Drink or Die 作:名もなき小市民
食べ切るまでが長かった。
今までコージーコーナーのケーキを支えていた、プラスチックの平たい土台。そいつが、見るも無惨なクリームだらけのプラゴミになるまでは、かれこれ1時間ほどかかった。
調子に乗ってホールで頼んでしまったのが悪かった。俺とましろの2人がかりで1時間弱。ようやく今、イチゴのショートケーキを片付けたところだ。
「パン詰まりだ、胃」
「変な言葉に、変な倒置法……」
「もう固形物は完全に入らない」
呆れながらも、ここまで食べてくれたましろが、向かいに座っていたところを、俺の隣まで移ってくる。
彼女のタイツと、激安アパートの畳が擦れる度に、なんだか女子特有の甘い匂いがする。香水と同じ原理でこちらに匂いが来ているのか? この良い匂い自体は、ましろ特有のものだからもう慣れっこだが。
いや、そもそも子供の頃から面倒を見ている姪のような年下の幼なじみには、この程度では欲情しないぞ。というか、欲情はもうしない。
「……お兄さん、改めてお誕生日おめでとう。これで大人の仲間入りだね」
なぜなら俺は、今日・8月8日で
ましろだって困るだろうしな。俺にエッチな目で見られたら。見る気はない。端から。
いや、こういう意識をするところが既に子供くさい。クーラーの効いた部屋の中、俺1人だけが妙な湯気を頭から発していた。
「ありがと、ましろ。まあ、まだまだ俺はガキだけど」
「そんなことないよ。お兄さんは私の……憧れのお兄さんなんだから」
「俺は幸せ者だな。じゃ、これからもそう思ってくれるように頑張らないとな」
「ふふ」
俺の軽口に、本気で尊敬の念を込めて返してくれる彼女のバカ真面目なところは、本当に好きだ。
「よし、じゃあ乾杯しようか」
「うんっ」
俺は冷蔵庫から、炭酸水とブラックニッカを持ってくる。それと、ましろ用のぶどうジュース。ワイン気分で飲んでくれるといいのだが。
ましろは、俺の右脇に挟まれたキング・オブ・ブレンダーズ──ラベルにいるヒゲのおじさんのことだ──と目が合ったのか、俺に少しだけ怪訝な顔で質問をする。
「もしかして、お酒?」
「あぁ、せっかくハタチになってんだから飲んでみようと思ってさ。自分で買おうかとも思ったんだが、その前にましろの親父さんから貰った。誕生日プレゼントだってさ」
「え、お父さんが?」
目を見開いたましろを見て、俺は軽く笑いながらトレーでヒエヒエになった氷を、トレーごとねじってマグカップに入れる。
「はは、俺も驚いたよ。……でもあの人にはいっぱいお世話になったし、これから恩を返していかなきゃな」
そんな事を言いながら、ウイスキーが1/3ほど注がれたカップに炭酸水を入れる俺を見て、ましろもなんだかしみじみとした様子。
本当の意味で大人になるってのは、税金を多く払うようになるとか、親戚の子供にお年玉をあげるとか、そういうのじゃあない。今まで世話になった人に、恩を返していくってことなんだと、少なくとも俺は思うね。
少し湿っぽくなったボロアパートの一室の空気を、少しでも和ませようと、ましろからヒゲのおじさんを遠ざける。
「ダメだからな?」
「分かってるよ。いくら私でもそれくらいは分かるから!」
「ははは、ごめんごめん。さてと……じゃあ」
お互いのカップを持って、俺たちは互いに微笑み合う。
俺は本当に幸せ者だ。心からそう思う。人生最初の晩酌を、ましろと迎えることができるなんて。
「「乾杯」」
そう言ってぶつけたカップの、氷たっぷり手作りハイボールに口をつけた。
そこからの俺の記憶は、今思い返せば、かなり曖昧なのだ。
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おぎゃあ〜〜〜〜〜〜ぁん。
歪むなあ、視界。
虚ろな意識。空になった3杯目のハイボール。そして、かぁいいかぁいいましろちゃん。どうしてそんなに可愛いのか。俺を食べるため? やぁだセクハラよ、それ。
「ましろ……本当に大きくなったよな……初めてあった頃らんかよぉ、こーんなにちいさかったろに」
「ねぇお兄さん……? そろそろやめた方がいいんじゃ……? 私、お水持ってこようか?」
「だいじょぶだよ、ましろ……うん。お兄さん、だいじょぶだから……ック!」
「……とりあえずお水持ってくるから! お兄さん絶対これ以上飲まないでね!」
「りょうかいであります!!」
「声おっき……出来上がりすぎ……」
パタパタという足音と、水道が捻られて水を吐き出している音が、ちゃぶ台に突っ伏している俺の耳に入ってくる。
酒を飲みながら見るましろは、普段よりも可愛く見えた。
ああ〜。トイレ行きたい。
「はいっ、お水」
コップ一杯の水を、マラソン選手並に一気飲みし、俺は両の頬を両手でパシンと叩く。
「フゥ〜〜〜〜〜……ごめんな、ましろ。心配かけちゃって」
「びっくりしたよ……だってあんなに言ったのにまだ飲んでたし……。でもよかった、お兄さんの酔いが醒めて」
確かに、先程までの脈絡のない思考の数々は、あまりにもヨッパライのそれだった。反省、反省。
さて。これから俺は、ましろに『協力』してもらい、もう少しだけ酔いを覚ますこととする。
「……なぁ、ましろ」
「うん?」
「『ひとつだけ』。『ひとつだけで』いいから、俺の願いを聞いてくれ」
改まって頭を下げる俺に、ましろは空になったコップを持って言う。
「え、そんなの勿論いいよ。私お兄さんに頼りっぱなしだったし、お兄さんのお願いならなんでも聞くよ!」
そう言いながら、ましろはもう一杯、水道水をコップに注ぐ。メラミン樹脂に水が当たる音が、頭を下に向けていても聞こえる。
「ありがとう、ましろ」
俺はハッキリとした意識で、よちよちとましろのいるキッチンの水場へと向かう。「じゃあ、さ」俺は小さいながらも、はっきりとつぶやく。
「──俺を踏んでくれないか?」
「んっ?」
彼女は笑顔を崩さずに、いや、目のみをパックリ見開き、俺に問いかける。微笑んではいるが、目は笑っていなかった。
「……お兄さん、今なんて……?」
「俺を踏んでくれないか? ましろ。出来れば靴で」
ましろの力の抜けた手から逃げ出したコップが、シンクの底に勢いよく当たった。
「……じゃあ、いくよ」
仰向けになっている俺の腹に、ましろの足が乗った。困惑の方が強いのか、そこまで嫌そうな様子はない。
「えいっ」
もしこういった事が今後習慣化し、ましろがこれに慣れてきたら、養豚場のブタに向かって『ああカワイソーに、あの子も明日には出荷される運命なのね』って見るような目で、本当に見下すような目で俺を踏んでくれるんだろうな。
とんでもなくワクワクしてきた。今までの信頼が一気に崩れることに興奮している俺は、案外と破滅願望的なものを胸の内に秘めているのかもしれない。
麦は踏まれて強くなるし、サイヤ人も負けると強くなる。
「……」
「ど、どう? えいっ、えい」
「……ましろ。それはなんだ?」
しかし、これでは。
「え、なに……って? お兄さんの言う通りに踏んだんだけど……これでいいよね?」
とうてい、『踏まれている』内には入らない。「いいか! ましろ!」と俺は叫ぶ。
「そんなので踏んだつもりなのか、ましろ! もっと強くやるんだ! そんなのじゃ踏んだうちにならないぞ!」
「注文!? ただでさえ踏んでいるのに、それに重ねて細かい注文をしてきた!?」
「こう、もっとさあ! あるだろう!」
俺は仰向けから、がばっと立ち上がり、その場で千鳥足タップダンスを少し踊ってやると、その場に仁王立ちする。
「いいか、ましろ!! お前は民族衣装を着た、可愛い可愛い異国の女の子だ!! 演じろッ!!」
「今夜、日本で最もふざけたエチュードをしようとしてる……」
「演劇人なんて大体、道端でもエチュードするもんだぞ!」
「それはお兄さんの高校とか大学の演劇部員達がおかしいからでしょ!?」
「それこそ大体おかしいだろ、演劇部員なんて!!」
俺はカーテンを破り、腰に巻き付ける。そしてその場で足踏みをし、腰のカーテンをスカートのようにつまんで上げる。
「そう、イメージする背景は『葡萄踏み』だッ!!」
「葡萄……? それって、ワインを作る時の?」
「そうだ!! ……ワインとは、昔はとても宗教的に意味合いの強い酒だったことを知っているか?」
「急に落ち着いた……な、なんで宗教とワインが絡むの?」
ましろの踏み踏みスキル向上のため、酔っ払い特有の早口で解説を始める俺を見て、彼女は半ばビビりながらも正座で耳を傾ける。
「『最後の晩餐』という絵画があるだろう? そこで、かの有名なキリストさんはこう言ったんだ。『この種なしパンは、私の身体だ。そして、このワインは、私の血液だ。このように、私の身体と血の飲食を行いなさい』と……これが由来で、キリスト教圏では、種なしパンをキリストさんの身体として、ワインをキリストさんの血液に見立ててるんだ」
「そ、そうなんだ……?」
「そんな聖なる血とも呼べるワイン!! それに使う葡萄を誰が踏む!? そう、『処女』だ!! 穢れなき『処女』だよ!! 昔からそういう子は、何かしらを踏み踏みしてきたんだ!!」
「お兄さん、なんか怖いよ……何かに取り憑かれた博士みたいになってる……」
「オセアニアじゃあ常識なんだよ!!」
ましろは純潔なる処女。キリストの血液たるワインを作る、中世の民族衣装を着た垢抜けない田舎娘と重ねるとなると、あまりにも相性が良い。
そんな風に、ワインになる葡萄のように、俺も踏んでくれたら。純粋な理由の中には1ミリも加わっていないキリスト教関係の話をして、信憑性を上げたところで、とうとう頭の処理が追いつかなくなったのか、ましろは話のまとめに俺を誘導する。
「つまり……?」
「俺のことを!!! 葡萄だと思って踏めッ!!!」
ここでついに、ましろがドン引きしたような低音でつぶやく。
「お兄さんを……潰す気で……?」
「そうだ。俺はどうなってもかまわん……だから、お前の持つ全力のパワーで踏め」
「……無理だよ……」
彼女の口癖が、ふと飛び出した。
「私、そんなこと出来ないッ! お兄さんが……大切な人だから……」
思えば、彼女は昔から、やれと言われたことを一度否定するような子だった。学校の宿題や、公園の遊具。
最近始めたバンドだって、最初は無理だの出来ないだのと弱音ばかり吐いていた。言葉を話し始めるのだって、コマ付きの自転車を卒業する時だって、彼女は周りよりも一足遅かった。
それは、自分の限界を自分で定めようとしていたからだ。
だが、彼女は強い。本当は、ましろは強い子なんだ。誰かが背中を押してやれば、彼女は自分自身の意思と力で進んでゆける。それは、幼稚園の時から彼女を見てきた俺が一番分かっている。
「……見守るだけが、愛か?」
「!!」
「違う……叱ってやるのも、愛だろう?」
俺らが初めて出会ったのも、こんな夏の暑い日だったな。カーテンが無くなった網戸越しに、蝉の声が聞こえてくる真夏。
十数年前の、今日と同じ日付。近所の庭につながれてる飼い犬に吠えられて、公園に行けないところを俺が助けてやったっけ。
親が声をかけても、てこでも動かないましろを、俺が犬の方に立って、手を繋いで歩いてやると、ましろは自然と笑顔で犬の前を渡っていった。
俺は「あっちだって、ましろの事が嫌いでやってるわけじゃない。かまって欲しいんだよ、きっと」と話してやると、ましろは一人でその道を歩けるようになった。
「お兄さんッ!!」
ましろは涙目になって、こちらに向かってくる。ハグのひとつやふたつでもかましてくれるのか、と思ったのも束の間、ましろは俺の腹に蹴りを入れる。
「グエッ!!?」
痛む鳩尾を抱えて倒れ込む俺に、彼女の足が容赦なく追撃を浴びせる。「飲みすぎだよッ!! この!! この!!」と、大声で叫び、ちびっ子が地団駄を踏むように、俺をげしげしと踏みつける。
「ごふっ! がぁ! げふっ!」
「この際だから言わせてもらうけどね!! 私、お兄さんのことずーっと完璧超人だと思ってたんだよっ!? いっつも車道の方歩いてくれるし、外食だと苦手なもの全部食べてくれるし、でもお兄さんの料理だとなんか苦手なものでも食べられるし、でもでも無理強いはしないからとことん優しいんだなって思うし、ていうかいつになっても私のこと全ッ然そういう目で見ないし!!! それが20歳になったんだから、どんな人になるかと思ったら……このッ!! 酔っ払い!! 私の夢を返してよッ!!!」
「ああッ!! いいぞ!! もっと! もっとォォォ!! おっ、グリグリされるのもアリだな!? 今夜は圧迫祭りだァッ!!」
「ッ〜〜〜〜!! ……へ、変態っ!!!」
トドメとばかりに、彼女は俺の顔をグリグリと踏みつけていた足を大きく後ろにやり、クリロナも顔負けのボレーを俺の脇腹に食らわす。
「ぐおぉッ!!?」
その一蹴りで正気に戻ったのか、ましろは怒りを上回った泣き顔の、細まった目をハッと開き、俺の方を見る。
戻らなくてよかったのに。
「お、お兄さん!」
「フゥ……フゥ……」
「大丈夫!? 私、やり過ぎて……」
「これでいいッ……俺は……かつてない満足感に、包まれているぞ……」
俺は仰向けになり、肩で息をしながら、ましろを見上げて語る。
「ましろも、そうじゃあないのか……?」
「そう、って?」
「なんだか、達成感というか、スッキリした気持ちが……あるだろ……」
「……言われてみれば、なんか……ちょっとだけ、清々しいかも」
それを聞いて、俺は口角を上げる。彼女に向かって、俺は親指を立てて拳を突き出す。サムズアップというやつだ。
薄れゆく意識の中で、俺は最期のメッセージを絞り出した。
「それが…………『青春』よ……!」
互いに汗を流して、蹴って蹴られての魂のぶつかり合い。誰にも邪魔されない、青春の瞬間。夏の
やがて俺の息の音が、蝉の鳴き声よりも弱くなり、文字通り虫の息になった頃。ようやく、ましろは重い口を開いた。
「絶対に違う……」
俺の意識は、ここで途切れている。
説教癖でも泣き上戸でも、最後は同じだ。