雨が降る。
駅前の交差点、凄い人混みの中で夕立に立ち尽くしている。過ぎる車が水溜まりを跳ね上げる。上がる水しぶきを一身に受けて、傘を差しているはずなのに、着込んだスーツがびしょ濡れになる。ぐちゃぐちゃのジャケットをもみくちゃにされながら、赤信号を待ちぼうけていた。
遠くで、雷が轟く。顔を上げれば、背の高い電光掲示板が目に留まる。掲示板には世情のニュースが映されていて、それはたとえば、アイドルの不祥事だとか、円安がどうだとか。その手の話題がダイジェストに右から左へ流れている。
カッコウの鳴き声がして、信号が青に切り替わる。人波に流されながら辿り着いた駅の軒先で、傘を畳みながら改札を見やる。改札からホームに向けてまで、またごった返す人の群れを見て、喉奥から大きなため息が漏れた。
ホームに向かうまで、またホームの上でも酷い押し合いをしながら。ベルの音を引き連れてやって来た電車は、すぐに詰まりきらない程満員になって、重たくゆっくりとホームから発車を始める。
吊革を掴む暇もなく、仕方なしにぎゅっとカバンを抱きかかえる。電車に揺られながら、ふと、顔を上げた先で。扉の上に取り付けられた小さなモニターに意識が向いた。
いくつかの映像が流れる中で、うち一つの、なんでもない広告に惹かれる。観光業の宣伝らしいその映像は、始まるや否や、岩稜が奥に幾つも続く赤土の荒野を浮かべ、すぐに自社のロゴへとカットを切り替えてしまう。ぼんやりとそれを見つめながら、心の中で、感慨を覚える。
そういえば、旅行などもう随分行っていない。事ある毎に深夜バスに乗り込んでは、仲間内で旅をした学生の頃が懐かしい。今ではもう、友人に会う暇すらない。
じりりりと車内にベルが響いて、車掌が短いアナウンスをする。到着を知らせるそんなくだりを、もう幾つかするだけで、車両の中の人影は気付けば、ほとんど居なくなっていた。
目に付くのは若い親子連れか壮年の女性くらいのもので、それも自分が最寄りに着く前には、そそくさと途中駅に降りてしまう。
誰も居なくなった車両の中から一人、到着した最寄りのホームに降り立つ。これまた駅のホームはがらんとして、人の気配が感じられない。
改札へ続く長い階段を登る頃には、ようやく駅員か何かの気配を感じ取れるかどうかといった具合だった。一人寂しく改札をくぐって、駅の軒先に立つ。
南口の駅前はほとんど真っ暗で、水商売の店か、夜間のコンビニの明かりなんかがぽつぽつと灯るくらいだった。雨が止んでいたのは幸いだったが、片手にぶら下げたカバンがずんと重くなった気がした。
駅前から退けば夜道は本当に真っ暗で、左右を囲む住宅はどれも明かりを落としている。道沿いにぽつぽつと連なる街灯が道行をなぞっている。
途中、チカチカと切れかけた街灯の足元に、一枚の張り紙がされていた。男の子の写真が掲示されていて、上には目立つ文字で大きく『この人を探しています』と。自分が引っ越してから、もうずっとここに貼ってある。随分と見つかっていない様子だ。写真では小中学生かそこらだが、今頃はもう大人か、ともすれば。
途端、夜道の向こうから、冷たい風が吹き込んでくる。身震いと共に心の底から恐怖が湧き上がって、おかしな妄想はそこでやめにした。
とぼとぼと帰路を行く。住宅街を抜けて、広い河を渡る。橋を越えてすぐの古いアパートの、外付けの階段に足をかける。ところどころ錆の見える鉄骨組みの階段は、一段毎にぎぃと音を立てて軋む。
大きな音を立てないようにそろそろと進んで、205とかけられた扉の前に立つ。ゴソゴソとポケットをまさぐる最中、そういえば、夕飯を買い忘れたことに気付く。またひとつため息を増やしながら、まぁ、何かあるか、と。取り出した鍵で部屋の扉を開いた。
気だるげに照明のスイッチに手をかける。乱雑に靴を脱ぎ散らかして、シャツの第二ボタンまでを外してしまう。ぶら下げたカバンを投げ捨てて、無駄に広いベッドの上に大の字に転げる。
ぼうと天井を見上げていれば、視界の上の照明がゆらゆらと朧気になる。安いだけの羽毛布団は簡単に意識を攫いそうになり、これはいけない、と体を無理やり引きずり上げた。
狭いワンルームの中は、仕事を始めた頃に買った無駄に大きいサイズのベッドで殆どが埋め尽くされている。
寝る為だけに帰るような家ではほとんどの私生活がベッドの上だけで完結していて、例えばテレビやエアコンのコントローラーなんかは全てベッドの上に丸投げされていた。
テレビのリモコンで適当なチャンネルを開いて、起き上げた体を玄関先にある狭いキッチンに向ける。
台所の上、換気扇横に連なる戸棚を開けば、中に買いだめされたカップラーメンがいくつか積まれている。吟味したひとつを手にとって、給湯器に水を注ぐ。
湯が沸くのを待っていると、テレビの方から聞こえるニュースに意識が取られる。
ニュースの中ではナレーション付きの映像が流されていて、それは広い砂場のような場所で、煙を吐き出しながら空に飛び立つ円筒形を映していた。
それは、彗星探査機の打ち上げ映像。日本時間の今日夕方頃、打ち上げられたようだった。今回の探査機は、長期間で組まれた計画の記念すべき第一号であり、目標は彗星への接近、及び着陸。設計寿命を迎えるまでに数年後に接近が予測されている彗星を目指すのだとかどうだとか。先を見越した二号機の建造も進んでいるらしい。
ぼんやりとテレビを眺めながら、子供の頃、星が好きだったことを思い出せる。
夜になると子供部屋の窓を開いて、広げた図鑑と早見表をなぞりながら、空の星座と照らし合わせる。
元々都心生まれだったせいで、綺麗に星が見えた試しなど1度もなかった気がするが、子供の想像力というのは恐ろしいもので、今でも思い出の中では満天の星が広がっている。
季節の星座や流星群やら。名前など、ほとんど忘れてしまったが。
手元の給湯器が音を立てる。お湯を注ぐ最中も視線はテレビに向けられていたせいで、跳ねた熱湯で指先を小さく火傷した。
夕飯を済ませた後、その日はすぐに眠りについた。
ぬるいビールのアルコールと疲労のせいで、風呂に入る気力は無い。雨を随分吸ってしまったジャケットだけを洗濯機に放り投げて、歯を適当に磨いたあと。
ベッドにばたりと倒れ込んで、静かに瞼を閉じる。
明かりを落とした部屋の中、薄暗い室内には窓の奥から差し込む月明かり、星明かりだけが届いている。
その、優しい光の中で、その日は死ぬように眠った。
明日もまた、早いのだから。
眩しい。
次の日の朝、そう感じて目を覚ました。
瞳を閉じているはずなのに、視界がやけに赤い。両の瞼越しに貫通して届く強烈な光は、それだけで体を叩き起す。
細くした瞼をうっすらと開いて、そこでようやく、辺りの異変に気が付いた。
初めに視界に飛び込んだのは、広い青空だった。雲ひとつない、いや、浮かぶ雲はどれも薄く細い。まばらに流れるそれらは、ほとんどが照りつける太陽に追いやられている。
日光はほとんど真っ白に見える程で、その日の天気の良さが、もうこれ以上ないほど晴天なのが良くわかる。
強い日差しのせいで、仰向けに体を起こせない。ハッキリ目を開けようとすると、日光で目が死んでしまいそうだった。
ゆっくりと体を先に起こせば、背中からばきりと音が鳴る。背伸びや腕を回す度に、全身が音を立てて、体がガチガチに固まっている。思えば、寝転んでいた地面が妙に硬い。申し訳程度の薄い麻布が一枚敷かれているが、その下はすぐに、金属質の床になっている。
あの、無駄に広い羽毛のベッドは、どこに行ってしまったのだろう。
目が眩しさに慣れてきて、ようやくはっきりと瞼を開けた。固まった体を十分ほぐして、辺りをざっと見回してみる。
そこは、奥に幾つも続く岩稜が連なって見える、赤土の荒野。舗装された道路が東西に向かって伸びていて、先には地平線が見える。昨夜車内で見た広告のような、あるいは、彗星探査機の打ち上げられた広場だろうか。
とにかく、そんな既視感がふつふつと湧いてくる。
「やぁ、新入りかな」
ふと、背中の方から、声がかかる。
振り返ると、取り付けられた小窓のような場所から、シートに座ってこちらに向き直る、金髪の青年が座っている。長く、よく手入れされたように見える、ストレートの髪だ。青年は車の扉を開くと、運転席から立ち上がり、荷台に寝転んでいたこちらにそっと近づいてくる。
「おはよう」
朗らかな笑顔で、青年は言った。「あ、え」と不器用にどもりながら、「おはようございます」と。返した言葉に青年は手招きして、荷台から降りるように促してくる。戸惑いながら慌てていれば、青年はそっと手を差し伸べて、その手を取れば青年は少し離れた遠くの木を指さした。
「行こうか」
「え、はい」
青年に連れられた木の根元で、二人はそっと座り込む。木漏れ日の中で、青年は口を開いた。
「それで、君は初めまして、かな」
「はい」
「ここがどこかは?」
「いえ、分からないです」
青年はうんうんと頷いて、満足そうににっこりと笑う。
「どこだと思う?」
「いえ、とんと検討は。どこなんですか」
青年はにっこりと笑う。すぐに返してくれないのは、意地悪なんじゃないかと思える。
「それがね、僕にも分からないんだ」
「え」
「ここがどこなのか、なんなのか、僕には分からない」
「その、帰りたいのですが」
青年はまた深く頷いて、言葉を続ける。
「でもね」
「はい」
「僕はここがどこか分からないけど、僕はもうずっとここに居るんだ」
「はぁ」
「だからね、何となくだけど、ここがどういった場所かは想像できるんだ。ここはね、旅路なんだよ」
「旅路」
「そう、あそこに道路が見えるだろう」
そういって青年は、ずっとまっすぐ伸びる道路を指さす。
「あれが旅路さ。たまに僕や、ちょうど今朝の君のような旅人が、前触れもなくふらっと現れるんだ」
「旅人、ですか」
「うん。現れた旅人はまた、前ぶれなく、煙みたいに消えてしまう」
「そうすれば、帰れるんでしょうか」
「さぁ、でも、きっと帰れたんじゃないかな」
不思議な話だと思えた。でも、心のどこかで合点がいって、それが何故かは分からないけど、青年の語った言葉をそれ以上疑うことはしなかった。
「そろそろ起きたかな、戻ろうか」
「はい」
また青年に連れられて、長い道路の脇に止まる、軽トラックの傍に寄る。
軽トラは全体的に深い緑色をしていて、先まで転がっていた荷台には、自分以外に人影が二人見えた。
一つの人影が、体をゆっくりと起こす。目を擦りながら欠伸をしていて、まだはっきりと、目が覚めていないのが分かる。
「おはよう、チセ」
「んー」
青年の挨拶に、声をかけられた女性は間延びした声を返す。目を覚ました人影は、若い女性のようだった。端正な顔立ちをしていて、顔だけ見れば随分幼く見える。ピンク色のパーカーとホットパンツで、暑いのか寒いのか分かりづらい格好をしている。
「ん、あれ、新しい人?」
「ああ、今朝荷台に乗っていてね」
「そっか、私チセ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
軽く会釈をすれば、チセと名乗った女性はひらひらと柔らかく手を振る。
「あれ、トオルくんは?」
「まだ寝ているみたいだね、そら」
青年が指さした先には、チセの影に隠れていた、銀髪に見える少年の姿がある。髪色こそ奇抜だが、顔立ちも背丈もまだ幼い。小学生か中学生か、その辺りだろうか。寝息をすうすうと立てて、無邪気に眠りこけている。
「起こそうか?」
「まだ寝かせてあげよう、昨日は少し、慌ただしかったしね」
「ん、ハレーは疲れてない?」
「あぁ、僕はずっと車内に居たからね」
「そっか」
そこで青年の名前が、ハレーということに気が付けたが、金髪と碧眼で外国人というのはすぐに分かっていたせいで、名前に驚きは浮かばなかった。
「それじゃあそろそろ出発しよう、君もほら、荷台に乗るといい」
「おいで」
二人に促されて、慌てて荷台に上がる。青年、ハレーは車の運転席に乗り込むと、ぶるるると車が震え始める。深緑色の軽トラックは灰色の煙を吐き出しながら、青空の下、赤土の荒野を横断する長い道路を西に向かって進み始めた。
タイヤに小石がつまづいて、ガタガタ震えたりしながら、荷台の上でチセと隣合って座る。沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは、自分からだった。
「あの、これはどこに?」
「どこにも、ずっとこの道を行くの、ずーっと。ハレーから聞いてない?」
「あぁいや、聞いたんですけど、イマイチで」
「ピンと来ない?」
「はい」
「んー、おにーさんはさ、帰りたい?」
「えぇ、まぁ」
「そっかー、ならまぁ、大丈夫だと思うよ」
「はぁ」
根拠の無い言葉だったが、その言いぐさが自信に溢れたものだったから、何となく信じてみようと思える。膝を抱えて座り込んでいれば、ずんずんと車は荒野を進む。
道は途切れないのに、流れていく景色は似通っても確かに変わっていて、地道に進んでいることは分かった。
奥の岩山の形が変わったり、形の違う木々が流れていったり。風が吹いて赤土が舞って、思わず口を塞ぐこともある。
日は照っているし、眩しいはずなのに嫌な暑さは感じなくて、暑い、と感じてもそれはずいぶん乾いて爽やかな暑さだった。
ジャケットは置いてきたのだろうか。昨日眠りについたままのシャツ一枚でも、白シャツが肌に張り付くなんて事は、目を覚ましてから1度だってない。
荷台から少し身を乗り出せば、速度を上げる車の向かい風が本当に心地よい。知らない場所のはずなのに、それだけで顔が綻んでしまって、それを見たチセもどこか喜んでくれるようだった。
時間が経てば、ずっと二人きりのせいで否が応でも話は弾み、チセといった少女とは大きく打ち解け始めていた。プライベートな話はひとつもしなかったが、天気がいいとか、風が気持ちいいとか、中身のない話だけで十分よかったと思える。
もうずっと車は走っている。初めは背中の方に見えた太陽も、だいぶ真上に登る頃だった。道の向こう、車線の左側からこちらに向かって、一台の真っ白なキャンピングカーが迫ってくる。
キャンピングカーにはちょうど、フロントガラスの上の辺りに、大きく看板が掲げられている。ピンク色の背景に黄緑や水色といったファンシーな色使いで、英字表記で『sandwich』と。迫ればすぐに、それが、移動販売か何かの車だと分かった。
チセの方を見れば、彼女は小窓から覗くハレーと目配せをしてにたりと笑う。悪巧みみたいなそれを不審がっていると、車は急に、甲高い鳴き声を発して急停車する。チッカチッカとウィンカーを灯せば、向こうもそれに気付いたのか、こちらに随分近寄ってから車をゆっくりと傍らに停めた。
ハレーが運転席から顔を出して、カウンターらしい小さな扉をノックすれば、閉まりきったシャッターが勢いよくガラリと開いた。
「いらっしゃい」
中から出てきたのは、まるで世紀末か、でなければ米軍然とした屈強な男だった。ぴっちり張り付いた黒のノースリーブが胸筋を激しく主張している。目元にかけるサングラスは真っ黒で、なのに頭に被る車上の看板と同じデザインのキャップが、ずいぶん可笑しく思えた。
「やぁ、メニューを見せてもらえるかな」
「あいよ」
店主らしき大男を一挙手一投足がやけにオーバーで、一声あげる度に空気が震えているような気がする。「板前さんみたいな口調」チセがすぐにそう呟く。
「そら、君たちも見るといい」運転席から降りたハレーが、荷台に昇ってそれを寄越してくれる。綺麗にラミネートされたメニューには、一見して、普通のサンドイッチがつらつらと並べられている。
付随した写真はどれも色鮮やかで、朝食を抜いた体は、もう舌鼓を打とうとする。
「ねぇおにーさん」
「はい、なんでしょう」
「これ、何かな?」
チセが指さしたのは、鳥肉のサンドイッチだった。揚げ鳥にオレンジ色のソースがかけられていて、これも美味そうだと唾を飲みそうになって、横のメニュー名に目が滑る。「タンチョウ鶴のフライドチキン」日本語表記なのが幸いだと思えた。
「鶴って、食べられるんですか?」
「さぁ」
よく見れば、メニューに乗った食材はどれも、辺鄙な物ばかりだった。「オオサンショウウオの刺しサンドイッチ」「トリカブトの生野菜サラダ」「イリオモテヤマネコの蒸し肉(上カルビ)」最後の一つだけ少し値段が高かった。
「あぁ、それと、透を起こしてあげてくれ」
「あ、そうだった」
チセは、自分のすぐ横で眠っていた銀髪の少年を揺さぶると、少年は「んん」と小さな声を漏らしたあと目を擦りながら目を覚ました。
「何」
「お昼だよ、サンドイッチ。何食べる?」
「サンドイッチ?」
「うん」
「じゃあ鳥肉」
もぞもぞ体を揺らしながら、少年は垂らした瞼を懸命に擦っている。
「鳥肉って、鶴かな?」
「鶴じゃないですか?」
「んじゃそれと、おにーさんは?」
「あ、僕も同じ物を」
「じゃ鶴二つね、私は甘いのにしよっかな。お、ねぇ見てこれ」
彼女が指さしたメニューの写真は、断面に鮮やかなフルーツが見える、クリーム詰めのサンドイッチだった。季節のフルーツと表記されているが、見える限りでも葡萄や苺や甜瓜など、ずいぶんチグハグに思える。
「じゃあ、このフライドチキンの二つと、フルーツサンドを1つ。僕はサラダサンドを貰おうか。あと、オレンジジュースを四つ」
ハレーがメニューを読み上げると、店主はすぐにキッチンに引っ込んでしまう。ぶっきらぼうだが、忙しく調理を進めている。
「お兄さん」
二の腕をつつかれて顔をやると、そこには、トオルくんだとか透だとか、そう呼ばれていた少年がこちらを覗き込んでいる。
「はい、どうしましたか」
「新しい人でしょ」
「そうです」
「透明の透の字でトオル、よろしくね」
「あぁ、よろしくお願いします」
深く頭を互いに下げる。見てくれの幼さに似合わない銀髪が、キラキラ光って見える。思わずじっと見つめてしまうと、少年はばっと頭に手をやって、光を遮ってしまう。何かを隠すようだった。
「トオルくんはね、中学生なんだよ」
「そうなんですね」
横から入るチセに、「まだなったばかりだけど」と小さく透君は呟いて、そっと俯いてしまう。
「おにーさんは仕事は」
「営業職です」
「サラリーマンだ」
「はい」
「だから白シャツ?」
「あぁ、昨夜このまま寝てしまったみたいで」
「忙しかったり」
「最近は特に」
「そっか」
チセは、じっとこちらを覗き込んでいた。何かを確かめるようだった。思わず口を開いてしまう。
「あの、何か」
「おにーさんさ」
「はい」
「いくつ?」
「二年目なんです、二十三で」
「うそ、一つしか変わらないじゃん」
「チセさんは」
「二十二、もっと上に見えてた」
「最近よく言われます」
頬を撫でる。学生の頃にはなかった、深いシワをなぞる。眉間にもずいぶん刻まれてしまった。そういえば、いつだか洗濯物に、白い髪が一本混じっていたような気もする。
横目でハレーの方を見れば、店主の男から紙のランチボックスを四つと、透明なカップに入ったオレンジジュースを受け取っている。店主に何か、握り締めた硬貨のようなものを手渡していたが、それはただ光沢のある円い輪のような物で、とてもお金には見えなかった。チープなアクセサリーにも見える。
「そら、お昼にしよう」
ハレーはそう言うと、それぞれに手にしたランチボックスと飲み物を配ってくれる。ランチボックスにはシールのようなものが貼ってあって、商品名とバーコードが印刷されている。
ハレーからそれらを受け取ったところで、キャンピングカーに乗った店主は脱帽した後、すぐにエンジンをかけ始める。また車線に戻ると、自分達とは逆の方へ、東に向かって走り去ってしまった。
ちょうど、太陽が頭上を過ぎそうな頃だった。ランチボックスを開くと、そこにはメニュー表で見た、オレンジがかったソースがついた揚げ鳥に、千切りキャベツの挟まったサンドイッチが入っている。
昼時になって、ようやく、落ち着いた話をすることができた。
「他にも人が居るんですね」
「あぁ、生まれてから死ぬまで、ずっとここにいる人もいるよ」
「ここに住んでいる、ということですか?」
「人生が旅路、という人は、少なくないからね」
東へ伸びる道を見やる。風に吹かれて、砂が舞っている。もう見えなくなってしまったが、煙を吐いて行ってしまったあのキャンピングカーも、そういった類の人だったのだろうか。
「ハレーさんは違うんですか」
「ハレーでいいさ」
「ハレーは、違うんですか」
「僕か、そうだな」
少し、不器用に笑う。どこか、答えづらそうでもあったと思う。
「そうであったといえば、そうだったのかもしれない。でも、僕には目的があるからね」
「目的、ですか。それはどの人もそうなのでは」
「旅路にはっきり目的がある人も、案外少ないものさ」
「そうでしょうか」
「何か目的があっても、それはきっと、届かないものなのだと思う。特に先の、生涯を通して旅人である人はね」
先を見るハレーの目が、ずっと遠い気がした。
お昼時は、色々なことを話した。特に朝方話せなかった透君とは、良く話すようにしていた。銀髪について聞いてみたが、苦笑いではぐらかされてしまって、それから聞くのは控えることにした。
その日はそれから、少しだけ語り合って、すぐに出発することになった。
また、長い東西の道を進む。お昼を過ぎた頃はもう、何だか気力をなくしてしまって、荷台に乗り込む三人は一様にぼんやりと景色を眺めていた。
途中、葉のつかない背の高い一本杉が遠くに見えた。長い影を、伸びる道を別けるように落としている。何かの、垣根のようにも思えた。
日が傾いてきた時だった。空が茜色に少しづつ、染まり始めている。小窓からハレーが、声をかけてきた。
「今日はあの岩場の辺りで休もう」
そう指した先には、凸型に岩が飛び出た場所がある。皆何も言わずに頷いて、少しの道のりの、車の揺れに身を委ねていた。
昼の時とは違い、今度は丁寧にゆっくり、軽トラックは停車する。車が止まると皆、車上から降りて包んだ布など広げ始める。
ハレーは軽トラのどこからか、いくらか薪を手にしていた。内ポケットからライターを取り出すと、組んだ薪に火をつける。その辺りの枝や小石を透君がごっそり抱えてきて、組んだ焚き火を囲んだり、枝葉を入れたりする。ずいぶん手馴れているようだった。
そんなことをしていれば、もうすぐに、空が橙色から、薄紫にかかり始める。
西の地平線の方には太陽の下がもう隠れようとしていて、浮かぶ少ない雲なども、青いような橙のような、不思議な色をする。
それは、魔法色の空だった。ぱちぱちと焚き火から音がしはじめる。ぼうっと空を見上げていると、皆も、同じように一面の空を見ているようだった。
ふと、遠くから。
ゴロゴロと、雷鳴が聞こえた気がした。
「雷」
「いや、あれさ」
ハレーは、ずっと遠くの東の空を指さした。
その向こうからは、地平から、濃紺が上り始めている。薄紫とのグラデーションを綺麗に描きながら。それはすぐに夜空だと分かるが、ずいぶん、星がないように見えた。
雷鳴が轟く。じっと目を凝らしていると、星のない夜空の向こうにふっと、一筋光が走る。よく覗いていればそれは次第に数を増やし、地平の奥から飛んだ光は気付けば、夜空を抜かして薄紫の空と濃紺の、そのちょうど間に割って入るように流れていた。
「あれは」
「彗星だよ。ここではアレが、ああして夜空を連れてくる」
確かに、夜空を引っ張るようだった。彗星の群れは魔法色の空を押し出して、尾を引いた夜空を導いている。
「あの岩が空を転がる音が、雷鳴のように聞こえるんだ」
ゴロゴロと、彗星は空を転がる。西日に目をやればもう、その色は橙から血潮のような真っ赤に変わっていて、西から東に目を流せば、そのグラデーションが全てひとつの空に思えないほど、神秘的だった。
西の太陽はその半分ほどを沈め、半身を覗かせて東の空を焼かんと睨んでいる。東の空は夕空を押し上げて、見れば、向こうの夜空にも星がきらきら登り始めている。
時が流れる程に、気づけばもう、あんなにも眩しい太陽は隠れ、薄紫の空もだんだん夜に陰り始めていた。十と数分も経てばそれも消えて、空にはもう、満天の星空が広がっていた。
頭上を過ぎていくいくつもの光の帯、彗星を見送る時は、何故か息をしてはいけない気がして、その時は呼吸を忘れることにしていた。
空には、赤や白や青みがかった、いくつもの点が数え切れないほど無数に広がる。子供の頃に見た、思い出の星空にそっくりだった。
暖かな焚き火を囲んで、皆でそっと座り込む。夜空にはいくつも星座が浮かんでいて、それらを大きく区切るように、ミルク色の天の川が横断する。そこに伸びる道路と、よく似ているとも感じた。
ぼんやりと空を眺めていると、ハレーが優しく、声をかけてくる。
「さて、改めて、これからよろしく」伸ばされた手を受け取って、そっと握りしめる。
短い言葉にまた、「よろしくお願いします」と簡単な言葉を返してみる。
空に一筋、先の彗星にも良く似た、流れ星が過ぎていた。