バレンタイン、それは勝負の日。
もちろん私は抜かりないので先生──乙花にデートの約束を取り付けた。なんせ私は乙花の婚約者(仮)だ。そんじょそこらの生徒とはバレンタインにかける熱量が違う。
既製品なんてもってのほか、完璧な手作りチョコにしてみせる。そう意気込んで前々から予約していた家庭科室を占領して数時間、私は途方に暮れていた。
どうしよう、どんなチョコなら喜んでもらえるのかな。
作る前までは大まかにどんなチョコを作るか決めていたのに、いざ試作してみるとこれじゃないかもと思ってしまう。
そもそも先生ならきっとたくさんチョコをもらうよね。同じようにチョコを渡しても特別感がないんじゃ。
ていうか先生どんなチョコが好きなのかな。甘いの? 苦いの? 先生はどっちだろう。コーヒー飲んでたし苦いのはいけるはず、おやつ食べてたし甘いのもいけるはず。前なにか言ってなかったっけか。
きっと乙花なら私が渡したものならなんでも喜んでくれる。でもそれじゃ嫌だ。乙花に心の底から喜んでもらえるような、他の誰にも真似できないチョコを渡したい。
私が他の生徒よりアドバンテージがあるとするならば、それは先生の故郷を知っていること。たくさん話していろんなものを食べたあの頃の思い出の中に何かヒントがあるはず。
しばし悩んだのち私はふらりと出かけて、しばらく後にまたチョコ作りに取りかかり始めた。
遠出して買ってきた材料を混ぜて濾して温めて、成形して冷蔵庫に移す。
気づけば明るかったはずの窓の外は真っ暗になっていた。
◇
「おっはよー乙花! ハッピーバレンタイン!」
「おはようミカ。ハッピーバレンタイン」
夜遅くまでチョコを作っていたせいで少し寝不足だ。シャーレのオフィスで待ち合わせの約束をしていたから遅れないでよかった。寝不足から来る気だるさも乙花の顔を見たら吹っ飛んでいく。
よく晴れているけれど、気温は低いからたぶんチョコに影響はないはずだ。
「乙花、冷蔵庫借りていい? チョコ置いときたくて。それとも先に食べる?」
「好きに使っていいよ。デートから帰ってから頂こうかな。……えへへ。ミカのチョコ、楽しみだなぁ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
ハードル上がるなぁ、すごく嬉しいけど。
冷蔵庫の中には他にもう一つチョコレートと思われる箱があった。これ、乙花の用意してくれたチョコかな。……それとも、他の誰かに貰ったチョコかな。
「あ、見た? それ、ミカへのチョコレート。好きに取っていってね」
「わぁ……! 私もデートから帰ったらもらうね」
もう、すっごく楽しみ。さっき一瞬モヤっとしたのもどこかへ飛んでいって、デートに行くのも楽しみなのにデートから帰った後のことを想像している。
いつの間にタブレットで何かしらの仕事を始めてしまった先生の手を取って、ぎゅっと握る。「さぁ、行こう!」マフラーを巻いて、コートを羽織って外の世界へ。
冬の空気はマフラーで覆われていない頬を打つ。さむいね、なんて乙花がふるりと震えて笑った。
「乙花、こっち寄って」
手袋を片方外して素手の乙花に渡す。ミカが寒いでしょ、なんてうだうだ言うのを無視した。いいからはめたげる。
差し出された右手にうやうやしく手袋をはめれば、乙花のマフラーに隠れていない耳が赤く染まっているのが見えた。たぶん寒さのせいだけじゃない。
素手になった私の右手と乙花の左手を繋ぐ。指と指を絡めて、体をぎゅっとくっつけて。
「あったかいね」
「……うん」
街はどこか浮ついた雰囲気だ。どこもかしこもチョコレートを売り出していて、ピンクの装飾で彩られている。喧騒の中に埋もれてしまって案外私たちも目立たない。
お目当ての劇場に着いて、演奏会のチケットを見せて入場する。
「楽しみだね」
「前から聴きたいって言ってたもんね。チケット取れてよかった」
「ありがとう、ミカ。それにしてもよく覚えてたね、わたしがこの演奏会が気になってたこと」
しばらく前に乙花が足を止めて見ていたポスター。それはこの楽団の演奏会の宣伝だった。せっかくだったのでチケットを取ってプレゼントしたのだ。
「覚えてるよ、乙花のことだもん」
「そっかあ」
「うん」
ホール内は飲食禁止で、電波も遮断されていてスマホを使えないようになっている。開演までの時間を二人でお喋りして過ごした。
「あ、開演ブザー」
「そろそろ始まるみたいだね」
「楽しみ……!」
演奏は素晴らしいもので、私も乙花も聴き惚れてしまった。ちらちらと伺った乙花の瞳はいつになく輝いていたし、来てよかった。
「はぁ……すっごくいい演奏だった! 演奏会のBD買っちゃおうっと」
「そういえば乙花は吹かないの?」
「あー、忙しいからね。楽団に所属しても練習に出られなさそうで。たまに吹いてはいるよ?」
「今度聴かせてー?」
「んじゃ練習しなきゃだなあ」
そのまま近くのカフェでランチを済ませ、ショッピングモールに入って買い物をしてからシャーレに戻ってきた。
両手に抱えた荷物をソファに下ろす。不在中にデスクに積まれたであろう大量のチョコレートも今は気にならなかった。
「その。よかったの? 私にこんなに服、買ってくれて」
「うん。悔いはないよ。自分で稼ぐようになったからこう、ミカに貢ぎたい欲が……ね?」
「いや。ね? って言われても。そりゃ乙花のセンスは信頼してるし、買ってくれたことに感謝してるけど、フルコーデで十着は買ったよね? 嬉しさより先に心配が来ちゃうよ」
「だってミカをわたし色に染めたくて……」
「え」
「お金のことなら心配しないで。ミカ相手なら何もかも惜しくないよ。だからわたし今ここにいるんだし。推しは推せる時に推せっていうか、貢げる時に貢ぐっていうか。合法的にミカにわたし好みの服を着てもらえるチャンスだし」
「そ、そっか。いや、その、嬉しいんだけど。……えっと、散財はほどほどにね?」
乙花の好みのファッションってこんな感じなんだ。これから服買う時の参考にしなくちゃ。
それはそれとしてお金の使いすぎはよくない。乙花、もとい先生の懐事情に余裕がないことを私は知っている。最近友達になったユウカちゃんから聞いた。
「あはは、ミカとのデートが嬉しくてちょっと羽目を外しすぎたかも」
「全く乙花ときたら流れるように口説くんだから」
「ミカへの愛が抑えられなくて」
「本当に……もう。とにかくお金使い過ぎないでってば。またユウカちゃんから怒られるよ?」
「それは怖いなぁ。次は気を付けるから……たぶん」
「ちょっと?」
「あっ、そうだ。チョコ食べたい。ミカのくれたやつ食べよう」
「話そらさないの!」
冷蔵庫にぱたぱたと駆けていく乙花を見送る。私のチョコの入った袋と乙花のチョコの入った箱を抱えて持ってきたようで、せっかくだからせーので開けようと提案してみる。
「「せーの」」
ピンクの箱に巻かれた黒いリボンを解く。中には一口サイズのチョコレートがいくつか入っていて、全部違った見た目をしている。
私のお気に入りのアクセサリーを模した星が描かれたものやハート型のもの、色も白やピンクや緑など様々だ。ひとつひとつ丁寧に作られていることが分かってすごく嬉しい。きっと私のためにたくさん考えてくれたんだろうな。
乙花の方を伺えば、珍しく目を丸くしてこちらを見ていた。
「あの、ミカ」
「なあに? チョコすっごく可愛い! ありがとう!」
「それはよかった。どういたしまして。……その、そうじゃなくて」
眉がきゅっと下がって、困惑しているのが見て分かる。だけど隠しきれない嬉しさも滲み出ているのを私は見逃さなかった。
私のあげた紙の袋の中にはタッパーが入っていて、その中には。
「わらび餅、だよね。これ」
「そうだよ。ほら、ココアパウダーとチョコソースかけて」
紙袋の中に個包装にして入れていたのを押し付ける。わざわざこのためにわらび粉を百鬼夜行まで買いに行ったのだ。
チョコの粉を一緒に混ぜたので透明なわらび餅ではないけれど、私が初めてもらったプレゼントの再現だ。
何も言わないままココアパウダーとチョコソースをかける乙花を見ていた。
「覚えてたんだ」
「うん。忘れないのが乙花だけだと思わないでね」
「……あの時は喜んでもらえたらって思ってたの」
「本当に本当に嬉しかったんだよ。だからその気持ちを乙花にもあげたかったの、ずっと」
「こんなに嬉しいなんて思ってなかった」
「それならよかった。作った甲斐があるよ」
どうしていいのか分からなくて、辛くて悲しくて、ずっと迷子みたいで。あの時の私は、間違いなく乙花のおかげで救われた。
だからいつか絶対お返しをしたかった。それがようやく叶ったのだ。
あの頃ほど何を考えているのか分からなくなった乙花だけど、今は間違いなく喜んでくれているのが分かる。
「美味しい!」
「よかった……。さすがにわらび餅なんて作ったことなかったからちょっと心配だったんだよね」
「ミカこっちおいで」
言われるがままそばに寄る。
「ここ座って」
ポンポンと乙花は自分の膝を軽く叩いた。え、膝の上ってこと?
重いと思われたら死ねるという私と、滅多にない密着できるチャンスの間に揺れてから座ることを選んだ。
「口開けて。はい、あーん」
「むぐ」
「えへへ、前のお返し」
至近距離で心の底から嬉しそうに笑う乙花が可愛くて愛おしくて、さんざん味見をしたはずのわらび餅の味もよく分からない。でも作ってよかった。
「ミカ、わたしと出会ってくれてありがとう」
「乙花こそ、私に会いに来てくれてありがとう」
◇
二月十四日、クローゼットから出てきたミカは小さな袋を持っていた。
「乙花、ハッピーバレンタイン」
「えっ、ありがと。これブラウニー?」
「うん、頑張って作ったよ!」
「手作り!? 頑張ったねえ。偉いぞミカ」
ブラウニーはしっかり美味しかった。涙ぐましい努力の成果が感じられて胸がグッとなる。お菓子作りはきちんとやらないと失敗するから、きっとものすごく頑張ったんだろうな。
たまらずわしゃわしゃとミカを撫でつつわたしもチョコを渡す。
「何作るか迷ったんだけど、無難にトリュフになった」
「んむ、美味しい。さっすがー」
冷蔵庫から出した途端ミカが摘んで口に放り込んだ。
うまうまと笑顔のミカに、来年は何を用意しようかなんて考えた。
「にしてもさすが『先生』。すごい量のチョコだね」
「さて、私は何キロ太るかな」
「太ったら運動すればいいんだよ。私とランニングでもする?」
「う、考えとく」