彼の様子がおかしくなり始めたのは、去年の秋口に入ったくらいだった。まず、バイト中に立ち眩みを起こすようになった。立ち眩み自体は直ぐ収まるけれど、起こる頻度が高い。心配して彼に聞いてみるけれど、「この時期は、よくこうなるから。心配しなくていいよ」と、はぐらかされて詳しいことは教えてくれない。次に、体調不良での早退や、休みが増えた。早退や休みの連絡のたびに、辛そうな顔で「ごめん」と繰り返す彼はとても辛そうで。それでも、謝るばかりで何も彼は教えてくれない。そうして最後には、ある日突然バイトを辞めた。ある日シフトに入ったら、彼はいないし、タイムカードやネームプレートもなくなっていた。店長に聞いてみると、体調不良でこれ以上働き続けられそうにないから、と言って辞めたとのことらしい。彼が辞めるとは知らなかったと言うと、「本人から聞いてなかったのか」と店長は驚いていた。彼と連絡を取ろうにも、アタシは彼の連絡先を知らない。もやもやしたけれど、どうしようもなかった。
その一か月後、アタシは大型病院に来ていた。家の階段を踏み外して骨折した父親の通院に付き添う為だ。診察も終わって、帰りに飲み物を買おうと病院内の売店に寄った時だった。
「あっ」
アタシと彼は、目があった瞬間、同時に声が出ていた。入院着を着ている彼は、彼のお母さんが押している車椅子に乗っている。元々、細くて小さく見えた身体がさらにやせ細って見えて、明らかに病状が進んでいるのだと感じられた。
後日、アタシはバイト帰りに彼の所にお見舞いに行った。ベッドの上にいる彼は、あの無邪気な笑顔でアタシを迎え入れてくれた。言葉を交わせば、病院内でのことを面白おかしく話してくれたり、こちらの話を聞いてくれたり。……少々、元気すぎるくらいで。なんだか、無理をして笑っているように見えてならなかった。
結局、アタシは面会時間ギリギリまで病室にいた。
「今日は、ありがとう。来てくれて。……すごく、楽しかった」
帰る直前、彼はそう言った。顔に、寂しそうな表情を浮かべて。彼の病室は個室で、病室から出るには車椅子に乗せてもらうしかないという。両親も仕事で忙しいために面会に来る時間はまちまちらしく、なかなか病室から出られず話し相手がいないと、今日初めて彼は嘆いた。
「また来るね」
アタシはそう言って病室を後にした。病状がどうなっているかは、終ぞ聞けなかった。
また後日、アタシは彼を訪ねた。この日の彼は、顔色が悪かった。アタシが心配すると、彼は「大丈夫」と言う。それが強がりだというのは、誰の目から見ても明らかだった。アタシは、たまたま病室前を巡回していた看護師さんを呼んだ。すると、他の看護師さんやお医者さんも続々と集まってきた。アタシは病室の外に出るように指示され、その後すぐに、この日の面会時間は打ち切られた。病室を出る前に見えた彼の顔は、苦悶に歪んでいた。
更に後日、彼の所に行ってみると、今度は元気そうな顔でベッドに起き上がっていた。
「この間はごめん。ちょっと調子が悪くなっちゃって。でも、もう、大丈夫」
春に再会した時のように、彼は力こぶを作って見せる。春よりも更に頼りなく見えた。とても脆くて、吹けば飛んでしまうような。明らかな強がりだった。
「ねぇ……」
アタシは、意を決して彼の病状を聞く。彼は逡巡したものの、諦めたように苦笑いを見せてアタシに病状を話してくれた。元々、先天性の病気で、小学生の頃から高校生にはなれないかもしれないと言われていたという。けれど、それを乗り越えて、高校生、さらに今年、大学生にもなった。このままいけば、二十歳を迎えることもできるかもしれない。一時はそう言われてさえいた。……一か月前までは。急な病状の悪化で救急搬送されてそのまま入院。診断を受けた結果、余命三ヵ月と宣告された。彼は二十歳の誕生日を迎える春まで、生きられないかもしれない。アタシはそれを聞いて涙が溢れてきた。一番辛いのは、彼のはずなのに。泣いているアタシを、彼が慰める。
「泣かないで。まだ、俺は生きてる。生きるよ。まだ、二十歳になりたいから」
アタシは顔を上げた。どれだけ辛くても、絶望的でも、彼は強がる。最早これは強がりなんかではなく、強さだった。
「リサが最初にお見舞いに来た時、すごく嬉しかった」
アタシは涙を拭う。彼は、アタシの目を真っ直ぐに見つめてきていた。
「バイト終わりにリサと話しながら帰るの、楽しかったからさ。また、話したかったんだ。……来てくれて、ありがとう」
楽しかったのは、アタシの方もだった。彼のいないシフトで仕事をするのは、どこか寂しくて。ぽっかりと穴が開いたかのようだった。
「それで……お願いがあるんだ」
ここで、彼はそう切り出す。言うのをためらっているのか、少し目を泳がせている。
「今日みたいに、お見舞いに来てくれないかな? どうしても、ここにいるだけだと暇だから」
アタシは、そのお願いを快諾した。
それからのアタシは、時間を見つけては彼の病室に通った。やることと言えば、専ら話すことが中心だった。話すといっても、アタシが話していることの方が多くて、彼は聞いている時間の方が長い。「聞いているだけで退屈しないの?」と尋ねると、彼曰く、病室の中で本を読むか寝るくらいしかできないから、病室外の話を聞くことができるのが貴重で楽しいらしい。バイト先での出来事や、Roseliaでの活動、それと友希那のこと……。気がつけばアタシは友希那のことばかり話しているらしく、「友希那ちゃんの保護者みたい……」って彼に言われたこともあった。日によっては、お互いにおすすめの本を紹介したり、お互いに行きたいところの話で盛り上がったり。彼が無邪気な笑顔を見せて笑ってくれるのが嬉しかった。バンドや大学、バイトのこともあって、アタシがここに来ることができるのは、多くて週に二回。Roseliaでのライブが続くときは来られない週もある。更に、彼の体調が悪くて、面会できないときもあった。
アタシが彼の病室に通い始めて、四ヵ月が経った。彼は、余命三ヵ月を越えて、生きていた。途中、体調を崩しながらも、あともう少しで春を迎えられるかもしれないというところまで来ていた。
あの日も、アタシは彼の病室に来て、彼と話をしていた。アタシは、三日後に控えたRoseliaのライブのことを話していた。そのライブは、各種配信サイトでも中継されるとのことで、彼も配信で見てくれるという。帰り際に、アタシは言った。
「また来週、ライブの感想、聞かせてもらうね!」
「わかった。頑張って」
その日は、その小さな約束をして帰った。
Roseliaのライブが終わった日の夜、アタシは彼にメッセージを飛ばす。
「明後日、ライブの感想聞きに行くね!」
彼から、了解というクマのスタンプが飛んできた。彼からライブの感想を聞くのは初めてだったから、アタシはわくわくしながら、ホテルのベッドに潜り込んだ。
「疲れたぁー」
ライブ地から帰ってきて、アタシは実家のベッドに勢いよく仰向けになる。ここに帰ってきたのは、お日様も沈んで夜も更けてきた頃だった。着替えて、お風呂に入って……。そう思いながらも、疲れた体はしばらく動いてくれそうにない。このまま寝てしまおうかな。そう思った瞬間、横に置いていた携帯が鳴った。着信だ。誰だろうと見てみる。彼の名前が表示されていた。こんな時間に? ……嫌な予感がした。
「はい……もしもし」
「リ、リサちゃん! え、え、えっ……えっと」
彼のお母さんだった。涙声で、上手く話せていない。通話越しに、動揺しているのが分かる。彼に、何かあったんだ。
「今から向かいます!」
アタシは、すぐさま家を飛び出した。走る。無我夢中で走る。家の最寄り駅から電車に飛び乗った。早く、早く。逸る気持ちとは対照的に、電車に乗っている時間はひどく長く感じられた。病院の最寄り駅に着き、そこから更に走る。数分ほどで病院のエントランスに駆け込んだ。外来診療の時間も終わった夜の病院。所々照明が落とされ、闇が揺蕩う廊下を早足で進む。彼の病室が見えた。
ガラッと扉を開くと聞こえてきたのは、激しい号哭。彼のお母さんが、彼のベッドに伏して泣いている。後ろに茫然自失という様子の彼のお父さんが立っていて。病室中を見回すと、お医者さんも、看護師さんも皆一様に俯いている。
ベッドに近づく。声をかければ、起き上がりそうで。起き上がって欲しくて。まだ、ライブの感想、聞いてないよ。
……でも、彼の顔はとっても安らかで。時々見せていた辛そうな表情はどこにもなくて。だから。
「……おやすみ」
アタシの頬に雫が伝った。