嘗ての先生、其の成れ果て 作:低品質なプリン
イツキさんが本性を現します。
「…………」
パカパカ、と暗い廊下にスリッパの音が響く。
心做しか床と擦れる靴裏には独特な感覚があり、幾ら掃除しても風に乗った砂が校舎に入り込んでいるのだろう。悲しくも懐かしく、無数に並ぶ窓からの月光が荒んだ心を郷愁に染める。
小さく溜息を零し、イツキは携帯端末に視線を落とした。昔は小型で片手サイズの携帯端末なんて持ってなくて、ずっとシッテムの箱を使用していた。
だからこそ、なのだろうか。時々、携帯端末をなくしてしまう。大体は鞄の底に入り込んでいるのだが、シッテムの箱ほど大切に、肌身離さず持ち歩いたりはしない。
暗い廊下でボンヤリと光る端末には現在の時刻が表示されており、大凡夜中であると断言出来る数字の羅列が並ぶ。
とっくに寮の門限は過ぎているが、そこはシャーレの権限で見逃してもらっている。シャーレの先生の名が広く知れ渡り、先日のゲヘナ風紀委員との邂逅も相まって部長であるイツキの存在も認知され始めていた。
門限外での外出や外泊程度であれば先生の許可がなくとも行使できる権限だ。無論、それが先生からの信頼という面もあるのだろうが。
「……はぁ」
また、溜息が口から溢れる。
視界を上げると、廊下を覆う砂の量があからさまに増えてきた。ここからは既に砂に埋もれ、使用されていないアビドス
ノノミは風化させまいと時々廊下の砂を掃きに来ているが、それも使用中の校舎から近いからに他ならない。砂漠の真ん中にある本校舎は既に手を加えられる状況でもなかった。
彼女から指定された教室まではもう少しだけ掛かる。腐っても嘗てはキヴォトス随一のマンモス校と名高かったアビドス高等学校の旧校舎だ。広さだけならばゲヘナやトリニティと比べても見劣りしない。
尤も、その殆どが砂に呑まれて使用不可なのだが。
再度地図を見ながら歩くこと数分、GPS機能が正常に稼働しているのであれば目の前の教室が
「………ホシノ、居る?」
――数秒待ち、返事はなかった。
仕方なしとドアに手を掛け、レール部分に積もる砂をガリガリという音を立てながら無理やり開く。教室内を見渡すと、風で靡くカーテンに月光で影を刻みながらボーッと外を眺めている彼女が居た。
「……こんばんは、イツキさん」
「こんばんは。随分と珍しい場所にいるね」
「珍しい場所かぁ……昔はこの教室も沢山の生徒で溢れて、笑って、暖かい日差しを浴びて、憂いのない平和が在ったんだよね。……まあ、おじさんには分からないけど。少なくとも、こんなに寂れて砂だらけではなかったよね」
「……3年D組……もしかしたら、ホシノがこの教室で過ごしていた未来もあったのかもね」
「うへ、そうだったら歩いて来るもの大変そうだね〜。…おじさんは今の校舎の方が近いし、時代錯誤なレトロ系だから好きなんだよね」
砂塵の舞う教室の中で、月の光が砂の粒を反射する。机や椅子も片付けられて何も無い教室の筈なのに、月光を浴びて桃色の長髪を靡かせるホシノは普段とは異なる神秘的なオーラを纏っている。
丁度影の留まる入口横で立ち竦むイツキと、月に照らされるホシノ。それが対極的な様に思えて、ついイツキは手を伸ばし掛ける。
「……ん?どしたの、イツキさん。おじさんの顔なんて見詰めちゃってさー?」
「ごめんね。少し、見蕩れてたよ。ホシノは綺麗だからね……」
「え、あっ……えっと…?あれれ、もしかしてだけど口説かれてる?」
「ただの本音だよ。そんな事より――大事な話があるんでしょう?」
「……うん、そうだね。そうだったね」
昼間、対策委員会が解散して直ぐの事だった。珍しく彼女からモモトークでメッセージが届き、夜中にこの場所へ呼び出されたのだ。後輩達も先生も交えず、イツキだけを呼び出したのにも理由があるのだろう。
ホシノは窓を閉じ、呑気な様子で軽く言い放つ――
「私ね、黒服との交渉に応じようと思う」
「……………」
「ありゃ、驚かないの?」
「…その可能性を否定出来るほど、私も純粋無垢じゃないからね。何よりも手っ取り早くて確実なのは、
黒服との交渉、契約。小鳥遊ホシノがアビドス高等学校を去ってその身の全てを譲渡する契約だ。その代わりに借金の半分を彼が負担する。
改めて考えると、ホシノにはその契約が破格に思えるのだ。最上級生である自分の、一年未満の学校生活を捨てて借金の半分を無くす。自分が残りの時間で稼げる金額を考え、何がアビドスの為になるのかを彼女は導き出した。
「私……思ったんだよね。今までは私が対策委員会の委員長で、一応は生徒会の副会長で。どんなに頼りないって思われてても、私が卒業しちゃうまでは皆を守って、支えて、導くのが使命なんだなーって」
「…………」
「でもね、気付いちゃった。信用出来る
「……だから、アビドスを去るの?」
「うん。あはは、老兵は若人に想いを託すのさー、なんちゃってね。…正しいとか間違ってるとかじゃなくて、現実問題、アビドスに残された道はこれしかないんだよね」
今まで通りであれば、少しづつ返済しながらゆっくりと青春を過ごせていただろう。だが、状況が激変してしまった。
変動金利3000%上昇、そして来月以降の利子は9130万円。もうまともな方法で払える金額ではない。もしも奇跡的に払えたとしても、その次はどうするのか。安定して払い続けることなんて可能なのか。
――不可能だ。故に、違法へ手を出さずに自体の解決を図るにはこうするしかない。もしかすれば、交渉次第では利子も戻してくれるかもしれない。黒服とカイザーの繋がりは軽くではあるがホシノも理解しており、カイザーPMC理事は黒服の言葉を無下には出来ない。
ならばその希望を繋ぐ為に、ホシノがやるべき事は既に決まっていた。
「……ホシノ、私は前にも言ったよ。君がその選択をするのであれば、私は黒服もカイザーも潰すよ。どんな手を使って、どんな悪事に手を染めようとも」
「うん、ちゃんと覚えてるよ。だから…イツキさんに頼みたいんだよ。もしも私がアビドスの敵として立ち塞がったら、イツキさんには私のヘイローを破壊して欲しい。……多分、イツキさんなら出来るんでしょ?」
「断る。そんな選択肢、最初から
「…………ねえ、イツキさんなら分かってるんでしょう?現実は、理想だけじゃ何も得られない。この世界はもっと残酷で、私達は流れる時代の一幕に過ぎなくて、その為に足掻くんだったら相応の覚悟と代償が必要だって」
「解ってるよ。でも、それを――責任を取るのは
「…おかしなこと言うね。イツキさんだって子供なのに……あのね、もっと現実的に考えようよ。もうアビドス高校が存続するには、黒服の誘いに乗るしかないんだよ?自暴自棄で言ってるんじゃなくて、本当に
思えば、植え付けられた選択肢と潰された選択肢は彼らの誘導でもあったのだろう。徹底的にホシノを追い詰め、そこまでして黒服はアビドス最大の神秘を欲している。
そして、その為にカイザーもまた利用されている。互いに利用価値を見出し、骨の髄まで啜るつもりなのだろう。それがホシノの知る身近な大人だ。先生とは決定的に異なる、目的の為に部下や子供を平気で捨て駒に出来る大人なのだ。
何処までも平和的に、儚く笑うホシノ。
イツキは拳を握り締め、鈍く回る脳で解決法を探る――否、探るまでもなく
それを気付かせまいとホシノはイツキに後処理を頼むつもりなのだろう。だが、イツキとて愚かではない。その選択をする可能性も最初から考え、故に種を撒いたのだ。
「――ホシノ、忘れてないよね」
「っ!………何を?」
「黒服からの条件、その対象。契約を結ぶのはホシノではなく私でも構わないんだ」
「……トリニティの生徒が学園に無断で――」
「問題ないよ。既に、寮長に書類は渡してある。三日後までに私が帰らなければ退学届はティーパーティーのナギサに渡る手筈だよ。まあ、封筒に入れてるから寮長には中身なんて分からないだろうけどね」
「……な、何で…ッ!イツキさんはアビドスには関係ないでしょ!!」
何事もないように話すイツキと目を合わせ、ホシノは思わず叫んでしまった。
――酷く、
まるでこれから待ち受ける結末を知り、自身の破滅を愛おしいとでも言いたげに。自己犠牲の精神とは違い、死にたいだけの人間が死ぬ為の大義名分を得たように。
頭の先から徐々に冷えて、然し汗は止まらない。嘗ての自分は、ただ何も考えずに――何も考えたくないから死のうとした。でも、目の前の人間は更に絶望へ踏み込んでいる。
本当ならば今すぐにでも死にたくて、この瞬間にも衝動を抑えているのだろう。だからこそ、目の前に楽になれる大義名分が転がっているのだ。
初めて見たイツキの自然な微笑みは、あの黒服以上に不気味でそこが見えなかった。
「……イツキさんは、死にたいの…?」
「……?……いや、別に?私は、私程度の塵芥にも満たない命で誰かを救えるのであれば、喜んで差し出すだけだよ。無駄死にを選ばないだけでも、私にとっては満点に近い最期だよ」
「そんなの……そんなのッ!!」
「気にしないで、とは言えないよね。でもさ、考えてみてよ。ホシノはアビドスに残りたくて、私は命の使い道を探している。なら、理にかなっているよね?」
――その深い瞳に呑み込まれて、ホシノはやっと理解した。
「……そっか。……イツキさん、貴方は……もうずっと前から、
「うん、否定はしないよ……こんな痴態を晒したんだから、否定なんて出来やしないよ」
月光に包まれるホシノとは対照的に、影に濡れて爛々とした瞳で歪に嗤うイツキ。何が起きたら、そう成り果てるのか。何を喪って、心が壊れてしまっても尚、それでも日常的に違和感を醸し出さず過ごせるのか。
ホシノには解らない。水面イツキという人間が、理解出来ない。イツキに向かう感情が恐怖か憐憫か、もしくは憤怒なのかもしれない。
「……イツキさん、私の答えは変わらないよ。責任をイツキさんに投げ出すつもりもないし、戦ってでも止めるよ」
「……………結局、こうなってしまうんだね」
ホシノは
また、ホシノの認知外の何かが訴えてくるのだ。絶対にイツキを行かせるな、戦ってでも止めろと他ならぬホシノの中で誰かが叫んでいる。
対して、イツキは緩慢な動作で鞄に手を突っ込み、何かを取り出す。白く、ラベルすら貼っていないスプレー缶だ。イツキの小さな手に収まるほど小さく、見ただけでは何なのかホシノには分からなかった。
「…これね、睡眠薬みたいなやつだよ。……寝れないときによく使ってるんだよね。効果は私の体で証明済みで、幾らホシノでも朝までは寝るハズだよ」
「………私が素直に受けると思う?」
「思わないかな。…ごめんね、少しだけ手荒くなっちゃうけど――神秘解放」
「…ッ!」
頭上に浮かぶ灰色の×印が鈍く光、イツキの全身を淡く包む。イツキの中で何かが燃えて、消費され、相応の力をイツキに与える。
そして、変化はそれだけに留まらない。竹刀袋に収められた鉄の棒や懐に忍ばせていた革鞭を乱雑に投げ捨て、スプレー缶だけを持ってイツキは続ける。
「神秘変質――
「……えっ…な、何…してるの…!?」
目の前で変質する異形に、ホシノは慄く事しか出来なかった。
ヘイローが分裂し、欠片が灰色の羽根となる。頭部には鬼の角と灰色の獣耳が歪に生え、腰からは悪魔の尻尾が出現する。耳はアヤネのように鋭く伸び、左の瞳は機械の如く紅く無機質に光る。
灰色で×印のヘイローは辛うじて可視化出来るまで薄くなり、そこに在るのはキヴォトスの生徒の身体的特徴を継ぎ合わせた異形の
ホシノは動揺を隠せない。目の前で起きている事象は、一体何なのか。それに類似した現象も、その答えも、ホシノには理解出来ない。
何かの見間違えである可能性を求めて。一瞬だけ
「ごめんね、ホシノ」
「えっ――」
一秒にも満たない時間でイツキはホシノの眼前に迫り、躊躇なくスプレーを吹いた。慌てて息を止めるが、その行為すら意味を持たず、口を開いて言葉を紡ぐ暇もなくホシノの意識は暗闇へと落ちた。
「……先生、ホシノのことを頼んだよ」
この場に居ない大人へ言葉を残し、イツキは教室を後にした。残るのはカラカラと床を転がるスプレー缶と、イツキの遠ざかる足音のみ。
――その日、水面イツキは皆の前から姿を消した。
出来れば先生とイツキがイオリの足舐めを巡って過酷な殴り合いをする展開を書きたかったのですが、目の前に死ぬ機会があるのであれば致し方ない。スキップしながら皆を曇らせて、死にに行ってもらいましょう。
だってイツキさんが望んでいるのだもの。生徒には夢を追い掛ける権利があるんですからね。