バイトが決まらない。いや落ちたわけではなく、応募する勇気が出ないだけだ。
最近ミカが入り浸るようになって、親の仕送りに頼るのは申し訳なくなってきたからバイトを始めようと思ったのはいいのだが。
高校がバイト禁止で人生初のバイトな上、もう大学二年になっている。この歳でバイト初めてな人はあまりいないだろうし、迷惑をかけそうだし。
バイト募集アプリを前にため息をつく。
「はぁ……」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと悩みがね。考えすぎて動けなくなっちゃったというか、問題を先送りにしちゃっているというか」
「……? ちゃんと考えてから行動するのは、乙花のいいところだと思うよ?」
「そうかなぁ……。いやでもちゃんと決断しなきゃいけないことってあるわけで」
「私は考える前に行動して後悔することが多いからなんともいえないけど……、困っちゃうくらいなら動いてみたほうがいいかもね」
「そうだね、それができたらいいんだけど」
「よいしょっと」
急にミカに抱き上げられた。
しかもお姫様抱っこ? いや本当に腕どうなってるんだろう。40kg以上ある物体をそんな軽々上げられるか普通。
……というかお姫様抱っこなんて物心ついてから初めてだ。急に恥ずかしくなってきた。
「えっ、わっ……ミカ、どうしたのいきなり?」
「うーん、なんとなく?」
なんとなくでお姫様抱っこするやつがあるかい。……顔、近いし。いい匂いするし。
「……重くない?」
「全然? 羽のように軽いよ、お姫様。……なーんて」
「……わ、わぁ……」
両手で顔を覆う。滅多に見られないイケメンミカだぁ……。ミカの顔がわたしに近づく。そして囁き声。
「頑張れ、乙花ならできるよ、絶対」
「がんばりましゅ」
暴力的なまでの美しさと色気にやられて意識が遠のいていく。
「あれ? 乙花? 乙花ー!?」
「……塾講にしよ……」
「乙花ー!」
◇
ミカと出会ってから、数ヶ月が経った。
ミカが来る時間まではまだ余裕があるし、バイトもないし何をして時間を潰そうか。
『駅前のショッピングモールの野外ステージでアンサンブルの演奏会ができることになりました!組む人はメンバーの名前と曲を決めて連絡ください!』
『金管八重奏やりたいんですがトランペットが一人足りないんです!もしよかったら手伝ってくれませんか?』
入学してから数回参加しただけの吹奏楽サークルのLINEの通知がやたらうるさい。読む気になれなくて、既読をつけずに通知を消した。さっさとグループを抜ければいいのだろうが、グループを抜けた時の通知と、その後の知り合いの反応が怖くて停滞したままでいる。
ミカはまだ来ない。
カーテンの隙間から夕日が差し込んでいて、吹き込む風がほんの少しだけ冷たくて窓を閉めた。
隕石に紐を通して作ったペンダントもすっかりわたしの胸元に馴染んでいる。そっと隕石に指先で触れるとミカの『魔法』を思い出して、少しだけ寂しくなった。
ふと楽器のお手入れをしようと思って立ち上がった。しばらく部屋に置きっぱなしにしていたから、そろそろやっておかないと。
ケースを開けてトランペットのピストンにひとしきりオイルをさした後、指の動きをざっと確認。ピストンは抵抗なく動く。クロスで磨いてまたケースにしまう。
背後から声がした。
「あ、それ出してるの初めて見たかも」
「……ミカ、来てたんだ。……うん、時々お手入れしてあげないと」
「吹かないの? そのトランペット」
「……ここで吹いたら近所迷惑になっちゃうし」
「そっか。ちょっと聞いてみたかったんだけどな、乙花の演奏」
「吹奏楽サークルに所属はしてるんだけどね。なんか合わなくて幽霊状態。……高校で燃え尽きちゃったのかもしんない」
「燃え尽き?」
あの頃、高校生だったわたしは青春の全てをこのトランペットとともにした。
「前ちらっと話した気がするけど、わたし、高校のとき吹奏楽の強豪校にいてね。わたしがミカくらいの年齢だった頃は、ずっとこの子と練習してた。寝ても覚めても音楽のことしか考えてなくてさ。好きだったしすごく楽しかったんだよ? そりゃ悔しいことも辛いこともいっぱいあったけど」
ミカは黙ってわたしの話を聞いている。
「とにかく、本当に熱心にやってたんだ。それで大学に吹奏楽サークルがあったから所属してみたわけなんだけど。……合わなかった。これまですごく真面目にやってたせいかもしれないけど、ゆるい……というか適当な雰囲気に耐えられなかった」
脳裏に浮かぶのは、大学に入学してすぐの頃の光景。
入部してすぐに配られた譜面だった。合奏の日まで一週間もあったから、一通り譜読みして、個人練を済ませてから合奏に臨んだ。
──合わない音程。いつまでも二小節早く入ってる先輩。フラット落としてる。頭ずれてる。なんで吹いてないんだろう、吹けないのかな。合奏はもう崩壊寸前どころか崩壊している。譜読みしてないの?
……下手だなぁ。
もしかしてミスしてることに気づいてすらないのかな。それならわたしが言ったほうがいいのかも。
そして、先輩がおもむろに口を開いた。
「乙花ちゃんさあ、ちょっと厳しすぎ。もうちょいゆるくやろうよ、しょせん大学のサークルなんだよ? 楽しも?」
合奏がまた始まった。何一つ改善していなかった。改善しようとする様子もなかった。
……さっき何を言われたのか全く分からなかった。
真剣にやるから楽しいんじゃないの?
どうしてこんな演奏のままで平気な顔でいられるの?
もっとよくしたいって気持ちはないの?
わたしの好きな音楽って、わたしのやりたい音楽って──これじゃない。
それからわたしは吹奏楽サークルに顔を出すことはなかった。楽器もたまに吹く程度になってしまい、一般の吹奏楽団に入る気も起きずここまで来てしまった。
事情をかいつまんで説明すると、ミカはしばらく黙ってしまった。そして強い意志のこもった眼差しでわたしを見た。
「うーんもったいない、すごくもったいない。……お願い、乙花のトランペット、聞かせてほしいな。どうしても聞きたいの!」
「どうしてもって言われても……」
……あー、でも。やってやれないことはないか。いつもはカラオケで吹いてるんだけど。
部屋のどこかにしまい込んだ練習用ミュートを探して取り出す。楽器をケースから出して、マウスピースにタオルを巻き付けて軽く音を鳴らした。……うわ、めっちゃ下手になってる。昔は唇の一部みたいだったマウスピースが今じゃ完全に異物だ。
マウスピースを楽器に嵌めてミュートも付ける。服が大量に入ったクローゼットに入って、扉を閉めて抑えめで吹いた。こもった音はほとんど響かず、もくろみ通り服に吸収されているようだった。
「どれくらい聞こえる? うるさい?」
「聞こえるよ! うるさいってほどじゃないと思う!」
「じゃあ扉越しで悪いんだけど、そこで聴いてて」
「うん」
近所迷惑になるだろうしあんまり長時間吹かないほうがいいだろう。音出しを兼ねてざっくり音階を吹く。……信じたくないくらい下手になっている。しばらく吹いてなかったもんな。
すっと息を吸って、昔コンクールでやった曲のメロディーを吹く。どれだけ練習したと思ってるんだ、指は勝手に動いた。
掠れる音、合わない音程、取れないリズムに引っかかる高音。
……昔のわたしが聴いたら下手すぎて泣くかも。でも、これが今のわたしの全力だ。
暗い扉の向こうから、拍手の音がした。
クローゼットを開けて外に出ると笑顔でミカが迎えてくれた。
「ごめん、酷い音で」
「ううん、私のほうこそわがまま言ってごめんね。……乙花の音って感じがしたよ。聴かせてくれてありがとう」
「……うん」
せっかくならもっといい演奏を聴かせたかった。あの頃の録音ならあるけどそうじゃなくて、今のわたしでもっといい演奏をミカに届けたかったという悔しさがふつふつと湧いてきたのだ。
ふとさっき来たLINEのことを思い出した。
トランペットが一人足りないから手伝ってほしいというのは、絶好のチャンスじゃないだろうか。しっかり練習していい演奏ができれば、その録音をミカに聴かせてあげられる。
「あのさ、……悔しかったからリベンジしてもいい?」
「リベンジ? あー、なるほど。乙花的には納得いかなかったって顔してるね」
「……実は、駅前でアンサンブルをやってくれないかって頼まれてて」
「ふーん? じゃあ私、見に行くよ。いつやるの? スケジュール開けておかないと」
「え、その……、駅前にミカが行くのはさすがにリスクが……」
「細かいことは気にしなーい。ミカちゃんおでかけセットを付けてくから平気だよ。せっかくなら生演奏を聴きたいじゃんね?」
「……うん。わたしも生で聴いてほしい」
ミカが外に出るのはもうしょうがないか、変装の手段を本番までに考えておこう。
──サークルに参加するのが怖くないわけじゃない。なんせ一年以上顔を出していないのだ。
わたしがサークルに行かなくなった原因の先輩は学年的にもう引退しているとはいえ、気まずいことこの上ない。
……でも、ミカにわたしの最高の演奏をあげたい。
ミカはいろんなものをわたしにくれたから、そのお返しといってはなんだけど。
もらったものは、例えば隕石であったり、不思議な世界の話であったり、思い出であったり、ミカという友人であったり。
──そして、一歩踏み出してみる勇気も。
LINEを開いてメッセージを打ち込む。
『分かりました。連絡してくださってありがとうございます。アンサンブルですが、ぜひ参加させてください』
バイト代わってもらおう。
◇
そんなこんなでひと月が経ち、本番の日がやってきた。当然演奏者のわたしは早めに集合しないといけないので、先に家を出る必要がある。
今日のために一日空けてくれたミカと玄関口で確認する。
「いい? ミカ。なるべく人目につかないようにしてね」
「もー、そんな口を酸っぱくして言わなくても分かってるって」
「駅までの地図は書いといたから」
「ちゃんと写真撮ったよ! 一応確認するけど、スマホはこの世界とそんなにデザイン変わらないんだよね?」
「うん、大丈夫だと思う。詳しい人が見たらバレるかもだけど、パッと見じゃ分からない」
「電波は圏外で使えなくてもオフラインで使える機能なら使えるもんねー」
「改めてだけど、キヴォトスのほうが発展してそうなのにスマホは現役なんだね?」
「そうだねー、やっぱりこの形が便利だからかな?」
ミカにこの世界の電波は使えないのでLINEは当然使えないのだ。ちょっと不便だがしょうがない。ちなみにミカはモモトークとやらを使っているらしい。どの世界でも似たようなものは生まれるんだなあ。
「絶対に傘と帽子とウィッグとマスクとポンチョは外さないこと!」
「はーい」
レインコートはさすがに浮きそうなので、すっかり寒くなった今だからこそのポンチョである。丈の長いコートとポンチョがあれば、服の下に隠した翼で多少シルエットがもこもこしても気にならないだろう。
ウィッグは言わずもがな、マスクはモデル顔負けの美貌を隠すため、傘はおでかけセット、帽子は気休めのヘイロー隠しだ。
「というか時間大丈夫?」
「え? あっやばい! それじゃあいってきまーす」
「いってらっしゃい、頑張ってね」
「……頑張る! だから楽しみにしてて!」
返事は聞かず家を飛び出した。
◇
ショッピングモールの広場に作られた仮設ステージは案外狭い。他のグループがまだ演奏しているから客入りは上々だ。駅前ということで人通りが多いのもあるだろう。こんなに人が多ければ、ちょっと変な格好のミカだって少しは埋もれるはず。
これだけの人の前で演奏するのは久しぶりだ。
……それに今日はミカがいる。それだけで緊張感が跳ね上がった。
心臓の音がうるさいくらいで、ものすごく速く脈打っている。楽器と譜面を持つ手にじわりと汗をかいた。
冬の冷たい空気が頬を打つ。申し訳程度に楽器に息を吹き込んで楽器の冷えを抑えた。親指から小指まで曲げ伸ばしして、本番に指が動かないなんてことがないように。凍りつきそうな表情筋を動かして、無理やり笑顔を作る。自分が楽しまなきゃ、お客さんを楽しませるなんてできないからね。
アンサンブルのメンバーの表情を伺うと、緊張している人といつも通りの人が半々くらいだった。
このひと月の間ずっと一緒にやってきたのだから、人となりくらいはなんとなく分かる。
今回のアンサンブルのメンバーは、正直ちょっと身構えていたわたしが拍子抜けするくらいには真面目に取り組む人達だった。
わたしは以前のことが軽くトラウマのようになってしまっていて、練習の最初の頃は怖くて意見が言い出せなかった。そんなわたしを見かねてか、誘ってくれたリーダーさんが全員で意見を出し合って進めていこうという方針を提示してくれた。おかげでいつのまにか臆することなく意見が言えるようになっていた。
さすがにこれまでサークル活動をちゃんとやってきたメンバーだけあり一定以上の水準の演奏ができていて、むしろわたしが置いていかれないように必死に練習する日々を送った。
朝ちょっと早く家を出て朝練したり、空きコマで練習したり、練習のない日も放課後バイトまでの間で練習したり。
朝から晩まで楽器漬けだったあの頃を彷彿とさせて、なんだかすごく楽しかった。
練習に疲れてヘロヘロのわたしが帰ってくるなりご飯も作れずに風呂に入って寝ようとすると、家で待っててくれたミカがわたしのためにご飯を作ってくれていたこともあったなあ。
ミカの料理も最初と比べてずいぶん上達したものだ。
ミカとの付き合いもずいぶん長くなった。
この演奏で何かを返せたらいいんだけど。……いや、返すんだ。絶対ミカの心に刺さる演奏をする。
前の演奏が終わって拍手の音が響く。先頭の子が歩き始めた。
リーダーが「よし、頑張るぞ」と呟いて、それにみんなで「おー!」と返す。
服の上からペンダントをぎゅっと握りしめて、わたしも歩き出した。
見まわした客席スペースの後ろの方に、曇り空なのに白い傘を差している人がいた。表情は見えない。
客席に一礼して、わたしたちの演奏が始まる。
トランペットのメンバーと息を合わせてファンファーレ。掛け合いのように挟まる音たち。
わたし一人だけのメロディーには、ありったけの想いを込めた。
少しのミスも許さない。音程のズレも息の震えも許さない。わたしの意識が音と一体になって世界に溶けていく。
どうかな。これが今のわたしの全力だよ。
ありったけの想い。あなたへの感謝と愛情を目一杯込めた音、届いた?
──目線を上げた先には、金色の目を潤ませるあの子がいた。
◇
「あ! おかえり!」
「ただいま。……その」
「す……っごくよかったよ!」
帰るなり飛びつかれた。まだ手も洗ってないからちょっと離れてね。それはそれとして嬉しいけれど。
「前聴いた音も素敵だったけど、今日の演奏は最高だったよ! 録画しておかなかったのが惜しいくらい。あーでも聴くのに集中できたから結果的にはアリかなぁ」
「録音、欲しかったらあげるよ」
「いいの? もちろんもらうよー。特にあの乙花だけのメロディー、痺れちゃった。乙花の優しさとか強さとか、あと音楽が心の底から大好きなんだなってのが伝わってきたよ」
「……そっか。わたし、吹いててすごく楽しかった。ミカも聴いてて楽しかったならいいんだけど」
「すごく楽しかったよ! ……ありがとう、乙花。最高の演奏だった」
「うん」
やっぱりミカはすごい。何よりも誰よりも、ミカがそうやって喜んで、感動を口にしてくれることが他の何より嬉しいのだ。
ミカのためなら、わたしはいくらでも頑張れる。勇気を出して一歩踏み出してみてよかった。
「えっ、乙花サークル辞めちゃったの?」
「うん、なあなあになってたから正式にね。あくまで今回だけのお手伝いのつもりだったし、けじめとしてはちょうどよかったから」
「じゃあ乙花の音ってもう聴けないの……?」
「それが、その……一般の吹奏楽団探そうかな、って。わたしでも所属できそうなところ」
「そっか! 決まったらまた聴かせてね」
「別にミカが頼むならいつでも吹くよ? 鈍らないように練習したいしね」
「えっ本当!? やった」