海軍大佐とスペード海賊団船長時代。
続き→まだ
デフォルト名:サン
一目見て、好きだと思った。
真っ直ぐにおれを映すその眼が炎のように朱くて、彼女から眼が離せなくなった。
背中に正義の文字を背負った彼女は、淡々とおれに七武海に入らないかと云ってきた。
おれは彼女に興味はあったが七武海なんぞに興味はなくて、申し訳ないが丁重に断らせてもらった代わりに逆に彼女を仲間にならないかと誘ってみた。
勿論本気じゃなかった。
海軍に入ってる人間は、大抵海賊のことが大嫌いだ。
だから軽い冗談のつもりで云ってみただけだったのに、勧誘を口にした次の瞬間、おれの喉元には煌めく刃物が突き付けられていた。
断っておくが、油断はしていなかった。
仮にも相手は海軍、しかも正義の文字を背負うことを許された将校で、いくら七武海に勧誘されたと云ってもおれは海賊。
油断出来る材料はひとつもなかったし、むしろ気を張っていたと云ってもいい。
対する彼女は部下をひとりばかり連れただけで、自分の船は遠くに置いて、小さな小船でおれの、スペード海賊団の船にやってきたのだ。
そこから考えられる答えは大きく分けてふたつ。
途方もない馬鹿か、余程の強者か、である。
見ればわかる。
彼女は馬鹿ではない。
となると自動的に後者となるわけで、部下もたったひとりしか連れていないということは腕に相当自信があると考えるべきだ。
正義を掲げたジャケットには腕を通さず肩にかけただけで、タンクトップとホットパンツにローヒールのショートブーツという格好の彼女の武器は手に持った長剣だけのようで、部下の男に至っては武器など何も持っていないようにも見えた。勿論部下のほうは典型的な海軍らしい格好だったので、もしかしたら服の下に細々と何かしら仕込んでいたのかもしれないが。
ともかく、おれは注意していた。
彼女が少しでもおかしな真似をしたら、即座に対応するつもりだった。
自惚れではなく、おれは強いのだ。
だから彼女は、おれを勧誘に来たのだ。
なのに、まったく動きを追えなかった。
気付いたら彼女の肩を覆っていたジャケットは部下の手にあり、いつの間にか抜刀しており、切っ先をおれの喉元に突き付けて、たった一言呟いた。
『笑えない冗談、やめてくれない?』
笑えないのはこっちだったが、そこでおれはひとつの間違いに気付いた。
彼女の眼は朱くはなかった。
真っ黒だった。
刀にしては少し長いような気もするそれを俺に突き付け、睨むわけでもなくおれを真っ直ぐに見つめるその眼は、おれの知る色彩の中で最も黒かった。
しかし闇色ではなく、黒曜石のようでもない。
縁に蒼みがかかった黒い眼は、他の何かに例えようがないほど黒かった。
おかしい、絶対に朱いと思ったのに。
どうしてこんなにも黒いのに、朱に、炎の色に見えたんだろう。
そして、今すぐ喉を貫かれてもおかしくない状況で、何故おれはこんなに冷静なんだろう。
ぽつりと、また彼女は呟いた。
『断られたら、その場で殺せって云われてたんだけど』
とんでもないことを云ってくれる。
しかし、物騒な台詞とは裏腹に、彼女は酷く億劫そうに刀を引いて鞘に収めた。
何故。
きっとおれは、彼女がその気になれば抵抗もそこそこに殺されていたに違いないのに。
疑問が顔に出ていたのか、単に台詞の続きだったのかは知らないが、彼女は云った。
『どうしてこんな弱そうな男を七武海にしようと思ったのか、わからないわ。私が殺すまでもない』
そうして彼女はおれに背を向け、部下の手からジャケットを受け取り肩に羽織った。
正義。
鬱陶しいとしか思っていなかったその文字が、初めてきれいな言葉だと思った。
スタスタと歩いてさっさと小船に戻ろうとする彼女の背中を見ながら、ああ、と気付く。
おれは、あの眼が朱ければいいと思ったのだ。
炎の色であればいいと思ったのだ。
おれの炎の、色に染まればいいと。
そう、思ったのだ。
『なぁ!』
思わず声をかけていた。
このまま彼女が去ってしまうのは嫌だと思った。
ぴたり、と彼女は足を止め、肩越しに顔だけ振り返りおれを見た。黒い眼で。
あまりにも彼女の顔がきれいで息を飲んだ。
呼び止めたくせに何も云わないおれを軽く怪訝に見た彼女が、また前を向いてしまいそうになり慌てて云った。
『あんた、名前は?』
ぐっと露骨に眉間にしわが寄る。が、そんな表情すら絵になるから恐ろしい。
『そんなもの知ってどうするの?』
『どうもしねェ』
『…………』
おれを見る眼が鋭くなる。
何を企んでいるのか、と尋問されている気分だったが、生憎何も企んでいない。
ただ名前が知りたかっただけだ。
『おれはポートガス・D・エース』
『知ってるけど』
『ほら、おれは名乗ったぞ』
『だから?』
『名乗られたら名乗り返すのは礼儀じゃねェの?』
云った瞬間面白いほど歪んだ端正な顔と、同時に放たれた鋭い覇気におれの部下がビビッて後退りしたのは船長として情けないので伏せておくとして、忌々しげに吐き捨てられた彼女の名前は、一生忘れないと思った。
おれを七武海に勧誘に来て、断られたら殺せと命じられていた彼女。
七武海に勧誘され、危うく刀の錆にされる寸前だったおれ。
これが、出逢い。
◇◆◇◆
プルルル、プルルル、プルルル。
「…………」
「大佐、こちらにもサインを」
プルルル、プルルル、プルルル。
「これが終わったらやるから、置いといて」
「はい」
プルルル、プルルル、プルルル。
「大佐」
「何」
プルルル、プルルル、プルルル。
今し方山ほどの書類を運んできた部下は、執務机の隣に備え付けられた鳴り止まない電伝虫を指差した。
「いいんですか?」
ビリッと音を立てて破けたのは、ペンを走らせていた書類である。やり直しだ。忌々しい。
大きくため息をつき、使い物にならなくなった書類をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げる。が、ゴミ箱の縁に当たって外に落ちた。部下は無言でそれを拾い上げ、ゴミ箱に入れた。
今度はゆっくりと手を伸ばした先にあるのは、鳴り止まない電伝虫。
実はかれこれ10分以上鳴り続いており、自分自身そろそろ限界だった。少し放っておけば諦めるだろうと思っていたのに、とんだ誤算である。
そして。
私はおもむろにガチャリ、と受話器を取り上げて。
『お、やっと出』
ガチャン。
即、受話器を戻した。
「お見事ですが、かけ直して来るに1000ベリー」
「賭けにならない賭けは却下」
「残念です」
無表情で云った部下を軽く睨みつけた直後、電伝虫は再びけたたましく鳴り始めた。
早すぎやしないか。
どうせかけ直してくるにしても、もう少しくらい時間を置こうとかは思わないのだろうか。
頭痛を訴えるこめかみを人差し指で揉みほぐしても、頭痛は軽くなってくれない。ちらりと部下に目をやっても、助けてくれる気配はない。しかも会釈をひとつして、さっさと退室してしまった。味方がいない。
先ほどよりも巨大なため息をついて、観念して受話器を取った。
『あ、おい何だよ! 酷ェじゃねェかすぐ切るなんて!』
「取っただけましだと思いなさいよ」
『嫌だ! おれはお前の声が聞きたかったんだ!』
「……あっそう」
呆れてものも云えないというのはこのことだ。
声が聞きたいだなんて、そんな理由で海賊が海軍大佐に電伝虫をかけてくるなんて、大馬鹿にもほどがある。いくら盗聴の心配がない電伝虫を使っているとは云え、自分の立場をわかっているのかと時々説教したくなる。
電伝虫の向こうで喚いているのは、少し前に私が任務で接触した海賊、ポートガス・D・エースだった。
どうやってこの電伝虫の番号を知ったのかは知らないが、あの日以来こうして毎日のようにエースは電伝虫を鳴らす。しかも、一度鳴ったら取るまで鳴らすという悪質振り。無言電話のストーカーよりたちが悪いと思うのは気のせいではないはずだ。
結局根負けして受話器を上げてしまう私も悪いとは思うが、たまに本部からかかってくる召集の連絡かもしれないと思うと無視しきれないのが現実だ。10分放置した今日は、実は本部からだったらどうしようかとヒヤヒヤしていたのだがやっぱりエースからだった。よかったような、よくなかったような。複雑だった。
どうせエースが一通りの話を終えて満足するまでこちらから電伝虫は切れないし――切ったらどうせまたかかってくるのはわかっているんだから、だったら一回で終わらせた方が効率がいい――、ペンを放り投げて執務椅子に思いっきり背を預けた。ちょっと贅沢して買ったこの椅子は、思った以上に座り心地がよくてお気に入りだ。
『で、昨日の話の続きなんだけどよ!』
「無理だって云ってるでしょ」
『なんでだよ! 一日くらい休み取れるだろ?』
「そーゆー問題じゃないでしょうが!」
じゃあどういう問題だ、と不満を漏らすエースに、本気で説教をかましてやりたくなった。
面白い見世物をするキャラバンを見つけたから、一緒に見に行かないかと誘われたのは昨日のことだ。
ふたつ返事で断ったらしばらく食い下がられたのだけれど、どうやら見知らぬ海賊から攻撃を受けたとかで慌ててエースはそちらへ向かってしまったので、昨日はいつもよりは早めに解放された。
私は断ったのだ。
そんなことは無理に決まっていると、はっきり云ったのだ。
なのに、懲りずにまた誘ってくるとは。
ああ、頭が痛い。
「あのね、エース」
『おう』
「私は海軍。あんたは?」
『海賊!』
わかってるじゃないか。
よくできました、と馬鹿にしたつもりで云ったのに、電伝虫が照れたように目を逸らしたので呆れた。どうしようもない馬鹿だ。
「海軍と海賊が、仲良く見世物見に行くなんて、絶対に無理なの!」
『え、なんで?』
きょとんと返事をされて、何故か私が言葉を失ってしまった。
まさかそんな返事がくるとは。
どこまで馬鹿なのか。
それとも私が間違っているのか。
いや、そんなはずはない。断じて。
「なんでって……」
『別におれは、海軍と一緒に行きたいわけじゃねェけど』
「は?」
思わず間抜けな声が出てしまい慌てたが、エースはそんなことは気にせず、さらりと云った。
『おれは、お前と一緒に行きたいんだよ』
――不覚にも。
この台詞にときめいてしまったことは、一生の恥なので誰にも隠し通さなければならない、と心に決めた。
「っ、馬鹿じゃないのっ!?」
『酷ェなー』
「うるさい、馬鹿じゃなきゃアホよ! 切るからね!?」
『おぅ、じゃあな』
羞恥でパンクしそうだった頭が、一気に冷えた。
拍子抜けした。
いつもだったら、絶対に駄々をこねるのに。
そんな私の疑問を察したのかなんなのかよくわからないが、私の目の前の電伝虫は、満面の笑みで云ったのだ。
『今日はお前の声聞けたら、満足した!』
「・・・・・・・・・」
『じゃ、また明日もかけるからな!』
またな、と朗らかに云って、本当にさっさとエースは電伝虫を切った。
ツー、ツー、ツー。
先ほどまではエースの表情にあわせてくるくると表情を変えていた電伝虫も、今は目を閉じてしまってもう何も云わない。
「・・・・・・・・・」
なんだ、それは。
いつもいつもエースは一方的だ。
毎日毎日電伝虫を鳴らして自分が満足するまで話に付き合わせた挙げ句、勝手に満足して勝手に通信を切ってしまう。
むかつく。
腹が立って仕方ない。
なんで私がこんなことに付き合わなければいけないんだ。
理不尽だ。
不条理だ。
断固として抗議しなければ気が済まない。
明日電伝虫が鳴ったら即座に取って、エースが何かを云う前に抗議と説教をしてやろう、と固く決めたとき、扉がノックされた。
「失礼します、大佐」
「何」
「お茶をお持ちしました」
「……ありがと」
一応直属のこの部下は、非常に気が利く。
面倒な書類の管理は完璧だし、下の管理も行き届いているおかげで私の仕事はいつもスムーズだ。そして給仕係をつけるのを嫌がると、こうしてお茶まで用意してくれる。
彼は部下だけど、頭が上がらない部分があるのも本当だった。
用意されたクッキーと紅茶で一息ついていると、ついつい愚痴めいたことを口にしてしまう。
「あー、もうホント、困ったもんよね」
「火拳ですか」
「そう。ったく、誰が番号教えたんだか!」
クッキーを噛み砕く。甘さがちょうどよくて、さくさくしていてとてもおいしかった。が、たまに歪な形のものも見られるということは誰かの手作りなんだろう。今度お礼とケーキをリクエストしたい。
2枚目のクッキーに手を伸ばしたとき、ちょっと黙っていた部下が云った。
「お口に合いましたか?」
「あ、これ? うん、おいしい」
「僭越ながら、私の手作りです」
「……意外な趣味ね。付き合い長いはずだけど初めて知ったわ」
「恐縮です。ところで大佐」
「ん?」
チョコチップがたっぷり入ったクッキーを食べ終えたところで、さらりと部下が口にした台詞に、思わず硬直した。
「火拳に番号を教えたのは私です」
(なんでだァァァァ!!?)
(駄目と云われなかったので)
(相談もされてないよ! ちょ、もう何それ!? あんた減給!!)
(ではお菓子も作れませんね……残念です)
((え、私脅されてる……?))
◇◆◇◆
電伝虫の受話器を置いて、にんまりと笑う。
今日もあいつの声が聞けた。
本当は直接会いたいところだが、そこはやっぱりサンが口を酸っぱくして云うように、あいつは海軍、おれは海賊、という関係上難しい。
今は仕方なくこうやって毎日毎日電伝虫を鳴らして声を聞くだけでよしとしているが、実はそのうち、きっと毎日は無理でも時折会うことくらいは出来るだろうと踏んでいる。
サンはいつも、自分は海軍でおれは海賊だから、と云う。
だから無理だ、誘うな、断る、と。
けれど、あいつがおれ自身を拒絶したことは、一度だってないのだ。
いつだって立場の違いを説いておれを諦めさせようとするが、それは不毛だから是非諦めて欲しい。
幸いサンの部下は話がわかるようで、去り際にあいつの電伝虫の番号を教えてくれと云ったら、頭の天辺から足のつま先までじろじろと無表情に見られたあと、一枚の紙を渡された。数字の羅列。遠くから『置いてくよ!』と叫ぶあいつをすぐに追いかけて行ってしまったので確認は出来なかったが、次の日不安と期待、両方を抱いて番号をダイヤルすると、あいつの声が耳に届いた。
鳥が唄うような清らかな声。
おれはあいつの眼に心を奪われたわけだけど、声も好きだと思った。
いつまでも聞いていたいと思う、声だった。
それから毎日、おれは電伝虫を鳴らしている。
今までは面倒だし直接話せないのはまどろっこしいからあんまり使わなかった電伝虫が、思わぬ大活躍だ。今後ともいいお付き合いをしたいと思う。
面白い見世物を見つけたのは本当だし、サンを誘いたかったのも本当だが、別におれは本当に見世物を見に行きたかったわけじゃない。
そんなもの、ただの口実だ。
本当は、あいつと一緒に行けるならどこだって、何を見るんだっていい。
あいつと一緒にいられるなら、なんだっていいんだ。
おれたちはまだ出逢って少ししか経っていない。立場の問題もあるし、すぐにお近づきになれるなんて思っていないので、焦りはなかった。ただ、はやくあいつを抱き締めてキスしたい、とは思うけども。
時間はまだある。
口説き落とす自信も、ある。
自分の中にこんな感情があるなんて知らなかった。
おれみたいな人間でも、人を好きになるなんて、思ってもみなかった。
ふと、不安になる。
おれは、誰かを好きになってもいいのだろうか。
この世に疎まれた存在である、おれが、誰かを好きになるのは、もしかしたらとんでもない罪なのではないか。
考え、頭を振った。
知ったことか。
もう遅い。
おれはもう、好きになってしまった。
真っ黒な眼のあいつに、どうしようもないほど心を奪われてしまった。
もう、遅い。
「さぁて」
大きく息を吸い込み、吐き出す。
さて、明日はあいつにどんな話をしようか。そういえば、まだ弟の話をしていなかった気がする。そうだ、明日は弟の話をしよう。大事な大事な、可愛い弟の話を。
そして最後にこう云おう。
「今は、弟よりお前のほうが可愛いと思うけどな!」
きっと目をつり上げて馬鹿じゃないの、と云われるだろうが、あとには諦めたように笑ってくれるに違いない。
たった一度しか逢ったことのないサンの、見たこともない笑顔を想像して、やっぱりはやく会いに行きたい、と思った。
◇◆◇◆
確実に仕事はこなしているはずなのに、減らない書類に殺意を覚える。
何故減らないのかと云えば、一山書類を片付けるそばから新しい山を持ってくる部下がいるからだ。
もう嫌だ。
仕事は嫌いじゃないし、上の立場の人間として行うべき義務だとわかっているが、やれどもやれども終わらない無限ループにはうんざりだ。
逃げたい。
……よし、逃げよう。
気分転換して帰ってきて、それからまた鬼のように溜まった書類と格闘すればいい。
このままうじうじしながら書類と睨めっこしても効率が上がるわけでもないのだから、いっそその方がいい手ではないだろうか。
では善は急げ、適当な紙に書き置きをしてペンを放り投げ、財布だけ持って立ち上が、ろうとした瞬間、丁度ノックされて思わずペンをひっ掴んでしまった。あ、上下が逆だ。
「失礼します、大佐」
「……はーい」
「……どうされました」
「別に」
逃げ損ねた。
ちくしょう。
「何、また新しい書類? 急ぎじゃないなら適当に置いといて」
「いえ、違います」
「まさか召集?」
「いえ、違います」
「じゃあ何」
「お客様です」
「……そんな予定はあった?」
お客様。
もし来客の予定があったなら、他でもない目の前の部下が前もってそれを告げてくるはずだ。
しかしここ一週間の予定を頭の中で呼び起こしても、そんなことを云われた覚えはない。
上の人間がわざわざ私のところまで足を運ぶはずもないし、下の人間がアポなしで大佐である私を訪問するなんて海軍では有り得ない。第一そんな中佐以下がいたら、部下が追い払っている。こいつは意外と上下関係に厳しいのだ。自分は慇懃無礼なくせにね。いいけど。
とにかく、誰だろう。
首を傾げると、部下はスッと扉から中に入ってきて、続いて問題のお客様とやらも、入ってき、た。
「よっ!」
「…………!!??」
「ポートガス・D・エースです」
オレンジのテンガロンハット、素肌に柄シャツにハーフパンツ、そばかすだらけの顔には楽しそうな笑み。
片手をあげて挨拶をしてきたのは間違いなくポートガス・D・エースであり、間違いなく海賊だった。
絶句。
なんでどうしてこうなった。
お客様って云わなかったか。
様って。
少なくとも少しくらい敬意を払うべき人物だから様付けして呼んだんじゃないかっていうかそもそもなんでお前海賊を目の前にして捕まえようとしないわけっていうかこの執務室に来るまでにウチの部下に会わないはずはないんだけど海賊が海軍船を闊歩してて騒ぎにならないとかどういうこと、エトセトラ、エトセトラ。
突っ込みたいことが山ほどありすぎてもう何から突っ込めばいいのかわからない。
とりあえず、なんでだ。
「どうしてもと云うので」
「それで連れて来ちゃうの!? おかしくない!? 海軍としておかしくない!?」
「正直断るのが面倒だったので」
「正直すぎるし職務怠慢すぎるでしょうが!!」
「申し訳ありません」
馬鹿丁寧にきっちり90度頭を下げられて、いろんな気力が失せてしまった。わかってる。真面目で有能な部下に、時折こういう部分が見られることはわかっていた。
が。
これは、どうしたらいいんだ!
「エース!」
「おう!」
「…………っ!」
バンッ、と机に手を叩きつけると、机の端で山になっていた書類がぐらりとバランスを崩して倒れた。処理未処理がごちゃごちゃになった。ちくしょう書類なんか滅びろ。
こっちは仕事詰めでいっぱいいっぱいでまさに今にも逃げ出さん勢いだったのに、出鼻を挫いてくれた客及び敵を思いっきり怒鳴ってなじって出来ればコテンパンにしてやらなければすっきりしない。
と、思ったのに。
――あんまりにも、エースの笑顔が眩しくて。
怒る気力が、根刮ぎなくなった。
「……もういい……」
「何がだ?」
「何もかもよ。で、何か私に用?」
「あ、そうそう」
ハーッとこれ見よがしにため息をついてもエースの反応は変わらない。わかれ。嫌味のつもりなんだから。
そしていつの間にか姿を消した部下よ、お前はあとで覚えてろ。
「この間の話覚えてるか?」
「弟の話?」
「それはそれで大事だけど、その前だよ」
「前?」
云われて、ここ最近のエースの話を思い返す。
確かこの一週間の電伝虫の内容は毎日弟自慢だった気がするのだけれど。
その前。
「……ああ、見世物?」
そういえば、そんな話をされた気がした。
思いっきり断った記憶があったが、弟自慢話が印象強すぎて忘れていた。
「そう、それだよ!」
「それが何?」
「行こう!」
「……はい?」
耳を疑った。
今、なんて云った?
「そのキャラバンが今日で他の島に移動するらしいんだ。千秋楽、一緒に行こうぜ!」
「はぁ!?」
「今から行けばまだ間に合うんだ! ほらはやく!」
「ちょ、ちょ、ちょっとエース!」
呆然としていると、いつまでも動かない私にしびれを切らしたのか、エースは近付いて来てさっさと私の腕を掴んで立ち上がらせた。ちょっと。何、ホントに何この状況。
何となく抵抗することも出来なくてされるがまま立ち上がったところで、ふとエースの視線が机に向いた。あ、一応これ軍事機密満載の書類なんだけどヤッベェ見られちゃったよと焦ったのはどうやら杞憂だったようで、エースが見つけたのは、先ほど逃げるつもりで書き置きした紙だった。
「『探さないでください。明日には戻ります。サン』」
「あっ、それは……」
「……なんだ!」
途端、パッとエースの顔が輝いた。
何故だ、と思ったが。
「ちゃんと一緒に行ってくれるつもりだったんだな!」
「ちッ、ちっがァァァァうゥゥ!!!」
勘違い、思いっきり勘違いだ。
確かに私はここから逃げ出して気分転換には行こうと思ってたけど、別にエースに付き合うつもりはさらさらないのに。
タイミングが悪かった。最悪だった。
「さ、行こうぜ! いやぁ、楽しみだなー!」
「違うんだってば、もー!」
「急ぐぞ、ほら」
「あ、えっ!?」
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
急ぐぞと云われて腕を掴まれて、ぐいっと引き寄せられて。
気付いたら、いわゆる、お姫様抱っこされていた。
「……や、やだ馬鹿下ろしてよーッ!?」
「走るぞ、口閉じとけよ」
「人の話を聞、あぅっ」
よいしょとしっかり私の身体を抱きかかえたエースは、云うやいなや猛然と走り出した。扉は蹴破っていた。誰があの扉の修理すると思ってんだ。あ、部下か。ならいいか。
って、そうじゃなくて!
いきなりだったのでエースの忠告も虚しく思いっきり舌を噛んでしまい、かなり痛くて泣きそうになった。ああもう、なんでこんなことに。
横抱きにされたままダッシュされるというのは意外と怖いもので、思わずエースの首にすがりついた。すると、驚いたように大きく目を見開いたあと、エースはにんまりと笑った。
「お、嬉しいことしてくれるねー」
「うるっさい馬鹿、はやく下ろしなさい!」
「ストライカーについたらな」
「今すぐによ!!!」
「駄目ー」
なんて叫びながらもずんずんエースは走り、当然のことながら仕事中の私の部下に何人もすれ違った。
おい。
誰一人として止めようとしないのはどういうことだ!
あまつ、あんまり遠出しないでくださいよー、って、何で私とエースが一緒にいるというかエースに運ばれているこの状況に対しての突っ込みがないっておかしくないのか。
よく見るとすれ違う部下は行ってらっしゃーいと手を振っているではないか。
おかしくないか。
おかしいだろう。
なんて考えているといつの間にかエースの小船、ストライカーに到着していた。そこに来てやっと私を下ろしたエースは、早速出発準備を始めている。
なんでだ。
どうしてだ。
頭を抱えていると、ふと影が落ちてきた。ストライカーから上を見上げれば、甲板で掃除をしていたらしい部下たちがこっちを見下ろしていた。
そして。
「大佐ー、お土産よろしくでーす」
「ふざけんなァァァァ!!!!!」
「よし、準備完了! こいつ借りてくからなー!」
「あんたはどこまで自由なの!?」
「火拳ー、大佐のこと頼んだぞー!」
「頼むなァァァァァァァァ!!!!!!!」
私の叫びも虚しく、ストライカーは動き始めてしまった。
こうなるともうどうしようもない。
一応能力者である私はカナヅチなのだ。
泳いで船に帰れない以上、ストライカーに乗っているしかないではないか。
どんどん小さくなる私の船。
船上から手を振る部下。お前ら全員海に落ちろ。
「……はぁ……」
ちらりと、エースを見ると、やけに上機嫌に鼻歌なんぞ歌っている。ひとりだけ余裕をかましていて、腹が立つ。
むかついたので手を伸ばし、思いっきり鼻をつまみ上げてやった。
「んがっ!? な、何すんだよ!?」
「別に」
「おー痛ェ……美形が台無しになっちまうぜ」
「鏡見る?」
「お前、意外と辛辣だよな」
「そりゃどーも」
「はは、そういうところも好きだけど」
――呼吸が。
止まりそうになった。
「……何云ってるの」
手を離して、顔を背ける。
見られたくない。
今の、きっと動揺しきっているこんな顔を、海賊なんかに。
海軍の敵に、こんな情けない顔を、見られたくない。
「笑えない冗談、やめてくれない」
「それ、初対面のときにも同じこと云われた」
覚えている。確かに云った。
七武海に誘ったら、断りの返事と一緒に逆におれの仲間にならないかと云われ、私は次の瞬間にはエースの首に愛刀の先端を突きつけていた。
――本当は。
殺すつもりだったのだ、あの時。
あの時ほんの少し力を込めれば、エースを殺せた。
でも、殺さなかった。
……否。
殺せなかった。
私を見るエースの眼に、引き込まれてしまったのだ。
殺されて当然の場面で尚恐怖など感じないように不思議そうに私の眼をのぞき込んでくる、真っ直ぐなその眼に。
私は、惹かれた。
だから、殺せなかった。
本部への報告書は適当に書いたけど、特に仔細説明は求められなかったので納得されたのだろう。
一応は、エース捕縛の全権は今私にある。
本当ならば捕まえなければならないのに、何故かそんな気になれなかった。
嫌だった。
エースを捕まえたくなかった。
――どうして。
自問して、出てきた答えには気付かない振りをした。
認めない。
認めたくない。
認められない。
だって、私は海軍で、エースは海賊なのだから。
「まぁ、今はそれでもいいよ」
「……何が」
しばらくの沈黙を破ったのはエースの方だった。
そして、バツが悪くてエースを見ることが出来ず、座り込んで前を見ているしか出来なかった私の耳に飛び込んできた言葉に思わず固まった。
「そのうち絶対、サンはおれを好きになるから」
何を云っているんだ、この馬鹿は。
何を根拠に、そんな自信満々にそんなことが云えるんだ。
「……ホント、笑えない」
「えー、笑ってくれよ。おれまだサンの笑顔見てない」
「……そんなもの見たいの?」
「見たい!」
そんな子供みたいに云われても。
でも。
なんだかエースと話していると、海軍だとか海賊だとか、立場にこだわったことばっかり云ってる自分が、馬鹿々々しく思えてきてしまった。
ああ、もう。
「じゃあ」
――馬鹿なのは、どっちよ。
「はやく、私を夢中にさせなくちゃね」
(ところで今日のお金は全部エース持ちね)
(全部!?)
(当然)
((やべー、手持ち足りるかな……))
(ちなみに私、結構食べるからよろしく)
(!?)
◇◆◇◆
見世物を一緒に観に行ったあの日以来、エースはちょくちょく私のもとを訪れた。
やれ食事に行こう、やれ買い物に行こう、やれ珍しいものを見つけたから見に行こう、やれ何だかんだ。
ネタには事欠かないようで、こっちが必死に書類と格闘している姿を見て何も思わないのか、ノックもそこそこに執務室に入ってきては出掛けようと誘う。
お前の目にこの山のような書類は見えないんですか。
いや、きっと認識出来ていないのだろう。
エースも一応スペード海賊団の船長を勤めているのだから、多かれ少なかれこういった書類仕事はあるはずだが、この様子ではほとんど放り投げているに違いない。副船長と航海士の苦労が目に見えて、少しだけ同情した。
そして今日も今日とて、エースはやって来る。
「よっ、サン! 飯食いに行こうぜ!」
「断る」
「なんで!?」
「仕事があるから」
「終わるまで待ってるって」
「帰れ!」
「嫌だ!」
これもまた、いつもの会話。
私がいくら仕事をしても書類は減らないんだと以前軽く愚痴めいたことを漏らしたことがあるのに、終わるまで待つなんて云ってくれるじゃないか。終わったらどんなにいいか! この机の上が綺麗サッパリ片付いたことなんて私が大佐になってから一度もないんだよ、馬鹿。
一向に出て行く気配のないエースにでっかいため息をつき、仕方がないのでとりあえずきりの良いところまでは終わらせよう。
そのあとのことは、そのあと考えよう。
諦めじゃない。悟りだ。
痛む頭を押さえながら、ぐったりと再び私はペンを動かした。
* * * * *
私とエースが初めて会った日から、約半年が過ぎていた。
時が流れるのは意外とはやいものだと実感する。まだ一か月くらいしか経ってないような気がするのに。
しかし、まだそんなものかとも思う。実はもう2、3年くらい経ってるんじゃないかと錯覚しそうになるのは、多分エース三日と空けずに何らかの接触を取ってくるからだろう。電伝虫しかり、直接やってくることしかり。
慣れとは怖いもので、いつの間にか自分でもそれが当たり前に思えてくるのだ。
普段鬱陶しいほど頻繁に電伝虫を鳴らすくせに、たまにぷっつりと連絡が途絶えたりすると、電伝虫が鳴るたび、扉がノックされるたびにハッとしてしまう。当然エースではなくて、ここは海軍の軍船なのだからむしろ今までがおかしかったはずなのに、エースではなかったことに違和感を覚えるのだ。
なんだ、と。
少しがっかりしている自分に気付いて、慌てた。
そんな馬鹿な。
どうしてがっかりしなきゃいけないんだ。
むしろ喜ぶべきだ。
はかどる仕事、万歳。
でも何だか無性に腹が立ったので、一週間後にひょっこりと顔を出したエースにはネチネチとした嫌がらせをしてやった。紅茶にタバスコを混ぜたりクッキーにチョコに見せかけたソースをかけてやったり。
人でなし、と涙目になって騒ぐエースを指差して大笑いしてやってから、私は一体何をやっているんだと馬鹿々々しくて我ながら呆れた。子供じゃあるまいし。
半年。
短いようで長くて、長いようで短い月日。
この半年で、私はエースとふたりでいろんなところに出歩いた。
悔しいが、私は今まで任務以外で島を歩くことがほとんどなかったので、エースの案内で降り立つ島はどこも楽しかった。
美味しいご飯屋さんや綺麗なアンティークショップ、怪しい裏路地に紛れ込んだ穴場のバー。
どれもこれもが新鮮で、仕事ばかりだった私には何もかもがキラキラして見えた。
本当に、腹が立つけど。
強引で傍若無人の身勝手に見えるエースのこういうところに、私は救われているのだ。
私は海軍で、エースは海賊なのに。
こんなの、おかしい。
でも、驚くほどにエースの隣は居心地が良くて、本気で突っぱねることが出来ずに今日まできてしまっていた。
今日こそは、と毎日思っているのに、いざエースを目の前にすると、結局いつも仕方がないと思ってしまう。
「……あーあ」
「どうした?」
「自分の人生の在り方について考えてたの」
「へー、そりゃまた大変な」
当たり前のように用意されたお茶に手を伸ばしながら、心にもない相槌を打つエースに殺意が芽生えた。爆発しろ。全部お前が原因なんだよ。
ていうか、何故本当にうちの部下たちは普通にエースを船内に通すのだろう。お茶までしっかり用意するし。
おかしくないか。
なんでお客様対応なの。
エースは海賊なんですけど。
なんで誰も捕まえようとしない上に朗らかに挨拶とかしちゃうの。
そして毎回誘拐される私を助けようとしないのはなんでなの。
「……あー……」
「ため息ばっかりついてると幸せ逃げるぞ」
「うっさい諸悪の根元」
どの口が云う!
駄目だ、これ以上このことについて考えていたら鬱になる。書類とお見合いしていたほうがましだ。
止まっていた手を動かし、書類に目を通す。
ちらりと山を見ると、エースの妨害さえなければ一時間程度で区切りのいいところまでは終わりそうだった。
ただ、今まで仕事中にエースの妨害――本人にそんなつもりはなくても、こっちからすれば立派な妨害だ――を受けなかったことがないのでどうなるかわからないが。
「……とりあえず、一時間待ってて」
考えても仕方ない。
やろう。
気を取り直して、ペンを動かした。
* * * * *
気付いたら、机にあった書類のほとんどにサインがしてあった。
相当集中していたようで、まったく記憶がない。
ちょっと怖くなったのでざっと処理したらしい書類に目を通したけど、どうやら不備はないようでホッとした。
あれ、この机ってこんなに広かったのか。今までどんだけ膨大な書類が乗っていたのか考えてうんざりし、ようやっとそれを片付けたことに安心して一気に脱力した。
ばたん、と机に突っ伏す。ああ、広い机、万歳。腕が伸ばせるって素晴らしい。
集中が途切れた途端身体というのは正直で、ぐぅ、とお腹を鳴らして空腹を訴えてきた。ああ、恥ずかしい。いくら自分ひとりしかいない執務室とは云え――ひとり?
ガバッと。
起き上がって来客用のソファを見て。
「お疲れさん」
「…………!!」
忘れてた。
エースが来ていたのだ。
しかも、一時間待ってと云って待たせていたのだ。
急いで時計を見ると、エースが来てからすでに三時間が経っていた。
つまり、私は予定より二時間も、きっと何の説明もなく待たせてしまったわけで。
「っ、ご、ごめん!」
いくらなんでもこれは酷い仕打ちだろう。私だったら絶対に怒るし、途中で帰る。
でも、エースは怒らなかったし、帰らなかった。
思わず立ち上がって叫んだ私を見て、エースはいつもと同じようにニカッと笑った。
「いいって。終わるまで待つって云っただろ?」
「でも」
「待ちたかったんだよ、おれが」
だから気にすんな。
そう云ってエースは笑う。
どうして、怒らないんだろう。帰らなかったんだろう。
どうして、こんなに優しいんだろう。
私は全然優しくしてあげられないし、何もしてあげてないのに。
――エースは、優しすぎる。
「……ごめん」
申し訳なくてエースの顔がまともに見られなくて、俯いて呟いた。
やばい、泣きそうだ。
ツンとしてきた鼻の奥に必死で頼むから涙は出てくるな、と訴えていると、ソファからエースが立ち上がる気配がした。
いよいよ帰るのだろう。
ああ、もう。
――それを寂しいと思うなんて。
ギュッと拳を握り締めて、唇を噛んで。黙ってエースが出て行くのを待っていると。
ぽん、と。
頭に、大きな手が乗った。
驚いて思わず顔を上げれば、いつもの笑顔のエースがいて。
息を、飲んだ。
「おれ、サンが仕事してるときの眼が好きなんだよ」
「……え?」
「だから、ずっとサンの眼、見てたら飽きなかった」
あと二時間でも余裕だぜ、なんてあっさりと云うから、私は顔が熱くなって来るのを抑えきれなかった。
何、それ。
何それ!
「、馬鹿っ!」
「なんだよ、ホントのことなのに」
「うるさい、もう! 行くよ!」
「どこに?」
どうせバレバレだけど、真っ赤になった顔を見られたくなくて、照れ隠しに頭に乗ったエースの手を振り払って扉に向かう。
一応エースは空気を読めるので、無駄に茶化したりしてこないのが救いだった。今からかわれたりしたら、爆発するかもしれない。
上着だけをひっ掴んで扉に足を向けて云えば、エースはきょとんと間抜けな声を出した。
おい。
「……あんた、今日は何しに来たの?」
「え? 飯誘いに……って、えっ?」
いや、確かに今までの私の言動を考えたら、予想出来なかったかもしれないけど。
「……だから、はやく行こうってば」
こんなに驚かれると、居心地が悪い。
口を開けて間抜けに固まるエースに早口に云って、動き出す気配のないエースを置いてさっさと部屋を出た。
慌ててあとを追ってきたエースは、嬉しさを抑えきれないという顔をしていた。
「えーと、サン腹減ってるよな! さっき腹鳴らしてたし」
「忘れて」
「だったら屋台ならすぐ出てくるから、うまいおでん食いに行こう!」
「……エース」
「ん? 何だ?」
隣を歩くエースは、考えてみるといつもずっと隣を歩いてくれる。
身長差があれば当然コンパスの差もあるのに、エースはいつも私の隣を歩く。
合わせてくれているんだ。
それに気付いたとき、心臓がざわざわして落ち着かなかった。
嬉しい。
たったそれだけのことが、嬉しくて。
でも、私は海軍でエースは海賊だから、そんなこと素直に云えなくていつも冷たく当たってしまうのに、エースは変わらず私に会いに来る。
今日みたいなことがあっても、きっと変わらずに会いに来るんだろう。
そして、何でもない顔で私に合わせて歩くのだ。
「……何でもない」
「そうか?」
「うん。……あー、お腹空いたー」
「じゃあ超特急で飛ばすぞ!」
「私が振り落とされない速度にしてよね」
「まかせとけ!」
どんと胸を張るエースに一抹の不安を覚えたが、何だかんだでエースが私を振り落とすなんてありえないからため息ひとつと肩を落として足を進めた。
結局は、こういうことなのだ。
悩んで考えて足掻いて否定したくても意味はない。
私は、結局エースを受け入れてしまうのだ。
多分、今後もずっと。
◇◆◇◆
サンが書類に向かってしまい、一切何も話さなくなってからすでに二時間が経過した。
予定というか、サンが云った時間より一時間オーバーだ。
すっかり冷めた紅茶を飲みながら、さてどうしたものかと考える。
サンは真面目で真っ直ぐだ。だから、わざとおれを放っているわけではないと思う。
なんていうか、多分サンはおれをとことん無視すると決めたときは、事前に云ってくる気がするのだ。『悪いけどしばらく無視するから、よろしく』とか、そういうことを。
律儀というか馬鹿真面目というか、まぁ、そんなところも本人は真剣だから可愛くて仕方ないんだけど。
ソファに背中を預けながら、サンを見る。
真っ黒な眼はひたすら下を向いており、手は忙しく動き続けている。
疲れないんだろうか。
ちょっと疑問に思ったが、恐らく疲れを感じないほど集中しているのだろうと気付いた。
その証拠に、部下がノックをして扉を開けても見向きもしなかった。
代わりと云ってはなんだが、軽く頭を下げて入ってきた部下、ええと確かブランって云ったかな。とにかくその部下に手を挙げて挨拶をした。
「よぉ、お疲れさん」
「ああ。大佐は・・・集中されているようだな」
新しい書類をサンの机に置き、処理済みの書類の束を持ち上げてからブランは俺が座るソファの前に立った。
座らないのか、と指差して問うと首を横に振る。上司の許可なく休むのは御法度なのだろうか。そのあたり、軍内事情はよくわからない。
無理に勧めるつもりも権限もないので軽く肩を竦めると、ブランが静かに云った。
「どれくらい待った」
「ん? もう二時間くらいかな」
「帰らないのか」
「一時間待てって云われたんだよ」
「……一時間、更に過ぎているぞ」
「そうだなぁ」
笑ってみると、ブランはいつ見ても無表情なのに、珍しく眉間に皺を寄せて俺を見た。
一見、不機嫌になったようにも見える。
が、違う。
純粋に、疑問に思ったんだろう。
そりゃそうだ、と納得する。おれだって、相手がサンじゃなきゃ五分待たされた時点で帰るなりなんなりする。そもそも、頼まれたって一時間も待たない。
けど。
サンが、待てと云ったのだから。
「……大佐は」
少し考えるようにゆっくりとまばたきをしたあと、ブランはぽつりと云った。
「こうなると、まだしばらくは仕事を止めないぞ」
もしかしたらもうすぐ終わるかもしれないし、まだまだ終わらないかもしれない。
どうやらブランはおれを気遣っているようだ。
あとは、サンのフォローか。
決してわざとおれを放っているわけではない、サンは一旦集中するとなかなか集中力が切れないから、そのせいなのだ、と。
ありがたいことだった。
ブランは、最初からどちらかと云うとおれに協力的だった。
あの状況でまさか本当に電伝虫の番号をくれるとは期待していなかったのに、少し値踏みされただけですんなりとくれたし、初めてこの船に来たときも、サンに会いたいと云ったらあっさり会わせてくれた。
何故、と疑問に思わないわけはない。
でも、ありがたいので今は何も云わず好意に甘えている。実際、ブランがいなければおれは今こうしてサンを待つこともなかったのだ。
いつか何かお礼をしなくちゃなぁとぼんやり思いながら、おれは云う。
「おれさぁ」
視線は、サンへ。
相変わらず机の上の書類だけに目を走らせるその姿に、思わず笑顔が零れた。
「サンの仕事してるときの眼が、好きなんだ」
「…………」
「だから、こうやってただサンを見てるだけで、十分楽しいし満足なんだよ」
一時間だろうが、二時間だろうが、五時間だろうが、もっと長い時間だろうが。
俺を待たせているのがサンで、目の前にサンがいる以上、不満になることはひとつもない。
むしろ、特等席でサンを見ていられるのはこれ以上ない幸せであるようにも思える。
大好きなサンの眼が書類しか映さないのは若干不満ではあるが、おれは無機物に嫉妬するほど堕ちてはいない。大丈夫、寛容だ。懐が広い男はモテるって聞いたことがある。
「それに、サンは一時間でも待てって云ったんだ」
「……だから?」
「つまり、付き合ってくれる気はあるってことだろ?」
本気で付き合う気がないなら、サンは絶対にそんなことを云わない。
はっきりと、仕事が終わらないから今日は無理だ、と真っ直ぐにおれの眼を見て云うのだ。申し訳なさそうに、眉を下げて。
最初から突っぱねるように無理だと云うときは大抵粘れば付き合ってくれるが、ちゃんと言葉を考えながら云われるときは、本当に無理なんだとわかるのでさすがにそこはおれが折れる。
何だかんだ云ってもサンはおれに甘いと思う。
それがどういう意味なのか、まだはっきりとはわからないけど、嬉しいことには変わりない。
「……火拳」
「ん?」
サンから目を離さず返事をすれば、ブランは淡々と云った。
「私たちは……この船の人間は、大佐に大恩がある」
「…………」
「大佐のためなら、大佐のためになるならなんでもやる。それが例え、海軍としてあるまじきことであろうと」
黙って聞いた。
相槌は求められていないような気がした。
ブランは続ける。
「私たちは、大佐が幸せになるならすべてそれでいいと思っている。世界なんか知ったことか。それを云うなら大佐が世界だ。私たちの存在理由だ。大佐だけが私たちを、救ってくれた」
無表情だが無口な男ではないと思っていたが、ブランがこんなに話すのを初めて見た。
顔はサンに向けたままちらりと視線をブランに向けると、ブランもまたサンを見ていた。
愛おしむような、慈しむような。
優しい、表情だった。
「だから、私たちはお前に協力する」
「……いいのか?」
「何がだ」
「おれは海賊なんだぜ?」
「そうだな」
「なら、」
「云ったはずだ」
そこで漸くブランはおれに視線を移し、目が合った。
思慮深そうな灰色の眼は、静かに語る。
「私たちは、大佐が幸せであればいいんだ」
灰色の視線をひたりと受け止めながら、ああ、サンは幸せ者だな、と思った。
こんなに自分のことを考えてくれる部下に恵まれている。
きっとこいつらは、例えばサンが世界を敵に回しても最後までサンの味方でいるんだろう。
心強いじゃないか。
自分の好きになった人がこんなふうに慕われていると知って、嬉しくないはずがない。
思わず顔の筋肉が緩んだが、ふと今なら訊ける気がした。
ずっと疑問ではあったこと。
そう、何故おれなのか。
「なぁ、ブラン」
「なんだ」
「なんでおれなんだ?」
何度も云うが、おれは海賊だ。
サンは海軍なんだから、おれみたいなやつじゃなくても、軍内にはいい男がそれなりにはいるんじゃないかと思う。いや、勿論おれを選んでくれるのは万々歳、願ったり叶ったりなわけだが、疑問には思う。
するとブランは、ああ、とひとつ頷いた。
「大佐はお前を殺さなかっただろう」
「……ああ、あの時」
「そうだ。それが、答えだ」
「…………」
「他に何か訊きたいことは?」
あの時。
おれとサンが初めて出逢った時。
殺されてもおかしくなかったあの状況で、しかしサンは刀を引いた。
自分が殺す価値はない、と云って、おれに背を向けた。
強いと聴き及んでいたおれがあっさりと首元を許したので失望されたのかと思っていたのだが。
どうやら、違ったらしい。
「……いーや」
「そうか。……火拳」
考えて、にやにやとしてしまう自分の顔を叱咤していると、改めてブランがおれを真っ直ぐに見た。
その眼があまりに真剣だったので、思わず居住まいを正してしまった。
「大佐を哀しませたら、許さんぞ」
それだけ云うと、ブランは新たに処理を終えた書類を重ねて持って、さっさと部屋を出て行った。
えーと。
それは。
考えろ、今の台詞の意味を。
気付けば喉がカラカラだった。冷めた紅茶を一気に飲み干し、喉を潤す。少し苦かった。
腕を組んでサンを見る。相変わらずひっきりなしに書類に手を伸ばしており、まだまだ終わりそうになかった。
「…………」
引く気など、毛頭なかったが。
これは、頑張ってもいいと云うことなのだろうか。
しかも、サンの部下直々の援護射撃の保証付きで。
――心強いじゃないか。
自然と、頬の筋肉が緩んでしまうのはもはや仕方ない。どうせサンはこっちを見やしないんだから、この緩みきった顔を見られることもないし。
「……参ったな」
にやける、にやける。
前屈みになって肘を膝にくっつけて、両手を組んで口元を隠す。
視線はサンに固定して、改めて仕事に没頭するサンを見つめる。
軽く伏せられた瞳。長い睫毛が不摂生な生活をしている割には滑らかな肌に影を落としていた。
綺麗だ、と思う。
やっぱりサンは、綺麗だ。
今まで会ったどんな女とも比べ物にならないほど、サンは綺麗だ。
諦めなくてもいいのだ、と思うと、俄然やる気が出てくる。
チラリと時計を見ると更に三十分が過ぎていたが、帰るつもりはさらさらない。
では、黙ってサンの仕事顔を拝ませていただくとしよう。
イレギュラーに長時間待機をしている身には、これくらいの贅沢は許してほしい。
改めて、再認識する。
「おれ、サンのこと、好きだな」
この呟きもきっとサンの耳には届いていないのだろうから、あとでちゃんと云ってやろう。
多分、顔を真っ赤にして馬鹿じゃないのと騒ぐに違いない。
そんなサンの姿が簡単に想像出来て、思わず噴き出した。
本当に、なんて可愛いやつだろう。
それから三十分後、盛大な腹の音と共に仕事を終えたサンが呆然と見て大慌てするのは、サンの顔を眺めて満足している今のおれには預かり知らない話である。
◇◆◇◆
私の非番の日の過ごし方といえば、大抵だらだらと9時くらいまで寝て、だらだらと起きて一応の身支度をして、でも執務室に行く必要はないからベッドの上でごろごろしながら本を読んだりおつるさんにやってみろと云われた編み物とかパッチワークとかをやってみて自分の不器用さに絶望したり無駄に細かい1000ピースパズルに挑戦してみたり、やっぱりぐったり昼寝をしたり。
ご飯は朝はブランが毎日決まった時間にサンドイッチとサラダとコーヒーを部屋に置いていくのでそれを食べるけど、昼は気が向いたら、夜だけはうちの船は全員揃って食べることにしているので食堂に行く。
まぁつまり、非常にだるんだるんな生活をしているわけで。
どうせ非番なんかたまにしかないんだから許してくれ。前に一度部屋でだらだらしているところを、たまたま用事があって私を訪ねてきたブランに見られて無言で呆れられたことがあるけど、いいじゃん、たまにだよ。いつも仕事詰めなんだから、たまにはだるんだるんしないといつか爆発しちゃうよ。物理的な意味で。
とまぁ、結局何が云いたいのかというと。
「なんで」
本日の、私。
片手には二段アイス。
片手にはカラフル且つファンシーなパンフレット。
「……なんでだ!」
――なにゆえわたしはこんなところにいるのか!
「おーいサンー!」
声のしたほうをギッと睨みつけると、わかっていたけど予想通りの人物がアホみたいに楽しそうな笑顔で手を振って走り寄ってきた。犬め。いや、犬のほうがずっと可愛い。比べてごめん、犬飼ったことないけど。
「これ絶対サンに似合うと思って!」
「似合うかぁ!!!」
キラキラと笑顔を輝かせて差し出してきたのは、カチューシャ。ただし普通のカチューシャではない。
装飾品として、猫耳、がついているものだった。
思わず叫んで、今にも私の頭にそれを乗せようかというエースの手をひっぱたいた。冗談じゃない。子供じゃあるまいし、そんなファンキーなカチューシャをつけて人前を闊歩する勇気は私にはない。
「えー」
「えーじゃないよ! なんでこんなとこ連れてきたわけ!?」
「だって今日非番だったんだろ?」
「答えになってないしなんで知ってるし!?」
「ブランに聞いた」
「あの野郎ゥゥゥゥ……!!!」
思わず手に持っていたアイスを握り締めそうになり、パリッとコーンが少し砕けた。危険だ。せめてカップにすればよかったのに。ちなみに反対の手に持っていたパンフレットはぐしゃりと握り締めてしまった。作った人、ごめんなさい。でも私は悪くない。
私を売った部下にこれ以上ないほどの憤りを感じる。仮にも海軍大佐、己の上司の情報を海賊に売るって、これ大問題だと思うんだけど。
叩き落とした猫耳カチューシャを拾い上げながらエースは未練たらしく私を見ていたが、もう一睨みしたら漸く諦めたようだ。近くにいた幼女が物欲しそうにその猫耳カチューシャを見ていたので、気前よくあげていた。私に渡すよりもずっと有意義だろう。
嬉しそうにカチューシャをつけて手を振りながら走り去る幼女に手を振り返しながら、とりあえず溶けそうになっているアイスに口をつけた。
ここは"新世界"のとある島にある可愛らしい動物をモチーフにしたテーマパーク、いわゆる遊園地だ。
遊園地というと子供の遊び場というイメージがあるが、ここは老若男女が楽しめるようなアトラクションが数多く設置されており、今大人気のお出かけスポットらしい。エースは『大人気のデートスポット』だとか抜かしてたけど、こんなのはデートではない。断じて。
エースの云うように、今日私は実にひと月振りの非番だった。ここ最近、遅れるわけにはいかない重要な書類や大事な会議が重なりに重なって、寝る間も惜しんで働き詰めていたのだ。
だから、今日は本気で1日部屋でだらだらしていようと思っていたのに!
まだ薄暗いような時分にいきなりエースはやってきて、寝ぼけ眼の私にこれを着ろと云って服を押し付けてきた。裾に複雑な蔦のようなものが刺繍されたシンプルな若草色のワンピースと、つま先に可愛らしい花のコサージュがついた桜色のパンプス。間違っても私はこんな服は自前で持っていないのだが。どこから持ってきたのか、そして何故サイズがぴったりなのかはあとで追及すべき点だと思う。
それから訳も分からないままとりあえず云われた通りに着替えてしまった数時間前の自分をはり倒してやりたい。
無視して二度寝すればよかった。
そしたらこんなことにはならなかったかもしれないのに、と思うのはもう遅い後悔だ。しかしだからといって仕方ないと割り切れるほど私は潔くない。腹立たしい。
着替えを終えたのと同時にまた部屋に入ってきたエースは、有無を云わさぬ笑顔で私を抱き上げ、いつものようにストライカーに向かった。おいおいちょっと私スカートなんですけど、という抗議は、ちゃんと押さえてるから大丈夫だという全く大丈夫じゃない返事ひとつであしらわれた。いや、別にパンツのひとつやふたつ、部下に見られたところで何とも思わないけどね。なんとなくそこは女子として抗議しとくべきだと思っただけなんだけどね。
ともかく、寝起きでまったく働かない頭は逆らう、抵抗するということをすっかり忘れてしまったようで、私はエースに連れられるままこんなところまでやってきたわけだった。
デートだ、とエースは主張するけど。
過程を考えろ。
誘拐だろう、これは。
相も変わらず一切私を助けようとしない部下たちの減給を本気で検討したい。
「はー……」
吐き出したため息は、思った以上に重かった。
アイスも半分溶けかかっているし、パンフレットはぐしゃぐしゃになったし、最悪だ。しかも溶けかかったアイスは殺人的に甘くて、空きっ腹にいきなりこれはキツかった。そもそも二段もいらないよ。どうしたもんか。と考えていると。
「サン、そのアイスいらねェのか?」
「んー、うん。もういらない」
「じゃあ、くれ」
「どう、」
ぞ。と。
差し出したアイスは、エースの口に届いた。
アイスを持った私の手を、エースが上から包み込むように掴んで、そのまま自分の口元に持って行ったのだ。
呆然と、ああ、やっぱり男の子だな、私よりずっと手が大きいや、ていうか伸ばしたままの手がちょっと手が辛いし溶けたアイスが手に垂れてきたし、とどこかふわふわした頭で考える。
舐めるなんてまどろっこしいことはせずにかじって食べられたアイスは、いつの間にかもう食べ終わっていた。
状況は把握出来ているのに、頭が処理しきれていない。
が。
私の手に垂れたアイスに気付いたエースが、何の躊躇いもなくベロリと舐めた瞬間、色んなものが、弾けた。
「ッ、ななな何すんのよっ!!?」
「何って、アイスが垂れてたから」
「だ、だからって舐めなくてもいいでしょう!」
「あ」
そっか、拭けばよかったんだ。
なんて本当に今気付いたように云うから、私はそれ以上何も云えなくなってしまった。
今のは私をからかったわけではなく、素だったらしい。天然て怖い。
身体中の熱が全部顔に集まったみたいな錯覚。どうしよう。今絶対顔が赤い。顔と云わずに耳も首も赤い気がする。
いつまでも掴まれたままだった手を思わず振り払い、思いっきりエースから視線をずらした先には先ほどエースが猫耳カチューシャをあげた幼女がいた。不思議そうに首を傾げて私を、私たちを見ている。
そして漸くハッとした。
ここは遊園地の中の休憩エリア。
そんなたくさんの人が集まる場所で、こんなことをやっていた私たちは。
――当然、注目の的だった。
「…………!!!!」
次の瞬間。
私はエースの手を掴んで、休憩エリアからダッシュで逃げ出した。
◇◆◇◆
溶けたアイスが垂れてベタベタになった手が気持ちが悪かったので、私は今お手洗いに来ていた。
冷たい水で手を洗うとさっぱりしたけど、なんだか熱い気がする。
タオルで手を拭く。
やっぱり、熱い。
だって、エースがいけないんだ。
わざとじゃないとはいえ、あんな風に、手を舐めるだなんて。
ざらりとした舌の感覚と、生暖かさ。
いくら手を洗っても、消えてくれない、忘れることができない感覚。
思い出すだけで背中がぞくぞくして、また顔が熱くなってきてしまう。
勘弁してほしい。
収まれ、暴れる心臓。
ぶんぶんと頭を振って、冷たい水でバシャバシャと顔を洗った。当たり前だけど冷たい。
思いっきり水をすくったので、せっかくのワンピースにまで水がはねてしまったけど、まぁ乾くだろう。今日はいい天気だ。
タオルで顔を拭いて、漸く頭がすっきりした。思い出すとまたワーワーってなるけど、さっきよりはずっとましだ。
鏡に映った私は、自分で云うのもなんだけどそれなりには整った顔をしているとは思う。
けど、私より美人な人はそこらじゅうにたくさんいる。
なのに、エースは私がいいんだ、と云う。
なんでだろう。
わからない。
そもそも私たちはたった一回、しかも平穏とは云いがたい場で海軍と海賊として出逢っただけだったのに。
どうしてエースが私なんかを好きだと云うのか、わからない。
ジッと鏡を見つめても、答えなんて出てこない。ため息がこぼれた。
もう一度、頭を振る。
わからないものは、いくら考えてもわからないのだ。
そう悟った私は、大きく深呼吸をしてから両手で頬をパンッと叩いて気合いをいれた。
仕方ない。
後悔しても、もう私はエースとここに来てしまったのだ。
本当だったらだらだらするはずの貴重な非番だけれど、こうなってしまったからには楽しまなければむしろ損だろう。
それに実は、遊園地なんて初めて来たのだ。
冷静になって考えてみると、ラッキーだっかもしれない。ちょっと過程が気に食わないけど。
うん、そうだ。
こうなったら、目一杯楽しんでやる。勿論全額エースに奢らせる。
こういうのは、楽しんだ方が勝ちだ。
諦めじゃない。開き直りだ。
よし、とひとつ気合いを入れて、お手洗いを後にする。いつまでもこんなところでくすぶっていても、何にもならないのだから。
お手洗いから出て辺りを見回す。エースを待たせていたのだ。
良くも悪くも目立つ格好だし目立つヤツだし、すぐ見つかるだろうという予想は間違っていなかった。
オレンジのテンガロンハットに人懐こい笑顔。エースは、客観的に見ても格好いい。
しかしエースを見つけたのと同時に、ひくり、と肩頬が引きつったのを自覚する。
お手洗いからほど近いベンチに寄りかかって私を待っていたエースの周りには、肌の露出がいろいろとギリギリなセクシーなお姉さんが数人、いたのだ。
よく見るとひとりはエースの腕に自分のそれを絡ませて、豊満なバストを押しつけている。
もうひとりは後ろからエースの肩に手を乗せて甘えるようにしなだれかかっているし、更に異常に顔を近付けている人までいた。
いわゆるあれは、ハーレム状態とでも云うのだろう。
……むかつく。
何がって、人目をはばからず男にあんなことをするお姉さんたちはもちろんのこと、何より、満更でもなさそうにだらしない笑みを浮かべている、エースが。
むかつく。むかつく。
エースはセクシーなお姉さんにへらへらと笑っていて、私に気付いていないようだった。
――むかつく。
くるり、と踵を返し、私は出口方向に足を向けた。そして迷いなく早足で歩き始める。
人が、せっかく、遊園地を楽しもうって気分になったのに。
台無しだ。
もういい、エースなんか知るもんか。
はやくここから出よう。近くの海軍の詰め所に顔を出してブランに連絡して迎えに来てもらおう。そして、今後一切エースからの連絡を受け付けないように命令しよう。そうだ、それがいい。だいたい、海軍と海賊が仲良く遊園地で遊ぶなんてことがあっていいはずがないじゃないか。ああよかった、馬鹿なことをする前に気付いて。そうだ、そうだ。エースなんか。
エースなんか、知らない。
「――サン!!」
もうすぐ出口、というところで、名前を呼ばれるのと同時に強く腕を掴まれて思わず足を止めた。
振り返らなくても誰が来たのかなんてわかる。
「……何か用」
エースだ。
体力自慢の海賊のくせに、ゼーゼーと息を切らせて肩で息をしているようだ。なんだ、情けない。
顔なんて見たくなかったので振り返らずに云えば、エースは困惑しきったような声で云った。
「なんで急にいなくなったんだよ?」
その、本当に意味がわからない、という声音の台詞に。
イラッと。した。
「……急に?」
無視してやるつもりだったのに、つい反応してしまった。
ぽつりと呟いただけの私の声は、しかし驚くほどに低かった。
「おれ、外で待ってたんだぞ」
ちょっといじけたようなその台詞を聞いて、私は漸くエースを振り返った。それから、にっこりと笑う。
馬鹿なエースは、滅多に見せない私の笑顔に馬鹿みたいに顔を赤くしている。
その笑顔のまま、云った。
「セクシーなお姉さんたちに囲まれて鼻の下伸ばしながら、エースは一体誰を待ってたのかしら?」
瞬間、エースはさっと顔を青くした。
赤くなったり青くなったりせわしない。まぁ、もう私には関係ないけど。
「よかったじゃない。誘われてたんでしょ? 一緒に行ったらいいわ。どーぞ私のことは気にしないで、見目麗しいお姉さん方とご一緒してきたら、色男さん」
掴まれていた腕を思いっきり振り解く。少し痛かった。もしかしたら爪か何かを引っ掛けたのかもしれないけど、知るもんか。
「……サン……」
うるさい、呼ぶな。
呆然とするエースを一度だけ睨みつけて、私はまたエースに背を向けた。
知らない、知らない。
エースなんか。
「……お前、まさか……妬いてるのか?」
今度こそ無視して、改めて出口に足を向けたところで耳に飛び込んできた台詞に、私は思わず、足を止めて勢いよくエースを振り返った。
「……はぁ!?」
聞き捨てならなかった。
なんでそうなる!
咄嗟に反論しようと口を開こうとした。して。
出来なかった。
「馬鹿だな」
「――……」
「おれは、サンしか見てねェのに」
なんて優しい顔をするんだろう、と思った。
なんで、エースはいつも。
「……でも、あのお姉さんたちにでれでれしてた」
「あれは、誘われたけど連れがいるから無理だって断ったら、どんな女なのかって訊かれたから」
お前がいかに可愛くていい女か、話してやってたんだよ。
それを聞いて、頭が爆発しそうになった。
何それ、何それ。
私の話をして、あのだらしないほど緩んだ顔をしたってこと?
何それ。
――ああ、もう。
「……サン?」
勘違いだったらしい。
別にエースは、セクシーなお姉さんたちに誘われてでれでれしてたわけじゃなく、断って、しかも私の話をしてあんな風に笑っていたらしい。
馬鹿じゃないだろうか。
普通、男なら、あんなセクシーなお姉さんに誘われたら嬉しくないはずはなくて、断るなんてもったいないことなんだろうに。
あまつ、自分を誘った女に、他の連れの女の話をするなんて。
馬鹿だ。
大馬鹿だ。
でも。
――それを嬉しいなんて思ってしまう私は、もっと馬鹿だ。
「……ホント、どうしようもないわ」
「は?」
「こっちの話。はー、アホらしい」
エースの云う通りだった。
私は妬いていた。
エースの笑顔を間近で見ていたあのセクシーなお姉さんたちに、嫉妬していたのだ。
だって、エースの笑顔は私にしか向かないと、そんな勘違いをしていたから。
馬鹿な話。
そうして、私の話をしていたからだと云われてホッとしてしまう私は、きっともうどうしようもないのだ。
「ねぇ、エース」
「ん?」
自分に対するため息をひとつこぼしてから、エースを見上げる。
勝手に騒いでいた私に対して、エースは怒りも呆れもしていないようだ。
エースは、すごい。
「私、実は遊園地って初めてなの」
――ねぇ、自惚れてもいいですか?
「だから、ちゃんと楽しませてよね」
私はあなたに愛されているんだって。
あなたを愛を、向けられているんだって。
私は海軍で、あなたは海賊だけど。
あなたの愛を、信じても、いいですか?
◇◆◇◆
「ぃぃいいいやあああああああ!!!!!??」
「うわははははは!!!!!!」
嫌だ無理だだから嫌だって云ったのに!
喉が裂けんばかりに悲鳴を上げながら、私は心の中でエースを呪う百の言葉を並べていた。
しかしそんなことをしても現状に影響が出るはずもなく、私はひたすらに叫び続けるほかなかった。吐血も時間の問題だ。
「もーヤダ降りるゥゥゥゥ!!!!!!!」
「駄目駄目、これ止まるまで乗ってねェと」
「他人事だと思いやがってェェェェェ!!!!!」
「口悪いぞサンー!」
お前のせーだよ!
新たな叫びは、冗談みたいなスピードでトンネルに突入した爆音でかき消された。ちくしょう。呪われろ。
* * * * *
それからもうしばらくしてから漸く解放された私は、心身共にボロボロだった。叫びすぎて喉は痛いし頭も痛いしガタガタと身体は震えるし、隣にいる男はやけに楽しそうだし。
一緒にいる人が楽しそうだと自分も楽しくなるなんて嘘だ。
なんで私はこんなに苦しんでるのにお前は楽しそうなんだよ。むかつく。不幸な目に遭え。
「……帰りたい……」
「おいおい、まだ来たばっかりだろ?」
呆れたように云うエースに殺意がわいた。
私をこんな気持ちにさせたのは他でもないお前であるということを、どうやったら伝えられるだろう。言語のコミュニケーションは難しい。じゃあ拳で語るしかないかな。ここに愛刀がないことが口惜しい。
ニコリと微笑んでグッと拳を握り締めてみせると、エースはヒッと小さな悲鳴を上げて後ずさった。
現在私とエースは、今大人気なお出かけスポットである遊園地に来ていた。
非番だった私をエースが誘拐して連れてきたのだ。ちなみに私の日々の予定はすべてブランから情報が流れているらしい。それってプライバシーの侵害且つ情報漏洩になるんじゃないかなって思うんだけど、どうだろう。
着いて早々にゴタゴタしたものの、折角こんなところまで足を運んだんだから楽しまなきゃ損と、割り切ったのだが。
実を云うと、私は遊園地なんて初めて来たので、何が何だかさっぱり勝手がわからない。
ジェットコースターにメリーゴーランド、お化け屋敷にミラーハウス。
名前だけなら知っているし、どんなものか話を聞いたことはあっても実際乗ったことのないものばかりなのでいまいちピンと来なかった。
仕方がないので、詳しいとまでは云わなくとも少なくとも私よりはこういう場所に慣れているエースの案内で遊ぼうと思ったのだが。
なんとなく、ジェットコースターは苦手なものな気がしていた。ジェットって。コースターって。
だから、最初に云ったのだ。
多分ジェットコースターは無理だって。
するとエースはニカッと笑って私の手を取り、
「じゃあ、行くか!」
と宣った。
どこに、と訊かずに思わず頷いた私もいけなかったのかもしれないけど、無理だって云ったのに、最初にジェットコースターに連れて行ったエースは絶対性格悪いと思う。でも素なんだよね。嫌がらせのつもりもないんだよね。だから余計、性質悪いんだよね。
気付いたときにはもう後戻りが出来ないところまで来てしまっていて、嫌だ嫌だと騒ぎながら係員の人に苦笑されつつ無理矢理座席に押し込まれ、冒頭に繋がる。
わかってる。係員さんも仕事だったんだよね。私がいつまでも乗らないと後ろの人がつっかえちゃうもんね。仕方なかったんだよね。でも私これでも海軍大佐なんだよ。ちょっと権力を振りかざせばきっと遊園地の係員のひとりやふたり、簡単にクビに出来るんだからね。そこんとこ覚えといてね。まぁ、こんなこと云えないけど。云えないストレスで心臓に穴が開きそうだ。胃じゃなくて。
「ほらサン、次!」
「また絶叫系だったら張り倒す」
「次はお化け屋敷行くぞー!」
「嫌な予感しかしないんですけど!?」
またしても。
嫌がる私をよそに、楽しそうにエースは足を進めていった。
* * * * *
ジェットコースター。
お化け屋敷、歩くタイプ。
コーヒーカップ。
水上バス。
お化け屋敷、乗り物タイプ。
ミラーハウス。
巨大迷路。
ゴーカート。
バンジージャンプ。
トリックハウス。
カヌーボート。
ただの空中ブランコに見えた乗り物は途中から恐怖のブランコになり変わった。
二度目のジェットコースター(最初のとは別の種類)は、降りてからエースをボコボコにしてやった。
ランチは遊園地の中でも特に人気のレストランでバイキング。色んな海の料理が豊富に揃っていたし、すごく美味しくて大満足だった。
歩きながらクレープやチュロス、ホットドックにポップコーンを食べるというのは普段街中では出来ないことなので、なんだか新鮮な気分だった。
時折嫌がらせとしか思えないようなアトラクションに連れて行かれたりしたものの、概ね楽しかったと思う。素直に楽しかったと云うには色々と考えさせる部分があるので断言は避けさせていただくが。
子供向けと思われるアトラクション以外を制覇し、屋台の食べ物も制覇したところで気付けば空はオレンジ色に染まっていた。
そろそろ帰る時間だ。
本当は、どうやらエースはこの遊園地の目玉である夜のパレードと花火も見て帰りたかったようだけど、そこまで全部満喫してしまうと帰る時間が遅くなって、明日の業務に差し支える。明日はちょっと本部のマリンフォードまで行く用事があるので、寝不足になってヘマは出来ないのだ。
渋るエースをなんとか説得し、晩御飯までは遊園地で済ませ、今私たちはストライカーの上にいる。
疲れた。
これなら執務室で書類と格闘していたほうがまだましだ。
何が哀しくて非番の日にこんな疲労を感じなければならないのか。
と、思うのも本音だけれど、やっぱり初めての遊園地はワクワクして、やっぱり認めるのは癪だけれど、楽しかった。
「サン、楽しかったか?」
ストライカーを操作しながらエースが云った。
エースは立って前とブランのビブルカードを見て私の船の方向を確かめており、私は狭いストライカーの船縁に座ってぼんやりしていた。
元々ひとり乗りのストライカーに無理矢理ふたりで乗っているので、結構窮屈なのだ。まぁ一応、エースは後ろに詰めてくれているので私の方には少し余裕はあるのだけれど。
座っているのも疲れて、私はゆっくり立ち上がって伸びをする。しばらく同じ姿勢でいたので、ゴキゴキ、と骨が鳴った。
「疲れた」
「はは、答えになってませーん」
「ジェットコースターなんか二度と乗らないから」
「でも2回乗ったよな」
「誰のせいよ!」
思わず振り返って怒鳴る。好きで乗ったんじゃないし、最初に乗ったあとにもう嫌だとまで云ったのに、その私を巧みに違う種類のジェットコースターに乗せたのは一体誰だ。
「いやぁ、あんなに怖がるサン、新鮮で可愛かったなー!」
「う、る、さ、い」
「あ、ギブギブ。苦しいって」
にやにやとするエースの首を思いっきり絞めてやると、全然苦しそうでもない顔であっさりと私の手を離させた。さすがに男子の力にはかなわない。チッと舌打ちすると、両手で頬を挟まれた。
「可愛い顔で舌打ちなんかすんなよ、もったいねェ」
「させてるのは誰? っていうか離してよ、もう!」
笑いながら私の頬をふにふにと弄るエースの顔がいつも以上に近くて、どぎまぎしながら手を離させる。
一方的にじゃれられるのは初めてじゃないし、抱きつかれたことだって何度もあるけど、今日はちょっと違う。
思い出してしまう。
溶けたアイス、舐めとられたアイス。
ざらついた、エースの舌の感覚。
――ああ、もう。
らしくない。
こんなの私じゃないみたいだ。
駄目だ、駄目だ。
思い出すな。
私は海軍、エースは海賊。
忘れてはいけないのはそこなんだから。
そりゃあ、今日一日は楽しかったけれど。
それとこれとは、別の話だ。
でも。
「……エース」
「ん?」
ふい、とエースから顔をそらして、私は小さく云った。
「……ありがと」
「…………」
「私、海軍に入ってから今までずっと仕事ばっかりで、遊ぶなんてなかったから。エースに色んなところに連れてってもらって、なんか初めて世界を見たって感じがするの」
エースは何も云わなかった。
ただ、私の言葉に耳を傾けていてくれるのはわかる。
恥ずかしくてエースのことを見ながらなんて話せないから、憶測だけど、多分、エースは真っ直ぐに私を見て話を聞いてくれているんだろう。エースは、そういう人だ。
「遊園地なんて、きっとエースに連れてきてもらわなきゃ、一生来ないで終わってたと思う。ジェットコースターはもう勘弁してもらいたいけど」
「…………」
「……ええとね、」
私は、海軍に入ってから、エースに会うまでずっと仕事ばかりしていた。
それを苦痛と思ったことは一度もない。
むしろ、私を受け入れてくれた海軍に対しての恩返しとして当然のことだと思っていたし、何より仕事は楽しかった。
正義のための仕事は、私を奮い立たせてくれた。
それに、どうやら私にはこの手の仕事について才能があったらしいのだ。
最初は雑用として海軍にいて、たまに実践訓練に出ていただけだったのだけれど、たまたまそれを見たらしいクザンさん――青キジ大将に才能を見出されて、彼直々に手解きを受けた。
そして、瞬く間に才能は開花した、らしい。実はそのあたりあまり自分ではよく覚えてなくて、気付いた時にはクザンさんに弟子入りしていた。
クザンさんの下について一年もすると、私はそこらへんの男には負けないくらい強くなっていた。特進で大尉になったのはその頃だった。
刀を手にしたのは偶然だったけれど、それが私にはピッタリの武器だったようで、刀を手にしてから半年で私はさらに少佐の地位を与えられた。
戦闘については既にほとんど向かうところ敵なしになっていて、書類仕事も問題なかった。
私は海軍に入ってからずっとおつるさんが親代わりだったから、みっちり勉強を仕込まれていたのだ。難しい言葉も軍内情報も難なく吸収して、教えていたおつるさんもびっくりしていた。
役に立てる。
戦闘においても、事務仕事においても。
それは私にとって、重要な存在理由だった。
海軍が、私を救ってくれた。
おつるさんが。
クザンさんが。
センゴク元帥にボルサリーノ叔父貴、サカズキさんやガープさん。一時期上司だったヒナ姉さん、スモーカーさんにたしぎちゃん。
そして勿論、愛すべき私の部下たち。
私は、海軍が大好きだ。
みんなの役に立ちたい。
みんなのために働きたい。
だから、どんなに仕事が大変でも、頑張れる。
二年前に大佐に就任してからは俄然張り切って仕事に取り組んだ。
立場が上になるにつれ、重要な仕事は増えるし、量も半端なくなっていったけれど、全然苦痛にならなかった。
けれど。
エースに出逢って、色んなところに連れ回されて。
私は、私が護るべき世界というものをよく知らなかったことを思い知った。
賑やかな街並み、喧騒の飛び交う路地。
浴びるようにお酒を飲んで大騒ぎする労働者に、偉そうに振る舞って市民から全く慕われない市長。
私は世界を知らなかった。
そして、今、色んなものを目にして、触れて、体験して。
きっとこれは、エースに会わなければ出来なかったことばかりだ。
仕事も勿論大切だ。
でも、それだけではいけないんだと、知った。
これは物凄く大切な発見だった。
たくさんのことを知って、私はもっと海軍としての仕事を頑張ろうと思えた。
護るべき世界。
私が護るべき、人々。
それに気付かせてくれたのは、皮肉にも、海軍の敵である海賊だった。
本当なら、こんなことはあってはいけないことなのかもしれないけれど。
もう、遅い。
私はエースからたくさんのものを教わってしまった。
もう。遅いんだ。
だって、私は。
「――今日は、楽しかった」
エースに、感謝してしまっている。
私にたくさんのものを教えてくれた海賊に、感謝しているのだ。
私はエースを捕まえなければいけないのに。
そんな気になれないくらい。
そして、出来れば誰にも捕まってほしくないと思うくらい。
私は、エースを。
「……サン」
「な、何っ」
「サン、サン」
「だ、だから何よっ?」
あんまりにも何度も私を呼ぶから、キッと思わずエースを振り返ってしまって。
――後悔を、した。
エースが私を見ていた。
真っ直ぐに、初めて会ったときから私が惹かれたその眼で。
深い深い黒の瞳には私しか映っていなかった。
閉じ込められた、と錯覚する。
いや、錯覚じゃない。
私は確かに捕らわれた。
黒くて綺麗で真っ直ぐな、エースのその眼に。
「……サン」
動けなかった。
ひたり、と見つめられて。
そして、ゆっくりと近付いてきたエースの整った顔から、逃げられなくて。
藍色に染まりかけた空を背景に、私はエースの唇を受け入れていた。
◇◆◇◆
初めて重なったエースの唇は冷たくてかさかさしてて、柔らかくもなかった。
でも。
暖かくて優しくて、涙が出そうになった。
「――……」
触れるだけのキス。
エースの手が私の頬に触れて、もう片方の手が腰を引き寄せる。
嫌じゃなかった。
仕事人間だった私は、勿論キスも初めてだった。
自分がこんなことをするなんて考えたこともなかったのに、今、私はこうしてエースとキスをしている。
優しくてとろけそうなキスは、思ったよりずっと心地良くて驚いた。
何より。
初めてのキスの相手が、エースで嬉しいと。
そんなことを思っている自分が、いた。
「…………」
触れるだけだけれど、長い長いキスだった。
漸く唇が離れたとき、風が吹いた。
さっきまで暖かかった唇が途端に冷たくなって、なんだか寂しいと思う。
「……サン」
エースの手が、優しくそのまま私の頬を撫でる。
大きな手。
暖かい手。
優しい手。
エースの手。
私に触れる、エースの手。
身体は密着したまま、私たちは見つめ合った。
ほんの少し近付けば、また唇が触れ合えるほどの距離で、見つめ合う。
お互いの眼にはお互いしか映ってなくて、世界にふたりしかいない錯覚に陥った。
もし、そうならば。
世界に私たちしか存在しないならば。
――なんて、馬鹿なこと。
そんな世界はない。
そんな世界はいらない。
私は私の護るべきたくさんの人々がいる世界でエースに出逢ったのだ。
ふたりだけの世界なんて、そんな世界でエースに会ったところで嬉しくもなんともないじゃなくないか。
エースが私を見る目は本当に優しくて、何度も何度も、好きだ、と云ってくれた。
好きだ、と。
私を。
私、を。
「……なんで……」
「……サン?」
私は、海軍。
エースは、海賊。
ねぇ、なんで、どうして。
「なんで私なんか、好きになったの」
「……サン……」
「わかってる? 私は海軍で、エースは海賊なのよ?」
「……わかってるよ」
「わかってない。わかってないわよ、全然」
「わかってるよ。わかってないのは、サンの方だ」
「何よ、それ」
「サン」
逃げられない。
目をそらすことが出来ない。
泣きたくなった。
わかってない。
全然わかってない。
海軍を好きになる海賊なんて、ただの馬鹿だ。
ましてや。
――海賊を好きになる海軍は、もっと馬鹿だ。
「おれは別に、サン大佐が好きなんじゃねェよ」
意味がわからなくてジッとエースを見つめると、次の瞬間。ギュッとエースの腕の中に閉じ込められた。
とくん、とくん。
エースの鼓動を直に耳に感じて、どうしようもないほど胸が苦しくなる。
「おれは、サンが好きなんだよ」
「――……!」
「好きだよサン、好きだ。……好きなんだ」
……ああ。
もう、止まらない。
涙が溢れて、止まらなかった。
――どうしてこんなに胸が苦しいの。
わからない。
わからない。
苦しい。
でも、とても幸せだと、思った。
「……馬鹿」
おろしていただけの腕をゆっくりと伸ばし、エースのシャツを掴んだ。
するとエースは、少し驚いたように身体を震わせた。
いつもは強引なくせに、エースは怖がりだ。
きっと、もし私に拒絶されたらどうしよう、なんて考えているに違いない。
馬鹿な人。
そんなこと、出来るはず、ないのに。
拒絶するつもりなら、とっくにしているのに。
「馬鹿ね、エース……」
「……何回も云われると、さすがにヘコむぞ」
「だって、馬鹿じゃない」
顔をあげると、情けない顔をしたエースと目が合った。
思わず笑ってしまう。涙はまだ止まっていなかったけれど。
するとエースの親指がグイと私の涙を拭った。
バツが悪そうな複雑そうな表情で、私の涙を拭うエースは優しい。器用で要領がいいのに、たまに物凄く不器用で要領が悪くなる。
それでも涙は止まらなくて。
別に、哀しいわけじゃないのに。
止まらない、止まらない。
涙と一緒に、私の中から何かが抜け落ちるようだった。
いくら拭っても止まらない涙に痺れを切らしたのか自棄になったのか、エースは突然、涙の溢れ続ける目尻にキスをしてきた。
びっくりした。
びっくりしてエースを見ると、いつの間にか涙は止まっていた。驚きすぎて引っ込んでしまったようだ。
「しょっぱいな」
「……涙だもの」
「なんで涙ってしょっぱいんだろうな」
「知らない」
「でも、甘い」
きょとん、とエースを見ると、エースは眩しいほどの笑顔で、優しい笑顔で、云った。
「サンの涙は、甘いな」
「……馬鹿」
「馬鹿でいいよ」
エースは笑う。
私はまた、泣いた。
「……泣くなよ」
「……泣かせないでよ」
「サンのこと泣かせたら、おれ、ブランにどやされるんだぜ」
「何それ」
「いやぁ」
空惚けるように笑ったエースの胸に、私は額を押し付けた。腕は背中に回す。
ぴたり、とエースは動きを止めた。それから徐々に、額に伝わる心臓の音が、全力ダッシュしたあとみたいに脈打ち始める。
そして、私はまたエースの腕に閉じ込められる。
ギュウギュウと、思いっきり抱き締められて少し苦しい。でも、心地良い苦しさだった。
「サン、好きだ」
私を抱き締めながら、エースは云った。
何度も、何度も。
譫言みたいに、ずっと。
「好きだよ、サン。サンが、好きだ」
ねぇエース、声が上擦ってるよ。震えてるよ。情けないね。格好悪いね。いつもは格好つけなのに、こういうところでは全然格好つかないね。
私みたいな仕事馬鹿を好きになって、エース、馬鹿みたいだね。
でもね、でもねエース。
知ってる?
知らないでしょう。
――私が、一体、どれだけ。
「サン」
呼ばれて、もう一度顔を上げる。
エースが優しく微笑んでいた。つられて、私も微笑む。
それからゆっくりと眼を閉じて、私たちは自然と二度目のキスをした。
二度目のキスは、少しだけしょっぱかった。
海の真ん中、まるでふたりだけの場所。
このままどこかに逃げようか、なんて軽口に私は、無理に決まってるでしょう、と笑った。
(何度も告げられる愛の言葉)
(嬉しくて胸が張り裂けそうになる)
(ああ、それなのに)
(――私は一度も、同じ言葉を返せないでいた)
幸せになる方法は、ひとつじゃない