自身の体内、その心臓部にあるコアが、機械的な唸りを上げるのを感じた。
いつもの目覚め。彼女の鼓動は、彼女のみが感じ取れる。あるいは他の誰かがいれば、この音が聞こえたのかもしれない。
体を起こす。異常はない。彼女を作り上げた科学者の腕は、相当なもののようだ。
光源は、窓から射す光のみ。音は自分の起動音のみ。どこまでも限りなく無機質な部屋だった。
彼女のメインプログラムとなる、人間の脳ともいえるブレインが、新たな日付を刻んでいた。生まれた日付から、もう300年以上経っている。
自意識行動というコンセプトで作られた彼女は、やろうと思えば人に紛れて生活することができる。エネルギーに変換することはできないが、有機質を取り込む、要するに食事をすることもできるのだ。形ばかりの排泄も可能だ。
だが、彼女はそれを良しとしなかった。孤独な死を迎えた彼女の父が眠るこの地を離れることが、できなかった。
何をするでもない、ただひたすらに日々を送る。エネルギーであるバッテリーは、活動することによって充電できるので、彼女は半永久的に行動することが可能だ。
今日も何もない。過去の記憶をブレインから引っ張り出し、その余韻に浸る日々だろう。そう思考することすら必要とせず、いつものようにブレインに検索をかけた。キーワードは、「プログラム」。
今までに検索しなかったキーワードだった。なぜ今日それを検索したのかは、彼女にとってどうでもいいことだ。
視界に広がる、彼女にのみ見えるウィンドウに、検索結果が次々と表示される。その中に、この長居年月の中で見つからなかったワードがあった。
『KOKORO』
「コ……コロ……?」
そんなものがあっただろうか。自分の中にあるプログラムではないはずだ。
興味が沸いた。いい暇つぶしになるかもしれない。椅子に座り、目を閉じる。ブレインが、過去の映像を再生し始めた。彼女の瞼の裏に、懐かしい姿が映し出される。
「だめだ……これではブレインがもたん」
白衣を着た男が、機会に向かって頭を抱えている。じっと座って見ている自分は、何も言わない。
記憶回路が教える限り、彼はここ数年、毎日同じことを繰り返しているようだ。彼女が生まれた頃に比べ、かなりやつれてしまっているのも分かった。
だが、男は諦めなかった。頭を抱えていた両手をキーボードに伸ばし、一心不乱にキーを押していく。その姿は、彼と一緒に一度だけ見たピアノの演奏者のそれに似ているような気がした。
やがて、ため息をついて、男は立ち上がった。じっと彼を見つめる彼女に近づいて、悲しみを交えた微笑を浮かべる。
「すまないな……。今日もダメだった」
「博士、あなたの作っているプログラムの詳細を教えてください」
無感情に放たれた言葉に、男はやはり眉をハの字にしたまま笑う。
「お前が人間にもっとも近くなれる、あるいはそれ以上に人間らしくなれるためのプログラムさ」
彼女が首をかしげているのだろう、男が斜めに映し出された。彼は続ける。
「お前はもう、ロボットとしては完璧な域に達している。作った私が言うのもなんだがね……。だが、まだ足りないものが一つだけ、あるんだ」
少女の黄色い髪の頭に手を置いて、男はポツリと、零すように呟いた。
「ココロが、な……」
「心? 私には自意識プログラムが搭載されています。あなたの望む行動は取れているはずですが」
「お前の望む行動ではないだろう?」
再び、男が斜めに映った。彼女が理解していない証拠だ。男は笑う。
「いつか、いつかお前が心を手に入れ、人として私と接してくれるようになれば、私はこの孤独な科学者人生を終えることができるのだがな」
「それほど、心とは重要なのですか? 理解できません」
彼女の言いように、男は白衣を脱ぎ、体中の力を抜くかのように、ベッドに横になった。目を腕で覆い、口元が相変わらず笑っているのだけが、認識できた。
「あぁ、重要だよ」
クスクスと、普段の彼らしくない笑いを発したあと、口元から笑いが消えた。
「重要だとも……リン」
映像が途切れる。どうやらここで、『KOKORO』に関する記憶は終わっているらしい。
久しぶりに、自分の名前を聞いた気がした。だが、そんな些細な事では有り得ないほど、彼女の自意識プログラムは唸りを上げている。
彼はその言葉を最後に、死んだのだ。忘れてはいけないはずだったことを、リンは当然のように忘れてしまっていた。あの日から、彼女の記憶を辿る日々が始まったのだった。
無言のまま、彼女は大掛かりな外付けの機械が取り付けられているキーボードの前にたった。電源に触れると、以外なことにまだ通電していたらしく、真っ青なモニターが起動を告げた。
「waiting」と、白い文字で表示される。彼が死んだその日から使っていなかったためか、起動が遅い。彼女はその画面を、じっと見つめていた。
やがて、ウィンドウがいくつも表示される。埋め込まれたプログラムに従って、彼女は大規模なコンピューターの検索モードを探し当てた。入れるキーワードは、『KOKORO』。
結果は、すぐに表示された。一件だけ、パスワードも無く表示されたそのファイルを開く。
ファイルの中にあったプログラムを選択すると同時に、画面が暗転、白い文字が無数に表示された。しばらく目を通し、解読が不可能と判断、彼女はプログラムを閉じた。
再び表示される、『KOKORO』のファイル。先ほどのプログラムの隣に、『connection』というアプリケーションがある。迷わず、それを選択した。
画面は再び暗転した。その中央に、白い文字で「接続端子を本体にコネクトしてください」という言葉があった。一度ブレインに接続し、記憶を辿る。確か、プログラムの改変を行うときに、科学者が使っていたはずだ。
目を横に向けると、すぐに見つかった。ずいぶんと太いケーブルの先に、四本の端子がついている、明らかに接続ケーブルだ。
記憶の通り、リンはまず上着を脱いだ。その胸の中にあるコアに、ケーブルを刺す部分があったはずだ。左耳の後ろにある小さな突起を押すと、今までになかった切れ目が胸に走った。有機質により、普段は埋められているらしい。
重要な部分のはずだが、思いのほか簡単に、コアは現れた。そこにあるべき四つの穴は、目で見ることは難しかったが、問題なくあるはずだ。
ケーブルを、躊躇無く刺す。モニターに、「送信中」の文字と、徐々に増えていくゲージが映し出された。
「KOKORO……」
何気なく呟いて、その画面を見つめる。やがて、「complete」の文字が表示された。
ほぼ時を同じくして、リンは膝から崩れ落ちた。ブレインが軋み、凄まじい量の情報が、コアから彼女の自意識プログラムに流れ込む。
「っ……!?」
頬を雫が伝った。自分の体内から溢れている水分であることは分かったが、それが人間の言う『涙』であると気づくまで、時間を要した。
「な……にが……? エ、エラー……?」
膨大な情報量を処理しきれていないブレインでは、エラーかどうかを認識することもままならない。だが、彼女は感じていた。これはエラーなどではない。
心臓部が熱い。胸が苦しい。壊れてしまいそうだ。
切ない、辛い、寂しい、悲しい、涙が止まらない。
(切ない……? 辛い? 寂しいと、悲しいと感じている、私が?)
自分の中に芽生えた、そうとしか表現できない感情に呑まれる。自分が感じているこの感情は、ココロがもたらしたものなのだろうか。
コアが脈打つ。今までにない経験だった。それと同時に、ブレイン以外の不可思議な部分から、我慢できないほどの、願いが生まれてきた。
今までにないほど、顔が歪む。これが、泣き顔というものなのだろうか。漠然とそんなことを感じながら、リンは自分の自意識プログラム以外で初めて、願った。
「会いたい……! 寂しいよ……!」
声が出た。自分でもそうだと感じるほどに、人間らしい声だった。
たった一人で、数百年の月日を過ごしてきた。自分の内に秘められた心は、こんなにも孤独だったのか。ブレインが勝手に記憶を呼び出していく。
「あなたの手で生まれた時、私はとても嬉しかった」
脳裏に過ぎる、という、今までになかった記憶の思い出し方。口に出せば、それはさらに鮮明に浮かび上がった。
「あなたと過ごした日々は……楽しかった……!」
もう一度、彼と話をしたい。望んでも叶わないなんてことは、分かっている。だからこそ、寂しいと感じるのだ。理解はしている、だが、感情の渦は、リンをまだ離そうとしなかった。
感じられなかった喜びや怒り、悲しみ、それら全てが、今になって押し寄せている。体の震えが止まらない。リンは、痺れるような感覚の体を引きずって、キーボードに抱きついた。彼がもっとも近くにいた、もう温もりは遥か昔に消えている、その四角いプラスチックに。
伝えたい言葉が、いくつもいくつも浮かんでくる。生まれた瞬間に言えなかった、リボンや服を買ってくれた時に言えなかった、初めて映画に連れて行ってくれたときに言えなかった、言葉の数々。
それらは、一つにまとまった。伝えたい言葉が、たった一言に、集まった。
「ありがとう……。博士、ありがとう」
泣き顔が、笑顔に変わるのが分かった。今までは、自意識プログラムに従って必要な時にだけ取り出していた笑顔が、プログラムを無視して現れた。
リンの中に発生したココロも、笑うことを望んでいた。
押さえ切れない思いたちが、歌声となって狭い室内を彩った。彼女は今、歌っていた。
アリガトウ……アリガトウ……
聞こえて欲しい、あなたの作った私が、ココロを手に入れ、歌を手に入れた。あなたの目指したその存在が、今ここにあることを知って欲しい。
アリガトウ……アリガトウ……
いつしか、体の痺れはなくなっていた。ただ、愛しそうにキーボードを抱きしめ、彼女は歌い続けた。
「私は、ココロのおかげで、あなたの心を知ることが出来た……。寂しかったんですね、一人で。だから、私を作って、私のココロを、死に絶えるその時まで……」
キーボードが、ガランと音を立てて落ちる。視界にエラーが表示され、体の自由がさらに利かなくなった。
もうもたないな、とリンは思った。そう思えるだけで、彼女は自分に心が生まれたことを実感できた。何度も何度も、ありがとう、と呟いた。
「あなたが私にくれた、命、ココロ、全て……」
エラー表示が消える。視界が真っ黒になった。ブレインが急速に停止し、コアが全ての行動プログラムをシャットアウトしていく。自分が壊れたことなど、すぐに分かることだった。
自意識プログラムも停止した。だが、彼女の『ココロ』は、最後の瞬間まで、止まることはなかった。
「あり、がとう……」
意識が途絶える瞬間、彼女は笑顔を浮かべた。映し出されたモニターの青が、いつまでも、照らしていた。
美しいブルーに彩られた微笑みは、まさに天使のようだった。