前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
トラブルというのは、どうしてこうもまとまって起きるのか。
事の始まりは一週間前、先輩補助監督がやらかした伝達ミスからこの悪夢がスタートした。
彼は私が高専に入った年に補助監督になっているから、さすがにもう新人とは呼べない程度の勤務年数になっている。ただ、どうにも注意力が散漫というか全体的に大雑把というか、特に書類仕事が苦手な人だった。
私が補助監督の仕事をするようになってからは、それがわかっているからなるべく外回りに行ってもらうようにして、事務仕事はやりすぎない程度に私が肩代わりしていたのだけれど、今思えばそれがよくなかった。
誰かがやるから自分は出来なくても大丈夫、と思ってしまったらしいのだ。
いや適材適所、出来ることは出来る人がやる、ということにまるっきり反対なわけではなくて、それに胡坐をかいて本来の自分の仕事を放棄するのは違いますよね、というのは至極まともな意見だと思うのに、彼には伝わらないらしい。
その結果、私が他の案件で忙しくしている間に彼がやむを得ず突貫仕事をしたおかげで、重要な部分の伝達ミスが発生した。
簡単に云うと、彼は呪霊の等級を間違えて記載したのだ。
三級、と。
実際に発生していたのは準一級で、かすりもなにもしていない。全然惜しくない。何もかもが違う。
純粋な気持ちで『どうしてこうなった』と叫んだところで私は悪くないと思う。
幸いと云うかなんというか、その任務に向かっていたのが甚爾さんだったからよかったものの、詳細の報告や謝罪を私がする羽目になったのは何故なのだろう。
伏黒甚爾係、などと上司に云われたけれど、初耳だ。
まぁ以前はなんとなく甚爾さん関連は私に回されるな~とは思っていた程度だったのに、ここにきて確定してしまった。みんな甚爾さんに関わりたくないらしい。
めんどくさい性格で気紛れすぎるしなんで怒られるかわからないから怖い、とみんな云うけど、コツさえ掴めば簡単なのに。
しかし文句など云う間もなく急いで甚爾さんに情報を回すと綺麗な笑顔で抉るような嫌味を云われ――たまたま来ていた時雨さんには可哀想なものを見る目で見られてとても遺憾――、私が耐えればすべてこれで解決かと思いきやまだまだ出てくる書類不備。
間違いの数が両手を越してからは数えるのを止めた。精神的にしんどかった。誰かあの人に新人研修もう一回やってくれ。
ひとつの不備から芋ずる式に出てきた不備に対する対応に追われていたら、あっという間に一週間だ。
正直、この一週間で合計何時間寝たのかわからない。一応シャワーだけは毎日浴びていたけれど、髪を乾かす時間も惜しかったので適当に放置していたので、人生最高に髪がぱさぱさ。今この状態だけは絶対に先輩に見せられない。
とにかく、やっと後始末を含めて終わったのだから、今日くらいはゆっくりお風呂に浸かって自分のベッドで眠りたい。事務室のデスクに突っ伏して寝て、ハッと起きて首と背中がバキバキ音を立てるような生活からはおさらばだ。
くたくたになって久しぶりに寮への帰路を辿っていると、見慣れないものが寮の玄関の前に停まっていることに気付いた。
はて、と思う。
大型のバイク。
確か現状高専関係者、とりわけ高専校舎に訪れるような人の中にあんなものを乗り回す人はいなかった――と、そこで私は息を飲んだ。
高専関係者じゃない。
あれは――九十九由基が乗っていたバイクだ。
気付いた瞬間に私は走り出した。
手に持っていた書類が数枚落ちた気がしたけれど、そんなことはどうでもいい。
私は一体何をしていた。
トラブルなんて放っておくべきだった。
年上且つ先輩なのだから自分の尻拭いは自分でさせるべきだった。
何故私がここにいるのか、本来の目的を果たすことだけを考えているべきだったのに。
走りながら唇を噛み締める。血の味がした。
まったく、大間抜けにもほどがある。
夏になったら毎日警戒しておくべきだった。
日付がわからないのだから、いつ起きたっておかしくないのに、トラブルなんかに振り回されている場合じゃなかったのに。
あれは、どこだ。どこだった?
もう随分薄れてしまった記憶を辿るのは容易なことではなかったけれど、思い出さないわけにはいかない。
原作では場所が記載されていなかったから、今ある記憶とあのシーンを照合して、私は今すぐに行かなければならない。
そうして答えを導き出した私が大浴場前の休憩スペースに到着したとき、そこにはすでに、夏油と、九十九由基が、いた。
慌ただしい様子で現れた私を驚いたように夏油は見、九十九由基はどこか面白そうに私を見た。
「幸音?」
「おや、もしかして君が噂の?」
「――……。」
シャワー上がりなのだろう、まだ濡れた髪を下ろした夏油が、九十九由基と並んで座っていた。
既視感のある、光景だった。
私はそれを、肩で息をしながら眺めていた。
言葉が、出てこなかった。
夏油は九十九由基の言葉の方が気になったらしい。私から視線を外し、怪訝そうに九十九由基に云った。
「彼女、噂になってるんですか?」
「ああ、有名だよ。あの五条悟と婚約した優秀な補助監督ってね」
「へぇ、高専にいなくてもやっぱりその話は知ってるんですね」
「そりゃ、五条の坊ちゃんの婚約なんて呪術界にとって一大事件だからね。知らないやつはモグリさ」
朗らかな雰囲気に見えなくもない。
ただの談笑、世間話。
夏油も笑っているし、九十九由基も笑っている。
私だけが、笑えない。
「何の話をしていたの」
声が、震えた。
硬くて、ひょっとしたら問い詰めるような強い云い方になっていたかもしれない。
だけど、自分の意志ではどうしようもなかった。
驚いたように目を見張る夏油と、薄っぺらい笑顔を浮かべる九十九由基。
私は今、どんな顔をしているのだろうか。
「え?」
「いや何、ちょっと好みのタイプの話をね、」
「嘘」
「……幸音?」
なんで。
どうして。
先輩補助監督があんな失敗しなければ、きっと私は間に合った。
ちゃんと私が注意していれば、こんなことには、ならなかった。
いつも通りの忙しさの範疇であれば、寮に戻れないほどではなかったはずだ。
もう手遅れのタラレバを考えて、自己嫌悪で死にたくなった。
今はそんな場合じゃないとわかっているのに、もし私が間に合っていればと悔しくて仕方がない。
九十九由基の言葉を遮ったのは完全に八つ当たりだった。
顔を見合わせる二人を見て、私は咄嗟に叫んだ。
「夏油から離れて」
気付けば私は、夏油と九十九由基を遠ざけるように、夏油の腕を引っ張っていた。
「え、ちょっと幸音?」
驚きながらも夏油は私の力に抗わずにいてくれた。私程度の力で夏油を立たせることなんて出来ないから、多分無意識に夏油が私に合わせて動いてくれたんだと思う。普段なら感謝の言葉を口にするところも、今の私にそんな余裕はない。
立ち上がった夏油をさらにぐいぐいと引っ張り、夏油の前に立ち塞がって、九十九由基との直線上に私が立つ。
そんなことしたってもう意味はないのに、こうせずにはいられなかった。
背中に夏油を庇うようにして立ちながら、私は、口を開いてしまった。
「夏油を連れていかないで」
彼女が何故ここにいたのか、私だけは知っていたのに。
ただ同じ学年に二人も出た学生特級術師のこと気になったから、たまたま高専に立ち寄っただけの彼女が、夏油をどこかに連れて行くわけはないのに。
それでも、私は自分の言葉が場違いだとは思わなかった。
原作で夏油は、九十九由基との会話を通して『非術師を皆殺しにする』世界の正しさに気付いてしまった。
私はそれを間違っているとは云えない。けれど同時に、正しいとも云いきれない。
ある意味正しく、ある意味間違っている。
夏油が悩んでいるのは答えの出ない問題だ。
断じることは簡単だけれど、それは多くのものを切り捨てる答えになってしまう。例えそれが、本当に正しい答えだったのだとしても。
その正当さと非情さとの間で苦しむ夏油を、見たくないと思っていたのに。
その為に私はいたはずなのに。
「……ふむ。どうやら私はお邪魔なようだ」
そう云って九十九由基は立ち上がり、あっさりと去って行った。
去り際に小さく、申し訳ないね、とだけ呟いて。
違う。
彼女が悪いわけではない。
彼女が謝る必要なんて本当はなくて、非礼を詫びるべきなのは私の方で。
彼女の話がひとつの正論であることはわかっている――わかっていた、はずだったのに。
いざ彼女を目の前にしたら、もう、感情が溢れて駄目だった。
夏油と彼女を、九十九由基を、私は会わせたくなかった。
夏油の心を守るためにすべきことはたくさんあった。
まず最初に理子ちゃんと甚爾さんを死なせないこと。これは去年無事に成功した。
成功したから、私は何でもできるのだと自惚れていた。
自惚れた私は、次にすべきは灰原くんを死なせないことだと思い込んでいた。
でもそうじゃなかった。
私は、夏油と九十九由基との邂逅を阻止しなければならなかったのだ。
馬鹿な私はそれを失念していた。
誰かを死なせないことだけを考えすぎていて、夏油が彼女との会話の中でどう変化するのかまで頭が回らなかった。
なんて馬鹿なんだろう。
守りたいと必死に動き回った結果、結局何も守れていない。
私は、いつも遅い。
バイクのエンジンのかかる音がして、遠ざかっていって、それからしばらく私たちは沈黙していた。
私は九十九由基が本当にいなくなったか不安で仕方がなかったし、夏油は明らかにおかしな私の様子を探っているようだった。
どれほど時間が経ったかわからないけれど、私はゆっくりと夏油を振り返る。
見上げた夏油は、神妙な顔で私を見つめていた。
そこにあるのは私への気遣いと心配だけで、とてもじゃないけれど、非術師を皆殺しにすれば世界が安泰する、なんて考えているようには思えない。
でも、夏油は自分を隠すのがうまいから。
私なんかには思い至れないような考えに、至っているかもしれないから。
「ねぇ夏油、あの人と、何の話をしたの」
私は繰り返した。
問い質したところで意味はないとわかっているのに、そうせずにはいられない。
「何の話を、したの」
夏油の腕を掴む。
額を、夏油の胸に押し付ける。
伝わる心臓の鼓動に、涙が出そうになった。
二人が、どこまで話をしたのかはわからない。
もしかしたら私が途中で乱入したおかげで、中途半端なところで話が止まっていた可能性だって十分ある。
だけど。
わかる。
わかってしまった。
夏油は、自分の中に燻っていた非術師への感情に、それを解消する一つの方法に――気付いてしまった。
「嫌だよ夏油、お願いだから、どこにも行かないでよ」
「待って幸音、一体何の話だい?」
「夏油が遠くに行っちゃうのは嫌なの。我が儘なのはわかってるけど、ここにいてほしいの」
「幸音、落ち着いて――……」
「だって私、夏油がいなくなったら生きる意味がない」
戸惑う夏油を置いてきぼりに、私はまくしたてるように云った。
止まらなかった。
今まで、私はなんとかして夏油が非術師を憎まないよう動いてきたつもりだった。
本来ならば星漿体の事件で非術師に対して決定的な嫌悪感を抱き、そこから五条の完全な才能の開花を目の当たりにしたことで夏油は徐々に病んでいくはずだった。
理子ちゃんを死なせなかったおかげで、それは回避できたはずだ。
だけど、自分勝手で被害者面で、そのくせ術師に頼りきりな非術師はごまんといて、それらは少しずつ夏油の心を蝕んでいた。
どんなに心を砕いても、私の努力よりずっとずっと多い非術師への欺瞞は取り払うことが出来なかった。
私じゃ、やっぱり夏油を救えないのだろうか。
非術師が嫌いだと自覚した夏油が、心のままに動くのが嫌だった。
どうしようもなく恐ろしかった。
これが私の独りよがりな考えなのだとわかっていても、夏油にはずっと笑っていて欲しいから。
「……君はズルい」
のろのろと顔を上げた。
涙が零れているのは気付いていたけれど、拭う余裕なんてあるはずがなく、濡れた頬をそのままで。
夏油はそんな私を見て、息を飲んだ。
それから、初めて見るくらい顔を赤くして、ぐっと眉間に皺をよせながら呻くように云った。
夏油は今、とても憤っているのだろう。
もちろん、私に対して。
理不尽で身勝手で、夏油の優しさにつけいってばかりの最低な、私に。
「私を振ったくせに、どこにも行かないでくれだって? 調子がいいにもほどがある!!」
うん。
私もそう思う。
私って本当に酷いやつだって、そう思うよ。
「私が君の云うことだったら何でも聞くと思っているのか? 馬鹿にするのも大概にしてくれよ。私だって君の意にそぐわないことくらいするさ」
うん。
それでいいんだよ。
夏油が私に付き合ってくれる理由は何もない。あるとしたらそれは、ただ夏油が優しいってだけのこと。
だから、本当はいいの。
私の言葉なんて全部無視して、非術師を嫌って憎んで蔑んで、私の前からいなくなったって、それが夏油の本当に望むことならいいんだよ。
それだけが夏油の心の平穏を保つ方法だというのなら、間違っているのは私の方だから。
夏油の言葉を黙って聞いた。
今の私が何かを云える立場じゃないとわかっていたから。
何を云っても夏油は傷付くだろうから。
云いたいことを、全部云ってほしかった。
全部聞くから。
それで夏油の気が済むなら、非術師に対する嫌悪よりも私への怒りが上回る方がずっといい。
「でも」
少しだけ荒げていた声が静かになり、夏油は一度言葉を切った。
不意に伸ばされた手が、私の頬に触れた。
夏油の手は冷たくて、大きな手で涙を拭う仕草はとてもとても優しい。
「――馬鹿なのは、私か」
何が、と問おうとして、出来なかった。
次の瞬間、私は、夏油の腕の中にいた。
「だってズルい君の言葉が、だけど、涙が出るほど嬉しいんだから」
振り払わなければ、と思う自分がいた。
小牧先輩という恋人がいて、仮初の婚約者である五条がいて、何より私は夏油の告白を何度も無下にしていて。
それでもなおこの状況で夏油に抱き締められて大人しくしているのは、誰に対しても不誠実だ。
だから本当は、今すぐに夏油の腕から抜け出さなくてはならない。
それが正解なのだと思う。
……でも無理だった。
だって、――こんなに夏油に苦し気な顔をさせているのは、私なのだ。
彼氏がいるから付き合えないと振って、けれどあなたの幸せを願ってると云って、どこにも行かないでほしいと泣くような私を、こんな最低な私を、だけど夏油は嫌えない。
いっそ嫌ってくれたらどれだけ楽だろう。
普通はこんな女は最低だって嫌いになるものなのに、夏油が私を嫌うことはなかった。
私みたいな外見にも中身にも特徴のない女をどうして夏油が好きになってしまったのかはわからない。夏油だったらより取り見取りだから、わざわざこんなちんちくりんを好きになることはないのに。
もしかしたら、今まで綺麗で可愛いキラキラした人ばかり相手にしていたから、逆に珍しくて目が離せないだけかもしれない。
理由はともかく、夏油が非術師と同じよう私を嫌って憎んで蔑むことはなかった。
だから夏油は苦しんでいる。
救いたい夏油を苦しめるのは自分で、そのくせ、離れたくないと願うことのなんと卑しいことか。
あの日の遊園地で、夏油が望むならば離れる覚悟はあるとか云ったけれど、今となってはそんな覚悟は紙のような薄っぺらさだった。
もちろん、心の底から夏油に望まれればそうするだろう。
でも、きっと夏油は私にそんなことは云わないと、私は心のどこかでそう思っていた。だから、あんなことが云えた。
多分もう、今の私には、云えない。
友情の域は超えていないと断言できても、私は夏油に執着している。
これを愛だなどと私は呼ばない。呼びたくない。
だってきっと愛は、愛というのは、もっと綺麗で尊くて、優しいものだと私は思う。
だからこんなドロドロして醜い感情は、愛などでは、ないのだ。
――ごめん、夏油。
どれだけ謝っても許されないけれど、謝らずにはいられない。
前世の記憶を取り戻したときにも思ったことだけれど、やっぱり私はこの世界にとってのイレギュラーなのだ。
イレギュラーな私が、何もかも円満に解決できるわけがなかった。
それなのに、願ってしまう。
夏油が幸せである日々を、幸せな夏油の未来を、私は祈らずにはいられない。
だってそれだけが私の存在意義だと思うから。
どうすることが正解なのかわからず、けれど夏油を突き放すことも出来ず、結局夏油を傷付ける私は、何のためにこの世界に記憶を持って生まれ変わったのだろうか。
何度も自問自答したこと。
それは、いつも『夏油を幸せにする』ことに帰結する。
前世の記憶を、あの夏油の結末を知ってこの世界に生まれてしまった以上、見て見ぬふりは出来ない。
そんなものが出来るなら高専になんて最初からきていない。
私はあらゆる覚悟をしたはずなのだ。
自分の人生だから自分の幸せも考えるけれど、それ以上に夏油に幸せになってもらおうと、そのために何でもしようと、そういう覚悟を。
もしも九十九由基との会話をきっかけに夏油が原作通りの道を辿るとして、そのとき私に出来ることはあるのだろうか。
夏油があんな凶行に走るとは思いたくないけれど、彼女と会話してしまった以上、もうどう転ぶかわからない。
……もしも、原作通りになってしまうとしたら。
私は、命を懸けてでも夏油を止めなければならない。
夏油にしっかりと抱き締められ、温かい腕に包まれながら、私は改めてそう思った。
◇◆◇◆
抱き締められたまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。
このままいっそ何もかも忘れて眠りたい、と馬鹿みたいな現実逃避をしそうになった瞬間、ふと思い出した。
夏油が九十九由基と話したことはもう覆らない。
ならばせめて、灰原くんは死なせては駄目だ。私に出来ることは限られているのだから、出来ることくらいしなければ。
……そう、灰原くん。
「――灰原くん」
「え?」
一瞬で全身の血の気が引いた。
反射的に私は腕を突っ張って夏油から離れ、迫るように夏油の腕を掴んだ。当然夏油は驚いているけれど、それに遠慮している暇はない。
「九十九由基と会う前、灰原くんに会った?」
「あ、ああ、遠方に七海と二人で任務だって云ってたけど」
「――……!!!」
しまった。
ポンコツなのもいい加減にしろ。
全部今日だった!!
夏油が非術師にはっきりとした嫌悪を自覚するのも、九十九由基との会話で非術師を殺すことに未来を見出すのも、――灰原くんが死ぬのも、全部、今日だったのだ。
原作では夏油や九十九由基と会話した翌日に任務に出ていたはずだったけれど、おそらく私の介入によって少し変わったに違いない。
ああ、本当にもう目の前のことしか考えられない自分が嫌になる。
「五条を呼び戻す」
「え? 悟を?」
「夏油はここにいて」
「どこに行くつもりだい?」
「灰原くんとナナミンを追いかける。二人が勝てる相手じゃないから」
「でも、二人とももう2級じゃないか。そうそう負けるようなことは……」
「駄目なの!!」
叫んでから、また八つ当たりしてしまったと落ち込みそうになる。しかし私の都合は全部後回しだ。帰ってきたら土下座でも何でもして謝ろう。
「あそこにいた呪霊は進化した。土地神に」
八月に入ってからの夏油と灰原くんの任務予定は全部把握していた。というよりも、あらゆる権限を使って私が管理をしていた。
絶対に二人には直接任務が行かないよう、絶対に私を介してしか任務がないようにしていた。
まさに今起きているこの事態を回避するために。
が、つい一週間前の先輩のヤラカシのおかげでそれが出来なくなってしまったのだ。
あの先輩の書類不備は山ほどあって、灰原くんとナナミンは二級案件として命じられた任務は、本来一級だった。
すべて拾い上げたと思っていたのに、まさかこんな形で取りこぼしに気付くとは。最悪だ。
なるべく任務は私から、と二人には伝えていたけれど、不審に思われてはまずいからきつくは云えなかった。
おそらく、急ぎの任務だとか云われたのだろう。灰原くんはいい子だから、上からの指令で急ぎだと云われたら断れない。
管理していたとはいえ、もともとがそういうシステムになってない以上、やはり完全にではない。本当に緊急の任務や、任務地によってもトラブルは発生するから多少の融通は利かせていたのが徒になった。
「このままだと灰原くんが死んじゃう」
私だけは知っていたのに。
「私じゃ行っても戦えない。でも五条なら、勝てるから」
こういう時、どうして私の術式は戦えないのだろうとつくづく思う。
せめて戦闘向きであれば、あれこれ理由をつけて飛んでいけるのに。呪具しか使えない、しかも天与呪縛でもない一般人が行ったところで邪魔にしかならないのは火を見るより明らかだ。
未来視なんて今は何の役にも立たない。
だから私は誰かを頼らなければ、灰原くんを助けられない。
原作で、死んだ灰原くんと怪我をしたナナミンの代わりに五条が土地神を祓った。
だから五条ならば絶対に祓えるのがわかっているから、任務中でも何でも関係ない、今すぐ帰ってきてもらわないと困る。
しかしこういう時に限って五条は電話に出なかった。いつも5コール以内には出るくせに。仕方ない、事務室に行って別回線から連絡し直すしかないか。
そう思って踵を返した私の腕を掴まれた。
当然それは夏油で、私が口を開く前にはっきりと云った。
「私が行くよ」
「な、」
「悟は今日出張で四国に行ってる。すぐには帰ってこられないよ」
「っ、なら甚爾さんに」
「急ぐんだろう? 今から伏黒甚爾に連絡して移動して、それで間に合うのかい?」
夏油の言葉はいちいちもっともだった。
本当ならば悩んでいる暇もないくらい急がなければならない。何せ私は、灰原くんがこの任務で命を落とすことは知っていても、どの時間帯、どのように、詳細な場所などは知らないのだ。
一刻も早く現場に駆け付ける必要がある。
今ここに五条も甚爾さんもいないのならば、夏油に頼るのが最も近道なはずなのだ。
なのに、私は躊躇してしまう。
夏油のために灰原くんを助けるのに、夏油の力を頼ることを、弱い私は尻込みしてしまう。
そんな私の心を見透かすように、夏油は追い打ちのように云った。
「前にも云ったけれど、何度でも云うよ。私は君の力になりたい」
真っすぐな言葉に、涙が出そうだった。
――ああもうどうして、夏油は。
「云ってくれ、幸音。君のために戦うことを、私は厭わないから」
……迷っている暇は、もう、なかった。
◇◆◇◆
「灰原くん!!!」
「――えっ、幸音先輩……夏油さんも!?」
あの後すぐに事務室に走り、二人の任務地を確認し、夏油の呪霊で現場に飛んだ。
もちろん、その間二人には連絡を試みていた。けれど二人ともケータイが繋がらず、同行しているはずの補助監督すらも電話に出ない。もしやすでに帳を下ろしているのかと思ったけれど、それにしてはあまりに早い。
もしかすると、本来のストーリーを変えようとしている私に対しての、世界からの嫌がらせなのだろうか。
そんな非現実的なことを考えてしまうくらいには、誰とも連絡が付かなかった。
気持ちは焦るけれど、焦ったところで事態は好転しない。
とにかく、連絡さえつけば現場入りを待つよう云えるのにそれもままならないとなれば、急いで現場に向かうしかなかった。
途中、天気が悪くて思ったよりも時間がかかってしまった。さすがに雲の上を飛べはしないし、いくら急いでいても人目に付くような移動は出来ない。
なるべく目立たないように目立たない場所を選んで飛んでもらっていたら、現場に付いたのは夕方近くになってしまった。
現地につくとすぐに補助監督と帳を確認し、問答無用で中に入る。説明はあとだ。
帳の中に足を踏み入れた瞬間、私は寒気が止まらなかった。
禍々しい呪力。
とてもじゃないが、良い神には思えないようなおどろおどろしい嫌な気配が漂っていた。
夏油もこの気配に難しい顔をしている。いくら灰原くんとナナミンが優秀であってもこれは荷が重いとすぐにわかったのだろう。
呪霊は、あっという間に夏油が祓ってしまった。
やはり土地神に変化していたソレは、2級の二人の手に負えるものではなかった。変化して間もないとはいえ、曲がりなりにも神になったのだ。1級術師だって危うい。特級である夏油や五条でなければ、相手にもならない存在になっていた。
私たちが駆け付けた時、二人はすでに交戦中だった。
単なる呪霊とは一線を画す存在になったものとの戦いは余程苦戦したようで、二人ともすぐに手は出さずまずは様子を見ることにしたらしい。その判断は正しいけれど、大人しく様子を見させてくれるほど甘くはなかった。
自分の縄張りに勝手に足を踏み入れた異物に対し、土地神は激怒した。
当然地の利もあるし、神になり上がっただけあって信仰もそれなりにあるわけで、どう考えても二人が不利だった。
なんとか大怪我は負わずに済んでいたものの、攻撃を避けていなすだけで精いっぱい、このままではジリ貧だ。しかも体力とは無縁の神と、いくら強く優秀でも生身の人間である灰原くんとナナミンでは、持久戦なんて望めない。
どうしたものか、と考えあぐねていたところで私たちが到着したらしい。
神まで昇華したものはさすがに取り込めないだろうと思ったけれど、呪霊というくくりではあるようで、夏油は当たり前のように取り込んでいた。
久々に上級の、しかもかなり使えそうな呪霊を手に入れたと嬉しそうな夏油にお礼や労うのはあとにして、周囲に雑魚もいなくなったことを確認した私は、すぐに灰原くんの身柄を確保した。
足を負傷したようで、背後には朽ちかけた廃屋。立てはしても満足に歩けそうもない灰原くん。
私たちが現れたことに驚いているナナミンには夏油が軽く説明していた。
私が『視た』と。
だから助けに来たと。
灰原くんに応急処置を施して、私はやっと一息を吐き、改めて灰原くんを見た。
「……生きてる」
「あっ、はい。生きてます! 元気です!!」
この怪我で元気はないと思う。
が、それでも間違いなく灰原くんは生きている。
「よかった……ッ」
ホッとした私は、その場に崩れ落ちてしまった。
夏油と九十九由基の邂逅からこっち、ずっと張りつめていた気が一気に抜けて腰まで抜けてしまったのだ。
そんな私を心配してくれた優しい灰原くんが手を差し出してくれる。
いつもと同じ、灰原くんの眼差し。
生きてる。
灰原くんは生きてるし、ナナミンも大怪我は負っていない。
間に合った。
本当に安心して嬉しくて、灰原くんの手を取った勢いのまま、私は灰原くんに抱き着いた。
「ぅおぇああああああえええあのせせせせ先輩!?!?」
灰原くんが戸惑っているのはわかる。
でも嬉しくて嬉しくて、しょうがなくて。
鬱陶しい先輩でごめん、と心の中で謝りながら、ゆっくりと灰原くんを解放してあげた。
生きてる。
生きててくれた。
間に合ったことが、助けられたことがたまらなく嬉しい。
ありがとう、と灰原くんに云うと、一度ぽかんとしてから、灰原くんは嬉しそうに笑ってくれた。
◇◆◇◆
怪我をしている二人は先に補助監督と帰ってもらうことにして、私と夏油は別途陸路で帰ることにした。さすがに全員車に乗ったら狭いし、そもそも私たちは勝手に来たのだ。一緒にどうぞ、という補助監督の好意は嬉しいけれど、甘えてしまうのは違う気がする。
夏油も同じ考えだったようで、いいから怪我人を連れ帰ってくれと二人で頼むと、漸く折れてくれた。
何度も振り返る彼らに手を振って、私たちも山を下り始めた。
山を下りてからケータイを確認すると、夜蛾先生から鬼のような着信があった。絶対怒られる。怖いのでそっと電源を落とした。
少し足元の悪い山道を下りると、割と近くにバス停があった。時刻表を見るに、次のバスは三十分後らしい。他に線はなく、電車の駅も近くにはなさそうだし、こんな場所では流しのタクシーもいない。
私たちはベンチに腰掛けてバスを待つことにした。
田舎の夕暮れは静かだった。
虫の声と、どこか遠いところから聞こえる子供の声。穏やかな風は、荒れ狂っていた私の心を落ち着かせてくれる。
沈黙は苦にならないけれど、今、どうしても私は口にしたいことがあった。
夏油と並んで座りながら、零す。
「夏油、灰原くん、生きてる」
「うん、生きてるね」
「助けられた」
「そうだね、君のおかげだ」
ポンと頭を撫でられ、目の奥が熱くなった。
「――よかった、よかったぁ……っ」
私は思わず、両手で顔を押さえた。そうでもなければ、泣き出してしまいそうだったから。
すべて円満と云うわけではないけれど、少なくともこれで本来死ぬはずだった三人は死なせずにすんだことに安堵する。
理子ちゃん。
甚爾さん。
それから、灰原くん。
また世界を捻じ曲げてしまったことに、もはや私は罪悪感など抱かない。
構うものか。
夏油の幸せのためならば、例え世界に敵視されても受け入れよう。
後戻りなんて、とっくの昔に出来なくなっているのだから。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
何度か繰り返して涙を引っ込めると、私は腹を括ることにした。
不審がられてもいい。
なりふりなんて構っていられない。
顔を上げ、オレンジ色に染まる空を見上げながら私は口を開いた。
「夏油」
「うん?」
夏油の顔を見ることが出来ず、私はまっすぐ前を向いたまま云う。
「九月中は絶対に一人の任務、受けないで」
「……理由を訊いても?」
云えないわけではない。
でも、何と云えばいいのかわからなかった。
だって、『夏油が村人皆殺しにしちゃうから』なんて云えるわけがない。
どうオブラートに包めばうまく伝えられるかと考えていると、小さく夏油が息を吐いた。
また変なことを云い出したと呆れられたのかと思って夏油の顔をを窺うと、そうではなかったらしい。
夏油は困ったように、しかしおかしそうに笑っていた。
「わかった」
「……いいの?」
「いいも何も」
一度言葉を切った夏油は、私を見つめて続けた。
「君がそう望むなら」
九月某日。
その日私は深夜から高熱を出して倒れていて、夏油が一人で任務に向かったと知ったのは、昼過ぎ、硝子が解熱剤を持ってきてくれたときだった。
良く晴れた夏なのにどこか寒々しい、そんな日、だった。