その頃、かの少年はアメリアの前で静かに寝息を立てていた。
ルーカスとともに治療を終え、寝台に少年を寝かせたアメリアは、命じられるままに彼の傍に付き添っていた。
レーナは時々、様々な生き物を連れて屋敷に帰ってくる。傷だらけの魔獣や弱った小動物など、どうやら見て見ぬふりは出来ないらしい。さすがに人間を連れて帰ってくるのは初めてだが。
最初は息も絶え絶えだった彼の様子も、今では治療が効いたのか穏やかになっている。
その顔を見てアメリアは安心した。運び込まれてきたときは今に死んでしまってもおかしくないくらいだったのだ。むしろこの短時間でよくここまで回復したといえる。
「それにしても、全身ボロボロですし何かお召し物をご用意したほうがいいんじゃ……」
治療を終え傷もふさがった彼だが、彼の衣服は焼け焦げたような跡や穴の数々、また肌には土埃などが少々残っている。
さすがにみすぼらしい姿だと思ったアメリアは、とりあえず汚れを落とそうとタオルに手を取った。
「……」
濡れたタオルで頬を拭う。それとともに、彼女はまじまじと横たわるその身体を見てしまった。
穴の開いた衣服から覗く、華奢な筋肉。しかしそれは確かに男性の身体を形どっている。
身体自体は細いのだが、それにしてはずいぶん筋肉がしっかりとしている。薄っすらと影を落とし、形が認識できるほどに。
なぜだろうか。注目すればするほど、どうにも彼が色っぽく見える。
突然湧き上がったとある衝動がアメリアを襲う。もっと見てみたい、確かめてみたい。そんな思考に頭が支配され完全に手が止まる。彼女の目は、もはや目の前の誘惑にくぎ付けとなっていた。
「っは!ダメ、ダメよアメリア。しっかりしないと」
紅潮した顔を抑えながら理性を取り戻す。
アメリアは男性の素肌など見たことがなかった。あったとしてもそれは幼少期に見た父のそれくらいだろうか。同年代の男性はもちろん、毎日ともに仕事をしている執事のルーカスのですら見た覚えがない。
故に理性も脆いのだろう。妹やレーナの身体しか見たことがなかった彼女にとって、この少年の身体はあまりにも毒であった。
そう思うと急に少年を意識してしまう。今のアメリアには、彼を視界に入れることもままならず、つい背中を向けてしまう。
だから少年の目蓋がゆっくりと開いたことに彼女は気が付かなかった。
布の擦れる音が微かに鳴る。それを聞いてようやく振り向いたアメリアは、
「えっ──」
訳も分からず床に押し倒された。
永遠にも、一瞬にも感じられるような時間──。何をされたのか理解ができず、アメリアの中での時が停滞する。彼女の上に馬乗りになる少年、その瞳に光はない。
そしてどうすればいいのか迷っているうちに、アメリアの細い首に手が伸びた。
「かは──ぁ……!?」
呼吸が止まる。圧迫されて頭に血が回らない。猛烈な不快感と苦しみ、同時に困惑が巻き起こる。
……なんで?とめどなく涙があふれる。苦しい、くるしい、たすけて──。
ぐぐぐ、と彼の手が容赦なく力を込める。そのせいで、嗚咽すら満足に漏らすこともできない。
視界が震え、勝手に足が痙攣するかのように暴れる。
必死に息を吸おうとして、かすれるような音が空しく響く。それに応えるかのように首を絞める力は徐々に増していった。
何か行動しないと、このままでは意識を奪われてしまう。
どうしよう、どうすればいいんだろう。死にたくない、でも主人が連れてきた彼に危害を加えるわけにはいかない。
──故に、アメリアはとっさに両手を前に差し出した。
「こわく、な……です、よ──。だいじょ、ぶ、です……よ?」
「──?」
優しく、ゆっくりと両手で少年の頬を包む。
掴む手を剥がそうとするでもなく、どうにか抵抗するでもなく、アメリアが真っ先にとった行動は相手をなだめることだった。
正直苦しくて仕方がない、痛くて仕方ない。それでも、彼女は目の前の脅威を傷つけることはできない。
きっと急に知らない場所に連れてこられて怖いのだろう。知らない誰かが目の前にいて、とっさに身を守ろうとしたのだろう。
自分が死の狭間に叩き落されているにも関わらず、そう思うと攻撃できなかったのだ。なぜなら臆病なのは自分も同じだから。
自分勝手に共感してしまった。本当に少年が臆病な確証はどこにもない。ただ単にアメリアの息の根を止めようとしている、それだけかもしれない。
だとしても必死に、それでいて穏やかに諭す。かすれた声で、かつ穏やかな声音。続けていくうちに、心なしか少年の手も少し緩んだような気もした。
「だいじょ……ぶ、だい……じょ──」
だが、もはや意識はほとんど暗転し、酷い耳鳴りがアメリアを取り巻く。声ももうほとんど出ない。
少年の頬に預けた両手が力なく垂れ下がる。そうして彼女は、辛うじて取り留めていた意識を手放そうとした。
「アメリアッ!」
「っ──!!かはっ、ゲホッ」
肺に流れ込む数多の空気、脳に巡る多量の血液。急激な意識の覚醒に、アメリアの視界が明滅する。
それと同時に、回し蹴りをくらった少年は吹っ飛ばされ、すさまじい音を立てながらタンスに激突した。
「このっ、うちのアメリアが世話になったわねッ!」
開け放たれた扉からレーナが飛び込んでくる。体勢を崩した少年の襟を思い切り掴むと、すかさず拳を放った。
小さな悲鳴が響き、鈍い音を何度も繰り返す。
「よくもっ、よくも──」
「レーナ、さま」
真っ赤になった拳を再度振り降ろそうとしたとき、その腕を虚ろな目をしたアメリアが掴んだ。
「ダメ、です。けほっ、……ダメなんですレーナ様。その子はただ怖がってるだけなんです」
「……何言ってるの?こいつはアメリアを殺そうとしたのよ!?怖がってるんじゃない、明確にあんたを殺そうとしてたのっ!」
彼女はレーナを引きはがすと、ふらついた様子で少年の前に座り込み、両手を広げた。
「何してんの、どきなさいアメリア。そいつはあたしが連れてきたの。ならあたしが責任もって処分しなきゃ」
「なら私も一緒に処分してください」
「はあ?あんたおかしいわよ!なんで自分を殺そうとした相手を庇うわけ!?」
それを聞くと、アメリアは微笑んだ。
涙でぐちゃぐちゃになった顔に浮かぶ笑み。その複雑な表情に、レーナの胸が締め付けられる。
「だって、レーナ様があんなに必死になって助けてきた子を傷つけられるわけありませんから」
血の気が引くような感覚をレーナは覚える。彼女の言葉は間違いなく本心だ。アメリアの忠誠心を、異常な優しさをレーナは見くびっていた。
自分を殺そうとした相手をここまで助けようとするだろうか。普通なら逃げるなり反撃するなり、ネガティブな反応を示すはずだ。
だがアメリアは違った。愛し、理解しようとしたのだ。それは完全なる相手への信頼。最後まで良心を信じ、寄り添った。
きっとその裏には、レーナが悲しむからという理由もあったかもしれない。
「でもそれじゃあ、アメリアが死んじゃうじゃない」
アメリアのその行動には、大きな欠点があった。他己主義を極めるあまり、自らの損出を考えていないことだ。
他人に尽くすあまり命を失ってしまっては何にもならない。それにレーナにとっては、拾ってきた素性も知れない少年よりも、アメリアのほうが圧倒的に大切なのだから。
「アメリア!お嬢様!」
「──お姉ちゃんっ!?」
騒ぎを聞き付けたのか、ルーカスとゼラが駆けつける。アメリアの首元にある跡に気が付いたのかゼラは顔面蒼白だ。
ルーカスはアメリアを押し退けると、素早い手つきで少年を抑え込む。
「ル、ルーカス様!お願いです、やめてあげてくださいっ!」
「……少々眠って頂くだけです」
じたばたと暴れる少年の頭をしっかり掴むと、ルーカスは何やら呟く。
すると彼の手から黒いもやが溢れ出る。瞬く間に顔面を覆うと、徐々に少年は脱力し、やがて眠るように気絶した。
「お姉ちゃんっ、大丈夫!?」
「へ、平気だよ、ゼラ」
すぐさま姉のもとにゼラが駆け寄る。気丈にふるまってはいるが、首に残った跡と頬を伝う涙がここで起こったことを物語っている。
ゼラはぐっと口をつぐむと、何かを堪えたまま姉を抱きしめた。
「だから今度何か連れてきたらゼラが世話するって言ったのに──!なんでお姉ちゃんがいつもボロボロになるの?見てられないよっ」
「それはお姉ちゃんも同じだよ。ゼラやレーナ様が傷つくくらいなら、私がその役目を担うわ。お姉ちゃんの取り柄なんて、それくらいしかないんだし」
「そういうことが言いたいんじゃ──」
二人の言い争いを遮るように、手拍子が二度続く。
「……ひとまず、休んではどうですか。後のことは私が済ませておきますから、ゆっくりと食事でもしていなさい」
「ありがとうございます、ルーカス様」
座りながらもぺこりと礼をするアメリア。渋々といった感じでゼラは黙ると、同じように礼をしながら姉を支え部屋を出ていった。
「お嬢様は少々お残りいただけますか」
「……ええ」
倒れた少年を囲むように、二人が部屋に残る。気を失う彼は、穏やかな表情で目を閉じていた。
「見当はついております。この少年は、テイムヒューマン・コロシアムに参加させるために連れてきたのでしょう」
「そうよ、強かったから連れてきた。だけど──、だけど皆に迷惑をかけるようじゃ、やっぱり……」
「──元はと言えば、少年をお任せいただいたのは私。今回の件は私の失態でございます」
「っ!そんな、じいやは悪くなんか……」
レーナがそこまで言うと、ルーカスは遮るように話す。
「そこでです、お嬢様。私にもう一度挽回するチャンスを頂けますか?お嬢様もメイドも納得出来る、方法があるやもしれません」
ご不満であればお嬢様の言う通りすぐにでも少年を処分致しましょう、そう彼は続けた。
正直、アメリアを傷つけられた時点で少年は捨てるつもりでいた。このままでは、自分もゼラも納得出来るはずがないからだ。
だがルーカスは執事として、父も認める優秀な人物だ。そんな彼ならば、もしかするとこの問題を解決出来るかもしれない。
──それに、元々少年を哀れんで助けようとしたのは自分だ。
レーナはしばらく黙り込んだ後、目を伏せながら口を開いた。
「分かった、じいやに任せる。だけど、もしも私たちのうち一人でも納得させられなかったら、その時はこいつを処分するわ」
「ありがとうございます、お嬢様。お任せ下さい」
ルーカスは優雅に一礼をする。
床に倒れる少年を見据え、レーナの脳裏にあの痛ましい光景が浮かぶ。彼女も本当は少年を見捨てたくは無い。きっとルーカスなら、最善の結果をもたらしてくれるだろう。そう、希望を持つことにした。