化け狐がキヴォトスで先生になるようです 作:ヘルゴーレム白雉
あの瞬間、指先から伝わってきたのは、ある小雨の日の景色だった。
突然、街の一角が世界から切り取られる瞬間を見た日。
バラバラに壊された建物の中で、頭が空っぽになった日のこと。
あの人が忽然と姿を消した理由は、あれからずっと自分だけの秘密だった。というより──自分でさえも忘れていた。欠片も残らず、綺麗さっぱりと。
瓦礫の中に横たわるあの人を見つけた時には、すでに手遅れだった。
血と泥にまみれた彼女が伸ばした手は、自分の頬に触れることなく消えていった。
願いなんて叶わないし、奇跡なんて起きっこない。何度だってそう言い聞かせたのに。物分かりが悪くて、そのくせ無鉄砲なあの人は、私の知らないところで戦って──その結果がこれだ。
戦えないくせに。
奇跡だの、幸せだの、そうやってお城の中で白馬の王子様をふわふわ待ってるだけの貴女が──こんな戦いの中で、望みを勝ち取れるわけが、なかったのに。
「──どうせ」
そんな思いさえ忘れてしまったはずだった。
忘れた方が幸せだと理解し、実際その通りになって。
でも。
でも、運命はそれを許してくれないようで。
ここにあるはずのないものが、目の前にある。
願いを叶える機械。
……なんて、暢気な声で呼ばれていた代物。
「どうせ、馬鹿なこと書いたんでしょ、先輩」
砂だらけの教室で、小鳥遊ホシノの呟きは、誰に届くこともなく消えていった。
*
夕方。
人がまばらにいる街を、男が歩いていた。
この世の生き物としてはあまりに整いすぎている顔立ち。正面を見据える精悍な目つきから放たれるは、撃ち抜くような鋭い視線。すらりとした長身に落ち着いた色合いのコートを纏い悠々と足を進める彼の存在感は、そこらにいる一般人とは一線を画していた。通りの左右に並ぶ建物に掲げられた夥しい数のネオンサインや電飾も、輝きを放ち始めた今ですら、彼が持つ強大なオーラの前には霞んで見えてしまう。
威風堂々、唯我独尊、豪華絢爛──それらの言葉を具現化してひとまとめにしたような、そんな男だった。
「先生ー! こっちですー!」
向こうでノノミが手を振っている。ラーメン屋の前に集まる少女たちに、英寿は手を振り返した。
シロコ、アヤネ。ホシノ委員長もいる。が、
「ずいぶん早いな。あと一人はどうした?」
「セリカちゃんなら、先に行ってるって言ってました。もう着いてると思いますが……」
あと一人。祝賀会の開催に最後まで抵抗していたあの猫耳少女がいなかった。
彼女の言葉が本当なら、もうこの場にいるはずなのだが。辺りを見回してみても、姿は見当たらない。
待ちきれなくて先に入ってんだろ、と英寿が冗談めかして言うと、少女たちは笑いながら頷いた。黒見セリカはあんな態度を取ってはいたが、内心誰より楽しみにしていただろう、と。彼女をよく知る皆は推察していた。実のところ、一番若々しくてまっすぐなのがあの子だから。
「じゃあ、きっとセリカちゃんも待ってますし、行きましょう〜!」
「お〜!」
四人の少女が揃って歩き出す。その後ろを一際背の高い男がついて行く図は、周囲の人々の目を引いた。多くの者が彼の顔に見覚えがあると気付いたものの、話しかけるのは憚られるのか囁き合うに留まっている。
そんな男の手を、大胆にも不意に握った少女がいた。
「……?」
左手に細く柔らかい温もりが絡んでくる。
英寿が隣にいる少女の顔に目を映すと、
「ん、先生……まだ、少し痛むから……」
銀髪狐耳のその少女──砂狼シロコは視線を外しながら、出会った時のように躊躇うような言い方をした。
何となく彼女の心情を察した彼は、何も言わずに握り返してあげた。一回り大きな手が、指を絡めてきた小さな手を包み込む。
教室で別れた時、見た限りでは特に痛がることもなく普通に歩けていた……などとは、もちろん言わなかった。
もう一度チラリと見てみると、彼女は少し俯きながらも満足そうな顔をしていた。
何歩か進めば、もう入り口の前だ。ドアを押し開け、一行は店内へ入る。
「いらっしゃいませー! 柴関ラーメンで……」
その時、彼女たちを出迎えたのは──いなかったあと一人だった。
「わわっ!? もう来たの!?」
そして、思いがけぬ出会いに驚いたのも、彼女の方だけであった。
「あの〜、五人なんですけど〜!」
「あ、あはは……セリカちゃん、お疲れ……」
少しも動じることなく声を掛けるノノミ。その後ろでアヤネは苦笑いしている。
「へえ。まさか本当に先に入ってたとはな」
さらに後ろから英寿がからかう。
「なっ、何よ! 何がおかしいのよ!」
店員姿のセリカは顔を真っ赤にして、ぷんぷんと頬を膨らませている。頭から湯気が飛び出すのが見えるようだ。ノノミとホシノが笑っている。
「うへ〜、やっぱりここだと思った。最近ちょこちょこどっか行ってたじゃん? バイトでもしてるのかなーって思ってさ」
セリカちゃんのバイト先といえば、やっぱここしかないよね、と。ホシノはいつも通り気の抜けた顔で言った。彼女と一瞬だけ目を合わせた英寿は、ニヤリと口角を上げる。
「うっ……ホシノ先輩……」
やっぱり知っててあんな提案をしたのか。セリカは不服そうな表情をする。
「アビドスの生徒さんか。セリカちゃん、おしゃべりはそのくらいにして、注文受けてくれな」
後ろからそう声を掛けたのは、何とも貫禄ある風貌の柴犬であった。柴犬が腕組みしながらパイプを咥えて後ろ足で立っている。その様子はまるで──、
「あ、うう……はい、大将……」
その雰囲気に違わず、彼はやはりここの店主であった。立場上はともかく、店主よりも『大将』の方が圧倒的に合う、老成した職人の如きオーラであった。サイズは明らかに少女たちより小さいはずなのに、とてもそうは見えない。
もっとも、英寿はもう如何にこの世界がぶっ飛んでいるかというのは散々見せられてきたので、今更和服を羽織った柴犬のおやじが二足歩行で登場しても驚きはしないのだった。
「それでは、広い席にご案内します……こちらへどうぞ……」
出迎えた時の威勢の良さは何処へやら、セリカはたどたどしく接客を始める。立場ゆえにいつもの如く感情を発散することもできず、頬を真っ赤にしながらぼそぼそ言葉を紡ぐ様子は、見ていて面白いものだった。
彼女がこんな調子なので、席に着いた一行がそれをいいことに好き放題し始めたのは、言うまでもない。
「先生!」
「ん、先生……」
ノノミに促されて隣に座った英寿をシロコがサンドイッチする。一番奥にはホシノが座っているため、テーブルの片側に五名中四名がすし詰めになるという事態が発生した。
「ええっ、ちょ、狭っ」
流石の英寿も、無理やり入ってきたシロコに色んな意味で押され気味だった。そもそも体格の大きい彼を、三人でギリギリの座席のさらに奥へ押し込もうとするのは、いくらなんでも無理がある。
「うへぇ、おじさんつぶれちゃうよー」
三人分の圧力をかけられたホシノがぼやいている。顔はノノミの豊満な胸で押しつぶされ、もはや半分埋もれている。よりにもよって隣が色々と豊かな肢体の持ち主であるために、小柄な彼女は今にも圧死しそうである。傍から──特に男子から見ればこれほど羨ましい光景はないだろうが、当の本人からしてみればそれどころではなかった。
「狭すぎ! シロコ先輩、そんなにくっついてたら先生が窮屈でしょ! こっちの席に行って!」
セリカが大声で注意する。職場をバラされた恨みか、奥で潰れそうになっている委員長のことは心配しないらしい。
「いや、私は平気。ね、先生?」
「何でそこで遠慮するの!? そりゃ一番端っこにいるからでしょ!? ちゃんと座ってよ! こっちの席空いてるじゃん!」
おじさんも一番端っこにいるんだけどなあ。ギャーギャーとツッコミを入れるセリカの声に混じって呟きが聞こえた。
「わ、分かった……」
シロコはしょんぼりした様子で、唯一向かい側の席に座って苦笑いしているアヤネの隣へ行った。
やっと圧力がいくらか軽減され、ホシノはほっとした表情になる。それでも横に連なっているのは体格の大きな大人と恵まれたスタイルの後輩、狭いことに変わりはないが。
猫耳バイト店員の努力の甲斐あってなんとか席に収まった彼女たちだったが、好き放題はまだ止まらない。
「セリカちゃん、バイトのユニフォーム、とってもカワイイです!」
「いやぁー、セリカちゃんってそっち系か。ユニフォームでバイト決めちゃうタイプ?」
先輩二人が揃って店員をいじり始める。──片方は単に褒めただけであるが。
「ち、ち、ち、違うって! 関係ないし! こ、ここは行きつけのお店だったし……」
セリカはまたも顔を真っ赤にして、汗を浮かべながら震えた声で抵抗する。
「ユニフォーム姿のセリカちゃん、写真撮っとけば一儲けできそうだねー。たとえばー……あのスター・オブ・ザ・スターズ・オブ・ザ・スターズとのコラボ写真集とかー?」
「変な副業はやめてください、先輩……先生はあの英寿様なんですよ、そんな話が通るわけ──」
ニヤニヤしながら後輩と英寿を交互に見つめるホシノをアヤネがたしなめたが、
「ここの案件ができたらよろしくな」
「通った!? っじゃなくて、先生も悪ノリしないでください!」
予想に反して乗り気だった彼にツッコミが入る。
「も、もういいでしょ! ご注文はっ!?」
埒が明かない。我慢できなくなったセリカはまた大声を上げたが、
「ご注文はお決まりですか、でしょー? セリカちゃーん、お客様には笑顔で親切に接客しなくちゃー?」
「あうう……ご、ご注文は、お決まりですか……」
結局またホシノにいじられてしまった。
なんとか無理くり営業スマイルを作り、ぷるぷる震えて『親切な接客』を試みる彼女の姿は、やはりなんとも面白いものであった。セリカは、ニヤニヤしながら見てくるホシノと英寿を心の中で睨んだ。
そんなこんなで、一行はやっとこさ注文の段階へこぎつける。
「私は、チャーシュー麺をお願いします!」
「私は塩」
「えっと……私は味噌で……」
三者三様。残りの一人は、
「私はねー、特製味噌ラーメン! 炙りチャーシュートッピングで!」
見栄を張りたいのか通なところを見せたいのか、一際高い値段のものをトッピング付きで注文だ。
「先生もじゃんじゃん頼んでねー。この店、めちゃくちゃ美味しいんだよー。アビドス名物、柴関ラーメン!」
「そうそう、今日は先生が主役ですから、遠慮しないでくださいねー!」
「そうだな、なら」
二人に促された英寿は、テーブルに広げられたメニューにざっと目を通して言った。
「──きつねラーメンはないか?」
「いやいやいや、何それ!? 聞いたことないわよそんなの!? あるわけないでしょ!!」
スターの口から飛び出した素っ頓狂な料理の名に、店員はまた大声でツッコミを入れたのだった。
その後なんやかんやで注文が完了し、メニューを回収したセリカが伝票を持って厨房へ行く……前に、気になることをひとつ。
「ところで、みんなお金は大丈夫なの? またノノミ先輩に奢ってもらうつもり?」
一瞬空気が凍りかける。そういえば、そもそも自分達には──
「私はそれでも大丈夫ですよ。このカードなら、限度額までまだ余裕ありますし」
素早く察知したノノミが笑顔を崩さずに言う。
名家のお嬢様である彼女が手にしているのはゴールドカード。実はその気になれば一発で現状を打破してしまえる金額がこの一枚に詰まっているらしい──が、それをよしとしていない所有者はあえて使わないままにしている。
「いやいや、またご馳走になるわけにはいかないよー。それに」
その隣からひょっこり顔を出したホシノが、英寿をじーっと見つめる。
「今日はスターの主催だもんね? 先生」
含みのある笑顔から何かを察した彼に──断るという選択肢は残されていなかった。
もっとも、有名人の彼は隣の令嬢と同じくらい金には困っていないので、自腹を切って可愛い生徒たちにご馳走を振る舞うという選択に、さほど迷いはなかったけれども。
それからかくかくしかじか。
絶品のラーメンを味わい、存分に歓迎会を満喫した一行は外に出た。
もうすっかり日が暮れていて、街の光はいっそう明るさを増している。
「いやぁー! ゴチでしたー、先生!」
すっかりふくれたお腹をさすりながら、ホシノは満足げに言った。
「ご馳走様でした〜」
「うん、お陰様でお腹いっぱい」
同じく満ち足りた表情で出てくる二人。行列のいちばん後ろから、
「早く出てって! 二度とこないで! 仕事の邪魔だから!」
猫耳の店員が顔を真っ赤にしながら、ぎゃーぎゃー叫んでいる。
「あ、あはは……セリカちゃん、また明日ね……」
すごい剣幕の同級生に押されながら、アヤネが店から出る。
明日という単語が出た途端、セリカの頭は沸騰した。
「ホント嫌い!! みんな死んじゃえー!!」
「あはは、元気そうで何よりだー」
およそ先輩に向けるものとは思えない暴言を吐く彼女。しかし皆はそれを取るに足らない冗談のようなものとして聞き流していた。彼女の出す言葉と内に秘める思いは必ずしも一致しないことを──むしろ一致しないことの方が多いのを、対策委員会の面々はよく知っていた。
「今度の写真集は期待しとけよ」
大きな右手のキツネが、セリカの鼻にキスをした。
瞬間、彼女は頬をリンゴのような赤に染めて、
「う……うるさい! 絶対来ないで!! あんたみたいなのが来たら、店が騒がしくなって迷惑なんだからー!!」
沸騰すら超えた大爆発を起こした。
手をぶんぶん振って叫ぶ猫耳の少女を、一行は駄々をこねる子供を見るような目で微笑ましそうに見ながら、帰って行った。
あれだけ喋ってもなお話題と熱の尽きない五人が談笑しながら遠ざかっていくのを、セリカはしばらくその場に佇んで見送った。
少女たちが影となりその輪郭が曖昧になったころ、彼女は自分の口元が綻んでいることに気づいた。
ぶんぶんと頭を振ってその感情を打ち消す。逃れることのできない残酷な現実も思い出しながら。
あんな大人……信用できるわけ、ないんだから。
「あともう少し……気合い入れて頑張らなきゃ」
ぐっと袖をまくり、黒見セリカは拳に力を入れながら店内に戻っていった。
「……」
「……」
柴関ラーメンのドアが閉まった瞬間、隣の建物の壁に隠れていた二人は話を始めた。
「……あいつで間違いないな?」
「はい。アビドス対策委員会のメンバーです」
片方はバイクのものを使い回したと思しき黒いヘルメットを被っているが──もう片方の赤いそれはガスマスクまで付いた本格的なものだ。明らかに使い古されたオンボロの前者に対し、後者はよく手入れされて新品同様の綺麗さ。この見かけだけでも両者のヒエラルキーが見てとれた。
この世界にいる人型の住人の例に漏れず頭頂にヘイローを掲げた二人は、ひそひそと話を続ける。
「奴はいつも営業時間終了まで働いているんだったな? それまであと何時間だ?」
「何時間もかかりません、丁度あと30分です」
「よし。ここの西側、一つ隣のブロックで作戦実行だ。準備をするよう伝えろ」
「はっ」
黒いヘルメットは頷き、建物の隙間を縫って仲間のもとへ駆けて行った。
「前回は何故か負けたが……今回はあいつらも用意してある。これでアビドスの連中も終わりだな。ふひひひひひ……」
ガスマスク越しの陰湿な笑い声が、未だ明るく賑やかな店内にいる彼女へと届くことはなかった。