前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
「……あれ?」
「あ、夏油。目、覚めた?」
「……なんで?」
息苦しさと蒸し暑さに耐えきれず目を開けると、そこは見慣れた天井が広がっている。一瞬考えて、ここが自分の部屋であることはわかった。
が、何故部屋のベッドに寝ているのかが思い出せない。
だって確かさっきまで私は教室で授業を受けていたはずで。
しかも、何故彼女がここにいるのかもわからない。
慌てて身体を起こそうとするも、信じられないくらい身体が重くてかなわなかった。そういえば頭もガンガンするし、関節も痛い。
「覚えてない? 夏油、授業中に倒れたんだよ」
冷やしたタオルを額に乗せられて、もう一度ちゃんと横になるように指示される。頭はまだ混乱しているけれど、それが間違った指示ではないことは理解出来たので、大人しくそうする。
どうやら風邪を引いたらしい。
実は昨夜は風呂に入った後、あまりに疲れすぎていて髪を乾かす前に寝落ちしてしまったのだ。もしかするとそれが原因だろう。
いつもならその程度で風邪など引かないのかもしれないが、昨日は数日続いていた任務のせいで心身ともに疲れ切っていたから、そこに追い打ちをかけた形になったのだと思う。
そうしてハッとする。
今日は夜から任務が一件入っていたのだ。
熱と混乱でぼんやりとした意識を無理矢理起こしてそのことを訴えようとすると、す、と軽く額を抑えるように触れられた。
何を、と問おうとして、それより先に彼女が苦笑しながら口を開く。
「夏油の任務は代わりに五条が行った。硝子は夏油の容体をみて薬を出してくれてから別任務で外出中。僭越ながら、私が看病を買って出ました」
だから安心して、と。
私が任務のことを思い出したことを察した上での説明に、小さく息を吐く。
悟には申し訳ないが、手が空いていてくれて助かった。本当は依頼書の内容を読んで利用できそうな呪霊だと判断したので取り込みたかったけれど、これでは仕方ない。一級呪霊らしかったので少し惜しい気もしたが、もし体調不良のまま任務に出ていたら万が一のことがある。縁がなかったのだと諦めた。
「まだ熱高いね。水分取れる?」
彼女の手はまだ額の上にあった。
労わるような触れ方と、少しひやりとした感触が気持ちがいい。まだ熱が引いていないせいだろう。
「食欲は? 出来ればゼリーとか消化に良さそうなものでいいから食べて薬飲んでほしいんだけど、どうかな」
「……ゼリーなら」
「よかった、待ってて」
ホッとしたように笑った彼女が、ビニール袋から飲むタイプのゼリー飲料を取り出して手渡してくれた。
実はこれは私が普段から時間がない時に買っている種類のゼリー飲料で、何度か任務の時に彼女の前で飲んでいたことがあったから、きっとそれを覚えていてくれたのだろう。
こんな場合だけれど、そういう彼女の気配りが嬉しい。
本当はあまり何も口にしたくはないと思っていたのに、そんな些細なことで私の食欲は回復した。多少の時間を掛けながらも、一応一食飲み切ることが出来たのでホッとする。
硝子がオススメしてくれたという薬を受け取って飲み終えると、彼女は体温計を差し出してきた。
大人しくそれで計ってみると、三十八度五分。どうりで頭も身体も重いわけだ。
げんなりしながらもう一度ベッドに横になると、彼女は少しはみ出していた肩にも布団がかかるように寝具を整えてくれた。肩が出ていてすーすーするのはわかっていたのに、手を動かすのが億劫すぎてそのままにしていたけれど、実は寒気で身体が震えていたのでありがたい。
布団の温かさにホッと息を吐いた途端、忘れていた関節の痛みを思い出して眉間に皺が寄ってしまった。
ああ、風邪なんて引くもんじゃない。
これはただの風邪なので、薬を飲んだ以上はあとは寝て体力を回復させるだけなのに、彼女は部屋を去る様子がない。おそらく、私が眠るまではここにいてくれるつもりなのだろう。
けれど同時に、申し訳なくて仕方がなかった。
彼女は優しい。
きっと倒れたのが私ではなかったとしても、同じように看病してくれるのだろう。それが彼女という人間だ。
だからこそ、思わず零れた言葉は純粋な謝罪だった。
「ごめん」
「え?」
「面倒かけて」
自慢じゃないが、私は手のかからない子供だった。
そりゃあ生まれたばかりの頃はそれなりの赤ん坊のように泣いたりぐずったりもしただろうけど、少なくとも物心がついてからはそこまで酷く両親の手を煩わせた覚えはない。
好き嫌いもほとんどないし、反抗期らしい反抗期もなく、家族とも周囲とも大きなトラブルを起こすことなく順調に成長したと思う。
ちょっとやんちゃして問題を起こしたことは多々――多々。ないとは云わない――あれど、それ以上に結果を残していたので高専に来てからもそこまで誰かの手を煩わせたという気はしていない。
熱を出すのは人間だから仕方がないとは思う。どんなに完璧に体調管理をしていても、絶対風邪を引かないと断言出来る人なんていない。アンドロイドではないのだから。
でも、今日の場合は私の不注意だ。
それで倒れて、部屋に運ばせて、任務を親友に押し付け、好きな人にはこうして看病をさせている。
申し訳ないと思う。
すると彼女は、小さく首を振った。
「夏油、違うよ」
彼女の手がもう一度額に触れる。
ひやりとして、だけど暖かい手。
「こういうときは、ありがとう、だよ」
――何故だか、無性に泣きたくなった。
彼女の優しい笑顔が胸に沁みて、目に水分を感じる。熱のせいで涙腺が緩んでいたのだろう。
しかし、好きな子の前でめそめそするのはプライドが許さない。
なんとか歯を食いしばってグッと目を閉じ、溢れそうになった涙を引っ込ませると、やっとの思いで口を開く。
「……そう、か」
「うん。私が好きでやってるんだし、夏油はたまには何もしないでゆっくりしていいんだよ。まぁ体調不良じゃなくて、本当はなんでもないときに休めるのが一番だなんだけど」
ちょっと今忙しいからね、と嘆く彼女も、任務の内容こそ私たちとは違えど、補助監督としての任務に日々追われている。それはある意味私たち術師よりもハードなスケジュールなのに、それでも彼女は文句を云わずこなす。まぁ、時々愚痴を零すくらいはしていても、それくらいは許される範囲内だ。
能力だけなら私のほうが上だし、術師としても彼女が私と同格とは思っていない。
それでも、私は彼女を尊敬していた。
惚れた欲目などではなく、単純に同じ呪術界に身を置く人間として、彼女の働きはあまりに尊い。私では真似できないし、きっと他の誰にも彼女の代わりは務まらないだろう。
そんな彼女の手を煩わせているという事実はやっぱり心苦しいけれど、ここでまた謝罪するのは彼女の本意ではない。
だから私は、私の額に触れる彼女の手をそっと握って。
「お願いが、あるんだけど」
「ん、何?」
一度口を開く。
こてんと首を傾げた彼女が可愛らしくて、好きだな、と思う。こんな状況なのに暢気なものだと自分の中の冷静な部分が嗤っていても、好きだし可愛いんだから仕方ないし、いちいち状況なんて気にしていられない。恋とはつまるところ病気なのでどうしようもないのだと開き直った。
熱に浮かされた目でじっと見つめたまま固まった私に若干不審そうな顔をし始めたとき、ハッとして改めて大きく呼吸をしてからゆっくりと私は口を開く。
「眠るまで、手を握ってもらってても、いいかな」
ダメ元だった。
でも、彼女が私に甘いことも、知っていた。
だから、風邪で弱っている今なら、これくらいのお願いを聞いてくれるんじゃないかと、と打算的な部分がなかったとは云わない。
優しさにつけこんだ、とも云う。
彼女には大切にしている恋人がいることも知っているのに卑怯だとも思ったけれど、もう口にしてしまった言葉は取り消せない。もとより、取り消すつもりもなかった。
私は彼女が好きだ。
この気持ちは誤魔化せないし、なかったことにして目を逸らすのも嫌だ。
彼女を恋人から奪い取ろうという気は、あまりない。恋人がどうしようもない相手だったらそれもやぶさかではなかったけれど、なんの嫌味もない目で自分を見てくれる彼を私は嫌いになれなかった。
出来れば彼にも幸せでいてほしいと思う。
そんな彼から、彼女を奪うのは、申し訳程度に残った良心が許さない。
だけど、今だけ。
ないものねだりはしないから。
熱で浮かされた戯言だから。
どうか、ちょっとだけ彼女の優しさを許してほしい。
彼女は私の言葉を反芻した。
そうして。
「いいよ」
穏やかに笑って、彼女はそっと空いていた方の手で私の手を握ってくれた。
自分で云いだしたことなのに、あっさりと望み通りになったことに驚いていると、彼女は続けた。
「ゆっくり寝てね」
絶対誰にも云えないけれど、この時の私の目には彼女が天使のように映っていた。
悟辺りにバレたら指をさして爆笑されそうだし、冷静に考えると私だって笑ってしまうかもしれない。
天使というほど容姿が整っているわけでもなく、天使の輪っかも純白の羽根もないけれど、それでも私にとっては天使だった。
握られた手からじわりと伝わる温かさに、心の底から安堵する。
風邪のせいでずっと不快な寒気で震えていたのに、彼女が手を握ってくれた瞬間、なんだか身体がぽかぽかと温かくなってきた。現金だな、と呆れた。でも、嫌な気分ではない。
「ありがとう」
まるで小さな子供のようだと我ながら思う。
熱を出して倒れて、眠るまで手を握っていてほしいなんて。
別にこれだけ熱があって疲れている状態ならば、放っておいたって眠るのに。
わかっているのに、願わずにはいられなかった。
そして嫌な顔一つせず私の望みをかなえてくれた彼女に、愛しさがこみ上げて止まらない。
好きだ。
大好きだ。
誰かにこんな感情を抱くなんて、以前の自分では考えもしなかった。
性欲は人並みにあるし、経験だってそれなり以上にはしているけれど、そこに愛情なんてなかった。すっきりするために手近な女で発散していたというだけだった。
女なんてちょっと甘い顔をしたらすぐに落ちる簡単な生き物だと思っていた。
きっと彼女も、そういうつまらない女の一人だろうと、思ったのに。
予想は大いに裏切られた。もちろん良い意味で。
彼女は私の顔を世界で一番好きだと公言しているのに、そのくせ確固たる強い信念をもって生きている。
私がどんなにアプローチをしても陥落せず、あっけらかんと彼氏が一番好きだと笑うのだ。顔は私の方が好きなくせに、酷いやつだと思った私は悪くないと信じている。
だけど、結局のところそういうところも含めて、私は彼女のことが好きなのだ。
多少は甘くても、彼女には芯があって絶対にブレない。
危なっかしくて意地っ張りで、弱いくせに強い誰かに隠れようとはしない彼女の姿は、私の目には眩しく映った。きっと、悟や硝子も、灰原に七海もそうだろう。
彼女は、関わる人みんなに愛される。
笑う君。
怒る君。
喜ぶ君と、悲しむ君。
悟と喧嘩をして硝子に怒られる君。
硝子と買い物に行って私と悟を荷物持ちにする君。
作ったお菓子をふるまって灰原と七海を餌付けする君。
――私に手を差し出して、道を示してくれる君が、私は好きでたまらない。
「おやすみ、夏油」
優しく、温かく、柔らかい声が耳に響く。
それが無性に嬉しくて、閉じた目に、少しだけ涙が浮かんだ気がした。
けれどすでに意識の半分を夢の世界に持っていかれている状態では涙を拭うことも出来ず、私は大人しく眠りに落ちた。
彼女が労わるように私の頬を撫で、そっと指で涙を掬われたように感じたのは、多分気のせいではなかった。