初めて出会った時から、羨望と嫉妬が入り混じっていた。
2023.12. 22 ────
「……何なのよ」
ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら消えゆく黒ずくめの彼の背中を、眺めるように見送りながら数分が経ってなお、アスナは当初の目的であった最前線での狩りを始められずにいた。安全圏に腰掛け、膝を抱えながら俯く。
いつもなら少し気に入らない事があったり、現状を不満に感じていたとしても、それを抱えてでも目的の為に攻略に勤しむ事ができていた。寧ろ、それらの感情を糧にレベル上げが捗る事もままあるくらいだ。だが、先程の彼の表情や言動、行動や在り方がそれをさせてくれない。
初めて出会った時は、かつての自身の相棒に良く似ていると思った。全身黒ずくめの姿に、女性と見間違う程の容姿に華奢な身体。敵を屠る圧倒的な姿までもが、キリトと重なる。けれど、違う。その生き方も在り方も、そこに懸ける執念の何もかも。
「あ……また、名前……」
聞こうと思っていたのに、また聞きそびれてしまった。攻略組にと誘った手前、失礼な態度で一蹴された先日の件をアスナは根に持っていた。次会った時には名前くらい聞いてやろうと、血盟騎士団として狩りに出ていた先程までの間にも辺りを見渡していたくらいだ、彼を見つけた時は先日の事を思い出して軽く苛立ちはしたが、少し高揚してしまったのはここだけの話だ。
ただ、そうして漸く見つけたその背中も、膝をついて息を切らし、刀で自身を辛うじて支えているような弱々しいもので、前回初めて出会った時の余裕そうな表情にも、冷たい言動にも、露骨に嫌そうな態度も見る影無く、覇気の無いものに感じていた。それでも彼は僅かな休息でさえも罪であるかのように、必死に自身に負荷をかけてまでの研鑽を重ねていたのを見て、アスナは自分が必要最低限の休息のみで攻略に明け暮れていたつもりになっていたのが、なんとも情けなく感じてしまった。自分の現実世界に帰還したいという必死さが、ゲームクリアを目指していない彼の必死さに劣って見えた。
────何が、彼をそこまで突き動かすというのだろうか。
現実に帰る以外で、この世界で本気になれる事。ただの仮初の世界だと疑わなかったこの世界で、必死に懸命に、這い蹲ってでも生きて目的を果たそうとしているように見えた彼の背中が、この目に焼き付いて離れない。消えてくれない。
「っ……何なのよ……」
また、同じ事を呟く。何故こうも昨日今日出会ったばかりの、しかも異性の事が気になっているのだろうか。彼以上に、アスナにとっては長い年月を共にした、相棒とも呼べる異性が居たというのに。どうしてこんなにも、彼の表情や言動が、その在り方が今この胸を焦がしているのか。
アスナは終始、分からないでいた。
────イベントMob。
それが目的だと、彼の言動をふと思い出した。恐らくは最近まことしやかにその発生場所が噂されているクリスマスイベントと事だと理解する。
しかし、アスナはつい最近設立された《血盟騎士団》の副団長として、迷宮区やボス攻略に邁進する日々だった。それらに直接関係の無いイベント毎にはついぞ興味を示さなかったり、重要性の低い案件は二軍に回す事も多く、故にアスナ自身クリスマスのイベントの事をよく知らずにいたのだった。イベントまで残り二日、彼が言ってた残り日数と一致している。
「……アルゴさんに聞けば、分かるのかな……」
情報のパイオニアである《鼠のアルゴ》は既知の仲である。聖夜に何が起こるのか、どれだけのギルドがそのイベントを狙っているのか、それだけの価値があるのかを、彼女は恐らく知っている。そして────どうして先程の彼が、狂うようにその剣技への研鑽を積み上げているのかが、分かるかもしれない。
何故だか分からないが、それを知る事ができたら、自分も見付けられるような気がしたのだ。
────この虚構の世界で、大切なものが何なのかを。
●○●○
2023. 03. 25────
「あ、いた」
「っ……げ」
ウインドウを開きながら土手で寝そべっていると、聞き慣れた声が鼓膜に届く。その途端、アキトは肩を震わせ勢い良く起き上がった。
恐る恐る振り返ると、両手を腰に当てて仁王立ちするサチの姿。少しむくれた表情から彼女が言わんとしている事は大体察しが付くので、何か言われる前に立ち上がり、ウインドウを閉じていそいそと移動を開始する。
「ちょっと、何よその反応……あっ、こら、待って!」
「ぐぇっ」
背後から襟首を捕まれ、後ろへと仰向けに倒れた。女性の、それもサチの細腕から繰り出される筋力(笑)如きに為す術無く空を仰いだ。最高の気象設定で晴れやかな青空が広がる視界を、上から此方を覗き込むサチの顔が遮ってきて、顔が意図せず熱くなる。
「っ……ちょ、何……邪魔……」
「ひ、酷い!女の子に向かって邪魔とか」
「な、なに、何か用?」
顔を逸らして上体を再び起こし、サチから背を向ける。後ろから小さく溜め息が吐かれ、彼女の次の言葉を待つ。しかし中々次の言葉が来ない。気になって振り返ると、少しだけ気恥しそうに目を伏せながら此方を見つめる彼女の姿があった。
「……アキト、今日暇?」
「……ぇ」
────何故、そんな事を聞くのだろうか。
その伏し目がちの表情、若干赤らめた頬、緊張してそうな声色。もしかしてと思わない事も無い。いやいや、何の気も無い一言だろう。勘違いするな。しかし彼女の表情や思わせぶりな発言の所為で心臓が軽く跳ねたのは自覚できるレベルであった。
「暇……じゃ、ない」
「暇でしょ、何今の間」
「い、いや……てかケイタ達はどうしたのさ」
「二十三層に行ったよ。最近解放されたでしょ?見て回るんだって」
「……他のみんなも?」
「他のみんなも。だから……今この宿に残ってるのはアキトと私、だけ」
自分とサチ、だけ────。
彼女の背景と化している、現在黒猫団が拠点としている宿を見上げる。今、あの宿には誰もいない。という事はつもりケイタもダッカーもササマルもテツオもいないという事……自分とサチの二人だけという事……。
いやいや、彼女も意識しての発言では無いだろう。まったく、此方を勘違いさせるような素振りを見せてきやがって。思春期男子を弄ぼうったってそうはいかな────
「……あの、さ。どっか、遊び行かない……?」
「────……っ」
うっかり、また彼女の顔を見てしまった。朱に染まった頬と緊張が丸分かりの声音、此方を伺うような瞳にアキトはのまれてしまった。
「……いい、けど」
「っ……ホント!?」
「あ、ああ、うん……」
瞬間、彼女の顔が綻ぶ。心底安心したような、それでいて喜びに満ち溢れたような、世の男を勘違いさせるには充分過ぎる破壊力を持った表情を見せてきて、アキトはまんまとそれを正面から食らってしまった。
「じゃあ何しよっか」
「え……なんかやりたい事があった訳じゃないんだ」
「うん、アキトと一緒に遊びたかっただ、け……ぁ」
「………………」
お互いに顔を逸らす。何だこれ。そろそろオーバーキルなんだが。
「え、えーと……あ、釣りとかどうかな?二十二層に大きな湖があるでしょ?」
「……ああ」
記憶を頼りに二十二層を呼び起こす。一面の森に囲まれた中に広大な湖が広がっているエリアであり、思えば此処で釣りをしているプレイヤーをよく見かけるし、クエストNPCも存在している。
ただ仮に何かあった際、現状のサチのレベルでは対処が難しい。一瞬だけ考えるが、アキトは既に二十二層の攻略を黒猫団の目を盗んで始めている。アキトが懸念してる事自体はあくまでフィールドに出た時の話の上、比較的対応はしやすいし、転移結晶が使える事も確認済みだった。
「良いよ、やろっか」
「やた。あ、じゃあ、どっちが多く釣れるか勝負しようよ。負けた方が何でも言う事を聞くっていうの、どう?」
「やだよ、僕に有利過ぎる」
「私が負ける前提なんだ!?」
驚くサチに、何を今更と鼻で笑う。見た目からなんとなく察しも付くだろうが、彼女は勝負事や賭け事に弱い。理由は至極簡単、顔に出るからである。SAOの感情表現が過剰である事を加味しても分かり易過ぎる為、ポーカーフェイスとは無縁な敗北者である。言い過ぎか。
「てか『何でも』って……年頃の女の子が言っていい台詞じゃないんだよなぁ……」
「っ……も、もしかしてアキト、や、やらしい事考えてる?」
「別に。相手くらい選ぶ」
「……へぇ、そう。ふーん」
彼女の冷たい視線がアキトを突き刺す。内心では彼女の質問に心臓が飛び出る勢いだったのだが、悟られぬよう平静を装って適当にあしらう振りをした。
「……え、何。考えてた方が良かった?」
「ち、がう、けど……もうっ、私準備するから!そこで待ってて!」
「は、いやちょっと……」
そんなアキトの呟きなど聞こえてないかのように踵を返すと、彼女は出掛ける準備をする為なのか再び宿へと駆け込んで行った。恐らく着替えるのだろうが、別に釣り行くだけならオシャレする必要も……。
「はぁ……ったくもう……」
サチの言葉や仕草を思い返しながら、パタパタと手で顔を扇ぐ。勘違いしてしまいそうになる彼女の態度に、堪らず熱くなった頬をどうにか冷まそうとしての事だった。
▼
二十二層────
緑豊かな森林を抜けて湖の畔まで来ると、以前見かけた時と同じく数人のプレイヤーが竿を水面に引っ掛けて座り込んでいるのがチラホラと見えた。既に釣りは娯楽としてSAOでも浸透しているようで、界隈では二十二層にはヌシがいるという噂もある。以来、ここ最近は少ないとはいえプレイヤーがいない日は無いという。この世界が地獄と化して暫く、現実逃避の手段として広まったという話も聞いていたので、余り良いことばかりではないのかもしれない。
釣竿とバケツを手にして輝く水面をぼうっと眺めながら、アキトは目を細めて隣りに立つサチに告げた。
「……あの、僕釣りスキル持ってないけど」
「私もだよ。つまり、私とアキトが対等に勝負できる数少ない娯楽って事」
「なんか聞いてて悲しいな」
先も言ったが、確かに彼女はゲーム好きだが軒並み弱いのだ。ババ抜きもポーカーもすぐに顔に出る。勿論、それは仮想世界も含まれる。そんな自虐、言ってて辛くないのだろうかと真顔で考えてしまう。
「ね、知ってる?この層に、釣った魚持って行くとそれで料理作ってくれる店があるんだって」
「ふーん……」
「今日の夕飯を此処で調達する気で頑張ろうね。あ、今のうちに勝った時のお願い考えとこ。ふふ、何してもらおうかなぁ……」
「負けた時の心の準備でもしといた方が現実的じゃない?」
負ける可能性の方が圧倒的に高いから、勝った時の事よりも負けた時の覚悟を持っとけと伝える。寧ろ勝利時の願いを考えるのはアキトの方では無かろうか。
そう言うとサチは一瞬固まり、朱色に染まる頬を掻きながら恥ずかしそうに呟く。
「……あ、え、えっちなお願いはダメだから、ね?」
「……ハンッ」
「あ、ちょっと!」
サチの発言を鼻で笑ってから、適当な所に腰掛ける。言い方や表情にかなりぐらつきながらも、アキトは興味無さげを装いどうにか平静を保つ。
竿に餌を引っ掛けて、そのまま糸を水面へと弾き出した。波紋が広がっていくのを見つめながら何が釣れるのかを想像していると、すぐ傍でサチが腰掛けて来たので思わず肩が跳ねる。
「……近くない?」
「今女の子としての尊厳を回復してるとこだから」
そんな事しなくても充分魅力的───なんて言えたら苦労は無いのだ。だがこんなにドギマギすると分かっていたら、彼女に興味が無いフリなんてしなかったというのに。若干後悔しながら、アキトは溜息を吐く。
「……分かった、降参。だから離れて」
「釣れたらお刺身にして食べたいなぁ。アキトは?」
「聞いてない……僕も刺身かな。焼き魚とかあんま好きじゃないから。骨多いし」
「あー、分かる。ブリとかサバとかサンマとか、食べやすいのなら好きなんだけど」
「それに醤油も無いし味付けは塩になるかな」
「味気無いなぁ」
「塩気はあるでしょ」
確かに、と小さく笑う彼女を見てつられて微笑む。お互いに黒猫の名を関するギルドに所属しているというのに、なんとも可笑しな話だ。
「釣る前から何言ってんだって感じだけど……お」
ピクリ、と竿の先端が反応する。水面の底で何かに引かれる感触に、手元の力が自然と強くなる。どうやら何かが食い付いたようで、アキトよりも隣りのサチが過剰に反応しており、慌ててアキトの肩を叩いてくる。何なら燥ぎまくっていた。
「あ、アキトアキト!竿、竿引いてる!」
「分かってるって、叩くな叩くな」
スキルが無いからこそ、これが最初で最後のチャンスかもしれない。そう思うと不覚にも盛り上がってしまう。サチと密着し、期待を寄せられているこの状態で、逃げられたなんて結果を許せるはずがない。というか、一応勝負なのに彼女が自分よりも興奮しているのは何故だろうか。
筋力値に任せて竿を引き上げ、水面から飛沫が弾ける。勢い余ってサチと二人、丘で腰を打ち付けて見上げれば、竿に繋がる糸の先、餌を仕掛けていた釣り針に生き物の影が見える。
「「……!」」
アキトとサチは顔を見合わせると、慌てて糸を手繰り寄せる。そうして釣れたものの正体を確認すると───手のひらに収まってなお小さい、稚魚レベルの魚だった。
二、三度瞬きした後、二人して真顔になる。
「……し、シラスよりは大きいね」
「ししゃもよりは小さいけどな」
「え、これ……夕飯に出す?」
「や、これ食べるのは流石に可哀想……」
流石に夕飯にするには心が痛む程の小ささで、愛苦しさすら感じる。なんとなく食べにくいという理由でそのままリリース。気を取り直してまた釣り糸を湖へと投げ込んだ。
現状二人の釣りスキルでは、今の魚が大きさ的にも釣れる確率的にもピークだろう。此処で夕飯の食材を調達するのは無理があると既に理解しているのだが、それでもお互いに何も言わず再び釣りに没頭した。
「……なーんか、思ったより全然かからないね」
「玄人でもボウズは珍しくないらしいからね」
「……坊主?」
「一匹も釣れないって事」
自分から吹っかけた勝負の癖に待ちぼうけが性に合わないのか、それとも飽きたのか。サチはその場に留まる事無く席を離れては忙しなくウロウロし、漸く座ったかと思えば竿を見てソワソワと膝を動かしている。
「……ねぇ、しりとりでもしない?」
「飽きてんじゃねぇよ」
「だ、だって……全然釣れないし。なんか静かだし」
「……はぁ」
とは言いつつ、アキトも全然釣れない上に静かなこの空間に若干の居心地の悪さを感じてはいた。森林浴にも訪れるプレイヤーがいる程に気持ちの良い空気が流れているこの場所では、静寂こそが醍醐味という節がある。にも関わらず沈黙が苦痛になりつつあるのだからこの二人は流石である。
「じゃあ私からね。……“リンゴ”」
「“ゴール”」
「る……“ルビー”」
「“ビール”」
「……ちょっと」
「何」
「やってるでしょ」
「やってねぇよ。てか、やってるって何」
「『る』攻めしてるでしょ」
「釣りで勝負にならないからこっちで勝負って事なんじゃないの?」
「こんのっ……る、る……あ、“ルール”!」
「“ルミノール”」
何故かアキトとサチの、釣竿を両手に持ちながらの仁義無きしりとり合戦が開幕した。気合いを込めた単語を彼女が繰り出す度に、力が竿に振動して釣り糸が揺れ動き、その振動が魚を警戒させて結果釣れないという負の連鎖。
無論彼女は気付いておらず、アキトはしりとりを続けながらも竿に意識を傾けている。そうして時間を費やすも中々竿にかかる事はない。
昼食中にもしりとりは続き、三時を回る頃にはそろそろ釣りもしりとりも終わりにしようとした時だった。
「……“ルート”」
「“トンネル”」
「る…………“留守”」
「“スマイル”」
「っ………………“ルーマニア”」
「“アルミホイル”」
「もう!!……あっ!“ルーペ”!」
「“ペアレンタルコントロール”」
「!?……って、あ!」
「る」で攻めるアキトに憤慨するサチだったが、突如意識がアキトに逸れる。視線を傾けてみれば、サチの持つ竿の先端が下へと引かれ、水面の中へと糸が吸い込まれていく。どうやら彼女の釣り針に魚が掛かったようだった。
あれだけ騒いでいたにも関わらず餌に食い付いたなんて、とんだ無警戒な魚がいたものである。しりとりは一時中断し、今度はアキトがサチの元に駆け寄った。
「引いてるね……手伝おうか?」
「大丈夫!これを釣れば、アキトと引き分け……!」
「めちゃくちゃ拘るね。何して欲しいの僕に」
そんなに叶えて欲しい願いがあるのだろうか。彼女にしてはやけに勝負事に拘る。金銭的なものだったらどうしよう。黒猫団のみんなで家を買う為の資金繰りをしてる最中なので無駄遣いはできないのだが。
アキトは小さく溜め息を吐きながら彼女の傍まで歩み寄ると、その持ち手を掴んだ。
「っ……アキト」
「良いでしょ、手伝っても。一応夕飯が掛かってるし」
「……『手伝ってやったんだからノーカン』とか言わない?」
「勝つのに必死か。言わない言わない。どんだけ拘んの」
「……じゃあ、お願い」
「『せーの』で引っ張ろう。いくよ……せーのっ!!」
二人同時に力を込め、思い切り竿を引く。サチだけでは大変に見えた引き合いも、アキトが手を貸しただけでそれは勢い良く湖から飛び上がった。
陽の光に照らされて、弾けた飛沫と共に煌めく鱗。艶めかなその身を空へと舞い上げ、天を仰ぐ。スキルを持ってない現状では二度とお目にかかれないであろうその魚は、釣り針からその口を放して翻り───湖へと戻って行った。
「「……あ」」
あまりの優美さに捕獲も忘れてただただ見上げていたアキトサチ。その高級魚が湖へと帰っていったのを見て、二人は漸く我に返り、思わず顔を見合わせる。引き上げるのも忘れて二人並んでぼうっとその美しい魚を最後まで眺めて終わった事実が余りにも間抜けで、思わず吹き出した。
「っ……ふふっ……ふふふ……!」
「……くっ、はは……!」
涙が出るまで一頻り笑い合い、過呼吸気味になったサチが仰向けに倒れる。
「あーあ、逃げられちゃった……」
「刺身にしたら美味しかったろうな……醤油無いけど」
「この湖、ちょっと難易度高過ぎない?」
「いや、二十二層の湖は比較的釣りやすいって、この前釣りしてたニシダさんって人に聞いて……あ」
そこまで言って漸く思い出す。釣りを始める前に気付いて、避けなければいけなかった事を。アキトの失態したと言わんばかりの表情を見て、サチは訝しげに瞳を細めて追求する。
「え、何。どうしたの?」
「へ、あー……いや、何でもない」
「言ってよ、もう。気になるじゃん」
顔を近付け、そう問うてくる彼女。その距離感にドギマギしながらも、アキトは申し訳無さそうに説明を始める。
「……その時……二十二層の湖の中でも此処が一番難度が高いらしい、と……初心者には中々厳しいんじゃないか、と聞き、まして」
「……えー」
「ゴメン、すっかり忘れてた」
湖付近のNPCからのクエスト完了の手続きを終えた帰路で、かなりの高年齢プレイヤーに話しかけられたからよく覚えている。釣りが趣味で現実でも休日に嗜むそうだ。
それにしたって二十二層は百ある階層から見ても下層なので、各湖毎の難度差はそれ程大きくないと踏んで禄に意識してなかった。この場所はそもそも初心者には無理ある難易度だったのかもしれない。
「けど、それにしたって何でそんな設定に……」
「あくまで噂だけど、この湖にはヌシがいるらしい」
これも釣り師の中で噂になっているだけで信憑性も無く、情報としての需要も少ないせいかアルゴも認知していない事だった。しかし、その話を聞いてサチの目の色が変わった。
「ヌシ……それも、やっぱりお魚なのかな」
「多分そうだと思うけど……え、何。食べる気か、ヌシを」
《月夜の黒猫団》の名に恥じない、まるで獲物を前にした猫のような真剣な眼差しであった。
「ヌシって聞くと大きいイメージあるよね。お刺身何人分くらいになるのかな」
「だから醤油が無いんだっての」
────そもそも釣れない。ついでにワサビも無い。仮に釣れたとしても刺身を美味しく食す為に、釣りスキルと料理スキルの底上げが最優先事項となったきっかけであった。
▼
「楽しかったね、アキト」
「……ああ、うん」
────思ったよりも、と言いかけて口を噤んだ。
「お、素直」
「……煩い」
照れくささを誤魔化すように視線を逸らす。前線で命を張る事無く、こうしてのびのびと現実でやっていた遊びの延長線上の事だけやり続けて、クリアするまでの時間を過ごせたらと思える程に。ケイタ達と共に行動するようになり、暖かな雰囲気に自分がいられている事実を自覚する度、彼女の圏外と圏内での表情の違いを自覚する度にそう思う。
……このまま、彼女が戦う事無くクリアされるその日を迎えられたら。それをケイタ達に伝える勇気すら無いのが、なんとも情けない話だと自虐的に笑う。
「じゃあ、私の勝ちね」
「……えっ?」
唐突に繰り出された発言に、アキトは呆然とサチを見やる。何故か得意気に胸を張ってる彼女を、本気で何を言ってるのか分からないといった顔を向けていると、彼女が眉を寄せながら口を開く。
「勝負だよ、勝負。私の勝ちね」
「……いや、釣った魚の数は引き分けだったじゃん」
「私の方が大きかった。アキト、手伝ったからってノーカンにしないって言ったよね」
「必死だな……しりとりは僕の勝ちだったでしょ」
「そっちは決着ついてないでーす」
「それにサチのは釣れたって訳じゃない。僕のはリリースしたけどサチのは普通に逃げられただけじゃん」
「必死じゃん!アキトの方が必死じゃん!」
お互いに大人気ないやり取り。なんとなく負けを認めたくないアキトだが、サチはこれでもかと食い下がる。正直そこのルールを明確にする程の真剣勝負だと思ってなかったので、ヒットした回数と大きさで勝負するならサチに軍杯を上げても良いのだが、それとは別に余りにも必死なので此方から折れたくもなってくる。
「……はぁ、もう分かったよ。そっちの勝ちで良いよもう」
「……なんか、そんな風に譲られるとそれはそれで気持ち良くない」
「面倒かよ」
「あ、女の子にそういう事言っちゃいけないんだよ!」
「面倒かよ」
サチからの忠告を聞いた上での二回目。彼女からの拳が肩を軽く小突いた。むくれる彼女を横目に、アキトは小さく息を吐く。そして、彼女から下されるであろう勝者の報酬、これから言い渡されるであろう願いを待ち受ける。
「それで?」
「え?」
素っ頓狂な声と表情のサチと見つめ合う。もしや、自分から言い出した事を忘れているのではないだろうかと、言葉を続けた。
「……いや、だから……そんなに勝ちに拘ってまで、僕に何させたかったのさ」
「あ……」
そう尋ねた途端、サチは膝を抱える腕の力を強め、視線を目の前の湖へと移した。そこから特に何か口にする事無く数秒が経過する。
「……何だよ、言い難い事なの?」
「……そういう訳じゃないけど」
「……あ、お金?」
「もう!違うよ!」
家買うのにお金を貯めてる事もあるのであまり切り崩しては渡せないけど……などと思っていると、サチは首を横に振った後、意を決したような表情で呟いた。
「……無理、して欲しくないなぁって」
「……ぇ」
どくん、と心臓が跳ねた気がした。不安そうに、心配そうに此方を見つめる瞳がそこにある。彼女の告げた言葉の意味が分からず────いや、本当は分かっているけれど、何故彼女にそれを言われた事実が、自身の動揺を顕にした。
「……何言って」
「アキト、私達に内緒で狩りに出てる事あるでしょ」
────何も言えず、また視線を逸らした。
彼女の言葉は当たっていた。彼らが寝静まる頃合いに一人宿を飛び出しては、荒野で一人刀を振るった。少しでも役に立てるよう、少しでも彼らの夢の手伝いができるよう、と。けどその根幹にあったのは、いつだって“死”の概念に怯え苦しみ、人知れず涙を流していた隣りの彼女だった。
けど足並みを揃えないその行為に、何故か罪の意識を感じていた。別に後ろめたい事をしてる訳ではないはずなのに、彼らを裏切っているような気がしたから。
「きっと、私達の為なんだよね」
彼女は、陽の光に照らされて煌めく水面を見つめていた。その頬を僅かに朱に染め、口元が小さく緩んでいて。嬉しそうに告げるその声音にアキトは耳を塞ぎたくなった。
「……そんな高尚な話じゃないよ」
彼らの為だとか、サチの為だとか体の良い言葉ばかり並べていても、本質はずっと自分の為だった。正直、ケイタ達の攻略組になりたい夢に共感している訳ではない。それでも、こんな自分を受け入れてくれた彼らの恩に報いる気持ち以上に、そんな彼らに必要とされたい欲求の方が勝ってしまっている。死にたくないと縋るサチを助けられる存在になりたいと、そう願っている。
彼らに対しての、泥のように濁った自己承認欲求。黒猫団の為だなんて、それこそ誤魔化しの台詞でしかない。けれど、それを言って嫌われる勇気さえない。ぬるま湯に浸かっているような、なんとも汚くセコい話だ。自分さえ良ければ良いなんて、最前線で情報統制している攻略組と何も変わらない。
「ね、クリスマスの時に言った事、覚えてる?」
「……覚えてない」
「“アキトに、《
……覚えてる。忘れる訳がない。あの時二人一緒にクリスマスツリーを見た事も、来年はみんなで見ようと約束した事も。
「っ……聞いたかな、そんな恥ずかしい台詞」
忘れない。戦う事を決めたのはあの日だった。
彼女の横顔があまりにも綺麗で愛おしくて、もうただの一度だって恐怖と悲哀の涙で曇らせたくないと願った事も、何もかも覚えていた。
「あの時よりも……私達の事好きになってくれて、良かった」
「────……」
……だからこそ、戦ってきた。最初は彼女の為だった。けど次第にケイタやダッカー、ササマルにテツオ、みんなと紡いだ絆が大切になって、唯一無二になって、決して失いたくないものに変化した。
それこそ、今では彼らに依存しつつある程に。もうそれは、彼らの為ではなく自分の為だった。切っ掛けになった想いと、今の想いはまるで違う。自分は酷く不純でみっともなくて、それでいてすぐ折れてしまうほどに脆い。攻略組のような勇者達になんて到底なれやしない、劣悪な紛い物で、半端者だ。
だからこそ、いつだって恐怖している。今だって二人きり、《圏内》で過ごしていて安全なはずなのにも関わらず、自分達のこの生活が決して長く続かないだろう予感があるのは、どうしてだろうか。彼女を死の恐怖から守る為にレベリングに勤しみ、攻略組の平均値に手が届くかもしれない程になっているというのに、こんなにも不安が拭えず焦燥感が消えてくれないのは何故なのだろうか。
「……アキトが私達の為に頑張ってくれてるの、凄く嬉しいよ」
……違う。全部自分の為だ。みんなに認めて欲しくて、必要とされたくて、失いたくなくて、何処にも行って欲しくない、子どもみたいな我儘が根幹なんだと、みっともなく喚けたら良かった。
でもね、とサチは言葉を続けた。その瞳は、もう湖では無く真っ直ぐと此方を見据えている。
「アキトが私達を心配してくれるみたいに、私達もアキトの事が心配だよ」
「……っ」
「アキトが私達を好きになってくれたように、私もアキトの事────……っ」
会話はそこまでだった。湖から魚が一匹、静寂を裂くかのように跳ねたからだった。二人して肩を震わせ、思わず視線が湖に向かう。再び戻した時、互いの距離に我に返った。気が付けばボール一個分程の距離しかなく、ほぼ当時に飛び退いた。
「……び、ビックリしたね……」
「……ああ、うん……」
「あはは……はぁ……」
誤魔化すような笑いが、溜め息に変わるサチに視線を向ける。今彼女は、何を言葉にしようとしてくれたのかなんて────……それを聞く勇気なんて、自分にあるはずも無いけれど。それでも。
「……別に心配するような事じゃない」
「え?」
「ソロでしか受けられないクエストをやってるだけ。死ぬようなレベルのヤツじゃないから、アンタが心配するような事は起きないよ」
「あ……そう、なの?よかった……」
息を吐くような嘘。 けれど、彼女を心配させない為の嘘。それが優しい嘘だと、信じてる。そう言い聞かせる。彼女が少しでも安心してくれたなら、それだけで今は何も要らなかった。
「けど、無茶はしないでね。これ、“約束”だから」
「はいはい」
「ほら、指切りげんまん」
「子どもか、あやすな」
無理矢理に左手首を捕まれ、小指を絡め取られる。強引なやり口でも構わないと思ってるのか、されるがままにしているとサチは満足そうに指切りした。
……なら、それならばと。この約束事に乗じて彼女にも誓って貰おうと、アキトは口を開いた。
「なら……サチも、無茶しないでよ」
「……ぇ」
「今やってる攻略だよ。ケイタ達に言って、前衛の変更は考え直して貰って────」
「……アキト」
槍から盾持ちにして前衛を任されそうになっている現状を、彼女は無理して続けている。無茶に関しては人の事は言えないだろと、そう言葉を重ねようとした時────サチは、目を見開いて驚いたような表情を浮かべた後、柔らかな笑みを浮かべてその小指に入れる力を強めた。
「私、大丈夫だよ」
「────ぇ」
この時、何故彼女が驚いたような表情を浮かべたのかは分からない。けれど、その後の表情は────何故か此方を安心させる為だったような、そんな気がした。
「アキトが一緒なら、怖くないよ」
────それが彼女の優しい嘘なんだと、この時のアキトは知らなかった。
▼
「はぁ……はぁ……」
視界が歪む。頭痛が酷い。精神の磨耗が著しく、気を抜けば意識が遠のきそうになる。けれど、たった今首を跳ねて殺した敵が光の粒子となって飛び散った瞬間に、頭上にレベルアップを告げるファンファーレが鳴り響いた事で再び意識が覚醒する。
何故か今、走馬灯のようなものを見た気がした。以前、サチと共に釣りに行った時の記憶が、何故か鮮明に呼び起こされ────懐かしんだ瞬間に、アキトはその刀の刃先を自身の右足に突き立てた。
「ぐぅっ……ぁ……!」
自身の体力が減少し、それでもなお止めない。捻り込むように刀を深く突き刺し、不快感が最高に達した瞬間、それを引き抜いた。あと少しでHPは危険域に陥り、視界が赤く染まる寸前だった。
今、自分はサチを────黒猫団を過去にし、思い出にし、懐かしんだ。今の自傷行為は、彼らを既に死んだものと割り切ってしまった自分に対しての罰だった。
まだ望みがある、希望がある、願いがある、野望がある。まだ、失ったものを取り戻せる可能性があるというのに、これまでの努力を無駄にするかのような思考をした。
「……あと、二日」
呪詛のように言い聞かせる。途端、先程思い出した彼女のセリフを思い出し、アキトは小さく微笑んだ。
「むりなんて、してないよ」
もう誰もいないのに。
声が返ってくるはずもないのに。
見守ってくれているはずもないのに。
それでも身近に感じたくて、必死になって取り繕う。 口を開き話し続けていれば、傍に居てくれるような気がしたから。
「……僕は、大丈夫だよ」
この嘘だけ。この嘘だけで良いから。
どうか、許してくれるかな。
────嘘吐き。
────死んだら、許さないから。
【誓約 五】
休んでる暇など、一秒足りとも存在しない。