ベンチに座っていると、仰向きに寝ていた女の子が静かな声で「わたくしはもう駄目ですわ」と言う。
彼女は長い髪を私の膝の上に敷いて、真っ白で人形のように整った顔をその中に横たえている。雪のような頬は血色豊かに僅かな紅を差し、唇は瑞々しく艶やかだった。諦めるには早すぎる気がした。
しかし、私の気持ちに反して、彼女は頑なな声音で「わたくしはもう助かりませんの」と言った。私はこれはもう手の打ちようがないな、と察した。
「もうダメなの? 歩けそうにない?」
「ここから一歩も動けませんもの」
断言をして、彼女は大きく目を見開いた。大きく光を秘めた目で、はっきりとしたまつ毛の中には丸く磨かれた琥珀が埋まっている。その輝きの表面には、彼女を見下ろす私と大きな木が映っている。
私は樹液の中に固められた瞳を眺めて、これだけ元気なのにダメなのかと思った。それで、額に手を当てて体温を測りながら「やっぱり起きられそうにない? 大丈夫?」と聞き返した。すると彼女は少し眠たげに私を見つめたまま、やはり静かな声音で「ダメですわ。疲れてしまったんですもの。仕方ありませんわ」と言った。
その様子はとても元気そうだったけど、そこまで言われると流石に私も心配になってきた。
「意識は大丈夫? はっきりしてる?」
「はっきりしてる? って、ちゃんと話しているじゃないですか」
ニコリと笑う彼女の姿に少し照れてしまって、私は視線を逸らした。私の前で心配そうにしている燈ちゃんと睦ちゃんの方を見ながら、膝枕をされている少女──祥子ちゃん──のことを考える。どこまでが冗談で、何処までが本気なんだろうか。
そんな私の心配を置き去りにして、しばらくするとくすくす笑いながら彼女はこう言った。
「わたくしが死んだら、ちゃんと埋葬してくださいましね。毎日お花を添えて、みんなの音楽を聞、きゃっ!?!?」
「ちょっと歩き疲れただけで、何言ってんの?」
「立希ちゃん」
元気に死後のことを語る祥子ちゃんの首筋にペットボトルが当てられ、いつも余裕があって楽しそうな彼女からは聞くことがない悲鳴が聞こえてきた。
私はそのペットボトルを受け取る。犯人は、半目で私達のこと見つめていた。馬鹿馬鹿しいと責める視線の向こうに、様子を伺う心配の感情があるのを私は知っていた。
「はい。飲み物買ってきたから。……もちろん、燈の分もあるよ」
「あ、ありがと」
燈ちゃんの分と言いながら、ちゃんと全員分の飲み物を買ってきてくれた立希ちゃんに思わず笑いがこぼれる。素直じゃないけど、五人のことを考えてくれる優しい彼女に、私達はいつだって助けられている。
「熱中症でもないみたいだし、それ飲んだら行くから」
「えー? 私、もう少しそよの膝枕を堪能したいですわー。昨晩は今日が楽しみで眠れなかったんですのよ?」
「知らないし」
「横暴ですわ! ……そうだ! 立希も横になってはいかが? そよの膝枕は寝心地最高で動く気なんて失せますわ。もし気になるなら代わってあげてもよろしくてよ」
「あれ、祥子ちゃん動けないんじゃ……?」
「ほらほら、順番に行きますわよー!」
「いや、別にいいって!」
「恥ずかしがることありませんわ。もちろん、後で睦と燈にも代わってあげますから、楽しみにしててくださいまし」
「膝枕、楽しみ」
「睦ちゃん!?」
先ほどまでのやり取りは何だったのかと言いたくなるほどの勢いで起きた祥子ちゃんは、いつものみんなを引っ張る勢いで立希ちゃんを寝かせる。
私と立希ちゃんの視線が絡む。人に甘えるタイプじゃない立希ちゃんが、私の膝の上で寝ているという状況がなんだか恥ずかしくて、私達はお互いに照れてしまう。
「あ、そよも後で私達四人の膝枕を堪能する権利がありますから、待っててくださいね」
「え!? 私も!?」
「もちろんですわ」
ふんすと腕組み、自身ありげに頷く彼女を止められる人はもういない。こうなったら、この木陰で全員が膝枕したりされたりするまで動けないのだろう。
ワイワイと騒ぐみんなを見ながら膝に乗った長い髪を撫でる。立希ちゃんの重さがくすぐったいが、あれだけ反抗してた上に恥ずかしがってるというのに起き上がる様子がない辺り、私の膝は評判が良かったのかなと思った。
「みんな、元気だねぇ」
「それはもちろんですわ。だって、五人での楽しいピクニックですもの」
祥子ちゃんの言葉に他のみんなも頷いている。そして、それは私も完全に同意だった。
このやり取りが終わる頃には膝の感覚がなくなってしまいそうだったけれど、後で四人の膝で寝られるのなら別に構わない。しびれが取れるまでは、沢山堪能させてもらうことにしよう。
太陽はまだ緩やかに上っていた。
大樹の下にあるこのベンチを駆け抜ける涼風は、火照る頬を少しだけ冷ます。
桜が散って、雨が上がる。
柔らかな輝きに力がこもる。キラキラと緑の隙間を縫って差し込む夏日影。
私達は、新しい季節を迎えた。
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「みんなで遊びに行きたいですわ!」
発起人はいつものように祥子ちゃんだった。練習が終わり、片付けをしている途中で急に思いついた、という様子だった。
私はベースをケースにしまってから、祥子ちゃんの方を振り向いた。
「遊びに?」
「ええ。みんなとも仲良くなりましたが、せっかくなら遊びに行きたいと思いまして」
たまには練習だけではなく、みんなで一緒に遊びに行きたいということらしかった。
私は賛成だったけど、その声を上げるよりも早く、立希ちゃんが「は?」と声を上げた。
「バンドなのに、練習しないで遊びに行ってどうすんの?」
「まあまあ、立希ちゃん」
「たまにはいいじゃありませんか。親睦を深め、結束を高めるのも大切ですわ。……ちなみに、燈はどうですか?」
「わ、私?」
みんなの視線が燈ちゃんに向いた。
燈ちゃんは急に話を振られて驚いたように声を上げたけど、しばらく考え込むそぶりを見せてから「私も、みんなと遊びたい」と答えた。それを受けて祥子ちゃんは自信ありげに笑みを浮かべた。
「ほら、燈もこう言ってることですし」
「……と、燈が行きたいなら、しょうがないな」
燈ちゃんの一声に、立希ちゃんは一瞬で陥落した。
正直なところ、立希ちゃんは文句を言いつつも最後は一緒に来てくれそうな気がしていたから、結局時間の問題だったかもしれないと思った。
「睦ちゃんはどう?」
立希ちゃんが賛同したのを見てから睦ちゃんに話を振ると、睦ちゃんは表情を変えないまま静かにうなずいた。
「決まりですわね」
「それで? どこか行きたい場所とかあるわけ?」
「いえ、みんなと出かけたかっただけですから、場所は全く決めてませんわ」
「なにそれ」
「なら、まずはそこからだね。誰か、行きたい場所とかある?」
お互いに顔色を見ながら行きたい場所を考えている。私も少し考えてみるが、正直なところ行きたい場所なんてほとんど思いつかなかった。みんなと一緒なら場所なんてどこでもよかった。
みんながしばらく案を出そうとしていると、やがて燈ちゃんが「えっと……」と手を挙げた。
「燈、どこかいいところがありますの?」
「うん。実は、ヒマワリを見に、行きたくて……」
「ヒマワリ?」
「う、うん。綺麗に見えるところがあって」
詳しく聞いてみると、どうやらこの辺りから電車で一時間ほど離れた場所にある自然公園に行ってみたい、ということだった。アスレチックや芝の広場なんかがあって家族連れが多いようだが、この時期は視界一面を覆うほどのヒマワリ畑が綺麗ということで有名らしい。区画ごとに様々な品種のヒマワリが並ぶ姿は、スマホの検索結果に出てきた写真を見ただけでもかなり壮観だった。
「ヒマワリ畑。いいですわね」
「うん。気に入ったのがあったら、種を買うこともできるんだって」
燈ちゃんが興奮気味に語っている。どれくらいの種類かは分からないけど、収集癖のある燈ちゃんにはたまらないのかもしれないなと思った。
公園の案内を見ながら盛り上がってしまった私達は、そのままの勢いで行き先をヒマワリ畑に決定した。
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「みんな~」
当日。約束の時間に駅前へ向かうと、そこにはもう四人が揃っていた。
時刻はもうすぐ十時になろうとしている。一応時間通りに来たつもりだったけど、どうやら私が一番最後になってしまったらしい。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いえ、時間通りですし大丈夫ですわ」
祥子ちゃんと話をしながら少し息を整える。
みんな外を歩くということで、動きやすい恰好をしていた。スタジオでの練習などでたまに私服でいるのを見たことはあるけれど、それでもやっぱりどこか目新しい。
祥子ちゃんはレモンイエローのレースブラウスに、モスグリーンのコルセットスカートを履いていた。全体的に涼しそうだが、花模様のレースが可愛らしく上品な雰囲気だ。色合い的にヒマワリイメージなのかなと思った。
「おはよう、そよちゃん」
「うん。燈ちゃん、おはよう」
肩をゆっくり上下させていると、燈ちゃんが少しだけ心配そうに私の方に近寄ってきた。
薄い生地のパーカーとショートのデニムパンツ。たまに土日の練習の時に着ているのを見たことがある服だ。上のパーカーは七分程度の袖は口も広くてゆったりとした印象をしている。全体的に水色で、服のデザインも合わさってユニセックスな雰囲気がある。
燈ちゃんと挨拶をしたところで、祥子ちゃんが「えー、全員揃いましたわね」と言った。
「改めまして、おはようございます。本日は天候に恵まれ、先日から予定しておりましたピクニックを行いたいと思います。目的地はヒマワリ畑。今日は皆さん、楽しんでいきましょう!」
「わぁ……!」
挨拶を受けて小さく拍手をすると、白いワンピースを着た睦ちゃんも一緒になって手を叩いてくれる。あまり感情の出ていない睦ちゃんは、どこか西洋人形のような無機的な美しさがあった。
祥子ちゃんは私達の拍手に一礼を返して、時計を確認する。時刻は先ほど十時を超えた。
「まだ少し時間はありますが、一応ホームに行きましょう」
「うん」
改札を通り、上の方にある電光掲示板を少し眺める。確か目的地の公園には──
「──五番線の十時十五分、快速」
考えていた言葉の続きが出てきて思わず肩が跳ねる。驚いた勢いで声のした方を振り向くと、立希ちゃんがいた。
今日はいつものようなタイトスカートではなく、パンツスタイルだった。上は黒のシャツに、リネン地の白いジャケットで、いつものクールビューティな立希ちゃんだ。
「そこから途中で乗り換えて、もう二駅。十一時二十四分に着く予定」
「ありがとう、立希ちゃん」
「別に」
立希ちゃんにお礼を言って、改めて路線図の方を確認する。立希ちゃんの言っていたルートを指でなぞって忘れないように覚える。ちゃんとルートの確認をしていなかった。
「よし」
ルートを把握して視線を戻すと、人ごみの向こうに消えそうな四人の背中が目に映る。立希ちゃんが三人に追いついたところらしく、何か言葉を交わすとみんなが私の方を振り向いた。みんながこちらに手を振っている。
私は慌てて「待って!」と声を上げ、四人を追いかけようと走り出した。
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みんなの膝枕はとても良かった。
人に膝枕してもらうことなんて今までなかったけど、なんていうか、不思議と安心感があった。お母さんが帰ってきたときに私の膝に横になっているの理由が少し分かった気がする。これは確かに癖になりそうだ。
「そろそろお昼だし、ご飯にしない?」
「そうですわね。日差しも強いですし、この木陰で食べましょうか」
正午を過ぎて、太陽は西の方に移っていた。雲はほとんどなく、日向はアスファルトが揺らめいて見えるほどに熱を持っている。
本来はここからもう少し行った先にある芝生の広場で食べる予定だったが、この気温だと熱中症になる方が早いだろう。ベンチもあるし、みんなで食べるにはちょうどいい場所だった。
レジャーシートを広げて、そこにみんなで用意したお弁当を並べる。
おにぎり、サンドイッチ、唐揚げに玉子焼き。いろんな料理がシートいっぱいに広げられていた。
「こうやって並ぶと豪華ですわね」
「本当にね。……あ、よかったら写真撮らない?」
「いいですわね! みんな、集まりましょう」
膝立ちで少し動き、お弁当を前にみんなで並ぶ。
私は腕を伸ばしてスマホの画角にみんなが綺麗に収まるよう調整した。
「睦ちゃん、もうちょっと寄れそう?」
「こっち、空いてるよ」
睦ちゃんが燈ちゃんの方に寄って、メンバー全員が綺麗に画面に収まった。
私は「じゃあ、撮るよー」と声をかけてから、何枚か写真を撮った。みんながメインの写真と、食事も込みの写真を何枚か。
それから、撮った写真を開いて、ちゃんと撮れているかを確認する。一枚だけ燈ちゃんがぎゅっと目を閉じてしまっていたけれど、それ以外は完璧だった。私はその写真だけ別フォルダに移してスマホをしまった。
「うん、ばっちり。ありがとう。写真、後でグループに送っておくね」
「お願いしますわ」
シートに円形に座り直して、私達はお弁当に向き直った。
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お昼を食べ終わると、今日の目的を見にヒマワリ畑に行くことになった。
マップを出して場所を確認するが、今私達がいる場所から芝生の広場を超えた先にあるらしい。
「それじゃあ、行きますわよ!」
日焼け止めを塗りなおして、途中の売店で買った麦わら帽子をかぶる。
日陰ではまだ風もあって涼しかったが、日向の方はじりじりとした熱量が降り注いでいた。正面に落ちた影は案内をするように行き先に向かって伸びている。
広場までの道はただただ道が続いているだけで、視界に入るものは遠い山の向こうからこちらを覗き込んでいる入道雲くらいだった。
「暑いねぇ」
「そうですわね。みんな、体調には気をつけていきましょう」
「燈、大丈夫?」
「うん。ありがと、立希ちゃん」
立希ちゃんが燈ちゃんの心配をしているのを横目で見ながら歩いていると、芝生の辺りまでやってきていた。
お昼を食べていた木の辺りからだと、手前が小高い丘になっていて奥の様子が見えていなかったが、芝生の中央辺りは大量のテントが立ち並んでいた。
「あれ、なんでしょうか?」
「蚤の市だと思う」
「蚤の市?」
「骨董品とか、年代物の商品を売ってる屋外イベントで──」
何をやっているのか分からない祥子ちゃんに、燈ちゃんが早口で説明を始めた。
色とりどりのテントの下には多くの人が行き交って、たくさんの
デスクを少しだけ彩ってくれそうな小物、アクセサリーとして使えそうなリボン、デザートにはちょうどいい焼き菓子。様々な商品に横を通るだけでも思わず目移りしてしまう。
「そよ、行きたいの?」
私がチラチラと見ていると、睦ちゃんがじっと私の方に視線を向けていた。
「興味はあるけど、今日はヒマワリ畑を見に来たんだし……」
「別にどっちも見ればいい。違う?」
時間は大丈夫かと思って時計を見れば今は14時前。ヒマワリ畑を見にいくことを考えると、あまり時間はなさそうな気がした。
「今日は楽しむために来たんだから、好きなことをしたらいい」
「そうですわね。わたくしも先ほどから気になってましたから、みんながよろしければ是非……」
反応を見ると、みんな少し興味がありそうだったから、ちょっとだけお店を覗いてくることにした。
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「わぁ……!」
「広いですわね!」
ヒマワリ畑は、蚤の市の奥にあった。
芝生のエリアから少し坂を下っていった先では、視界いっぱいにヒマワリの海が広がっていた。坂の上から消えているこの形式でも、ヒマワリ畑の全てではないという事実が、その広さを伝えていた。
広大な景色に足を止めていると、燈ちゃんが興奮した様子で遠くの景色を見つめていた。
「このヒマワリ畑、敷地面積六十ヘクタール。全種類で総計五百万本を超える数が育てられてて、並んでいる品種は──」
「燈、ちょっとストップ、ストップですわ」
祥子ちゃんに嗜められた燈ちゃんは、一瞬だけしゅんとしつつも、改めて聞く体勢に入った祥子ちゃんへマシンガントークを続けていた。
そもそも、ここに来たいと言ったのは燈ちゃんだったので、こうして喜んでいるところを見ると、一緒に来たかいがあったなと思う。
坂の下の方へと目を向けると、そこには既に来ている見物客が小さなヒマワリの写真を撮ったり、自分達よりも背の高いヒマワリの向こうへと姿を消している様子が目に映った。
私は楽しそうに話している燈ちゃん達の方に視線を戻した。
「はーい、そろそろ降りて近くまで見に行きますよー」
「うん! 行こう!」
「げ、元気ですわね、燈……」
「燈、坂転ばないように気をつけて」
連れ立って坂を降りていく。
坂の傾斜を均した部分やヒマワリ畑の手前には、膝の高さほどもない小柄なヒマワリ達が植えられているようだった。よく見ると、花壇ごとにその品種の名前が書かれたプレートがつけられており、見比べれば花弁の色や形が少しずつ違っている。
「このヒマワリ、なんていうかタンポポの綿毛が黄色くなったような……」
「その品種は、確かに一般的なヒマワリとは少し花の形状が違うけど、八重咲きしているだけでヒマワリの一種だよ」
パッと見ても分かるほどに形が違うもの。一般的なイメージとは違う桜のような色をしたもの。
初めて見るような色や形のヒマワリの間を抜けて下まで降りてきた。
坂の下の方では、お土産などを売っている売店が建っていて、店頭では飲み物や園内で植えられている品種の種を販売しているようだった。
「あれ、燈ちゃんが言ってたヒマワリの種を売ってるってところかな?」
「燈、後で気に入ったの買いに行かない?」
「行く!」
品種はここまでの道中や、ここから見えるだけでも相当な数があった。
流石にその全種を売っているわけではないのかもしれないが、それでもかなりの選択肢になるだろうことは想像に難くない。
ヒマワリ畑の周囲は、高くても膝や腰くらいまでのサイズのものがほとんどだったが、逆に中央は身の丈を越えようかというほどのサイズのヒマワリが並んでいた。
「ここ、ヒマワリ畑が迷路になってるらしいですわよ?」
「迷路に?」
「ヒマワリが壁になって、迷路ができてるみたい」
睦ちゃんが指差した先には、少し大きな看板があって、確かに迷路になっているという内容が書かれていた。
一応、入り口にはヒマワリの紹介がついたマップが置かれていて、本当に迷ったときはそれを使って場所を把握できるようにはなっているらしかった。
「やるの?」
「面白そうですし、やりたいですわ!」
「迷子になったらどうするんだよ」
もう既に昼三時も過ぎている。想定時間は一時間程度らしいが、少し伸びれば帰る時間にも影響が出てくるところだった。
電車の時間を少し気にしているらしい立希ちゃんの心配をよそに、燈ちゃんは「大丈夫」と珍しく強気に返事をした。
「迷子になっても、一緒に進むよ」
「…………っ!」
燈ちゃんの言葉に息を呑む。
それがなんでかは分からないけど、なんだか本当にどこへでも行けそうな気がして、だけどそれを素直に信じたくなかった。
燈ちゃんの言葉に何かを言い返そうとして、でも何を言えばいいのか全くわからないまま口を開けずにいると、祥子ちゃんが「いいじゃありませんか」と言った。
「せっかく来たんですから、やりましょう。それに地図もあるんですから大丈夫ですわ!」
「行こう……!」
「し、仕方ないなぁ……」
二人の勢いに負けて、私達はぐいぐいと背中を押されながらヒマワリ畑の向こうへと姿を消した。
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迷路の中はところどころにヒントや現在地が書かれていて、そもそもどこにいるのかを悩むということ自体はなかった。
とはいえ、どれだけ低くても一メートルほど、だいたいのものは私達の身長とほぼ同じかそれ以上の高さをしているから、迷路の道がどうなっているのかを理解するのは難しかった。
ヒマワリ自体もあまり品種ごとの違いは露骨でもなければ分からなくて、それよりも燈ちゃんや祥子ちゃんの表情の違いを把握する方がよほど簡単そうだなと思った。
「もうだいぶゴールも近づいてきた……?」
「確か後四種類しか残ってないはずだから、多分もうすぐ終わるはず」
実際、もうすぐ一時間ほどが経とうとしている。
私は家から持ってきた帽子を被り直すと、少しだけ周囲を見渡した。
ヒマワリを一時間見るだけなのは少し退屈そうな気がしていたが、燈ちゃんの解説も含めて、ヒマワリの姿が少しずつ変わっていくので意外と退屈せずに歩くことができた。
それに道中にはスタンプを押す場所や、ヒマワリのちょっとした解説を載せた看板なんかもあって、植物園のようだなと思った。
「そういえば、燈ちゃんは気に入った種類とかあった?」
迷路の出口は、入り口と並ぶように用意されていた。この迷路を抜けることができれば、それを買えるだろう。
私はあまり違いが分からなかったが、燈ちゃんが何を選ぶのかは少し興味があった。
燈ちゃんは少し悩んだそぶりを見せてから、しばらくして小さく頷いた。
「どんなの?」
「それは────」
「あっ! みんな! ゴールありましたわよ!」
燈ちゃんが何かを答えようとしたところで、祥子ちゃんが声を上げた。
一度、燈ちゃんの方を見て話の続きを促そうか少しだけ悩んで、しばらくしてやめた。どうせ後で確認すれば分かることだった。
私は小さくため息をついてから、燈ちゃんの方を見て苦笑した。
「ゴール、見つかったみたいだね。行こう?」
「う、うん」
声の聞こえる方へと向かう。燈ちゃんが少し走って先に行って、私はそれを後ろから追いかけた。
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家路が流れている。
ドヴォルザークは前に月ノ森音楽祭でも演奏したなと思い出した。演奏のイメージを固めるときに、先輩達といろんな話をしたことを覚えている。
夕方の駅前は少し往来が多かった。世界の全てが焼かれたように茜色に染まり、人々は余韻を残すような弦の音色に追い立てられていく。
マナーは良くないが、私達は食べ歩きながら家の方へと歩き出した。
「このアイス、なんだかデザイン可愛いよね」
「確かに、貝殻の形のモナカは初めて見ましたわ」
駅前のコンビニに寄って、みんなで同じアイスを買った。貝殻の形をしたモナカアイスで、ずっと昔に一度だけお母さんと一緒に食べたことがあったなと思い出した。確か、初めて家族でテーマパークに行った日だったと思う。
真珠のような白いバニラアイスに混じって、夕日のようなイチゴソースが広がった。懐かしい味だった。
「うーん! 今日は一日中歩いて、疲れましたわね」
「でも楽しかったよね〜」
しみじみと呟くと、横で燈ちゃんが強く頷いた。
今日は本当に楽しかった。みんなと一緒に電車に乗って遠くへ行って、綺麗な景色をたくさん見た。私が月ノ森に入学する頃には想像もしていなかった幸福な日々が、ここにはあった。
「燈ちゃんはヒマワリ、育てるの?」
「うん。今年はもう夏も終わっちゃうから、来年の春になったら育ててみようと思う」
「来年か〜」
「来年はもう高校生ですわね」
「高校生……。実感湧かないな」
「まだ半年以上先の話ですもの、仕方ありませんわ」
高校生になったらどうなるんだろう? 何かが変わってしまうんだろうか。それとも変わらずにあり続けるのだろうか?
それはきっとその時にならないと分からなくて、でも今と地続きなことだけは確かなんだろうなと思った。
アイスを一口齧る。
火照った体がじんわりと冷えていく。
「そういえば、今日撮った写真は後でグループに送るね」
「お願いしますわ。わたくしも、撮った写真は送りますわね」
楽しかった思い出はたくさん記録に残してある。
綺麗な景色も、楽しそうなみんなの顔も、美味しかったご飯も。全部全部すぐに取り出せるアルバムにしまってある。
思い返して小さく笑うと、隣でひと足先にアイスを食べ切った祥子ちゃんが私の方を見てクスリと笑った。
「またみんなで出掛けましょう」
「また?」
「ええ。わたくし達の時間はまだまだありますもの。遠くへだって、あるいは近くのどこかだって。たくさん一緒に遊びたいですわ」
「練習」
「それはもちろんですわ! わたくし達はあくまでバンドですからね」
楽器を手に取って、声を上げる。
私達はひとしずくの音楽隊だった。
「ですが、たまにはこうしてお友達と遊びたい日もありますわ。睦もそう思いませんこと?」
「うん」
睦ちゃんは珍しく声で返事をした。
「今日の、ピクニック、すごく、楽しかった」
「そうですわよね!? ほら、立希も楽しくなかったわけではないでしょう?」
「そ、それはそうだけど……」
「ならいいじゃありませんか」
立希ちゃんが照れたようにそっぽを向いた。
そこには笑顔があった。
祥子ちゃんが笑ってて、燈ちゃんが笑ってて、睦ちゃんが笑ってて、立希ちゃんが笑ってて。
「えへへ……」
きっと、私も笑っていた。
ずっと欲しかった楽しい時間がここにはあって、それがなんだかたまらなくなっていた。
笑いながら、ふと頬が湿っていることに気付いたところで、祥子ちゃんが驚いたように私の方を見ていた。
「えっ!? ちょ、ちょっとそよ、泣いてますの?」
「え? 泣いてないよ〜?」
「いや、涙止まってませんわよ!」
祥子ちゃんに指摘され、制服の袖で頬を拭うと、袖が濡れていた。
「えへへ、悲しくないんだけど、なんだか急に涙が出てきちゃって」
今日が終わってしまうのが寂しかった。本当はまだまだ一緒にいたかった。
だけど、もう日が暮れて長かった一日が終わってしまう。
「そ、そよちゃん」
「燈ちゃん?」
必死に涙を止めながら袖で拭っていると、燈ちゃんが声をかけてきた。
燈ちゃんは何種類か持っていたヒマワリの種の袋を一つ、私の方に差し出してきた。
「今日は、楽しかったから」
「…………うん」
ようやく涙が止まって、私はゆっくり差し出された袋を手に取った。
私が一番気に入った品種の種だった。
「あり、がとう」
「うん」
「今日は終わっちゃうけど、また、行こう……。みんなで」
「……うん」
いつもは簡単に作れているはずの笑顔が、今は全然できる気がしなかった。
止まったはずの涙がまた出てきそうで、思わず袖口を強く握りしめる。
「なに泣きそうな顔してんだよ、笑いなよ」
「うん、うん」
立希ちゃんが制服のポケットからハンカチを出してくれた。
私はそれを受け取って目元に押し当てた。
「燈ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
今日が終わることは避けられないけれど、それでも明日がある。明後日もある。これからの日々が、私達にはある。
「また、遊びに行きましょう」
遠き山に日は落ちて、そしてまた日が昇る。
一人の夜が寂しくても、孤独じゃないから。みんなで一緒にいるから。
「──うん、また五人一緒に!」
みんなと並んで歩く。
アイスを食べ切って、涙は海に溶かした。
百年前の、一ノ瀬だったあの頃の女の子に、今なら新世界から優しい声をかけられる気がした。
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目の前が妙に眩しくて、ゆっくりと目を開く。
「んー……」
微睡んだまま働かない思考。
ベッドで横になっている私。
少し明かりの消えた窓の外。
画面が付いたままのスマホ。
「ねて、た……?」
夕陽を受けながら五人でアイスを食べて歩く帰り道が、瞼に焼き付いて離れなかった。
幼い子供みたいに一日中遊びまわって、そのまま家に着いてすぐ眠ってしまったらしい。帰宅前後の記憶があやふやで、自分が何をしていたのかも思い出せない。
体を起こすのも面倒で、ベッドに倒れこんだまま少しずつ頭を動かしていく。
写真はグループに共有したっけ? SNSには上げた? いつもなら家に着いてからやっているであろうことすらちゃんとやったのか記憶に怪しい。でも、みんなとの時間だけは鮮明に覚えている。
たくさんの思い出を作って、一緒に笑いあった。本当に楽しい、一生になればいいと思える一日だった。
「ふふっ」
思い出しては笑みが零れた。あんなに心の底から笑ったのは久しぶりかもしれない。
でも、どんな思いでだって放っておけば雲がかかって緩やかに思い出せなくなってしまう。今が何時かは分からないけれど、外はもうかなり暗い。もう目が覚めてしまって二度寝はできそうにないし、この楽しかった気持ちをみんなとまた話したかった。
時間やみんなとのグループチャットを確認しようと、私は目の前で寝てる間も光を放ち続けていたスマホに手を伸ばした。
つけっぱなしだったみたいだし、充電が少し心もとないかもしれないけど──
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「──え?」
ぽつりと、アスファルトがまだらに染まった。
ざぁざぁと、雨が降り出す。
笑い声が、雨音に紛れて聞こえなくなる。
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夕立が晴れなくて、気付けばそこはスタジオで。
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積乱雲は消えなくて、気付けばそこはライブハウスで。
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上品には泣けなくて、気付けばそこは自分の部屋で。
あの暑さが遠のいていく。冷たい雨に晒されている。
私を包んでいた暖かさが薄れてしまう。
「違う! 違う!」
自分が先ほどまで覚えていたあの景色が存在しなかったことを認めたくなくて、必死にスマホのアルバムを見返していく。
大したこともない記録、大したこともない記憶。静かに意識の中からミュートしたものばかりで、本当にあってほしかったものがどこにも存在してない。探しているのはいつだって、みんなが一緒にいられる景色。
「違うの、私は……」
思い出はそこになかった。私の瞼の裏で薄れつつある、記憶のうちにしか存在しなかった。
あのみんなの膝の温もりも、お弁当の味も、蚤の市の景色も、ヒマワリの匂いも、家路の音も。全ては私が追い求めて、いつか本当にしたいとみんなが望んだ、いつかの景色でしかなかった。
スマホを手からこぼして、私は小さな灯りに照らされた。
そう遠くない未来で元に戻せるとしても。みんなの願いを叶えられるとしても。それでも、なくなってしまった今の日々だけはどうしようもなく現実で。
そして、そんな壊れてしまった五人の日々を信じたくなくて、
「わたしは──」
あんな夢を見た。
三文字の漢字タイトルを諦めました。
「