前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います!   作:秋元琶耶

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彼氏に会いに行ったら任務になって不貞腐れながら呪詛師をぶちのめす話、後半戦

思ったより長くなったから前後編にしたのに更に長くなったしそのままにしたのでめっちゃ長い後編になってしまいました。めっちゃ暇なときに読んでください
弊支部のナナミン、そっと考えがち

長くなりすぎて何の話かわかんなくなっちゃったって人は、こういう嫌な事件があったんだよってことを覚えてもらえれば大丈夫です。別に伏線とか何もないんで! ヘヘッ 何にもないんで大丈夫ですよ!! ヘヘッ

※最後に若干の残酷表現があります。改めて注意書きしますが、嫌な方は読まなくて大丈夫です

※今回しか出番はないであろう先輩の名前: 小牧先輩


彼氏に会いに行ったらみんなも来ててんやわんやになったので、とりあえず呪詛師をぶちのめします・後編

 

控室に向かう組と別れ、五条達と共に館長のいるであろう事務局に向かいながら、幸音はかったるそうに頭の後ろで手を組んだ。

 

「五条、わかる?」

「あー、多分。でも大した腕ではなさそうだな」

「だね」

 

言葉少なに納得したように頷く先輩二人に、灰原と七海は顔を見合わせた。

何の話だ。

 

「あの、五条さん、幸音先輩」

「んー?」

「私たちにもわかるように話してください」

 

後ろを歩いていた後輩二人を顔だけで振り返った幸音は、少し何かを考えるように視線を上に動かした。それから一度五条を見ると、五条は何も云わずに肩を竦める。それに頷くと、今度は身体ごと二人を振り返り、そのまま後ろ向きに歩きながら口を開いた。ちなみに、普段はくだらないことでぎゃーぎゃーやっている二人だけれど、こうしてみていると実は仲が良いんじゃないかと七海たちが思ったのは内緒である。

 

「ふたりは今日の任務内容って知ってるよね?」

「依頼書は読みました」

「おっけ。じゃあ問題です、この区民ホールで起きてる一連の事故の原因はなんでしょう?」

 

そんな歩き方すると危ないですよと云いたいが、それよりも今の幸音の言葉の方が気になった。

幸音は演奏会が終わったついさっき依頼書に目を通したばかりでも、灰原と七海は数日前にはすでに依頼書は見ている。当然、重要な部分は頭に叩き込んである。術師として当然だ。

何を今さらと思いつつ、出来た後輩なので反論の前にまず質問にはちゃんと答える。

 

「ホールを根城にする呪霊という線が濃厚、と依頼書にはあったはずですが」

「僕もそう記憶してます」

 

なるほど、このふたりはちゃんと依頼書の内容を理解しているようだと幸音は満足そうに頷いた。何級の任務であっても碌に依頼書なんて読まないどこぞの五条悟とは大違いである。

 

階級だけで云えば、ふたりはとっくに幸音を追い越した実力者だ。

特に七海はまだ一年生なのに2級も目前という将来有望の後輩。そんな彼らに術師としての実力こそ及ばないが、しかし幸音は優秀な補助監督であり、たった一年だけとはいえ二人よりも多く生きており、ついでに前世の記憶があるおかげで同世代よりも随分精神的に大人である。いやそこはちょっと疑問が残る部分はあるが。

何が云いたいかと云うと、いくら優秀で実力のある後輩二人でも、まだまだ詰めが甘いということだ。

笑顔になってピッと指を立てた幸音は、悪戯っぽく続ける。

 

「呪霊が帳を下ろす?」

 

幸音の言葉にハッとした後輩二人は、思わず顔を見合わせて声を上げた。

 

「……呪詛師!」

「そ。今までは呪霊の仕業に見せかけてたんだろうね。それを隠れ蓑に、一体何をしてたかって話だねぇ」

「どーせ碌でもねぇこったろ。まぁでも今日で終わりだけど」

 

どうやらこの二人は、帳が下りた時点で呪霊単体の仕業という可能性を排除し、この件には呪詛師が絡んでいると判断したらしい。おそらく、この場にいない残りの先輩たちも同様だろう。

 

先輩を信頼する気持ちは今までもあった。

何だかんだ云っても任務はこなすしあらゆる面で実力もある人たちだったから、いくら普段がちゃらんぽらんでも殊任務においては信頼だけはしていた。

しかし控えめに云っても尊敬はしていなかった。というか出来なかった。詳細は察していただくとして。

決して先輩たちのことは嫌いではなかったけれど、だから尊敬するということには繋がらなかったのだが、これは考えを改めるべきだろうかと七海は考えた。

依頼書に虚偽はなくとも、依頼書の内容だけがすべてではない。わかってはいたのに、自分たちは呪霊の仕業という依頼書を鵜呑みにして、幸音に指摘されるまで呪詛師が関わっている可能性を失念していた。

悔しいが、少なくとも彼らが広い視野を持っているのは羨ましいことだと素直に認めるしかない。

 

自分たちがひっそりと見直されていることに気付かない五条と幸音は、ようやく見えてきた事務室の扉をノックしてから遠慮なく開け放つ。

五条単体ならともかく、幸音もいるのに若干横柄に見えるその態度に少々疑問が残ったが、これも何か考えがあるのかもしれない。もう少し静かに、と云いたい気持ちをぐっと堪え、七海と灰原は黙って二人に続いて事務局に足を踏み入れた。

すると、どうやら話し合いの最中だったようで、そこそこ広い事務局の一角に職員全員が集まっていた。と云っても大人数ではなく、館長を含めて十人程度だ。こういった区民ホールならばもっと多くの職員がいそうなものだが、少なくともこの場にはいないらしい。

開いたドアの音でこちらに気付いた館長が振り向き、ホッとしたように息を吐いた。

 

「ああ、高専のみなさん! 申し訳ない、今そちらに戻ろうとしていたところでした」

 

申し訳なさそうにこちらに駆け寄り、館長自ら応接用のソファを勧めてきた。それをやんわりと遠慮しつつ、今度も幸音を主軸にして話を進める。

 

「お気遣いなく。あちらは心配ありませんから、館長も職員の皆さんと事務局にいてください。職員の方はここにいる方々で全員で間違いないですか?」

「ええ、はい。今日は高専のみなさんがいらっしゃることが決まっていたので、最小限の人数で運営していました。この時間は業者もいないはずなので、ホール内に残っている職員はこれで全員です。それと、学生がまだ残っていた件ですがやはり連絡がうまく出来ていなかったようで、大変申し訳ありませんでした」

 

顔色悪く早口で頭を下げる館長を見る幸音の眼は冷たい。しかし、ここで館長を糾弾したところで現状は何も変わらないのだ。

 

「承知しました。では私たちはこれから館内を回ります。みなさん、申し訳ありませんが、私たちが戻ってくるまでこの部屋からは出ないようにしてください。何があるかわかりませんから」

 

そう云って、幸音は五条に目くばせをする。

面倒くさそうに頷いた五条は、館長に勧められた通りどっかりとソファに腰を下ろす。本気で待機するつもりなのだ。いつの間にか職員が用意してくれていたお茶もお菓子も、当たり前のように手を伸ばしている。さすがの精神力だと感心したのは半分嫌味だ。

 

「さて、行こうかナナミン」

 

こちらは完全に五条に任せるつもりなのだろう。余計な言葉をかけることなくあっさりと事務局をあとにする幸音はいっそ清々しい。

何度も云うが実力は認めていても人間的にはマイナス評価しかない五条をこんな場所において行くのは少々不安だったが、一応灰原もいるので彼に任せることにし、七海も軽く頭を下げてから幸音の後に続いた。

待機と云っても気は抜けない、と少し意気込んでいた灰原が五条の態度に呆気に取られているのは気の毒だが、正直七海は幸音とペアでよかったと思ってしまった。こんな状況で五条とペアなんて、予備の胃がないとやってられない。

 

来場者が全員帰り、職員も業者もいない館内はがらんとしていて昼間なのにどこか不気味な雰囲気がある。ついさっきまでは、素晴らしい音楽の余韻に浸る心地よい空間だったのに。

人気のないホールに響く自分たちの足音が、嫌に耳につく。なんとなく嫌な感じがするな、と七海は息を飲んだ。

 

「幸音先輩」

「んー?」

 

付近に呪霊の気配がないことを油断なく確認しながら、七海は実はずっと気になっていたことを今のうちに訊いてみることにした。

 

「どうして私を指名したんですか?」

「え、嫌だった……?」

「そういうわけではなく」

 

傷付いたような顔をされて、柄にもなく七海は焦った。

違う、断じてそういう意味で云ったのではない。

口下手が災いして、確かにそう取られてもおかしくない云い方になってしまったのは否定しないけれど、そうではなくて純然たる疑問を抱いただけなのだ。

 

表情はあまり変わらなくとも内心大焦りな七海に、しかしちゃんと七海の疑問の真意は捉えていた幸音はすぐにケロッと顔を戻して口を開く。

 

「五条の術式、まだ完全にコントロール出来てないからあんまり使わせたくないんだよね。それにほら、建物の中でひょいひょい【赫】ぶっぱなすわけにもいかないし、今回は体術メインでやってもらう予定」

「だから灰原を付けたんですか」

「そうそう、灰原くんは近中距離型で柔軟に援護も出来るからね」

 

このホール全体は建物としてとても広い。

予想外の事態になって夏油と家入が戦力に出来なくなってしまった以上、ただでさえ少ない人数をどう振り分けるかは重要なことだ。

だからこそ、補助監督としては優秀でも術師としてはいまいちな幸音は五条とペアで、自分たち一年コンビが後方支援になるのかと思っていたのに、その予想が大きく外れた七海には疑問しか残らなかった。

 

実力的には当然五条が断トツだ。彼が任務に当たって失敗することはまずない。

それなのに五条は待機で、自分が最前線にいるというこの状況が七海には不思議でしょうがないのだ。

決して卑屈な意味ではなくそう伝えると、幸音は軽く笑って七海を指さした。

 

「今日のメインはナナミンだよ」

 

この際人を指さす行儀の悪さは置いといて、どういう意味か分からず首を傾げると、幸音は続けた。

 

「今回の目的は事故の原因究明と排除だからね。死人も出てないし、呪詛師を殺すわけじゃなくて拘束してそれなりの機関に引き渡しまーす」

「だったら尚更私よりも五条さんがやったほうが確実なのでは?」

「ちっちっち。ナナミン頭良いのに時々抜けてるなぁ」

 

絶妙に苛立つ云い方である。反射的に眉間に深い峡谷を刻んだ七海は、しかし次の幸音の言葉に呆気に取られた。

 

「後輩育成も術師の重要な役割だよ。今回の件、ナナミンなら任せられると思ったから任せるの。あ、別に灰原くんには任せられないって意味じゃないからね?」

 

この人は、随分と前を見ているのだと七海は驚いた。

自分なんて今目の前で起きていることを解決するのに精いっぱいなのに、彼女は今だけではなく今後のことまで考えて、その上で自分に任せると云う。

いつもへらへらしてるくせに。

五条と一緒になってくだらない話題ばかり振ってくるくせに。

肝心なところはしっかりしてるなんて、ずるいんじゃないだろうか。

 

「……善処します」

「うん、頑張って!」

 

信じてくれているのだ、この人は。

ならば応えよう。

言葉にするのは苦手だから、せめて態度で示そう。

グッと握った拳を差し出してきた幸音に同じように拳を合わせ、七海はそっと心に決めた。

 

館内すべての部屋をくまなくチェックしながらふたりは歩く。

しかしめぼしい発見もなく、五条や夏油たちから緊急の連絡もない。一般来場者が足を踏み入れられる場所はすべて見たが異常なし。

が、何もないはずがない。

呪詛師の意図など理解できないが、何もなければ帳など降ろす必要もなかったはずだ。

知らぬ存ぜぬを通し、わざわざ幸音たちがいる今日という日に事を起こさなければまだもう少しは活動を続けられただろうに、当てつけのように一般の高校生がいるこの状況で帳を下ろしたのだ。それなりにあちらもやる気なのだろう。あるいは途轍もない阿呆か。もしくは、派遣されたのがまだ学生だと知って甘く見たのか。

 

どっちみち幸音たちが呪詛師を逃がすことはない。

それに、念の為館内全てを回っているだけで、実は幸音には呪詛師がいるであろう場所にはすでに目星がついていた。

 

「闇の取引でもしてたのかな~」

「こんなところでですか?」

 

今は高専が派遣されるという理由で人払いがされている館内も、平時であればもっと多くの職員と、出入りする業者で溢れている。こんなところで違法取引だなんて、人目について仕方がないだろう。

それを指摘すると、幸音はごもっともというように頷いてから、しかしピッと人差し指を立てて続けた。

 

「それが盲点。ナナミン、事故が起こった日付と時間確認した?」

「もちろん。しかし曜日にも日数にも特に規則性は……」

「ないね。でも、報告書には記載がなくても、ホールのホームページにイベント日程が載ってるの」

 

それはその通りだ。

インターネットが普及して久しい昨今、アナログの掲示板だけでは情報共有が十分とはいえない。些細な情報でもインターネットを介して多くの人に情報提供できるというのは非常に素晴らしいことだ。

当然、日々多くのイベントの会場となっているこの区民ホールにもホームページが存在しており、数か月先までイベントスケジュールを公開している。

そして終わったイベントに関しては、簡単な情報がアーカイブに保存される。

 

「ホールでのイベント後の時間に毎回事故って、なーんかにおうよねぇ」

 

幸音は、事故のあった日をイベントの日程と照合したのだ。

それが補助監督の仕事なのだと云えばそれまでだけれど、彼女ほど補助監督の職務を全うする人が他にいるだろうか。少なくとも他に思い当たる人物など七海は知らない。

 

彼女に驚かされるのは、今日だけで何度目だろう。

七海は自分の視野が狭いとは思っていない。強いだけでは準2級には上がれないし、2級なんて夢のまた夢だ。上に上がるにつれ、実力以外の部分の能力も求められるのは当然だ。

しかし、それでも足りない。

幸音を軽んじていたわけではなかった。

それでも、ある程度は自分の方が強いという意識があったのだけれど、それは結局のところ術式に関してのことだけだった。

 

「……すみません、幸音先輩」

「え、何急に」

「私、今までは幸音先輩のことを誤解していました。いつもへらへらして五条さん同様何考えてるのかよくわからなくて、弱いくせに身体張って怪我しまくって正しいことしてる気になっている死に急ぎ女だと思っていましたが、考えを改めます」

「やだ……真顔で信じらんないくらい傷付けてくるじゃんこの後輩……」

 

思ったよりもぼろくそに云われた幸音である。確かに常に尊敬よりも呆れの視線を向けられることが多いとは思っていたけれど、まさか死に急ぎ女などと思われていたとは。普通にショックだった。

が、考えを改めてくれるというのならそれでいい。

意外に幸音はポジティブである。

 

しばらくの間、周囲を警戒しながら館内を歩いていた二人は、漸く表からの来場者が入れる場所はすべて確認し終え、今は関係者以外立ち入り禁止の区域を回っていた。

緊張感はあるものの、小声で軽く会話しながら歩いていると、ふと静かな廊下に不釣り合いな足音が聞こえた。

咄嗟に七海は幸音を見たが、彼女は特に気にした様子もなくそのまま歩を進めている。

聡い彼女がこの足音の異質さに気付いていないわけはないのに、これもまた何か考えがあってのことなのだろうか。考えを改めるとは云ったものの、人間そう簡単に切り替えられるものではない。一周回ってやっぱり何も考えていないのでは、と疑わしく思いつつ、七海は幸音に倣って平静を装った。

 

それからすぐに備品倉庫がまとまっている一角に足を踏み入れた時、幸音はピタリと足を止めた。

慌てて七海も立ち止まると、幸音の視線の先にはスーツ姿の一人の男がいた。パッと見はここの職員にも思えなくもないが、部屋から出るなと言明した上で五条が待機している事務室にいるはずの職員がこんなところにいるのはおかしい。

七海が誰何の声をかける前に、幸音は場違いなほど明るい声を上げた。おかげでちょっと七海はギョッとして固まった。

 

「こんにちはー、こんなところでどうしました?」

「え、あ、ああ、ええと」

 

しかしそれは男も同じだったらしい。

こちらの姿を確認して驚いたように固まっていた男は、幸音の朗らかな挨拶に応えるべきか迷っているようだった。

それに、スーツの男と、私服の未成年二人では、この場合どちらが不審なのか微妙なところだ。

が、幸音はその辺りは特に気にした様子もなくニコニコと続ける。

 

「もしかして道に迷っちゃいました? このホール大きいですもんね、私もよく迷いますよ~」

「そ、そうなんだ、実はちょっと迷っちゃって。でももう今日はいいんだ、帰ることにするよ」

「よかったら出口まで案内しましょうか?」

「いや、来た道を戻るだけなら出来るから、大丈夫だよ。ありがとう」

「そうですか。じゃあ、」

 

一度言葉を切り、にっこり笑顔の幸音は云う。

 

「その呪具、置いて行ってもらえます?」

 

瞬間、空気が張りつめた。

幸音の声音は相変わらず、まるで天気の話をするかのようにのんびりとしたものだった。

それなのに、その口から飛び出してきたのは『呪具』という言葉。

七海たち呪術師には聞き慣れたものでも、一般人に投げるようなものではない。

ふとここで七海は考える。

無駄と余計なこととお節介しかしないように見えて、後から考えてみると意味のある行動をとっていることの方が多い幸音が、一般通過迷い人に何の意味もなく『呪具』という言葉を使うだろうか?

仮にこの怪しいスーツの男が一般人であれば、正真正銘無駄で余計な言葉にしかならない。

 

けれど、――もしも。

 

「……呪具って何だい?」

 

困ったように首を傾げた男に、淀みなく幸音は続けた。

 

「あなたが今ポケットの中で握りしめてる小瓶ですよ。その中に呪霊が入ってるんでしょう? 式神というより、縛りによる使役なのかな? 祓わないで瓶に入れておく代わりに、外に出したときは好き勝手させてるとか。そもそもそんなに強い呪霊じゃないから、今までは死亡事故になるほどの事故は起きなかったんですね。ま、とにかくそれも今日で終わりです。大人しく観念してくださいね、呪詛師もどきさん」

 

怒涛の情報に頭が痛くなりながら、しかし術師としての本能で七海は自分の呪具準備をした。

鉈の、刃を潰した鈍ら。けれど七海の術式を行使するには何の問題もない、強力な呪具。

幸音はこの任務のメインは自分だと云った。口は出しても手は出さない、という意味だろう。だから、折角渡した屠坐魔は今はもう手にしていない。一応携帯はしていても、仮に今すぐ襲い掛かられたらすぐに取り出して応戦することは出来ない。

ならばやはり、今あの男と交戦するのは自分なのだ。

 

男は幸音の言葉に動揺した様子は見せない。というか、いっそ開き直ったようにあっけらかんと云った。証拠はないが、七海はこの男が黒だと確信する。

 

「俺はただ迷ってただけなのに、酷い云われようだな」

「ただ迷った人が関係者通路にいるわけないですよね。受付は正面玄関のすぐ近くだし、この通路は関係者用通路からしか普通来ません」

「方向音痴なんだ」

「めげませんねぇ」

 

小さくため息を零す幸音に、七海はハラハラし通しだ。

幸音の言い分は正しく、男が言い訳がましいのは明白であることくらい七海にもわかる。

けれど幸音の態度はどこか挑発的すぎて心配になるのだ。

男のボロを出させるための煽りなのかもしれないが、これはやりすぎなのではないかと思う。天才的煽りストである五条と夏油の学友だけあって、幸音もなかなかの煽りスキルを持っている。逆上されても文句は云えなさそうだ。

 

「そもそも君たちこそ、まだ子供だろう? 子供こそこんなところにいていいわけがない。警備員に突き出してあげようか」

「警備員はいませんよ。だからあなたも堂々と歩いていたんでしょう。ご愁傷様です」

「それはこっちのセリフだよ」

 

そこからの展開は速かった。

男がポケットに突っ込んでいた手を出すと、そこには幸音が指摘した通り小瓶が握られていた。見るまでもなく中身は呪霊。それを男は地面に叩きつけて割り、閉じ込められていた呪霊が飛び出す。

見た目からして知能のある呪霊ではないそれは、おそらく近くにいる人間を襲うようあらかじめ命令してあったのだろう。ものすごいスピードで幸音に襲い掛かるのを、七海は視界の端で確認した。

一瞬しまったと思ったが、そちらだけに意識を割くわけにはいかない。何故なら小瓶を叩き割ったのと同時に、男が幸音に向かって飛びかかっていたからだ。

弱い方から叩く戦法は間違いではないし、むしろ定石。この場合、七海と幸音であれば弱く見えるのは幸音で、実際その通りだ。その上幸音は先ほどまでの態度でかなり男からのヘイトを集めていたから、集中的に狙われても仕方ない。

が、当然七海はそれを良しとはしない。

素早く幸音と男の直線上に身体を割り入れ、男と正面で対峙する。呪霊のほうは見たところ低級のようだし、幸音に任せても大丈夫だと判断した上で、七海は男に集中した。

呪詛師といえどまともに戦えるような術式は持っていないようで、どうやら簡単な式神を扱えるだけで基本的には近接型の戦い方をするらしい。

ならば七海と同じ土俵である。

多少は戦い慣れているらしく、独特な体裁きで七海に応戦するが、所詮は雑魚だった。

念のため術式を観察するために多少手加減をしても一向に最初の呪具以外を使う様子はなく、その呪具から出した呪霊もやはりあっさり幸音に祓われている。

どうしても幸音を相手にしたい男が何度も七海を振り切ろうと試みても、さっさと呪霊を屠坐魔で片付けて手の空いた幸音は絶妙に男から狙いにくい場所を陣取っていてなかなか手を出すことが出来なかった。

それに、七海もこの程度の男に振り切られるほど弱くはないので、結果的に男の体力が切れて明らかに動きが鈍くなったところを七海の術式が正確に捉え、男はあっけなく御用となる。

呪詛師としては下の下だろうが、呪詛師は呪詛師。

七海は立派に自分の役目を果たしたと云えるだろう。

 

「くそっ、離せ!!」

「さっすがナナミン、お見事! 鮮やか~!」

「あまり煽らないでください、ハラハラします」

「いやー、ごめんごめん」

 

地面に押さえつけるように捕まえた男に、どこからか幸音が取り出したガムテープのようなものを巻き付ける。もちろんただのガムテープなどではなく、七海も持ってみてわかったが、呪力を吸い取るような効果があるらしい。立派な呪具だった。

いきなりの任務で屠坐魔すら持っていなかったはずなのに、一体どこに隠し持っていたのか、と考え、しかしもう幸音に関して余計なことを考えるのは徒労だと気付いた七海は、何も云わず男をガムテープでぐるぐる巻きにした。そう、長いものには巻かれるのが一番なのである。巻かれているのは自分ではなく呪詛師の男だけれど。

 

一先ず五条たちの待機する事務局に向かうため、男を立ち上がらせて自分の足で歩かせる。今さら逃げ果せるとも思っていないらしく、男は碌な抵抗もせずに素直に足を動かした。

が、歩きながら吐き捨てるように。

 

「偽善者どもが」

 

地を這うような低い呟きを拾い聞いた幸音は、逆に底抜けに明るい声を上げた。

 

「え、負け惜しみ? かっこ悪ー!」

「幸音先輩」

 

わかる。

気持ちはわかるが控えてほしい。

そうでないと自分の胃がねじ切れる。

 

振り返って歯ぎしりをしながら思い切り幸音を睨んだ男の背を押して歩かせながら、七海は深くため息を吐いた。

問題児は五条と夏油だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

ある意味、一見普通でまともに見える幸音の方が、むしろあの特級二人よりもずっと厄介な存在であると、この日七海は深く心に刻んだ。

 

「別に私、呪詛師は全員死ねとかは思ってないですよ。呪詛師だから悪い人って決めつけもどうかと思ってるし」

「じゃあ見逃してくれよ。俺は呪詛師かもしれないが、誰も殺しちゃいない」

「死んでないけど怪我はさせてるでしょう」

「仕事なんだ、仕方ないだろう」

「それを仕方ないで片付けようとしてるところがクソ呪詛師ですよね」

 

幸音の云うことはいちいち最もだが、正論こそ時に何よりも暴力になる。

現に男は幸音の言葉に逆上して襲い掛かってきたのだ。いくら伏黒甚爾に体術を叩きこまれている身であっても幸音は女で、相手は成人男性。こういう態度を取っていては命がいくつあっても足りないだろう。

守ってあげたいなどとは思わないが、今後は注意してみていよう、と七海はそっと決めた。危なっかしくてみていられない。

 

「……お前の顔、覚えたからな」

「あらやだタイプだった? でもごめんなさいね、気持ちは受け取れないんで」

 

そういうところですよ、という言葉の代わりに、七海は深くため息を零した。

そうして事務局まであと少し、というタイミングだった。

ふと顔を上げて何かを注視するようにしていた幸音が満足そうに笑う。

 

「あ、いつの間にか帳上がってたね。五条のほうもうまくやったみたいだ。いやー建物の中にいるとわかりにくいねぇ」

「ということは協力者がいたんですね」

「大方、ホール職員の誰かでしょ。そうじゃなきゃ、イベントのある日に毎回部外者を関係者エリアに入れられないもん」

 

ということはつまり、それも考慮した上で五条と灰原を事務局待機にさせたのだ。

つくづくよく回る頭だと感心するのと同時に、少しだけ七海は幸音を恐ろしく思う。頼りになるのに、実際幸音のおかげで任務が解決していると云っても過言ではないのに、あまりに有能すぎて恐ろしいなんて、酷い矛盾だ。

 

今度はノックもせずに事務局のドアを開けると、五条は幸音と七海が出て行った時と同じように不遜にソファに腰掛けていた。テーブルの上のお菓子はすっかりなくなっている辺り、こいつは本当にお坊ちゃんなのだろうかと疑問に思う。もちろんその疑問を素直に口にするうっかりはしない。

五条の隣で灰原が締め上げている男が、おそらく呪詛師の協力者だったのだろう。完全に目を回しているらしい。

確か、幸音たちが最初に事務局に入ってきたときに一番怯えたような態度を取っていた男だ。もしかして、そういう反応を見るためのあの態度立ったのだろうかと考えて、いや素だろう、と考え直す。何でもかんでもいいように捉えすぎるのは良くない。

 

「お疲れ~」

「おっせーよ。雑魚相手に何手間取ってんだよ」

「いや、ナナミンはちゃんとうまくやってくれてたからね。ただ、一応館内全部チェックしてたからちょっと時間かかっただけだよ」

 

おそらく、五条の方は早々にけりを付けていたのだろう。共犯者は、決して小さくはない区民ホール全体を覆えるほどの帳を下ろせる程度には呪力があったようだし、一般人にはそんな呪力はない。五条の六眼にかかれば、共犯者をあぶりだすことなどたやすかったのだ。

そんなわけでさっさと自分の仕事を片付けていた五条は待ちくたびれてしまったようだ。

幸音も時間をかけた自覚があるのか、軽く謝りながらも七海に非はないと当たり前のようにフォローすると、五条も事情を察したのかフンと鼻を鳴らすだけでそれ以上は何も云わなかった。

 

念のため共犯者のほうも幸音が持っていたガムテープでぐるぐる巻きにしていると、再び事務局の扉が開いた。

館長たちに簡単な報告をしていた幸音が振り返ると、灰原から呪詛師捕獲の連絡を受けた夏油と家入が戻ってきたらしい。

 

「幸音」

「あ、夏油も硝子もお疲れ。無事終わったよー……って小牧先輩!?」

 

が、そこには小牧の姿もあった。

てっきり他の学生と同じように控室で待っていると思っていたし、いくら首謀者と協力者を捕まえたとはいえこんな現場に一般人を連れてくるなんて何を考えているのか、と夏油に問いただそうとするが、ごめん、と夏油に先手を打たれて幸音は言葉を飲み込んだ。

 

「どうしてもっていうから。私もいるし大丈夫かなって思って連れてきてしまったんだ」

「僕が幸音ちゃんのこと心配で、我儘云ったんだ。夏油くんのこと怒らないでね」

「……もー……」

 

そして小牧本人からもこんなことを云われてしまい、幸音は小さく息を吐く。

確かに、何も事情を知らない小牧が、この状況で自分の彼女を心配するのは当然といってもいい。多分逆の立場であれば自分もそうするだろうという自覚があったし、一応事態は収束しているということを考慮すれば、そこまで怒るようなことでもないだろう。

幸音は小さく肩を竦めると、まずは館長への報告の続きを終わらせるべく一度彼らに背を向けた。

 

呪詛師と共犯者の身柄はこちらで預かる旨を了承してもらい、後日正式に報告書を送ることでこの場の処理は完了だ。控室の学生に対しては、職員から事情説明をして今日のところは帰ってもらうことになった。

職員よりもあの場で一緒に待機していた夏油や家入が話した方が安心するのでは、と控えめに館長が云ってきたが、ふたりはここの使い走りではない。

ただでさえホール側の不手際で余計な護衛をする羽目になったのに、その辺りについては考えが及ばないのだろうか。補助監督としても術師としても、この館長についてはしっかり上に報告しようと幸音は心に決めていた。

にこやか且つ迫力のある笑顔で『職員の方にお願いします』と幸音が押し通し、何かを感じ取った勘の良い職員数名が慌てた様子で事務局を飛び出していった。彼らは有能だ。

職員の説明でも納得できなければ、後日改めてでっち上げた書類を高校に提出する必要があるかもしれない。まぁ、控室にいた小牧曰く、特に不満が出たり不審に思われたりはなかったとのことなのでその心配はないだろうが。むしろなんだか非常事態に遭遇できて楽しそうだったというので、ものすごく楽観的な人の集まりなのだろう。よかったようなちょっと心配なような複雑な気分だが、問題なければそれが一番だ。

 

そうしてやっと一息を吐き出し、疲れた笑顔を浮かべて幸音は指でオッケーサインを作る。

 

「幸音ちゃん、怪我とかはしてない? 大丈夫?」

 

先ほどまでは大人しく夏油の後ろに控えていた小牧は、急いで幸音に駆け寄った。

目に見える怪我はしていないことを確かめて息を吐き、本当に心配そうな顔で幸音の手をギュッと握る。

その手は微かに震えていて、いくら幸音を信じていたとしても、それはイコール心配しないということにはならない。自分たち学生の身の保障は夏油に約束されていても、見えないところで何をしているかもわからない幸音のことはどう足掻いても心配だった。

元気な背中を見送り控室に戻った後も、何でもないふうを装いながらも心の中ではずっと幸音のことを考えていた。

何をするのかわからない。

何が起こっているのかもわからない。

ただ、幸音が自分には想像もできない非日常の中にいるのだということだけがわかった。

 

少し前まで自分も一般人側だった幸音にも、小牧の気持ちはわかる。

だから、小牧が安心できるようにギュッと手を握り返してにっこりと笑顔で云った。

 

「はい、大丈夫ですよ。私はほとんど何もしてないので、ナナミンが頑張ってくれましたから」

 

ね、と満点の笑顔で振り返られても七海は困る。頷いていいのかどうかわからない。

確かに呪詛師と戦って捕まえたのは七海だが、どう考えてもお膳立てされた舞台だった。結果だけ見て自分の手柄だと胸を張れるほど、七海は恥知らずではない。

しかしここは否定するのは違うのだろうとわかっているので、七海は無難に頭を下げることで返答にした。

 

すると、観念して黙っていたと思っていたのに、呪詛師の男はわざとらしい感嘆の声を上げた。

 

「ははっ、有名人が揃い踏みだなぁ」

 

それはおそらく、五条、夏油、家入のことだった。何せ幸音は術式がしょぼすぎて一部には呪術師ではないとまで断じられている。呪術師側でその扱いなのだから、一介の補助監督の情報が呪詛師にまで回るとは考えにくい。

五条家の六眼持ち、呪霊操術の使い手、反転術式のスペシャリスト。冷静に考えずとも、なんでこの万国人類びっくりハイスペックショーの中に自分が混じっているのか幸音は未だに謎だった。一万歩譲って七海や灰原と同じ学年のほうがましだった。

この男が呪詛師の中でどういう立場なのかは知らないが、やはりそちらの界隈でも五条たちは話題になっているのだ。有名人も大変だなぁと他人事のように思いながら、幸音は笑う。

 

「有名人だって。やったじゃん」

「モテる男はつらいわー」

「照れるね」

「云ってなよ」

 

とにかく、任務はこれでほぼ完了だ。

呪詛師が持っていた呪霊は幸音が祓ったし、主犯と共犯はこうして捕まえた。あとは然るべき機関に突き出すだけで、男たちがこんな暴挙に出た理由や原因を探るのは術師の役目ではない。この二人を捕まえた以上、もうこの区民ホールで不可解な事故は起こらないはずだ。

連行するのは補助監督に頼むので、さっき幸音が呼んだ補助監督にふたりを引き渡した時点で術師としての任務は終わりとなる。報告書は七海の役目になるため、真面目な七海は帰ってからすぐ書き始めるだろう。

 

「――呪霊操術だなどと、汚らわしい」

 

当初の目的だった七海主体の任務もひと段落してホッと息を吐いていた幸音は、しかし背中にぶつけられた吐き捨てるように呟かれた言葉にぴしりと動きを止めた。

息を、飲んだ。

縛られて身動きも取れない男を振り返り、まじまじと見る。

何を云っているのか理解できないようだった。

 

言葉を理解できないのではない。

言葉の意味がわからない。

 

これまでずっと飄々としていた幸音のこの反応に、男は気を良くした。

そうか、この女は自分への悪意は流せても、自分の近しい相手への悪意はダメージになるようだ、と思った。

 

それは間違いではないが、――決して正しいことだとも知らずに。

 

「呪霊を取り込む? ハッ、物は云いようだな。呪霊を食うだけだろう。呪いの塊を取り込むなど、人間のすることではない」

 

実際にこの言葉を向けられているのは夏油だが、彼自身はこの手の言葉は聞き飽きている。

ともすれば敵だけではなく仲間――と呼ぶのもおぞましいが、呪術界の上層部は一応敵ではない――からも投げつけられることのある類の言葉だ。今さら動揺もしなければ傷付きもしないし、呪詛師如きに何を云われたところで痛くもかゆくもない。強がりや虚勢でもなく、本当になんとも思っていない。

それにどうせ最後の悪足掻きなのだから、可哀想だしこのまま好きに云わせておこう、と思って放置していた。

 

しかし、夏油は良くても彼女は駄目だった。

幸音は未だ握られていた小牧の手をゆっくりと離し、ゆらりと一歩足を踏み出し、身体を男の方へ向ける。

 

「――駄目だ、幸音」

 

咄嗟にその腕を掴んだ自分を五条は褒めた。

自分に比べたら細く弱そうに見えるこの幸音の腕は、しかしただの一般女性のように弱くはない。術式なしでも呪具ひとつで呪霊や呪詛師と渡り合ってきただけあって、それなりの実力者ではあるのだ。五条をはじめとした周囲が異常に強いだけで、一般人からしたら幸音も十分に強い。

この呪詛師に対してもそうだ。拘束を外してまともにやりあったとしても、きっと勝つのは幸音だ。

では、拘束された状態で幸音が男を一方的に攻撃したら?

当然、呪詛師相手に手加減なんてするわけはないので、最悪死に至るだろう。

呪詛師のことを庇うわけではないけれど、いくらなんでもそれはまずいということくらい五条もわかる。

常識だモラルだという言葉に当てはめられるのは大嫌いでも、最低限のやっていいことと悪いこと、時と場合くらい考慮はするし、何よりこの場にいるのは自分たちだけではないのだ。

 

見た目からは想像も出来ない力強さで五条の手を振りほどこうとする幸音を抑えながら、おそらく先ほどの男の言葉が幸音にとって最悪の地雷だったのだと五条は冷静に判断する。

幸音が夏油を大切に思っているのは十分わかっていた。

普段いくら顔だけ男だのクズ男だの女誑しだのと云っていても、その言葉の根底には圧倒的な温かさと信頼、慈愛ともとれる優しさがあることを五条は見抜いていた。

理由まではわからないけれど、自分や家入に向けるのとはまた違う、彼氏である小牧に対してとも違う種類の感情を幸音は夏油に持っている。

そんな夏油のことを悪し様に云った男に近付く幸音が一体何をするのか想像できないほど、五条は馬鹿ではなかった。

 

「五条、離して」

「駄目だ。今のお前じゃこいつを殺しかねない」

 

だからこそ、はっきりと言葉にする。

冗談や比喩で云っているわけではなく、このとき五条は本当に幸音が男を殺すのではないかと危惧した。

 

撒き散らすような殺気はなかった。

けれど、幸音が男に向けた視線の中には、確かな殺意があったから。

 

ゆっくりと五条を振り返った幸音は、彼が本気で自分ならやりかねないと思っているのだと察した。

それから、戸惑うように自分と五条を見ている夏油と小牧を見、小さくひとつ息を吐く。仕方ない。

 

「……わかった。殺さない。ちゃんと裁きは受けさせる」

「本当か?」

「ほーんと。大丈夫だって」

 

しばし疑わしい視線を向けていた五条は、考えてみればこの場には小牧も他の職員もいるのだから、いくらなんでも殺しはしないか、と考え直し幸音の拘束を解いた――

 

――次の瞬間、幸音は呪詛師の顔面を思い切り拳で殴りきった。

 

さすがの五条も呆気にとられたが、一発殴っただけで気が済んだらしくそれ以上の追い打ちをかけることがなかったのは僥倖だった。が、信じて手を放した幸音には思わず悲鳴のような声が出た。ある意味レアである。

 

「ちょ、おっまえなぁ!!!」

「殺してないし、殴らないとは云ってない」

 

しれっと全く悪びれることなく真顔で答えるが、その表情が静かにキレていることくらい五条にもわかった。

しかも瞬間的に呪力で拳を強化していたらしく、再び五条が掴んだ幸音の手には傷ひとつもなかった代わりに、男は見事に鼻血を垂らしている。ついでに衝撃で口の中も切ったようで、唇の端からも血が出ていた。

 

「く、くそ、この女……」

 

縛られているおかげでろくな受け身も取れない男は、思い切り床に倒れこんでいた。血走った目で幸音を睨み付けるが、そんな視線に怯えるような可愛げは幸音にはない。

怯むどころか真っ向からその視線を受け止め、静かに口を開く。

 

「お前が何を知ってるの?」

「はぁ!?」

 

この部屋にいる誰もが注目する中、幸音は続けた。

 

「お前程度の実力の呪詛師ごときが、呪霊操術の――夏油の何を知ってるの」

 

吐き出される冷たい声には強い殺意が籠っている。

視線のひとつに、心臓を貫かれているような感覚。もしも視線に物理的な力があったなら、男は串刺しになって死んでいただろう。

 

ここでようやくハッとしたのは夏油だった。

幸音が怒っている。

どこにきっかけがあったのかと思えば、男が自分を貶したからだという。

自分の為に幸音が怒ってくれるというのは嬉しいけれど、今は小牧もいるのだし、館長を初め区民ホールの職員もこの場にいる。いくら相手が呪詛師であっても、縛られて無抵抗の人間を殴りつけるなんて許されるわけがない。それは強者のすることではない。

それに夏油自身が男の言葉を何とも思っていないのだから、少なくとも今は幸音が怒る理由はないと思った。

だから未だ男を見下ろす幸音の肩を叩き、云う。

 

「幸音、落ち着いて。そう怒らないで」

「なんで」

「え?」

 

きょとんと首を傾げた幸音に、更に夏油は首を傾げる。

 

なんで。

なんで、とは?

 

疑問は顔に出ていたらしく、幸音は律儀に口に出して繰り返した。

 

「なんで夏油を貶されて怒らないでいいの?」

 

男に向けていた殺意から一変、本当に不思議そうな顔だった。

怪訝そうに眉間に皺を寄せるでもなく、軽く首を傾げて目を瞬く。

夏油が自分を諫める理由が本当にわからないようだ。

そんな幸音の様子に逆に戸惑った夏油は、何を云えばいいかわからない。

 

「いや、だから……」

「私は無理。誰であろうとどんな理由があろうと、術式のことも含めて夏油を貶す奴のことなんて許せない。夏油が怒らないなら尚更だよ。放っておいたら増長してつけ上がるんだから、こういうやつにはわからせてやらないと」

「幸音……」

「ねぇ、夏油。慣れたら駄目だよ。あなたを穢す言葉を平気で吐くやつらを、許したら駄目だよ。怒っていいの。許さなくていいの。慣れないでいいの。嫌なことは嫌だって云っていいんだよ。そのために私がいるんだから」

 

幸音の言葉に、夏油は絶句した。

もう、心配してもらえて嬉しい、なんてのんきな考えはとっくに抜けていた。

 

何度も云うが自分は幸音にある程度好かれている自負はあった。

それを喜んでいる自分もいた。

大切に思われているのだと、大事にされているのだと。

優しい彼女が自分の身を案じてくれているから、どんなにつらく苦しい任務も乗り越えて来られた。

 

夏油は幸音が好きだ。

言葉にする勇気はないけれど、黙っていれば消えて霧散するような大きさの気持ちではなくなっていた。

だからこうして自分のために怒ってくれるのは本来喜ぶべきなのに、自分のこと以上に悲しんで苦しんで憤っている様子の幸音を見たら、何も云えなくなってしまった。

 

どうして、と。

疑問を口にするのも、憚られた。

それを口にしたら、何かが瓦解するような、そんな気がした。

 

けれど一つだけ否定するならば、決して慣れたわけではないのだ。

自身を、そして術式を汚らわしいと吐き捨てられることなど、慣れるはずもない。

もちろん以前は相応に腹が立ったし、場合によってはそれなりの報復もしたけれど、いつの頃からか虚しくなってやめた。

どうせ何を云ってもそういう輩はいなくならないから、霧を相手にしているようなものだと気付いたのだ。

それにいちいち反応するのも面倒になっていたし、実害がなければそれでよし、無視で済むなら尚よしだと開き直っただけだった。

そうしたらいつの間にか、本当に気にならなくなっていった。

相変わらずごちゃごちゃ云うクソはいたけれど、自分にとって大切でも何でもない人間からの言葉に一喜一憂するのは馬鹿らしいと漸く気付けた。

そこからはもう気分は晴れやかで、何を云われても『また蚊が鳴いてるなぁ』という気持ちでいられたから、さっきの男の言葉だって同じように流していた。

 

けれど幸音はそれが駄目だという。

自分なりに最善だと思っていた対処を否定されて少しムッとしたが、心のどこかに幸音の言葉に納得する自分もいた。

無反応を貫くのは、最善だったかもしれない。

しかし、最良ではなかった。

きっと、そういうことなのだ。

 

ただ、少なくとも今の夏油は自分の気持ちを言葉に出来るほど考えがまとまっていない。

何か云わなくては、と思うのにうまく口を動かせなくて固まっていると、思わぬ人から助け船が出た。

 

「幸音ちゃん」

 

小牧だった。

この場にいるのが一番不釣り合いで異端で歪な、非術者。

固まる夏油の肩を叩き、優しく安心させられる笑顔を浮かべる。ホッとした夏油はやっと息を吐き、少し後ろに下がる。

呼ばれた幸音は、パッと小牧を振り返る。

夏油に向けたのと同じような優しい視線で、まっすぐに幸音を見ている。

そんな小牧に、幸音は訴えた。

 

「小牧先輩、私間違ってないですよね? だって、友達を悪く云うやつのことなんて私は嫌いだもん。黙ってみてるなんて、出来ないんです」

「うん。わかるよ」

「こんなやつ、私は大嫌い。夏油のことを何も知らないくせに、知った顔で見下すやつなんて、許せない」

 

小牧は固く握りしめられている幸音の手をそっと握った。

血が滲みそうなほどにきつく力の入ったその手は、わずかに震えている。多分、堪えきれない怒りのために。

少し赤くなってはいるけれど、どうやら怪我はしていない。

男を殴ったその手は呪力でカバーしていたから、実際幸音には殴ったダメージなどなかった。

だけど、この手は傷付いていると小牧は思った。

小さく、か細く、優しい幸音の手。

お菓子を作るのが上手で、人を気遣って差し伸べることができる、温かい手。

尊くて、愛おしい幸音の手。

 

これまでの人生、事故にも遭わず事件にも出くわさず、平穏で平凡な人生だった。

家族にも問題はなく、友人関係も部活も順風満帆、大学受験もおそらく推薦で入学が決まるだろう。

そんな滞りない小牧の人生で、初めて遭遇した今日の事件。

何が何だかわからないけれどトラブルに巻き込まれたことだけはわかって、何の因果か自分の大切な彼女が事件の渦中に飛び込んでいく背中を見送る羽目になった。

なんて日だ、と実は少しへこんでいたのだけれど、今になってやっとわかった。

 

きっと自分は、今、幸音に手を伸ばすためにここにいた。

 

「幸音ちゃんは、夏油くんが大切なんだね」

 

その、小牧の言葉に。

 

「――はい」

 

幸音は迷わず頷いた。

 

「……そっか」

 

途端、どうしてか胸の奥から途轍もない寂寥感と喪失感が湧いてきて、悲鳴を上げそうになるのを堪える。

それを飲み込んで、怒りのあまり冷たくなっている幸音の手を改めて握りしめた。

そうして、優しく、笑う。

 

「僕も、夏油くんのこと好きだよ」

 

お揃いだね、と。

優しく。

温かく。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

夏油を悪く云うやつなんて嫌い。大嫌い。

 

呪術師だろうと呪詛師だろうと非術師だろうと、誰であろうと許さない。

 

夏油が怒らないから私が怒るなんて、そんな夏油に理由を押し付けることは云わない。

 

私は、私が嫌だから怒る。

 

夏油に向けられる理不尽と不条理を、私が否定する。

 

理由なんてもうどうでもいいの。

 

ただ、夏油を見下して蔑んだ言葉を吐きだす奴らを見ると、もう居ても立っても居られない。

 

小牧先輩、びっくりしてたな。

 

五条も硝子も言葉を失ってた。

 

ナナミンや灰原くんは引いただろうな。

 

でも、無理だった。

 

人目があるから我慢なんて、私には出来なかった。

 

ねぇ、夏油。

 

私、嫌だよ。

 

あんたが酷いことを云われるの、嫌だよ。

 

黙ってみてるなんて、出来ないんだよ。

 

だから、ごめん。

 

 

――私は、我慢しない。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

キャプションで書いた通り、次のページには若干の残酷表現があります。胸くそ悪いかもしれません。

自己責任で読んでください。

自己責任の意味が分かる方だけでお願いします。

 

誰の目に留まるかわからないので、自衛させていただきますし、嫌な予感がする方は自衛してください。

 

一応、この話を読まなくても今後に支障はないようにするつもりです。

 

それでもいいよって方だけ、どうぞ。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

区民ホールから場所を移し、ここはとある山の中。

渋る小牧はなんとか説得して帰宅してもらってから、高専に車を回してもらい、共犯者だった職員を含めた五条たち六人は先に高専に戻っていった。

人数的に全員一緒にと云うのは無理だったので、幸音はもう一台手配した車を待って、男を然るべき機関に移送する手筈になっていた。

正直幸音と呪詛師を残すのは不安で仕方なかったが、さすがに心配しすぎだろうということで夏油たちは幸音を信じて先に戻ることにした。

本当は小牧も最後まで幸音と一緒にいるといっていたのだが、そこは仕事だからと幸音が珍しく強く辞したため、あとで絶対に連絡することを約束させて渋々と後ろ髪を引かれた様子で帰路に就いた。

 

そうして小牧と夏油たちが去ってすぐに、別途幸音が手配した車が到着した。

車を運転していたのは孔時雨で、後部座席でいびきをかいて寝ていたのは伏黒甚爾だった。孔はともかく伏黒は来ないかもしれないと思っていたので、任務外の呼び出しに素直に応じた伏黒に今度お礼をしなければ、と幸音は考える。

 

「すみません、時雨さん、甚爾さん。お手数おかけします」

「いやまぁ、俺はこういうのが本業だし別に構わねぇけどよ。いいのか?」

 

区民ホールから移動してくるときにも一応話したが、改めて手間をかけることを謝罪した。本当ならすべて一人で片付けたいところだったのに、未成年且つ車の運転が出来ないのではなかなかどうして思うようにはいかない。

考えた結果、幸音は補助監督ではなく孔に連絡を取った。

 

「お前さん、こういうのは一番嫌がると思ったんだがな」

「まぁ、普段なら絶対しませんけど」

 

今日はちょっと特別なんです。

そう云って笑う幸音の笑顔はとびきり可愛らしかった。

だから余計に孔は訝しんだし、この状況の異常性と面倒くささを察した伏黒は大きな欠伸を零しながら黙っていた。

 

目的の場所に到着し、ふたりと一緒に車を降りて着々と準備をしながら、幸音はあまりにいつも通りだった。

声音も、仕草も、何もかもがあまりにもいつも通り。

気負った様子はなく、当たり前の仕事をするだけのように見えた。

だからこそ孔は少し不安になる。

 

――幸音は今から、人間を殺そうとしているのに、と。

 

書類ならいくらでもでっちあげられる。まぁ高専側にはバレるだろうが、そこはうまくやる自信もあった。

幸音は警察にもどこにもこの男を突き出すつもりはなかった。

だから、夏油たちは先に帰し、孔と伏黒に声をかけた。

自分を信じて男を任せて帰っていった夏油たちを騙すになってしまい、多少の罪悪感はあるものの、それだけだ。

今からこの男を殺すということに対しては、特に罪悪感などは抱いていない。

 

殺すと決めた。

だから殺す。

ただ、それだけのこと。

 

慣れている人間なら、呼吸をするのと同じようにあっさりと殺しをするだろう。意気込んで殺す方が面倒だし、そういうときの方がかえってミスをする。

孔や伏黒ほどであれば、特に『今から殺すぞ』、と考えるまでもなく造作もなく殺せるだろうが、幸音は違う。

これまで人間を殺したことがあるかと問うまでもない。

真っ当に表の世界を生きてきた幸音に、殺人の経験などあろうはずもないのだ。

自信があるわけでもないだろう。

それなのに、この落ち着き。

異様と云っても過言ではない。

しかしそれを口にするほど孔は短慮ではなく、大人の対応として幸音の姿勢を尊重することにした。一足先に孔の後ろで作業を始めている伏黒も似たような意見だろう。この場所についてからは、珍しく文句も云わずに仕事をしているのがその証拠だ。

 

「人殺し」

 

突然三人の耳に飛び込んできたのは、忌々し気に顔を歪める男の声だった。

車の中に転がしていた時は適当に猿轡をかませていたのだが、きっとここに辿り着くまでの道中に転がされて緩んでしまったのだろう。まぁ、手を後ろ手に固定し足もまとめて縛っただけでトランクに放り込んでおいたので、この山道の不安定な足場のせいでトランクの中では転がされまくっていただろうから仕方ない。

それにどうせ、ここに来てから口くらいは解放してやろうと思っていたから猿轡が外れていても問題はないのだけれど、人殺しなどと云われるのは心外だった。

だってまだ誰も死んでいない。

男の共犯は今頃警察だろうし、死人も出ていない程度の事件では即死刑になどなるはずもないのだ。

だというのに。

 

「云うに事欠いて、今際の際の言葉がそれでいいの?」

 

孔に乱暴に立ち上がらせられ、後ろ手に腕を捻られた男は、脂汗をかきながら続ける。

 

「お前は人殺しだ。俺ら呪詛師と何も変わらない」

「え、私今まで人なんて殺したことないんだけど。あんたが初めてだよ?」

「だとしても、お前は人殺しだろう」

 

どうせここまで来たら生かして帰されるなどとは思っていない男は、ありったけの皮肉を込めて言葉を吐く。

 

「虫も殺せないような顔してお前は俺を殺すのか。俺の命をお前が刈り取るのか。お前は今後、人間一人を殺す重みを背負って生きていくんだな」

「……何を云ってるの?」

 

かくん、と首を傾げ、口元が弧を描いた。

それは笑顔と呼ぶにはあまりにも歪んでいて、男は背筋をゾッとさせた。

自分がその表情を向けられたわけではないのに、男の後ろにいた孔も流れ弾でなんとなく寒気を覚えるようなものだった。

屠坐魔を手にして軽く遊びながら、幸音は殊更ゆっくりと口を開く。

 

「お前の命に、背負うほどの重さなんてあるわけないじゃない。私も時雨さんも甚爾さんも、だーれもあんたのカスみたいな命なんて背負わないわ」

 

わらう。

 

「私はお前を殺すわ。虫けらのように殺すわ。まぁ、虫ほど上等な命ではないけどね」

 

笑う。

 

「さようなら、どうしようもないほどのお馬鹿さん。夏油を貶したりしなければ、殺したりしなかったのに」

 

――嗤う。

 

静かに、氷のように冷たく、炎のように激しい怒りをその目に携えて。

たった一人を貶した人間を、幸音は造作もなく殺す。

余程こういうことに慣れているであろう孔や伏黒に頼むでもなく、幸音は自らの手で男を殺すのだ。

表面だけの笑顔も捨て去り、怒りに満ちた瞳の中にまっすぐな覚悟を見つけた男は、自分の命はあっけなくここで終わるのだと悟った。

だから最後の最期に、少しだけ悪足掻きの言葉を吐く。

 

「お前は狂ってるよ」

 

幸音はにこりともせずに答える。

 

「何を今さら」

 

そうして、孔によってさらけ出すような格好にされていた首元をめがけて、屠坐魔を一閃。

真一文字に男の喉を掻っ切ると、パッと目の前が赤く染まった。やはり切れ味のいい刃物はすごい。たった一撃でしっかり頸動脈まで切り裂けたようだ。漫画やアニメのように派手な血飛沫はなくとも、屠坐魔の刃渡りはそう長くもないのでそれなりに近くにいたから、多少の血はかかってしまった。

 

屠坐魔は今まで何度も使ってきた。

それこそ屠坐魔のおかげで命拾いしたことは数えきれないし、これから先も幸音がお世話になる重要な呪具だろう。

しかし、呪霊こそ山ほど祓っても、屠坐魔で人間を傷付けたのは――ましてや、殺意を持って振るったのも、初めてのことだった。

 

けれど、思ったよりも平気だった。何の感動も感慨もなく手を下せた。

先に云った通り、幸音はこの男を虫けら以下の存在だと思っているから、というのも一つの理由だ。

それでも見た目はあくまで人間なのに、少しは動揺するかもしれないと思っていたのだけれど、驚くほどあっさり幸音は男を殺せた。

しかも、本当になんとも思わない。強がっているわけでも現実逃避しているわけでもなく、本当に心は落ち着いている。

人を殺してしまった恐怖などちっともなく、たった今自分が喉を切り裂いた物体をひどく冷静に見ることが出来た。

そういえば高専に転入する際、担任の夜蛾に『呪術師はある程度のイカレ具合がないとやっていけない』と云われたのを思い出す。

あのときはそういうものかと流していたが、納得した。だって自分もイカレていることが判明してしまったから。

 

自分がこんな冷徹な人間になれることを、このとき幸音は初めて知った。

それでもこの男だけは殺さなければならないと思った。

夏油傑を貶したこの男だけは、絶対に。

他の誰にもやらせない。自分が殺すのだと、強くそう思った。

 

人を殺すのは決して善行ではないと知っている。

仮に死んだ方がいい人間がいたとしても、それを大義に殺人を犯すのは愚かなことだと思う。

倫理観が欠如しているわけではないのだ。

けれど幸音は男を殺した。

明確な殺意を以って、殺した。

 

自分は平凡な人間だと思っていたのだけれど、これは認識を改める必要がありそうだ。

平凡な人間は、他者を傷付けて平気ではいられない。

少なくとも、人の形を成したものの急所に対して躊躇なく刃物を振るえる自分は平凡ではないのだ。

とはいえ、誰彼構わずに殺せるわけでもない。

幸音は自分を冷静に客観的に観察し、一つの結論を出す。

 

――自分は、夏油を貶す者を殺すことをなんとも思わないのだ、と。

――自分は、そういう人間なのだ、と。

 

――ああ、なるほど。私は、狂っている。

 

脳や心臓を潰したりしたわけではないので即死には至らないが、このままでは男は数分のうちに出血多量で死ぬだろう。ショック死とどちらがはやいだろうか。まぁどちらでも構わないけれど。

ならば、あとは余計な事をせずにただ眺めていればいい。

 

幸音が何も云わずとも心得ているようで、孔は男から手を放した。

もはや自分の力では立っていられなくなっていた男はその場にぐしゃりとくずおれ、幸音の足元で醜く身体をビクンと跳ねさせる。口から血の泡を噴き出し、目は限界まで見開かれ、切り裂かれた場所を手で押さえたくとも後ろ手に拘束されているのにそれも適わない。

喉を切り裂かれているため、悲鳴を上げることも出来ない男は、惨めに地面をのたうち回りながら、死にゆく自分を無言で見つめる幸音をただ見上げた。

 

「知ってる? 完全犯罪って、最低三人いれば成立させられるんだって」

 

人間とは、こうも恐ろしい目が出来るのかと震えた。

痛い、苦しい、辛い。

本当はこの死への恐怖から逃れたいのに、この目に見下ろされてはまともに動くことも出来なかった。

そうこうしているうちに痛みは薄れ、身体の先端から徐々に感覚がなくなっていく。

だくだくと流れる血液と一緒に体温は失われ、自分の中の命の灯火が消えていくのが感覚としてよくわかる。

 

「時雨さんと、甚爾さんと、私。三人揃っちゃったね」

 

ああ、これが死か。

思ったよりも穏やかなものだ、と男は安心した。

やっとこの痛みと苦しさから解放されるのだ、と。

 

しかし突然、痛覚を無理矢理呼び起こすような衝撃が走った。

折角このまま穏やかに死に至れると思っていたのに何を、と思った男は、ハッとする。

そうだ。

この女は自分を人間ではない虫以下の存在だと云い放ち、戸惑いも躊躇いもなくこの喉を切り裂いた。

そんな女が、このまま大人しく安らかに死なせてくれるなどと、いったいどうして思ったのか。

 

自分が今何をされたのか、死に直面しながら妙に冴えた思考を巡らせて、愕然とした。

さっきの衝撃は、自分の身体を転がされたためのものだった。

崖のようなところから蹴り落とされたのだと思った。

そうか、崖の下に落として証拠隠滅を図る気か。

どこまでも狂っているのだ、あの女は。

 

――と思ったのは、きっと男が根っからの悪人ではなかったからだろう。

 

実際は崖から蹴り落とされたのではなかった。

男が落とされたのは、穴の中だ。

幸音と男が会話をしている間に伏黒がせっせと掘っていた、だいたい直径2メートル程度の穴。深さも同じく2メートルか、もう少し深いくらいだろう。

男はその穴の中にいた。

痛覚によって無理矢理意識を引っ張り出され、虫の息でもまだ生きているその男が、穴の中に。

そうして、ばさ、どさ、と何かが穴の上から何かが落ちてくる。

それが土だと気付くのにはそう時間はかからなかった。

ただでさえ失われている血の気がさらに引いた。

 

まだ生きているのに。

ただでさえもう死にそうなのに。

 

数年に一度、コンクリートに生き埋めにされた少女の事件が話題にのぼる。

最悪の形で短い生涯を終えた少女の死を、世間は憐れんだ。

痛ましく残酷で残虐で、人の所業とは思えないこの事件は、きっとこれから先も何かあるたびに世間に思い出されるのだろう。

自分は今、その少女と同じような状況に置かれていた。

けれどきっと、少女と違い自分の死が世間に知られることはない。

 

尊厳も何もない。

死さえもこの女は弄ぶ。

命を命と思わないその所業を、しかし咎める者は誰もいなかった。

 

孔と伏黒は無言で土を穴に落とし続け、幸音はただただなすすべもなく土に埋もれていくしかない男を見下ろしている。

命が埋もれていく様子を、静かに眺めて。

 

――男の顔が埋まりきる直前に、たった一言。

 

「苦しんで死ね」

 

悪魔だ、と。

土で視界を覆われた男は、命が途切れる瞬間に思った。

 

呪いなんて生易しい。

呪霊なんて可愛いものだ。

 

あの女は、本物の悪魔だ。

 

 

 

 

 

幸音がこの呪詛師を殺したことを夏油たちが知るのは、随分あとのことになる。

とある出来事がきっかけで、幸音が男を殺したことが露見するのだ。

 

だからまだ彼らは知らない。

何故幸音がこの男を殺したのか。

 

何故――殺人を犯してまで、男を許すことが出来なかったのか。

 

 

 

共犯となった孔と伏黒だけが知っている。

 

幸音の尊い怒りと、矛盾した愛情を、彼らだけが、知っている。

 

 

 

 

 





花森 幸音

この度初めて人を殺しましたがこれっぽっちも罪悪感がなくて逆にびっくり
こんなもんか、くらいの感じなので、このあと普通に家に荷物取りに行ってから寮に帰って風呂入ってぐっすり寝てる


小牧

幸音のことがとても心配。でも自分に出来ることがほとんどないことも気付いているのでやきもき中


孔と伏黒

この度めでたく幸音の共犯者となった大人組。別に人殺しなんて今さらなので気にしてないが、幸音が躊躇なく人殺ししたことだけは引っかかっている。常識人としてではなく、それなりの大人として純粋に幸音の情緒が心配
今後も順調に共犯者なので、ある意味夏油たちより信頼されている
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