前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
教室に彼女の姿が見えなかった、ただそれだけの話だった。
「悟、ひとりかい?」
「ん-、あいつなら飲み物買いに行ったぜ」
「そう、か」
「何、どしたん。なんか用あった?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
硝子が今日は医務室に詰めていることは知っていたから、悟が一人でつまらなさそうにケータイを弄っていることに首を捻った。何故なら今はもう授業が始まっている時間で、任務も入っていないはずの彼女が教室にいないことがおかしなことだったからだ。
基本的に真面目な彼女は、いくら自習になっているからといって授業時間中に席を外すなんて珍しい。
しかしここで悟が嘘を吐く必要なんてないから、その言葉の通り彼女は飲み物を買いに行っただけなのだろう。
「傑?」
なのに、どうしてだろう。
途方もない喪失感と不安感に襲われて、私は大股で教室を出た。向かう先はもちろん自動販売機がある渡り廊下だ。一応授業中ではあるのでばたばたと足音は立てないように気を付けながら、それでも急いで渡り廊下に向かう。
逸る気持ちを抑えてやっと一階に降り、渡り廊下に繋がる通路を進み、足を止める。
いた。
彼女だ。
悟の云った通り、彼女は飲み物を買いに来ていた。
見慣れた渡り廊下と、代り映えしない飲み物が並ぶ自販機と、そこに佇む彼女。
いつもの光景だ。
珍しくもなんともない、日常。
ホッとして、私は彼女に声を掛けようとした。
どうしてホッとしたのかは自分でもよくわからない。
だけどとにかく彼女がそこにいることが嬉しくて、名前を呼ぼうとして、思わず声を飲み込んだ。
――なぜ。
彼女は私が来たことには気付いていないようで、手に飲み物を持ったまま空を見上げていた。
珍しい鳥がいるわけじゃない。
特別綺麗な青空なわけでもない。
昼間だから星座を探しているわけでもないだろう。
だから、彼女がいったい何を見ているのか私にはわからなかった。
でも、だからこそ、無性に不安になった。
――どうして。
その横顔が、あまりにも、悲しくて。
涙は流れていないし、苦悶の表情というわけでもない。
それなのに、何もない空を見上げる彼女の横顔は、胸が締め付けられるような哀愁と、眩暈がするような焦燥感を覚えた。
思わず服の上から心臓を掴んで、歯を食いしばる。
そうでもなければ、叫びだしてしまいそうだったのだ。
声は出ていなかったと思う。
しかし丁度そのタイミングで、彼女はこちらを見た。
そうして。
「あれ、夏油だ」
漸く私の存在に気付いた彼女は、さっきまでの憂いた表情をパッとかき消してにっこりと笑った。
いつも通りの彼女の笑顔だ。
二年に上がって漸く私たちにも見せるようになった、優しい笑顔。
温かみがあって、向けられるとどこか心がホッとするような笑顔。
「夏油も飲み物買いに来たの? あ、じゃあ可哀そうだから五条にも何か買ってってあげよっか」
私の言葉を待たず、くるりと自販機を振り返り小銭を入れる。
「ここのマックスコーヒーってさ、絶対五条がひとりで消費してるよね」
そんな軽口を叩く彼女は、本当に普段と変わらない。
自分一人が遅れて入学してきた身だからか、誰かを除け者にするとかされるとかを過剰に嫌がって、なんでもみんな一緒とまではいかないけれど、基本的にはまとまって行動したがる。
明確に言葉にされたことはないが、見ていればわかることだ。
初めの頃は不思議だったそんな彼女の行動も、慣れてしまえば暖かで優しいし、何より彼女が嬉しそうなので気にならなくなっていった。
ほんの些細なことだ。
普通に生活していたらそこまで気にしないような、小さなこと。
例えば今のように教室にいる悟に飲み物を買って行ったり、コンビニに行ったらみんなで食べられるお菓子を選んだり、寮でお菓子を作るときは私や硝子も食べられるようなものにするとか、顔を見たら笑顔を向けてくれたり声を掛けてくれるとか、そういう優しさとも気遣いとも取れるようなことを、当たり前のように彼女はする。
息をするように、空が青いように、海が水で出来ているように。
太陽のような温かさを、無条件に分け与えてくれる人だった。
それが思ったよりも嬉しいことだと、気付いたときが私の彼女に抱いた最初の好意だったと思う。
悟や硝子に比べたら私は気遣いが出来る方だと自負していたけれど、私なんて彼女の足元にも及ばない。
生来の性格なのか、彼女は本当に良く周囲を見ている。だからこそ補助監督という非常に細やかさを求められる仕事をうまくこなせているのだろう。
どうしても人手が足りなくて任務が連続しても、ここぞというタイミングで休みが入るのは彼女が他の術師との予定をうまくすり合わせてくれているからだと知り、代わりに彼女の休みは削られたり移動させられたりしていることもよくあることらしい。
けれど彼女はそれを私たちに云ったりはしない。たまに死んだように共有スペースのソファで倒れていることはあるが、文句を云うことはない。
多分、気付いていないだけで本当はもっと細かいところで彼女の優しさの恩恵にあずかっているのだろう。
恩着せがましくするわけでもない、純粋な優しさ。
どうして君はそんなにも優しいのだろう。
どうして、君は。
彼女は、間違いなく私たちを好いている。
もちろんこれは恋愛感情などではなく、友人として、仲間として、同僚としての好意だ。それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ私たちの為に甲斐甲斐しくいろんなことをしてくれているのだろうし、そんな彼女の好意を疑うつもりは毛頭ない。
悟も硝子もそんな彼女のことが好きだし、私だってそうだ。私の場合、そこに恋愛感情が入ってしまったけれど、それを抜きにしても彼女のことは大切だと思っている。
だから、わかる。
彼女は私たちの傍に居ながら、目に見えない壁を築いているのだ。
入学当初のような絶望的に遮断するような分厚い壁ではない。
それは例えば境界線。
どんなに仲の良い私たちにさえも踏み込ませはしない確かな境界線を、彼女は持っていた。
立ち入ろうとした瞬間に遮られる感覚。
近くにいればいるほど思い知る、絶対の境界線だった。
『ここから先は、入ってきてはダメだよ』
決して言葉にはされない、けれどそう云われているのがわかるような確かな拒絶。
気付いた瞬間泣きたくなって、同時に腹が立った。
口では親友だの相棒だの云っておきながら、肝心な部分では結局赤の他人になるのは、酷い裏切りに思えて仕方がなかったのだ。
すぐ傍に居るのに。
手を伸ばせば届く距離にいるのに。
キラキラした綺麗な笑顔を、向けてくれるのに。
越えることを許されない、すぐ傍にある透明で強靭な高い壁。
悔しい。
きっと君に云われたら、私は何でもしてあげるのに。
君は、私たちには何も望んではくれないのだ。
――ゴン、と。
彼女が悟の為に買った飲み物が受取口に落ちた音と同時に、私はほとんど無意識に手を伸ばしていた。
そうして彼女の肩を掴み、引き寄せる。
勢いで手から離れた缶が空に舞い、数秒後、がちゃん、と嫌な音を立てて地面に落ちた。立って飲むような行儀の悪いことはしない子だから、中身がこぼれることはないだろう。少し肌寒いこの季節だから、温かいものを買っていただろうから、中身が炭酸という心配もあまりしていない。
というより、そんなことを気にしている余裕は私にはなかった。
驚いたように目を丸くする彼女に、むしろわずかに腹が立った。
人の気も知らないで。
自分ですらどうして今こんな気持ちになっているのかわからないのだから、当然彼女にだってわかるはずもないのに。
これはひどい八つ当たりだった。
それでも、問わずにはいられなかった。
「どしたの?」
「君は」
「うん?」
こてん、と不思議そうに首を傾げる。
その仕草は無邪気な可愛らしさがあるのに、いつもならば私は迷わずそのことを伝えるのに、今の私は全く別のことを口走っていた。
「君は、どこに行くつもりなんだ」
疑問形にはならなかった。
根拠はない。
けれど何故か、確信に近い何かがあった。
――彼女は、いつか私の、私たちの前からいなくなるつもりなのではないだろうか。
漠然と、しかし決定的に。
予感がしていた。
何も今すぐにいなくなってしまうわけではなく、現に彼女は目の前にいるのに、彼女がいなくなってしまうことを考えるだけでこんなにも胸が締め付けられて苦しい。
考えすぎだと、被害妄想だと云われたらそれまでだ。
きっと、そうなのだと思う。
そうであってほしいと願う。
しかし、一度浮かんだ考えがそう簡単に払拭されることはなく、大きな目で私を見上げてくる彼女を見つめながら、私はそれ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。
すると困ったように眉を下げた彼女は、私を見上げてゆっくりと口を開いた。
「私はどこにもいかないよ。約束したでしょ」
まるで子供にそうするように私の手を握る彼女の手は、泣きたくなるほど温かい。
出会うタイミングも悟や硝子とはズレていて、入学も遅れてきたくせに、いつの間にかするりと私の日常の中に入り込んできて、居座って、へらへらと気の抜けた笑顔を振りまいて。
それを心地良いと、思ってしまって。
失いたくないと、心から願ってしまって。
恋人がいると知っても諦めることも出来ず、せめてこの気持ちを抱えたまま黙っていればよかったのに、どうしても堪えきれずに吐露してしまったのは私の心が弱かったからだ。
けれど彼女はそんな私に呆れこそしても、冷たく突き放すようなことは云わなかった。
いや、ある意味ではそれ以上に酷いことを云われたけれど、少なくとも、私自身を拒絶することは一言だって云わなかった。
それは彼女の優しさであり、甘さであり、残酷な部分でもあった。
「夏油が望む限り、私はここにいるよ」
彼女は笑っている。
当たり前でしょう、と云って。
それなのに、じゃあ、どうしてこんなにも虚しいのだろう。
君の笑顔が、どうしてこんなに歪んで見えるのだろう。
堰を切ったように溢れた涙をそのままに、私は嗚咽を押し殺した。
彼女はそれ以上何も云わない。
何も云わずにただ手を握って、そこにいてくれた。
そこに、いてくれた。
――私は、涙が止まらなかった。