前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
「夏油」
「へ?」
目を覚ました私は、状況が理解できなくて固まった。
三日連続の任務がやっと終わって高専に戻り、なんとかして風呂にだけ入って、申し訳程度にゼリー飲料だけ腹に入れて、もう眠気に勝てずにベッドに沈んだのが夕方のこと。
自分の部屋で泥のように眠っていたはずなのに、これは一体どういうことなのか。
「夏油」
「え、ちょ、は?」
私は今ベッドに眠っている。それは記憶の通りだ。
だが、そんな私の上に、どうして彼女が。
「ふふ、夏油、可愛い」
彼女は高専の同級生で、何を隠そう片想いの相手でもある。
しかし彼女には結構いい性格をした彼氏がいて、一度どんなやつか興味本位とあわよくばデートをぶち壊してやろうと思ってついて行ったことがあったのだけれど、結局彼氏がものすごく良い人すぎて嫌いになれなかったという非常に情けない思い出がある。なんなら、普通に知り合っていたらかなり慕っていたであろう人だったのが悔しい。
一度会えばよくわかる。
彼女らはひどく相思相愛で、お互いを本当に大切に想い合っている恋人同士だった。
だから彼女のことを好きな気持ちはなくせないけれど、どうしてもふたりの邪魔をしてやろうという気にはなれず、諦められないくせに積極的にもなれないという、多感な思春期男子にはしんどい想いを抱えて生活していたというのに。
「な、なんでこんなところに!?」
「え? うふふ」
身体がうまく動かない。
簡単に云えば、今私はベッドの上で彼女に跨られている状況だ。
待ってほしい。
嬉しいか嬉しくないかで云えばもちろん嬉しいけれど、こんなの絶対おかしい。
だって彼女には立派な彼氏がいて、二人は相思相愛で、仮に彼女が私の気持ちに気付いていたとしても、彼氏がいる身で他の男にこんなことをするような子ではないはずで。
「ど、どいてくれないかい」
「ん~、やだよぉ」
「やだ!?」
へらり、とまるで我儘を云う子供の笑う。
可愛い。
信じられないくらい可愛い。
ただでさえ冷静になれていない上にこんな笑顔を見てしまい、私は今自分の顔に血液が集まっているのを自覚した。まぁ顔だけじゃないのだけれど今は割愛。
というかこの子よく見たら私のシャツを着ていないか?
どう見てもサイズの合っていない、ぶかぶかのシャツは首筋から鎖骨のあたりが扇情的に覗いており、かがむように顔を近付けられると見てはいけない部分まで見えてしまう――かがむように?
気付いた時には、もう遅かった。
「――――!!」
ゆっくりとスローモーションのように近付いてきた、彼女の顔。
閉じられた目、コンプレックスだと云っていた短いまつげは、しかし私からしたらそれすらチャームポイントに見える。
顔を背けることが出来なかった。
私は、彼女の唇を受け止めた。
色っぽく湿った、桜色の唇。
最初は触れるように、それから啄むように、ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音を立てて彼女は優しいキスをする。
それは子供のみたいな幼いキスだった。
なのに、どうしようもなく、私の胸には熱い気持ちがこみ上げてきて、止まらない。
何度も何度も繰り返されるそのキスは、何故か私の涙腺を刺激した。
キスで泣くなんて、童貞じゃあるまいし。
そう思うのに、このキスは特別なのだと思う自分もいる。
「げとう」
至近距離で名前を呼ばれる。
優しい声。
甘い声。
大好きな子の声。
――なのにどうして、こんなにも空しいのだろうか。
望んでいたはずだった。
ずっと彼女とこうしたかった。
抱き締めてキスをして、体温を共有したかった。
彼女の身体の隅々まで愛し尽くしたかった。
一度身体を起こした彼女は、自分でシャツのボタンを外していく。
するりとシャツが肩から落ちると、少し傷跡が目立つ、けれどとても美しい彼女の上肢が露わになる。
自分の喉が鳴ったのがわかった。
何かがおかしいとは思っているのに、結局自分は目の前の欲求に逆らえないのだ。
絶対にこんなのはおかしい。
彼女がこんなことをするはずがない。
もしかしたら、また妙な呪いに罹っている可能性もある。
正気に戻ったときに自分の行いを覚えていたら、彼女は自分を責めるだろう。
彼女が傷付くのがわかっているなら、ここは私が自分を抑えてやめさせるべきだ。
そう、思って、いる。
――けれど。
動かないと思っていた手は、存外簡単に自由になった。
私は本能のまま彼女に手を伸ばし、その頬に触れる。
くすぐったそうに笑いながら私の手に頬をすり寄せる様子が可愛くて、あまりにも愛しさで胸が満たされて、今までずっと云うまいと心に秘め続けていた言葉が思わず零れてしまった。
「好きだよ」
云えないはずの言葉だった。
彼女が好きだと自覚したときは、すぐにでも云おうかと思っていた。
だけど彼女が昏睡から目覚めて私たちと打ち解けてすぐに、彼女には術師になる前から付き合っている彼氏がいることを知って思いとどまった。そもそも今までの自分であれば、彼氏なんていようがいまいが関係ない、女なんて自分がちょっと優しくすればすぐに媚びをうってくる生き物だと思っていた節があるから、相手が彼氏持ちかどうかなんて気にしたこともなかった。
でも、彼女は違う。
単なる性欲処理の相手としてなんて、見られない。
彼女は何人もいたし、身体だけの関係の人もたくさんいたけれど、きっと今まで自分は恋なんてしたことがなかったのだと思う。
だって、彼女を想うたびに身が焦がれたことなんて、今までただの一度もなかった。
彼女は特別なのだ。
呪力はほぼ一般人だけど、目を見張るほど美人じゃないけど、聖人君子のような人でもないけれど、それでも私にとっての特別は彼女だけだった。
だからこそ、ずっと云えずにいた、たった一言。
私の心の真ん中に巣食って、燻っていた、一言。
口にしてみたらそれだけのことなのに、多分人生で一番緊張している。
心臓の音が煩くて、彼女にも聞こえているんじゃないだろうかと心配になったのはちょっとした現実逃避だ。
じっと私の目を見つめていた彼女は、おもむろにもう一度私にキスをした。
そうして、嬉しそうに――心底嬉しそうに微笑んで。
「私も、夏油が好きよ」
◇◆◇◆
息が荒い。
信じられないくらい心臓がバクバクしていて、寒くもないのに身体中が震えている。
慌てて身体を起こし、あたりを見まわした。
ここは自分の部屋で、当然だけど彼女の姿はどこにもない。
夢だった。
全部夢だった。
そうだ、だって彼女があんなこと、するはずない。
彼女があんなこと――云うはず、ない。
思わず両手で顔を覆い、私は深く息を吐き出した。
良かった、と思うのと同時に、絶望する。
改めて、あれが夢であったことにがっかりした自分が居たのである。
あの表情も、キスも、彼女の体温も、すべてが夢だった。
これが絶望でないなら一体何だと云うのだろう。
とてもじゃないがこのままもう一度眠るなんて出来ず、水でも飲もうとベッドから抜け出した。万が一夢の続きでも見てしまったら、今度こそ正気でいられる気がしない。
が、冷蔵庫にはよく冷えた炭酸麦茶しか入っていない。三日前に任務に出る前に水は飲み干していて、あとで買い足そうと思っていたことを今思い出した。
さすがに今の状況で酒を飲む気にはなれないので、仕方なし共有キッチンのほうの冷蔵庫を見に行くことにした。あちらならば水か最低でも麦茶くらいはあるだろう。
ハーッとため息を吐きながら重い身体を引きずって共有キッチンに向かうと、なんとそこには今私の中で話題の彼女が立っていた。
いつもは一本に結んでいる髪を緩くサイドでまとめ、寝間着にカーディガンを羽織って、シンプルな眼鏡を掛けている。
別に初めて見る姿ではない。この一年近くの寮生活の中で幾度も目にしたことのある格好なのに、今の私にはものすごい攻撃力を発揮していた。
ぎくりとして口を開けて固まってしまった私に気付いた彼女は、こてんと首を傾げた。
「あれ、夏油じゃん。どうしたのこんな時間に」
最悪だ。
普段ならしめたとばかりに喜ぶ状況だけれど、今だけは彼女の顔を見たくなかった。
コーヒーを淹れるところだったらしい彼女は、不思議そうに目を瞬いた。
私はあんな夢を見た後ろめたさで彼女にどんな顔をしたらいいのかわからず、困ったように笑って目をそらしてしまった。
どうやら彼女はまだ仕事をしていたらしく、共有スペースのテーブルにはパソコンと資料が広がっていた。
補助監督としても働いている彼女は、私たちよりもずっと事務仕事が多いのは知っていたけれど、もう深夜と呼んでも差し支えない時間まで仕事をしているとは思わなかった。
しかもちらりと見えてしまったのは、先日私と悟で行った任務についての報告書だ。もしや書類に不備があって彼女に負担が?
そう思って尋ねると、彼女は笑って手を振った。
「ああ、違う違う。夏油の報告書は綺麗にまとまってたよ。ただ、役所に提出する書類が追加であるから、それやってただけ。この辺は補助監督の領分だから、気にしないで」
「……本当かい?」
「ほんとほんと。んもー、夏油はちょっと気にしぃだよ。五条の適当さとふてぶてしさ、ちょっとは見習ってもいいかもね」
からからと笑う彼女が嘘を云っている様子はない。ということは本当に自分たちのせいではないのかもしれないけれど、自分たちの仕事に関係する仕事であることには変わりないだろう。
なんだか申し訳ない。
一応自分も怒涛の三連勤のあとだが、自分がぐーすか寝ていた間も彼女は仕事をしていたのかと思うと、やっぱり申し訳ないように感じてしまうのは、彼女の云うとおり自分が気にしすぎなのかもしれない。が、悟を見習うのはなんとなく嫌だ。というか、悟の要領の良さは異常だと思うので、きっと真似できないと思う。
正直にそう吐露すると、彼女はまたおかしそうに笑った。
「五条みたいに適当になった夏油って、ちょっと面白いかも」
「ああはなりたくないんだけど」
「あはは、あそこまでならなくていいんだよ。でも、本当、無理はしないようにね。夏油は自分のなかにいろいろため込みすぎちゃうみたいだから」
なんとなく、どきりとする。
彼女は時々、すべてを見透かしたような云い方をするのだ。
それは彼女の持つ『少し先に未来を見る』術式のせいなのかなんなのかはわからない。
ただ、本当に時々、本当に同じ年なのだろうかと不安になるような達観したようなことを云うのだ。
嫌味もないし、不快でもないけれど、少しだけ落ち着かなくなる。
それど同時に、無性に寂しい気持ちになってしまう。
こういう時の彼女が、なんだか途方もなく遠い存在なような気がして、胸に小さな穴が開いたような気持ちになるのだ。
それもこれも、彼女の云う気にしぃな自分の性格のせいなのかもしれないと思いつつ、彼女に確かめる勇気はない。
完全に無意識だった。
どうやら私はじっと彼女を見つめ続けていたらしく、パッと顔を上げた彼女とばっちり目が合ってしまった。
ここで目を逸らしたら最高に感じが悪いことくらいわかる。
思わず固まっていると、少し驚いたように表情を動かしたあと軽く微笑んだ彼女に手招きをされた。
「夏油、おいで」
私は犬猫ではないのだけれど。
と思いつつ、足はふらふらと彼女に寄って行ってしまうのだから、私も大概だと思う。
「はい、これ」
「え」
「ココア、淹れたから」
「あ、いや、私は甘いものは……」
「いいから」
ニコニコ笑顔で湯気の立ったマグカップを押し付けられ、断ることも出来ずに受け取った。
私が甘いものをあまり好まないのは彼女も知るところなのに、なぜココア。
しかし折角彼女が用意してくれたのに、残すのは嫌だ。
どうしたものか。
ココアなんて、子供の頃に飲んで以来だ。いつの頃からか甘いものは進んで口にはしないようにしていたから、本当に数年ぶりだと思う。
記憶にあるココアは喉が焼けるように甘いのでマグカップを握り締めたままちょっと尻込みしていると、ふと、マグカップから立つ甘い香りが鼻腔をくすぐった。
いつもならば大して好きでもないはずなのに、今は妙に良い香りに思えて、私は自然とマグカップに口を付けていた。
「……あれ、おいしい」
「たまにはコーヒーじゃなくて、こういうのもいいでしょ。疲れてるときはね、少しくらい甘いもの取った方がいいんだよ」
にひひと優しく笑う彼女に、さっきまでの罪悪感が一層強くなる。
彼女は本当に優しい。
よく周りを見ているし、気遣いが細かくて一緒に仕事をするのがすごく楽だ。もともとが世話焼きの性格だからかもしれない。補助監督という仕事は、きっと彼女の性根に合っている。
特に一人っ子で我儘放題していた悟は彼女のこういうところが特に気に入っているようで、時々二人が仲の良い姉弟に見えることがある、というのは硝子談である。私も同意した。
そういう硝子も彼女の何気ない気遣いや優しさに随分気を許しているようだし、彼女は自分を凡人だと云って憚らないが、その割にはとんでもない人物ばかりを懐柔しているのだから、十分彼女も非凡だと私は思う。どこであの人心掌握術を取得したのか是非訊きたいところだ。
しばらくの間、私たちは共有スペースで話をした。
彼女も仕事はひと段落していたからコーヒーを飲んだら休むつもりだったらしく、そのタイミングで私が現れたようだ。
この三日は彼女も忙しかったようで、外に出る任務はなかった代わりに諸々の事務仕事に追われていたという。しかも何故かこのタイミングで京都校から出張要請が来たのをものすごく腹に据えかねているらしく、次の交流戦が楽しみだと手のひらと拳を合わせて云う顔が凶悪過ぎたのはちょっと笑ってしまった。出張内容も曖昧だったから忙しいと突っぱねたようだが、なんで私が、と不思議そうに首を傾げている。
確かに、わざわざ京都校から東京校の生徒に出張要請なんて珍しい。絶対にないとは云えなくとも、ほとんどないに等しいのである。
まぁ上層部の考えることはどうせ禄でもないことだろうから気にしなくていいのでは、というと、彼女はけろりとしてそりゃそうだと頷いた。そういう意外とあっさりしているところも好きである。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎていく。
初めは罪悪感で彼女の顔をまともに見られなかったくせに、ストレスなく続く会話と暖かいココアのおかげで、今はすっかりいつもの自分を取り戻せてきたと思う。
ほとんど同じタイミングでマグカップを空にしたらしいので、せめてものお礼に私が洗い物をすると申し出ると、彼女は少し考えてからにっこり笑ってマグカップを渡してくれた。
手早く洗い物を済ませると、彼女はテーブルの上の仕事道具をまとめながら云った。
「夏油、明日は休みでしょ? ゆっくり休んでね」
そういう彼女は明日――いやもう時間的には今日――は先輩補助監督と一緒に公共機関に挨拶回りらしい。一日で回れる場所も限られるから、朝から動き回らなければならないハードスケジュールなようだ。
早く寝なければならなかっただろうに、こんな時間まで付き合わせてしまったことが申し訳なくて咄嗟に謝ろうとしたとき、ふいに彼女が顔を上げて、ふわりと笑った。
「いつもお疲れ様」
――ああ、私は。
ありがとう、と我ながら完璧な笑顔で返し、私は逃げるように部屋に戻った。
無理だ。
もしあと一秒でも長くあの場に居たら、彼女を抱き締めないでいる自信がなかった。
多分彼女は、私の様子がおかしいことに気付いていた。
だからいつもは飲まないココアを用意してくれて、自身は翌日早いのに私の様子が落ち着くまでゆっくり他愛のない話に付き合ってくれたのだ。
さりげなく、無理強いするわけでもなく、彼女は暖かい優しさを私に向けてくれる。
きっとこれが私でなくとも、悟でも硝子でも、彼女はそうするだろう。
彼女はそういう人だ。
優しくて、暖かくて、人の心にいつの間にか滑り込んでそこにいるのが当たり前になってしまう狡い人。
だけどそんなの関係ない。
誰かにではなく、私に手を伸ばしてくれることが重要だった。
願わくば、その手が私だけのものになればいいと思う。
でも、無理だ。
彼女は誰にも優しいから彼女なのだ。
私が独り占めすることなんて、きっとできない。
でも、だけど――それでも。
私は、彼女のことがどうしようもないほどに好きだった。