前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
信じられないくらいに働いた。
毎日朝早くから夜遅くまで、寮に帰ってベッドで眠れるだけましだと思ったこともあったけれど、都内とはいえ若干外れた場所にある高専の寮に戻るくらいなら都内の中心部にホテルを取った方がずっと楽だった。移動時間無駄に長いし。
三日ほど始発終電の生活が続いてから、まだこの生活が長引きそうだと思ったので自腹でもいいからホテルを取らせてくれと上司に頼んだところ、高専から持ち出せない書類仕事で現状私しか担当できないものがあるとかで、外に泊まられると困るからという理由で却下された。
そんなことあります?
私学生ですよ? 未成年ですよ?
そんな私しか担当できない重要書類が存在するとか、呪術界どうなってんの?
厳密には私しか担当できないというよりは、他の補助監督も手が回らないから私がやるしかないってニュアンスだとは思うんだけど、どっちにしろですよ。
しかし文句は募れど所詮私は末端の補助監督で取るに足らない4級術師。上司が駄目だと云えば駄目だし働けと云われたら働かなければならない労働蟻なので、あと数日だけならば、と涙を飲んで一生懸命働いた。
繁忙期とは云え人手不足という理由だけでは到底納得できない忙しさだったし、これはもう年末期末を待たずに特別ボーナスでももらわないとやってられない。いやお金もらったところで使う暇はないんだけど、ないよりある方がいいじゃないですか。
そういうわけで授業なんてもちろん受ける時間もなく、ひたすらに仕事に追われることおよそ二週間。
労働基準法って何だろうって思うほど働いた。
何せ中途半端に術師でもあるせいで、実は私は補助監督よりも術師よりも忙しいのだ。
どっちも出来るならどっちもやれ、が当然のようにまかり通る呪術界、ブラック通り過ぎてブラックホールになるんじゃないだろうか。下っ端を使い捨ての駒としか思っていなさそうな上層部の人たちは是非とも吸い込まれて消えてほしい。
あと明らかにこっちのミスじゃないのに、担当が私みたいな小娘と知るや否や高圧的な態度で全責任を高専に押し付けようとしてくる役所の人もブラックホールに吸い込まれないかな。もしくは毎日タンスの角に小指をぶつけるとかドアに指を挟まれるとか電車の扉が目の前で閉まる呪いにかかってほしい。あ、呪われて欲しいなんていくらなんでも云いすぎですよね、失言失言。なんでもいいから痛い目見ろってことです。
一口に繁忙期と云っても、忙しさには種類がある。
まず術師。当然繁忙期はその名の通り繁忙期で、とんでもないほど呪霊が湧くので任務が多くなる。しかし繁忙期さえ過ぎればある程度は時間に余裕が出来るから、その期間に身体を休めたり術式の研鑽をしたりするのだ。
で、補助監督。繁忙期はもちろん術師のサポートに追われ、繁忙期が終わってからは事後処理だの高専外の各関連機関との連携の確認及び契約内容の見直しなどに追われることになる。
術師のサポートは一つ間違えれば彼らや非術師に危険が及ぶかもしれないので間違いの許されない神経のすり減る仕事で、高専外とのやりとりは侮られてはいけないけれど円滑な関係を築くために嫌われたり睨まれたりもしないように、時には愛想笑いなども駆使しながら各機関と高専、術師を支える神経のすり減る仕事だ。
単純な話どっちも神経のすり減る仕事であることには変わりない。
で、忙しい期間だけで云ったら圧倒的に補助監督の方が長いわけで、私は術師としての任務こそ4級程度のものとはいえどっちの繁忙期も忙しい身になる。
ねぇ、私の閑散期っていつ?
一先ず大きな案件が片付くので私の繁忙期も終わり、やっと始発終電生活とおさらばで休みがもらえる、というタイミングで理不尽なお叱りを受けた私は、もう心身ともにボロボロだった。
せめてこれが少しでも高専や私に落ち度があったならともかく、なんなら感謝されて然るべきなはずなのに大人数人に囲まれて怒鳴られた私、貧乏くじすぎる。
突然プライベートと仕事を混ぜ合わせて来日した某国の政治関係者が行きたがった場所に呪霊が発生し、フリーの術師がそれを片付けた。
そこまではいいんだけど、なんと帳を下ろさず周辺への連絡もなく戦ったものだから非術者の目に留まって大騒ぎになり、急遽高専に連絡があって情報操作をする羽目になった。ちなみにそのフリーの術師は呪霊を祓ったらすぐに姿をくらましたそうだ。
一応なんとか誤魔化してその場は収めたものの、騒ぎになったおかげでお忍び希望だった客人の注文を叶えることが出来ず、その後の仕事もなんだかご機嫌斜めになってしまい、ヨイショして気を遣ってありったけの接待をして事なきを得たらしいのだけど、その怒りの矛先を高専に向けるのは絶対間違ってると思う。
やれ仕事が粗いだ、対応が遅いだ。
呪霊は必ずしも予兆があって発生するものではないこと、術師は高専所属以外にもいくつか団体があるし、フリーで活動する術師もいること、それらが密に連携できるわけではないことは彼らも知っていることだろうに、フリーの術師の仕事の尻拭いをさせられるだけでも遺憾な私になんで苦情をぶつけてくるのは本当に納得いかない。
けれど馬鹿正直にそんなことを云えば今後の関係にひびが入るのは明確なので、一応上層部に報告はしてそのフリーの術師に直接謝罪と弁明に行くよう連絡してもらったけど、多分とんずらこくだろうなぁ。
フリーが悪いとは思わないし、補助監督もいないから一人で全部やるのはすごいことだと思う。が、たまーにこういう厄介なやつがいるから嫌になるんだよ。
これで私が屈強な男だったり、見るからに仕事出来そうなバリキャリの大人の女性だったら依頼主の反応も変わったんだろうか、とか考えちゃうともうテンションだだ下がり。
ただでさえ働き詰めで死にかけだった私の心は、最後の最後にぶつけられた理不尽でぽっきり折れた。
いつもだったらどんなに仕事で疲れても外でお茶して気分転換してから帰っていたのだけど、もうそんな気力もない。
今は一刻も早く部屋に帰りたい。
そうして出来ればちょっと元気になったら先輩と電話がしたい。癒されたい。
電車を使うのも高専に迎えを呼ぶのも億劫だったので経費でタクシーに乗り、きっちり領収書をもらって結界の手前で下ろしてもらう。
ここ最近、暗いうちに出て暗くなって帰っていたのでまともに見ていなかった高専の地も、こうしてみるとものすごく安心できることを実感した。しばらく高層ビルとか見たくない。緑、目に優しい。
油断すると重い溜息しか吐き出さない口を閉じ、鉛が付いたように鈍い動きの足を引きずって寮の共有スペースまでたどり着いた時だった。
「あ、おかえり」
碌に前も見ずに歩いていたので、辿り着いた共有スペースに誰かがいることに気付いていなかった私は、不意に耳に届いた声に反射的に顔を上げた。
そこにいたのは夏油だった。
時間的に夕飯だったのだろうか。
手にはカレーと思わしき皿と水を持っており、丁度ダイニングテーブルにそれを置いたところだったらしい。
誰が作ったんだろう。硝子あたりだろうか。たまに気が向いたときにみんなの分も用意しているから、多分きっとそう。
そういえばこの二週間は一度も料理をしなかった。お菓子なんてもってのほかだ。
自分が食べることには興味はないけれど、作ったものを食べてもらうのは好きだったし、折角仕事も片付いたのだからまた何か作ろう。まぁ、今はそんな気力も体力もないけど。
「随分忙しかったみたいだね。お疲れさま」
そんなことを考えながらぼんやりとしていると、さっとキッチンの方に向かった夏油が冷蔵庫からよく冷えたペットボトルのお茶を差し出してくれた。
私が好きなお茶のメーカーだった。
ちょっと独特の風味があるから、この寮でこのお茶を好んで飲むのは私だけだ。
多分、ここのところ仕事に埋もれていた私のために夏油が買っておいてくれたのだろう。ちなみにキャップは今夏油が目の前で開けてから渡してくれるあたり、モテ男の片鱗が見えた。
辛うじてありがとう、という言葉を絞り出し、そのお茶を口にしてホッと息を吐く。
……ああ、もう、なんだか。
「どうかしたかい?」
気遣わし気な声と顔。
この二週間まったく会うことのなかった夏油からの、普段だったら何気ない一言。
しかし疲れとストレスが天元突破していた私は、たった一言、お疲れさま、というその言葉ともらったお茶の優しさに、
――一気に涙腺が崩壊した。
「ちょ、え!? ど、どうしたんだ!?」
夏油を見つめたまま無言で滝のような涙を流し始めた私に、ギョッとした夏油は慌てたように背中に手を当ててくれた。もうその手の温かさも泣けてくる。
一度流れた涙と云うのは不思議なもので、なかなか止まらない。目がしぼんでしまうのではないほどだくだくと流れる涙を夏油が差し出してくれたハンカチで押さえながら、なんだか少しだけ気分が軽くなったような気がした。やっぱ人間、泣くと心のデトックス効果があるというのは本当らしい。10へぇ。
とまぁ若干のストレス解消に感動するのは置いといて、心配してくれた夏油にちゃんと説明しなければ。
幸い、しゃっくりあげてしゃべれない、ということはないので、溢れる涙を拭いながら私は云う。
「いや、ごめん。推しが目の前にいる生活があまりにも眩しくて」
「眩しくて!?」
「うん、疲れすぎてるだけで悲しいわけじゃないから気にしないで」
「気にしないでは無理だろう……」
そりゃそうだ。
もし私が夏油の立場だったら、あ、そう? じゃあお疲れ~なんて云って立ち去れるはずがない。
恋愛感情抜きに大事な友人で、顔が最推しの男がいきなり泣き出したらその理由根絶のために大魔王とだって戦う覚悟だ。誰だ私の推しを泣かせたやつは。
しかもこの男、底抜けに優しいのである。
同級生が自分の顔を見て泣きだしたら心配せずにはいられない――一応云っておくと、頭の心配ではない――、優しい男なのだ。
いくらなんでも疲れてるだけで泣くなんておかしい、とあまりに心配するものだから、ついでに今日の理不尽について夏油に愚痴を聞いてもらうことにした。
正直なところ、最後の件がなければただものすごくつかれた、という笑い話にしていただろう。
でもあれはどうしてもだめだった。
疲れた心と身体では受け止めきれない理不尽だった。
あんまり愚痴とか云いたくないし、相手が夏油なら尚更なんだけど、今回ばかりは口に出して発散しないとやっていられない。だって絶対理不尽だったんだもん。
いつか仕返ししてやろうなんて考えはしなくても、愚痴のひとつやふたつくらいは許されたい。
で、立ち話もなんだから、とソファに移動し、改めて夏油に今日の出来事を話していたらほんの少しは気が楽になった。うん、溜め込むのってやっぱよくないよね。
夏油は茶化すことなく真剣に私の話を聞いてくれて、本当にお疲れさま、と労わってくれた。
優しくするだけが本当の優しさでないことはわかっていても、このタイミングの優しさというのは胸にくるものがある。このめちゃくちゃ優しい男、世界で一番(私調べ)顔が良いんですよ。感動してる。
これはもし私に先輩という彼氏がいなかったら恋に落ちちゃってたかもな、なんて馬鹿なことを考える余裕も出てきたところで、夏油が云った。
「何か私に出来ることはないかな。君のためなら、私は何でもしてあげたいんだけど」
――『なんでも』?
何度も云うが私は疲れ切っていた。
だから普段ならば理性と常識的な思考回路で塞き止めていた願望が、このときばかりは本能に従って口からポロリとしてしまった。
いや、だって、『なんでも』なんて夏油が云うから。
云っとくけどこれがエロ漫画だったら、あんたあられもないことになっちゃってるからね。よかったね少年漫画で。あと相手が私であったことに感謝してほしい。
「……手、振って」
「え」
「普通にでいいから」
「え、あ、わ、わかった」
戸惑いながらも手を振ってくれる夏油は優しい。
高専の寮の共有スペースの、いつものソファに腰掛ける夏油の正面に座っていた私は、夏油の優しさに付け込んで更に要求した。
「笑って」
これにも夏油は応えてくれる。
照れたような困ったような、満面の笑みとは云わないけれど、まぁ私は夏油の顔がそもそも好きなのでどんな種類だろうと笑顔なだけで眼福。
じっと見つめていると、夏油は更に照れたように頬を掻いた。参ったな、なんて言葉つき。
ふむ。
調子に乗った私は更なる要求を口にする。
「ウィンクして」
「ウィンク!?」
さすがに驚いたように声を上げた夏油に、しかし私は黙って頷いた。
視線は夏油から外さず、口元で手を組み、じっと見つめる。
すると夏油は、数十秒ほど悩むそぶりを見せてから、意を決した様子でぎこちなくウィンクを投げてくれた。
いかなイケメンと云えど、芸能人でもなければウィンクする機会などそうそうない。それでも私の無茶なお願いをきいてくれる夏油、優しさの権化過ぎませんか?
しかし、エスカレートとはこうやってしていくのだろう、という定石を私は見事に辿った。
「投げキッスして」
もうここまでくるとセクハラで訴えられても文句は云えない気がする。
が、夏油も変なところで思い切りがいいのだろう。
一瞬固まってから、すぐに要望に応えてくれた。
穏やかに――生ぬるい、ともいう――浮かべた笑顔の、閉じられた口元に手をやり、控えめなリップ音とともに私個人に向けて投げられた、それ。
他の誰かにでも、大勢の誰かにでもない、確実に私のみに向けられた投げキッス。
それを見た瞬間、私は思わず両手で顔を覆い、押し殺した声で叫ぶという器用な芸当を披露してしまった。
「――推しが……いる……ッ!!」
さっきとは別の意味で私は泣いた。
やっぱり私は夏油の顔が好きだ。
前世では紙面の人、二次元の絶対に手の届かない相手だった夏油傑が、一度死んで生まれ変わった結果、今私の目の前に存在していて、こうして私のお願いを聞き届けてくれている。
この世界の住人になって生きることを決めた時、いろいろ割り切ったつもりでいたけれど、改めて推しが生きている世界ということを確認して感無量のものがあった。
ありがたすぎて泣いている。
尊すぎて泣いている。
顔が良すぎて世界にありがとうと伝えたい。
「……ま、満足してもらえたかい……?」
さすがの夏油も若干引き気味みたいだけど、気持ち悪いこと云った自覚はあるので怒らないです。
むしろ付き合ってくれてありがとうございました。
「うん、おかげで疲れふっとんだ。心の底から感謝している。ありがとう」
「そ、それはよかった」
前世の大学で知り合った友達が、アイドルグループのコンサートに足繁く通っていた気持ちが今になってよくわかった。
アイドルのファンサは心に効く。
あんなに荒んでいた気持ちがファンサを受けるたびに穏やかになっていくのを実感できた。
友人よ、すまなかった。
アイドル側からしたら不特定手数の一人にしか過ぎないのに高い金払って米粒程度にしか見えないアイドルのコンサートに行くなんてアホらしい、と思ってしまっていたことを今謝罪させてくれ。
だって私、夏油がアイドルで金さえ払えば米粒大でも実物を見られるってんならいくらでも金払うって思っちゃったもん。さすがにこれは直接夏油には云えないけど。
何にせよ、私の心は癒されました。
ただいくら心が満たされても、二週間働き詰めだった身体は休息を欲している。
幸い明日は日曜日だから、思いっきり寝よう。
「とりあえず私寝るね。明日昼過ぎても起きてくる様子なかったら硝子に声かけてって伝えてもらっていい?」
「わかった、伝えるよ」
「ありがと! んじゃ、おやすみ~」
すっかり忘れてたけど、夏油はご飯を食べるところだったのだ。用意したカレーをもう一度温め直すことになってしまったのは申し訳ないし、私に付き合ってくれたお礼に今度夏油の好物だけのご飯会をしてあげよう。
そのことを約束し、私は部屋に戻ると軽くシャワーだけ浴びてベッドにダイブし、そこでプツンと記憶が途切れている。おそらく限界だったのだろう。
硝子が声をかけてくれたのは翌日の昼過ぎてからのことで、二十時間くらい寝ていたらしい。おかげで気分もすっきり身体もすっきり。
元気いっぱいになったところで久しぶりに硝子と外にお茶しに行こうか、という話になった。この二週間で硝子もいろいろあったようで、お互いの報告会も兼ねている。
準備を済ませて外に出ると、おーいと背中に夏油の声がかかった。
何かお使いでも頼まれるのだろうか、と何気なく振り向いた私に、部屋の窓から顔を出していた夏油は。
「いってらっしゃい、楽しんでおいで」
と云って投げキッス、しかもウィンク付きをした。
正直に云おう。
不意打ち過ぎて腰砕けました。
遠くで夏油は爆笑しているし、隣の硝子はチベットスナギツネみたいな顔でタバコ吸ってるし、私は立てないし、何このカオス。
「ああ、っもう!」
推しのファンサは、やばいですね!
主人公
術師としてはアレでも補助監督として将来有望なので、今のうちから経験を積まされている苦労人。本人はこの仕事量、もしや嫌がらせなのでは、と思い始めている
疲れが天元突破した挙句夏油の顔を見て大泣きし、アイドル並のファンサを要求した結果、神ファンサを受けて危うく昇天するところだった
夏油傑
好きな人にいきなりアイドルに求めるようなファンサを求められ、戸惑いつつもこれで彼女が幸せなら、と恥を忍んで応えたら、思いのほか喜ばれたので味を占めた。羞恥心などどこかに消えた。今後はこのファンサを有効活用していこうと心に決めた
フリーの術師? なんか事故死したらしいですよ、怖いですね(笑)
家入硝子
『お前らなんなの?』
妙なやり取りに巻き込まれて思わずチベスナ顔に。カフェで話を聞いて納得した
趣向を変えてホスト並に主人公を甘やかしてみたらちょっと楽しかったので、夏油の気持ちもちょっとわかってしまってこっそり凹んだ。私、あいつと同類ってこと……?
五条くん
今回出番がなかった人。後日今回のことを聞かされて、好奇心で夏油と同じように顔に物を云わせたファンサをしてみたところ、主人公がハシビロコウみたいな顔で黙ったので大喧嘩になったとかならないとか