前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います!   作:秋元琶耶

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※答えるとは云ってない

自分の学生時代思い出すと、こんな青春一回もしてねぇな! と思ってへこみますね。勉強と部活しかしてなかったわ。
私も同級生の胡散臭い笑顔の変な前髪の男に片想いしてキャッキャしたかった人生でした。なんで私の学校に夏油傑いなかったの?


依頼人殴って謹慎処分食らったけど何か質問ある?

「あの子、謹慎処分だって」

 

「――は?」

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

課題のプリントを提出しに職員室に行っていた硝子が、呆然とした顔で零した言葉。

それはあまりに衝撃的すぎて、いまいち頭の理解がついて行かない。

品行方正とは云い難くとも少なくとも私や悟よりはずっと真面目で、多少悟とのやり取りがヒートアップしてもちゃんと止め時を弁えて先生に怒られないよう立ち回るのがうまくて、術師が面倒がる細かい書類仕事も丁寧にこなし、術師の間でも補助監督の間でもそこそこの優等生として有名な彼女が、なんだって?

 

「私もよくわかんない。今職員室に行ったら夜蛾先生に云われただけだから」

 

彼女は確か今日は朝から単独で任務に就いていた。もちろん術師としてではない。だって彼女はまだ4級術師なので、単独任務は許されていないのだ。

つまり補助監督としての任務であり、しかも、すでに終わった案件の事後処理のための任務だったはず。何よりその任務に就いたのは私で、呪霊は完全に祓ったし、わざと濃く残穢を残してきたので低級ならば近寄れもしないだろう。

危険性はなく、補助監督としての能力を買われて単独で向かった事後処理で、謹慎処分を受けるような何があったというのか。

 

「理由は? あの子が謹慎を食らうほどの何かをしでかすなんて、それなりに重大な理由なんだろう?」

 

私の問いに、硝子は肩を竦めた。

 

「わかんない。夜蛾先生にも理由話してないらしいよ」

 

ますます理解不能だ。

これまでの経験だと、彼女は任務中に何か問題があればすぐに報告するし、どんな些細なことでも報告書にまとめて提出しているはずだ。それこそ、黙っていれば叱られないであろう小さなミスでもしっかり報告するから、そのせいで悟と喧嘩になることもよくあった。まぁ、悟の場合はちょっとしたミスではないので報告されて当然だと思う。帳の降ろし忘れ程度ならまだしも、田舎とはいえ山を半分抉ったのを些細なミスだと主張して報告を渋ったのはどう考えても悟が悪い。

とにかく、彼女はそういう報告は欠かさないタイプなのに、謹慎処分を食らっても理由を話さないとはいったいどうなっているのだろう。

 

そもそも、高専は理由もわからないのに彼女に謹慎処分を下したというのだろうか。

いくら上層部が腐ったミカンのバーゲンセールを年中無休二十四時間体制で開催しているとはいえ、それはあまりにみみっちい。もし上層部が関わっているのなら、謹慎処分などではなく退学だと騒ぎそうなものだが。

いやしかし、なんだかんだいって上層部は彼女を結構便利に使っているところがあるから退学にはしないか。かといって放置も出来ないからの謹慎処分?

 

わからない。

さっぱりわからない。

彼女と謹慎処分という言葉があまりに結びつかな過ぎて、持っていたシャーペンを取り落としたことにもしばらく気付けなかった。課題なんてやってる場合じゃないだろう。

 

「あの子、もう部屋に戻ってるから、それとなく理由聞き出せないかって云われてるんだけど」

 

夏油も行く?

珍しい同行の許可に、私は当然頷いた。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

謹慎処分と云っても結局寮暮らしなので、寮の中から出るな、ということらしい。

硝子と一緒に寮に戻ると、彼女は廊下の掃除をしていた。どうやら反省文と罰掃除を云い渡されているようで、いつもは寮母さんがやってくれる掃除を謹慎中はすべて彼女が請け負うようだ。地味に大変である。

私たちの姿を目に入れた彼女は、謹慎処分を食らった身とは思えないほど清々しい笑顔で出迎えてくれた。

 

「おかえり~」

「ただいま……って何普通に挨拶してんの」

「え、駄目だった……?」

「駄目じゃないけど、そうじゃなくて」

 

多少へこんだり苛立ったりしているのかと思いきや、存外元気そうな様子なので内心ホッとする。

しかしあまりにもいつも通りな雰囲気が逆に不気味だ。

硝子も多少は思うところがあるのだろうけど、ひとまず落ち込んではいなさそうな親友の姿に安心したらしい。気遣わし気に声を掛ける姿が甲斐々々しかった。

 

「聞いたよ、三日も謹慎だって?」

「あ、そのこと? あはは、ホントにねぇ」

 

廊下の掃除は終わったらしく、掃除用具を片づけて手を洗いながら彼女はまた笑う。

というか、私も硝子も彼女が謹慎処分を食らったことは理解できても、理由は置いといて何をしたのかすら知らない。

顔を合わせればそれくらいは話してくれると思っていたのだが。

随分と、突き放した態度を取ってくれるものだ。

 

「謹慎処分って、君、一体何したんだい?」

 

回りくどいのは面倒くさいので、単刀直入にずばりと訊くと、硝子は少し驚いたように目を見開き、彼女はキョトンとしてからまたへらりと笑った。

その笑顔に、どこか違和感を抱く。

しかしその違和感の正体が何かわからないので、今は目の前の彼女に集中することにした。

 

「あー、まぁ、気にしないでよ。大したことじゃないからさ」

 

ひらひらと手を振って、どうやら彼女は先生だけではなく私たちにも理由を話さないつもりなようだ。

これはちょっと面白くない。

 

「大したことない理由で謹慎処分を食らったのか? じゃあ、高専に抗議しよう」

「え!?」

「だってそうだろう。君は謹慎処分を食らうほどの理由もないのに、三日も謹慎しなければならないんだ。大事な友人の不当処分に異議を申し立てるのは、当然じゃないか」

 

彼女を友人と分類するのはものすごく不本意だが、今はそんなことを云っている場合ではない。

茶化す風でもなく淡々と言葉を吐き出すと、彼女は気圧されたように一歩後退った。もう一息だ。

 

恐らくだが、彼女は私たちがなんだかんだいって彼女に甘いことを理解している。

だから、あからさまに足を突っ込むなという態度を取れば深くは追及してこないだろうと踏んだに違いない。

確かに普段ならそうするだろう。特に私の場合、変に首を突っ込んで嫌われたくないから、余程のことがない限り彼女に強くは出られない。硝子の場合はもう少しぐいぐい行くかもしれないが、結局最終的には無理強いしたくないという気持ちのほうが強いだろう。

しかし今回は事が事だ。

怒られて反省文で終わりではない、しっかりとした謹慎処分。おそらく後ほど親のほうにも連絡が行くだろう。その時、理由はないけど謹慎処分になりました、で通るはずもないのに。

それを、大したことじゃないから、で納得しろなんて土台無理な話である。

 

ちなみに今日からこの一週間、悟は所用があって実家に帰っている。いつもならばのらりくらりと理由やら適当な任務を入れて年末年始もお盆も意地でも帰らないのに、今回はどうしても帰らなければならないとかで盛大に愚痴を零していた。

いやはや、大家というのも大変なのである。しかし庶民の私と硝子にはこれっぽっちも関係ないので、お土産ヨロシク、と笑顔で送り出したのだが、今にしてみれば悟がいなくてよかったかもしれない。

デリカシーなんて言葉はきっと母親のお腹の中に忘れてきた呪術の申し子が、彼女の謹慎処分についてネタにしないわけがないからだ。

さすがに時と場合を弁えていると思いたいところだが、俺様何様五条様を地で行く悟が空気を読んで口を慎めるとは思っていない。

帰ってきた悟がずけずけと無遠慮不作法無神経に彼女を問いただす前に、彼女からちゃんと話を聞かなければ。

口にはしていないが、これは私と硝子双方の総意だった。

 

「――そうだね、夏油の云うとおりだ。珍しくいいこと云うじゃん」

「だろう? じゃ、行こうか硝子」

 

ついさっき戻って来たばかりなのでまだ制服のままの私たちは、慌てふためく彼女を置いてさっさと踵を返した。

彼女が止めればそれでよし、止めなければ本当に抗議に行くだけの話だ。夜蛾先生の胃痛が心配ではあるが、背に腹は代えられないのである。

そして彼女の取った行動は、前者だった。

 

「待って待って待って、ちょっと待ってよ夏油も硝子も!」

 

しばし呆然としていた彼女は、私たちが靴を履いたところで我に返ったらしく、大慌てで私たちの制服の裾を握り締めて引き留めた。

まさかこんなことを云いだすとは思ってもみなかったようで、珍しく本当に狼狽している。

そんな彼女を肩越しに振り返る私たちは、しかし彼女が手を離せばすぐにでも寮を飛び出す所存だ。

 

引き留めたということは、私たちには云っておらず、高専は知っている事実があるということ。だから、抗議になんて行かれたら彼女は困るのだ。

おそらく夜蛾先生は、その事実は知っていても理由までは聞き出せなかったのだろう。その理由を私たちに聞き出せようとしたのかもしれないが、これは至難の業だった。

私たちの本気を察した彼女は、長い長い沈黙を挟んでから一度大きく息を吐き出し、その重い口を開いた。

 

「………………依頼人、殴った」

 

聞き間違いだろうか。

絶句した私と硝子は、ゆっくりと顔を見合わせて、それから揃って時間差で吐き出した言葉は、たった一言だった。

 

「……は?」

「だから、依頼人殴っちゃったの!」

 

曰く。

いつものように補助監督として、任務後の事務処理のために件の団体の事務所に赴いていた彼女は、最初はつつがなく仕事をこなしていた。

担当者と相談しながらあらゆる機関に提出する書類を作成し、ある程度の情報操作をし、今後また呪霊の被害に遭わないようにするための対策を講じた。

人間社会には、どうしたって呪いの温床になりやすい場所があり、いくら祓っても二度三度と被害に遭う場所はある。この団体は、典型的なその温床パターンだった。そのことも含めて説明をし、納得した上で依頼をもらっていたはずだった。もちろん、契約書にもその旨はしっかり記載されている。

だというのに、最後に報酬についての詳細を詰めていたときになって、担当者の上司だという男が現れたらしい。

いかにも現場のことなど何も知らず、コネと運だけで成り上がったような嫌味な男だったそうだ。似合っていない既製品のスーツに、妙に目立つ靴と無駄にギラギラ光る時計、シャツと合っていない柄物のネクタイ。話を聴いただけで、嫌味っぽい男だったのだろうなぁとげんなりした。

恥知らずにもその男は、様々な理由を付けて報酬を値切ろうとしたらしい。とっくに契約書は作成されているのに、本当に呪霊が祓えたかどうかが自分たちでは確認できないし、そもそも実は呪霊などという荒唐無稽な存在などこちらのでっち上げだったのでは、などと宣ったそうだ。

しかし彼女もプロなので、ハラハラと祈るように手を組んで事の成り行きを見ている担当者に代わり、辛抱強くその無能な男に呪霊についての説明をした。

実際に呪霊を見たことがなく、自分の身をもって呪いの被害に遭ったことのない非術師がこのような馬鹿な発言をするのは初めてではない。だから補助監督は対非術師への柔軟な対応をまず学び、聞き上手で話し上手な彼女はこれまで遺憾なくその能力を発揮していた。

学生ながら類稀な忍耐力と交渉術を以って、このときも鮮やかに無能上司の説得をした――のではなかったのか。

 

「で、理由は?」

「…………」

「いや、ここまで話したんだから今更渋ることないじゃん」

「…………。」

 

呆れたような硝子の言葉に苦々し気に顔を歪め、歯を食いしばった彼女はふいと私たちから顔を背けた。

不貞腐れているというより、これは怒っている顔だ。しかも、これはかなり腹に据えかねている様子である。この怒りが私たちに向けてではないことくらい、さすがにわかる。

そうして長い沈黙の後、彼女は呻くように言葉を零した。

 

「……云いたくない」

 

なんということでしょう。

ちらりと硝子を見れば、硝子も困り果てた様子で私を見ていた。

これは重症だ。

上司にムカついたことはわかった。

それを鋼の精神で抑え込んで懇切丁寧に接していたこともわかった。

では、どこで我慢の枷が外れたのかは今の話では分からないままだ。

 

なのに、肝心なところは云いたくない。

云えない、ではなく、云いたくない。

その言葉の差異に、どれほど大きな違いがあるだろう。

 

しかしここで諦めるのは後味が悪い。

夜蛾先生に云われたからではなく、純粋に彼女を心配する友人として、私たちは理由が知りたかった。

 

「ただムカついて殴ったわけじゃないってことね?」

「それは違う。理由はある」

「だけどそれを先生にも私たちにも話せないのはどうしてだい?」

「…………」

 

また彼女は黙り込む。

思わず私たちは天井を仰いだ。

こうなった彼女は頑固だ。私の顔を見ようとしないのは重症である。

何故なら彼女は私の顔が大好きなので、嫌なことがあっても私の顔を見たら全部どうでもよくなる、と普段から主張して憚らない。

そんな彼女が私の顔から目を逸らすのは、余程意志が固いからだろう。これは冗談や自惚れではなく、これまでの付き合いから弾き出した確かな統計だ。

 

とはいえ、話したくないならしょうがない、と納得出来るほど私たちは単純でもない。

本当に純粋に彼女のことが心配なのだ。

依頼人を殴る。それは、正直私や悟ならば十分あり得ることだろう。実際殴ったことはないけれど、ぶん殴ってやりたいと思った依頼人は数えだしたら夜が明ける。

私たちでさえ踏み止まっているのに、彼女はあっさりとその一線を越えてしまった。

 

思慮深く優しい、術師非術師関係なく誰にでも手を差し伸べてしまうような彼女が手を出すほどの理由とは一体何なのか。

例え彼女に非があったとして、踏み止まることが出来ないほどの何が彼女の身にあったのか。

理由がわかれば私だって彼女を守るために動けるのに、こうもだんまりではフォローの一つも出来ない。

 

もどかしかった。

それと同時に、少しだけ腹が立った。

こんなにも彼女のことを心配しているのに、相談も弱音を吐くこともせずへらへらしている彼女は、私たちを何だと思っているのだろう。

友人だと思っていたのは私たちだけだというのか。

 

「ふたりを信じてないとか、先生を信じてないとか、そうじゃないの。理由を云いたくないのは、私の我儘」

 

心を読まれたのかと思って、ちょっとだけ肝が冷えた。

いやしかし彼女の術式はそういう類ではない。

少し早くなった鼓動に落ち着けと云い聞かせていると。

 

「ごめん」

 

普段快活な彼女からは、想像も出来ないくらい儚げな表情と声。

私たちは、それ以上何も云えなくなってしまった。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

三日後、彼女は反省文の提出を拒否。

謹慎処分は一週間に延長された。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

職員室に呼び出されたにもかかわらず、彼女はケロリと『反省文は書いてません』とのたまった。

謹慎三日目の夕方、ここで反省文さえ提出すればまた明日から通常通り授業を受け任務に就く毎日が始まるはずだったのに。

 

「何を考えとるんだお前は」

「反省することがないので。……ああ、ひとつありました」

 

胡乱な目をした夜蛾に、彼女はにこりと笑顔を浮かべて両手を合わせた。

……夜蛾は少し嫌な予感がした。

クラスメイトというのはこうも似るのだろうか。穏やかながらどこか刺々しさを感じずにはいられない彼女の笑みは、悪だくみをしているときの夏油のそれと酷似していた。

 

「高専に云いつけるなんて思いつかないくらい、徹底的にやればよかったです」

 

その言葉さえなければ、可憐な少女の笑顔だと勘違いできるのに!

ギャップのせいで風邪を引きそうだ。何度目になるかわからないため息を零しながら、夜蛾は続ける。

 

「先方はお前が謝罪すれば今回のことは水に流すと云っているんだぞ」

「謝る必要性を感じません」

 

即答だった。

夜蛾が頭を抱えたのも無理はない。

再度深いため息の後、ゆっくりと彼女に云い聞かせるように夜蛾は云う。

 

「何の落ち度もないのに、話し合いの途中でいきなり殴られたと先方は主張している。俺はそれは嘘だと思う」

「…………」

 

つんと黙り込んでいた彼女は、少しだけバツが悪そうに夜蛾から顔を逸らした。

これは後ろめたいと思っている証拠である。つまり、先方の主張は虚言であり、夜蛾がそれを確信して彼女を信じていると云ってくれているのに、それでも理由を語ろうとはしないことへの罪悪感。

それでも固く結ばれた口を謝罪のために開くことはないのだから、随分と難儀な性格をしている。

 

「俺は教師だ。今までのお前の勤務態度も生活態度も知っている。教え子の欲目ではなく、お前が理由もなく人を、それも依頼人を殴るような子だとは思っていない」

「……すみません」

「何故俺には謝れるのに先方には謝れないんだ。理由があるならちゃんと教えてくれ。そうでないと、俺はお前を守ってやれない」

 

その言葉に、彼女は小さく息を飲んだ。

それから夜蛾に視線を向け、じっと目を見つめる。

夜蛾が本気で自分のことを心配して、信じてくれているのだとわかった。

頭ごなしに怒らず、辛抱強く自分が理由を話すのを待ってくれている。

 

嬉しい。

とても嬉しくて、誇らしい。

 

――でも、駄目だ。

 

「夜蛾先生の手を煩わせて、ごめんなさい」

「だから――……」

「だけど、理由は云いたくありません。先方が全面的に私が悪いと主張しているのならそれでいいです。謝らなければ許さないなら、それによって高専に不利益があるなら私を退学にでも何でもしてください。私は絶対に謝らない」

 

謝罪をするのは夜蛾に対してのみ。

いくら担任とはいえ、こんなことで忙しい夜蛾の手を煩わせていることだけは本当に申し訳ないと思っている。

言い換えれば、それ以外について全く謝罪する気がない。上層部が自分を持て余していることに対しても彼女にとっては割とどうでもいいことだった。むしろ精々困れと思っているが口に出さないのは一応の体裁の為である。

彼女の言葉からは、悪いと思っていないというよりは、悪いことだとしても謝りたくない、という気概すら感じた。

これはかなり妙なことだと思うが、しかし教師として、現場の上司として、形だけの謝罪も拒否し続ける彼女を、夜蛾は罰しないわけにはいかない。

それがルールだからだ。

彼自身は彼女を理解し許してやりたくとも、頑なに理由を明かさず黙秘を続ける彼女を良しとしては、周囲にも示しがつかないのだ。

 

退学にはしない。上層部も同じ考えだろう。何せ、夜蛾にもよくわからないが、上層部は彼女を気に入っているらしい。はっきりと云われたわけではないが、彼女を危険な目に遭わせないようにしたいという圧力を薄々感じている。

そもそも、余程のことがない限り一度問題を起こしたくらいで退学にはならない。問題を起こしまくりの五条と夏油が今も元気いっぱいに学生でいるのが何よりの証拠だ。

だというのに、退学でも構わないと彼女は云う。

それくらい固い意志で理由を話さないと決めているのだ。

これはもう、理由を聴き出そうとするだけ無駄だ、と夜蛾は覚った。

 

「……わかった。もう訊かん」

 

ため息の数を数えるのはとっくに諦めた。

気を付けの姿勢で固まっていた彼女は少し身体を強張らせ、歯を食いしばった。呆れられたと思ったのだろう。折角信じてくれていたのに、はっきりと我が儘だと明言した上で理由の説明をしないなんて、呆れられても仕方のないことだとわかっていても、やっぱりショックだ。

彼女は彼女なりに夜蛾を信頼しているし、尊敬もしていた。

そんな夜蛾を裏切る形になってしまったことが、彼女は悲しい。

 

「でもな、忘れるなよ」

 

夜蛾の言葉を、彼女は神妙な面持ちで待った。

 

「俺はお前の味方だからな」

 

厳しい夜蛾の、優しい言葉に、彼女は深々と頭を下げる。

けれどそれでも、あの男を殴った理由を口にする気にはなれなかった。

ごめんなさい。

再度心の中で夜蛾に謝罪し、彼女は部屋に戻る。

 

 

 

彼女が謹慎処分を食らって五日目、彼女のいない教室は、どこか空虚だった。彼女が任務でいないことはこれまでもあったし、それどこそか自分以外の全員が任務だなんだと高専におらず一人きりになったことだってあるのに、今はそれ以上になんだか虚しい。

いつの間にか彼女が自分たちの中心にいて、そこにいて当たり前の存在になっていたことを夏油と家入は改めて痛感していた。

 

午前中、ぽつりぽつりと適当な会話を交わしながらぼんやりと課題をこなしていたふたりのもとを訪れた者があった。

 

「あの、すみません」

「……伊地知?」

 

小さく丁寧に頭を下げる、気の弱そうな長身痩躯でメガネの男子生徒。

伊地知潔高。夏油たちのふたつ下、灰原と七海のひとつ下で、この春高専に入学してきた新入生だ。

彼自身あまり強い術式を持たないため、入学当初から補助監督になることを目指しており、つまり実質のところ、現状唯一の彼女の直属の後輩ということになる。

灰原と違って根明でもコミュ力オバケでもないため、彼が夏油たち三年生の教室を訪れることは滅多にない。それこそ、彼女に用事があるか、五条が無茶振りをして呼び出したりしない限りは近付きもしない。

 

そんな彼が、おずおずと、しかし逃げ出す様子はなく夏油と家入をまっすぐに見つめ、何事かと顔を見合わせた二人に、意を決した様子で口を開いた。

 

「多分、なんですけど。先輩が依頼人を殴った理由、わかりました」

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

『途中になっていた事務処理のために、私も他の補助監督と一緒に件の団体のところに行ってきたんです。そうしたらあの時同席していたって云う担当者の方が話してくれたんですが』

 

もったいぶらずにさっさと吐け。

そう凄むと、伊地知は小さな悲鳴を上げつつ続けた。

 

『どうやら上司の方が、夏油さんのことを貶したらしいんです。ほら、任務にあたる前にどういう人物が来るのかデータを送れってしつこく云われてて、そのデータに夏油さんの呪霊操術について簡単な説明を書いたでしょう? その中の、【取り込んだ呪霊を操る】ってところを突いたらしくて。本来祓うべき呪霊を自分に取り込むなんて気色悪いとか、夏油さんが呪霊を使って自分たちに嫌がらせをして依頼をさせたんじゃないか――つまりマッチポンプを疑ったらしいですね――とか、根も葉もないことをつらつらと先輩に云ってなんとか報酬を値切ろうとしてたみたいです』

 

開いた口が塞がらないとはこのことだった。

なんだその上司は。馬鹿か? 悪いがいくらなんでも私はそんなに暇じゃない。

というか、そんなことで?

自分ではなく、私を貶されたから、いつもの冷静さをかなぐり捨てて依頼人を殴った?

彼女が?

 

――どうして。

 

絶句したままの私と、同じく言葉を失って固まっている硝子を怯えた目で見た伊地知は、しかし意を決したように続ける。

 

『それでも、担当者さん曰く先輩もしばらくは我慢していたみたいです。表情はどんどん怖くなっていったけど、拳も固く握りしめていたけど、必死に我慢していたって』

 

では、何故。

そのまま我慢することが出来なかったのか。

その理由に、私は愕然とした。

 

『夏油さんのことを、その、上司の方が――バケモノと呼んだと』

 

その瞬間、担当者の目にも止まらぬ速さで握りしめた拳を振り上げ、振り抜き、上司を殴り倒したのだという。いくら彼女が非力な女性であっても、伏黒甚爾から体術の手ほどきを受けている身だ。力がなくとも素人ならば昏倒させることなど造作もなかっただろう。

突然の暴挙に呆気に取られた担当者も、彼女がもう一度拳を振り上げたところで我に返って慌てて止めたらしい。幸いだったのは、彼女が担当者を振りほどいてまで殴りかかろうとはしなかったことだ。

一方殴られた上司は一瞬意識を失ったらしいが、すぐに気が付いて大騒ぎをした。

 

何もしていないのに殴られた。

正論で図星を突かれて逆上したんだろう。

暴力女。

こんなやつらに支払う報酬はない。

正式に高専に抗議する。

 

こんなことをぎゃーぎゃーと喚き散らし、彼女から逃げるように部屋を飛び出してすぐさま高専に連絡し、それを受けた高専は彼女には即高専に帰還するよう命令すると、帰った彼女に謹慎処分を下した、ということだった。

 

「あ、ちょっと夏油!?」

「夏油さん!?」

 

伊地知の話を聞いた私は、弾かれるように走り出した。

硝子と伊地知が私を呼ぶ声が聞こえたけれど、そんなのどうでもいい。

もちろん向かうのは謹慎中の彼女のもと。

 

冗談も大概にしてほしい。

なんの悪夢だ、それは。

 

彼女は、私の為に怒ったというのか。

何を云われても耐えていたのに、私がバケモノだなどと呼ばれて、それが我慢できなかったというのか。

 

百歩譲ってそれが本当のことならば、何故彼女はそれをひた隠しにしていたのだろう。

彼女は自分の周囲をとても大切にする子だから、友人である私を貶されたことが耐えがたいことだったとしてもおかしな話ではない。多分これが私ではなく悟や硝子を貶す言葉だったとしても、彼女は同じように怒るだろう。そこには友愛以上の愛情の区別はないはずだ。

なのに、どうして彼女は。

 

「――理由、聞いたよ」

 

ノックもせずに勢いよく部屋のドアを蹴破る勢いで開けた私を、最初彼女は不審そうな顔で見ていた。私が誰かの、少なくとも彼女の部屋を訪れるときは必ずノックをしていたし、先に声を掛けたり事前に連絡をしていることが多かったから、こんなふうに突然訪問するなんて何事だと思ったのだろう。

けれど彼女が何かを云う前に口を開いた私に、彼女は浮かせた腰を一度止めて、再び椅子に降ろした。

ゆっくりと深く息を吐き出し、参ったなぁと呟きながら天井を仰いだ。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

しばらくの間、夏油と彼女の間には沈黙が横たわった。

彼女は目を瞑ったまま天井を仰ぎ、夏油はそんな彼女をじっと見つめる。

先に口を開いたのは、彼女の方だった。

 

「私、悪くないから」

 

芯のある強い言葉だった。

夏油が、自分があの男を殴った理由を知ったのは想定外だったけれど、考えてみれば結局中途半端なまま仕事を放り出してしまったわけで、自分以外の誰かが事後処理に向かうのはわかっていたことだった。

きっとその処理に当たった補助監督が、あの担当者からあの時の話を聞いて夏油に話したのだろうと彼女は予想する。そしてその予想は当たっている。

 

「先に手を出したのは私だけど、いくら依頼主だからって夏油を蔑んでいい理由にはならない。あいつ、自分は呪霊も見えないくせに何様のつもりなの。殴って清々したわ! だから私は謝らない。でも、夏油は悪くないから気にしないでね。私が言葉で窘めればよかったのに、我慢できなくてぶん殴っちゃったのが悪いんだし」

 

姿勢を直した彼女は、座ったまま椅子を夏油の正面になるように向けてから云った。

浮かべた笑顔が作りものであることなんて、夏油にはお見通しだ。まぁ、ちょっと自棄になっているので半分は自嘲なのかもしれないが。

随分と腹を立てている様子なのはわかるが、今の彼女のセリフには少し引っかかるところがあった。取り繕う笑顔よりも、ともすればそちらの方が夏油にとっては重要だ。

だから夏油は、その言葉の真意を確かめようと思った。

 

――一歩間違えば破滅への道を辿る言葉を、そうとも知らず、夏油は口にした。

 

「君は、非術師が嫌いなのか?」

 

一年前の星漿体事件で天内理子と黒井美里を守り切ったことで、この世界線での夏油は原作のように非術師への不信感はそこまで強くない。

日ごろからうんざりするような非術師の依頼人が存在し、それと関わっているせいで全くないとは云わないが、殺意を抱くほどではない。

彼の信念は未だ『呪術師は非術師を守るために』であるし、困っている人を助けるのは当然だと思っている。

 

けれど原作と違うのはそこだけではない。

この世界には、彼女がいる。

そして夏油は、彼女を愛している。

弱きを守るのは当然でも、それ以上に守りたいのは彼女だ。

例え恋人になれなくとも、守りたいという気持ちだけは変わらない。

 

その、彼女がもしも――非術師を嫌っていたとしたら。

 

順調だったはずだった。

このまま九十九由基との邂逅も阻止し、灰原の死も回避すれば、夏油が非術師を淘汰しようなどと考えることはなく、きっとハッピーエンドを迎えることが出来ると、彼女は思っていた。

 

それなのに。

 

「―――……」

 

夏油の言葉を聞いた瞬間、全身に冷水を浴びせられたかのように身体が冷たくなった。身体中の血液が凍ってしまったのではないかと思った。そんなわけはないのに。

立ち上がったのは、ほとんど無意識だった。キャスター付きの椅子が机に当たり、机の上に置いてあった飲み物が倒れて中身が零れだしたのも、気にならなかった。

 

彼女は、己の浅はかな言動を呪った。

あまりにも軽率だった。

いくら腹が立っていたとはいえ、少なくとも夏油の前で云っていいことではなかった。

非術師を、嫌悪するような発言はすべきではなかった。

青褪めた彼女は、ふらふらと夏油に向かって歩き、震える手を伸ばした。

夏油はその手を取り、握りしめた。

温かい手だった。

彼女にとって、大切な友人である夏油の、優しい手だった。

縋るようにその手を握り返す。

 

もしも、ここで自分がそうだと云ってしまったら。

 

――きっと夏油は、自分の中にほんの僅か燻っていた非術師への不信感と不快感を、肯定してしまう。

 

それは、駄目だ。

それは、彼女が最も忌避したかったことだった。

 

「違うよ夏油。私は非術師が嫌いなんじゃないの」

 

そうではない、と。

そうではないのだ、と。

ゆっくりと否定するように、首を横に振る。

 

「私は、術師であろうと非術師であろうと、夏油を傷付けるやつらが嫌い。夏油に助けてもらったくせに、それを当然のことだと踏ん反り返って、感謝するどころか蔑んで、夏油の優しさの上に胡坐をかいている人間が大嫌い。そんな奴らを夏油が助ける義務も義理もないんだよ。そんな奴ら、勝手に死んじゃえばいいんだよ。だってそうでしょ。どうして夏油がそんな奴らのために戦うの? 傷付くの? 苦しい思いをするの? 呪霊操術のことなんて何にも知らないやつらに好き勝手云われてまで助ける理由って何? 強いから弱いものを助けるのは、正しいことだと思うよ。でも、全部が全部じゃないよ。助けなくていい人だって、いるよ。いいんだよ夏油、全部夏油が助ける必要なんて、絶対ないんだよ」

 

これは、今まで彼女が飲み込んできた澱だった。

本当はこんなことを云うつもりはなかったのに、一度零れた言葉は留まることなく次々と彼女の口から溢れていった。

彼女が夏油を幸せにすると決めたとき、すべて受け入れるつもりだったのに、気付けばもう蓋が閉まらないほどに溜め込んでいたことに、今さら気付く。

止まれ、と思っても止まらない。

堰を切った堤防の水のように、彼女は続けた。

 

「私はあの男を殴ったことを間違ったことだと思っていないし、後悔もしていない。私の大事な人を侮辱したあいつに謝るくらいなら、死ん――…」

「ストップ」

 

咄嗟だった。

考えるよりも先に言葉が飛び出して、遮るように夏油は彼女の口元に手をやった。

それ以上、その言葉の続きを吐き出さないでほしくて。

 

「冗談でも、そんなことは云わないでほしい」

 

死んだほうがまし、なんて。

そんなわけがない。

そんなわけはないのだ。

死んだらおしまいだ。

死んだらそれで解決するなんて、そんな話はありえないのだ。

冗談であっても、例え話であっても、彼女にだけはそんな話をしてほしくない。

 

発言を遮られた彼女は、夏油を見つめる。

夏油の瞳は、少しだけ揺らめいていた。

彼は、心を痛めている。

それは、今の自分の発言のせいだと彼女は覚り、息を飲む。

 

ああ、やっぱり。

結局こうなった。

だから嫌だったのだ、理由がバレるのは。

どう言い訳しようと、彼女が依頼人を殴った理由が知られれば、優しい夏油は傷付くことを彼女は知っていた。

自分が悪いのだと云っても、夏油のせいではないのだと云っても、夏油をバケモノと呼ばれたことが我慢ならずに手を出したという事実は変わらない。

だから絶対に知られたくなかったのに。

 

口を塞ぐように手を押し当てる夏油の手は、わずかに震えていた。

その手を、彼女はゆっくりと両手で握りしめる。

そうして、祈るように自分の額に押し当てた。

 

ごめん。

ごめんなさい。

 

――ごめんなさい。

 

何に対する懺悔なのか、自分でもわからない。

だけど懺悔せずにはいられなかった。

依頼人を殴ったことか。

依頼人を殴る口実にしてしまったことか。

ちゃんと自分で理由を話せなかったことか。

それとも、それら全部に対しての懺悔なのか。

 

しばらくそうしていると、ねぇ、と夏油が彼女の名前を呼んだ。

今声を出したら何かが壊れてしまいそうで怖いので、黙って先を促す。

すると夏油は、今の状況には不釣り合いなほど穏やかな声で続けた。

 

「私のために怒ってくれて、ありがとう」

「やめて」

 

思わぬ感謝の言葉にハッと彼女は顔を上げ、信じられないというように声を震わせた。

やめて、ともう一度小さく呟いて、違うのだと首を振る。

否定を、する。

 

「違う。夏油のためじゃないの。私は私が我慢できなかったからあいつを殴っただけ。あの時の私の頭に、夏油のことなんてなかったんだよ」

 

最初は我慢が出来た。

非術師の依頼者には、たまにああいった無知の阿呆がいることを彼女はよく知っていたので、今日も出くわしてしまったか、くらいの気持ちで聞き流していた。担当者自体は丁寧な対応をしてくれていたし、あと少しで終わりだったところでいきなりしゃしゃり出て来られて腹が立ちはしたけれど、その程度だった。

しかし、馬鹿にもわかるように懇切丁寧に説明していても、男は端から話を聞く気はなかった。何でもいいからとにかく高専に報酬を払いたくないのだ。

努めてにこやかな笑顔を浮かべていた彼女に対しても、こんな若い女を寄越すなんて誠意がない、こちらを馬鹿にしているのか、などと喚く始末。これには担当者も頭を抱えていた。間違いなく会社の恥である。

それでも、どんなに云いがかりをつけられて詰られて馬鹿にされても、彼女は我慢していた。

どこにでも腐ったミカンはいる。

それはもう仕方のないことだ。

しかしもうこれ以上はこの男の相手をしても無意味だと判断し、適当なところで切り上げてさっさと帰ろう、と考えていた時だった。

 

『だいたい、呪霊を祓ったって云う夏油とかいうガキ。呪霊を取り込んで操ってるんだろう? それならそいつも呪霊と同じでバケモノじゃないか』

 

――考えるよりも先に、身体が動いていた。

 

自分が持てる身体能力の全てを掛けて、彼女は男に殴り掛かった。

思ったよりも素早かったし、思ったよりもずっと無意識だった。

だけど後悔はなかった。

拳に柔らかい肉を殴る嫌な感触があり、虫唾が走った。何度経験しても人間を攻撃する感覚は気持ちがいいとは云えなかったのに、今になって初めて、人を殴ってすっきりした。胸がすく思いというのはこういうことなのか、とじんじんと熱を持った拳を握り締めながら他人事のように彼女は思う。

いいところに入ったのか、男は慣性の法則に従ってゴロゴロ床を転がって壁にぶつかって止まって、わかりやすく目を回していた。

当然だけれど死んでいない。

咄嗟だったので急所を狙えなかったし、自身に一発で成人男性を殺せるほど威力のある拳をお見舞いできるほどの力がないことを彼女は十分理解している。

だからもう一発くらい殴ってもいいかな、と振り上げた拳は、しかし担当者によって阻まれる。それはそうだ、いくら男の暴言が度を越していたとしても、先に手を出したのは彼女のほうだし、一応上司である男を庇う義務が担当者にはあった。

それがわかったから、彼女は二発目を思いとどまった。

振りほどいて男を殴りつけるのは簡単だったけれど、これ以上担当者を困らせるのも本意ではないからだ。

 

すぐに目を覚まして頬の痛みに悲鳴を上げた男は、血走った眼で唾を飛ばしながらぎゃーぎゃーと喚いていた。それを呪霊を見るよりもずっと冷たい目で見つめながら、彼女は冷静だった。

自分が男を殴ったこと、高専に抗議をすると息巻いた男が逃げるように部屋を飛び出していったこと、どうすべきかわからず慌てふためく担当者。

全部、どうでもよかった。

 

ただ、一度はすっきりしたはずの気分がまた鉛を飲み込んだように沈んでいくのがわかった。

バケモノ。

その言葉が、重く彼女に圧し掛かる。

彼女を揶揄した言葉ではないのに、耳から離れない。

 

知らないくせに。

わからないくせに。

助けてもらったくせに。

どの口が夏油を穢すのか。

 

――この世の誰も、夏油傑という存在を軽んじていいはずがないのに。

 

「うん。それでも」

 

ありがとう、と夏油は繰り返した。

そんな夏油の心から嬉しそうな笑顔を見て、彼女はくしゃりと顔を歪める。泣き出すのを必死に我慢するような、悲鳴を噛み殺すような、そんな複雑な表情だった。

けれど彼女は泣かない。

瞳を涙に潤ませても、その涙が零れないようギュッと目を瞑り、鼻の奥がつんと痛んでも息を飲んで我慢する。

ここで泣くのはずるい。

全部勝手に自分でやったのだから、全部自分の中で完結させるべきだ。

堪えきれないほどの感情も、自分のせいなのだから吐露して楽になっていいはずがない。

 

彼女がそんなことを考えているであろうことは、なんとなく夏油にもわかっていた。

単純なくせに妙なところで頑固だから、今泣くのはずるいとでも思っているのだろう、と。そしてその予想は的中している。

それでも、これは自分のエゴなのだとわかっていても、夏油は思う。

 

泣いてくれたらよかった。

ひとつでも涙をこぼしてくれたらよかった。

自分の前で弱さをさらけ出してくれたらよかった。

 

そうしたら、夏油は彼女を抱き締めることが出来たのに。

好きだからとかそういうことではなく、泣く友人を放ってはおけないという免罪符を以って、夏油は彼女を抱き締めることが出来たのに。

けれど悲痛なまでに顔を歪めながら、彼女は決して泣かない。

だから夏油は、彼女を抱き締めることが出来ない。

血が出るほどに唇を噛み締め、怒りと悲しみと苦しみに身体を震わせる彼女を、ただ見ているしか出来なかった。

手を伸ばせば触れられる距離にいるのに。

こんなにも傍にいるのに。

自分の為に怒り、自分のせいで悲しみ、自分への中傷に苦しんでいる彼女のことを、ただの友人である夏油は抱き締めて大丈夫だと囁くことも出来ないのだ。

それどころか、か細く震えるその肩に触れることすら、夏油には出来ない。

 

夏油は知っている。

彼女に触れる資格が、自分にはないことを。

 

その資格を持っているのは、この世界でただ一人だけだということを。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

淑やかに、したたかに。

可憐に、苛烈に。

 

彼女はそういう人だった。

彼女のそういうところが好きだった。

もちろんそれだけじゃない。彼女を好きになった理由なんて、数えだしたらキリがない。

 

私にとって彼女は世界だった。

くそみたいな術式の弊害でくそみたいな思いをしても、彼女が自分を心配して気にかけてくれているのを知っているから耐えられた。

くそみたいな上層部に振り回されてくそみたいな任務に明け暮れるはめになっても、彼女が帰りを待っていてくれるから乗り越えられた。

 

彼女のいる世界が、私の世界だった。

 

彼女が笑っている世界を愛している。

 

彼女を取り巻く世界が優しいもので溢れていたらいいと思っている。

 

だからもし、もし、彼女が望むなら。

 

彼女が――非術師を、嫌うなら。

 

 

――私は。

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