園田トレセン練習録   作:レイテンシー

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最初、園田トレセン調教録だったんですが、なんかエッチだなと思って今のタイトルにしています。

本作に登場するウマ娘は、知名度的にいわゆるモブウマ娘ですが、オリジナルではありません。一応、モデルになった競走馬が存在します。
ただ、あんまり気にしなくて大丈夫です。
また、同じ血統はだいたい似ていると言う勝手な設定で以下のキャラクターを設定しています。
主人公、と言うより主な語りのトレーナーの担当バは、マンハッタンカフェがモデルで「グランジャーキット」です。冒頭に出てくる食欲旺盛なウマ娘はスペシャルウィークがモデルで「チャービル」です。




エンデンの優しい巨人

 

「はい、トレーナーさん」

 

物臭に手の仕草だけで彼女を呼んだところ、律儀に返答してからこちらに向かってきた。

 

近づいてきたグランジャーキットを見上げる。

 

「今日は一旦、トレーニングは終わりにしよう。戻る前にしっかり体ほぐしてね。それから...」

 

はい、と言って、タッパーに入ったニンジンスティックを手渡す。

 

あまり嬉しくなさそうな顔で受け取って、ポリポリと食べ始めた。

 

そこに近づく影がある。

 

「あっ、キットちゃん、ニンジン、ニンジンですよね!、走ったらニンジン貰えるんですか!?、いぃーなぁー、あっ、どこ産ですか?、やっぱり北海道産?、甘いですか?」

 

「チャービルさん、よかったら...「はい」

 

とキットを遮って念のためもってきた予備のニンジン入りタッパーをチャービルに手渡した。

 

「あっ、悪いですよ、でも、ありがとうございます!」

 

一瞬遠慮したが、そのままノータイムで受け取った。

 

「おいひいでふ!」

 

とポリポリ嬉しそうだ。元気でよろしいが、食べながら喋るのでエライ子ゲージはマイナスだ。

 

「あっ、ワタシ、アッチでコレにアレがあって、本当にありがとうございました!!」

 

急に何かに気づいて、ニンジンをポリポリ食べながら去っていった。ただ最後に直角まで腰を折ってお礼をしていったので、エライ子ゲージはプラスだ。お礼ができるのはエライ。

 

後ろから気配が近づく。おそらくあの子が去っていった理由だ。

 

「困りますよ、モリさん。今ウチの子、食べる量抑えようとしてるんですから」

 

チャービルのトレーナー。

 

「バカ言わんでください。ウチの子は食べさせなきゃいけないんだから。そっちこそ、人のものねだらない様にちゃんと言っといてくださいよ」

 

多分、予備を渡さなければウチの子、キットは自分の食べる分を分け与えていた。

 

剣呑な会話に思えるかもしれ無いが、両者共に顔見知りで、以前には双方が逆の立場になったこともある。要は、乳繰り合いのようなものだった。

 

「まあ、そうなんですけど、今回ウチはあの子の食欲で勝負しようと思ってまして、人のものねだるぐらいで、ある意味正しいと言うか」

 

よくわからないことを言っている。食欲を動機にレースに出させるなんて、鼻の先にニンジン垂らして走らせるつもりなんだろうか?

 

「まぁタッパーだけ返してくれるように伝えてください」

 

セコイけどもう予備がないのだ。チャービルトレーナーとの話を無理やりに打ち切る。

 

キット、ウチの子は全体的に細い、いわゆるスレンダー体型だ。長く腰までおろした髪は、ほとんど真っ黒に見えるが少し茶色がかった鹿毛で、いわゆる青鹿毛だ。

 

身長は頭頂高で2mを超えたところ。ウマ娘の平均身長は2m40cmなので、まだまだ伸びる余地がある。

 

食が細いキットにはたくさん食べてもらわなければならない。

 

細いと言っても、育ち盛りの男子大学生ぐらいは食べるのだが、ウマ娘の並外れた体格と運動量を賄うには、想像を絶するカロリーが必要だった。

 

ただキットは胃が小さいのか一度にたくさんの量を食べることができない。

 

そこで決めたのがトレーニングの合間合間で間食させることだった。

 

消化のことを考えるといい戦法ではないような気もしたが、医務とも相談して、ウマ娘の並外れた消化器官ならほぼ影響ないだろうと言うことで始めた。

 

「食べながらで聞いてくれたらいいけど、明日は一日オフにしよう。と言っても阪神レース場まで観戦に行くから時間はいつも通りに、そこから出発で。服装は制服でいいよ」

 

ニンジンをポリポリしているが、あまり嬉しそうな表情はしていない。

 

「中央の方で何か特別なレースでもあるのですか?」

 

今食べているものを飲み込んでから話し出した。エライ子ゲージにプラスだ。

 

「特別じゃないけど、ダートだし、キットの参考になるんじゃないか、って娘がいてね。それを見てもらいたいんだ」

 

なるほど、といってキットはポリポリに戻る。

 

園田トレセン学園がある園田レース場と、宝塚にある中央の阪神レース場は同じ県内だ。十分に日帰りができる。

 

観戦にはもってこいなので、練習日だが休養に充てる場合にはお決まりのコースである。

 

ただ彼女的に観戦はあまり嬉しくはないらしい。別に血がたぎるから、とかポジティプな理由でなく、混むので周りに気を使うのが面倒なのだろう。

 

ウマ娘とレース観戦する時の最大の問題は、ウマ娘の体躯が大きすぎて後ろの人の邪魔になることだ。

 

コレを解決するためにウマ娘専用席がレース場には用意されている。が、レース前でガチガチに昂っているウマ娘もいたりして治安が悪い。

 

キットはそこで一度嫌な目に会ったらしく、以降は僕と一緒に一般席で入って身を縮めて観戦している。

 

そのせいかレースはあんまりよく見えないらしい。

 

まあ、あんなことを言ったけど、レースを見るだけで何かを得ろなんて難しいことを言うつもりはなくて、単に大観衆に慣れてもらえればいいな程度に考えている。

 

ニンジンを食べ終わったキットからタッパーを受け取ると、柵の向こうで柔軟をはじめた。

 

ウマ娘の体躯の大きさは、明らかに人類と異なる種族であることを感じさせる。今の彼女の身長である2mは、人類でも珍しくはあるがいないわけではない。

 

だが、高身長な人類に特有の手足が妙に長く見える感じが、ウマ娘にはない。なんと言うか、可憐な少女をそのままのスケールで拡大させたように感じる。

 

なので、ウマ娘と年頃の少女が奥行きに幅を持って立っていると、たまに遠近感が狂うことがある。

 

特に近くで見ると人類よりも頭部と肩幅が大きいように感じる。

 

体重はウマ娘も年頃の女の子であることから大ぴらにはできないだろうが、最近のキットの食欲低下は100kgの大台を超えたからじゃないだろうか、と邪推している。

 

人類のBMIで言えば身長2mで体重100kg越えは肥満に入るのだが、ウマ娘は体の部位のバランスが異なるし、筋肉が多めなので同じ基準が当てはまらない。

 

それに今は身長を伸ばして体全体を大きくしていきたい。一概に大きかったらいいわけではないが、ストロークが長くなれば有利になるし、他にも色々ある。

 

せっかくキットが声の届く距離で柔軟をしているので、今後の練習方針にざっと話すことにした。

 

別に作戦会議形式で場所を取って話してもいいのだけれど、席に座っているよりは体を動かしたいウマ娘は多いので、こう言った形式で展開することが多い。彼女は真面目なので、会議室でもいいかもしれない。

 

「次の練習からは先輩ウマ娘に参加してもらうよ。ちゃんとは当日紹介するけど、君の2つ上でおとなしい人だね」

 

人見知りと言えるかもしれないが、騒がしい人が苦手なキットに安心材料を与える。

 

酷な話だが、園田のような地方トレセン学園でも最上級生に近づくほど残酷なまでの実力差が出てくる。中にはレースへの参加を諦めて後身の育成に専念してくれる有り難いウマ娘も出てくる。

 

トレセン学園が教育機関として成り立っているのは、彼女らの貢献のおかげであると言える。

 

そう言った先輩方を紹介して、練習にあてがうこともトレーナーの仕事の一つだった。

 

ウマ娘が行う練習の初期の目標は「レースできるようになること」だ。

 

そう、ウマ娘がトレセン学園で目指すのは速さではなく、レースでの勝利なのだ。

 

単に一定条件での速さを目指すだけなら、少数で決まったコースを走ってタイムを測定すれば終わる。おそらく、それだけが目標であればトレセン学園なんて専門機関が生まれることはないだろう。

 

レースは10人前後のウマ娘が集団を形成して走行する。まずできるようにならないといけないのは、集団で走れるようになることだ。

 

色々な媒体から受ける、とにかくがむしゃらに早く走ってる奴が勝つ、と言うのは実際のレースからするとかなり乱暴な描写である。話の展開も覚醒するか、怪我するかのどちらかでいき詰まってくる。

 

まずはレースのルールを覚えなければならない。自動車で考えてみるとわかるが、時速60km/hで走る車列に交通法規をいっさい守らない奴がいたらどうなるかは想像に容易い。

 

レースで集団を形成した時の互いの距離は、1バ身やハナ差で表されることからもわかるように、かなり近い。横から見た場合だが。

 

なので、まずは先輩ウマ娘に少し遅いペースで並走してもらって、自分が走っている横で別のウマ娘が走っているという状況に慣れてもらう。

 

これが最初はなかなか難しい。ぶつかることが怖くて距離をとってしまう。ただ、後進の育成に慣れた先輩ウマ娘は絶妙で、本人が距離をとってもうまく間を詰めてくれる。

 

まあ、たまに盛大に事故ったりするが。

 

ともかく、それで段々と距離を縮めていって、実際のレースと同じ距離感で少し余裕を持ったペースを保てるようになれば合格だ。

 

この辺で、一回実際のレースを経験してもらう。

 

新バだけが参加する特別なレース。お互い初めて同士なのでしっちゃかめっちゃかになる。

 

当人には勝ち負けは重視しないと言いはするが、ここでかなり後に影響する振り分けが行われる。

 

つまり素質が見られるのだ。

 

今のキットは地元の駆けっこで走った程度の経験値から、とりあえずダート1400mをペースを保って走れるようになった段階だ。

 

当面は新バのレースを無事、走り切ることを目指す。

 

そこからは、レースに勝つ、とはどう言うことか考えていかなければならない。

 

駆けっこで誰にも負けたくない、程度の志では到底レースでは勝てないのだ。

 

ウマ娘は何かにつけて勝ち負けにこだわる、と言うのはよく知られた風説だが、間違っている部分がある。

 

それは、狙ったレースの直前までにそうなるように仕向けている、と言うことだ。

 

そもそも後ろからすごい気迫で捲られたら、普通は道を譲るのだ。レースでは譲らないように、それでいて集団を乱さないように調整していく必要がある。

 

集団の先頭を走るとは、例えるなら朝の通勤ラッシュで改札に止められて、後ろに列を作ってしまった時の気まずさの数百倍のプレッシャーを受けて全力で走ると言うことだ。

 

レースまでにコンディションを整えられなかったウマ娘は、全力で走っているようで道を譲ってしまう。そして後塵を拝すことを良しとしてしまうのだ。

 

とりあえずレースに勝ちたいなら、道を譲らない、集団で走る気もないイカれた足の早い奴を採用すればいいのでは?と思うかもしれないが、レースで起こした事故の責任のほぼ全てを走らせた側が負うわけなので、業界でご飯を食べて行きたいならやってはならない。

 

一見イカれているように見える一部のウマ娘も、駆け引きをしていなさそうに見えて、周囲と無言のやり取りをして走っている。いわゆるクレバーと呼ばれる類いだ。

 

というわけで、最初のレースまでに整えるものは「間合い」である。非常に精神的だ。

 

あとは先輩ウマ娘の後をついて走るトレーニングをする。うまいことペースを調整してくれるので、自然とタイムが良くなる。

 

次は、先輩ウマ娘に後ろから追い立ててもらう。そもそもウマ娘も目は前についているので後ろは見えない。こちらも、うまいことペースを上げ下げしてくれるので、後ろの気配を感じつつ走る必要がある。

 

慣れるまでは結構怖いらしい。

 

それ以降は、レースで見えてきた差しとか逃げとか、そう言う気質で合わせていく。

 

ここまで聞くとレースで最速なのは先輩ウマ娘とやらなのでは?と思うかもしれないが、ウマ娘がウマソウルに適応する本格化が終わるまではその通りだ。

 

本格化が済んで、ウマ娘として完成して以降はこのあたり結構、複雑になる。融通の効く現役ウマ娘同士で走ってもらったりする。

 

柔軟をとっくに終わらせたキットが待っていた。別にスパルタにやっているつもりはないので、体育会系みたいにこちらが指示を出すまで微動だにせず待ってろ、というつもりはないのだが、どうもキットの側がそんな感じらしい。

 

これまでのウマ娘が結構、自由気質だったのでキットが待っていることを忘れてしまうことがある。

 

「とりあえず着替えて、会議室でまた集まろうか」

 

展開が早いが、キットは僕より早く着替えて待っていた。

 

トレセン制服でお馴染みのあの服だ。中央と細部で色が違う。

 

運動用の体操服だとあんまり感じないが、ウマ娘が制服を着ているといつも思うことがある。それはウマ娘のインパクトに対してトレセン制服があまりにも可愛らしい、と言うことだ。

 

別に筋骨隆々というわけでないので女装しているように見えたりはしないわけだが、制服姿のウマ娘が近くにいると、自分よりも2回りほど大きな人型が可愛らしい制服を着ているのでなんだかおかしくなる。

 

ただ一応に理由がある。その昔、ウマ娘にそれに相応しい雄々しい格好をさせた国があるらしいが、全体的に穏やかなウマ娘が性格まで荒々しくなってしまったらしい。

 

その反省があってか、どの国もウマ娘の格好は華やかで可愛らしい感じになっている。

 

ただ、カッコいい制服を着たウマ娘たちが地を踏んでリズムを取りながら騎兵隊の歌を歌っているシーンは、再現映画ながらカッコいいと思った。

 

「あぁ、キットの勝負服はもう少ししたらできるんじゃないかな。最初のレースには間に合わないだろうけど、その次のレースには着れると思うよ」

 

服で思い出したので話題に出した。

 

「そうですか」

 

結構、淡白な反応だ。

 

ちなみにキットの勝負服のデザインは、中央の同じ系譜のウマ娘のそれを思いっきりパクった。

 

園田に勝負服を一からデザインするほどの予算もないしプライドもない。中央で1勝でもしたらできるかもしれない。

 

中央も色を変えて小物で差をつけたら、地方の木端ウマ娘まで文句を言うようなことはしないのだ。あと、シンプルな標準の勝負服に縁起物をゴテ盛りにした先達の例もある。

 

ただし全体的にスカートをズボンに変えたり、スカートの丈を長くしたりする。ウマ娘にはしたない格好をさせないと言う関西勢の謎のプライドだった。

 

「キットは何かこう、好きなものってある?」

 

勝負服につける小物に当たりをつける。経費で落ちるか否かの境なので、結構大事だ。彼女は自分で勝負服を飾りそうなタイプに思えない。

 

なぜかコッチをジッと見つめられたが、そこまで変な質問はしていないはずだった。

 

「強いて言うと猫、でしょうか」

 

じゃあ招き猫とか担ぐ?、と冗談めかして言った。よくネタにするが、全国クラスのウマ娘なのに駅前で握手会やってくれてからのファンなのだ。名前も縁起がいい。

 

デザイナーさんに頼んで、勝負服に猫の意匠をカッコよくした奴を入れ込んでもらうことにした。最初はマットな色の招き猫イヤリングにしようと思ったが、予算をオーバーしたのでやめた。

 

やはり小物は立体にすると高く、平面の方が安い。完全に私用だが2勝ぐらいしたら作れるかもしれない。ところで、彼女の招き猫って私物だったんだろうか?経費だったんだろうか?

 

突然だが、自動販売機の高さが何cmかご存知だろうか?、ものによるが、大体、200cm、つまり2mである。ということは今のキットの頭と大体同じ高さになる。

 

もっと大柄な、平均身長以上に育った上級生になると自動販売機を机にして話ができる。その間に挟まれると、完全に小人の国に来た気分になれるのでお勧めだ。

 

あと、その辺もあって、トレセン学園では自動販売機の上面みたいな高所の平面でも掃除が行き届いている。平均身長だと、ちょうど顔のあたりにくるので気になるらしい。

 

トレセン学園に勤めて意外だったのは、扉の高さが市井と変わらないことだ。食堂とか特別な場所の扉は背が高いが、その辺の事情は市井も同じだ。

 

これはウマ娘が社会に出ても頭をぶつけないようにする工夫らしい。元々、トレセンを運営するURAは Uma-musume Raise Association の略でウマ娘育成会と称すべき組織だった。目的はウマ娘の社会的地位向上である。

 

それが Raise が Rise でないことに人類から異論が出たり、そもそも最初の一語から英語じゃないんだからいいじゃん、という応酬が入ったりした結果、今のURAになった。

 

その活動のおかげか社会的地位が向上して、URAの理事にウマ娘がついた結果、本人たちによってRacingへと改称されたのだから本望である。ともかく彼女たちは思いっきり走りたかったのだ。

 

アナログ電話機の受話器が、ウマ娘の耳に合わせて長くなったのは古のURAが成した数少ない偉業の一つである。ただ学園には意地で公衆電話が置かれているが、10円硬貨を投入し続けないといけない、ということをキットが知っているかは怪しい。

 

その後、実況との並列視聴というレース観戦者が普及に一役買ったハンズフリー機能が、URAの偉業の一つを潰したのは全くの予想外だった。でも、確かに電話に出れないことは社会的地位を低くしてしまう要因の一つであったわけだから、バカな話とするには早計である。

 

ちなみに誤解されやすいが、車道におけるウマ娘専用レーンの設置はURAによるものではない。路上駐車撲滅を目的にした地方自治体の策謀である。

 

レーンを邪魔する自動車はウマ娘の好きにしてよいことにしたので、路上駐車が一気に減った。彼女らは明らかな反社会勢力の黒い車でも容赦なく蹴る。

 

レーン設置直後、中央トレセンが戦車を路上駐車されるという盛大な嫌がらせを受けたが、これを人類からの挑戦と受け取ったウマ娘側の意地により解決した。

 

具体的には、北海道からばんえいウマ娘を大勢呼んで曳かせ、祭りで鉾を回す担当のウマ娘によって、車体下部に竹を挟んで水を撒いて学園敷地内まで運び込んだ。

 

いまだに戦車の所有者は現れておらず、トレセン学園の片隅に置かれている。

 

時代の大部分を担った文字通り原動力を舐めてはいけなかった。軽戦車程度だったのも幸いしたらしい。

 

というわけで僕に続いてキットが扉をクグりながら部屋に入った。扉の高さ一つに歴史があるのだから驚きだ。

 

ただ施設の天井高は一般的なそれよりも高くなっている。これも市井に合わせてしまうとウマ娘に屋内へと入ること自体への忌避感を持たせてしまう。それでは社会的地位の向上に逆行するのだ。

 

利用したい施設の天井が低すぎる場合は、URAに連絡を入れると全力で天井をぶち抜いてくれる。そういうポスターが貼ってあるのだ。

 

「まあ、世間はメジロ7号の打ち上げに注目しているわけだけども」

 

キットに前置きを持って話を始めた。別に前置きのいる仲ではないが、あった方が円滑だと思っている。

 

メジロ7号は民間初の月面有人探査機で、空間的制約の大きな宇宙開発でもウマ娘を乗員に選ぶほどの先進企業がやっている。いまいち何が主業なのかわからないが。

 

ウマ娘は頭が悪いわけでは決してない。ウマ娘の学者だっている。むしろ脳の容量で言えば劣っているのが人類だ。

 

ただウマ娘は確実に人類よりも力がある。特に中央トレセンに通っているレベルのウマ娘は、フィジカル的にもメンタル的にもエリートである。

 

しかし機能的役割分担の法則に従ってしまうと、どうしてもウマ娘に力仕事が多くなる。男はどうやっても出産できないのと同じだ。

 

力と知性の両方を兼ね備えている彼女らが支配階級にいないのは優しさが故だろうと言われている。

 

ウマ娘には音楽に乗せて一緒に歌って踊るとスッキリするという至極、陽気な側面があった。

 

なぜレースで鎬を削った相手とレース後に歌って踊れるのか?、というのはウマ娘に寄せられるよくある疑問である。あとで答えるので覚えておいてほしい。

 

このウマ娘の陽気な側面、ウマ娘史的に近代で見つかった大発見だったのだ。これまで殺し合いになるまで憎みあうしか無かった関係が一気に精算された。

 

ウィニングライブシステムと呼ばれる一連のスキームが完成すると、ウマ娘に関する歴史的禍根や、その後の一切のゴタゴタが綺麗さっぱりなくなったのである。

 

外部から見れば不自然な忘却であるが、このような圧倒的事実を前にすると、むしろ浮き上がるのが常識の不自然さだ。

 

前述の疑問に答えよう、つまり問題を反転すれば、なぜ人間は一緒に歌って踊ってもスッキリしないのか、なのだ。人間だってインド映画ばりにキレキレのダンスを一緒に踊れば一体感で世界平和が訪れる可能性だってあるはずだった。

 

なぜウマ娘はそうで、人類はそうでない、もしくはできないのか、ウマ娘と人類が共同で追い求める究極の問題の一つになった。

 

大極で見るとメジロ7号が月へ旅立ったのもその解明過程の一つである。

 

完全な余談だが、我が国の古代ウマ娘史は、エジプトのヒエログリフからカタカナで「ゴールドシップ」という記載が見つかったことで終わった。真面目に考えるものがいなくなったのだ。

 

ともかくキットと最初のレースに関する打ち合わせをしないといけなかった。

 

僕はすぐ思考が飛ぶので会話のテンポが悪くなる。

 

こういう時、キットがこっちをジッと見つめているので我に帰れる。

 

「あぁ、ゴメン、ちょっと考え事してた」

 

「いえ、どうぞ、いくらでも」

 

なんだかコッチを見つめている時のキットは幸せそうに見える。いや、情けないトレーナーだと思われているだけかもしれない。

 

ちなみにさっきの話だが、あんまり表情を変えないキットもテンポのいい音楽がかかるとノリノリで踊ってくれる。

 

いや、その話はいいか。

 

「まぁ、最初のレースだから、みんな手探りだし、結果は全く関係ないから」

 

嘘だった。

 

「はい、全力でやりますね」

 

彼女は力強く答えてくれた。

 

園田トレセンのいいところは出場するレースが、ほとんど園田レース場で固定なことだった。

 

たまに姫路の方でやることもあるが、本当にたまにだ。

 

コースも短いか長いかの2択で、長い方なら1400m固定だ。馬場がこの国で主流じゃないダートの方なのは、不当に評価が下がっちゃうポイントだが仕方がない。

 

これが中央だとレースの度にあっちゃこっちゃ、条件も大体合わせはするが、細かく変わるので大変である。

 

移動が嫌いなウマ娘は結構多い。特に自動車に押し込められるのは本当に嫌なようだ。

 

集団で移動する時は、トレセン専用のバスがあって広々としてストレスがないのだが、やむを得ず単体で遠征する場合に自動車で行くのは、本当に大変だった。

 

一度だけ、当時の担当バを軽自動車に押し込んで遠征したことがあるが、SAの度に休憩しないといけないし、レースの結果は散々だし、帰りは自分で走って帰るから並走しろ、と駄々をこねるしで大変だった。

 

出来るだけ遠征する時は、時間に余裕を持って公共交通機関で行くようにしている。新幹線も電車もバスも軽自動車よりはマシなのだ。

 

「キットと旅行みたいに遠征行くのもいいかもしれない」

 

「嬉しいですが、なんの話です?」

 

園田レース場のコースを確認している彼女を邪魔してしまった。いや、こっちの話でした、と言って謝った。期せずだがキットも旅行が好きなことを知れてよかった。

 

ウマ娘と自動車の話をしたので、彼女らの自動車事情を話しておこう。キットがコースの確認を終えるまでまだ時間がある。

 

ウマ娘も普通に免許が取れる。時速60km/hを早いとは思わない彼女らだが、安定して時速100km/hで走行できるこの機械にはそれなりの敬意を払っている。

 

独立して金を持ったウマ娘は、所有車としてHUMMERを買う率が高い。体格的に選択肢がないらしいが、絵面があまりにゴツい。

 

一度だけ、イギリスでウマ娘サイズのMINIが販売されて、日本仕様も出たそうだが、一瞬で完売した。再販を渇望する声があるようだが、この手の商品は需要を見極めて出されるので、方々から要求が上がる程度の状況がちょうどいいのだろう。

 

ドライビングテクニックについてだが、ウマ娘は人類よりも脳の処理速度が明らかに早い。時速45km/h程度であれば止まって見えるそうなので、安全運転かはわからないが、事故率は人類よりおしなべて低い。

 

概ね最初のレースの確認はできた。と言っても、こちらも相手も初めてなわけなので対策も何もない。明日のオフを挟んで始まる先輩ウマ娘との練習で、こういうことを聞いとくといいよ、とかそういう話しかできない。

 

なのであとは雑談だ。意外かもしれないが、僕は雑談が大好きなのだ。

 

「キットは夏休みに何かやるかい?」

 

最初のレースが6月、そのあとは2回目のレースをやるかやらないかで夏休みに入る。

 

「トレーナーさんと練習ができるなら、園田に残るのですが...」

 

特には、という前置きをおいて、キットはなんだか真面目なことを言った。

 

「いや、僕だって夏休みは取るよ。あと実家に顔出さなきゃダメだ」

 

キットはなんだか悲しそうだ。

 

でも後半の方は強めに言う。ウマ娘にウマソウルが定着すると血縁の関係が薄くなってしまうことがある。そこで実家と疎遠になってしまうウマ娘が意外と多いわけだが、関係を絶ってしまうのはその後、ウマ娘が社会に出るにあたって孤立する要因になったりする。

 

まぁ、孤立すると言っても、昔はウマ娘の本格化とともに実家と縁を切るのが一般的だったそうなので、ウマ娘同士の互助機能が充実しているから、そうは困らない。URAもその一つだ。昔の風習に関してはウマ娘が社会的な共有財産であったことも影響しているらしい。

 

キットの実家はスカウトの時、訪れたのだがいいコーヒーの香りがする素敵な家庭だった。キットの系譜はコーヒー党が多いらしい。

 

本格化を迎えたウマ娘は、本当に日に日に体が成長していくので、隔日、できれば毎日、実家とはビデオ通話するように勧めている。でないと長期休暇で実家に帰った時、見たことのない人が帰ってきて驚く。

 

「暇になるのが心配だったら、夏休みにバイトでもしてみる?、紹介できるのがいくつもあるよ」

 

この辺、古のURAからの得意分野だ。日当単位の仕事がほとんどなので、大体、体力仕事なわけだが、払いがいいところしか紹介していない。学生といえばやっぱりバイトだ。

 

近郊区では引越しや荷捌き、田植えは終わったところなので全盛ではないが農作業もまだまだ募集がある。

 

余談だが、北陸の方から来たウマ娘は、5月の決まった時期に実家に返さないと揉める。田植えの貴重な戦力であるわけだし、親戚が一堂に会する貴重な場を潰すと色々、大変だった。

 

田植えで思い出したが、5月の決まった時期に田舎の国道を走っていると、この時期特有の風物詩を見ることができる。

 

ウマ娘は特例としてトラックの荷台に乗ってもよかった。安全対策を施す必要があるが。

 

なので田んぼを背景に、荷台にペタンと座ったウマ娘を載せて走っている軽トラックを見ることができる。格好が決まって、ミミのところに穴の空けた麦わら帽子とシッポを出したオーバーオールだ。ウマ娘サイズのそれがホームセンターで売ってるかららしい。

 

ミミとシッポを出さないといけないのは、警察官がこれを改める時にウマ娘だとすぐわかるようにするためだった。身長でわからんか、と思わなくないが、すごく育ちのいい人間である可能性だってあるのだから仕方がない。

 

ウマ娘の歴史には剣呑なものも多いが、その大半は牧歌的なもので、ある程度、年代が上の人たちにはウマ娘を見ると、幻想上の原風景が想起されるのだ。

 

他にも今どきのウマ娘が好むナウな仕事として、アイドルコンサートのスタッフというのがあった。主にファンの先頭で壁になる役割だ。ライブの勉強になるし、音楽がかかってるから気持ちいいし、払いもそこそこなので結構いいバイトだった。

 

ただ去年、コンサート客の一部が制御不能になったところを、焦れた上級生が他のウマ娘と結託して騎兵突撃(チャージ)をかけて、制圧してしまった。人類は下級種族であることを思い出したのである。

 

少し怪我人が出たので、コンサートの運営会社から苦情が来た。あと、生徒に何を教えているんだ、という一般からの苦情も来た。体育祭で川中島の戦いを再現してたのは不味かったかもしれない。

 

生徒には明かせないがこの話を聞いた園田トレセン学園の理事長が大いに喜んでしまった。参加したウマ娘への一切の処罰を禁じた結果、運営会社とトレセン学園が全面対立するしかなかった。

 

理事長の本名が武田だという噂は本当なのだろうか?

 

とりあえず今年はこのバイトはなしだった。

 

「トレーナーさんを手伝うことはできないですか?」

 

キットがなんだか殊勝なことを言っている。トレーナー業に興味があるのかな、と思ったが、自分が夏季休暇中にやることを挙げてみた。

 

1.卒業ウマ娘と飲み会

2.コンビニで食料を買い込んで貯めてるゲームを徹夜で消化

3.実家に顔を出して墓参り

4.寝たいだけ寝る

 

手伝ってもらうことは特になかった。それに給料を出せるほど裕福でもない。

 

ただ結果的にキットは全部について来た。

 

過去の担当バである卒業ウマ娘との飲み会も、なぜか集合場所にいて連れて行かざるを得なかった。トレセン制服を着て来たので、めちゃくちゃ目立つ。

 

人見知りするキットは僕にくっついて離れなかった。だから言ったのに。

 

普段は僕をからかう卒業ウマ娘も、なぜか温かい目でキットを見てくれて、白けた雰囲気になってしまわないか冷や汗をかいたが、現在のトレセン事情で飲み会は大いに盛り上がった。

 

徹夜でゲームするのも、なぜかコンビニで捕まって賃貸の部屋までついて来た。家事をやると言って聞かなかったので、料理をしてもらおうとしたが、ウマホを見ながら悪戦苦闘していたので、一緒にした。僕も料理はほとんどしないので、うまくは行かなかった。

 

結局ゲームはほとんど消化できずに、部屋の大掃除をしたり、お風呂をピカピカに磨いたり、借りてる部屋の近くにあるネパール人がやってる美味しいカレー屋に行ったりした。

 

店を出してウマ娘が来たのは初めてだったらしい。ネパールの方が労働力としてのウマ娘が身近だったそうなので、たくさん食べることを知っていたのか無限にナンを出してくれた。

 

キットは一度に食べれる量が比較的少ない問題で、食べ切ることができなかった。

 

実家に行くのは流石に諦めた。ここまで来たらついてくるのが見えている。なので僕がキットの実家まで行くことにした。担当バの納得いくまで付き合うのもトレーナーの仕事なのだ。

 

それにウマ娘が本格化している最中に実家に帰るのは何よりも重要だった。次に会った時には変わってしまっている。僕の方の実家は近いのでいつでも行ける。

 

突然の訪問だったがキット家は快く受け入れてくれた。相変わらずコーヒーのいい香りがする。将来、喫茶店やるといいんじゃないかな、とキットに言ったら、いいですね、といって珍しく考えに耽っていた。

 

もしかしたら担当バの将来を提示してしまったのかもしれない。

 

それからキットが昔走った河原とか、昔泳いだ川なんか見に行ったり、近所に住んでる黒猫を見に行ったりした。暑いけど流石に川に入ったりはしない。

 

河原はキットにとって大事な場所らしかった。確か彼女をスカウトしたのもここである。

 

社会でウマ娘はどのぐらい珍しいか、というのはちゃんとした統計を確認しないとわからないが、実感として20人学級に一人いるかいないかだ。

 

なので地域の規模にもよるが、住宅地だと同世代のウマ娘が2-3人はいる。彼女たちのもっぱらの遊びが草競バだ。

 

僕が偶然立ち寄った河原で、キットは走っていた。1位にはなれていなかった。でも明らかに集団で走ることを意識して、和を乱さず走っていた。

 

伸びるウマ娘は2つのパターンがあって、飲み込みが早い秀才タイプと、教えるべきことを勝手に身につけちゃってる天才タイプの2つだ。

 

キットは後者のタイプに見えた。

 

だから大袈裟にそれを褒めてスカウトした。

 

まあ僕が中央のトレーナーじゃなくて、地方トレセンの資格しか持っていないことが、彼女にとっての不幸だったわけだが、地方から中央に移った例としては偉大な先達がいる。

 

最後に寝たいだけ寝る野望は阻止された。キットとなんやかんやして過ごしていたら夏季休暇が過ぎていた。生徒の夏休みはもう少し長いが、勤め人であるトレーナーの休暇は、まあサラリーマンと大体同じである。

 

話が前後するが、新バだけが参加する最初のレースにキットは参加した。

 

結果は2位。最初から先頭を保っていたが、最後の直線で譲ってしまった。

 

でもあれは最後にがむしゃらなスパートをかけた2番手を咄嗟に避けた結果で、そのままであれば事故だったので、教えたことを守った結果だと言えた。

 

それを大いに褒めて、次に同じことが起きたらどうするかを一緒に考えた。答えはなかなか出ないが、最後の直線ではよく起きる事態だ。

 

次のレースは1ヶ月後、そこに向かって仕上げていく。最初のレースの結果からして、走るペースは同期の中で群を抜いている。あとは後ろからの気迫に負けず、譲らず諦めなければ勝てると考えた。

 

お話と違って最後の直線でスパートをかけたウマ娘がゴールまでペースを維持することは珍しいのだ。例え一時的に前を行かれても、焦らず冷静に対処したら勝てる。

 

この子はすごい子だ。

 

 


 

 

私、グランジャーキットにとってレースは2の次であった。中央で勝つこととか、ウィニングライブでセンターで踊ることとか、そんなこことはあまり興味がなかった。

 

私の興味は一つで、目の前で色んなことをとっ散らかって考えている、小さい人だった。

 

最初は単に大袈裟に褒めてもらえるのが嬉しくてスカウトを受けたのだけれど、その人の身長を追い越したところで、自分でも困惑するほどの庇護欲が湧いて来ていた。

 

膝に乗っけられてしまうほど小さくてカワイイ。

 

部屋に押しかけても嫌な顔せず、むしろ天井が低いことをしきりに気にしてくれる所が優しい。

 

考えが発散し始めると目線が明らかに泳ぐのが愛らしい。

 

同じ話を聞いたことがないほどに話していて飽きない。

 

気軽に抱きつくことができなくなってしまった自分の体重が恨めしい。

 

他のウマ娘と会っていることが許せないほどの自分の独占欲が怖い。

 

あの人が自分に抱いている感情が父性であることが悲しい。

 

その全ての感情をあまり顔に出さず頭の中で巡らせていた。レースもそれを考えながら走っていたら、いつのまにか勝っている。

 

最初のレースで、最後の直線に入った時、後ろから急接近した影を避けてしまったのは良くなかった。

 

全力で走っている状態でぶつかる恐怖に咄嗟に反応してしまった。

 

レースの後、あの人はどうしたら良かったかを一緒に考えてくれた。ただ、明確な答えのない問題であることもわかった。

 

あの人に相談できることではないが、私の中での解決策は一つしかなかった。

 

次のレースに向けて、先輩ウマ娘と併せて走る時、私は思いっきりぶつかりに行った。

 

盛大に転ける。

 

でも、ただそれだけ。多少ケガはしたが死ぬほどじゃなかったし、次のレースにも響かなかった。

 

なら、いい。もう譲らなくていいのだ。

 

先輩ウマ娘には見抜かれていたようで、レースで転けたら下手に避けると後続に踏まれるから丸まれ、と注意を受けた。悪いことをしたと思っているので素直に受け取る。

 

大袈裟に心配するあの人を一緒に説得までしてくれた。心配するようなタマじゃないと言われたのは癪に触るが、盛大に迷惑をかけたので気にしない。

 

いろんなことを悶々と考えていたが、ウィニングライブシステムに則って、先輩ウマ娘と歌って踊ったらスッキリした。

 

次は勝つ、絶対だった。そして大袈裟に褒めてもらう。

 

 


 

 

レースの前にライブをさせるのは、闘争心も失ってしまうので御法度なのだが今回の事故は気に掛かったので、ライブでリセットすることにした。

 

何事も後腐れはない方がいい。それにキットは多分、闘争心とかそういうのではないところで戦っていて、やっても影響はあまりないように思えた。

 

それならレースまでライブの練習はどうやっているかって?園田にくるといい。デイなら朝10時からやっている。

 

まぁ言ってしまうと、レース後の生のウィニングライブは踊りについては即興である。歌の方もよく聞くと結構、間違えたり外したりする。でも、体格が体格なので迫力がある。

 

よく見るキレイなウィニングライブは、いわゆる後撮りで、中央で綿密に練習したウマ娘が見せる芸術である。

 

少なくとも1日に何回かやるレースで毎回、すごい熱量でライブやってる訳ではない。

 

ただその場で歌って踊るのが得意なウマ娘もいる。トウカイテイオーが見せた生のテイオーステップは伝説である。

 

キットはライブの方も特に心配いらなさそうだ。比較的ハスキーな声だが器用に歌ってくれる。踊りも上手い。

 

教えることないのでは、と思うが、まぁ主なトレーナーの仕事はトレーニングの差配だ。彼女がレースを走れる状態になっていれば仕事はしているのだ。

 

それに育成について、経験は先輩ウマ娘が、知識はトレーナーが教えるのが役割分担でもある。それに徹すれば良い。

 

方針は、先輩ウマ娘の助言もあって、主にキットのペースを乱させることにした。あの手この手でペースを乱しに行って、崩れてしまったらそこを塞ぐ。

 

最終的に何が起きてもペースを維持できればキットが勝つ。シンプルなやり方だ。

 

なんでもやった。接触は当たり前で、砂を巻き上げたり、音を鳴らしたり。ただ馬場が荒れるのは苦手だとわかった。弱点があってはいけないわけではないので、そこは気にしない。

 

条件が揃えば安定して勝てる、というのは大きな強みだった。

 

上手くいけば中央からスカウトされるんじゃないか、というのは度々、口にしていたわけだが、彼女としてはそれは嫌らしい。

 

まぁ、中央のメインは芝だし、園田で輝いてくれるならそれはそれだ。

 

キットの今の夢は喫茶店経営だそうだ。いいコーヒを出してくれるような気がする。やる気のないマスターをやるから雇ってくれ、と冗談で言ってみたが、それもいいですね、と言って考えに耽ってしまった。

 

なんだか店の名前まで考えてるんじゃなかろうかという気がする。キットはまだ2戦目すら経験してないのだ。まだまだこれからだ。

 

その2戦目の出走表が出た。面子は半分が園田トレセンに所属、もう半分が他のトレセンから移籍して来たウマ娘だ。

 

優しいウマ娘の性格から、レースの世界も同様かと思う人も多いが、結構過酷だ。1戦目で勝利できなかったウマ娘だけの2戦目、そこでも勝利できなかった時の3戦目とあって、大体そこまでで移籍が発生する。

 

中央トレセンは生徒数がやけに多いマンモス校であるが、最後まで中央に残るものは入る数よりも少ない。出ていって戻ってくることもザラにある。

 

園田を例に考えると最後まで同じトレセンに所属し続けるのは3割を切る。

 

次のレースには、当然、中央から()()()()()ウマ娘も何人か参加している。それまでのレースの記録から当日の予想を立てていく。

 

レースの予想は、園田レース場にいつもいる怪しい予想師のオッちゃんの独壇場であるが、レースに参加するウマ娘陣営ももちろん行う。

 

キットの性質から着目すべきなのは走るペースだ。彼女を上回るペースのウマ娘がいたら、それを崩しにいくことを考えなければ勝てない。

 

ただ、このレースでは特に心配する必要はなさそうだった。あとは最初から限界を超えたペースを出してくる逃げ、途中から追い上げてくる差し、ゴール手前での加速を表す末脚を警戒する。

 

ただ何に警戒するかといえば、明らかにそのような兆候が見られた時にキットがペースを変えるかだ。

 

例えば、大逃げされて、ゴールまでに追い返せるか微妙なほどの差をつけられたら、ペースを上げざるを得ない。そういうことが可能そうなウマ娘がレースにいるかを検証する。

 

一番警戒しないといけないのは末脚の切れるウマ娘だ。ペースを上げるのがゴール直前なので、そのあと追い抜く前に終わってしまう。最後の直線で先頭にこのウマ娘が残っている場合は警戒する、と言った個別の対策を立てていく必要があった。

 

最終的なレースの方針は、何があってもペースを維持する、だった。最後までキットがキットのままでいられればこのレースは勝つことができると判断したのだ。

 

ゴール直前でキットもペースを上げるかは、当日の先頭グループ次第であった。これは覚えてもらう必要がある。

 

「まぁ、世間はメジロ7号が月で発見した5万年前のイヤーマフの話題で持ちきりな訳だけど」

 

キットに前置きを置いて話を始めた。最新画像では、なんだかゴールドシップがつけていたアレに見える。

 

本当だとしたら従来の考古学が終わってしまう発見だ。少なくとも炭素年代測定法とはサヨナラしなくてはならない公算が大きいとの見方だった。

 

ただ、そんな事でレースは中止にならないので、真面目に考えていかなければならない。

 

ところで、なぜレースをするのだろうか?、キットは脚が速いけど、世界記録というわけではない。もしこの世界がタイムを基準に考えるなら、彼女は歴史に埋もれる。

 

思うに、そもそもちゃんとタイムを測定できるようになったのがここ最近だ。日本でもほんの200年前まで1日を朝と昼と夜の三段階でしか考えていなかった。

 

タイムを100分の1秒まで測れるようになったのは果たしていつなのだろうか?ちゃんと調べるのも面白いのかもしれない。

 

ただ一つわかるのは、ウマ娘のレースがそれより以前から行われていた事だ。

 

この国では終わった古代ウマ娘史だが、記録によるとローマ時代にウマ娘のレースがあったことは明らかであった。

 

タイムがない時代にどうやって早さを測るだろうか?、そう競わせるしかないのだ。同時にスタートして先にゴールした方が早い、という単純な理屈だった。

 

それがタイムを正確に測れるようになって、レースが終わっただろうか?

そんなことはなかった。

 

タイムを重視して考える人の陸上競技でも、団子にはならないがレースをしてメダルの色を決める。

 

なぜだろうか、現実世界で環境を完全に同一にすることはできないからだ。環境の変化に対してタイムの差はあまりに微小だ。100分の1の違いを求めれば追い風が吹いただけで変わる。

 

現代の技術力を持ってすれば、完全無風、同圧、同条件のレース場を作れる可能性はある。ただそこを走れるのは一握りに限られるだろう。

 

それを選ぶのには結局、レースが必要になる。競い合うことは、業界全てが前に進むための原動力として必要不可欠だった。

 

駆けっこは子供同士の未熟な環境でも結果を示してくれる。裾野を広げる道具としてもレースは大事だった。

 

競技人として失格かもしれないが、中央に対する園田トレセンという存在、一部のスターウマ娘を前に霞んで消えてしまう数多のウマ娘たち、全てが競い合うことでウマ娘という存在が前に進んできたのだ。

 

「いつも通り走って、勝って来て欲しい、グランジャーキット」

 

極めて単純な方針を伝えるのに、えらく時間がかかった。ただ彼女はそれを満更ではないように待っていて、満足そうに答えた。

 

「はい、トレーナーさん」

 

なぜかこの時のセリフを、キットはプロポーズだと解釈していた。






彼女について、今後の話があるとしたら笠松に留まったオグリキャップみたいな話になるかと思われます。
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