私の父は、カンザスの片田舎にある小さな町の、たった一人の町医者だった。
父は医者の鑑のような人で、身分、性別、人種すら区別することなく診察し、住民からの信頼も厚かった。
治療費の払えない者には無理に払わせることはせず、治療費の代わりに農作物を貰い、時には無償で診療することもよくあった。お世辞にも裕福と言えるような暮らしではなかったが、それなりに幸せな日々だった。
父の口癖でずっと心に残っている言葉がある。
『医者が目の前の命を区別するな』
不器用で寡黙だった父だが、その言葉を口にした時の彼は厳しさと、何人も侵すことはできない高潔さに満ちていた。その言葉を胸に、私は幼心に医者になりたいと思うようになっていた。
12歳の春、父は軍へ徴兵された。戦争が激化し、軍医の数が圧倒的に不足していたのもあり、いずれはそうなる運命だっただろう。
兵士と言う職業を異常なほどに毛嫌いしていた人だったが、戦場で傷ついた人間を救うのも私の義務だと言って、父は幼い私達と母を残して任地へ向かった。
行先はフランス、コタンタン半島のノルマンディー海岸。
1944年、ノルマンディー上陸作戦のわずか3ヶ月前のことだった。
数か月後、帰ってきたのは、たった一枚の死亡通知。
父は撃たれた味方の兵士達を治療しようとして、迫撃砲の直撃を食らったと聞かされた。最期の瞬間まで、医者としての使命を全うしようとしたのだろう。
遺体が帰ることは無く、父の愛用していたメスと、手帳、それに挟んであった家族写真だけが遺品となった。冷たく暗いキッチンの隅で、母が泣き暮れていたのを、今でも覚えている。
大黒柱を失い途方に暮れた私達は、故郷を離れ、ニューヨークに移り住んだ。
母は昼夜を問わず働き、私は学業と家計を助けるために働きに出ねばならなかった。父が死んだ今、母と弟妹を守れるのは私だけだったからだ。
血の滲むような努力は実を結び、私は大学を卒業した後、メディカルスクールに入学した。医師になると言う事は、私にとって父の背中を追う旅でもあった。患者を診る父の大きな背中は、ずっと私の目に焼き付いて離れることはなかった。
だが、私の夢は道半ばで潰えざるを得なかった。母と再婚した便宜上の【父親】が私を強制的に退学させたのだ。彼は元軍人で、熱心な愛国論者だった。弟妹達の養育費などの問題もあり、母に懇願され、私は医者になる夢を諦めて士官学校へ入った。
彼は一度結婚していたが、前妻との間には子供はなく、息子を自分と同じ軍人にすることが夢だったらしい。私にとっては新人(FNG)のクソくらいどうでもいい事だ。
しかし、私には抗うという選択肢を選ぶことはできなかった。
伸ばしていた髪を短く刈り、真新しい軍服に袖を通した私を誇らしげに見る『父親』が、自分とは別の生き物に見え、吐き気を催すほどに不快な存在に思えた。無論、そんな感情を表に出す事はなかったが。
だが私の思いとは裏腹に、士官学校での成績は概ね良好であり、教官からの覚えも良く『優等生』のレッテルを張られるのに時間はかからなかった。
それなりの地位にあった『父親』の口利きもあったのだろう。今になってはそう感じる。
その頃の私は、色のない世界を彷徨うかのように虚ろだった。尊敬していた父に近づくための道を断たれ、挙句に周囲には『軍人の父の息子』としての私としか認識してもらえない。
実の父を、そして私という存在そのものを否定されているかのようで、それが酷く不快で、寂しかった。
当然、『親の七光りの優等生』としての私を快く思わない人間もいたし、つまらない言いがかりや嫌がらせも受けたが、私は『優等生』を演じ続けた。
眼と耳を塞ぎながら、色のない世界に逃げ込み淡々と生きるしかなかった。それが唯一自分を守る方法だったのだ。
だがそんな中、新たに創設された特殊部隊の訓練生として、上官に推薦されることになった。
正に寝耳に水であったが、推薦された以上、従うより他はなかった。
『君の父上も喜ぶだろう』などとお決まりの文句に内心うんざりしながらも、私は敬礼をして部屋を辞した。
今夜は相部屋の同期が隠していたウイスキーを全部飲んでしまおうなどと考えながら。
ニューヨークから600マイルほど離れたノースカロライナ州に新しく出来たフォートブラッグ陸軍基地は、広大な林野に囲まれており、
海のウの字すらない。一番近い大きな町はファイエットビルだが、そこまで行くのに3時間ほどかかるという有様だ。
あの窮屈で息苦しかったアカデミーから抜け出せた解放感が一転して、檻のない牢獄の中へ放り投げられた気分になった。
着任早々、私は他の同期達と共に、『洗礼』という名の指導を受け、8マイルほど走った後、汗だくになりながら基地中のトイレ掃除をさせられた。
くたくたになった体で、死んだようにベッドに倒れ込んだのを覚えている。
そのバカバカしい洗礼は後に恒例行事となったらしく、私が軍を去った後もしばらく続いたようだ。
訓練生として私が在籍していたこの第一特殊戦訓練グループは、第二次世界大戦の教訓を生かし、非常に困難な状況下で、かつ少数で任務を遂行することが出来る兵士を育成することが目的である。
一度は解体されたが、東と西の対立を受け、ロバート・マクルア―准将がゲリラ戦部隊創設の必要性を提唱し再度編成されることとなった。
私は第4大隊D中隊に配備されることになったのだが、 医療衛生専門課程と侮っていたのが不味かった。
第1、2大隊と比べるべくもないが、士官学校の日々がここに比べれば天国だと思えるくらい訓練は辛いものだった。
朝のロードワーク、そして座学、その後に合同演習。分刻みのスケジュールと訓練に、ベッドに入る頃には三分と経たずに泥のように眠った。
そしてここにいる教官たちは皆、歴戦の兵士達でもあった。先の世界大戦を戦い抜いた者もいる。荒々しい怒声と鉄拳が飛び交うのが殆ど日課だった。
やがて、教官方の言葉を借りれば、『ひ弱なお嬢さん達』は苛烈な訓練に容赦なく脱落していき、3ヶ月もすれば最初の人数から3分の2が脱落していた。
今でも、その中の3分の1に残れたという事が私には不思議に思う。
幾つかの月日が経ち、漸く此処での生活に慣れてきた頃の事。
私は今月の備品管理当番で、教官達のいる事務室にその日使った備品の返却へ行くところだった。
「……花?」
階段の踊り場の窓にぽつんと置かれたそれは、武骨で無機質なこの建物には相応しいとは思えなかった。
花瓶ではなく、ジャムか何かが入っていたであろう素っ気ない瓶に生けられたその切り花は、この辺ではあまり見ない種類の花で、6枚の白い美しい花弁が午後の穏やかな陽光を受けて輝いて見えた。
こんな所に花を愛でる人間がいるんだな。
私はそんな事を考えながら、その時はさしたる感慨もなく、報告の為に事務室へ向かった。
その3日後。私は訓練が終わる夕方になると、備品の点検と管理報告の為に毎回教官棟へ寄らなければならなかった。
色々と細かい教官に当たったりすれば下手をすると夕食を喰いっぱぐれる恐れがあり、早く当番が終わってくれと願っていたが、あの花の事がどうも頭の片隅から離れなかった。
報告を済ませた後に、気が付けば私はあの階段へ向かっていた。
踊り場は夕暮れの陽光が窓から差し込んで、窓際に置かれたジャムの瓶をオレンジ色に染めていた。だが、生けられていた花はこの前よりも萎びて元気がないように見える。
「可哀相に」
瓶を手に取ると、トイレの洗面台へ向かった。花をそっと瓶から取り出し、古い水を捨て、瓶を洗った。やはり此処には花の水を換える人間などいないようだ。
新しい水に取り換えると、花を生けた。花の事はあまりわからないが、これで少しはマシだろう。
元の場所へ瓶を置くと、白い花弁が夕日を浴びてオレンジ色に変わっていた。ふわりと、夕暮れの冷たい風が吹き込んできた。
「じゃあ、また明日な」
私は窓を閉めると、健気にその身を咲かせる白い花に呟いた。
やがて訓練課程は過酷さを極め、私達は体力的にも精神的にも限界を文字通り通り越していた。身体は鋼の様に硬く、心は槍のように鋭くなり、『ひ弱なお嬢さん』達は『人を殺す為の兵士』へ少しずつ変わり始めていた。
だが、どんな厳しい訓練でへとへとになっても、私はあの名も知らぬ花の水換えだけは忘れなかった。それだけが心の拠り所の様になっていたのも事実だった。
しかし、花の命はそう永くはない。日に日に萎れ朽ちてゆく。それが自然の理だ。
ひらりひらりと落ちてゆく白い花びらを見ながら、いつか自分は戦場でこんな風に死ぬのだろうかと思い始めていた。
いや、こんなに綺麗に死ねるとは思わない。真っ赤な血と臓物を吹き出して、死にたくないと叫びながら無様に死ぬんだろう。
すっかり散ってしまい、残りわずかとなった白い花を見ながら、私は自分自身が酷く滑稽に思えた。笑いとも嗚咽ともつかない声が、人気のない踊り場に響いていた。
そして、当番最終日。もう私がこの教官棟へ報告へ行くことはない。あの白い花の水を換えることもこれで最後だ。
いつも通りの報告を終え、いつものようにあの階段へ向かう。寂しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、判然としない感情がぐちゃぐちゃのオートミールみたいに私の胸の中で渦巻いていた。
そんな事をぼんやりと考えていたら、いつも誰もいなかったその場所に人影がいることに気が付かなかった。私はハッと我に返りそれを見上げた。
燃えるような赤い夕陽が全てを染める中、【彼女】は確かにそこにいた。
「あ……」
知らずのうちに、声が漏れる。
彼女の白い指が最後まで残った一輪に触れるか触れないかのところ、まるで壊れるのを恐れるかのようにびくりと引っ込んだ。
「ごめんなさい。あの花がこんなに咲き続けてくれたのに驚いていたの」
女性にしては少し低めの声が響く。カーキ色の迷彩柄の戦闘服に身を包み、少しくすんだ色のプラチナブロンドを一つにまとめたその姿は、気高い一頭の野生馬のようで、厳しくも凛としたその姿に私は一瞬にして魅入られていた。
「あの花……という事は貴女がこの花を?」
「ええ。訓練の時に誤って手折ってしまったの。あのままにしていたらすぐに枯れてしまっていたから……」
そこまで聞いて、私は彼女の肩に着けられた階級章を見て蒼くなった。今更ながら背筋を正し、敬礼をする。
「失礼しました。Sir」
彼女は苦笑すると、
「やめて頂戴。私は唯の『雇われ教官』よ。それに今はそんなにかしこまる必要はないわ。楽にしなさい」
と言い、私は恐る恐る敬礼を解いた。
「貴方がずっと水を換えてくれていたのね。此処には花を愛でるような人間なんていないから、心配していたの。
私のいない間枯れてしまったら可哀想なことをしたと後悔するところだった。ありがとう。礼を言うわ」
ありがとう。という彼女の言葉に若干の照れくささを覚えながら、私は「いえ……」と言ったまま、無様なほどに言葉が出なかった。
「貴方、所属は?」
「第4大隊D中隊です。Sir」
「Sirはいらないわ」
「申し訳ありません」
「よろしい。それと、これ……貴方のじゃない?」
彼女が腰のバッグパックから黒ずみ古びた革の手帳を取り出し、私に見せた。急いで胸やズボンのポケットを探る。どこにもない。当たり前だ。目の前にあるのだから。
「ありがとうございます。父の形見なんです。いつも肌身離さず身に着けているのに」
「そんなに大事なものならもっと注意なさい。また見つかるとは限らないわよ」
「申し訳ありません」
恐縮しながら彼女の手から手帳を受け取る。その時、はらりと手帳から何かが落ちた。
「あ!」
「……写真?」
何気なく、彼女がそれを拾う。だが、セピア色のそれを手にした時その表情が厳しいものに変わった。
「これは……」
ただならないその雰囲気に、私は声をかけることすらできず、おろおろとその場に直立不動でいることしかできなかった。
「この写真の方は……」
その問いにほっとしつつも、いまだに厳しい表情の彼女に、まだ新兵で若かった私は恐れすら抱いていた。
「ち、父です」
何とか絞り出した答えに、彼女は驚いたように私を見た。そしてまじまじと私の顔を見つめると、そう、やっぱり。どこか似ていると思ったわ。と小さく言った。
「父をご存じなのですか」
「貴方のお父様には返しきれないほどの恩を受けたわ。いいえ、彼がいなければ、今頃私はこの世にいなかった」
「!」
そして、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
1944年のノルマンディー上陸時。彼女は驚いたことに身重の身体で戦場の真っただ中にいた。後方支援ではない。まさに死地ともいえる最前線で銃を取って戦っていた。
戦闘の最中、彼女の身体を陣痛が襲った。強靭な精神力でも立っていられないほどの激痛に、流石の彼女も倒れる寸前だった。
そこに、私の父が現れたそうだ。
『おい! 大丈夫か……!? まさか……君は妊娠しているのか!?』
『平気よ……これくらい……』
『馬鹿を言うな! ……くそっ、なんてことだ! 既に破水が始まっているじゃないか! おい! 誰か! 手を貸してくれ!』
『駄目よ!! 一人で産むわ……! どこか静かな場所へ連れて行って……』
『ふざけるな! こんな場所で出産なんて、二人とも死ぬかもしれないんだぞ!』
『お願い。他の兵士は呼ばないで。貴方だけ手を貸して』
彼女の鬼気迫るその表情に何かただならぬものを感じたのか、父は渋々了承した。
そして数時間後、彼女は男児を出産した。
父は、彼女の傷を縫いながら、戦場の若き母親に大したものだと呆れていたそうだ。
「彼はその後も、味方や捕虜問わず治療に尽力していた。彼以上に高潔な医師は他にいないわ」
夕陽に染まった白い横顔が、ふと寂しげに微笑む。その顔がゆらりと歪んだ。それを見て、自分が泣いているのにはじめて気が付いた。
「ありがとうございます。自分も、父を誇りに思います」
ここに来て私を【軍人の息子】ではなく、【本当の父の息子】として見てくれたのは、彼女が最初で最後だった。
「でもね、貴方は兵士には向いていないわ」
帰り際、いきなり彼女がそう言った。私はびっくりして彼女の顔を見つめた。氷河のようなアイスブルーの眼光が、私を射抜く。
「貴方は優しすぎる。確かに、兵士としての技能は優秀かもしれない。でも、このまま戦場に身を置けば、貴方は私と同じになってしまう」
生き残った一輪の白い花に、白い指が触れた。その手はよく見れば傷や火傷が所々にある。戦いを生業とする兵士の手。
「私はこの花と同じ。大地に焦がれても大地に根差すことができない。与えられる水がなければ、やがて枯れる」
そして最後の花がポトリと落ちる。それと同時に窓からふわりと風が吹いた。真っ白な花は夜の冷たい風に引き寄せられるように、窓の外の宵闇へ消えていった。
それを見届けると、彼女は私に向き直った。そこには先程の厳しさはなく、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「随分と長話に付き合わせてしまったわね。ごめんなさい」
「いえ、貴女と話せてよかった。そうでなければ、私はずっと前に進めないままでした」
ありがとうございました。そう言いながら、私は今までで一番の敬礼をした。
「こちらこそ、貴方に逢えてよかったわ。じゃあ、おやすみなさい」
彼女はラフな敬礼を私に返すと、踵を返した。ほっそりとした背中が扉の外へ消えるのを見届けると、私は夕食を食いっぱぐれたと抗議する腹を宥めながら、宿舎へと足を向けた。
その日以来、彼女の姿を見かけることは終ぞなかった。
名前も知らないあの【彼女】が誰なのかは知らない。
だが、確かに私は【彼女】からかけがえのないものを得た。
今は、そう思うのだ。
1984年。セーシェル近海。マザーベースから南東約40㎞地点。
フェルメールの青を思わせる鮮やかな海は、今日は穏やかな表情で陽光を波間にきらきらと輝かせている。
その中を無粋ともいえる褐色の攻撃ヘリが4機、隊列を乱すことなく海風を切り裂き、真っ直ぐに飛んでゆく。
先頭の一機から、ぼさぼさの髪と髭を風に靡かせ、海賊を思わせる眼帯を着けた男が姿を覗かせた。その額には黒い角のようなものが生えていて、まるで鬼のようにも見える。
彼の手が何事かを合図すると、たちまち編隊はその場で静止しホバリングの態勢を取った。
後ろの3機には長いロープが取り付けられ、その先には巨大な円柱状のものが括り付けられている。
かつてストレンジラブという女性科学者が作り上げたAI、レプタイル・ポッド。
皮肉なことに製作者の墓標となってしまったその巨大なAIポッドには、伝説の兵士、ザ・ボスの人格がプログラムされている。
エメリッヒの一件以来、オセロットの進言でずっと研究開発棟でプログラムの解析をしていたのだが、優秀なスタッフ達の尽力もあり、ほぼ100%近く解析が完了した。
100%に至っていないのはそのプログラムに、非常に不確定な要素が含まれており、現在の技術では解析が不可能だと口惜しげにスタッフ達が話していた。
スネークは、物言わぬ黒き墓標を見下ろしながら、数日前の事を思い出していた。
********
『ボス、あのレプタイル・ポッドについてだが解析班のスタッフ達から話があるそうだ』
そう言いながら司令室に入ってきたオセロットが、デスクの上に分厚いファイルを置く。スネークは目を通していた書類から顔を上げると、
コードネームの通りに常に余裕の笑みを湛えている彼の表情がほんの少し翳っているのに気が付いた。
その後ろを見れば、数人のスタッフ達が控えている。
軽く右手を上げて発言を促すとスタッフ達が前に進み出、敬礼する。
『報告致します。レプタイル・ポッドの解析ですが、殆どの解析が終了しました』
『そうか。よくやった。いいニュースなんじゃないのか?』
訝しげに問うスネークだが、彼等の表情はどことなく昏い。
『いえ、あのAIプログラム自体は素晴らしいものでした。いや、あんなもの見た事がない。言語理解、画像認知、学習能力、そして問題解決に至るまでの論理的思考に於いて……』
『おいおい、俺はその手の話はさっぱり分からんぞ。徹夜で講義されたとしても十分の一も理解できんだろうさ』
早口に語り始めるスタッフを制止すると、彼は『失礼しました』と元の冷静さを取り戻した。
『あのAIはザ・ボスの人格をプログラムされているのはご存知ですよね』
『ああ。だが所詮プログラムだろう? 人間の代わりにはならないはずだ』
『それが……あのプログラムを組んだ科学者は恐ろしく複雑で難解なソースコードを組み合わせ、人の持つ曖昧さをプログラムしようとしていたみたいなんです』
『曖昧さ?』
『いわば、人格、いや、心そのものと言ったところでしょうか……これほどの物を作り上げるには並大抵の精神では務まらないでしょう。むしろ、狂気の如き執念を感じます』
『天才と狂人は紙一重という事か……ぞっとしないな』
『ええ。本当に。また、解析不能な不明瞭な領域が日に日に増えていて、ずっとザ・ボスの記憶の残滓を音声発信し続けていたのですが、遂に昨日、初めて別の単語を【発し】ました』
『それは……?』
『【殺して。私を解放して】と』
『……』
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≪ボス、よろしいですか≫
ピークォドの声がイヤホンから響き、スネークは思考の海から浮上した。
「ああ。やってくれ」
≪了解≫
その言葉で、ポッドに繋がれたロープが一斉に外れる。
黒いポッドが、トルマリンブルーの中に吸い込まれるように小さくなる。
白い花びらのような波を立てた後、美しい青い世界に黒い墓標が沈んでいった。
────ありがとう────
どこからか、声が聞こえた気がした。無機質で機械的な音声ではない。どこかで聞いたことのある、少し低めの、優しさと厳しさを湛えた凛とした声。
スネークはおもむろに右手を上げ、敬礼をした。
それは、未来永劫謳われることのない英雄への餞であったのかもしれない。
「……ご苦労だった。帰ろう。俺達の家へ」
若き新兵だった彼はもうどこにもいない。鋼鐵の犬達を率いる哀しき鬼は、新たなる戦場を求め、蒼き世界を後にした。