく黙って私を見ていた五条は、ややあってぞんざいなため息をついてからくるりと背を向けて参道のほうに引き返して行った。
どうやら信じてくれたらしい。いや、逆に諦められたのかもしれないけど、どっちにしろ結果オーライ。
あいつ、意外といいやつだな。
私ごと殺そうとしなかったってことは、少なくともこんなことをしている私を敵判定はしてないってことだもんね。
こんなことって、まぁ、伏黒さんの胸倉を掴み上げることなんですけど。
徐々に冷静になってきて内心滝汗を流している私を、本当に理解できない生き物を見るような目で伏黒さんは見ている。珍獣じゃないです、一応人間なんですよ私。
でも今更後にも引けないし、どうしよう、いい加減伏黒さん何か云ってくれないかな。
と、本当にギリギリな精神が崩壊する寸前のことだった。
「あー、興覚め。やめだ、やめ」
「えっ」
「おい、ガキ」
この場にいるのは全員伏黒さんからしたらガキなんだけど、誰のこと云ってんのかな。
一瞬考えて、視線が私に向いていることに気付く。
「は、はい」
思わずこの機会にパッと手を放して姿勢を正して返事をすると、伏黒さんは小さく噴き出して云った。
「ちんちくりんな割に結構いい度胸してんな。今度一発どうだ?」
「は」
どう、とは。
まぁかまととぶるつもりはないので何が云いたいのかわかるけど、理子ちゃんもいるところでそういう下ネタはやめてほしい。居た堪れないし可哀想。
と思ったけど、当の彼女は一発の意味が分からなかったようできょとん顔だ。うん、そうだね、もうしばらく理子ちゃんはそのままでいてほしいかな。
しかし代わりに理子ちゃんの隣にいたでっかい男がいきなり怒髪天を突いていた。なんでだよ。
「やっぱりその男殺そうか」
「ちょちょちょ、待って待って夏油、折角五条を止めたのに今度はあんた!?」
呪霊を出すな、殺気を放つな! 虹龍のサイズだとそれは私も死ぬ!
そして伏黒さんは挑発するように私の肩を抱かないでください、あなたの手大きくて肩握り潰されそうで怖い。
案の定追加で呪霊を出した夏油は、無表情だった。近くにいた理子ちゃんも引いている。
私はなんとか伏黒さんの手を引っぺがしつつ、なんで夏油が怒ってるか知らないけどとにかく怒りを収めてもらおうと言葉を探して叫んだ。
「どうせ伏黒さん本気じゃないから、大丈夫だから!」
「なんでそんなことが云える!?」
いや怖いわあんた。マジ切れじゃん。
というか本気でなんで夏油が怒ってるのかさっぱりわかんない。更年期か?
とりあえずその理由は置いといて、今はこの怒りを収めてもらう方が先決だった。
なんで伏黒さんが本気じゃないかって、そんなのわかりきったことだ。
「だって伏黒さん、奥さんのこと本当に大好きなんだよ」
名前こそ出ていないし、漫画にだってほとんど登場してはいない。
でも、わかる。
禪院家を出て荒れ狂っていた彼が、結婚して子供に名前まで付けて、今現在まで同じ苗字を名乗り続けている理由。
この場で戦いを放棄してくれた理由だって、大まかに云えば奥さんだ。
会ったことはないけれど、伏黒さんにとっては何よりも大切で暖かいもの。失って尚、心から居なくならない人。
伏黒さんの、好きな人。
公式で明言されている通り、伏黒さんは奥さんと出会ったことで大きく人生を変えられている。
多分、生まれて初めて『幸せ』をくれた人だったんだと思う。
禪院家という彼にとって苦痛しかなかった世界から出て初めて、奥さんという光。
好きで、大切なはずなのだ。
「だからね、さっきみたいなのはほぼキャラ付けみたいなもんで」
「お前それ以上云ったら本気で犯すぞ」
「黙りますごめんなさい」
怖い。
思わず謝ってしまったし飛びのいてしまった私は悪くないと思う。照れるならもっと可愛い照れ方をしてほしい。
夏油にこっちに来るように云われて、もう大丈夫だろうと思って素直にその言葉に従おうとすると、伏黒さんが参道に足を向けた。
今ならば五条も上で蝿頭退治しているはずだし、硝子や黒井さんも引き上げている頃だろう。誰ともバッティングせず高専から抜け出せる。
むしろ、安全に高専から出るには今のタイミングしかないのだ。五条が蝿頭を祓いきってしまったら、多分セキュリティーは強化されるだろうし。まぁ、伏黒さんの相手にはならないかもしれないけれど。少なくとも今は無駄なトラブルは避けたいはずだし、静かに抜け出せるに越したことはないはずだ。
これでいい。
これがよかった。
この後のことはどうなるかわからないけれど、きっと悪いようにはならない。
ぼんやりと伏黒さんの背中を見送りながら、はたと思いついて私は声を上げた。
「あの、伏黒さん!」
「あん?」
うわ見返り美人。
そういえばこの人性格が鋭利なのと言動のおかげで忘れがちだけど、THE禪院家なお顔立ちで大変美形なんですよね。見返り美人すぎてびっくりした。
思わず美人ですねと云いたくなるのをなんとか我慢し、にっこりと笑顔を作る。
「また、どこかで!」
すると、伏黒さんは呆れたように息を吐き、それから一度も振り返ることなく去っていった。
本来伏黒さんはここで死んでいるはずの人間だ。
だから当然このあとのストーリーに彼が出てくることはなかった。少なくとも、彼としては。
だけど今、こうして彼は生きている。
つまり、またどこかで出会える可能性は十分にあるということだ。
出来たら、今度は敵ではなく味方としてだったら嬉しい。
それに、なんだかんだ云って五条や夏油と合うんじゃないかなぁなんて思うのだ。本人たちに云ったらすごい顔されそうだけど、うん、そういうのも含めてちょっと似た者同士なのかなぁって思う。
とにかく、私にしてはよくやったんじゃないですかね。
だって死人ゼロ!
敵も味方も、誰も死なせずクリアできた。最悪黒井さんは助けられないかもしれないと思ったけれど、虫の息だった彼女は硝子が治してくれた。本当に良かった。
安心して一気に襲われたけれど、まだやることは残っている。
あと少し、夏油の幸せのために、頑張れ私。
◇◆◇◆
ひとつ息を吐き、もうひとつ解決しなければならないことのために私は理子ちゃんを振り返った。
「さて理子ちゃん」
「な、何……?」
怯えるように私を見た理子ちゃんに、ハッとする。
私、理子ちゃんと初対面じゃない? 任務に同行してないし。
私は一方的に理子ちゃんも黒井さんも知っていたけど、むこうからすれば急に現れた変な女が自分を知っていることになるし、なんか敵っぽい人を庇ったり怒鳴ったりしているわけで、そんな人に急に笑顔で名前呼ばれたら、まぁ怖いわな、普通に。うん、ごめん、その辺の配慮は足りませんでした。
が、ここまで来れば私の目的は果たされたも同然なのだ。
多少の強引さは許されたい。
とにかく、簡単に自己紹介。どうも初めまして、夏油と五条の同級生です。資料見てたのであなたたちのことはよく知ってます。
なるべく警戒心を解すように笑顔を心掛けたのだけど、さっきまでの伏黒さんとのやりとりが印象強く残ってしまったようで、理子ちゃんは夏油の背中に隠れてしまった。く、くそぉ…普通逆じゃん、夏油みたいなパッと見ヤンキーのほうが怖いじゃん、なんで私が怖がられてるんだよぅ。
ちょっと悲しくなったけど、自分の行いへの反省も確かにあったのでもう今理子ちゃんに打ち解けてもらうのは諦めることにした。
いいよ、うん。お姉さんは心が広いからそういう態度も許しちゃう。
私の心は琵琶湖大、と自分に言い聞かせることでなんとか笑顔を保ち、もう一度理子ちゃんの名前を呼んだ。
それから、ちらりと夏油の背中から私を見た理子ちゃんに、続ける。
「あなたはもう自由よ」
「――え……?」
突然の私の言葉に、警戒していた理子ちゃんはキョトンと目を瞬いた。
あまりに唐突すぎたのかもしれない。
難しいことは何も云っていないのに、理子ちゃんは私の言葉の意味を理解できずにいるようだ。
まぁ、確かに、急にこんなこと云われたら、混乱もするだろう。
気持ちは十分わかるので、私は殊更丁寧に続けた。
「天元様と同化する星漿体は、あなたの他に用意されている。それによって天元様は安定する。つまり、理子ちゃんの星漿体としての役目はもう果たす必要がないの」
「え、え?」
「黒井さんも無事よ」
ハッと息を呑んだ理子ちゃんに、私はにっこりと笑う。
「もう、あなたは自分の為に生きていいんだよ」
伏黒さんは黒井さんのことは殺す気も生かす気もなかったっていってたけど、残虐な性格じゃなくて安心した。危ないところだったけれど、間に合ったから。
なので、今後理子ちゃんは黒井さんと一緒に生きていけるはずなのだ。
黒井さんにとっても理子ちゃんは大切な家族だから、きっと二人でうまくやっていける。
星漿体でなくなったことで今後は呪術界からの干渉もなくなるだろうし、二人は本当に自由になれる。
漸く私の言葉の意味を理解した理子ちゃんは、はじめはふらふらと、徐々に駆け足になって黒井さんと別れた入り口に走っていった。
私の横を通り過ぎるときに、ありがとう、と云ってくれたその目には涙が浮かんでいた。
それだけで、もう満足だった。
理子ちゃんの背中を見送り、私は大きく息を吐いた。
多分全部うまくいった。
理子ちゃんも黒井さんも死なせず、伏黒さんも生かし、五条は最強に。
出来た。
ちょっと泣きそうになったけど、ここで泣くのは違う。
一度大きく息を吸って両手で顔を押さえ、ゆっくり息を吐き出す。泣くな私。
「……これが、君が望んだ結末なのか?」
顔を上げると、夏油がいつの間にか近くにまでやってきていた。へらりと笑い、頷く。
「うん。ひっかきまわしちゃって、ごめん」
「本当、何事かと思ったよ」
あとでちゃんと説明すること、と難しい顔をした夏油は私の頭をわしゃわしゃ撫でた。
ちゃんとうまく説明できるか私はちょっと不安だけど、説明頑張るよ。
理子ちゃんも伏黒さんもいなくなって緊張を解いたのか、疲れたように息を吐いてその場に寝ころんだ夏油の隣に私は座り込み、夏油の手を握る。
相変わらず夏油の手は温かい。
ちょっと傷だらけだけど、脈を打っていた。
生きている。
――ちゃんと、生きている。
理子ちゃんも、伏黒さんも、未来がある。
五条は無事最強になって、目の前で理子ちゃんを殺されなかったことで夏油の心も守れただろう。少しでも、非術師に対しての嫌悪がなくなればいいと思う。
やんわりと握り返された手の温かさにホッとしつつ、私が介入したことで変化してしまった一つを思い出して夏油に声をかけた。
「……怪我、大丈夫?」
今頃黒井さんを治している硝子が、それが済んだらこちらに向かってくるはずだ。
夏油は伏黒さんと交戦こそしなかった。でも、本来ならば理子ちゃんの頭に当たるはずだった弾は、私が伏黒さんに声をかけたせいで逸れて夏油の肩に当たってしまっていた。普段呪術師にしろ呪詛師にせよ、拳銃を使った敵なんてあんまり相手にしないから、防御する間もなかったんだろう。
これは、懺悔だった。
「本当は誰も怪我してほしくなかったけど、私じゃ全部は守れなかった。私が怪我を肩代わりしちゃうと、伏黒さんを説得できなかったから、肩代わりするわけにはいかなかった。だから、五条と夏油が怪我するのはわかってたのに助けられなかった」
硝子が治せば死にはしない怪我かもしれないけれど、怪我は怪我だ。痛くないわけがない。
「ごめんね」
ここまで来てやっと、私は望んだすべてのことが出来たのだと自覚して、ホッとしたら涙が出てきた。
誰も死なせなかった。
よかった。
本当によかった。
私なんかでも、助けられた。
私の存在は、無駄ではなかった。
そう思ったらもう嬉しいやら苦しいやら何やらで涙が止まらない。
だけど空いてる方の手で涙を拭うのも今は億劫で、ぼたぼたと情けなく涙を流しっぱなしにしているしか出来ない。ごめん夏油、いろんな意味でみっともないもの見せるけど今だけは許して。
無言で泣き続ける私を見た夏油は、けれど何故かそっと優し気に目を細めて云った。
「なぁ、君は、どこまで知っているんだ?」
私の術式は、未来を見る。
だけどそれは、ほんの数瞬先の、短い未来だけ。しかも望んだとおりに見えるわけではなく、いつも突発的でほとんど事故みたいなものだった。だから未来視といっても特別すごいわけではない。
これは本当のことだ。
「……全部知ってたら、よかったのにね」
でも、今回のことは違う。
明らかに私の行動は、みんなの行動を把握した上で動いていた。一瞬先がわかる程度の能力だけでは説明がつかないだけの動きを私はしていたから。
そのことに夏油は気付いたのだろう。
「今はまだ、ちゃんとは話せない」
「私は……私たちは、信用できない?」
「そうじゃないの。信用も信頼もしてる」
「じゃあ」
「だけど全部を話せるほど、私が器用じゃない。まだ話せることの判断がつかないの。だからごめん」
話してもいいこともあるかもしれない。
でも同じくらい、話すべきことでないこともあるはずなのだ。
例えば、夏油が非術師を虐殺することだとか、離反してしまうことだとか。そうならないように牽制の意味で話す意味はあるかもしれないけれど、果たしてそれにどこまで意味があるのか。
むしろ今のままでは存在しなかったはずの選択肢を与える結果になるかもしれない。
確かに私はみんなよりもこの世界の情報をもっているだろう。
だからこそ、情報は精査する必要がある。
知った顔で何でもかんでも助言できるほど、私は馬鹿ではない。
同じように、タイミングというものもあるだろう。
然るべきに然るべき場所で、然るべきことを。
無責任な発言はしたくないから、私は夏油の言葉を肯定してあげることが出来なかった。
申し訳ないと思いながら夏油を見ると、私の意思の固さを理解したのか、小さくため息をついて困ったように夏油は笑った。あ、その顔好き。推しが今日もかっこよくて満足です。
「……わかった。じゃあ、話せると思ったら話して」
握る手に、少し力を込めながら云う夏油に、私は頷いた。
「うん。絶対話す。ごめん」
「謝らないで」
「じゃあ、ありがとう」
云って笑うと、夏油も笑ってくれた。
本当に夏油はいいやつだ。
出会えてよかったと思う。
夏油の為に死ぬのもありだったけど、こうして傍で守るのも悪くない。
今は、本気でそう思っていた。
で、だ。
みんなに細かい説明をしたり、まだ地上は伏黒さんが放った蝿頭がうじゃうじゃしていて、今頃苛立ちマックスの五条が掃除をしていたり、盤星教の件も事後処理が残っているしやることは山盛りなのだけれど。
「ごめんついでなんだけどさ」
「なんだい?」
少し休んで多少は回復したらしい夏油が身体を起こすのを手伝いながら、私は最後の力を振り絞った。
「私、限界」
「えっ」
そこから先の記憶がないのは、多分私がその瞬間気を失ったからだと思う。最後に夏油が私の名前を呼んでいたような気がしたけれど、返事は出来なかったんじゃないかなぁ。
ほんと、ごめん夏油。
しかも、つい先日目を覚ましたばかりなのにこの後三日寝込んだことで信じられないくらい硝子に怒られた。
怒鳴るわけじゃなくて淡々と冷静に正論のナイフで切り裂かれ、全部その通り過ぎて反論は出来ない私は、また医務室のベッドで滾々と説教を受ける羽目になったのである。もう滅多刺し。心の惨殺事件起きてるよ。
いや本当にごめんなさい、でも寝込むつもりはなかったんです。
一応控えめに、でも今回は怪我はしなかったんだし、と主張してみたら、そういう問題じゃないと今度は夏油と五条に挟まれて怒られた。一通り怒って気が済んだらしい硝子は混ざらなかったけれど、代わりに助けてもくれなかった。煙草で一服しながらこちらを眺める様子はマフィアの女ボスに見えたので、あとで教えようと思う。
そんなことを考えていたからぼーっとしているように見えたらしく、余計にふたりの怒りに油を注ぐことになり、結局説教は一時間近く続いた。病み上がりにはもっと優しくしてほしい。
とにかくなんとかふたりにも怒りを収めてもらってから、漸く改めて今回の件の説明をした。
特に五条は伏黒さんの件について本気で怒っていたので、恵くんのことを含めて話す。
五条は、一応渋々という形で納得してくれた。と、思う。というのも、多分五条は私がいろいろ隠し事をしているということに気付いているような気がするのだ。
六眼の能力全てを知っているわけではないけれど、あれは『視る』力。思えば私が目を覚ました後、五条は時々もの言いたげにしていたし、もしかしたら私が自分から話すまで訊かずにいようとしてくれているのかもしれない。五条にしては破格のデリカシーに今は感謝する。
夏油も完全には納得してはいないような顔はしていたけど、あの時いつかちゃんと話すと約束したことや、結局長い目で見れば円満に解決したと云えなくもないからか、最後はため息を吐きながらも納得していた。そういうところ、大人だなぁと思う。今はありがたいけど、あんまりそういう達観したような生き方はしないでほしいなぁと思ったり。まぁ原因作ったお前が云うなよって云われたら終わりなんですけどね。
なんにせよ、ある意味山場だった星漿体事件はこれにて終了だ。事務処理は山ほどあるけど、誰も死ななかったことに比べたら些細な事。喜んで働きますよ、私は。
あとは来年の夏、一般人大量虐殺を何が何でも止めればしばらくは安泰のはず。
それまでは大人しく二度目の人生を楽しみたい。
今回頑張ったしそれくらい許されますよね!?
私だって学生生活楽しみたいもん、いいですよね!?
◇◆◇◆
はい。
さしあたって今やることは、三ヶ月音信不通になった彼氏への連絡です。
着拒されてたら心が死ぬ自信があります。
医務室を卒業したその日のうちに、自室に戻ってから震える手でケータイを弄り、先輩の電話番号をプッシュする。迷ったらもう二度と電話できない気がしたので、名前を見つけた瞬間すぐに電話を掛けた。
すると、ちゃんと呼び出し音が聞こえたので着拒はされていないことがわかる。あ~~~よかった~~~。
が、5回6回とコールが続いてもなかなか電話がとられることはない。
あっこれはまさか着拒を忘れていたパターン?
そう思った瞬間一気に背中から汗が出て、思わず電話を切ってしまった。
やばい。
そのパターンだったらヤバい。
10回もコールしちゃって私めちゃくちゃ怖いじゃん。鬼電する前に気付いてよかった。
どうしよう、今更謝ろうとしても迷惑かな。せめてちゃんと事情は説明したかったんだけどな。
自分のせいとは云え、大好きな彼氏とこんな終わり方になってしまって情けなすぎて泣きそうになっていたときだった。
握り締めっぱなしにしていたケータイが震えて、私は反射的に通話ボタンを押していた。
『もしもし!?』
そうして聞こえてきたのは、先輩の声。
驚いたような、焦ったような、酷く慌てたような声。
それを聞いたらもう駄目だった。
「せ、先輩……」
涙腺が崩壊して、泣きながら馬鹿みたいに先輩の名前を呼んで、謝った。
もううまくしゃべれなかったのに、先輩は辛抱強く私の話を聞いてくれて、何度も名前を呼んでくれて、電話を切らないでいてくれた。
このままではだめだと思い、私は何とか死にそうになったことだけは誤魔化しつつ、三ヶ月も連絡が取れなかった事情を説明した。頭を打って寝込んでました、なんてちょっと無理があるかもしれないけれど、なんとかこれで誤魔化すしかない。
一通り説明を終えると、しばらく黙っていた先輩は、
『もう大丈夫なんだね?』
と不安そうな声で云った。
なので、もうピンピンしてます、と無駄に元気に私は答える。これ以上の心配はかけたくないし、実際怪我も治ったし今回寝込んでいたのも疲労のせいだったからもう本当に元気なのだ。
電話ではうまくそれが伝えられない。本当は直接会って話したかったけれど、明日も仕事が山積みになっているからなかなかそうもいかずにもどかしい。
でもとにかく私は元気だということをわかってもらいたくて必死に元気アピールをしていると、先輩にやんわりと遮るように、柔らかく名前を呼ばれて、私は息を呑んだ。
いよいよ、ふ、フラれるのだろうか。
当然と云えば当然の不義理をしたのだから私がショックを受けるのはお門違いなのはわかっている。
でも、やだ。
フラれたくない。
だって私、先輩が好きだもん。
優しくて気さくな人で、笑顔が優しくて、しれっと冗談を云う人で、時々変なことでへそを曲げるけれど、地元駅前の時計塔の下告白してくれたとき、ずっとこの人と一緒に居たいと思った。
先輩と一緒にいると心が温かくなる。
それは、前世の記憶を取り戻してからも変わらなかった。
この世界で生きている私は、先輩のことが好きなのだ。
フラれるなんて、やだ。
ああでも普通は三ヶ月音信不通だったやつなんてフるよなぁ。
自業自得だけど、やだなぁ。
ここで別れたくありませんなんて云ったら、先輩困っちゃうよなぁ。
そう考えただけで泣きそうになるけど、急に泣き出すのも先輩を困らせるだけだろう。
零れそうになる嗚咽をなんとか唇を噛み締めて堪えていると、次瞬間、電話口の向こうから聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。
『おかえり』
その声が、優しくて。
私が大好きな先輩の声で。
本当に、私を心配してくれていたのがわかったから。
「――ただいまっ!」
嬉しくて、やっぱり私は泣いてしまった。