ワンクッション用スクロール。
「うぅ、乙花……」
私はベッドの上で唸っていた。あれから一週間、クローゼットに入ってみようと思ったことは一度や二度ではない。
だけど、誰もいなくなってがらんとした乙花の部屋を想像するたびに、とてつもない恐ろしさに襲われて、結局実行に移すことはできずにいた。
手持ち無沙汰になってスマホを見る。ケースに挟んだプリクラが見えてまた鬱々とした。
通知が来てスマホがぶるりと震える。
「ん? 先生から?」
即座にモモトークを開いて通知の文面を見る。
「ふむふむ、私をシャーレに……私をシャーレに!?」
先生からのモモトークの内容は、私をシャーレに入部させたいので時間が合う時にオフィスに来てくれないかというものだった。
「『それ、今からでも大丈夫?』っと」
既読がついて「大丈夫だよ」と返ってきた。
爆速で髪を整えメイクを直し、銃を装備して外が小雨っぽいので傘を持って走り出した。
もう、先生ったら待たせすぎ。なんで急に私を入部させる気になったんだろう。
あれこれ考えを巡らせながら、脇目も振らずにシャーレのオフィスに辿り着いた。
「やっほー、聖園ミカだよ! 先生いる?」
「あっ、ミカ。早かったね」
「それはもちろん早く先生に会いたかったから……なんてね」
「ん? その傘は……。もしかして、雨降ってたの? 体冷えてない? 早く入っておいで。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「えっと、それなら紅茶かな。あっ、でも先生が淹れてくれるなら何でも飲むよ!」
結局使わなかった手元の傘を見て、間違えたと後悔した。
乙花にもらった傘を持ってきてしまった。壊れないように、使わずに大切に保管しておこうと思ったのに。
小雨とはいえ雨に打たれて少しだけ濡れている私を見て、先生はジャケットを脱いで私に着せた。
先生の淹れた紅茶を飲みつつ、オフィスのソファに座って話す。冷えた体がようやくあったまってきた。
「それにしても先生は、どうして急に私をシャーレに?」
「……うーん、その辺りは色々あって。本当はすぐにでも呼びたかったんだけど、こっちの受け入れ態勢がなかなか整わなかったというか。ごめんね?」
「……ちょっとよく分からなかったけど、シャーレの仕事なら任せて! 先生のためにこれから頑張るね!」
「うん。頼りにしてるよ、ミカ」
それにしても、先生がシャツ一枚なのは珍しい。いつもスーツのジャケットをきっちり着込んでいるから……あれ。
なにかおかしい。なぜ? なぜそれが今そこにある? なぜそれをあなたが持っている?
まさか、いや、まさか。どうして私は気づかなかったのか。
……まだ気のせいかもしれない。
発した声は思わず震えていた。
「先生。……そのペンダント、どこで買ったの? いつから持ってるの?」
「……これは、買ったものじゃないよ。貰い物を加工して作ったんだ。いつから、というと……キヴォトスに来る前からかな?」
先生はペンダントに目を落としたまま、こちらを見ない。
疑いは強まっていく。同時にどこか期待している私もいた。
「先生。サナダ先生。そういえば、先生のフルネームって何だっけ。私、ちゃんと聞いたことない」
「私は、……わたしは真田乙花。サナダ先生で通してるけど、こっちの名前の法則じゃオトカ先生の方が良かったかもってたまに思うよ」
紅茶を一気に飲みきりカップをテーブルのソーサーに置く。先生もカップを置いたのを確認して飛びついて抱きしめた。ソファが軋んで鈍い音を立てる。
「……最初から、最初からそうだったの!? 私のためにキヴォトスに来たなら、どうして声をかけてくれなかったの!? 私、なんで気づかなかったんだろう……!」
あの時よりずっと高くなった身長。いや、ヒールで盛っている。あの頃より大人びた顔立ちとメイク、そして眼鏡とマスク。そして何より、髪が長く伸びていた。
印象は全然違うが、よく見れば先生はすっかり大人になった乙花そのものだ。
「だって会いに行ったら、その時のミカがわたしのこと知らないって言うから……過去のキヴォトスに来ちゃったって気づいて。うっかりわたしが私だってバレたらわたしの知ってるミカじゃなくなっちゃうかも、って」
いつの話だろう。私、補習授業部関連で関わるより先に先生に会ったことあったっけ。いや、先生の口ぶりから察するに、そうじゃなくてぱっと見で乙花だと分かるような格好で私に会いに来たんじゃないだろうか。
さすがに……それは覚えてない。当時の私があんまり冷たい対応をしてないことを祈る。
「それなら、それなら……早めにシャーレに呼んでくれれば……」
「呼んだらボロを出しそうで怖くて。私にとっても一大決心だったんだ、ミカを呼ぶの」
先生は気まずそうに言った。じゃあ、たまたま私と乙花がさよならしてすぐのタイミングで私をシャーレに入部させたってこと? 偶然にしてはできすぎじゃない?
まあ、もっと早く、かつ乙花に出会ってからシャーレに入部していたら、乙花と先生が似ていることに気づいてしまったかもしれないのは事実だけど。
……というか。
「守るって言ったのに! 撃たれるし! 先生に敵対しちゃうし! 私の馬鹿!」
「知らなかったんだからしょうがないよ」
あーもう当時の私をグーで殴りたい! それに先生が乙花なら私のメンヘラ暴走脳筋女っぷりをまざまざと見せつけていたわけだ。いっそ殺せ!
……守るって言ったのにそばにいることすらできなかったし。どの口で守るから絶対キヴォトスに来てだなんて言ったんだ。
でも先生もいっぱい無茶したよね。
私のためだけじゃなくて、ありとあらゆる生徒のために。今の乙花……先生は命をかけてしまう。かけられてしまう。なにがどうしてそんな異常な精神性になってしまったんだろう。
私の知っている乙花はそんなふうじゃなかった。
先生に救われた分際で思うことすら烏滸がましいのは分かっているけれど、そうなってしまっていることがとても悔しいし腹立たしい。
「先生のバカ!」
「返す言葉もございません」
「この傘持ってるんだからさよならしたんだなって気づいた時点で言ってよ!」
「それはそう。切り出すタイミングが難しくて……」
「うるさーい!」
抱きしめた先生の、乙花の心音を聞く。
いつか会いに行くって、絶対会いに行くって、それがまさか本当に来てくれるなんて思ってもみなかった。
一体どんな苦労をしてここまでやって来たんだろう。大好きな乙花が大好きな先生だった。溢れんばかりの感情をどこに持っていけばいいのか分からない。
「乙花、何歳になったの?」
「……27……十歳差になっちゃった……」
「全然いけるいける。ね、先生……いや、乙花。責任とって私と結婚して?」
「あ、う、その……卒業したらね」
「言質とったからね! 絶対だよ?」
「……はい」
「せっかく私のためにキヴォトスまで来てくれたんだもん。絶対幸せにするから。……もう逃がさないよ?」
「それはこっちのセリフだよ、わたしの天使様」
「……わぁ、わぁ……。乙花の口からそんな言葉がさらっと出てくるなんて……悔しい、大人の魅力に負けそう……」
ふふんと自慢げな乙花の鼻をつまむ。たぶん他の生徒が見たら目を疑うんじゃないかな。
キヴォトスの、シャーレの先生は完璧に先生だ。全ての生徒のための先生。ここまでずっとそうだった。たぶんこれからもそう。
だから、先生という側面を持つ乙花という人間は、私がもらっても許されるんじゃないかな?
だって乙花は私のためにキヴォトスに来たんだし。両想いだし。
「ミカ」
「なあに?」
「わたし、頑張ったよ? いっぱいいっぱい頑張って、わたしがわたしじゃなくなっても、ミカに会いたくてここまで来たんだ」
「うん。来てくれてありがとう。私はそんなに待ってないけど、むしろ先生が私のことを待ってたんだもんね」
「会いたかった。ミカはずっと天使だったけど、わたしの天使じゃなかったから」
無言で抱きしめる力を少しだけ強めた。ここに来るまでの年月と、ここに来てからの日々、乙花をずっとひとりぼっちにしてしまっていた自分に腹が立つ。
よるべのない、私を頼れないキヴォトスはきっと乙花に優しい世界ではなかったはずだ。私のことを恨んだってよかったのに、それすらせずに先生として私を導いて、その心のうちで乙花は私をずっと待っていた。
「ごめんね、お待たせ」
「謝ることじゃないんだよ?」
責めることすらしないまま、誰も悪くないと乙花は笑う。その表情を崩したくて、ちょっと意地悪を言ってみる。私のよるべになっていた言葉、あれはどういうつもりだったんだろう。
「お姫様って呼んでくれないの?」
「私のお姫様でもあるけど……でもやっぱりわたしの天使なの」
「そっか、じゃあしょうがない。先生にとっての私はお姫様かもしれないけど、乙花にとっての私は天使ってことかぁ」
あのね、乙花とキヴォトスでやりたいことがたくさんあるんだ。
例えばトランペットとピアノでコンツェルトしたり、カラオケに行ったり、映画を見に行ったり、遊園地に行ったり。私の通うトリニティを案内したいし、行きつけのカフェに二人で行きたいし、服やアクセサリーも見に行きたい。
だから今はしばらく、ここで一緒にいさせて。先生はちょっとお休みしてもいいんじゃない?
「案内したい場所がいくつもあるんだ。私、絶対に守るから。先生を、乙花を死なせたりしないよ」
「……うん、でも私はミカを守るよ。そしていつかミカが生徒じゃなくなって、わたしの横に立ってくれる日をもう少しだけ待ってるね」
「……うん!」
見た目も性格も変わってしまったけれど、大好きなのは変わらない。
クローゼットから出てきた私の目指す場所は、いつだってあなたのそばだ。隣にいるだけで私は幸せで、それはあなたも一緒だと信じている。
これからもたくさんお世話になると思うから、どうぞよろしくね?