医務室にて、ホンゴウの手伝いを終えたエンは、そのまま雑談しつつお茶を飲んでいた。
ここ最近は敵襲もトラブルもほとんどなく、今日の手伝いは先日仕入れた薬品や備品をしまうだけの簡単な作業だ。
が、簡単だからと以前他の仲間に頼んだことがあって、その時は備品の向きが合っていなかったり数がバラバラだったリ、ちょっとホンゴウの精神衛生によろしくなかった。その点エンはホンゴウと片付けに関する意識が共通しているようで、指定した場所にわかりやすく丁寧に片付けてくれるから助かる。もしかしたらエンが船に乗って一番嬉しいのはホンゴウなのかもしれない。
そんなわけで時間とタイミングが合えばエンはよく医務室に入り浸っている。
ベックマンの仕事の補佐もこなしつつ自分の仕事もして、キッチンを爆破しないようルウに細心の注意を払われつつ手伝いもし、その上医務室でもとなるとかなりのオーバーワークに思えるが、それなりにうまくやっているようだ。しかも医務室の手伝いといっても治療はホンゴウ任せなので、本当に簡単な片付けばかりだから、そこまで負担な仕事でもない。
今日も結局片付けしかやることがなかったため、こうして二人でのんびりとお茶が出来るというわけである。
「昨日見張り台でライムが一発芸してたんだけど」
「何やってんだあいつ」
「多分眠かったんだと思うよ。私も眠かったし、適当に拍手してたら喜んじゃって、なんか申し訳なかったな……」
基本的に不寝番は下っ端たちで担当しているが、たまに思い出したように幹部も担当することがある。どうやら昨夜はライムジュースとエンが不寝番だったらしい。
実のところエンは船に乗った当初から不寝番から外すつもりでいたのだが、当のエンが『仲間はずれにするな!』と喚いた。さすがに女の子にそんなことはさせられないと誰もが説得しようとしたのだがエンが納得することはなく、結局幹部とペアならばということで落ち着いた。楽できるところは楽すればいいものを、エンというのは見た目に反して実に真面目な少女である。
トラブルがないと不寝番ものんびりできていいなぁとホンゴウがしみじみ思いながらお茶を口にしたときだった。
「ねー、ところでさぁ」
「ん?」
「お頭って私のこと好きなのかな?」
「ゲフッ」
「あ、やだちょっと汚い。はやく拭きなよ」
冗談みたいにお茶を噴き出し、エンにあからさまに嫌な顔をされた。心外だ。
渡されたタオルで口元を拭きながら、ホンゴウは呆れて声を上げる。
「い、今更!?」
「だってぇ」
シャンクスがエンを好きなんてことは、もう赤髪海賊団なら誰でも知っている。なんならたまに遭遇して宴会になるような知り合いたち、例えばミホークだとか白ひげ海賊団だとかも知っているだろう。
まさか知らぬは当人ばかりとは。
あれだけわかりやすくアプローチされているのに、むしろなんで今まで気付かなかったのか、そっちの方が謎だ。
まじまじとエンを見ると、彼女は小さく肩を竦めた。
「ホンゴウだって私のこと好きでしょ」
「そりゃまぁ、好きだけど」
「ほら」
ね、と同意を求められてもホンゴウには意味がわからない。
首を傾げて疑問を示せば、エンは改めて云った。
「だって私は可愛いじゃない?」
「……はい」
「つまりみんな私のことが好きでしょう?」
「……そう、ですね」
「ねぇ敬語やめて」
もっともなことは云っているのだが、これがエン以外の発言であったら総スカンものだ。とんでもなく傲慢な物言いに聞こえる。
が、残念ながらというか幸運なことにというべきか、実際エンはみんなから愛されている。
少なくともホンゴウはエンのことが好きだ。当然仲間としてであって異性としてではないが、おそらく赤髪海賊団の仲間たちはみんな似たようなものだろう。
仮にもし恋愛感情でエンを好きになったとしても、幹部たちの鉄壁ガードとシャンクスというラスボスが控えているとなれば恋に諦めもつくに違いない。
しかし、それでもまだエンの云わんとすることがわからず、視線で先を促すと。
「私はさぁ、てっきりずっとお頭は私が海賊女王になりたいっていうのを叶えるためと、単に私が可愛いからノルマみたいな感じに口説いてるんだと思ってたんだよね……」
ばちん、とホンゴウは思わず両手で顔を覆った。
あまりにもシャンクスが気の毒すぎる。
確かに、最初にエンを連れてきたときの態度は面白がっていたところもある。そりゃ、いきなり『海賊女王目指してます!』なんて自信満々に宣言する女が面白くないわけがない。
けれど一緒に過ごすうちに、明らかにそれだけではない理由でシャンクスがエンに惹かれていったのをホンゴウたちは見ていた。
可愛いだけではなく賢くて、優しい。愛嬌を振りまきつつも細かいところに気が付いて、人が面倒くさがることもしれっとやってしまう。仕事に関してはいわずもがな、部屋が片付いて床が見えるとベックマンも感動していたくらいだ。ただキッチン関連についてはノーコメントにしておくが。
しかもエンが赤髪海賊団に入って以降、貢献してきたのは精神的な部分だけではない。超能力とも呼べるような鋭い勘で、幾度となく赤髪海賊団の危機を救ってきた。
彼女は戦闘面で戦えないことを随分と気にしていたけれど、そんなものどうでもよくなるくらいには有能で優秀で唯一無二の存在価値があるのだ。
普段はいっそ恐ろしいほどにポジティブで自己肯定感の塊のくせに、何故かその一点においては妙に自信がないのが不思議である。
もちろん、シャンクスがエンを好きになったのはそれだけが理由じゃない。
可愛くて賢いだけなら他にも女はたくさんいるし、優しくて愛嬌のある女も山ほどいる。
だけどそれはエンじゃない。
シャンクスは、エンだから好きになったのだ。
詳しく聞いたことなんてないけれど、ホンゴウたちは長年シャンクスと一緒にいたからわかる。
言葉はなくともその態度が、空気が、視線が、すべてを使ってエンを好きだと云っている。気付いてしまったこっちが照れたくなるほどに。
だから、エンが船に乗ってからおよそ二年、シャンクスの気持ちが微塵も伝わっていなかったということにホンゴウはショックを受けた。
確かにエンはどちらかというと態度より言葉で示してほしいというタイプなのは知っていたが、まさか恋愛においてもそうだとは。
気持ちを落ち着かせるためにすっかり冷めたお茶を飲みながら、ホンゴウは考える。
あまり気は進まないが、ここらで少しエンの気持ちもちゃんと聞いておいた方がいいのではないかと思ったのだ。
「エンはどうなんだ?」
「え、私?」
きょとんと首を傾げたエンに、頷く。質問は返るものである。
「そう。お頭のことどう思ってるんだよ」
「そりゃ、好きだよ」
「じゃあ」
「でもそれってさー」
両想いってことなんじゃないのか、と続けようとしたホンゴウの言葉を、エンは遮った。意識的だったのか無意識だったのかは、わからないけれど。
口を噤んだホンゴウは、次の瞬間ギクリとしてしまった。
「マルコのこと好きだったときと、全然違うんだよね」
マルコ。
白ひげ海賊団筆頭の、不死鳥マルコ。
エンの、初恋の相手だ。
たまたま出くわした先の島で、いろいろあってエンはマルコに恋をして、いろいろあったが告白して振られて、今ではすっかり割り切れているらしい。あのあと一度だけ白ひげ海賊団と海上で遭遇して宴をしたことがあったが、普通に仲良さげに話しているのを確認した。お互い、終わった恋として整理をつけたようだった。
しかし当人たちはいいが、ほとんど蚊帳の外だった赤髪海賊団のエン大好き集団は気が気でない。
いくら本人たちが割り切っていても、いつの間にか恋に落ちていつの間にか告白して振られて、ということをあとからすべて聞かされたのだ。まだまだエンの口からマルコの名前が出ると動揺する。まさかまだマルコのことが好きなのか、と訊かないのは最後のプライドである。
あの騒動から一年近くたった今でも、やっぱりそれは変わっていない。
つまり、今ホンゴウはものすごく動揺していた。
「マルコのときはさぁ、話してるだけで楽しくて嬉しくて幸せで、心臓ぎゅーってなってドキドキしてたの」
あわわわわ。
当時を思い出してか、軽く頬を染めながら語るエンは酷く可愛らしい。恋が人の魅力を引き立てるとはよく云うもので、確かにあの初恋騒動以降のエンの可愛らしさには磨きがかかっていた。見た目はもちろん、内面から花咲くような愛らしさは言葉ではとてもじゃないが言い表せない。
それを微笑ましく思う反面、理由がマルコだと思うと赤髪海賊団としては非常に複雑なものがある。
エンが可愛いのはもとからで、そんなことは誰よりも自分たちの方が知っているはずなのに、よりエンを可愛らしく昇華させたのが自分たち以外の人物だなんて。
表面上は真顔で、しかし内心荒れ狂う嵐のごとく心乱すホンゴウの気持ちなど知る由もないエンは、小さく息をついて続けた。
「お頭のことは好きだよ。私を海に連れ出してくれた人だし、面白いし優しいし頼れるところもあるし。時々ポンコツなのはどうにかしてほしいけど」
「…………」
「ホンゴウのこともライムのことも、ベックもルウも師匠もパンチもモンスターもガブもスネイクもみんな大好き。同じくらい好きだよ」
誰も彼もが、エンを大事にしてくれる。
可愛い女の子だからというだけではなく、仲間として扱ってくれる。
相変わらず戦うことは出来ないけれど、それ以外でしっかり役に立てていると自負も出てきたからこそ、保護対象ではなく仲間として対等に見てくれる人たちのことがエンは大好きだ。
とてもじゃないが順列なんてつけられないくらい、みんなが大好きで大切な仲間だと思っている。
それが嬉しい。
けれど。
目を閉じれば、自分を嬉しそうに呼ぶシャンクスの姿が思い浮かべられる。
優しく、愛情を持って自分に接するシャンクスのことだってエンは好きなのだ。
「でもきっと、お頭の『好き』はそういう『好き』じゃないんだろうなぁ」
天井を見上げ、エンは思いっきり背もたれに目いっぱい体重をかけて椅子の後ろ脚二本でバランスを取るようにギイギイと椅子を前後させた。
エンにとっての『好き』と、シャンクスにとっての『好き』が違うものなのだと、エンは思う。
仲間たちに対するエンへの『好き』とエンから仲間たちに向ける『好き』はほとんど同じものだろう。それを名前にするならば、友愛だとか親愛だとか、そういうもの。
でも、シャンクスは。
違うともそうだとも云ってやれず、ホンゴウは頭を掻いた。
エンはただの仲間としてシャンクスを『好き』だが、シャンクスは今やエンを一人の女として『好き』なのだ。
単なる愛情ではない、もっと即物的なものを含んだ情愛。たくさんの人に愛され愛すエンを魅力的だと思いつつ、たった一つの愛情は自分に向けてほしいと願う独占欲。
この手のどろどろした感情は、初恋ですらあっさりと気持ちに整理をつけたエンには、もしかしたらまだ理解できないかもしれない。
でもこれを自分が教えていいものなのかと思う。
態度はあからさまだが、いつも直球で猪突猛進なシャンクスが未だエンに告白していないというのは、何か理由があるのかもしれない。
だったら、自分が余計な口出しをするのは野暮というものではないだろうか。
ホンゴウはエンもシャンクスも好きだ。
普段は馬鹿だボケだと文句を云っているシャンクスだが、強くて頼れる船長で、だから自分もここまでついてきた。悔しいので直接は云ってやらないが、尊敬しているといってもいい。
当然エンは可愛いし妹のように懐いてくれるし、戦えない代わりに出来ることをと努力し続ける姿は眩しいと思う。
だから二人が幸せになれるのならば、二人がくっつくのはとても良いことだと思っている。ちょっと複雑な気分ではあるけれど、好き合っているのならば全力で応援したい。
まったく、エンという少女がただ可愛いだけの美少女であればよかったとホンゴウは思う。
少なくとも賢くも聡くもなければ、シャンクスの気持ちになど気付かず素直に天真爛漫でいられただろうに。
取り繕うのが上手な娘だからきっと表面上はこれまで通りでいるだろうが、内心ではいろいろ思い悩むに違いない。
せめて思い切ってシャンクスが告白でもしてくれればと思うが、それこそホンゴウが口を挟むことではないだろう。
だったら自分は、何があっても二人を支えられるようにしようと決め、椅子で遊ぶエンに声をかけた。
「それ、転ぶなよ」
「えー?」
「椅子。危ないだろ」
「大丈夫大丈夫、ちょっとのドジは可愛いけどこんな典型的なドジなんて……あっ」
「ッわーっ、エン!?」
直後、お約束のようにバランスを崩したエンは、見事に椅子ごと後ろに倒れていった。
云わんこっちゃない、と思いつつホンゴウは咄嗟に動き、エンの頭を抱きかかえることで床に強打するのは免れた。
ハーっと安心したが心臓に悪い。下手な敵襲より心拍数が上がっている気がする。ところがエンはケロリとしたままあっけらかんとホンゴウの下で云うのだ。
「ごめぇんありがと」
「ホンットにお前はぁ!」
「可愛いドジでしょ、怒んないで!」
「こいつ……」
一度本気で説教かまさないとわからないのだろうか。
非常に意外なことだが、エンは運動神経が悪い。
宴の最中踊ろうとして足をもつれさせて階段から転げ落ちそうになったのでエンは踊り禁止になったし、何もない場所で躓いているのを毎日誰かが目撃している。辛うじて泳ぐ、というか水に浮くことは出来るようだが、水泳上手とは云い難い。料理以外は何でも出来そうなエンの意外な弱点である。
つまり椅子の後ろ脚だけでバランスを取ろうとするなんて無理な話だったのだ。
咄嗟だったので押し倒してるみたいになってしまったが、まぁ敵襲があったわけでもない平時に医務室に来るようなやつはいないからいいか、誰にも見られなければ、と思いつつ身体を起こそうとしたその瞬間だった。
ガチャリ。
「おーいホンゴウ、ちょっと消毒してくれ~」
ノックなしで入ってきたのは、まさかのシャンクスだった。普段医務室になんか寄りつかないくせに、なんでこんなタイミングで。
思わず固まってしまったが、二人の光景を見てしまったシャンクスも見事に固まっている。通常運転だったのはエンだけだった。
「…………」
「…………。」
「どしたのお頭、怪我?」
「……あ、ああ、さっきちょっと……」
「ほらホンゴウどいて。仕事仕事」
床に転がったままホンゴウが固まってしまったので、よじよじと下から這い出したエンは、埃を掃ってからいつも通りの可愛らしい笑顔で云った。
「んじゃ私自分の部屋にいるから、何かあったら呼んでね~」
ひらひらと手を振って、エンは出て行ってしまった。
残された二人は気まずい雰囲気でいっぱいだったが、かろうじてホンゴウは自分の仕事をこなそうと思えた。
倒れた椅子を戻し、シャンクスを座らせ、道具を出して消毒をする。どこかでひっかけたようで、手の甲に軽い擦り傷が出来ていた。これなら洗浄して消毒するだけで大丈夫だろう。
手早く処置をする間、二人とも無言だった。というか何を云えばいいのかわからない。下手なことを云うと言い訳に聞こえるだろうし、だけど何も云わないのも気まずいし。
先に意を決したのはホンゴウだった。
「お頭、わかってると思うけど」
「わかってる、みなまで云うな」
ホンゴウの言葉を遮るように手で制し、抜け殻みたいな笑顔を浮かべ、シャンクスは医務室を出て行ってしまった。背中があまりにも痛々しい。
どうせ、椅子で遊んでいたエンがバランスを崩して転んで、それをホンゴウが守ったのだろうとシャンクスにも予想は出来る。
というかそもそも、エンとホンゴウが仲が良いのは知っているが、お互いに兄妹のような仲の良さだというのもわかっていた。だから間違いなんて起こるはずはないと。
が、いざ自分が片想いしている相手が、自分の信頼する部下に押し倒されている(ように見える)現場を目撃してしまい、ノーダメージではいられなかった。
ドアが閉まり、シャンクスの気配がなくなって、ホンゴウは机に突っ伏して呻く。
「胃が痛ぇ……」
事故とはいえ、第三者から見ればホンゴウがエンを押し倒している容姿か見えない場面。
誓って二人の邪魔をしたいわけではないのに、どうして自分はこんなにもタイミングが悪いのだろう、とホンゴウは自分の不運を呪った。
◇◆◇◆
ホンゴウのエン押し倒し事件から、数日後。
もはや理由などなく、今日も今日とてレッド・フォース号の甲板では宴が開催されている。
漸く仕事に区切りをつけて甲板に上がると、すでに飲み始めていたシャンクスがエンを見つけて突撃してきた。ちなみにこのときエンはベックマンと一緒だったのだが、ベックマンはシャンクスの姿を見つけた時点で逃げていた。薄情者だった。
無言で姿を消したベックマンに驚いている隙にエンはシャンクスに捕まって、抱き上げられてぐるぐる回られる。まるでミュージカルのような大袈裟な動きは、シャンクスが酔っているときによくやることだ。
「エン~!!」
「え、やだ。もう完全に出来上がってない?」
のっけからエンジン全開過ぎてちょっと引いているエンにも気にせず、髪と同じくらい顔を真っ赤にしたシャンクスはエンを抱き締めて思いっきり頬ずりをする。
「エン、お前は本当に可愛いなぁ。可愛い可愛い」
「ひげが痛い」
「目がおっきくてまつげ長くて髪の毛つやつやで肌が綺麗でいい匂いして完璧すぎる……ささやかな胸がまたちょうどいいし」
「褒めたいのか貶したいのかどっちかにしてくれる? そんでセクハラだからねそれ。ていうか私は着やせするタイプなの」
「優しいし気が利くし仕事は出来るし可愛いし、しかも可愛いし、さらに可愛い……」
「私が可愛いのは知ってる」
「エン~可愛いエン……」
恐ろしいほど面倒くさい典型的な酔っぱらいに仕上がっていた。
先に飲んでいた組は、どれだけシャンクスが飲んでいたのか知っているから無理もない、という感じでエンを助けようとはしなかった。重ねて薄情である。
その後もエンを抱えたまま座り込んでひたすらにべた褒めするシャンクス、それを虚無の顔で黙って聞くエンという非常に可哀そうな画が続いていた。相変わらず誰も助けようとはしないし、なんなら面白がってそのふたりを酒の肴にしている節すらある。
そろそろ見物料でもせしめてやろうか、と内心エンが考えていると、ふといつの間にやらシャンクスが静かになったことに気付いた。
おや、と思って顔を上げれば、くかー、という情けない寝息。
「……もしかしてお頭、寝た?」
「寝たなぁ」
「嘘でしょ」
何度も云うが今エンはシャンクスに抱きかかえられているのだ。腕もがっちり腰に回されて後ろからホールドされているので、立ち上がることすらままならない。
こんな状態で寝られたらたまらない、眠いなら部屋に戻ってくれというエンの願いは半端な部分だけ叶えられることになる。
何度かエンが『お頭起きて』と声をかけると、パチッとシャンクスは目を開けて。何度か眠たそうに瞬きをして、ひょいとエンを自分の横に座らせた。ああよかった解放された、と安心したのも束の間、お次は膝の上に重量感。シャンクスは今度はエンの膝に頭を乗せて寝始めたのだった。というか腰に腕は回ったままだから膝というより完全に太ももに乗っている。角度によっては非常に際どい。
違うそうじゃない。寝方を変えてくれということではない。
どっちにしろこれではエンは身動きが取れなかった。
そんなシャンクスを唖然と見ていたエンだったが、ややあって額に手を当てて深くため息を吐く。
「お頭が仕事のし過ぎで疲れるなんてなさそうだし、最近別に敵襲とか海軍に鉢合わせたりもなかったよね? なんでこんな酔っぱらってんの?」
お前のせいだ、という言葉が喉元までせり上がってきたのを飲み込んだのは一人ではないはずだった。
実はここ数日、エンは仕事に缶詰め状態でほとんど部屋から出てこなかった。何度かベックマンやホンゴウのところに顔は出していたらしいが、食事もみんなが集まる時間とはズレていたし、ルウに頼んで部屋に持っていけるものを作ってもらっていたようだ。
これまでは毎日どこかの時間でキッチンや甲板で会って話す、宴会はなくとも夜に何人かで集まって飲む、ということがあったから一日一回はエンに会っていたのに、それがなかった。
おそらくそれもあって、今日は久しぶりの宴ということもあり、シャンクスはやけ酒していたのである。
なんとなくそれを察していた仲間たちは、だからハイペースで飲むシャンクスを止めなかったし、なんだかんだ云って毎日エンと顔を合わせていた数名は気まずそうに黙ってグラスを傾けていた。
しかし当然エンはそんな事情は知らないし、もし知っても『仕事は仕事なんだからしょうがないでしょ』と真顔で一蹴されそうではある。
何故かみんなが黙ってしまったのでエンはますます訳が分からなくて面白くなさそうにシャンクスの頬を指で突いていたが、ここで話を逸らそうと声を上げたのはホンゴウだった。
「エン、動けないだろ。なんか持ってきてやるよ」
「ありがとホンゴウ。私にぴったりの可愛いお酒お願い」
「ルウ、うちにスピリタスって置いてあったか?」
「どういう意味!?」
スピリタスとは非常にアルコール度数の高い酒の一種である。
それがぴったりってどういうことだ、と抗議しようとしたエンだったが、しかし次の瞬間腹部がギュッと締まって抗議は口に出来なかった。
「ぐぇ」
代わりに潰れたカエル、或いはアヒルの鳴き声のような、可愛さからはかけ離れた声が出てしまう。が、今はそんなことも気にならない。
犯人はもちろん、エンに絶賛巻き着き中のシャンクスである。
「だ、大丈夫か……?」
「びっくりした。内臓出るかと思った」
心配したホンゴウになんとか返事をし、そしてキッと元凶であるシャンクスを鋭く睨んで声を荒げた。
「ちょっとお頭! 馬鹿力考えてくれない!? か弱い私が真っ二つになるところだったんだけど!?」
「…………。」
「……無視!」
絶対起きてるでしょ、とエンはシャンクスを引っぺがそうと奮闘するが、うんともすんとも云わない。そもそもエンの細腕ではシャンクスの腕一本だって動かすのは大変だ。
しばらく頑張ってみたのだが、しかし腕のアイソメトリックトレーニングでもしている気分になって、そのうち諦めた。意地でも起きるつもりはないようだ。
片腕で器用にがっちりとエンの腰手を回し、子供のようにエンの膝を枕にして寝たふりをするシャンクスをいったいどうしてやろうか、と考えていると。
「んじゃ、おれたちは退散するか」
「だな。食いもんと飲みもんはこんくらいで十分だろ」
「よっしゃ、あっちで飲みなおそうぜ」
「は、え?」
一緒に飲んでいたヤソップたちは次々に立ち上がり、料理と酒とエンとシャンクスを置いて行ってしまった。当然何の説明もない。
腰にシャンクスが巻き付いたままのエンはもちろん彼らを追いかけられないし、立ち上がることも出来なかった。
去り際、ホンゴウがごめんという仕草をしていった。それには肩を竦めて気にしないように伝える。動けないエンを気遣ってくれたホンゴウに非なんてあるはずがないのだ。
甲板の隅に取り残され、すっかり宴の輪からものけ者にされてしまったエンは、しばし呆然としてから深くため息を零す。
「……何が気に食わないのか知らないけど、みんなに気を遣わせるのはどうかと思う」
賑やかな宴は遠くで続いている。
だからここで二人が話していることは、誰にも聞こえない。気を遣ってか何か知らないが、視線の一つもこちらには向いていなかった。
別に、だから、というわけではないけれど。
ポンとシャンクスの頭に手を置いて、優しく撫でながらエンは云った。
「お頭。私前に云ったよね。云いたいことはちゃんと云ってくれなくちゃわからないって」
時と場合によっては、察して動くこともする。特に仕事中なんかは、お互いにお互いの動きを考えながら動かなければ立ち行かないことも多いから、そういうときは別にいい。
けれど、エンには知りようがない心の内はちゃんと言葉にしてもらえなければ、想像や予想だけではわからないことがたくさんある。
随分前にこの話はして、以降はそれなりに言葉にしてくれることが多かったから、油断していた。
酔ったふりまでして、寝たふりをしてまで自分の気を引こうとするシャンクスが何を云いたいのか、エンにはわからない。
「……怒ってるわけじゃ、ないけどさ」
嘆息し、しかしそれ以上シャンクスを引っぺがそうとはせずエンはグラスを傾けた。
どうして今シャンクスがこんな幼稚な真似をしたのかわからないが、わからないなりにちょっとだけ心当たりがある。
そう、先日の医務室での出来事だ。
エンとホンゴウの中ではあんなの事故だし単なるじゃれあいでしかないけれど、仮にも自分を異性として見ている相手があの光景を見たらそりゃあ心穏やかではないだろう。
とはいえすぐにはそんな考えには思い至らず、妙にぎこちない態度だったシャンクスを見て、自分の部屋に戻った後によく考えてみたのだ。
あのときの自分をシャンクスの立場に置き換えて、自分とホンゴウを仮にマルコと綺麗なお姉さま方の誰かにしてみたら。
今のエンはマルコに対して恋愛的な意味での好意はないけれど、複雑な気分にはなると思う。というか想像だけでちょっと胃が痛くなった。
割り切ったはずの自分でさえこうなのだから、現行自分に片想い中だというシャンクスはもっと複雑な気分だったのは想像に難くない。
まぁ、だからといって幼稚な行動を取っていい理由にはならないが。
とはいえ、先日やっとシャンクスが自分に向ける気持ちに気付き、周囲にはとっくの昔にバレていたという好意は、しかしエンにはどうすることもできないと思う。
だって何も伝えられていない。
好きだとも、異性として意識してほしいとも。
エンの『好き』とシャンクスの『好き』が違うものであっても、今のエンは少なくとも他の仲間たちと同じような好意しか向けることは出来ない。
だから、これまで通りに接することしか、出来ないのだ。
しかし、同時に理不尽だとも思う。
今考えてみれば、エンが赤髪海賊団以外の異性と話しているとシャンクスはわかりやすく話に入ってきたり、時には露骨に話を遮ってきたりしていた。
てっきりあれは、仲間に対する独占欲なのだと思っていたのだけれど、おそらく単なる嫉妬だったのだ。
自分の気持ちは伝えないくせに、エンが異性と話すのは嫌がって邪魔をする。
まるっきり子供だ。
どうしろというのだろう、とエンは考えた。
わかりやすいアプローチをされているのは、まぁ、自覚した。
でも申し訳ないけれど、言葉にされないとエンにはどうすることもできない。
周囲がなんだかんだ云っても、本人の口から本人の言葉で伝えられなければ、受け止めることも拒否することもできないのだ。
可愛いだの美人だのすごいだのという賛辞は死ぬほどもらっているけれど、好きだとか愛してるだとかの言葉はもらったことがない。
海賊女王の話になったときに云われる『結婚しよう』というのは軽口でしかないと思っている。仮にあれが本気なのだとしたらあまりにも不誠実でさすがに嫌いになりそうだ。
いっそ今すぐ告白でもしてくれたらいいのに。
だからといってエンの『好き』がシャンクスの『好き』が同じになるというわけではないけれど、少なくとも意識をするきっかけにはなるだろう。
そんなことを考えながら残り少なくなったお酒で喉を潤すと、バレバレび寝たふりはやめたらしいシャンクスがおずおずとエンを呼んだ。少し前から、寝息は聞こえなくなっていたのはエンも気付いていた。
「……エン」
「何?」
「エン」
「だから、なぁに」
面倒そうであっても、こんなときでも、エンは絶対に返事をしてくれる。
それがたまらなく嬉しくて、シャンクスはなんだか泣きたくなった。
「……名前を呼びたかっただけだ」
「えー、何それ」
エンはからからと笑い、再びグラスを傾ける。
くるりと体勢を変えて膝の上からエンを見上げ、眩しいものを見るようにシャンクスは目を細めた。
だって、こんなの知らなかった。
恋をしたことも女を抱いたことも、応じなかったけれど男に求められたことも数えきれないほどある。
本気で好きだと思った女もいたような気がするし、よく立ち寄る島では会えば抱いてもいいと思った女もいた。
それなりに多くの出会いをしたし、経験もしたと思う。
だけど、簡単に誰かを船に乗せようとは一度も思ったことはなかったのだ。
乗りたいと懇願されたことは何度もある。
けれど全部断ってきた。
下手に女を船に乗せたら面倒なことになると、多分心のどこかで考えていたのだと思う。
なのに、エンは、エンだけは違った。
出会ったのは、緊急で立ち寄った小さな島。
港から人が逃げていく中、ぽつんと一人船を見上げていた少女。
突然現れた海賊を恐れることなく、困っているなら助けると迷いなく笑ってくれた。
気付いたら彼女を船に誘っていたし、荷物を持ったエンが港に現れたときは胸が躍った。
これでこの美しい少女を手放さなくていいのだと、あの瞬間確かに嬉しかった。
思えば、一目惚れに近かったのだ。
港で船を見上げるエンの強烈な羨望の目に、シャンクスは捕まっていた。
「それで、どうする、みんなのところに行く? それともまだ駄々っ子する?」
「ひ、ひでぇ云い方……」
「だって今のお頭、本当に駄々っ子みたいなんだもん。小さい子が癇癪起こして、でも何に自分がイライラしてるのかわからなくてそれがまた不安で不機嫌の悪循環してるみたい」
「うぐ……」
否定は出来ず、シャンクスは何も云い返せなかった。
こんな幼稚なことをした理由はおおむねエンが予想した通りのことと、仲間たちが予想したことのどちらもではあるけれど、イライラしているのとは少し違う。
ホンゴウのことも、忙しいエンに思うように会えなかったことは仕方のないことだとちゃんとわかっている。
イライラしたのは、そんなことにうじうじしてしまう自分の狭量さに対してだ。
誰かとべったりされるのが嫌なのなら、忙しくて会えないのが嫌なのなら、直接エンに云えばいいだけの話なのだ。きっと優しい彼女は、例え理由を云わずにそれだけ伝えても、呆れたようにしながら従ってくれる。忙しい合間を縫って顔を見せに来てくれる。
でも、云わなかった。云えなかった。
小さい男だとエンに思われたらどうしようと思ったら怖くて、別に平気だという顔をしているしか出来なかった。全然平気じゃなかったくせに。
たいていの海賊も海軍も怖いなんて思わないのに、たった一人に幻滅されるのは怖くて仕方ない。
シャンクスは自分がそれなりの大海賊に数えられている自覚がある。
だというのに、惚れた女に対してはこの小物っぷり。
更には一回りも自分のほうが年上なのに、子供扱い。
情けなくて逆に笑えてくる。
改めて大人げないことをしてしまったことを噛みしめてちょっと恥ずかしくなってしまったシャンクスに、エンは少し笑って云った。
「いいよ。どうせまだお酒残ってるし、もうちょっとゆっくりしてたら?」
「……ん」
ぽんぽんと頭を撫でられてそんなことを云われては、いよいよ本格的な子供扱いである。
複雑ではあるが、まだエンを独り占め出来るのであればそれくらいまぁいいか、と開き直った。
眠いわけではなかったけれど、お言葉に甘えて目を閉じて、それから少し勇気を出してシャンクスは口を開いた。
「エン」
「ん?」
柄にもなく心臓が大きく脈打っているのがわかる。
緊張なんて、ここしばらくしていなかった。
けれど今、今なら。
「手、握ってていいか」
抱き締めたことも抱き着かれたこともあって、勢いに任せた頬ずりだってしたし、現在絶賛膝枕中だというのに、手を握る、ただこれだけのことに信じられないほど勇気が必要だった。
本当に柄でもない。
エンが自分を恋愛的な意味で『好き』ではないことなんてシャンクスも重々承知だ。
向けられる好意が多すぎて、エンがその手の感情に寛容すぎるのは嫌というほど感じていた。
だからいつも冗談めかした好意しか伝えられなくて、実はそれが最悪の手なのだけれど、本気の恋に憶病になっているシャンクスはそれに気付けない。
普段は勝手にくっついてくるくせに、今更こんな確認を取るのか、とエンはエンで意味が分からず、しかしシャンクスなりの誠意なのだろう、と考え直す。
ただ、いくら自分たちの船の上で宴の最中とはいえ、シャンクスには右腕しかない。
こてんと可愛らしく首を傾げたエンが云う。
「貴重な片手、私に使っていいの?」
「いいさ、お前なら」
「……ふぅん」
有事の際に即座に反応できないのでは、と思って一応気を遣ってみたのだが、即答したシャンクスに驚いたように目を見開き、それからエンは遠慮がちに伸ばされていたシャンクスの手を取った。
温かくて柔らかくて、泣きたくなるほど優しい手だった。
「ちょっとだけだよ」
困ったようにそう笑うと、シャンクスは嬉しそうに笑って目を閉じた。
そうして、まもなく聞こえてきた穏やかな寝息。
「……本当に寝ちゃった」
さっきのはどう考えても狸寝入りだったが、どうやら今回は本気で寝てるらしい。膝枕なんて本当は寝にくいのに、穏やかに寝息を立てている。
今さら冗談のつもりだったとも云えず、エンは残っていた酒を飲み干し、空になったグラスを邪魔にならなさそうな場所に置いた。
ゆっくりと船の縁に背中を預け、頬にかかっていたシャンクスの髪をそっとどけてやりながら、そのまま頬を優しく撫でる。
閉じた目、三本の傷。空っぽの左腕、縛られた袖。
もう痛むことはほとんどないとシャンクスは笑っていたけれど、その傷を受けたときのことを想像するとエンは心臓が痛くなってしまう。
シャンクスは強い。
そんな彼がここまではっきりと残る傷跡を受けるような戦いをしたのが信じられなくて、シャンクスほどの男でも怪我をすることがあるのだと思うと、恐怖で身体が冷たくなる。
どうか、どうか、この先そんなことが怒りませんようにと、願ってしまう。
そんな甘いことを云っていられる海ではないのはわかっているのに、願わずにはいられない。
遠くではまだ宴は続いている。
それに耳を傾けながら、夜の冷たい風に自分の吐息を混ぜた。雲一つない満天の星空を見ていると、なんだか妙に寂しい気持ちになるのはなぜだろう。
そんなことを考える自分はきっと仕事のしすぎて疲れているに違いない。
そう考え、少しだけエンも目を閉じた。
シャンクスのことは、好きだ。
けれどホンゴウに云ったように、みんなと同じくらい、というのは少し嘘だった。
エンにとってシャンクスは特別な人ではある。
島から出て自由になりたかったエンを、海賊女王だなんてたいそうな夢を語ったエンを一度も笑わず、海に誘って実際船に乗せて、大切だと、自分の存在をいつだって尊重し続けてくれている人が特別でないわけがない。
ただ、マルコを好きだった気持ちとはあまりにも違うのだ。
身を焼かれ心が燃えるようなあの気持ちが恋だというのなら、これは恋ではない。
それでも願うのは、シャンクスには幸せになってもらいたいということ。
自分を自由にしてくれた恩人だ、この先一生笑っていてほしい。
「お頭はかっこよくて頼りになって強いんだから、いくらでも選びたい放題じゃん」
エンはシャンクスがモテることをよく知っている。
立ち寄った島の飲み屋で、ベックマンほどでなくともたくさんの女の人に声をかけられているのを何度も見た。
赤髪海賊団の仲間たちはみんなそれぞれ一様にモテて、女の人で困ったことがある人はいないんじゃないかとエンは思う。まぁルウの場合は苦手すぎて困っているということはあるかもしれないが。
店の隅で自分の相手をしてくれている店員と話しながら、エンはその光景を他人事のように見ていた。別にたくさんの女の人を侍らせていることに『不潔!』だなんていうつもりはない。そういう常識的な倫理観は、海賊として海に出ると決めたときに決別している。
一応自分でも遊んでみたいとちょっと思ったこともあったけれど、結局声をかけられてもそんな気にはなれなくて全部断ってしまった。
別に誰かに操を立てているわけでもないのに。
「なんで、私なの」
泣き出しそうなその声は、幸いにも誰の耳にも届かなかった。
ただ、夜の風だけがその声を聞いていた。