霞の森に静寂が戻った。
周囲の惨状を鑑みると正直、やり過ぎた感はあったが、高い再生能力を有した火竜が相手では仕方ないとも思う。
「しんどい相手だったね」
「そうだな。私一人では、どうしようもなかった。……ありがとう、助かったよ」
「いらないよ。私だって、カエデさんに何度も庇われたし、それに……」
楓の言葉に、アーシアは首を振って返す。返答する少女の声は、若干の自嘲が混ざっていた。
「この状態じゃ、ねえ?」
『この状態』。言われて、アーシアの現状を鑑みる。
アレだけの激闘を経て、血と泥にまみれてはいたものの、少女は無傷であった。あの不思議な赤いオーラに関係あるのかも知れないが、彼女が無傷だというなら楓にとってはどうでもよかった。
むしろ、問題があるとすれば、戦闘が終了した直後。崩れるように膝をついたことであろう。
「ごめんね。怪我、カエデさんの方が酷いのに」
「気にするな。動ける者が、動けない者に手を貸すのは当然だろう」
『背中』のアーシアに言って笑う。
結論を言ってしまえば、動けないアーシアをおぶっている訳だ。
黒火竜にとどめを討った大技。あれを撃つのに────いや、ここで闘うこと自体に相当消耗したのだろう。楓の背中にいるアーシアは、今にも眠ってしまいそうな顔をしている。
「眠いなら眠ってしまってかまわんぞ? まぁ、血と、泥と、汗にまみれた私の背中では眠れないだろうが」
「ん、平気。心地良いけど、起きてるよ。少しでも長く話していたいから」
「そうか。……そうだな」
破壊の跡は後方に。アーシアをおぶった楓は少し笑った。
「血と土の臭いに混じって、甘い香りがする。カエデさんの体臭? ちょっとペロペロしたくなっちゃうよ」
「残念だが、それはお前の体臭だろう。
その、なんだ。私もアーシアをペロペロした方がいいのか?」
「やだカエデさんのえっち。こんな所でだなんて、もっとちゃんとした所で」
「ふむ。では引き返して近くの町に行くか。1日程度で辿り着けるだろう」
「てーそーはかなくちる!?」
「冗談だがな」
一瞬、踵を返しかけた楓に、背中のアーシアの声。楓は笑顔で応じて。次いで聞こえたアーシアの微笑に、少しだけ胸が痛んだ。
────別れが近い。
歩みを進める度に、確信にも似た想いは強くなる。
「ねえ、カエデさん」
「ああ」
「また、会えるかな?」
「……難しいな。私とお前の考えているとおりだとすれば、だが」
「……そう、だね」
住んでいる『世界』が違う。
そんな荒唐無稽な話を、多分二人とも信じている。
「だが、もし────」
「もし?」
「もしも、また会えたなら……。次はもっとゆっくり、何でもない話をしたいものだな」
「……カエデさんの恋愛事情とか?」
「ははっ、むしろアーシアのそういう話を聞きたいな。……その時は、そうだな。何か美味い物でも食べよう」
「うん。楽しみだな……」
そうやって笑ったアーシアの身体は、酷く軽い。
細身だとか、小柄だとか関係なく、『異常』な軽さだ。
背中には、確かにアーシアがいるハズなのに、その存在感は徐々に稀薄になりつつある。
別れたくはないが、アーシアの方も限界が近付いてきているのだと、楓は感じとった。
だが、焦りはしない。何となく分かっていたことだし、何より、目的地が見えたから。
「確か、この辺りだ」
「うん。間違いないよ」
楓の声に、アーシアが顔を上げた。
「この向こうに、ロイドが見える」
「そうか」
視線の先。密林の奥には、変わらぬ風景が広がっている。
その『世界』はアーシアにしか見えないのだと気付いた。
「ありがとうカエデさん。ここからは、自分で歩くよ」
「ああ。では、名残は尽きないが……」
ゆっくりとアーシアを下ろす。振らつきながらも、アーシアは自分の足で地に立った。
「うん。帰るよ」
「世話になったな。ロイドにもよろしく伝えてくれ」
一つ頷いて、アーシアはふわりとした笑みを浮かべる。
まるで天使だな、と適当な感想を抱いて、彼女の頭を撫でた。
「……ちょっと、寂しいね」
嗚呼、彼女もそう思ってくれているのか。
得体の知れない感情に、楓は思わずアーシアを引き寄せ、軽く抱き締めた。
「カエデさん?」
「……会いたくなったら、名前を呼んでくれ」
「名前を……?」
抱き寄せた少女の耳元に、小さく優しく囁く。
それは、半ば自身に言い聞かせるように。
「必要だと思ったら、私の名前を呼んでくれ。
いつでも、何処からでも、きっと会いに行く」
「ホントに……?」
「多少の無茶も、理不尽も通してみせよう。
だから今は……」
「そうだね。今は……」
アーシアを解放する。
向かい合って、泥まみれのまま、二人して笑った。
「それじゃあ、バイバイ!」
「ああ、元気でな!」
手を振るアーシアに、同じく手を振り返す。
────きっといつか会いに行く。だから、今は笑顔で。
そうしてアーシアは、密林の奥に消えていった。
取り立てて特別なことも起きない、なんのこともない別れ。
少女が消えていったのを見届けて、楓は近くの木に寄りかかった。
そのまま滑るように腰を下ろし、空を見上げる。
「我ながら、無茶をしたものだ」
骨は折れた。血も、随分と流した。泥々に汚れてしまったし、割りと酷い目に遭ったと思う。
だけど────、
「この出会いに、感謝を……。私は、アーシアと会えて良かった」
そう、一人こぼして微笑んだ。
良かった。良かったと、そう思えることが良かった。
やがて、座り込んだ楓を照らすように、朝日が昇る。
東からの光を見詰めて、楓は息をつく。
夜が終わるのだ。長く、不思議で、ドタバタとした夜が。
「────結局、『霞龍』は現れなかったか」
『霞の森』の、その南。
エルモアへと続く長い街道に、一台の竜車。
「ねえ、マスター」
「なんじゃ?」
「『これ』、僕の好きにしていいんだよね?」
無邪気そのものな少年の声と、それに応えるしわがれた老人の声。
少年は、『檻』に閉じ込められた『生き物』を指差し、笑う。
「こちらの用事が済めばの。元々、『これ』はその為に捕えた訳じゃし」
「早くしてね。僕、楽しみで仕方ないんだからさ!」
「頼もしいことじゃな。まぁ、そうでないと困るがの」
楽しそうな少年の声に、老人が目を細める。
『檻』の中身に目を落として、老人は言った。
「『これ』を運び出すことで、『世界』に影響を与えてないとよいが……」
「大丈夫じゃない? こんだけの力を持ってる生き物を『こんなに』したら、確かに歪むかも知れないけど。
こっちとあっちで同じ様なことが起きない限り、そうそう『繋がらない』んでしょ?」
「まぁ、可能性は低いがの。『同じ様なこと』を『同じ様なタイミング』という縛りもあるしの」
ただ、と老人は続ける。
「今、『世界』からの干渉は受けたくない。最悪、『バランサー』が動いてしまう」
「何言ってんのさ、マスター。そうなったら、むしろ好都合。手間が省けていいさ」
「時期ではない。少なくとも、『これ』を使うまではの」
老人の言葉に、少年は不満気に口を歪めた。
「だったら早く帰ろうよ。『これ』使わなきゃね」
「そうじゃの」
少年の声に応えるように、竜車は走る速度を上げる。
月明りが竜車に積んだ荷物を照らした。
檻の中に、傷だらけの巨大な竜。
「ああ、楽しみだ。霞龍を使えるなんて、本当に」
少年は歌う。愉快に、軽快に、そして残酷に。
未だ交わらない運命は、ようやく動き始める。
人知れず、けれど確実に。
『彼』と『彼女』の未来を巻き込んで────……