前世の記憶を使って夏油傑を絶対に幸せにしようと思います! 作:秋元琶耶
任務を終えて寮に帰る。
部屋に直行するつもりだったけれど、そう云えば部屋の冷蔵庫には何も入っていないことを思い出し、一度共有キッチンに寄ることにした。確かそこの冷蔵庫には、みんなが飲む用にとお茶が作り置きしていたはず。
今日は午後から任務に出ていたのだが、ばたばたしすぎて水分を取る暇がなかったから喉がカラカラだった。
中途半端な時間の帰寮だったので、おそらく高専に残っていた生徒たちは授業中だろう。
灰原は確か埼玉の山奥に任務だと云っていた。帰りにお菓子横丁に寄るのが楽しみだと云っていたけれど、呑気なものだ。そういうところが少しだけ羨ましいのは一生内緒にしようと思う。
そんなことを考えつつよく冷えたお茶を一気に煽ると、いかに自分の喉が渇いていたかがわかった。
一杯目を飲み干してやっと落ち着き、二杯目を用意して部屋に戻ろうと振り返ると、視界の端でソファにちらつく何かが見えた。
何かと思って近づけば、そこには一つ上の先輩の中では一番まともであろう先輩が眠っていた。眉間には深い峡谷を形成しており、うぅん、と時々呻いている。年頃の女性がこんな場所で眠るのは如何なものか。
寝るのなら部屋に戻った方がいいとは思うが、よく見ればテーブルの上には書類が散乱している。おそらく小休止中なのだろう。
起こすべきだろうかと考え、しかしこの先輩は異常に多忙なので、休めるときには休んだ方がいいかもしれない。補助監督としてはもちろんのこと一応術師としても働いていて、学業まであって、時期によっては一体いつ寝ているのだろうかと疑問に思うほど多忙を極めていることもある。
先輩のサポートで自分たちがストレスなく働けている手前、いつでも休んでくれとは安易に云えないけれど、たまには居眠りだってしていいと思う。少なくとも今はそっとしておこう。
ふと視界にブランケットが目に入ったので、申し訳程度の気遣いで先輩にかけた、次の瞬間のこと。
「!」
ガバッとすごい勢いで先輩が身体を起こした。
「……やっほーナナミン?」
「……おはようございます」
驚いて固まる私をぼんやりとした目で見てから、不意にきょろきょろとあたりを見渡す。その目が壁掛け時計に固定されると、途端に先輩は大きなため息を吐き出してへなへなとソファに倒れ込んだ。
心配して声をかけてみると、どうも十分だけ横になるつもりが気付けば一時間経過していたらしい。それだけ疲れていたのだろう。
お疲れ様ですと云えば、力ない笑みが帰ってきた。相当ショックを受けているらしい。
しかし寝てしまったものは仕方ないと開き直ったようだ。切り替えが早くて羨ましい。
大きく伸びをして笑った先輩の肩から、私が掛けたブランケットが落ちた。見覚えのないそれに首を傾げた先輩は、ややあってブランケットと私を交互に見た。
「あ、もしかしてナナミン、これ掛けてくれたの? ありがとね」
「いえ」
大したことではない。先輩の仕事に比べたら、肩にブランケットをかける程度のことはなんの意味もないことだ。
それを口にするほどの卑屈さはない代わりに、私の口からは思いもよらない言葉が飛び出した。
「あの、先輩」
「んん?」
「手伝いましょうか?」
云ってから、自分は案外お人好しなのではないかと思った。任務帰りで疲れているのに、人の手伝いを無意識で申し出るなんて。
見たところ、私でも何とかなりそうな書類ばかりだった。そもそも、高専の事務室ではなく寮に持ち帰っている仕事な時点で、超重要案件ではないのだろう。
ならば、少しでも早く先輩が休めるように。
しかし、こちらの意気込みとは裏腹に、先輩はへらりと笑って手を振った。
「ありがとー、でも大丈夫だよ。もうすぐ終わるし」
でも、と食い下がると、先輩は楽し気に笑い声をあげた。
失敬な。
こちらは心配して手伝いを申し出ているというのに、そんなふうに笑うとは。
ちょっとムッとして先輩を見ると、ごめんごめんと笑いを引っ込めた先輩は、しかし口元に少し笑みを残したまま云った。
「ナナミン、適材適所だよ」
思わず、息を飲む。
先輩は満足そうに笑って続けた。
「ナナミンは今日、現場で術師にしか出来ないことをしてきたでしょ。私はそれを変わってはあげられないから、その代わりにこういう仕事をしてるの」
「そう、かもしれませんが」
「まぁ、妙に仕事が多いってのは否定しないよ」
私もそろそろ抗議しようかと思ってる、と呟く先輩の目は虚ろだった。その辺はまぁ、抗議していいと思うので応援している。有能すぎるのも考え物だ。
心中お察しします、と零すと、ブランケットを畳んでいた先輩がこちらを振り返った。
「ナナミンは優しいねぇ」
「違います」
しみじみと呟く先輩に反論したのは反射だった。
だって私は知っている。
私よりもずっとずっと優しい人がいることを、知っているから。
「別に私は、優しくなんて」
ないです、と続けようとしたのに、それは出来なかった。
「優しいよ」
――私を見つめる先輩の目こそが、優しいくせに。
そんなあなたが私を優しいというのなら、受け入れる他ないではないか。
なんとなく負けたような気分になって目を逸らすと、先輩がまた笑った気配がした。
つくづく、失礼な人だと思う。
けれどそんな先輩が嫌いではない自分がいるから厄介だ。
どうせこの様子では何も手伝わせてはくれないのだろうし、ならばさっさと部屋に戻ろうかと踵を返す。
が、お疲れ~という先輩の声を背中に受けてから、ふと考え直してもう一度先輩を振り返った。
「……先輩、ひとつ相談に乗っていただけますか」
「うん? どうかした?」
すると先輩は不思議そうに首を傾げ、私の言葉の先を促す。
実のところここしばらく、このことが頭を支配していまいち集中力に欠けていた。幸い大きなミスは起こしていないけれど、このままでは早晩とんでもないミスをしでかす可能性もあるだろう。精神衛生的にも悪いから、個人的にも早く結論を出したいとは思っていた。
しかし一人で考えても漫然として答えは出ず、相談しようにも気軽に誰にでも相談できる内容ではない。
その点、先輩は丁度いい相談相手といえた。呪術師であり、補助監督でもあり、術式に目覚めたのはほんの数年前のこと。思考も言動も呪術師というよりは一般人寄りで、物事を中立の立場で判断することに長けている。
無自覚に人誑しなこの人の周りにはいつも誰かしらいたが、幸い今は誰もいないようだ。
今がチャンスだった。
意を決して、私はついに口を開いた。
「私は、呪術師に向いていると思いますか」
唐突な問いだったと、我ながら思う。
それでも、先輩の忌憚ない意見を聞いてみたかった。
驚いたように目を瞬いた先輩は、そっと目を細めて考えるように口元に手をやった。何故そんなことを、とは問い返されない。そういうところも相談向きな人だと思う。
沈黙は数秒だった。
ゆっくりと口元から手を放し、ソファから身を起こして姿勢を正した先輩は云った。
「向いている、とは思う」
けど、と先輩は続けた。
「それは、呪術師で居続けなければならない理由にはならないよ」
意味がわからない。
思わず首を傾げると、先輩は続けた。
「ナナミンの術式は優秀で、ナナミン自身も相当優秀な人材で、将来確実に呪術界を背負って立つに足る人物。もしナナミンが今後もずっと五条や夏油たちを支えてくれるなら、それはとても心強いと思ってる」
例えに挙げられた二人の先輩は、おそらく今後一生、それこそ死ぬまで呪術界の中心に立っているであろう人物だ。
五条さんは家柄が、夏油さんは術式と非術師に対する根本的な理解が、それぞれ呪術界から逃げられない枷になっている。というよりも、一般社会が彼らに適応していない。
そもそも、仮に彼らが呪術師を辞めると云い出せば、自分と違って上層部が黙っていない。
彼らは生きている限り呪術師だ。ひょっとしたら、志半ばで死んだとして、その遺体や生き様すら利用されかねないほどの特記人物でもある。
先輩は、きっとそんな二人を支えるために呪術界に身を置き続けることだろう。まぁ特に今は五条さんと婚約しているし、逆に呪術界を去ろうとしても難しいかもしれない。
褒めてくれたのであろう先輩の言葉に、若干の気恥ずかしさを覚えつつも頷くと、先輩は更に続ける。
「でもねナナミン、『向いている』ということは、『向いている』ことをやらなければならないなんて義務じゃないんだよ」
ますますよくわからない。
『向いている』のならばやるべきではないだろうか。
だって、例えば非術師がどんなに望んでも呪術師にはなれないのだから、この世が呪術師を必要としている以上、呪術師に『向いている』誰かが呪術師にならなければならない。
世の中とは、そういう消去法で出来ていると私は思う。
それこそ、さっき先輩が云った適材適所ではないか。
しかし先輩は、まるで小さな子供に言い聞かせるように優しく、穏やかな声で云う。
「ナナミンには可能性がたくさんある。呪術師で居続けることも出来るし、他の道を選ぶことも出来る。一度呪術師を辞めて、あとで戻ってきたっていい。出来ることをするのは選択肢の一つに過ぎない。あのね、出来ること全部、試していいんだよ」
好きにしていいんだよ、と。
先輩はいつものような笑顔で云った。
それはとても無責任で奔放で、簡単で安易で――だけど私は心が軽くなったのが、わかった。
もしかしたら、先輩には私の考えがお見通しだったのだろうか。
あらゆる任務を通して、今は呪術師そのものに疑問を持っていること。
圧倒的な実力者を見た時に抱いた虚無感を拭えずにいること。
それから、卒業を機に呪術師を辞めようとしていること。
時折なんでも見透かしたような云い方をする人なのは以前からだけど、今は五条さんの呪力で強力になった術式のこともある。先輩には、私が呪術師をきっぱり辞めて外の世界に出て行く未来が視えていたのかもしれない。
そう考えると、随分肩の荷が下りたような気がする。
「――ははっ」
思わず笑ったのは自虐ではなく、思い悩んでいたのが馬鹿らしくなるほどすんなり先輩の言葉が納得できた自分が単純すぎて笑えただけだった。
「……出戻りもいいんですか」
「ナナミンならいつでも大歓迎」
悪戯っぽく笑ってVサインを作る先輩に、堪えきれずに私は笑ってしまった。
深く考えて悩んでいるのが馬鹿らしく思えた。
けれどそれはきっと、悪い意味ではない。
ひとしきり笑って、手に持ったままだったお茶を飲む。
水分が喉を通り胃に落ちていく感覚を味わってから、改めて先輩に向き直り、云った。
「卒業したら、一般企業に就職しようと思います」
「うん、そっか。リーマンなナナミン見たいから、スーツ買ったらスーツでお茶しにいこうね」
「わかりました」
妙にはしゃぐ先輩に改めて会釈をして、私は部屋に戻った。報告書を仕上げて明日には提出しなければならないし、灰原が帰ってきたら手合わせの約束もしているから今日は早めに休みたい。
予定通りに報告書を仕上げ、シャワーを浴びてさっぱりしてからベッドに入ると、目を閉じながら私は改めて先輩という存在に感謝した。
いくら普段おちゃらけていても、相談にはちゃんと乗ってくれる頼れる先輩はあの人しかいない。五条さんも夏油さんも、スーパーマンすぎて私程度の抱く悩みはきっと理解できないだろうから。
さて、スーツ姿を拝みたいという先輩のためにも、本格的に就職活動をしなくては。
いつもならばベッドに入ってもしばらく眠れないのに、何故か今はもう睡魔に襲われている。
悩みが解決したからだろうか。
なんだか今日は、ぐっすり眠れそうだった。
それが、八月の終わりの話。
数か月後、この人から一切の笑顔が消える日が来るなんて、――このとき私は知る由もなかった。