前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
とあるひとつの決定的事件
※富士山の世界遺産登録は2013年なので、この話の時点では未登録です
遊園地に行こうという夏油の誘いを断らなかったのは、丁度私たち全員休みの予定であることを知っていたからだった。
加えて、夏油が笑顔で見せてきたチケットは二枚、ペアチケット。つまり合計四人分のフリーチケットだったというのも大きい。
「へー、たまにはいいかもね」
「じゃあ明日、8時くらいに玄関でいいかな?」
「は? 初心者か? 開園時間から突入するに決まってんでしょうが。8時には入園ゲートよ」
「そ、そういうものなのか…わかった、じゃあそうしよう」
遊園地を舐めている夏油に喝を入れてやり、その場でちょうどいい時間を調べて改めて集合時間を決定する。
ソファに座ってテレビを観ながら何故か我関せずな様子の五条と硝子にも確認すると、ふたりは顔を見合わせて、それから揃って夏油を見た。夏油はにこにこ笑顔だった。うわ~顔がいい。うん、本当にかっこいい。顔は。顔は。
いやほんとこの顔は永久保存版だよなぁなんて考えていることは億尾にも出さず、微妙に半笑いのまま何も云わないふたりにもう一度声をかけた。
「ちょっと早いけど、大丈夫だよね?」
「ああ、うん、うん。平気へーき」
「わかったわかった」
「ほ、ほんとかぁ?」
なんだか妙な反応だ。
五条がへらへらしているのはいつものことなのでいいとして、硝子までいつもの二割増しくらいの笑顔を浮かべている。え、何。何なの。しかも夏油も相変わらずニコニコしている。
言葉はなく、ただただニコつく三人。
状況整理が追い付かず、頭の上にはてなを飛ばして置いてきぼりの私。
え、なんですか、その三人だけ笑顔で通じ合ってますみたいなヤツ。
仲間はずれですか、私。
あーそうですかそうですか、どーせ私一人だけ遅れて入学してるし、どーせつい最近までつんつんしてましたよ。
どーせどーせ、私は三人と違って呪術師として中途半端だしほとんど補助監督だし、出来のいいみんなとは違いますよ。
みんなはそれでも仲良くしてくれてたから優しいなって思ってたけど、やっぱり私みたいなのとは根本的に相容れないってやつなんですね。
わかりました、遊園地はどうぞ三人で行ってきてください。
私は甚爾さんのところに行ってきます。
「駄目に決まってるだろう」
「うるさいうるさい。お前らなんか入園した瞬間マスコットより人に群がられて何もアトラクション乗れないまま閉演時間を迎えてしまえ」
「なんだその地獄の遊園地。というか伏黒甚爾のところに行って何する気だ君は」
「組手で日頃の鬱憤を晴らさせてもらう」
「やめなさい、どうせ君、あいつから一本も取れないんだから」
「う、うるさーい!!」
わかってるよそんなこと、今まで何回も手合わせしてもらってるけど、掠ったことすらないよ。手加減してくれてるはずなのに全然勝てる気配もないよ。
でも女にはやらなきゃいけない時があるんだ。今がそう。主にストレス発散の為。
とはいえ明日は甚爾さんも休みなはずだから、しょうがない、ご飯でも奢るって云って呼び出そう。あの人プロのヒモだから、奢るとかそういう言葉には弱いはず。
早速連絡しようとケータイを出すと、流れるように私の手からケータイを奪った男がいた。スリもびっくりな鮮やかな動き。夏油だった。
「何すんの」
「明日は遊園地なんだから、あんなやつに連絡する必要はないだろう」
「仲良し三人で行けばいいじゃん。わかりあってる三人で行けばいーじゃん」
「君が一緒じゃないと意味ないだろう」
「なんでよ」
「なんでって」
いじけるのもそこそこにして、純粋な疑問に首を傾げると、夏油は変な顔をした。人間、こんな複雑な表情が出来るんですねって思うような表情だった。
そしてしばらく待っても答えは返ってこない。
無視とはいい度胸。
まぁでも夏油が変なのは割といつものことだと最近になって気付いてしまった私は、仕方がないので大人の対応を取ってあげることにした。もう甚爾さんに連絡するとか云わないし明日もちゃんと一緒に遊園地行くからケータイ返して。
「本当かい?」
「本当。ただ先輩には連絡する」
「ああ、それはそうだね、そのほうがいい」
「だからケータイ返して」
「今ここで先輩に連絡するなら」
「なんでよ、部屋で電話したいんですけど」
「いいから」
「よくないが?」
「ね、お願いだから」
「…………。」
云っておくが普通の男子高校生がそんなかわいこぶった表情と仕草と声音を出したら、私は容赦なく游雲でぶん殴る。
よかったな夏油、その顔に生まれてきて!!
今の表情を写真に撮らせてもらうことを条件に、私は返してもらったケータイでその場で先輩に連絡した。
一瞬先輩も誘いたいな、なんて思ったけれど、友達と遊びに行くのに彼氏同伴する痛い女になりたくないし、そもそも明日は先輩は部活がある。コンクールも演奏会も終わった時期でも、うちは…いやもう他校だけど、とにかく先輩が所属している学校の吹奏楽部は全国区だから割と年中部活漬けなのだ。すでに大学は推薦で音大に進学が決まっているから、年内はがっつり部活に集中できると笑っていた先輩、マジ可愛くないですか。
だから任務だなんだと動き回っている私と休みが合うことなんて本当に貴重で、その貴重な休みの日のデートに五条と夏油が乱入してきたことは未だに根に持っています。
まぁそれはそれとして、部活が終わって帰宅途中だったらしい先輩はすぐに電話に出てくれた。
「そういうわけで明日みんなと遊園地行ってきます。お土産買ってきますね!」
『ふふ、荷物になりそうなら気にしなくていいからね』
「大丈夫です、荷物持ちなら二人いますから」
『あんまりこき使ったら駄目だよ』
「んも~先輩ってばクズ相手にも優しい~!」
「うわっキショ……」
背後で五条が呟いたのが聞こえたので、思いっきり踵で脛を蹴ってやった。ざまぁみろ。早くオートマ無下限習得できるといいね。
『明日早いんだよね? じゃあもう電話切ったほうがいいかな』
「うっ、そうですね、名残惜しいですが寝坊もしたくない……!」
『楽しんできてね』
「はい! じゃあまた!」
『うん。あ、そうだ』
先輩とだったらいつまででも話していられるけれど、明日は早いし先輩も家に着く頃だろう。疲れている先輩を内容のない長話に付き合わせるわけにもいかないので、名残惜しさを残しつつ電話を切ろうをしたら、何かを思い出したように先輩が声を上げた。
「どうしました?」
『僕、年内いっぱいは部活に行くけど、受験終わったから前よりは多少時間に融通利くんだよね』
一拍置いて。
『僕とも、一緒に遊園地に行こうね』
目の前にはいないはずの先輩の笑顔が脳裏に浮かんで、優しい先輩の声がケータイから直で耳に届く感覚がこそばゆくて、思わず鼻血が出るかと思った。
私の彼氏、最高です。
そして翌朝、集合時間の寮の玄関。
そこにいたのは夏油だけだった。
おはようと挨拶をしながら、辺りを見回しても誰もいない。おや、これは一体どういうことだろうか。
「あれ、硝子と五条は?」
「あ、聞いてないかい?」
「え?」
五条も硝子もあれでいて時間にはきっちりしている。五条は任務の時は微妙に腹立たしい遅刻をするけれど、遊びに行くときの時間に遅れたことはないクズだ。
一応厳密には集合時間まであと五分あるので待てばいい話かもしれないが、硝子までまだ来ていないというのはおかしい。
そう思って夏油に訊けば、なんだか妙に――妙に、にこやかに云った。
「あの二人、緊急で任務が入ったんだ」
だから今日は私たち二人だけで行こうね、と。
世界で一番かっこいい顔で笑った夏油に、私が絶句しても仕方のないことだと思うんですよね。
マジで云ってんのか。
◇◆◇◆
「た、楽しい……!」
「それはよかった」
一番人気のジェットコースターから始まり、ゴーカートに空中ブランコ、お化け屋敷に迷路にミラーハウス。小腹が空いたら屋台でたこ焼きやマスコットをイメージした肉まんやいろんなフレーバーのあるチュロスなんかを食べ歩き。それからちょっと悩んだ末、ポップコーンをバケット付きで購入した。うん、冷静に考えたら紙で買えばいいんだけど、こういうのって遊園地マジックですよね。いいんだい、夏油はもちろんのこと私だって給料出てるんだから、懐には余裕がある。たまにはこういうお金の使い方したって罰は当たらない。
年中ひっきりなしに人が訪れる遊園地だから、それぞれの乗り物の待ち時間もそれなりに長かったけれど、いいか悪いかは置いといても私たちは待つことに慣れている。ターゲットの呪霊がなかなか現れなくて待ちぼうけもザラだし、上層部からの許可待ちで数日だって珍しくない。うわ考えたら死ぬほどイライラしてきた。ポップコーン食べよ。
他愛ない話をしていたらあっという間に順番が来て、きゃっきゃとはしゃいでいたらいつの間にか大観覧車以外のアトラクション全制覇を果たしていた。
「遊園地なんて何年振りだろ。こんなに楽しかったの初めて」
確か最後に遊園地に来たのは小学校高学年の時の遠足だった。当時関西のほうでユニバーサル的なテーマパークが新規開園して、妙に太っ腹だったうちの学校は早速遠足の行先に決定したのである。
とはいえ所詮遠足な上に、新規開園で混みに混んでいた遊園地が楽しいだけなはずがない。
遠足なので当然班ごとに行動しなければいけないから時間の融通も利かないし、行きたい場所にも乗りたい乗り物にも好きに乗れない、アトラクションは緊急メンテナンスで受付中止、お土産も売り切れ続出。
おかげさまで私たちの学年はみんなあの遊園地にいい思い出がないのである。
まぁそれが関係しているかどうかは置いといて、結局私はその遠足を最後に遊園地という場所に足を運ぶことがなかった。単純に中学校は部活が忙しかったというのもあるし、気軽に遊園地なんてお金がかかる場所に行けるようなハイソな中学生でもなかったので。
だから、今日遊園地に来たのは本当に久しぶりのことなのだ。
しかも昨日は8時に出発とか遊園地初心者みたいなことを云っていた夏油、実はあのあといろいろ調べたらしい。人気のアトラクションは優先券を取った方がいいとか、どういう順路で回れば近道だとか、全部頭に叩き込んだそうなのだ。さすがにそこまでするとは思ってなかった。そういえば何気に負けず嫌いだし、私なんかに初心者扱いされて対抗心が燃え盛ったのかもしれない。すまん、でも助かった。
「ありがとね、夏油」
おかげでものすごく楽しい時間を過ごせた。
最近ずっと任務続きで疲れが溜まっていたので今日は部屋でゆっくりするつもりだったけど、むしろ遊びに出てきたよかった。たくさん歩いても疲れるどころか楽しくて、溜まった疲れも吹っ飛んだ気がする。明日からもまた任務が詰め込まれているけど、これなら頑張れそう。
ちなみに、このチケットは夏油が任務先でお礼にと頂いたものだそうだ。
多分だけど、その人、デートに誘うつもりで夏油に声をかけたんじゃないかなぁ。なんかどっかいいとこのお嬢さんだったって話だし、若い人だったらしいし。
でも夏油って、自分に対するアプローチを交わすのが病的にうまいから、相手を不快にしないよう立ち回りながらちゃっかりチケットだけはもらってきたんだろう。
ひぇ~、怖いな~この男。女誑しというか人誑しというか。まぁ、そうでもなくちゃ教祖なんてやってらんないだろうし、ちょっと納得してしまう。
なんて考えていることは億尾にも出さず、帰る前に乗っておきたいと珍しく夏油がリクエストしてきた大観覧車に乗りながら、今日来られなかった二人のことを思い浮かべて私は云った。
「次はみんなで来ようね!」
嘘か冗談かと思っていたら本当にふたりとも任務だったらしく、五条から怒涛のお土産催促メールが届いている。しかも全部食べ物。甘いやつ。どこの売店の何番人気とか細かい情報まで書いてあるってことは、五条も相当調べていたんだろう。
なのに任務が入っちゃって来られないというのはあまりに可哀想なので、売り切れていない限りは買って行ってあげようと思います。私、優しいので。
「――そうだね」
硝子はおつまみになりそうなものを適当に、なんて云っていたから、ついでにこの遊園地のメインマスコットの柄のルームウェアを買っておいた。なんと私と色違いお揃いです。写真付きでメールしたら、ニコちゃんマークが返ってきたから気に入ってくれたらしい。硝子って意外と可愛いもの好きなんだよね。私はそんな硝子の方が可愛いと思います。
「今度は、水族館なんてどうかな」
「おー、いいね。小学校以来行ってないかも」
これも最後の記憶は小学校の遠足だ。イルカのショーがすごく楽しくてはしゃいで、お昼がその水族館に併設されているレストランでシーフード料理だったのが子供ながらに複雑な気分になったのを覚えている。寿司じゃないだけましだっただろうか。いやどっちもどっちだわ。
「来月またみんなで休みの日あるよね。予定入れないでって五条と硝子にも云っとこうか」
パラパラと手帳を開きながら云うと、夏油はにっこりと笑った。それは肯定ということだと受け取り、私もつられてへらりと笑う。
大観覧車は一周約20分で、今はもうすぐ半分に差し掛かろうかというところだ。地上117mにも及ぶという景色は壮観で、天気が良ければ富士山まで見えるらしい。
富士山、富士山ねぇ。うん。遠くから見てる分には綺麗だしすごいなって思うよね。さすが昔から有名な絵師が題材にするだけあってさ、見る分にはいい山だと思うよ。世界遺産登録はいろいろあって出来てないみたいだけど、信仰の対象と芸術の源泉ってうたい文句はかっこいいし。
ただ、前に任務でかの有名な青木ヶ原樹海に足を踏み入れた時は、さすがにゾッとした。樹海からは抜け出せないだとか、方位磁針が使えない、電子機器が狂うだとか、一昔前は本当だったのかもしれないけれど、現在ではそういうことはほとんどない。にもかかわらず、あの場所が未だに自殺の名所だとかホラースポットとして名を馳せるに足る雰囲気があった。
実際あの場所での自殺は絶えないし、不可解な経験をしたという話も未だに耳にする。
おかげであそこは私たち呪術師の定期パトロール対象の場所になっており、自分がその担当に当たったときは割と本気で気分が滅入る程度には呪いの温床になってしまっているのが現状だ。
そこで出くわしたスライムとヘドロを掛けてゾンビを足して割った最低最悪な呪霊に襲われて半泣きで逃げ回り、最終的には同行していた冥さんに祓ってもらって事なきを得たことを思い出して遠い目になってしまった。もう夕方だし雲もあるから、この大観覧車から富士山は見えないというのに。
出来ればあそこにはもう行きたくないんだよなぁとぼんやり考えていると、静かな声で夏油に名前を呼ばれたので、富士山方面から視線を夏油に移動する。
すると。
「ふたりで行かないか」
少し硬い声だった。
思わず顔を上げると、夏油はまっすぐに私を見ている。
うぅん。
ちょっと考えて、首を傾げた。
「……ふたりで? 水族館に?」
「そう。君と、私で」
ふむ。
五条や硝子に鈍いと云われ、冥さんにも笑われた私だけれど、さすがに夏油が云わんとする意味くらいはわかる。
いくらなんでもこれに気付かないふりが出来るほど、私は愚鈍ではいられなかった。
用意されていた四人分のチケットと、今朝になって入ったという緊急の任務。
四人分あるからと云って四人分使うとは云っていないし、今考えてみれば出発時間を確認していた時の五条と硝子の他人事のような態度にも合点がいく。
任務は緊急ではなくて、きっともともと入っていたのを私に隠していたんだろう。さすがに私も常に全員の任務予定を把握しているわけではない。
なるほど、これは計画的犯行だったわけだ。
しかも夏油だけではなく、五条と硝子も一枚噛んでいた。
帰ったら説教だな、と私は心に決めた。
ゆっくりと思案しながら、足を組み、腕を組む。
観覧車の中で二人、こうして向かい合っているとなんだか面接のようだ。私が面接官で夏油が受験者あるいは応募者ね。もちろんこんな思考は現実逃避である。
夏油の視線を迎え撃ち、私もまっすぐに夏油を見た。
後ろめたいことを云っている自覚はあるのか、夏油の顔色は悪い。
それでも、私から視線を外そうとはしなかった。
一応云っておくと、私は別に、怒ってはいない。
けれどこれは、云っておかなければならないことだった。
「夏油さ、私に彼氏がいるって知っててそれ云ってる?」
「わかっている」
「めちゃくちゃ最低なこと云ってるって、気付いてる?」
「……わかってる」
わかってるんかい。
いくらクズでも罪悪感くらいはあるようだ。まぁ、見ず知らずの彼氏ならともかく、夏油は先輩に会ったことがあるから余計に後ろめたいんだろう。
そしておそらく夏油は先輩のことが嫌いではない。むしろ今までにいないタイプの人だったからか、五条同様かなり気に入っている節がある。それは先輩も同じで、生意気に見えて実は懐くと可愛い弟分のように思っていると以前零していたのを覚えている。嫉妬の炎に焼かれたので絶対に忘れない。
とにかく、先輩と夏油はお互いに良い関係を築けていたのだ。
だったらこんなこと云わなければいいのに。
そうしたら、私だってこんなこと云わなくてよかったのに。
「なんで私かなぁ」
「そんなの、私だって知りたいさ」
呟いて、漸く夏油は私から視線を逸らした。そうして、頭を抱えるように俯いた。
頭を抱えたいのはこっちである。
静かに吐き出した息は冷たかった。
夏油傑は私のことが好きなのだ。
いや本当もう何がどうしてこうなった。
もしかして、二年になって女遊びが鳴りを潜めたのは私を好きになったから? 自惚れかもしれないが、絶対に関係ないと云いきれるほど無関係ではないだろう。
わかってんのかお前、自分の立場わかってんのか?
顔良し稼ぎ良し、高身長で体格にも術式にも恵まれた呪術界のホープ。
あらゆるものを得た代わりにちょっと性格に難ありだけど、それを補って余りあるプラス要素しかない好物件。
なんでそんな世界の頂点が私みたいな一般人好きになっちゃうんだよ。
別に私は自分を卑下するつもりはない。
それなりの容姿でそれなりの頭でそれなりの育ちで、だけど術師としては下の下。
悪目立ちすることはあってもそれが吉と出た試しはほとんどなくて、いつも何かしらトラブルに巻き込まれている。最近ちょっとそういう体質なのかと思って凹んだところだ。
頭が痛い。
頭蓋骨を内側から金槌で殴られているような痛さに思わずギュッと目を瞑りそうになって、視界に入ってしまった夏油の表情を見て私は固まった。
――ああ、どうして。
あってはならない事態に、しかし取り乱すことなくそれなりに冷静でいられたのは、きっと心のどこかではもう夏油の私に向ける気持ちに気付いていたからだろう。
いつから?
つい最近の話では、ないのだ。
きっかけはわからない。
何度も云うように、私は平凡で何もない女だから、夏油の琴線に触れるようなことをした覚えは何もなかった。
でも、夏油の好意は私に向いてしまった。
単なる友人としての愛情からは一線を画した視線を、私に向けている。
自意識過剰とは思えない。
照れて赤面することもない。
ただ、途方もなく虚しかった。
「……ねぇ夏油。この際だから云うけど、私、夢があるんだよね」
「夢?」
そう、夢。
唐突にこんな話を始めた私に、夏油は今度は戸惑いを隠せなさそうな顔をした。
わかる、真面目な話をしてるのに急に夢の話なんかされたら困るのはわかる。
でも聴いてくれ。
私は今から、掛け値なしに本音の話をする。
「私は、夏油に幸せになってもらいたい」
夏油の目が驚いたように見開かれた。
あんぐりと口を開けたまま固まる夏油に、私は続けた。
「そのためなら何でもするって決めたの。呪術界に関わるって決めたあの日に」
そう、何でもする。
死ぬはずの人間を死なせず、夏油が悲しむ未来は介入しまくってうやむやにする。
最初は理子ちゃんと黒井さん、それに甚爾さん。
彼らを助けることで全く私の知らない未来になることもなく、今のところ順調だ。
来年の夏に死ぬ予定の灰原くんのことも絶対に死なせない。あのあたりの詳細は描写がなかったので推測するしかできないけれど、持てる情報網を駆使して絶対に助けると決めている。
「これは私の自己満足。夏油が私に恩義を感じる必要なんて一つもない」
むしろ夏油からしたら、理由もわからず幸せになれなんて一方的な私の気持ちを押し付けられて迷惑行為にも近いかもしれない。
普通だったら気味悪がられて終わりだ。
それでも。
ただ、願う。
祈る。
夢に見る。
「十年後のハロウィンで、夏油にはみんなと笑っていてほしい」
それが、私の夢。
例えばそこに、私がいなくても。
例えばそれが、あるべきものを捻じ曲げた、歪んだ世界になったとしても。
夏油が死なずに、心から笑っていられる世界であれば、それが私にとって正しい世界だから。
私の言葉を黙って聞いていた夏油は、何度か口を開閉して、浅い呼吸を繰り返しながら、絞り出すような声で呟いた。つついたら泣き出しそうだな、と思った言葉は胸に仕舞っておこう。
「君が隣にいてくれたら私は幸せだ」
「それは出来ない」
緩く首を横に振り、打てば響くように、私は返す。
「どうして」
「私、先輩が好きなの」
ばっさりと、切り捨てる。
夏油の顔が、悲しみに歪んだ。
夏油に幸せになってほしいなんて云いながら、夏油にこんな顔をさせている私は最低な女だと思う。
それでも。
「夏油じゃなくて、あの人が好きなの」
優しい人だ。
三か月音信不通になっても怒らず私を待っていてくれた。
久しぶりに会ったとき、いつもと変わらない笑顔をくれた。
歩くときには車道側を取ってくれて、私の手を握ってくれる。
少しお茶目で冗談を云うのが好きで、だけどちゃんと私のことを見て言葉をくれる。
私は、夏油ではなく、あの先輩のことを愛している。
――だって。
――私じゃ夏油を、愛せない。
「……私の幸せを願っているくせに?」
「そう。私、酷い女でしょ」
「ああ、酷いな。酷すぎる」
皮肉るように云う、けれど夏油の表情は今にも泣きだしそうだった。
ごめんね。
心の中で呟いて、実際には別の言葉を口に出す。
「だからね夏油、こんな最低な女じゃなくて、美人で優しくて優秀な誰かを好きになって。あんたの隣に立つに相応しい人を見つけて」
「それが君以外だったとして、私が幸せになれるとでも?」
苦しそうに笑みを浮かべる夏油に、私は頷いた。
「なれるよ」
どの口が、と云われそうだ。
だから、夏油が何かを云う前に、続けた。
「夏油は幸せになるんだよ。私が保証してあげる」
私は夏油傑が幸せな世界を望んでいる。
五条がいて硝子がいて、灰原くんがいて七海くんがいて、理子ちゃんも黒井さんも笑っている。
肥溜みたいな呪術界の上層部はうまく使って、たくさんの人を救いながら、同時に夏油自身も救われて。
この世界で心から笑えなかったなんて悲しいセリフ、絶対に云ってほしくない。
たくさん笑って、たくさん幸せになってほしい。
――この感情は、きっとあなたには理解できない。
それでもいい。
理解なんてしなくていい。
ただ、知っていてくれたら、それで。
「ねえ夏油、これからも私と友達でいられる?」
今から私は世界で一番酷いことを夏油に云う。
死ねとか嫌いとか、そういうことよりももっとずっと酷くて最低なこと。
どういう意味かと視線で訊ねる夏油に、私は続けた。
――ああ、吐き気が、する。
「これ以上私と一緒にいるのがしんどかったら、ちゃんと云って。いつでも消えるから」
顔を上げた夏油の表情の、見ていられないこと。
けれど私が今の夏油から目を逸らしていいわけがない。
だから、反射的に閉じそうになる目蓋をなけなしの理性を総動員して無理矢理こじ開ける。
逃げてはいけない。
今の私に、逃げる資格はない。
そう在ると、決めたから。
「……君への想いを殺して友達のままでいれば傍にいてくれて、それが無理なら私の前からいなくなるってことかい?」
夏油は本当に賢い。
私が云わんとすることをすべてくみ取って、理解している。
黙って頷くと、夏油は皮肉そうに笑った。
「本当に酷い女だな、君は」
ひどく歪んだ表情に、胸が苦しくなった。
感情なんて、自分の意思で簡単にどうこうできるものじゃない。
多少長く生きればそれなりにコントロールできたとしても、それだって完全なものじゃなく、パッと見誤魔化せる程度のものだろう。感情を完全にコントロールするなんて、それこそ機械じゃなければ無理だ。
「――わかった。君がいなくなるくらいなら、私は私の気持ちを殺そう。君の望むように、友人を演じよう」
夏油は、それがうまい。
それはもう、病的に。
まだ十数年しか生きていないのに、その辺にいる大人たちよりずっと上手に自分の感情をコントロールする。
むかついていても顔には出さないし、悲しくても澄ました顔で平気だと云う。辛い気持ちは前に進む糧にしているように見せかけて、涙の代わりに笑みを零す。
本当は、そんなことはさせたくなかった。
だって原作の夏油はそのせいで静かに心を病んでいったから。
そうさせたくなくて頑張るつもりだったのに、私は一体どこで道を間違えたのだろう。
だけど、それでも、私は夏油の気持ちには答えてあげられない。
見当違いの息苦しさに歯を食いしばっていると、夏油に名前を呼ばれた。
その声は思ったよりもはっきりしていて、私の耳には透き通った湖のようにクリアに届いた。
夏油は、小さく笑っていた。
そうして、云う。
「でも、覚えておいてほしい。いくら殺したって、この気持ちはなくならない」
ハッとして、思わず私は息を飲んだ。
役に立たない未来視は、よりにもよってこのタイミングで発動した。
それは、夏油が次に何を云うのか、私に伝えている。
まだ、明確な言葉は聞いていない。
だからずっと取り繕えた。
でも、はっきりと、その言葉を聞いてしまったら、――私は。
やめて、と。
私が口にする前に、夏油は云った。
「君が好きだ」
――眩暈がした。
◇◆◇◆
そこから先の記憶は酷く曖昧なものだった。
いつの間にか大観覧車は地上に到着しており、連れ立って外に出る。コインロッカーに預けていた荷物を回収して、高専に戻った。
五条も硝子も任務から帰っていなかったから、お土産は明日渡すことにして私たちは部屋に戻った。
おやすみ、とだけ言葉を交わした気がする。
きっと明日起きたらいつものように笑って挨拶をして、一緒に授業を受けるのだろう。
いつものように冗談を云って、いつものように過ごすのだろう。
それが、私の選んだ道だ。
夏油に選ばせた道だ。
私の、望み通りの道だ。
――ああ、それなのに、どうして、こんなにも。
暗い部屋に戻った私は、ドアを閉めてそのまま背を預けてその場にずるずると座り込む。
すると、今まで堪えてきた涙が、堤防を突破したダムのように溢れて止まらなくなった。
油断したらこぼれそうになる嗚咽を両手で抑え込んで飲み込んで、歯を食いしばって小さく身体を丸めて蹲る。
ごめん。
ごめんなさい。
酷い女で、ごめんなさい。
あなたの幸せを願いながら、その手を取ることが出来ない私を許さなくてもいい。
酷い女だと恨んでくれても構わない。
ごめんなさい。
私はずるい。
恨まれても憎まれても蔑まれても、それでも私はあなたの幸せを願わずにはいられないのです。
知っているから。
あなたが苦しんで、辛い思いをして、親友たちとの決別を選んでまで進んだ未来の結末を知っているから。
どうしても、その未来に辿り着いてほしくないから。
わかっている。
これが私の自己中心的なエゴで、きっと夏油には余計なお世話でしかない。
でも、それでもいい。
自分勝手で独りよがりの自己満足でも構わない。
ただ、夏油に幸せになってほしい。
これは、愛なんて感情では、ない。
愛とは、つまり呪いだ。
愛ほど歪んだ呪いはないと、正史未来の五条が云っている。
私もその通りだと思う。
ならば、私は夏油のことを愛せない。
だって私は、この世界で唯一――夏油のことだけは、呪いたくないのだから。