「──というわけで、だ。リン、また頼めるか?」
そんなことを言われて、いいえ嫌ですと答えられるわけがない。リンは憮然とした表情でそう思った。
マリー宅での楽しいひと時が終わり、彼女の父に家まで送ってもらった。今日は親友が家に泊まる番で、騒がしくも飽きない時間が待っているだろうと思っていたのだが。
作業用ベッドに横たわるのは、桃色の長髪が美しい美女だった。アンドロイド、であるらしい。それもヤンの私物であるというのだから、聞いたときにリンは目を丸くした。
抱き人形。そう呼ばれるアンドロイドがいることは知っていた。もっともリンには性欲が存在しないので、人間がそれに対して抱きやすい『汚らわしい』だとか、そういう概念は感じなかった。今彼女が困ったような怒ったような顔をしている理由は、別にある。
表情は寸分変わらず、不機嫌なまま美鈴に向き直る。
「だって私、この……ルカさんと今日が初対面なんですよ」
「ミクの時だってそうだったろう。それに、心のあるメイコやカイトとだって、ほとんど初対面みたいなものだったんじゃないか?」
反論されて、それが悲しくなるほど正論であるために、リンは言葉を返すことができなかった。もう一度視線を下ろし、死んだように眠る美女を見つめる。
KAMALOIDとしての機能は撤去され、耐水性に優れたボディに換装されたアンドロイド。未来の新型VOCALOIDになるらしいのだが。
心を渡すということがどういうことか、美鈴はいまいち分かっていない。散々話はしたはずなのだが、ミクを始めとする3人のアンドロイドと心で対話をしたときは、精神的に結構なエネルギーを消費しているのだ。自分の発言いかんで相手が心を受け入れるかどうかが決まるのだから、簡単な話ではない。
「いいじゃない。サクッと『KOKORO』を繋いで、引っ張ってくるだけでしょ?」
いかにも単純で造作のないことであると、新型のボディに変わって上機嫌なメイコが言ってのける。思わず眉間にしわが寄ってしまった。
「むー。そんなに楽なことじゃないんですよ。メイコさんだって、あんなに渋ってたじゃないですか。ミクちゃん以外は、2人とも子供みたいにピーピー駄々こねて」
「……言うわね、リン」
「反論する余地はないけどね」
こちらも新型のボディに換装したばかりの、カイト。肩をすくめて、メンテナンスドリンクを飲んでいる。いつかミクが飲んでいた、循環液腐敗防止剤である。
ともかく、リンは結局やるしかないのだろうことも自覚していたので、大げさに溜息をついた。せっかく遊びにきてくれたマリーへと、上目使いで謝罪を述べる。
「マリー、ごめんね。私、仕事が……」
「構いませんわ。むしろウェルカムです! 心を渡す時にご一緒するのは、ミクの時以来ですもの。楽しみなくらいですわ」
「そ、それならいいんだけど……」
キラキラと目を輝かせるマリーに、リンは苦笑いをするほかなかった。
ちなみに、巻き毛の少女は持ち前の適応力で、すでにメイコと打ち解けている。ものの数分で昔からの友人のように接し、それに不自然さがかけらもないので、これには皆が感心した。
彼女のことをミクに任せて、早々に終わらせようと、作業用ベッドに腰掛ける。すると、美鈴が煙草を消しながら、
「あぁ、リン。VOCALOID以外のアンドロイドに『KOKORO』を導入するのは初めてのことだ。正直、何があるか分からない。できれば、レンにも協力してほしいんだ」
「レンにですか? ……どうしよう?」
胸中に問いかけると、レンの声が返ってきた。以前メイコに心を渡してから、心の世界でなくても会話ができるようになっていた。もっとも、話しかけなければ反応しないし、できないらしいのだが。
(俺はいいよ。どう手伝えばいい?)
「レンは何をしたらいいんですか?」
「あぁ。私には心の世界とやらのことがよく分からん。だからまずは、質問なんだが……。もしなんらかのバグでリンが閉じ込められたら、彼女だけでも無事に助けることはできるのか?」
一瞬、カイトの顔色が曇る。すぐに振り切ったようだが、あの時の罪悪感は残っているのだろう。
「できるって、言ってます」
まだレンは答えていなかったが、リンは答えを知っていたので、兄との秘密を守るために、あえてそう伝えた。すると女科学者は頷いて、
「わかった。最悪の場合、ルカの自意識システムをカットする。その時はリンを頼むよ」
(……はい)
同意した旨を伝えると、美鈴はもう一度頷いて、リンのブレインにメインコンピューターとの接続端子を繋いだ。先ほどからじっと黙っていた赤いジャケットの大男が、厳つい顔に似合わない弱気な表情で、リンの手をとる。
「ルカを、頼む」
あまりにも切実で、真摯な頼みだった。だから、友達であり家族でもあるヤンに、少女は強く頷く。きっと彼にとってルカは、自分たちよりずっと大切な存在なのだろう。リンにとって美鈴やクリプトン博士と同じほどか、あるいはそれ以上とも感じられる強い絆を見た気がした。
「始めるぞ」
「あぁ、やってくれ」
立川がキーボードを操作する。ルカのブレインが唸りを上げ始めた。祈るように見守るヤンとマリー、それとは対照的に楽観視しているとも見えるVOCALOID一同。そして科学者の顔になった美鈴と立川。変化はすぐに訪れ、リンは桃色の美女が待っている心の世界に赴くことになる。
なる、はずだったのだが。
「……あれ? 全然眠くならない」
「おかしいな。立川?」
確認された助手は、いつものように淡々と、目の前にある事実を語った。
「リン、ルカともにブレインの状態は安定している。接続状態もグリーンだ。しかし、進行速度は0%のまま、ぴくりともせんな。
……これは恐らく、俺たちが考えても分からない領域なんじゃないのか?」
「ふむ。心を拒んでいるか……。メイコもそうだったらしいが、彼女もなのか? 一体なぜ」
顎に手を当てて思考する、美鈴。それに答えるように、メイコが言った。
「もともと心がない私らにとって、『KOKORO』プログラムなんてのは結構怖いもんだったりするのよ。ずっと近くで話聞いてた私ですらビビッたくらいなんだから、いきなり得体の知れない感情が湧き出てきてるこの子は、もっと怖いんじゃない?」
「そうなのか? だが、心があるというのは、悪いことではないだろう」
一度リンとルカの接続を切って、美鈴が疑問を口にする。
「Dr.秋山。例えば、自身の能力が飛躍的に向上するとだけ言われて差し出された怪しい薬を、飲む気になれますか?」
青髪の青年に言われて、あぁなるほど、と美鈴は頷いた。
「では、どうしたらいいだろう。ルカ本人を説得するか? メイコはリンにそうされたと言っていたが」
「そりゃーあれよ、私がとっても素直でピュアだから」
胸を張って言い切るメイコ。だが、一同は揃ってそれを無視した。彼女はおどけるようにうな垂れて、すぐ何もなかったかのように両の手を腰に当てる。
「それにしてもまぁ、ウジウジしてるってのは見てて腹が立つわね」
「メイコさんも似たようなもんだったじゃないですか。最初はぜーんぜん『KOKORO』を受け入れなかったし、心の世界で会ったら会ったで、あーでもないこーでもないと、長い時間やってましたよ」
「ほんっと、あんたは一回教育してあげなきゃいけないかもね……」
半眼でうめくメイコだったが、いつも通り悪気のないリンである。寝転がったまま、頭の上に疑問符を浮かべている。
ヤンを除く皆に笑いが起こったが、それを沈めたのは、ミクの一言だった。
「美鈴さん、私も一緒に行きたいです」
どこに、などという疑問はなかった。心の世界に自分も、ということだろう。美鈴が唇の下に指を当てる。
理屈でいえば、不可能ではない。この場にいるアンドロイド──ルカは除外する──の搭載している『KOKORO』プログラムは、リンからもたらされたものとはいえ、紛れもなく本物だ。だとすれば、彼女らだけが知る心の世界とやらにも行ける。だが、不安が多いのも事実だった。
「……君たちはリンと接続したときに、それぞれの心の世界で対話をした。だが、それはあくまで『KOKORO』プログラムを受け渡す、という条件下に基づいたものだ。君たちから心の世界に赴くといった経験はない。
それに、複数のアンドロイドを接続して、ルカの『KOKORO』用マイクロチップにどんな影響が出るか分からないんだ。ただでさえ、私以外が作ったアンドロイドに『KOKORO』を入れるというイレギュラーなんだ。リンを繋ぐのでさえ、不確定要素が多すぎる」
「うん……そっかぁ」
残念そうに顔色を曇らせるミクに、美鈴は一言、すまんなと告げる。だが、今までの会話を聞いていたのかいなかったのか、メイコが両の手をパンと合わせた。
「それよ! 私らでぐずってるそのピンクちゃんを引っ張り出してやればいいんじゃない!」
素晴らしいアイディアだと言いたげに、メイコが一同を見回した。返ってきたのは冷めた視線と苦笑だけであったが。リンはその中で、冷めた視線の方に分類される。
「ピンクちゃんって……。それにメイコ、Dr.秋山の話、聞いていたのかい?」
青い前髪をいじりながら、カイトが言った。それに、メイコは当然だと頷く。
「そこまで馬鹿じゃないわ。私なりに考えて言ったのよ」
「……聞かせてくれ」
立川に促され、メイコは頷いた。
「いい? まず、それぞれの心の世界で対話したっていうやつね。あれは違うわ。カイトはリンの世界に行ってるし、私の世界は感情によって大きく変質した。これはもう、別の世界に行ったと言っていいと思うわ。心の世界はきっと、それぞれのイメージ、精神世界のようなもの。物理的な要素や科学的根拠の通用しない場所。それに、複数のアンドロイドで行ったことが原因になるなら、私もカイトも壊れてるかもしれないじゃない。その場にレンがいたんだから。
それから、マイクロチップに悪影響になる可能性。これも、レンがそれはないって証明してくれたわ。リンの話だと、システム上の存在でしかないレンにも、心がある。つまりこれは、あの子が紛れもなく『心あるアンドロイド』である証拠よ。つまり、美鈴の心配事は私たちによって問題ないことが実証されてるってわけ」
語り終えると、科学者2人はそれぞれ同時に思考を始めた。考えなかったわけではないだろうが、メイコの自信に溢れた言葉が、美鈴と立川に何かを思わせることができたのだろう。
ぼーっと聞いていたリンだが、自慢げに胸を張るメイコに、感嘆の声を上げた。
「すごーい! メイコさんが頭良く見える!」
「リン……失礼極まれり、ですわ」
本人より先にマリーが突っ込み、今回はさすがに、自分の失態に気づいた。
「あぅ、ごご、ごめんなさい。そういうつもりじゃあ……」
「いいのよ、あんたの可愛いところでもあるんだから」
言いたいことは山ほどあるだろうが、メイコはあえてそう言って、笑ってくれた。頼りになり、優しい姉である。リンには自慢の姉だ。
考えがまとまったのか、美鈴が煙草に火をつけた。
「あぁ、メイコがそこまで言うのなら、問題はないだろう。だがもうひとつ、疑問が残っている」
「VOCALOID以外のアンドロイドに『KOKORO』を入れるってあれ? 私たちに『KOKORO』入れた時点で博打だったんでしょ。じゃあ大差ないわよ、美鈴とオサムが直せばいいだけじゃない」
「簡単に言ってくれるな。まぁ、本職だからな、そっちは大丈夫だがね。立川、どう思う?」
「……お前が大丈夫だと言うのだろう? なら、それを信じるしかない」
ぶっきらぼうに告げる同僚に、美鈴は肩をすくめた。不器用な信頼の絆を見た気がして、リンはなんとなく嬉しい気持ちになる。
「複合実験、だ。複数のアンドロイドで単一の機体に『KOKORO』を入れられるか。複数の『KOKORO』プログラムの干渉によるマイクロチップのバグはないか。そして、VOCALOID以外のアンドロイドが、果たして『KOKORO』を受け入れるのか」
「そういうことなら、私も行くわ」
さも当然とばかりに、メイコが宣言した。ならば、とカイトも頷く。
「皆が行くなら、僕も。こんなに楽しそうな実験、参加しないのはもったいないよね」
「やれやれ……。遊びじゃないんだがね、止めても聞かないか。
あぁ、どうせ今回も2、3時間かかるだろう。ヤン、マリーにジュースとお菓子を。自分の分と、私たちにはコーヒーを頼むよ」
「あ、あぁ……」
なにやらずいぶんと大事になってきており、戸惑い気味に見守っていたヤンが、上の空で返事をした。恋人の命運が実験と称されている不安はあるだろうが、彼には科学者とアンドロイド達を信じる以外に選択肢がない。
なので、リンは彼を安心させようと、寝転がりながらヤンの方を向いて、親指を立てた。
「ヤンさん、任せてください! ルカさん、ちゃーんと連れてきますから!」
「……信じてるぜ、リン」
弱弱しくはあったが、それでも笑ってヤンが言った。マリーに手を握られている中、ブレインにケーブルを接続するメイコの声が聞こえる。
「いい? 一度あんたらを私の世界に連れてくるわ。どうせルカはしばらく心を開かないだろうから。引っ張れるだけ皆を引っ張るけど、最悪の場合は、レンにも手伝ってもらうわ。できるわね?」
(うん。任せろ)
「やってくれるって言ってます」
言葉を伝える。作業用ベッドに寝転んだメイコは、緊張の色を見せずに続けた。
「集合したら、なんとかしてルカに心を開かせるわよ。さすがにこんだけの人数巻き込めば、罪悪感で心の1つも開きたくなるでしょ」
「ずいぶん荒っぽいな。メイコらしいがね」
美鈴に言われて、メイコが肩をすくめた。カイトとミクは、どこか体を強張らせている。
「うー、緊張してきたなぁ」
「僕もだよ。心の世界は久しぶりだから」
意識を集中するために目を閉じたリンだが、声だけで2人の様子は伝わってきて、それが少しおかしく感じ、口元に笑いを浮かべた。
しばしの静寂。緊張と期待が入り混じった空気の中、タイピングの音だけが聞こえてくる。
(なんだが、すごいことになったねぇ)
胸中で呟いた。Dr.クリプトンと生活していた時はもちろん、美鈴に心を与えられた時にすら想像できなかったことが、次々に起こっていく。
(うん。でも、リンは嬉しそうだ)
(すごく嬉しいよ。心で繋がるって、とても楽しいし、幸せ)
(……うん)
わずかな間。そこに何か、少年の葛藤を見た気がして、リンは1人眉を寄せる。
(レン?)
(……あぁ、集中してた。ごめんな)
(ううん、私は平気。レンは、大丈夫?)
(うん。カイトとメイコの心は近いから、すぐ合流すると思う。リンとミクは俺が連れていくよ)
片割れはそれだけを告げて、心の奥へと戻っていった。リンもさほど気にせず、自分の意識を一点に、自分の心へと集中させる。
「5機のブレインの連結を確認。システム、オールグリーン。ルカのマイクロチップにも変化はない。異常な箇所は見られないな。秋山、いつでもいけるぞ」
「あぁ、ありがとう」
吸い終わった煙草を灰皿に押し付けて、美鈴は作業用ベッドに横たわるアンドロイドたちに向き直った。
「さぁみんな、正念場だ。正直、今回ばかりは私にもどうなるか分からん。言ってしまえば、君たちに全てを託すしかないということだ。
だが、私は信じているぞ。新しい家族を引き連れて、君たちが必ず帰ってくると」
マリーとヤンが息を呑んで、その瞬間を見守った。女科学者の指が、キーボードのキーに乗る。
「良い旅を。土産話を楽しみにしているよ」
キーが押される。5機のアンドロイド、それが搭載するブレインが、一斉に音を上げ始めた。
(レン……)
(大丈夫、きっとうまくいく)
忙しそうな美鈴と立川の声が、徐々に遠くなっていく。睡魔に襲われ、それに逆らわず、リンは目を閉じた。
ヤンとの約束、必ず叶えよう。そう誓ったと同時に、彼女の意識は現実から離れていった。
(暗い……)
宙に浮いていた。それ自体は不思議とも思わず、ただどこに行こうとも手が何にも触れないことに、少しの孤独感を覚える。
見回せど、あるのは闇だけ。自分の世界に赴くと思っていたリンは、虚空に投げ出されて、ふわふわと漂っていた。
片割れの少年が見つけてくれるだろうと信じてはいるが、視覚が認識するのは自分の体だけで、周囲の闇に飲み込まれるような錯覚に、身震いする。
「うぅ……怖くなってきたなぁ」
呟く。と同時に、左の肩を何者かに掴まれた。
「ひゃああぁぁ!?」
「うわああぁぁ!?」
悲鳴に同調するかのように、肩の手が離れる。聞き覚えのある声が背後から聞こえて振り向けば、心臓の辺りを押さえたレンが、目を丸くしていた。
「びびび、びっくりした」
「レン! それはこっちの台詞だよぅ!」
怒って叫びながらも、リンは少年に抱きついていた。勢いをそのままに、2人はくるりと宙を一回転。
「ごめんごめん、声かければよかった」
「もー。見つけてくれたからいいけど……」
頬を膨らませてみせるが、レンはそれを破顔一笑して受け止めた。リンの手をとり、
「さ、ミクのところに行こう。きっと同じようにして待ってる」
「そうなの? じゃあ急がないとね」
少年は飛んだ。まるで魔法かなにかのような光景で、リンはようやくそれを不思議に思った。
「レン、ここはどこ? なんで私たち、飛んでるの?」
「たぶんだけど、心を持ってるアンドロイドが同時にたくさんリンクしたから、それぞれの世界の間に道ができたんじゃないかな。ここはその道だと思う。精神世界ってやつなのかな?
だからってわけじゃないと思うけど、この道には上下左右の概念がないみたいだ。四次元ってこと」
「空飛ぶなんて初めてだから、変な感じ」
「俺も、まさか飛ぶことになるなんて思わなかった。でも不思議と、当たり前みたいにできるんだよね。 俺は心の世界にいる時間が長いからなのかな? リンの場所もすぐ分かったし、ミクがいる所にも迷わないで行けるよ」
言ったとおり、レンは真っ直ぐ迷わずに進んでいた。途中、若草の茂る草原が見える大きな窓があった。カイトの世界へ続いている入り口だなと、リンは1人納得していた。
自分の世界の入り口はどんな形なのだろうと思っているうちに、長い海色の髪を漂わせている、ひざを抱えた少女が見えた。どこか不安げで、寂しそうだ。たまらず、叫んでいた。
「ミクちゃん!」
レンの手を離し、パッと顔を上げるミクに近づく。差し出してきた手を握って、リンは彼女に頬を寄せた。
「ごめんねぇ、怖かったよね」
「ううん。見つけてくれるって信じてたから」
微笑んで言ったミクは、リンの肩越しに白衣の少年を見つけた。すぐに誰なのかを察したようだ。
「初めまして、レン」
「うん……。初めまして」
なぜかうつむいて、レンが返事をする。その顔を覗き込んで、リンが訊ねる。
「どうしたの?」
「い、いやぁ。精神年齢が近いアンドロイドと話をするのって、始めてだから」
「どうして? リンは同じ年だよね?」
小首を傾げるミク。白衣の少年は頬を掻いて答える。
「いやほら、リンはあまりにも身近すぎるっていうか……」
「そっか。私とは話しにくい?」
「い、いや! そういうことじゃ……」
少し困ったようなミクに、レンはあたふたと両手を振った。その様子を見ていたリンが、何かを悟る。
「あぁ。レン、照れてるんだ」
納得した、とばかりに手のひらを合わせて言うと、レンは真っ赤な顔で、2人の手をとってかなりのスピードで飛び始めた。
「ほら、メイコとカイトが待ってるから! 早く行こう!」
「えー! なんで怒ってるの?」
思わず大声で聞いてしまったが、レンは返事をしてくれなかった。隣で同じように手を引かれているミクがクスクスと笑っている。
しばらく話をしながら飛んでいるうちに、リンは周囲の闇など気にならなくなっていた。今はむしろ、この空中飛行を楽しめているほどである。
長いようで短い飛行が、終わる。手を引くレンが止まったので、導かれていた2人も自然と停止した。目の前に燃える炎のような真紅の扉があった。
「メイコさんの世界だ」
呟くと、レンが頷いた。ドアノブに手をかけ、開く。
途端、鮮烈な白と赤のコントラストが、暗闇を打ち破った。扉の向こうに世界があるのではなく、扉を開けることで世界が自分たちを包み込んだ、という表現が適切か。握っていたはずのノブはドアごとなくなり、白い壁と赤い家具の部屋、そのほぼ中心に立っていた。
一瞬の幻を見たような、不思議な感覚だった。気づいたら地面に足をついている。彼らが生物としてのヒトであったなら、夢の中で突然場面が切り替わったような、と説明したかもしれない。
「眩しい……」
目を細めて、ミクが呟く。それに、笑いを含んだ男の声が返ってきた。
「同感だよ。まったくメイコらしいね」
3人揃ってそちらに目をやれば、紅のソファに背を預けているカイトがいた。同じソファの肘掛には、世界の主であるメイコが腰掛けている。やや不機嫌そうな顔で、
「遅いわよー」
「ごめん、ちょっと2人を探すのに時間かかっちゃって」
肩をすくめてレンが言うと、事情は察していたのだろう、大人2人はそれ以上追及しなかった。少年少女たちを対面のソファに促す。
思ったより柔らかな感触に、リンは体が沈み込んでいくような錯覚を覚えた。この世界に来たのは二回目なのだが、少し驚いた。ミクも同意見らしく、目を丸くしている。
「すっごい、ふかふか」
「大人となれば、心の世界といえど接客用の家具くらい用意しておくのがマナーよ。ねぇカイト」
肘掛に腰掛けているので、メイコが後ろを向くようにカイトへと問いかけた。が、青い髪を揺らして、カイトは目を逸らしてしまう。
彼の世界は青空広がる大草原だ。大きな木が一本あるが、家具の類はなかった。事情を知っているのはリンとレンだけなので、2人はミクを跨いで目を合わせ、小さく笑った。
なんとなく察したらしいミクが、慌てたようにフォローする。
「わ、私の世界は夜の海辺だから、人を招くような場所じゃないなぁ。でも、景色が綺麗なのはいいですよね、カイトさん!」
「あぁ、うん。僕の世界も、自慢できるくらい素敵な所だよ。草原と青空が、とても爽やかで」
「私とレンは、菜の花畑なんですよー。私とクリプトン博士の、大切な場所なの」
各々が心の世界について話す。なんとか家具云々の話題を煙に巻こうという算段である。思惑通りになったのかどうか、メイコは首をかしげた。
「あれ、みんな屋外なわけ? じゃあ私だけ、部屋の中なの? なんかジェラシーだわ」
「でも、私はこの世界好きですよ。すごく居心地がいいから」
本心から微笑んで、ミクが言う。それはメイコ本人も含めて皆同じ気持ちらしく、同時に皆が頷いた。いつかメイコたちにも自分の世界に来てほしいなと、リンは思った。
一瞬会話が途切れたのを見計らって、カイトがパンと両の手を打ち合わせて、
「さぁ、そろそろ本題に入ろう。ルカ……といったよね。彼女の心に行く方法を考えないと」
「つってもねぇ。自分の世界に呼ぶならともかく、閉じこもって出てこないんじゃ、ルカの世界を見つけるのも難しいわよね」
「うーん、レン、何かいいアイディアないかなぁ?」
リンに聞かれて、レンは腕を組んで眉を寄せた。心の世界にいる時間がダントツで長い彼だ。皆が期待を持ってレンの言葉を待つ。
しばし──現実での概念が通じるのならば、10分ほど──考えてから、レンが目を見開いた。
「前に……カイトの世界にいたリンとカイトを、俺たちの世界に引きずり込んだことがある」
「あ……」
言いたいことを悟ったらしく、カイトが声をあげる。そちらに頷いてから、レンは続けた。
「どうやったかとかは、おぼろげだけど。確かあの時、カイトの世界で、その……リンが危ないって気づいて。なんとか助けなきゃって思って、とにかく2人を……引っ張った」
「引っ張った? 具体的に教えて」
メイコが腰掛から下りて、身を乗り出した。リンも含めて全員が、レンを見つめている。
「んー、こう、頭の中で2人を思い浮かべて、こっちに来い! って念じる感じ」
「アバウトねー。でも、そう。なるほどね」
「えっと……。つまり、どういうことですか?」
当事者だったはずのリンが、疑問符が頭上に見えるのではないかというほど、きょとんとした顔で首を傾げる。額に手をやって溜息を吐いたメイコの代わりに、カイトが答えてくれた。
「あの時レンは、リンとレンの世界で、リンを助けようと強く念じた。心の世界では、その想いでお互いの心を強く近づけることができるんだろうね。一時的にぶつかるくらい。
だから、さっき僕たちがいた暗闇の道を通らずに、僕の世界から2人の世界に、半ば強制的に飛ぶことができた。心の世界の持ち主が、強く相手を思うことで、僕ら『KOKORO』を持つアンドロイドは、互いを呼び合うことができる」
「考えてみたら、ついさっき道でふわふわしてたカイトを呼んだしね、私。なんとなくできるかもって思ったからやったんだけど、その応用みたいなものかしら」
「うん。俺がみんなの場所を分かるのと同じようなものだと思う」
レンが同意したところで、ようやく会話の意図を掴んだ。確認も含めて、リンは聞いた。
「えぇっと、つまり……。メイコさんが、ルカさんを強く呼び寄せるってこと?」
「そういうこと」
再び肘掛に腰を下ろして、メイコは大きく息を吐き出した。そして、苦笑を浮かべる。
「とはいえ、面識もない子を強く想うなんて、なかなかできるこっちゃないわよ」
「うーん、確かに」
ミクも同意して笑った。その様子を見ながら、ここが自分の世界で自分がメイコの立場になっても同じことを言うだろうなと、リンは思った。
再び、皆が思考する。ここがメイコの世界である以上、今回行動の中心になるのは、彼女ということになる。自分の世界に来いと言ったのはメイコなのだから、彼女は誰よりも真剣に考え込んでいた。
長い時間、揃って沈黙していたが、ルカのほうから呼んでくれる気配はない。ということは、やはりメイコがルカの心を開いてやらなければならないのだろう。そっとメイコの顔色を伺ってみると、真剣さの中に苛立ちも混ざっているように見えた。この世界にいる間は誰よりも心の動きに敏感なレンは、考えるよりもルカの心を見つけることに集中しているようだ。
「ルカさんは……なんで心を怖がってるのかな」
ぽつりとミクが呟いた。対面のカイトが、テーブルに肘を預け、両の手を顔の前で組む。
「怖がっているのかどうかも分からないね。僕がメインコンピューターに『KOKORO』を見つけたときは、危険なものだとは思わなかった」
「うーん、わっかんないねぇ」
同じ思考がぐるぐると回り、いい加減うんざりしてきたリンは、結局それだけを口にした。高性能であるはずのブレインは、心を得てからサボりがちになっている気がしてならない。
目を閉じてルカの世界を探すことに集中しているレンは、動かない。いつもよりずっと真剣なレンは、カイトとひと悶着あったときのような、大人びた顔をしているなとリンは思った。アンドロイドの機能として集中できない心の世界では、リンの集中力のなさが顕著に目立つのだった。
各々が沈黙し、真剣な顔で思考にふけっている中、この場で考えなければいけないことを半ば放棄して別の思考に逃げかけていたリンだったが、メイコの声で本題に引き戻された。
「あぁー……。もしかして、そういうことかしら?」
「何か分かったんですか?」
訊ねると、メイコはオーバーに思えるほど盛大な溜息を吐き出した。
「まー、たぶんね。ここって心の状態がもろに出る場所じゃない。私の世界が最初べらぼうに暗かったのが、私がネガティブだったから、みたいに」
言われてみると、そうだったかもしれない。カイトの世界で見た光景が、美しさの中に虚実が混ざっているような印象だったのも、彼の心が偽りの『KOKORO』で埋め尽くされていたからだとしたら、納得がいく。
「ようするに、あのルカって子。ただ単に心を閉ざしてるだけよ。入り口が見えないのも、たぶん無意識に見せないようにしてるだけでしょ」
言い切るや、メイコは肘掛から立ち上がり、おもむろに純白の壁に手をつけた。一同がきょとんと見守る中、彼女はレンに声をかける。
「レン、もういいわ。こっから先は私がやるから」
「え、でもルカの心の場所、分かるのか?」
当然の質問といえた。だが、メイコは少しだけ笑い、
「分かるわけないじゃない、場所なんて。でも、ここは私の心の世界。私が強く想い念じれば、向こうを無理やり引き寄せることはできる。そう言ってたわよね?」
「うん。でも、メイコはルカのこと、よく知らないからって言ってたじゃないか」
「そうね。あの子のことは知らない。だからルカのことを心配したり、助けたいと心の底から思ってやることは、今はできないわ」
語尾が強まる。メイコの秘めている熱いマグマのような感情が膨れ上がるのを、リンは感じた。
メイコの伸ばしている右手が、壁にめり込んだ。というよりは、突然壁が水面になり、そこに右手が吸い込まれたという感じだ。
「でもね、想いはそれだけじゃない。苛立ち、怒り、それも想いなのよ。ウジウジ心に閉じこもってるのがみっともないってのは、私が一番わかってる。それだけに、前の私と同じことしてる奴を見ると、イライラしてしょうがないのよね」
「メイコ、それってつまり……」
熱風のような感情に当てられながらも、飲み込まれることなく呆れたような顔で、カイトが呟いた。メイコと心が近いらしい彼のことだ、きっと何を考えているのかを察したのだろう。
もっとも、リンもレンもミクも、彼女がやろうとしていることは分かっていたが。同時に、止めても無駄だろうことも悟っている。
「出てこないなら、引きずり出してやるまでよ!!」
右腕を思い切り引いた。壁が崩れ、世界が揺れる。純白の壁を破片に変えながら、巨大な扉が現れた。
長身なカイトよりも50cmほど高さのある、鉄扉だ。メイコの掴んだドアノブ以外は、厳重に鎖と錠前で縛り付けられている。他者を完全に拒絶する、そんな扉。その異様さに、リンもミクも絶句する。
しかし、扉は目の前にあるのだ。これは、大きな前進と言えた。メイコが両手を2、3度打ち合わせて埃を払う動作をし、
「さーって、後はこいつをこじ開けるだけね」
「ほ、ホントに扉を引っ張り出した……」
散々苦労してルカの心を探していたレンは、目を丸くする。一度そちらに振り向いて、メイコが得意げな顔をしてみせた。
ソファから立ち上がったカイトが、ドアノブを回して引っ張った。鎖と鎖がぶつかり合う鈍い音だけが響くだけで、扉は開きそうもない。
「これは……どうしたものかな」
「向こうから開けてもらえないかな?」
恐る恐る扉に近寄りながら、ミク。だが、レンは肩をすくめた。
「それができたら、最初から苦労してないよ」
「ノックしてみます?」
自分ならそうするだろうと思い、リンが提案した。カイトとミクが半眼で振り返ってきたが、扉を見つけた本人が、意外にも肯定する。
「そうね、やってみる価値はあるかも」
「本気かい? そのくらいで開くとは思えないけれど」
顔を覗き込むカイトに、メイコは不敵な笑みを口元に浮かべた。一同に、嫌な予感が走る。それを無視して、栗色の前髪をかき上げた女は、
「離れてなさい」
とだけ言った。全員がそれに逆らわず、青い顔で反対側に退避する。リンは、こんな提案しなければよかったと全力で後悔した。なぜならば、
「ル・カ・さぁぁぁん! お届けものですよぉぉぉ!!」
錠前や鎖を砕かん勢いで、メイコが扉を蹴りつけたのだから。腰に両手を当てて、右足だけを無造作に振り上げ、ブーツを叩きつける。いわゆる、ヤクザキックである。
「心を!! お届けにィ!! 来ましたよぉぉぉ!!」
「め、メイコさん! やりすぎですよ!」
悲鳴じみた声をミクが上げるが、メイコの叫びと蹴られる扉の音にかき消される。こんなことをしたら、ルカはもっと心を閉ざしてしまうのではないか。少なくとも自分なら絶対に開けないと、リンは口に両手を当てながら胸中で断言した。
「開けてー、ルーカちゃーん!! 怖いことしないからー!! 開けなさぁぁぁい!! ……開けろっつってんでしょーが!!!」
ドラマで見た、借金の取立てがこんな感じであった。カイトが顔を左手で抑えて、溜息とともにぼやいた。
「無茶苦茶だ……」
「で、でもあれ!」
レンが指差す。錠前が、1つ壊れた。見れば、鎖も2本ほど切れている。信じられないが、効果はあるようだ。
轟音を立てながら、メイコは扉を蹴り続ける。そのたびに、錠前と鎖が壊れていった。
最後の1つとなった鎖を、両手で掴む。歯軋りをしながら思い切り引っ張る姿は、できるだけ早く忘れようとリンは心に誓った。
「出てこないなら、こっちから行くわよォ!!」
鎖が、引きちぎれた。鉄扉を封印するものはもはやなく、一仕事終えたメイコは、額を拭う。汗は掻いていてないだろうが。
ぞろぞろとメイコ──もとい、ヤクザ女──の周りに集まった一同は、改めて扉を見上げる。重々しい扉の雰囲気は、そのままルカの心を表しているかのようだ。
「さー、行くわよ」
誰もが開けることを躊躇っていたドアノブを、メイコはまるで自室のものであるかのように握り、回す。重苦しい音を立てて、扉が開いた。同時に、世界が変質する。
白と赤の部屋は消え去り、上書きされるかのように現れたその世界は────
現実世界でどこにでも見る、古びたアパートの一室だった。
アンドロイド一同は、月光が差し込む質素な部屋に立っていた。
広さや内装は、お世辞にも豪華とは言えない。唯一部屋と呼べるリビングの中央には、使ってそのままであろうグラスがあった。小さな冷蔵庫とテレビ、シーツがクシャクシャになっているベッドが、それぞれ部屋の隅に置かれている。
男性の部屋だ、とリンは思った。あるいは、美鈴ならばこのくらい散らかすかもしれない。ともかく、掃除したいというのが、リンの第一印象だった。
しかし、窓際で月を見上げている住人は、とてもこの部屋には似つかわしくない、美しい女性だった。
「お邪魔するわよ」
先頭を切って部屋に入ったメイコが、この部屋の住人に言った。桃色の長髪を掻き揚げて、女性がこちらを向く。
「……あれだけ無理やり開けたのに、いまさら断りを入れるなんて、ずいぶんと殊勝なことね」
女性──ルカは、拒絶するでもなくメイコに視線を向けた。先ほどまで心を閉ざしていたとは思えないほど、冷静にこちらを見つめている。
「それについては、全面的に謝るよ。もう少し方法を考えるべきだった」
頬を掻きながら、カイト。憮然とした顔と視線でメイコが何かを訴えたが、誰もがそれを無視した。謝罪されたルカは首を横に振って、
「いいのよ。心……あの人が私に与えたがっていたのは知っていたもの。それを手に入れられて、ヤンの気持ちに答えられて──嫌な気分はしないわ」
リンは内心で胸をなでおろした。ルカがヤンを嫌っていたらどうしようかと思っていたのだ。だが、そんなことは杞憂のようだ。それどころか、好意すら感じられる言葉を発した。
「なんで、心を閉ざしてたんだ?」
包み隠さず、ストレートにレンが尋ねる。すると、ルカは視線を宙に彷徨わせて数秒後、首をかしげてみせた。
「さぁ、どうしてかしらね」
「どうしてって、あんた」
半眼で、メイコがうめく。クスクスと笑ってから、ルカが呟いた。
「自分自身に感情なんてものがあるとは思わなかったもの。私は、擬似感情プログラムが壊れていたせいで、人間の真似事すらできなかった。それに、人が見せる感情の起伏を、私はほとんど見たことがなかったのよ。
だから、私は心を開く方法が分からなかった。まさか、あんな強引にこじ開けてくるなんて思わなかったけれど」
「それはもういいでしょ、過去のことじゃない」
一応は悪いと思っているらしく、メイコは気まずそうに溜息をついた。ルカが口元にひだりてをやって、上品に笑う。
ようやく場の空気に馴染めたリンは、今までの話を反芻して首をかしげた。
「感情を見たことがないって言ってましたけど、ヤンさんは? 一週間に一回だけど、おうちに帰ってましたよね?」
「あの人は、口下手なのよ。あまり笑わないし、喋らないわ」
「ヤンさんが、口下手? そんなことないと思うけどなぁ」
彼女の癖らしい、人差し指を口に当てて、ミクが思い出すように言う。リンの記憶にあるヤンも、結構なおしゃべりでよく冗談を言う、面白い人というイメージが強かった。
再び月を見上げて、ルカは目を細めた。
「そう……。あの人は、不器用なのね。捨てられていた私を拾った時にも、あんなに怖い顔と大きな体をしているのに、子供みたいに泣き叫んでいたわ。どうして泣いていたのか……今になってやっと、分かった気がする」
「ヤンが、泣き叫んだの? 面白そうな話じゃない、聞かせなさいよ」
好奇心を隠しもせずに、メイコが一歩前に出た。テーブルを挟んだ反対側にルカはいたが、そのテーブルを踏み越えていきそうな勢いだ。すかさず、カイトがその肩を掴んだ。
視線を落として、ルカが首を横に振る。かすかだが、笑ったような声も聞こえた。
「だめよ。これは私とヤン、2人だけの秘密だもの。……必要とされなくなった、ゴミと呼ばれたことのある2人だけの、秘密」
「ゴミ……?」
重く響いた2文字の言葉に、レンが息を呑む。
「そう。私はKAMALOIDとして、あの人は人間として……世界に馴染めなかったの。立場はまるで違うけれど、ヤンと私はゴミとして扱われていたのよ。
擬似感情プログラムの壊れたKAMALOIDも、心の壊れた人間も、社会という歯車に噛み合わない存在は、きっと世界に必要なかったのでしょうね」
「酷い……」
ミクが眉を寄せて呟いた。リンも同感だったが、当の本人は涼しい顔だ。
「優しいのね。そう言ってくれるのは、素直に嬉しいわ。でも、同情がほしいわけじゃないのよ。全ては事実であり、過去のことなのだから。今の私にはヤンがいるし、ヤンには私がいる。もうお互い、ゴミじゃないの。
だから、このお話はおしまい。あなたたちは、もっと大切なことを私に聞きにきたんじゃなくって? わざわざ心の扉をこじ開けてきたんですものね」
「あんた、わざとやってるでしょ……」
メイコが片眉を吊り上げてうめく。もっとも、無理やり扉を開けたこと自体は、間違ったことをしたと思っているわけではなさそうだが。
「あら、なんのことかしら」
とぼけて、ルカが肩をすくめる。今いる面子で誰よりも大人びた性格の女性は、もしかしたら言わずともこちらの聞きたいことに気づいているのかもしれない。とはいえ、このままいつまでも雑談を続けるわけにもいかず、リンは本題を切り出すことにした。
「ええっと、ルカさん」
「なにかしら?」
妖艶な微笑みを浮かべられて、一瞬たじろぐ。なんとか気を取り直して、リンは続けた。
「あの、私のブレインと繋いだとき、その……『KOKORO』プログラムを、拒絶しませんでしたか?」
「えぇ、拒絶したわ」
「その……どうして?」
「そうね、理由は2つあるわ。1つは、機械としての私が『KOKORO』を警戒したから。ヤンが話をしていたけれど、それが悪意のあるプログラムである可能性は0ではなかったからよ。
それと、もう1つ。私がヤンを受け入れないかもしれないのが、怖かったのよ。あの人を嫌ってしまって、傍にいれなくなったら、私はまたゴミに戻るのかもしれない。そう思うと、とても恐ろしかったわ。もっともこの気持ちは、心を得てから気づいたのだけれど。
結局は杞憂だったのよ、どちらの理由もね。間抜けな話だわ」
自嘲気味な微笑すら、美しかった。話の中ごろからボーっと見とれていたレンのわき腹を小突く。もっとも、リン自身も似たようなものだったかもしれないが。
「なによ、自分で気づいてたの? じゃあ心を閉ざす必要なんてなかったじゃない」
「そうね。でも、紛い物の感情すらなかった私には、心を得るという変化はあまりにも大きすぎた。どうしたらいいのか分からなくて、困っていたの。
心を開くことができたのは、あなたのおかげね。ありがとう、赤い服のお姉さん」
また茶化されたような気がしたのか、メイコが何かを言いかける。しかし、自然に緩んだルカの顔は心からの感謝を伝えていて、一度口を閉ざしたあと、メイコは前髪を掻き揚げた。
「まぁ、気にしなくていいわ。ちょーっとばっかし強引だったかなって思ったけど、役に立てたなら結果オーライよね。
それから、私の名前はメイコ。秋山美鈴の作ったVOCALOIDよ」
「あら、そういえば自己紹介がまだだったのね。私はルカ。ヤン・メイ所有のKAMALOID。よろしく」
ようやく立ち上がって、ルカが皆に恭しく一礼した。それに、カイトは軽く頭を下げ、ミクはルカに習って腰を折る。
「僕はカイト。こちらこそよろしく」
「ミクです。私とカイトさんも、VOCALOIDです」
「歌うアンドロイドね。ヤンが話していたわ。
……そちらの、可愛い双子さんは? あなた達も、VOCALOIDなのかしら」
ルカの視線がこちらを向いた。妖艶な瞳に見つめられ、リンはなぜかしどろもどろになったが、なんとか答える。
「あぅあぅ、えぇっと、私はリンです。美鈴さんとこのアンドロイドだけど、VOCALOIDじゃないです」
「俺はレン。リンのブレインにシステムとして存在してるアンドロイドだ。
俺たちは500年前に作られたアンドロイドで、『KOKORO』プログラムのオリジナル、ってことになる。ルカたちが持ってる『KOKORO』の大本は、俺たちの生みの親であるクリプトン博士が作ったものなんだ」
細かく説明してくれたレンに、リンは視線で礼を述べた。彼はこちらを向かなかったが、きっと気づいてくれているだろう。
興味深そうに聞いていたルカが、こちらに近づいてきた。リンの前で腰を落とし、頬に手を当ててくる。瑠璃色の瞳が、じぃっとこちらを見つめている。
「不思議ね……。リンを見ていると、なんだかとても、ふわふわした気持ちになるわ。あの人といる時と似ているけれど、どこか違う。雲みたいに柔らかい感じ」
「いやぁ、そんな」
間近でそんなことを言われては、頬が緩むのを押さえられるわけがなかった。ミクとカイトが、苦笑している。
「この子はねー。もうなんていうか、奇跡が詰まった女の子なのよ」
黄色い髪に手を乗せて、メイコが目を細めた。ここまで言われてしまったら、逆に恥ずかしくなってしまうリンであった。
その傍らで、レンが少し俯いた。
「……リンは、クリプトン博士に愛されていたから。今だって、美鈴さんにも……みんなにも」
頬に当てられていたルカの手が、離れた。立ち上がった彼女は、少し震えているレンに視線を移す。
「俺は……双子として、作られたんだ。リンが寂しくないようにって。……他の誰でもない、リンのために。
だから俺には、リン以外の誰かを優しい気持ちにする奇跡が、ないんだろうな」
「そんなことないよ。レンと話せて、私はすごく嬉しかったし、暖かかったよ」
慰めるように優しく、ミクがレンの手を取った。どうして彼がこんなことを言ったのか、リンには理解しかねた。普段の彼なら、こんな弱音は吐かない。
自分が何を言ったのかを理解したのか、レンはハッとして、ミクの手をそっと離す。
「ご、ごめん。変なこと言って」
「謝らなければいけないのは、私ね。あなたを落ち込ませるようなつもりはなかったのだけれど」
眉をハの字にして、ルカ。謝罪の視線を遮るように、レンが両手を突き出した。
「いやいや、そんなことない! ルカが謝ることじゃないんだよ。ただ、なんていうか……。
こんなに沢山の同類と話したの、初めてだったから、嬉しかったんだ。ルカが心を開いて、もうそろそろ戻るころだろ? そう考えると、ちょっと──寂しくなっちゃって」
頬を少し赤くして、レンは苦笑した。皆が現実へと戻れば、彼はまた、心の世界に1人きりなのだ。それを思い出すと、リンも少し寂しくなった。
「レン……」
「ごめんなみんな、変な空気にしちゃってさ。俺のことは本当に、気にしなくていいから。また、リンには会えるんだし」
「そういえば、レンには体がなかったのよね……。ずっと、ここに1人でいるの?」
「うん、まぁ。夜はリンが来てくれるけど、こんなにたくさんの友達と話したの、初めてなんだ」
なんとかごまかそうと頬を掻くレンを、おもむろにルカが抱きしめる。突然柔らかな胸に顔を包まれ、少年は一瞬だけ抵抗したが、すぐにすとんと両手を落とした。
「かわいそうな子。たった1人で、寂しいでしょうに」
「……でも、それはリンも同じだったから。それに今は、リンがいる。ルカだって、同じじゃないか。ヤンって人、1週間に1回しか帰ってこないんだろ?」
「そうね……。でも、だからこそ、寂しさを隠そうとするあなたを放っておけないの。私にはこうして、抱きしめてあげることしかできないけれど」
「いやー、十分役得だと思うけどね。アンドロイドだからあれだけど、人間なら泣いて喜びそうな絵よね、これ」
ニヤニヤと茶化すように言ったのは、メイコだった。皆が優しく慰めてしまっては、レンの男としてのプライドを傷つけかねない。リンには分からなかったが、彼女なりの気配りだった。
メイコの冗談を汲んだカイトが、おどけたように肩をすくめる。
「こんな綺麗な人に抱きしめられて、いいねぇレン。僕も寂しがってみればいいのかな?」
「あらカイト。あんた意外とスケベ? 仕方ないわね、お姉さんが抱きしめてあげるわ」
「……やっぱいい。メイコならいいや」
「へぇー、そう。そんな言われ方しちゃったら、余計やらずにはいられないわ」
絡み付いてくるメイコを、カイトが無表情に突き放す。その行動の意図が理解できず、リンは本当にカイトをスケベな人なのだと思い始めていた。しかし、ミクが苦笑いでその様子を見守っているのを見て、冗談なのだと分かった。
抱きしめられていたレンが、ルカの腕をやんわりとどけた。リンと同じ翡翠の瞳は、強く輝いている。
「ルカ、ありがと。でももう大丈夫」
「レン……」
「ほら、こんなんだけど、兄さんと姉さんもいるしさ」
「だァれがこんなんですってー?」
カイトの青いマフラーを引っ張りながら、メイコがすごむような視線をレンに叩きつけた。もっとも、次の瞬間には笑いながらカイトを解放していたが。
ちらりとこちらに目を向けてから、レンは続ける。
「ミクとリンもいるし……、ルカもいるから。こんなに家族がいるんだ、寂しいなんて言えないよ」
「……そう。強いのね、レンは」
「みんなのおかげだよ。……でも、ちょっとだけわがままが言えるなら──」
レンがこちらを向いた。視線を交わらせてきたレンの顔は、いつもどおりの彼だった。
「リンに、頼みがあるんだ」
「うん、なに?」
「美鈴さんに、伝言を頼みたい。できるかな?」
「いいよ。なんて言うの?」
一拍の間を置いてから、覚悟を決めたかのように、レンは言い切った。
「俺、体が欲しい。カイトたちのボディと同じでもいいから、体をください。……そう伝えて」
「……!」
「寂しいとか、そういうのじゃないんだ。……それも少し、あるけどさ。でも、それよりも俺、思ったんだ。
リンが今までそうしてきたように、美鈴さんの研究にもっと協力しなきゃって。そしたら、結果的にもっとみんなの力になれるだろ? 『KOKORO』のことでもそうだし、俺はシステムでいた時間が長いから、リン以上に『RIN』のボディやプログラムについて詳しい」
「で、でもいいの? 私と同じタイプの体じゃなくて」
「……うん。いつかその体になるためにも、ミクたちにもそうなってもらうためにもさ、俺の力は必要だと思うから」
リンは迷った。片割れの少年が言いたいことは分かる。だが、レンはリンと同じ、クリプトン博士の作ったアンドロイドなのだ。自分と同じボディじゃないということは、父との接点が遠くなってしまうのではないか。彼がそう考えて思いつめてしまうことが、心配だった。
こちらの気持ちを察してか、レンが笑った。
「リンはボディもシステムも、ほとんどクリプトン博士が作ったやつだろ? 逆に、ミクたちは大体が美鈴博士の作ったものだ。俺はその間。2人の天才に作られるんだ、なんだかすごい感じしない?」
「そういうことなら、私は『KOKORO』以外、秋山美鈴という方にもクリプトンという方にも無縁ね。考え方を変えれば、世界中のKAMALOIDに心があることを証明したことになる。さしずめ、新たな可能性の道しるべといったところかしら。
レンはシステムとしてのアンドロイドの、私は笑顔売りや抱き人形の希望となる、ということね。あら、私とレンは意外と似たもの同士なのではなくて?」
相変わらず妖しく美しい微笑みで、ルカがレンの背後から、その両肩に手を置いた。
「あはは、そうかも。ねぇリン、伝言、頼めるかな?」
話を聞いていて、とっくに了解の返事をした気になっていたリンは慌てて、
「うぇ、うん! わかった、伝えておくよ」
「ありがとう。楽しみにしてる」
顔をほころばせたレンに、リンも似たような表情で頷いた。
一連のやり取りを眺めていたカイトが、兄のような穏やかな顔で、レンの頭を撫でる。なぜかリンは、羨ましいなと思った。
「体ができたら、たくさん話して、遊ぼう。待っているよ」
「うん。約束だぜ、カイト」
2人が握手を交わした。その様子を眺めていたルカが、胸の前で手を組んだ。
「あぁ……。素敵だわ、心の繋がり。私もヤンと、心で繋がれるかしら」
「大丈夫ですよ。ヤンさん、優しいですから。信じてあげてください」
「そうよね、リン。信じているわ。あの人のことも、あなたの言葉も。ヤンはすごく優しくて、素敵な人だもの。天使のように微笑んで、また抱きしめてくれるわ。出会った時のように」
妖艶さが消え、まるで乙女のようにルカが呟く。それをメイコが、引きつった笑顔で眺めていた。天使の微笑みを浮かべてルカを抱きしめるヤンを想像してしまったのだろう。リンはその想像を思考から排除することに成功していた。
ルカの世界が白みを帯びる。窓の外を見やれば、なにものにも汚されない天使の翼よりも白い朝日が差し込んできていた。
世界の変質は、閉じこもっていた世界の主が心を開き、目覚める時に起こる。メイコに心を届けたときに、リンはそれを知った。
今、ルカは真に心を開いたのだろう。リンたち家族だけでなく、世界の全てに。差し込む朝日は次第に強まり、皆を包み込む。
「帰りましょう、ルカさん。きっと、ヤンさんが待ちくたびれてますよ」
海色のツインテールを揺らして、ミクがルカの手を引いた。メイコとよりも外見の年齢が近いからか、それはよりいっそう、姉妹のように見える。それこそ天使のように微笑して、ルカは頷いた。
「えぇ……。みんな、本当にありがとう。私に心を届けてくれて……」
ミクに手を引かれて、ルカは純白の光に溶けていった。片割れを見れば、カイトとメイコを見送ったところのようだった。
振り向いたレンがにっこりとして、
「じゃあ、またな」
「いろいろありがとうね、レン。またね」
少年が、光の粒子となって、消えた。その一粒を手を伸ばしながら、
「伝言、ちゃんと伝えるからね」
呟きが終わるころには、リン自身も天使の白に吸い込まれていった。