鮮烈な赤が、リンを焼いた。それが気のせいだと分かっていても、少女は身を震わせる。
燭台に灯された三本の蝋燭が、どこまでも遠慮がちに闇を照らす。光は周囲を包み込む闇に押し包まれ、それ以上広がることを拒まれているようにも感じた。
そんなわずかな光源であっても、この部屋は赤を感じさせた。黒い壁にかけられた深紅のカーテン、黒塗りのタイルの上に強烈な存在感をアピールする、朱色の絨毯。その上に鎮座する、色合いや濃さこそ違えど、赤いソファー。脚部から木製であろうと分かる黒塗りのテーブルにもまた、紅蓮のテーブルクロスがかかっている。
どこまでも黒く、赤い、リンにとっては不安を煽られるような色合いの、狭い部屋だった。隣のレンも、息を呑んで部屋を見回している。
しかし、少女の視線は部屋のどこにも向かわず、ただ一点、ソファに腰掛ける人物にのみ注がれていた。
栗色のショートヘア、琥珀の瞳。へその出ている赤いジャケット、同じく赤いスカートは、白いベルトで止められている。リンにとっては何度も見た、なじんだ服装だ。
「メイコ、さん」
いつも無表情で、人の形をしているだけの機械だと言われても文句が言えない、そんなアンドロイドだったメイコが、そこにいた。
しかし、その琥珀色の瞳は強く光を宿し、自嘲気味に浮かべた微笑にすら、彼女の奥底に眠るだろう情熱を感じさせた。
「暗いけど、赤くてまぶしい」
ぽつりと、レンが独りごちた。しっかりと聞いていたらしく、メイコがくすりと笑う。たったそれだけの行為なのに、今までのメイコのイメージが強すぎて、おかしなものを見た気になってしまう。
「これがいわゆる、心の世界ってやつなの? たまにあんた達が話してた」
炎を宿したような女が、問う。あまりにもかけ離れていたイメージと、突然の問いかけ。リンの思考は停止しかけていた。
レンにわき腹を突付かれて、慌てて何度も頷く。
「えぇっと、そうです。私たちは今、メイコさんの心の世界にいます」
「そう。……悪趣味よね?」
クスクスと笑うメイコに、リンとレンはどう答えたものかと、顔を見合わせた。
とりあえずありきたりなフォローをと、口を開きかける。しかし、ソファーの肘掛けに右腕を預け、頬杖をついたメイコが、先に言った。
「狭い部屋、明かりは蝋燭だけ。まったく、寂しいものじゃない? それにしても、やたら赤い物が多いのは、なんでなのかしら?」
「ここは、心の持ち主の性格だったり思い出だったり、そういったものが現れやすいみたいなんです。
私の場合は、昔の思い出の場所でした。ミクちゃんとカイトさんも、言われてみたら納得、って感じの世界でしたよ」
答えると、メイコは少し目を開いて、再び自嘲的に口の端を吊り上げ、
「そうなの。じゃあ、私の心の世界は、私と照らし合わせて納得できるのかしら?」
「それは、うぅ」
言いよどむと、今度は声を上げて、メイコが笑う。
「はは、気にしないで。これがあたしの心の世界だっていうのなら、受け入れてやらないとね。
それに、自分の殻に閉じこもってた私には、もってこいの部屋だわ」
「自分の殻に?」
レンが聞く。すると、彼女は、自分に向けられているのだろう呆れを表情とし、肩をすくめた。
「色々ね。心ってのが怖かったりしたのよ。……といってもまぁ、何も感じてなかったんだけど。私が生き物だったら、本能ってやつなんだろうね」
「聞かせて……もらえますか?」
恐る恐るリンが聞くと、メイコは微笑んで、2人を対面のソファへと促してくれた。同じ仕草で2人が座ったのを確認すると、彼女は空中に視線を漂わせた。
「そうね……、なにから話そうかしら。自分を語るなんてしたことないし、何より会話らしい会話が初めてだから、うまく言えないなぁ。
うん、まずは……私、歌が好きなの」
切り出した彼女の声は、アンドロイドとして起動言語を発していた『MEIKO』と何も変わらないはずだというのに、リンにはとても熱いものが篭った、別人の声に聞こえた。
「私やカイト、ミクは、歌うために作られたアンドロイドなの。あ、今更そんなこと言われなくても分かってるわよね、ごめん。
人に聞かせる、そのためだけにプログラミングされた歌声。でも、心を手に入れてすぐに分かったわ。私は歌うのが好き。歌ってる自分が好きだったの。自分が歌うことで、人が元気になってくれることが、とっても嬉しい」
「カイトさんも、そう言ってました」
「そう。でもそれはきっと、長いことアンドロイドとして歌ってきた私とは、ちょっと違うと思うわ。彼、ちょっとだけ『KOKORO』に触ったでしょ?」
「分かるのか?」
身を乗り出してレンが尋ねると、彼女は笑って頷いた。
「まぁ、勘みたいなものだけどね。機械としての私が、彼の中に変なバグが起こってるって見抜いたのよ。Dr.秋山も気づいてたから、進言はしなかったけどね。
ようするに、不完全ながらも心を持っていたカイトと、まるで心に触れなかった、拒絶もしていた私とでは、歌に対する価値観が少し違うのよ。分かるかしら? この違い」
「いいえ……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ、分からないのが当たり前なんだから。
そうね、早い話が、私の場合は機械として、プログラムにそって歌う自分が好きだったってこと。もしも心を手に入れて、歌声も変わってしまったらって思うと、怖かったの。
大好きだった自分の歌がなくなってしまうことも、そのせいでもし、Dr.秋山に見捨てられでもしたらって考えることも、怖かったわ。今だから言えるんだけどね。
だから私は、リンとメインコンピュータを介して繋がっていた時に、『KOKORO』プログラムを全力で拒否したの。
あの時はスリープ状態だったし、事件はデータとして記憶デバイスに残ってただけなんだけど、間違いないわ」
ゆらゆらと儚げに揺れる蝋燭の火、その向こう側で、メイコが嘆息した。ほとほと自分に呆れ果てたと言わんばかりに、彼女は額に手をやる。
「ひたすらに歌っていたかった。心を手にして、自分の歌が崩れることが怖かった。今もその恐怖心は消えてないけど、Dr.秋山に捨てられるかもしれない不安を、リン、あんたが消してくれた。
もし歌えなくなったとしても、いつもと違う歌声になってしまって、歌が嫌いになったとしても……、私を必要としてくれる家族がいるんだって思えた」
そこまで語って、彼女は俯いたままショートカットの栗毛をわずかに揺らし、首を横に振る。
「……違う。本当は気づいてたの。リンとカイトとミクが、人間と仲良くしているところを何度も見ていたから、分からないはずがない。
ただ、それでも……。あまりにも機械としていた時間が長かった私が、受け入れられるということが、どうしても信じられなかったの。感情がなかったあの頃でも、私の中の私が、そう叫んでいた。心に辿りついてしまえば、自分の希望を裏切られるかもしれないと。
早い話が、疑ってたのよね。あなたのこともDr.秋山のことも。今も信じきれてないわ」
「そんな……。美鈴さんも私も、ミクちゃんとカイトさんだって、マリー達も絶対、メイコさんと仲良くしたいって思ってるはずですよ」
「そう言いきれるリンは、とても優しいわね。私、あんたのそういうところ、好きよ。
無愛想なんてものじゃない私のことも、1つの存在として見てくれてたものね。私の前で呆れたり寂しそうな顔をしてみたりしてくれてた」
「それはそうですよ。メイコさんは、私にとって……初めて会った同じアンドロイドなんですから。こうやって話せたのも、すごく嬉しいんです。カイトさんとミクちゃんよりも、私が一番話したかったのは、メイコさんなんです」
「ありがとう。本当にいい子だね、あんた。隣の君も、きっとリンと同じくらい優しいんだろうね。そんなにそっくりなんだから」
言われて、レンは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。赤面する少年を眺めながらも、メイコの微笑みから寂しさは消えなかった。
「素直ね、2人とも。いい子」
リンは気づいた。彼女はきっと、迎え入れてくれるであろう家族を疑っている自分に、心底嫌気が差しているのだ。
「あの、その……。うまく言えないんですけど、メイコさんは大丈夫ですよ。立川さんとかヤンさんだって、センタードームの人たちも、私の友達も、きっと受け入れてくれます」
「うん。でも、信じたいのに、うまく信じられないのよね。参ったなぁ、心を手に入れたらもしかしてって、期待してた部分もあったのに」
乾いた笑い声。舞台の上で熱く燃える烈女は、姿を消していた。
「心を手に入れられれば、私も皆と同じように笑えると思ってたよ。うん、今だって、そうすることはできるわ。
でも、それは私の本心じゃないっていうか、ね。どうしてもどこかに不安を感じたりしちゃう」
「それは……私にもあることですよ。今でも時々、美鈴さんを遠くに感じちゃう時とかあるもん」
「分かってるよ。それがきっと、心っていうものなんだって。いいことばっかりあるわけじゃないってのは、歌を聞きにきてくれる人の顔を見れば分かる。思いつめたような顔をしてる人は、ゴロゴロいるわ」
「メイコさんも、それと同じなんじゃないですか?」
食い下がるリンに、メイコは肩をすくめた。
「そうなんだろうね。でも、それじゃ納得できないのよ。私にそういう気持ちがあったら、今までみたいに歌えない気がしてさ。
……もう二度と彼らを、私の歌を聞いてくれる人を笑顔にできない気がして」
「そんな……こと……」
どことなく感じる虚しさに、リンは俯いた。どうしたらメイコに信じてもらえるのだろうか。カイトの時ほどではないにしろ、彼女は今、心に対して絶望感すら抱いている。
メイコは、心を手に入れたことを後悔している。そんな気すらしてきた。
「なぁ、メイコ」
敬語で話していたリンとは対照的に、レンが軽い口調で、しかし真剣な顔で言った。
「俺はリンの中に保存されているシステムで、まだボディもブレインもない。だから美鈴さんたちとも接点がないんだ。カイトとは、一悶着あったけど……。
ともかく、誰にも受け入れてもらえないかもしれないって気持ちは、分かるんだ。ミクやカイトには、聞いた話じゃあんまりなかったみたいだけど、それが普通だと思う。
何度も何度もリンと話して、それでやっと、俺は美鈴さんを信じようって決めた。それまで、疑ってる部分もたくさんあった。リンが直された時も、その後もずっと。
だからさ、時間かけてもいいんじゃないか? 心は手に入れたんだ。もっとたっぷり時間をかけて、ゆっくり信じていけばいい」
紡がれるレンの言葉に、メイコは一瞬俯いて、迷う素振りを見せた。
そうだ、それでいいはずだ。リンは頷いた。
「……うん。私もそう思います。美鈴さんに直されたばっかの頃は、しょっちゅう聞いてました。『私はあなたにとってどういう存在なんですか?』って。いつも妹だって言ってくれてたのに、何度も何度も、呆れられるまで。
メイコさんも、無理に信じなくていいんです。ちょっと疑いながらでも、皆とそれなりに仲良くしてみてください。きっと、嫌でも皆を信じることになりますから」
「もし……もしだよ? Dr.秋山のことを、私が嫌いになったらどうしたらいいと思う?」
顔に浮かべられたのは、疲れた笑みだった。しかし、その瞳に宿った不安は本物だ。
だからリンは、その切実な問いに、真剣にかつ単刀直入に答える。
「ありえないです。メイコさんの話を聞いてる限り、よっぽど大ゲンカでもしない限り、もしケンカしたとしてもきっと、嫌いになることはないですよ。もしそれで嫌いになるんだったら、私はとっくに美鈴さんを大嫌いになってます」
「そっか……。ねぇ、最後に確認させて」
確認。メイコはそう言った。何を言うつもりなのかは予想できた。即座に答えも用意できたので、リンはゆっくりと頷いて、メイコを促す。
「私は……あんた達にとって、なんだろう?」
「家族です」
「家族だよ」
あまりにあっけない、即答。しかし、まさにメイコが望んだ答えでもあった。
自信満々に笑うリンとレンに、メイコは前髪をかきあげて額に手をやり、苦笑を浮かべた。瞳に浮かんだ力強さが、より一層強く感じる。
「こりゃ参った。ある程度覚悟はしてたけど、まさか本当に、あんた達に諭されるとはね」
吹っ切れたような、明るさの戻った声だ。初めて聞く声音だが、これが本来の彼女の声であることは、2人にはすぐ分かった。
「でも、気に入った。無理に信じなくても、そのうち嫌でも信じることになる、か。いいね、そういうノリ、嫌いじゃないわ」
「メイコ……」
「じゃあ、メイコさん」
瞬間、パッと視界が明るくなった。蝋燭の火が強まったのではなく、部屋の黒が、純白へと移り変わったのだ。
白の中に浮かぶ、鮮明な赤。あまりにも強烈な自己主張だが、万人を鼓舞するような存在感を持っている。これこそが、メイコの本質なのだと感じた。
すなわち、心の虚無である白に、深紅の歌声を。
偽りなき純白な魂に、どこまでも熱い、赤の心を。
「受け入れるよ、心。変わるかもしれない自分の歌声も、疑心暗鬼なこの心も、全部ひっくるめて私自身。そういうことよね」
ようやく、見れた。メイコが持つ本来の笑顔。カイトのような優しさではなく、ミクのような愛らしさでもなく、そこにあるのは、圧倒的な力強さ。
「面白いじゃないの。プログラミングされた声じゃない、私の心による私だけの歌声。どれだけ観客を沸かせられるかな? 楽しくなってきた」
先ほどの弱気が嘘のように、メイコがハツラツと喋り続ける。リンとレンは、気づけば彼女の力強さに飲まれていた。
それだけ、彼女の瞳に宿る炎は大きく、熱い。
「やっぱり、この世界はメイコさんの世界です。私、納得しましたよ」
「ありがとう。私も自分らしいと思うわ、今のこの部屋」
強く強く、笑う。それはメイコだからこそ許される、そんな笑顔に思えた。
「あんた達にも最高のステージを見せてあげるから、期待してなさいよ」
メイコがガッツポーズを見せる。しかし、
「俺は、見れないや」
どこか拗ねたように、レンが呟いた。きょとんとするメイコに、リンが苦笑いで少年の頭を撫でてやりながら、説明した。
「レンは、私と視覚や聴覚を共有してるわけじゃないんです。だから、メイコさんの歌、聞けないんですよ」
「あら、そうなの? だったらリンから感想でも聞けばいいじゃない。どうせあんたらのことなんだし、心の世界にも行き放題なんでしょ?」
「そういうわけでも、ないですけど……。でも、レンには私からちゃんと伝えますよ」
「……」
リンに慰められても膨れ面のままだったレンに、メイコが立ち上がって拳を振り下ろした。すぐ隣で見ているだけでも、痛みが伝わってきそうな音だ。
一瞬何が起きたのか理解できなかった。しばしの間の後、理解できたらできたで、2人は目を丸くして口を半開きにするだけだった。
「うじうじしないの、男の子でしょ!」
「え、えぇ?」
心の世界でリンとしか接したことのなかったレンにとって、殴られる感覚は初めてだっただろう。ここに痛みという概念があるのかは知らないが、彼は驚きで反論すらできないようだった。
「まったく。レンっていったっけ? 心配しなくても、あんたに体ができたら、嫌というほど見せてあげるわよ」
メイコが立ち上がる。同時に、窓が開いたのか──窓があるのかも分からなかったが──カーテンが炎のように揺らめいた。
紅蓮のカーテンは徐々に広がり、あっという間に3人を包み込む。朱に染まった世界の中で、メイコは高らかに宣言する。
「うん、そうよ。史上最高のステージを、あんた達には何度だって特等席で見せてあげる。嫌って言っても、無理矢理聞かせてやるわ。それが私、VOCALOID・MEIKOなんだから!
心を手に入れたロックシンガー、新生メイコここにあり、ってね!!」
ウィンクを2人に捧げて、メイコが赤に溶けた。炎となったカーテンは、メイコの情熱を取り込んだかのようにうねりを上げ、しかしリンとレンを焼くことはなかった。
「……よかった、メイコさん」
「うん。……かっこいいなぁ、メイコ」
そんなレンの素直な感想に同意しながら、リンは渦巻く炎と共に、目覚めへと昇っていった。
起き上がると同時に、顔面に衝撃が走った。
目の前で、鼻面を押さえている人物があった。男。立川オサム。Dr.秋山の助手。
単語がいくつか脳裏をよぎり、今までならそれらを事実としてデータで処理していたところを、なんと不健康そうなのだろうかという自分の感想が混ざったことで、メイコは自分に心があることを再確認した。
「な……!?」
「あー……、ごめん。痛かった?」
自身に痛覚という感覚は備わっていないが、ぶつかった場所はブレインの近くだ。異常のチェックがブレインで速やかに行われているのが、今まで同様、情報として伝わってくる。たぶん大丈夫だろうという曖昧な自己判断で、それを半分無視した。
目が覚めると同時に起き上がったのだが、まさか顔の目の前に人がいるなど、考えてもみなかった。だから、たぶん自分は悪くない。
「いるならいるって言ってよね」
「お、起きるなら起きると言え! まったく、アンドロイドに頭突きされるなど、初めての経験だ……?」
痛みが引いたのか、ゆっくりと顔から手をどかした立川の顔色が、驚愕やら困惑やらが混じった、大変複雑なものへと変わっていく。
「秋山、おい」
「……あぁ。リンの奴、本当に私がいない間にやってくれるとはね」
含み笑いを感じるその声に、メイコは一瞬緊張を覚える。何度も聞いた、自分の母であり、管理者である女性の声だ。
「メイコ、おはよう」
やたらめったら驚いている立川とは裏腹に、リンの傍にいる秋山美鈴の顔はなんとも嬉しそうで、優しさに満ちていた。
「おはよう、ございます」
「なんだ、ずいぶん堅苦しいじゃないか。もっと楽にしていいんだぞ? 立川なんていきなり敬語すらなかったじゃないか」
「えっと、ごめん」
「謝ることでもないが……。どうした? 調子でも悪いか?」
むにゃむにゃと寝言を言いながらリンが起きるのを確認すると、女科学者はこちらへ近寄り、顔を覗き込んできた。なんとなく、目を逸らす。
子供っぽい理由ではあるが、正直に口にした。
「なんか、Dr.秋山が」
「女の子達には『美鈴』と呼ばせているんだ。そうしてくれると嬉しいんだが」
「じゃあ……美鈴が、あんまり驚いてなくて、こうなるって分かってたみたいな感じだったから」
あぁ、と頷いて、美鈴は顔を離した。煙草に火をつけるためだろうと思ったのは、心がなくとも彼女の行動を長いこと見てきたからなのだろうか。
案の定、煙の立つ煙草を咥えて、美鈴が続ける。
「起きてきてみれば、スリープになるはずのないリンとメイコが夢の中だったんでな。君のマイクロチップを確認したところ、『KOKORO』が導入されていた。フィルターをかけてあったんだがね」
「レンに消してもらいましたよー」
寝ぼけることもできるアンドロイド、リンは、目をごしごしこすりながらヘラっと笑ってみせた。
あまり喜ばしいことではないのか、それに美鈴は一瞬目を細めた。そして、寝起きのリンに咎めるように言う。
「君の中のプログラムだから、レンが何かするかもしれないとは思っていたがね。よかれと思ってやったんだ、できれば私の許可を取ってほしいものだよ、リン」
「だって、私たちだけ起きてなきゃいけないのに、美鈴さんはゆっくり寝てたじゃないですか」
「む……」
反撃を食らい、美鈴が黙る。舌を出して、リンがこちらになんとも邪気のない、悪戯な笑顔を送ってきた。思わず、吹き出してしまう。
「おい、秋山。いつまで遊んでいる」
「ん、あぁ。そうだったな。さて、メイコ。『KOKORO』は完全にインストールされたのか? 何か不備があるなら、ちゃんと言わないとダメだぞ」
「……」
「それと、さっきの答えだがね。私はリンもメイコも信じているのさ。そうじゃなければ、同時並列でブレインのメンテナンスなど、怖くてできない。ブレインの半起動状態だってそうさ。
結果、君もリンも無事帰ってきて、『KOKORO』も問題なし。ならば驚くことはないだろう? 君らが心の世界とやらに行っていたのは、想像できていたしな」
そっちの堅物は違うみたいだが、と横目で立川見つつ、美鈴は話を終えた。言われた助手は、不機嫌そうに鼻を鳴らしてそっぽを向いている。
まずは、質問に答えることにした。
「……不備はないわ。ボディのほうも、大丈夫」
「あぁ、そのボディなんだが。近々取り替えようと思う」
突然の提案に、メイコは驚いた。だが、リンを始め、他の面々は知っていたようだ。
なぜ自分だけ知らされていないのか、若干の不信感が生まれそうになる。それを知ってか知らずか、美鈴はなんともなしに説明してきた。
「その体じゃ、風呂に入れんだろう?」
「……風呂? アンドロイド用の洗浄機があるのに」
「お風呂は気持ちいいし、楽しいんです。メイコさんも知るべきですよ」
ようやく目が覚めたのか、寝巻きのまま白いリボンをつけながら、リンが言った。
返答に困っていると、ようやく色々なものから立ち直ったらしい立川が、手短な椅子を引っ張り出して腰掛けた。
「耐水性のボディ……当面はミクと同じものだが、それを適用するらしい。ボディサイズも合わせて作るそうだ」
「わざわざ、私のために?」
「この女、普段は仏頂面のくせに、お前たちのためとなると目の色を変えるからな」
「家族なんだから、当たり前だろう」
さも当然とばかりに言い切る美鈴だが、メイコはさきほど感じた不信感が吹き飛ぶのを自覚した。なるほど、嫌でも信じることになるとは、こういったことが続くということか。
「そう。じゃあありがたくもらっておこうかしらね」
「あぁ、そうしてくれると嬉しい。ボディは私だけで作る。男連中は参加しないから、そこは心配しなくていいぞ」
「頼まれてもやってやらん」
きっぱりと言い切り、立川は再び憮然とした顔で、座った席にあったコンピュータを弄りだした。
肩をすくめた美鈴を、視線で促す。彼女は1つ頷いて、
「あぁ、もう1つ。なにやら君は緊張しているみたいだが……。本来の性格というのは、どんなものなんだ?」
「……美鈴さん、それは本人に聞くことじゃないですよ」
半眼で、リンが呟く。言われた張本人は、きょとんとした顔をしているが。
「普通、自分の性格は分かってても人に説明するようなものじゃないでしょ? 美鈴さんは自分の性格を救いようのないほどぶっきらぼうで涙が出るほどズボラで初対面じゃまず友達できないレベルの無愛想だけど根は優しいって、人に説明したことありますか?」
「……なんだかボロクソに言われた気がするが、まぁいい。しかし、なるほどな。なら、リンに聞いてみていいかな?」
確認されて、メイコは頷いた。
「そうね、そうしてほしいかも」
「ん。じゃあリン、さっき私のことをボロクソ言ったように、メイコの性格を説明してみようか」
「すぐ根に持つー……」
文句を言いながらも、リンはスリッパでとことこ歩いてきて、ベッドに腰掛けていたメイコの横に座る。
「メイコさんは、かっこいいですね」
「ほう」
「最初は正直、雨雲背負ってるみたいな顔してたから、なんて暗い人なんだろうって思いましたけど」
メイコは自分の顔が引きつるのが分かった。美鈴が根に持つのも無理はないんじゃないかと、本気で思ってしまう。
溜息をついて、美鈴が煙草を消す。
「……君は正直すぎるな、まったく」
「?」
疑問符が見えそうなほど、リンは目をぱちくりさせて首をかしげた。美鈴と2人で苦笑しながら、メイコはリンの頭に手を置いた。
「でも、リンのそういうところは嫌いじゃないわ」
「同感だ。それで、かっこいいというのはどういうことなんだ?」
「姉御肌っていうのかな? きっとこれから分かってきます、ね?」
嬉しそうににっこりとされては、メイコは緩んだ頬で頷くしかなかった。なるほど、美鈴がリンに強く出れない理由がなんとなく分かった気がした。
「そうだと、いいね。あんたの期待に答えられるように、あんた達の姉になれるようにがんばるわ」
「頼もしい限りだな。女で仕切れる人材が、もう1人欲しかったところさ。最近は男ばかり増えて、汗臭くて敵わん」
「……ふん」
しっかり聞いていたらしい立川が、鼻を鳴らした。
「秋山、話が脱線しているぞ。メイコの性格がお前のプログラミングした歌と近いということは、『KOKORO』プログラムとお前の作った擬似感情プログラムが近い存在だと証明できると言っていただろう」
「あぁ、忘れるところだった。すまんね。だが、リンの話を聞いたのと、私の目で見た限り、おおよそ予想は当たっていたみたいだな」
目に強い光を宿して、美鈴が再び煙草に火をつけた。
「『KOKORO』と近い存在、ですか?」
首をかしげて、リン。いつもの相槌のあと、煙草を一口、間を取って美鈴は言った。
「そうだな。私の作った擬似感情プログラムは、自意識システムという根本の微妙な個体差に影響して、歌のジャンルや擬似感情作動時の性格を決める。メイコがロック、カイトがバラードとジャンル分けされているのはそのためだ。
そして、君の『KOKORO』も同じく、『RIN』という自意識システムやコア、ブレインに影響して、リンという個性を作り上げている。この時点で似たようなものなのかもしれないとは思っていたが、確証が欲しかったのさ。
いつかは、私の手で『KOKORO』を作ってみたいと思っているからね」
「私の、個性……」
メイコは、知らず自分の胸に手を当てていた。脈打つコアが、手のひらから情報として伝わってくる。正常な動作。だが、もっと大切な何かを感じたような気もした。
「あぁ。君の歌からして、やはり快活な女性だと思っていたんだ。やたらと大人しく思えて、予想が外れていたかとも思ったんだが、緊張か何かで喋れないんだろう?」
「うん、そんなところよ。……美鈴、私はこれからも、ロックを歌っていけるの? 今までどおり」
ぽつりと呟いたメイコの問いは、彼女にとって死活問題だった。だが、そんなことはつゆ知らず、美鈴は平然と返してくる。
「ん、そのつもりだが? 君が嫌なら、他のジャンルも」
言いかけた美鈴だったが、メイコがベッドから飛び降り、大きくガッツポーズをしたので、言葉を続けることができなくなってしまった。
「ど、どうした?」
煙草を落としかけて、なんとかそれを止めると、美鈴はようやく驚きを顔に浮かべて、メイコの突然の奇行を凝視していた。きっと立川も似たようなものだろう。
大きく息を吸い込んで、吐き出す。それだけで、溜まっていた鬱憤やらが全て抜けていくような、空も飛べるような気持ちになっていく。
「やーっとすっきりした! これからもロックシンガーでいられるなら、もう余計なことは何も考えないですむわ」
「よかったですね、メイコさん」
「最高の気分よ、リン! 今までどおり、ううん、それ以上に心を込めて歌えるなんて、こんなに楽しみなことは他にないわ!」
「お、おぉ」
あまりの豹変ぶりに、美鈴が一歩後ろに下がるのが分かった。なので、メイコから距離を詰めて、煙草の無い左手を握る。
「ありがとう、美鈴! 私、これからもあんたの作った歌声で、最高のライブをしていくわ!」
「そうか、それはよかった。……しかし、なんだ。まさかロックが歌えなくなるのを心配してたのか?」
「当たり前じゃない。歌は私の命。それも、ロック以外ありえない!」
「あぁ、そういうことだったのか」
合点がいって、美鈴も笑った。そして、彼女はメイコの手を握り返す。
「なら保障しよう、私の作る『VOCALOID』で、ロックをまともに歌い上げれられるのは、今のところ君以外いない。
メイコ、君しかロックは歌えないんだ。君には、君が言ったとおり、ロック以外ありえない。これからもよろしく頼むよ」
強く強く頷きながら、メイコは心の中にあった不安や不信感が消えていくのを感じた。リンの言うとおり、嫌でも美鈴を信じたくなった。それも、こんなにも早く。
一番に伝えるべきだったが、しかし口には出さない。そんなことをしなくても、彼女は分かっているだろう。
振り向けば、今も作業用ベッドに座って足をぶらぶらさせている不思議な少女には、メイコの心は伝わっているのだろう。
だから、メイコは礼の意味も込めて、リンに向かって右腕を伸ばし、親指を立ててみせる。
奇跡を呼び起こす少女は、ひまわりのような笑顔で、それに答えてくれた。
カウンターに頬杖をついて、色とりどりのリキュールが輝くビンを眺める。
例えば、彼女からは子供にしか見えない男子たちに酷い悪戯をされたら、こんな気分になるだろうか。それとは何か違う気がする。
では、良かれと思ってやったことが裏目に出て、父に怒られた時。それも違うと、彼女は1人、嘆息をこぼす。どちらかといえば、それは悲しい気持ちに近いものだ。
そう、これは間違いなく裏切りなのだ。このニコツーに生を受けて10年、お世辞にも長いとは言えない人生だったが、裏切られるということがこんなにも辛いことだったとは、思わなかった。
長く重い溜息。聞こえてしまったのか、小さなバーのマスターが苦笑を見せた。他人事だと思って、のんきなものだ。頬杖はそのままに、リンゴの果汁が入ったグラスを傾ける。
「……ふぅ」
一息ついて、マリーはようやく視線を動かした。酷く申し訳なさそうに俯いて、胸の前で手をもじもじさせている黄色い髪の少女を、ほぼ無表情のまま半眼で見つめる。
初めて出会った心あるアンドロイドである少女──リンは、出会い頭に伝えた謝罪に返事をされなかったことで、次に紡ぐ言葉を選べないでいるようだ。
「……」
「あぅ……」
同じ果汁ジュースが入ったグラスは、リンの分だけまるで減っていない。一口も手をつけていないらしい。長いことそちらを見ていなかったので、気づかなかった。
痺れを切らしたというわけでもないのだが、あまりに煮え切らないリンの態度に呆れて、マリーは言った。
「まだ何か、言いたいことがありますの?」
「うぅ……ごめんって」
「さっき聞きましたわ」
「……マリーが返事してくれないから……」
「笑顔で許すとでも思いまして? ごめんですめば警察はいらないですわ」
鼻を鳴らして、一気にリンゴジュースを飲み干す。申し分ない味なのだが、それを味わう気にもならなかった。
収まってきたと思っていた怒りが、再びこみ上げてくる。それを隠しもせずに、マリーは声量こそ抑えているが、自分の気持ちを正直にリンにぶつけた。
「メイコさんに『KOKORO』を渡す時、私も呼んでくれるという約束だったはずですわよね? それを破っておいて、しかも全て終わった後に話すなんて、あんまりだと思いますわ」
「だってそれは、メイコさんが!」
思わず食ってかかったリンだが、一瞬後に凄まじい後悔を顔に浮かべた。それを目の前で見ておきながら、マリーは構わず声を荒げる。
「あーあーそうですか! 約束を破っておいて、それをメイコさんのせいにしようというのですわね!」
「ち、ちが……! 確かに、マリーと約束したけど。心が欲しいってメイコさんの気持ちが伝わってきたから、それで」
「カイトさんの時にものけ者でしたわ! リンは私との約束より、メイコさんを取るんですのね!」
「そ、そういうわけじゃないよ! マリーとの約束も守りたかったに決まってるでしょ! なんでそんなひねくれたこと言うの!?」
とうとう、リンも怒気を浮かべ始めた。少女2人が確実にケンカへと向かっているというのに、将盆はグラスを磨いたまま、関与しようとしない。
「ひねくれた? ひねくれたことって言いましたわね! 私がどれだけ楽しみにしてたか、知らないわけじゃありませんわよね!?」
「知ってたよ。知ってたけど、メイコさんは私の『KOKORO』を見て、すぐに欲しいって思ったの! だったらあげなきゃいけないでしょ!?」
「そんなの、私が来てからでも構わないはずですわ! その時じゃないと無理だったってわけじゃありませんでしょう!」
音を立てて、マリーがカウンターを叩く。グラスが揺れて中身がこぼれたが、すかさず将盆が拭いたので、2人の言い争いは続行した。
「マリーにはわかんないよ!」
「何がですの? まだ言い訳をするつもりなら……」
一瞬、とどめの一言を考える。その間に、リンが目に涙をためて叫んだ。
「心を欲しがるアンドロイドの気持ちは、マリーには絶対分かんないんだから!」
胸に刃が突き立ったとしたら、こんな痛みなのだろうか。言われた瞬間に感じたその痛みで自分がどんな顔を浮かべたのかは知らないが、リンはマリーの顔を見て、凄まじい自己嫌悪に襲われたようだ。だが、侘びを述べることもせず、ボロボロと涙を流してバーボンハウスを飛び出していってしまった。
グラスを置いて、将盆がエプロンを外した。入り口にかけてあるOPENの札をひっくり返し、
「マリーちゃん、勝手に出たりしないようにね」
とだけ伝え、店を出ていった。リンを追いかけたのだろうが、扉が開く前にマリーの視界は歪んでしまい、それ以上見ることができなかった。
「なんなんですの……! 私はただ、リンががんばってる時に、一緒に……!」
誰もいなくなったのをいいことに、マリーは思い切り声を上げて泣いた。少女にとって初めての親友が、自分の気持ちを分かってくれなかったことが、寂しかった。
すぐ気づいてくれるだろうとどこかで思って、ふてくされていたのだ。だというのに、リンはまるで理解してくれず、あげくのはてにマリーには分からないと言ってきた。自分たちアンドロイドの気持ちは、分かるわけがないと。
それが、どうしようもなく悲しかった。
カウンターに突っ伏して、マリーはひたすら泣いた。バーボンハウスに遊びに来てからそう時間はたっていないのに、こんなにも傷つくことになるとは思わなかった。
こんなことなら、来なければよかったと思う。リンから電話がきて、メイコが心を手に入れた旨を聞いて、電話口でも怒ってしまった。すぐに美鈴が代わり、バーボンハウスで落ち合おうということになった。
母に送ってもらい店に入ると、リンだけがいたので驚いたが、時間になったら美鈴が迎えにくるとかなんとか言っていた。
どうせすぐ仲直りするだろうと思っていた。またすぐ馬鹿な話で盛り上がって、時々将盆を困らせて。そんな楽しい時間になるのだろうと、半ば確信していたのに。
「リンの……馬鹿……」
感情を吐き出したことで、徐々に嗚咽は収まってきていた。だが、傷ついた心が癒える気配は残念ながらないようだ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで拭って、大きな溜息をついた。ジュースでも飲んで落ち着こうとグラスに手をやったその時、扉についたベルが鳴った。
リンが帰ってきてくれたのかもしれない。期待を込めて、それでも目は合わせないように視線を送ると、そこには優しい少女に似ても似つかない男が2人、立っているだけだった。
「あれ、ショボンいないのかお。今日は浴びるほど飲んでやろうと思ってたのに、残念だお」
若い男の声だった。語尾が少しおかしい男は若干太り気味で、きつく見えない程度の細い目をしていた。
「外に思いっきり『CLOSE』って書いてあったじゃねぇか」
肩をすくめる、高めの声の男。こちらは対照的に細身で、ついでに身長も低めだ。長い前髪で目が隠れがちだからか、どこか引っ込み思案に見える。
「でも、ショボンはここに住んでるはずだお。寝てるのかもしれないから、勝手に飲むお」
「ばれたら殺されるだろ、それ」
「ドクオ、お前はいい奴だったお。ドクオのことは忘れないお」
「いい度胸だ、そこに直れ」
「おっおっ、ブーンとやるのかお? かかってこいお」
「……わりぃ、お前の贅肉に触るの気持ち悪いから、やっぱやめとくわ」
「ちょ、本気で申し訳なさそうにすんなお。ガチで傷つくお」
何やら仲がいいのか悪いのか分からない会話だったが、ずかずかと店に入ってくるので、マリーが顔を上げる。こちらに気づいて、男たちが足を止めた。
2人はぽかんとこちらを見ており、何も言わない。仕方なく、傷心から立ち直れていない少女が口を開いた。
「……ショボンおじさまでしたら、ちょっと野暮用で外に行ってますわ。すぐ戻ると思いますけど、お店は閉まってるんですから、勝手に入るのは良くないと思いますわよ」
「あー……だよな。それは分かる、全力で正しい」
細身の男──ドクオとか呼ばれていたが、本名ではあるまい──が、頭を掻いて言った。
「でも、それなら君がここにいるのも変じゃないかな」
子供扱いされているのは、目を瞑ることにした。子供であるという事実は、紛れもないのだから。
「私はおじさまが出かける前からいましたもの」
「おっおっ! 巻き毛ツインテール幼女とか二次元でしか見たことねぇお! テンション上がってきたお!」
「……ブーン、お願いだからこれ以上恥を上塗りする前に舌噛んで死んでくれ」
嘆息を1つ、細身の男はカウンター席に座った。リンのグラスが置いてあったままなので、マリーとは席を1つまたいだ場所だ。
「えぇっと、どうすっか。まぁ帰ってくるまで待ってりゃいいか」
「泥棒とかじゃ、ありませんわよね?」
「ブーンが泥棒だったら、間違いなくこの瞬間に金目の物を奪ってるお」
比較的正論だが、笑顔でそれを告げられるとなんとも微妙な心地になる。そんなマリーの気持ちを知ってか知らずか、小太りの男が自分の胸に手を当てた。
「ブーンの名前は、ブーン・タイレルっていうお。よろしくだお」
「俺は本内拓男(もとうち たくお)だ。なんであだ名がドクオなのかは、できれば語りたくないんだけどね」
細身の男、本内拓男というらしい男が肩をすくめる。すると、今も立ったまま無遠慮にリンの席に置かれたスナック菓子を口に含んで、ブーンが笑った。
「そんなの、ドクオが全力で年齢=彼女いない暦だからに決まってるお」
「そうかそうか。何のためらいもなしにバラすとは思わなんだ。だけどな、そういうことならブーン、お前もドクオということになる」
「残念だお、ブーンには彼女がいるんだお」
「なん……だと……?」
「人というものは常に成長するものなのだお、本内君。せいぜい君も精進したまえ」
「23年間てめぇと親友していたが、まさか裏切られるとはな」
「裏切りとかパネェお、ブーンは大人の階段を登っただけだお」
「そうか、じゃあ今度大人の階段を登って愛の巣に辿りついたパートナーを見せてもらおうか」
「いいお、前髪切って活目しろお」
「あ、あの……」
耐え切れず、マリーが割って入る。ブラウンの瞳に見上げられて、男2人が動きを止める。
「私は、マリアロンド・ヴェル・ラダビノードと申します。
それで、ええと……。お2人は、お友達なんですの……? お話を聞いていたら、仲良さそうには感じられなかったのですけれど」
「ドクオ! 聞いたかお! お嬢様口調マジ萌え」
「うるさい喋るなできれば死ね!」
反射的としか思えない速度で立ち上がって、ドクオ──マリーは本内という男をこう呼ぼうと決めた──がブーンに拳を振り下ろした。殴られた頭をさするブーンを横目に、殴った手をひらひらさせながら、彼は再び席につく。
「まぁ、見ての通り親友だな」
「見ての通り……ですか?」
「腐れ縁だから、こんなもんだお」
ブーンが楽しそうに笑う。殴られた後だというのに、怒りもしない。見れば、ドクオももう笑顔に戻っており、普段のリンとマリーがちょっとしたケンカでもすぐに仲直りするのと同じようなものかと、巻き毛の少女は納得した。
そして、どんよりとした重い感触が心に降りるのを感じる。リンは怒っているだろうか。自分が駄々をこねたせいで、彼女も傷ついてしまったのだろうか。今マリーに残っているのは、リンへの怒りではなく、後悔だった。何度目となるのか、溜息を吐き出す。
菓子を頬張りながらそれを見ていた内藤が、たくさん詰め込んでいたというのに一息で飲み込んで、口を拭いながらマリーを覗き込む。
「元気ないお? どうかしたのかお」
「……ちょっと、色々ありましたの」
呟くと、ブーンがガバッと顔を上げた。何かを悟られたかもしれないが、愚痴を言えるならそれもいいなと、マリーは思う。
だが、どうもそれは、見当違いもいいところだったようだ。
「ドクオ! 今の表情見たかお、まじずりぃお! ブーンは今のでご飯3杯はいけるお」
「もういいブーン。もういいから、エアフィルターの外で深呼吸してこい。中和剤は飲まないほうが一瞬で亡くなったご両親に会えるらしいぞ」
ブーンが言っている言葉の意味は分からなかったが、ドクオが額に手をやって酷い渋面を浮かべているところを見ると、知らないほうが幸せなのかもしれない。
ドクオがマリーの横に席を移った。リンのグラスが置かれている場所を避け、その反対側にである。
「一連の流れからして、友達とケンカでもした?」
「……よくわかりますわね」
「まぁショボンと話してるとな。そっち方面で色々身につくもんなんだよ」
陰気そうな影のある青年が、優しく笑う。どこか将盆を思い出させる顔に安心してしまい、マリーはつい、話してしまった。
「……私の親友と、とても大切な約束をしていましたの。それを、破られてしまって」
「約束を破るのは良くないことだお。それはマリアロンドちゃんが怒っても仕方ないお」
「遅刻魔のお前が何を言うか」
呆れを笑いと同時に浮かべて、ドクオが呟く。少しだけ気が楽になり、マリーも小さく笑った。
「名前は短くして呼んでくれて構いませんわ」
「じゃあマリアちゃんだお。それで、その親友さんはどうしたんだお?」
続きを促され、マリーは再び視線を落とす。カウンターの下は照明が当たらず、そこだけ漆黒に染まっていた。
「ドクオさんの言うとおり、ケンカになってしまいましたの……。それで、私、リンを傷つけてしまったかもしれなくて。
もちろん私も、悲しかったし、傷つきましたわ。でも、今はとても後悔してますの……」
「なるほどねぇ」
カウンターに肘を預けていたドクオが、ブーンの方を向いた。
「なぁ、俺ら何回ケンカしたっけ」
「小学校の頃クミちゃんに振られた時、ブーンのせいだってつっかかってきたのが最初だったお」
「いいや、最初は幼稚園の時だ。俺は覚えてるぞ。お前はおやつの時間に俺の分まで食いやがった」
「おっおっ。なんぼなんでも掘り返しすぎだお。みっともないお」
「なんとでも言え。……でもまぁ、何回ケンカしたかなんて覚えてないよな」
「だお。いちいち数えてたら、それだけでノイローゼになれるお」
喋っている間も常に菓子を口に放り込んでいるブーンに頷いて、ドクオが頬杖をつく。
「ま、そんなわけでさ。友達である以上ケンカはするし、それは珍しいことでもないよ。
もちろん、お互いが自分の意見をぶつけ合うわけだから、最低でもどちらかが、まぁ大体は両方傷つくことになるわけだ」
「ブーンは肉体的に、ドクオは精神的に傷つくケースが大体だお」
「俺らの場合はな」
「そうなんですの……? 親友なのにあんなこと言ってしまって、言われてしまって。もう仲直りできないかもって思うと、怖くて……」
また泣きそうになり、マリーはぐっと涙をこらえた。
「怖くて、でも、どうしたらいいのか分からなくて……。ドクオさん、ブーンさん。仲直りって、どうやればいいんですの?」
「それは人それぞれだからなぁ。マリアちゃんがリンって子に謝るのもありだし、その逆も十分ありえるよ」
「参考までに、ブーンとドクオはたいてい一晩寝れば無かったことになるお。単細胞なんだお」
「主にお前がな」
会ったばかりの青年2人のアドバイスを受け、マリーはリンに会ったら謝ろうと心に決めた。
どんなにケンカをしても、どれほど酷いことを言われてしまっても、リンのことは嫌いになれるはずがないのだ。それがきっと、親友というものなのだ。
「……ありがとうございます。元気が出ましたわ」
「それはよかったお」
朗らかに笑うブーンに笑い返す。と、バーボンハウスのドアがベルを鳴らし、主人の帰還を皆に知らせた。
入ってきたのは、将盆と美鈴だった。リンではないことに、マリーが困惑する。
「お、ショボンが帰ってきたお」
「やぁ。ドクオ君とブーン君じゃないか。すまないね、すぐ注文を受けるよ」
「退屈はしなかったけどな。お悩み相談を受けたがるショボンの気持ちが分かったよ」
テーブル席へと移動する2人に、ショボンが全てを悟ったかのように微笑んで頷く。そんな光景を眺めていると、美鈴がマリーに耳打ちしてきた。
「あぁ、マリア嬢。すまないんだが、リンは今日、もう会いたくないと言っていてな……。今日はこのまま帰ろうと思う。車にミクも待たせてあるしな」
「ぇ……そう……ですか……。仕方ありません……わよね……」
思わず呟いた言葉だったが、その時に浮かべた泣きそうな顔を見て、美鈴が慌てて言いなおす。
「と思ったが、あぁ、リンを呼んでくる。すぐに戻ってくるから、ここにいてくれ。将盆おじさん、マリーにジュースを。あと、リンの分も新しく作ってやってください。そちらの2人にはマリア嬢が世話になったみたいだから、何かうまいものでも。
あぁ、マリア嬢、大丈夫だ。あの子は根が正直すぎて、自分でもわけが分からなくなっているだけだ。君の顔を見ればすぐに仲直りできる」
「でも……会いたくないって言ってたのでしょう?」
「大丈夫、大丈夫だ」
マリーの表情に何を見たのか、何度も頷いて美鈴は賑やかになったバーボンハウスから出ていった。緊張と不安が入り混じる中、彼女はすぐに、黄色い髪の少女の手を引いて戻ってくる。
「やぁ、待たせた」
「……」
憮然とした顔で、リンは頬を膨らませている。怒っているのだろうか。どう声をかけたらいいのか、分からなかった。
「マリアちゃん」
声のほうを見ると、ドクオが握りこぶしを作ってみせた。頷いて、勇気を振り絞る。
「あの、リン」
「なに」
冷たい返答。恐怖すら感じたが、それをなんとか振り切って、マリーは椅子を降りた。
「私、酷いこと言いましたわ。その……ごめんなさい」
「……」
頭を下げているマリーからは見えなかったが、黙りこくるリンの目には明らかな迷いが生まれていて、簡単には許したくないという意地が見え隠れしていた。
「リン……ごめんなさい。私、リンががんばっている時に、傍にいれないのが、寂しくて……」
「……」
「遊びじゃないのに、あんな駄々をこねて、困らせてしまって……ごめんなさい」
最後の言葉は、涙声になっていた。許してほしい。またあの明るい笑顔が見たい。思いよ届けと、マリーは祈るしかなかった。
しばしの沈黙。美鈴と将盆は愚か、ドクオとブーンすらも黙って見守る。自分と似たようにリンも俯いているのが、雰囲気で分かった。
「あ、あのね。マリー」
震えているかのような声。マリーは黙って続きを待った。
「私もね、酷いこと言っちゃったよね。マリーにはアンドロイドの気持ちは絶対分からないなんて、マリーを傷つけちゃったよね。ショボンおじさんに言われて、私、とんでもないことしたなって」
もう、俯いていられなかった。今すぐリンを見たかった。顔を上げると、リンはもはや限界を超えていたらしく、ぼろぼろと大粒の涙を零していた。
「ごめんねぇ、マリー……」
その顔を見ながら、きっと自分も同じような顔をしているのだろうなと思った。やはり、リンとマリーは似たもの同士、なのだろう。そんなことを考える余裕などあるはずもなく、マリーも感情の蓋が崩壊するのを、抑えられなかった。
「リン……っ! 私も、ごめんなひゃい……!」
「マリーィ!」
瞬間、少女2人によるステレオで、バーボンハウスに泣き声が響き渡った。抱き合ったまま、しばらく泣き止みそうもない2人をそのままに、美鈴が将盆に深く頭を下げた。
「おじさん、すみませんでした。まさか、こんな面倒なことになるとは……」
「いやいや。構わないよ」
疲れたように溜息をつく美鈴に、将盆は笑ってコーヒーを差し出した。
「家族が増えるということは、人の輪もそれだけ広がる。心が繋がれば、当然衝突もあるものさ。
そしてそれすらも、絆を深める材料になる」
「えぇ。いつかメイコたちが、自分の友達を紹介してくれる日がくると思うと、楽しみですよ」
出されたコーヒーを一口含んで、泣いて抱き合う少女2人を、美鈴は優しい瞳で見守った。
リンとマリーが落ち着いたのは、それから20分ほど経ってからだった。
いつもに増してベタベタと引っ付く2人は、迎えに来たビリーと美鈴を前にして、今日は一緒にいたいと言い出し、美鈴の車で待機していたミクの後押しもあって……。
急遽、マリーの家でお泊まり会が開かれることになった。
バーボンハウスの帰り道、青年2人は缶コーヒーを飲みながら、何やら深刻な顔をしている。
「ドクオ、聞いたかお」
「あぁ、聞いたぞ」
「あのリンちゃんって子、アンドロイドだったそうだお」
「驚きだよな。しかも保護者が、あの秋山美鈴博士だしな」
「それもびっくりだったお。でも、おかげでミクちゃんを近くで見れたのはラッキーだったお。
だけど、そんなことより」
「あぁ……」
2人は揃って、似たように嘆息した。
「マリアちゃんが、『HNNR』会長のお嬢さんだったとはな……」
「どうりで貴族みたいな雰囲気持ってるわけだお……」
立ち止まり、顔を見合わせる。お互いの、平々凡々、遠慮の欠片も存在しないほどどこまでも果てしなく一般人であるお互いの顔を確認して、またも似たような溜息を、2人して盛大に吐き出した。
「勝ち組人生……」
「羨ましすぎるお……」
うな垂れた2人の青年の背中は、夜の繁華街へと飲み込まれていった。