目の前の少女の真紅の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
月の光が窓から優しく差し込む。仄かな月光が部屋の様子を照らし出す。外観ではただの古ぼけた洋館だとしか感じなかったが、部屋の中は思っていた以上に掃除が行き届いていたようだ。壁の調度品や机や戸棚、そして目の前の少女が寝転がっていた大きなベッドもどこか気品を感じさせる作りをしており、それらが見事に調和している。
もっとも、所詮は化け物の巣窟だ。どれだけご立派に飾ろうが、『男』には全く関係ない。
『男』は足元に無数に倒れている屍の頭の一つに、無造作に足を乗せる。ギシギシと頭蓋が嫌な音を立て、頭蓋はぐちゃっとトマトのように潰れた。
ごく普通の、ごくごく一般的な屍鬼の処理方法だ。どれだけ美男美女の屍鬼を用意しようが、死人は死人だ。『男』の良心を痛ませる要因にはなり得ない。
『男』は自分の脚を、蟲のような甲殻で覆われた脚を屍から持ち上げた。ぬちゃぁっと屍の血が『男』の足の裏から糸を引いて床に垂れる。
「……あーあ、ここで終わり、かぁ……」
ベッドの上に座り込んだ少女の目から、とうとう涙が溢れ落ちる。その顔には明確な恐怖と、諦めの色が刻まれていた。
月光を反射して光る、足元まで伸びた銀の髪。白磁のような白い肌。前髪で隠れてよく見えないが、真紅の瞳がこちらに向けられている。寝巻き姿なので服の上からでも体のラインがよくわかるのだが、大きすぎず小さすぎず、バランスの良い、黄金比のような体型をしている。
『男』──鉄馬アキトはゆっくりと、目の前の幼い少女に近づいた。そう、目の前のこの美しい少女は、吸血鬼だった。
しかも、『魔王』になる可能性を秘めた、この世界における特大の厄ネタだ。生かしておく理由はない。
それが、アキトの仕事だから。
アキトはゆっくりと甲殻に覆われた右手を上げる。貫手の構えをとり、指の先に全神経を集中させる。
「悪く思うな」
「別に…どうでもいい……」
己の運命を悟った少女が目を瞑る。それを無視して、アキトの右手は少女の命を奪うべく振り下ろされた。
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この世界に、神も仏もいやしない。それが、アキトがこの世界に来て一番最初に実感した事だ。
フリーターとして職を転々としていた彼はある仕事帰りの夜、強烈な光に包まれた。思い返してみれば、アレはトラックのヘッドライトだったのかもしれない。まあ今となってはどうでもいい事だ。
とにかく、光に包まれたアキトは痛みもないまま意識を失い、気が付けばこの世界に転移していた、というわけだ。
それも、彼が考える限り最悪な形で。
巷のWEB小説界隈でお決まりのパターンだ。こういうのを異世界転移、と呼ぶんだったか。こういう場合は大抵、どこかの世界の神だか大いなる存在だかが面接してくれて、それなりに強大な力、いわゆるチートというやつを授けてくれるもんだとアキトは思っていた。
どれだけお花畑な頭をしているのだろう。神様という奴らが本当にいたとして、そんな大いなる存在とやらが、なんの取り柄も特徴もないような社会のゴミに、どれだけ慈悲深い措置を施してくれるというのだ。
現実の世界は、彼のような人間のことなんて誰も気にしない。ただ数多くいる社会の歯車、その一つ。代わりはいくらでもいる大量生産品の一つでしかないのだ、結局は。
目を覚ましたアキトの目に最初に飛び込んできたもの。それは、黒く大きな塊の影。
彼のボヤけた目はだんだんと焦点を取り戻し、その影の正体を彼に突きつけた。
目の前にいたのは、巨大な蟻だった。それが3匹。アキトの身体を覆うように蠢いていた。
「ひゅ……ッ」
彼の喉から空気が漏れた。アキトは別に虫が嫌いな部類の人間ではなかったのだが、目の前に人間大の蟻がいたら、流石に恐怖を覚える。アキトの頭は一気に混乱した。
なんだ?何が起きてる?恐怖に歯をガチガチと鳴らしながら彼は、自分の置かれた状況を把握しようと必死に視線を周囲に向けた。
薄暗い洞窟。その一室。壁には申し訳程度に松明が1本ポツンと掛けられており、部屋の中を薄暗く照らしていた。まるで蟻の巣の中のようだとアキトは感じた。
『お、目覚めたみたいだな…』
彼が状況を必死に把握しようとしている中、目の前の蟻たちはアキトの様子に気がついたようだ。
奴らの話している言葉が解る。解ってしまう。それがかえって恐怖だった。蟻どもの無感情な目がアキトに注がれ、デカい触覚が彼の全身を無遠慮に撫で回す。
その時になってアキトは、ようやく自分が全裸で寝かされている事に気付いた。両手両足はなにか、蜘蛛の糸のようなモノでがんじがらめにされていて動けない。
アキトは命の危機を感じて必死にもがいた。
『おお!随分と活きのいい個体だな!』
『これは……食欲をそそられますなぁ』
『いかん、いかんぞ。何せ久しぶりの召喚獣だ。それも我ら一族の王となられるかもしれない玉体だぞ?いくら我ら三賢者とはいえ、下手に手を出せば後が怖いと言うもの』
化け物蟻がアキトの全身を撫で回しながら、談笑しながら言葉を交わす。
『さて……腹を開くか』
その言葉を聞いた瞬間、アキトの全身から汗が一気に吹き出した。
「や、やめ……!」
『では、まず私めから』
アキトの静止の声も聞かず、蟻の1匹が、そのでかい顎をアキトの腹に当て、一気に噛みついた。
「いぎぃッ!?」
『ふむ、甘露』
噛みついた顎がアキトの肉を切り裂き、ぞぶりと体内に侵入する。鋭利な顎が無遠慮にアキトの腹の中を掻き回した。
アキトの口から出た悲鳴が、部屋中に響き渡った。
『ふほほ!元気の良い事だ!』
『どうですかな?お味は!』
『美味い!なんだコレは!この男は貴族か王族か!?どれだけ良いモノを食べてきたのやら…』
ぶちぶちと音を立てて、アキトの腹の皮と筋肉が引きちぎられる。その想像をはるかに絶する痛みに、アキトの全身の穴という穴から汚物が吹き出した。
『これ、術の最中ですぞ?不可抗力とはいえ、あまり血肉を貪っては言い訳が立ちますまい』
『いかんいかん。これは失敬。それでは、『玉卵』をここへ』
『喜べ、人間。我らが王の精を宿した卵だぞ?その糧となれることの栄誉を身に刻むとよいわ』
彼はそれを聞いて、発狂したように声を張り上げた。目の前の化け物は、アキトに卵を産みつけようとしていたのだ。卵から孵った幼虫の、最初の餌となるように。
「やめろ…頼む、やめろ、やめてくれェッ!お願いだ!お願いだぁぁあああ……!」
『ふはは!餌が何か騒いでおりますなぁ!』
『これは愉快!さぁさぁ、ここの広げたところに……』
蟻どもが、彼の腹に開けられた傷穴を触覚と顎を器用に使って抉って広げる。アキトの口から再び絶叫が飛び出した。直後、腹の中に何かが押し込まれる。
卵だ。アキトがそう認識した瞬間、あまりの拒絶感から、開かれた腹から食道を逆流して胃の中のものが口から溢れ出した。苦しい…息ができない!
『いかん。死なせてはまずい』
蟻の1匹が触覚を器用に使って、アキトの頭を横に倒す。口の中に残った吐瀉物が、ゆっくりと口から流れ出した。彼を窒息死させないためのその手つきは、腹が立つほどに優しかった。
『さて、此度の王はどのような姿でお生まれになるかな?』
『魔族か、可能性は低いですが魔人型という事もあり得ます。いや、実に愉しみですなぁ』
化け物どもがアキトの体の上で「わはは!」と笑う。アキトはその笑い声を聞きながら、絶望と共に意識を失った。
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「あれから、もう10年が経つのか…」
そんな事を思いながら、アキトはボサボサに伸びた髪をくしゃりと握った。アキトは今、巷で『鉄の馬』と呼ばれる、元の世界でバイクと呼ばれていたものと似た乗り物に跨って、荒野を駆けていた。
アキトは顔にかけたゴーグルの位置を正す。蛇型モンスターの皮をなめしたジャケットにジーンズ、足にもライダーブーツを履いている。身体中で受ける風が心地よい。
鉄の馬の後ろには、大きな頭陀袋がぶら下げられており、硬い地面に擦れるように引きずられている。いわゆる、死体袋というやつだった。
アキトが体に蟻の卵を植え付けられて、体の内側から孵った幼虫に食い散らかされて……そこから10年も経った。長いようで短いような10年だった。
アキトの命は、幼虫に身体中を食い破られて終わった。アキト自身もようやくこの苦しみから救われる。そう思いアキトは自分の死を受け入れて目を閉じた。
だがその時、不思議な事が起こった。
(俺の命は、どうやらクソッタレの蟻の幼虫に引き継がれたらしい。気がつけば俺は、自分の両足で立って、足元にわらわらと集まってきた巨大蟻どもを見下ろしていた)
全身に力が漲っているのが解った。アキトは生まれ変わったのだ。人型の、蟻として。
(そこまで理解した俺が、最初に何をしたのかって?決まってる。害虫駆除だ。一匹残らず踏み潰してやった。蟻の巣の一番奥にいた、醜く太った女王蟻も、ズタズタに引き裂いて殺してやった……)
アキトは巨大蟻の巣を後にした。太陽が高く登っていて、ムカつくくらいの青空だったのを覚えている。
水の流れる音がしたので、彼はその音のする方へと駆け出した。どうしようもないくらいに喉が渇いていたのだ。音の方に向けて風のような速度で走ってきてみれば、そこには巨大な川が流れていた。
アキトは頭から川に突っ込んで、思う存分に水を飲んだ。水から顔を上げて、自分が生きている奇跡を喜んだ彼だったが、水面に映る自分の姿を見て愕然とした。
蟻のような甲殻に全身を覆われて、巨大な複眼と触覚、牙の様な顎を生やした生物の姿が、そこにはあった。
まるで仮面を被ったライダーだ。そんな間抜けな感想が頭を過った。アキトは水面に映った醜い姿から目を逸らすために両手で顔を覆った。そして必死に、もとの自分の、人間だった時の姿を思い出そうとした。
気がつけば、アキトは人の体を取り戻していた。
彼は人の姿に戻れたことがわかって喜んだが、同時に頭の中では理解していた。
これは、ただの『擬態』だと。蟲が人の姿に化けているだけなのだと。
それを理解して、今に至るまでいろんな事があった。
アキトは必死に人のふりをして街まで辿り着いた。異世界人であるアキトには当然身寄りもなく金もないので、冒険者としてギルドに登録し、その日暮らしの生活を始めた。
最初のモンスター討伐の際は自分の正体がバレるのを防ぐために、人型の状態でクエストに挑んだ。
しかし、スライムやゾンビのような雑魚にすら殺されかけた。同行した新人冒険者がモンスターに喰い殺されたの見た瞬間に、アキトは『擬態』を解いて戦い始めた。
その後は、蟻の巣から逃げ出した時と一緒だった。腕を振るえばスライムは爆散し、脚で蹴りを放てばゾンビの上半身が吹き飛んだ。
それ以来、アキトはソロの冒険者としてクエストをこなすようになった。自分の正体がバレれば必ず討伐の対象とされる。かといって人間体のままではその辺の雑魚モンスターにすら殺されかねない。そういった事情から、アキトは人との接触をなるべく避けて、冒険者ギルドでクエストを受注するようになった。
ソロとして依頼を達成していくのだ。本来ならば平均して四人がかりで臨むクエスト。その報酬を一人占めしている事もあり、実入は良かった。
また、アキトは蟻人間として戦うので装備も必要ない。多すぎる収入に、日々の生活費程度しか出て行かない支出。アキトの生活は少しずつ豊かになった。
その金で、鉄の馬を買った。鉄の馬はガソリンのように燃料を使用して走るのだが、アキトに限ってはその購入の必要もなかった。燃料は『アキト自身』から調達できる。問題はない。
「さて、今日はオークの討伐、だったな…」
そして、アキトは今日も冒険者ギルドのクエストをこなすべく、頭陀袋を引き摺る鉄の馬を走らせるのだった。
つづく