灰色のルフを創始する者   作:ヤン・デ・レェ

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マハルバル・バルカ

今から二百年前の話だ。暗黒大陸北方にあるカタルゴ属州総督だった男が、レーム帝国に反旗を翻したのは。

 

男の名はマハルバル・バルカ、後に伝説と語られる戦術家だった。男の目的は奴隷だった自分の過去に『救い』を与える事。そして、今正に奴隷として使役されている同胞たるファナリス及び全ての奴隷を解放し、或いは奴隷のままにその生に、運命ならずその今生に『救い』を与える事であった。

 

男が掲げた思想は『クレメンティア』。クレメンティアとは所謂寛容さを指す言葉だったが、男にとっては寛容さ以上に大きな、『救い』の概念を含む意味ある言葉であった。

 

その絶大なカリスマで大陸全土のファナリスをまとめ上げたマハルバルは大峡谷を越え、海戦に勝利し、大山脈を越えてレーム帝国帝都を襲撃した。戦略的に都市を焼き払い、奴隷を解放し、主要な将帥を暗殺し、会戦での圧倒的勝利を重ねた。

 

男は、マハルバルは強すぎた。余りにも強すぎたのだ。そして、その思想とカリスマもまた、多くの者達にとっては眩しく強すぎたのだ。

 

何時しか阿諛追従の輩は彼のもとを去り、真の同胞だけが彼の元に遺り、彼を支え、彼と共に戦い、彼の傍で死んだ。

 

最終的にカタルゴ属州が先に制圧されたことで、マハルバルは敵地での孤独な戦いを余儀なくされた。しかし、傭兵すらも彼に忠誠を誓っていたように、その自力のみによって彼は約十六年もの間、四面楚歌の敵地で戦争を継続し、そして勝利と敵の骸を積み上げ続けた。

 

後にマハルバル戦争と称されたこの戦争の勝敗は、全ての元凶であったマハルバルの死…ではなく、その存在の消失によって決された。なぜ消失したのか、どこへ行ったのか…それは誰も知る所ではない。

 

しかし、一つだけ言えることはマハルバルはマギに選ばれなかったという事だ。彼は王に非ざる者だった。マギに選ばれた王ではなく、民に選ばれた王だった。

 

戦争で片目を失ったマハルバルを、しかし誰も倒せなかった。誰一人として、彼に勝利することは出来なかった。

 

だが、マギだけはマハルバルを拒んだ。その圧倒的な大器を前にして、現レーム帝国のマギであるシェヘラザードは言った。

 

「貴方はルフに拒まれている」或いは「貴方のルフは灰色だ」と。

 

マハルバルは強すぎた。生涯無敗であり、包囲殲滅戦術の達人であり、人知を超越した剛力の武人であり、寛容なる者であり、唯一無二の救われ得ぬ者達の救世主だった。

 

「マハルバルが門の前に」という言葉は二百年以上たった現在でもレーム帝国における、危機と恐怖の代名詞として語り継がれている。

 

 

 

 

その子が生まれたのは三十五年前のことだった。現煌帝国南部に当たる、凱国で誕生した。

 

名を秀得と言い、生まれつき左目が見えず白く濁っていたが、幼少より抜群の才気を発した。

 

齢五歳にして時の大学の試験に合格し、十歳の時には剣技で右に出る者が居なかった。十五歳で軍に入営し、十六歳で戦術書を読破、十八歳で凱の将軍となった。

 

時に極東平原の覇を巡り争っていた吾国、煌国に対して連戦連勝し、築いた城は五十を超え、奪った城は百を超え、敵兵斬首は四十万を超えた。

 

そして二十歳の時に列侯として副王に数えられ、凱の大将軍となるもその功績から簒奪を危ぶんだ王から迫害を受けて祖国を出奔。自らは腹心の閻技を連れ立ち、煌国へ亡命した。

 

亡命先の煌王・練白徳は群臣の反対を押し切って秀得を将軍待遇で迎え入れた。この英断によって、東大陸の東端の小国に過ぎなかった煌の国の隆盛が始まったのだ。

 

秀得加入後、煌国は僅か三年で吾・凱両国を征し、練白徳は極東平原の唯一王と成った。

 

極東平原統一後、煌国は天華を統一した一強国家として、また広範かつ多様な民族と文化領域を統治する国家として煌帝国に国号を改めた。これにより、白徳及び練家は煌帝国の皇室として成り、煌帝国成立に際する第一の功臣として秀得には国姓たる練が与えられた。

 

以後、秀得改め練秀得。封じられた位は武安大将軍・大都督元帥。

 

王としての号こそ与えられなかったものの、大将軍としての名誉、大都督としての帝都における経済力及び警察力、そして元帥としての軍事指揮権が、白徳帝の御代一代のみという条件付きではあったが与えられた。その影響力と財富は皇帝にも匹敵するものであり、その実力手腕と相まって民草からの支持も熱狂的であった。皇室からの信頼も絶対的と言ってよいものがあり、秀得もその信頼に好く応えた。帝国黎明期に頻発した反乱の鎮圧から始まり、内政充実のための科挙運営の責任者となり官僚を育成、財政再建の為の資金繰りに私財を投じ、飢饉の為の救荒倉の整備まで担った。

 

「秀得がそう言うならば」とは、白徳帝の宮廷で最も耳にされた言葉の一つであろう。

 

位人臣を極めた秀得であったが、しかし時代は動き初代皇帝白徳が謀殺されたことによって、その境遇は大いに変化することを余儀なくされた。

 

白徳の弟であった練紅徳の第二代皇帝即位により、まず手始めにその代名詞ともなった武安練の称号、即ち大将軍位と国姓の返上が命じられた。秀得はこれに従容と従ったが、彼の腹心や皇族からの凄まじい反発を引き起こした。

 

次いで紅徳帝は前策のほとぼりが冷める頃に、その大都督位を返上するように命令した。この時は帝都臣民の反発が凄まじく、ボヤ騒ぎが相次いだ。しかし、これも秀得は呑んだ。吞んだ上に、何と彼は自ら帯剣せずに参内してこのように上奏した。

 

「これ以上の国内の混乱を避けるためにも、私が持つ元帥位、そして旧凱国の所領も全て皇帝陛下に返上致しまする。元を辿れば亡命し、とり立てて頂いた身分です。これが最後の御恩返しになるやもしれませんが、どうかお受け下さいますよう。」

 

こうして、秀得はただの秀得に戻った。この話は宮廷内外に広く流布され、涙涙の美談として後世まで長く語り継がれることとなる。

 

 

 

 

だが、一件落着かに見えた宮廷では、秀得の下野に伴い秩序が混乱し、擾乱が各部署で勃発していた。絶対的権威の喪失により、次代の権力闘争が開幕してしまったのである。

 

これを危ぶんだのは先帝の後継として残されていた白雄・白蓮であった。彼らは先帝の死後皇帝位を紅徳に禅譲したという経緯もあり、その権威は秀得なき今や最も大きなものであった。

 

先帝の御代、黎明期の権力闘争の最中、秀得に幾度となく謀略から命を救われた二人が武安練こと秀得に向ける信頼は絶大であり、それは疑いなく心酔の域にあった。

 

先帝の遺した二人の皇子が帝位を継がなかったのも、元を辿れば秀得からの助言に基づいてであった。

 

秀得は二人にこのように助言していた。

 

「黎明が終われば隆盛が、隆盛が終われば爛熟がやってまいります。国家は生もの、常に刷新と改革が必要になり、その都度の膿出しは避けられませぬ。白雄殿と白蓮殿にはその膿出しを務め、その上で天華を中興していただきたい。お父上の御遺志を継がれるのならば、今すぐに帝位を継がれるのもよろしい。しかし…後顧の憂いを絶たねば、革新は大きな障害に阻まれざるを得ません。ご自分らで考えられよ。その上で、この秀得をお上手に用いられよ。」

 

秀得の言葉通りに、二人は一旦は帝位を禅譲した。そして今や混乱の渦に呑まれた宮廷に、再び、煌帝国の至宝たる秀得を召還したのである。

 

皇子二人は混乱の収拾の為にという名目で第二代皇帝紅徳に上奏した。

 

「秀得殿を宮廷に召喚するのは如何でしょうか。先帝陛下がそうであったように、今上陛下もまた秀得殿を好く用いる才気のある御方。是非とも、陛下の宮廷を引き締め、陛下の思うままの御代を創出する輔弼の権を与えられるのが聖断でございましょう。」

 

皇子二人からの上奏を、紅徳は怪しんだが、先帝の妃であった玉艶が支持したことによって、一度は放逐した秀得を呼び戻すことを決めたのだった。

 

皇子らの働きかけにより、皇帝紅徳の名において秀得は宮廷の祭事及び内務全般を取り仕切る九寺卿に任命され、また禁軍において一定の軍事指揮権を有することが追認された。これにより秀得は煌帝国中枢に返り咲き、今一度その辣腕を振るうことを許されたのであった。

 

だが何事にも想定外は付きものであるように、二十六歳にして秀得が煌帝国九寺卿並び禁軍総兵官に着任すると同時に大事件が起こった。

 

第二代皇帝練紅徳の病死と練白雄・白蓮の暗殺である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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