時折、夢に見る。
幼かった頃の夢。天竜人であることを放棄した両親とともに下界に降り、そして地獄のような日々を過ごした頃のことを。
怖くなどはない。これは恐怖なんて感情では表せないものだ。
憎悪と云ってしまえば簡単で、しかしドフラミンゴにしてみれば憎悪なんて言葉すらも陳腐に思えるほどの激情。
強くなったドフラミンゴにかつてのような苦痛が訪れることはないはずなのに、幼い頃の記憶というのは厄介で、何十年も経った現在でも時折夢の中でドフラミンゴを脅かす。
鬱陶しいことこの上ないが、こればっかりはいくらドフラミンゴが強くともどうしようもならないことだった。
この日もそうだ。
ハッと目を覚ますと、しかし今日目の前には自分を静かに見下ろす女がいた。
荒くなっていた息を整えることも忘れ、現状を把握することに集中する。……そうだ、ここは。
「怖い夢をみた?」
不快に汗ばんだ額に、彼女のひやりとした手が触れる。
ここは『箱庭』の中だ。世界中のどこよりも安全な、まぎれもなくドフラミンゴ自身が用意したものであり、カサンドラだけの為に用意した特別な『箱庭』。
そんな場所で眠って悪夢を見るだなんて、それこそ悪夢のような話だ。
まるで子どもをあやすような優しい声で云うカサンドラに、ドフラミンゴは小さく笑った。
「ガキじゃあるまいし」
「子どもでなくとも怖い夢くらい見ると思うわ」
「フフッ、ならお前もか?」
何気なさを装った問いに、カサンドラは静かに首を傾げて笑った。
しくじった、と珍しくドフラミンゴは思う。
そんなつもりはなかった。
カサンドラに、こんな顔をさせるつもりは、毛頭も。
「――もう、夢にも見ないのよ」
表情は穏やかだ。
一見、何も変わらないように見える。けれど、伊達に数十年傍に居たわけではない。
カサンドラは、今でも昔の"夢"を見るのだ。ドフラミンゴにはわかる。
ただ、その"夢"は所詮"夢"だと分かっている。
昔、まだ血の繋がった家族がいた頃のこと。
カサンドラは幸せになりたくて、けれどあの家族と一緒ではそうなれなくて、そして愛していた家族から化け物と呼ばれて捨てられた、あの頃のことを。
ドフラミンゴがカサンドラを見つけたのは、小さな街の路地裏だった。
何の気なしにたまたま足を踏み入れたそんな場所で、カサンドラは小さな身体を丸めて蹲っていた。着ているものはぼろぼろで薄汚れていて、足は素足で傷だらけという悲惨な状態。寝ているのか死んでいるのか一瞬悩んだくらいの衰弱ぶりで、もしドフラミンゴが蹴りつけたらそのまま死んでしまうのではないかと思うほどだった。
しばらくそんな彼女を眺めていると、ふと少女が薄く目を開けた。
虚ろで、この世界など映っていないような眼だった。
ボロ雑巾になんて興味はなかったけれど、ふと気が向いたのでドフラミンゴはそのボロ雑巾に訊いてみた。ただの暇つぶしにもならない戯れのつもりだった。
『死ぬのか?』
『しらない』
『死にたいのか?』
『しらない』
『死にたくないのか?』
ボロ雑巾は、今度は答えなかった。
代わりに。
『私は、望まれていない』
ぽろり、と。
濁った瞳から、涙が零れ落ちて、そうして、静かにまたその目は閉じられた。意識を失ったのだ。
次の瞬間のドフラミンゴの行動は早かった。トレーボルを呼んですぐに少女を保護させて、アジトに連れ帰って治療した。ジョーラに命じて身体を洗わせ、身なりを整えさせた。
泥だらけの藁みたいだった髪は梳けば金糸のように滑らかになり、乾いた油絵みたいにボロボロだった肌は大理石のようになった。表情だけは死んだように生気はなかったが、それぞれのパーツだけは驚くほど整っていた。
ボロ雑巾が一転予想以上の美しさに少々度肝を抜かれたが、別にドフラミンゴは見た目が好きだから少女を拾い上げたわけではない。
本当に気まぐれだった。
カサンドラと名乗ったその少女が特殊な能力のせいで家族に捨てられたのだと知ったドフラミンゴは、すぐに彼女の家族を探し出して殺した。
己の父親をそうしたように、カサンドラの家族全員の首を斬り取って彼女の前に転がすと、少女は声も上げず静かに涙を流した。
恨み言はなかった。嘆きもしなかった。ただ一日だけ泣いて、それでお仕舞。
鍵も掛けずにいた部屋だったのでさすがに逃げ出すかと思ったのだが、翌日も相変わらずカサンドラは与えられた部屋にいた。あまつ、顔を出したドフラミンゴに嬉しそうに微笑んだ。
これにはドフラミンゴも戸惑った。
少しでも反抗的な態度を見せたらその場で殺してやろうと思っていたのに、これでは予想と真逆だったからだ。
カサンドラは、家族を無残にも殺したドフラミンゴに恐怖して逃げ出さないわけではなかった。
家族が死んだことは悲しかったけれど、反面ホッとしたのも本当だった。自分が居たせいで不幸な目にあわせてしまった人たちだったから、死んだことでこれ以上の不幸にならずに済む、と思ったのだ。カサンドラも静かに狂っていたのだが、あいにくドフラミンゴがそれを知るのはずっと後のことになる。
ただ、死にかけの自分に伸ばされたドフラミンゴの手を、離すことがカサンドラには出来なかったのだ。
だって、家族に見捨てられたカサンドラにとっては、それだけが唯一の生きる意味になっていたから。
それから数十年、ふたりはずっと傍にいた。
傍に居て欲しいなんて云ったわけではない。
傍に居たいと云われたわけでもない。
けれど、まるで欠けたパズルのピースを埋め合わせるように、ふたりは寄り添って傍に居た。
他のファミリーとは明らかに違う。ドフラミンゴにとってはどちらも当たり前のように大切だが、カサンドラはその中でも特別だ。むしろ執着と呼んでもいいかもしれない。
いつかベビー5に訊かれたことがある。
カサンドラは恋人なの?、と。
ドフラミンゴはいつものように笑うだけで答えなかった。
正確には、答えられなかった。
くだらない、と云い捨てることも出来なかった。
なぜなら、ドフラミンゴ自身その答えを持ち合わせていなかったから。
カサンドラは家族で、それ以上でも以下でもない。けれど他のファミリーと同列というわけではない。
どうしても何か一つしか護れないような、そんな胸糞の悪くなる状況に立たされた時――そもそもドフラミンゴの場合、そんな状況になる前に対策するだろうが――、きっとドフラミンゴが選ぶのはカサンドラだ。
そこまでわかっている相手をただ家族と呼ぶのは間違っている。
けれどだからと云って恋人なのかと云われると違うと断言できる。彼女とそんな甘ったるい関係になった覚えなどないし、カサンドラだって同じだろう。
愛しているし、愛されていると思う。
この気持ちと関係に名前を付けるのは些か難しいのだ。
ひどくむず痒いのに、心地よいとさえ思うから手の施しようがない。
ただ、ひとつだけ心に決めていることがある。
カサンドラは誰にも傷付けさせない。
これだけは、例え家族であろうと犯すことは許さない血の掟だった。
そのための自分で、そのために『箱庭』まで用意したのだ。
「カーサ」
「なぁに」
己の家族の首を斬り落とした男に、柔らかい笑みを返すカサンドラに。
冷酷非道の"天夜叉"は。
数えきれないほどの人々を地獄に突き落としたその手で、白く美しい狂った女の頬に触れた。
「ここは『箱庭』だ。お前を傷付けるものは、何もない」
「ええ、そうね。優しい場所だわ」
「だから」
――だから。
だから、なんだと云うのだろう。
はたと気付いて、息を飲む。言葉全てを飲み下して、思わず口元を手で押さえる。
だからもう忘れろ?
無理だ。
護られるだけで忘れられるなら、『箱庭』なんて要らなかった。
だからもう傷付くな?
無理だ。
護られている間は傷付かなくとも、カサンドラが心に負った傷は、今尚彼女の心を蝕んでいる。
だから。
だから?
ドフラミンゴは自分の言葉に苛立った。だから何だと云うのだ。
『箱庭』はただカサンドラと外界を隔てるだけで、状況は昔から何一つ変わってはいない。
結局のところ、自己満足でしかなかった。
その事実がもどかしくて、力も権力も金もあるのにどうしようもないことがあるというのが腹立たしくて仕方なかった。
彼の葛藤を敏感にも感じ取ったカサンドラは、ふわり、と。
優しく、まるで飴細工に触れるようにそっとドフラミンゴを抱き締めた。
「ドフラミンゴ」
その声に溢れ出る優しさは、信じられないくらいに心地よいものだった。
「可哀そうな人。怖いのね、ひとりになるのが」
たくさんの人に囲まれていながら、ドフラミンゴは孤独だった。
きっと母を亡くし、父を殺し、弟さえも殺したあの日から、ドフラミンゴは世界にたった一人になってしまったのだろう。
その穴はファミリーでは埋められないし、もちろんカサンドラにだって無理だった。
そんなことわかってる。
わかっているけど、それでも。
「私がいるわ」
両親がいなくとも。
弟を失っても。
部下という家族を持って尚不安と恐怖に心を支配され続け、笑顔の仮面でしか自分を支えられない可哀そうな人。
誰よりも強いのに、その実誰よりも不安定な孤独の王様。
カサンドラはそんなドフラミンゴが愛しくて大切で、何よりも尊いものだと思っている。
「……おれに」
少し驚いたように口を開いたドフラミンゴは、ややあって小さく笑った。
「そんな馬鹿を云うのは、お前だけだぜ、カーサ」
「そうでしょうね」
「カーサ」
「ええ、ドフィ」
目を閉じる。
『箱庭』の中、愛おしい人の隣。
世界を憎む狂人は、唯一この場所でだけ心を安らげることができる。
「もう少し、眠る」
ドフラミンゴが『箱庭』に居られる時間は長くない。
これでも一応一国の国王だし、王下七武海でもある。大抵のことは部下に任せていても、ドフラミンゴ自身がやらなければならない仕事も意外と多いのだ。
それでも彼が『箱庭』に来なくなることはないし、何よりも大切な時間にしていると云うことは幹部であれば誰でも知っていた。
だから少しくらい長居しても、余程のことがない限り誰かがドフラミンゴを呼びに来ることはなかった。
今日はいつもよりも30分も長く滞在しているけれど、帰ろうとするどころかもうひと眠りするという。
普段あまり長く一緒に居られないから、こういうときカサンドラは顔にはあまり出さないがひどく嬉しいのだ。
ただでさえ『箱庭』にいる間はドフラミンゴを独り占めできるのに、今日はまだ一緒に居られる。
カサンドラの膝の上で目を閉じる彼のサングラスを外す瞬間が、カサンドラは何よりも好きだった。今日はすでに一度眠っているのでもう裸眼だけれど、人前では決して素顔を晒さないドフラミンゴが、ここでだけ無防備になるというのが嬉しかった。
余程疲れているのか、すでに眠りの縁に傾いているドフラミンゴにカサンドラはひとつキスを落とす。
「――おやすみなさい、可愛いドフィ。良い夢を」
目蓋に降りてきたキスに安心して、ドフラミンゴはゆっくりと意識を手放した。
◇◆◇◆
夢を見た。
両親が居て、弟が居て、自分が居て、それからカサンドラが居て、みんなで楽しそうに笑っている夢。
きっと世界を何巡したってただの夢で終わるその夢に少しだけ絶望しながら、それでも、ほんの少し幸せな気持ちになりながら、ドフラミンゴは眠った。
これはきっと、悪夢だった。