「はぁ…………」
「ミネ団長? どうされました?」
「ああ、いえ……なんでもありません」
救護騎士団の執務室。いつものように書類仕事をしている最中についついため息が漏れてしまった。すぐ近くで一緒に作業をしていた団員にも心配されてしまう。
──団長として不甲斐ないですね、と己を律する。上に立つ者として、節度のある行動をしなければならない。
首を軽く横に振って、もう一度書類へと向き合う。本来であれば書類仕事はあまり得意な方ではないのだけれども、責任者としての務めを果たす過程でいつの間にやら慣れてしまっていた。
「そういえばシャーレの先生が……」
「──先生!? せ、先生がどうされたのですか!?」
いざ書類に集中しようとしたところで、団員たちの声が耳に入った。先生の話だとわかった途端、心臓が大きく震え出す。声が上擦り、動悸が激しくなって、頬が熱を帯びたように火照り始める。
と思えば、急に気分が落ち込んできてしまい、物事が手に付かなくなってしまう。先ほどまではうるさいくらいに鳴り響いていた心臓の音も、気持ちと一緒にすっかり意気消沈してしまうのだった。
──一体、私の身体はどうしてしまったのでしょうか……こんな不調は今まで経験したことがありません。
「み、ミネ団長……?」
「お顔が赤いようですが……?」
「い、いえ……なんでもありません。少々疲れてしまったようですね。奥で休ませていただきます」
心配そうに見つめる団員たちにかぶりを振って、建物の奥にある団長の専用部屋に引っ込んだ。ベッドに身体を横たえ、天井を睨みつける。平常心を保つように大きく深呼吸をしてみても、気分の躁鬱は収まる気配が見えなかった。
──あの時以来、私の身体はどこかおかしくなってしまったのかもしれません。
こんな風に身体が不調をきたすようになった原因──数日前の出来事をゆっくりと思い返した。
***
救護騎士団への要請が入り、いつも通り現場へ急行する。普段であればトリニティの生徒たちが相手となるのだが、この日はいつもとは違っていた。
──シャーレの先生が不良生徒同士の抗争に巻き込まれて負傷。
それが私の元に届いた要請内容。
それを聞いた瞬間、頭が真っ白になって……気が付いた時には駆け出していた。
他の団員たちの声も耳に届かず、現場へと急行する。
『先生! しっかりしてください!』
現場に到着すると既に状況は沈静化していた。周りを見渡す。一か所に生徒たちが集まっていた。人だかりの中からセリナの声が聞こえる。そこに無理やり身体をねじ込み、人垣に割って入った。
途中で何か文句を言われたような気がしたが、救護騎士団の制服を見ると皆一様に黙った──あるいは、私の鬼気迫る表情に怯えただけなのかもしれない。
『先生!』
人だかりの中心に先生が横たわっていた。腹部からの出血──はセリナが応急処置をしている。装備をその場に放り投げ、急いで傍に駆け寄る。
『状況は』
『腹部から多量の出血。意識がありません。心停止はしていませんが呼吸が弱まっています』
『気道を確保します。セリナは応急処置を続けてください』
『わかりました』
こんなことであれば、酸素吸入器も普段から持ち歩くようにしておけばよかった。そんな後悔が一瞬脳裏を過ぎる。大きく口を開き、先生の口を覆うように密着させてゆっくりと息を吹き込んだ。
人だかりから悲鳴のような声が聞こえる。先生の胸部が吹き込んだ息でゆっくりと持ち上がった。一旦口を離す。先生の唇は少し震えていて、触れた時に付着した私の唾液で少し濡れていた。
先生の口から息が吐き出され、続けて二回目の吹き込みを行う。粘膜同士の接触。こんな時に不謹慎だ──と自分を律し続けていたけれども、先生の唇はとても柔らかかった。
『ミネ、セリナ。本当にありがとう』
救護騎士団の応援部隊が到着するまでの間に私とセリナの施した応急処置の結果、先生は特に大きな後遺症もなく、今は救護騎士団の病室で療養している。
『いえ、先生がご無事で何よりです』
『先生も、この機会にゆっくり休んでくださいね!』
意識を取り戻した先生がすぐにでもシャーレに戻ろうとするのを必死に押し留め、少なくとも二、三日は入院するように伝えて病室を後にする。思っていたよりも軽傷だったことにホッと胸を撫でおろした。
──ああ、本当に良かった。先生の首筋に触れた時、そのひんやりとした感触に、一瞬ドキリと心臓が震えた。
そこからは夢中で先生を蘇生させるために行動した。大切なものが、この両手から零れ落ちてしまわないように。「救護が必要な方を誰一人逃さない」──それこそが救護騎士団の団長たる私の責務なのだから。
『うん、わかったよ。じゃあ頼むね、ミネ、セリナ』
薄く笑みを浮かべた先生の顔を見て、何故か自分の顔が熱くなるのを感じた。首を傾げながら頬に手を当てる。
そんな私に「大丈夫?」と心配そうに視線をくれた先生の顔を……どういうわけか直視することができなかった。
***
その日以来だ。先生のことが脳裏を掠めるたびに胸が締め付けられて、呼吸も少し荒くなる。そしてしばらくすると気分がすっかり落ち込んで、身体を動かすのも億劫になってしまっていた。
最初は何かの病気かと自分を疑った。救護騎士団の団長が不養生とあっては、皆に示しがつかない。何回も自分自身の体調をチェックして、収集した医学書を隅から隅まで読み漁った。
徹底した自己検査の結果、該当するような病気はなく──皮肉にも、自分の身体がいかに健康で頑強であるかがわかっただけだった。
────本当に、私の身体はどうしてしまったというのでしょうか。
一体自分の身に何が起きているのか──それがわからずここ最近は日々の巡回救護にも身が入らない有様だった。
このままでは救護騎士団のトップとして、ヨハネ分派の首長として、相応しくない醜態を皆に晒してしまうだろう。
早急に対処しなければならない。だが、肝心の原因がわからないのであれば、一体どうすればいいというのだ。
──……いや、ひとつだけ。
ひとつだけ、心当たりがあった。
心の奥底で、それだけは──と否定し続けていた可能性。
トリニティ総合学園救護騎士団団長であり、政治分派「ヨハネ分派」の首長、今は機能不全に陥ったティーパーティーの穴を埋めるべく、執政へと参加をしている名実共にトリニティの顔役。
そんな私が──他の生徒たちの模範となるべき私が────、
────恋にうつつを抜かしているなどと。
そんなこと……あってはならない、と。気が付くことを避けていた。
それでも、先生のことを考えていると心が乱れてくる。
あの時、私の唇に触れた感触。まるで私のことを誘うように薄く開いた口唇、私が吹き込んだ息がゆっくりと吐き出され、その吐息が私の唇に触れる。
包み込むように重なり合った唇。乾燥防止のために塗ったリップクリームが先生のそれに付着した瞬間に覚えた奇妙な感覚。それを思い出すだけでまたぞろ胸の鼓動が早鐘を打ち始める。
──あれは医療行為で、何もおかしいことはないはずなのに。
そして今感じるこのどこか満ち足りていないという感覚。私のことを苛む寂寥感。自分が慕う殿方に大切なものを捧げられたという充足感があってもおかしくはないと──そう思っていた。
そして……ふと、気が付いた。この胸に空いたモノが喪失感だということに。
────ああ、そうだ。あれは私の「はじめて」だったのだ。
私のことを「大切な」生徒だと言ってくれた先生。
私の全てを賭して、あらゆる障害から先生を開放して差し上げたいと望んでいた。心と身体を委ねてもらい、何があっても先生をお守りしたいという願望。
救護騎士団の「顧問」になっていただきたいというのもそう。「団長」と「顧問」であれば上に立つ者同士、より親密になれるであろうという思惑。
政治と陰謀からほど遠いと思われている私ですらも、そのような奸計をめぐらせてしまうほど。返しきれないほどのものを私に与え、少しずつ私を変えていった先生に──私の全てを捧げたいと思っている。
なればこそ。
私と先生の「はじめて」は……もう少しロマンティックなものであってもよかったのではないか────そんな感情が、しこりとして私の胸に刻まれていた。
────そう、これはさほど難しくはない単純な話。
他でもない私自身の行為に対して不満を抱き、自分でも気が付かないうちに拗ねて今でも引きずっている。
そんな、ただ一人の子供が勝手にいじけている──というだけの、実にくだらない話だった。
***
「先生」
先生のいる病室に音もたてずに忍び込む。静まりきった館内は、靴音さえもやけに響いてしまう。
暗い室内。電気は付いていなかった。月明かりのみが部屋の中を照らし、幻想的な雰囲気に包まれていた。
「──……ミネ? どうしたの? こんな夜遅くに」
先生がゆっくりと身体を起こす。起こしてしまったのだろうか。いや、今はさほど重要ではない。寝ていようがそうでなかろうが、これからの行為に何ら支障はない。
黙したまま、先生の傍まで歩を進める。淡いブルーのロングスカートが遅れて追いかけてきた。
救護騎士団の制服は身に着けていない。ナースキャップも自室に置いてきた。今は「団長」でも「首長」でもなく──、ただの蒼森ミネだった。
「やり直させてください」
ただの蒼森ミネが、先生に許しを請う。ハッと息を呑んだのを見逃さなかった。
優しそうに微笑んでいた顔が少し引き攣る。暗がりにいても、先生の表情の変化を見逃さないくらいには近づいていた。
真っ白で清潔なシーツを、先生がぎゅっと握りしめる。同じくらい固く握り込んだ私の両手。同じようで、まったく意味が異なっていた。
「────何を、かな?」
「先生も既に報告書をご覧になったと思います」
だから、言わなくてもわかるでしょう──と。
空惚けようとする先生の退路を塞いだ。「ミネ、あれは仕方のないことで──」と先生が口を開きかけ────、
「顧問になっていただけなくてもよいのです」
そんなことはわかっていると、言葉を遮った。私だってわかっている。こんなのはただの子供の癇癪にすぎないと。
「たとえ何があっても……私が必ず先生をお守りしますので」
それでも────「団長」であり「首長」である私だって、そうである前に一人の恋する乙女なのだから。
まとめてすらいない髪が先生の身体にかかった。
「だから……これからはずっと一緒に、私の傍にいていただけませんか?」
先生の頬を両手で挟む。意を決してゆるゆると自分の顔を近づけた。
うるさいくらいに脈打つ心臓の音。このような状況でなければ不整脈の疑いで救護対象としていただろう。
月明かりがなくてもわかるほど、自分の顔が熱くなっている。
熱を帯びた身体を通って少し開いた唇から漏れた熱っぽい吐息が、覆うように密着させた先生の口へ────
────ゆっくりと、吹き込まれていった。