ココロ~another future~   作:ラミトン

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第13話 心の霧

 心から希望を奪われた人々に光明をもたらすべく作られた、歌を届けるアンドロイド──VOCALOID。彼らには今、例外なく『心』がある。

 彼らが手に入れた『心』は、まさしく人の作り出した奇跡そのものであった。あくまで『人のように』振舞い、歌っていただけにすぎなかった彼らが、いまや1つの人格として、人と接し、歌い、泣き、怒り、そして笑っている。

 彼らはもはや、『ヒト』なのだ。体は作り物で、そこに宿っているものが生物学的な『命』でなくとも。

 そうなってくると──これは秋山美鈴にとって、そうなる前から考えていたことであるが──、彼らには当然、ヒトとして生きる権利、すなわち人権が発生するはずだ。例え世界がそれを認めず、家族とも呼べる彼らVOCALOIDを物扱いしようとも、美鈴はその権利を意地でも守るつもりであった。

 などと深く思考を掘り下げてみても、結局のところは口にも出てこない言い訳である。狭いアパートで対面に座る、桃色の長髪を掻き揚げている美女に、強く出れないでいる美鈴は、同席する者にばれない程度に溜息をついた。

 「なぁ、ルカ」

 「嫌よ」

 華奢な肩に手を乗せ、なだめるように彼女の恋人であるヤンが呼びかけるが、彼女はその先を待たずに即答した。美鈴が連れてきたミクも、なんとか説得を試みてくれている。

 「ルカさん、歌うのって楽しいんですよ」

 「そういう問題じゃないわ」

 ルカが心を得てから、3日。ヤンのアパートで暮らし始めたルカの元に、美鈴は連日訪れていた。理由は簡単で、彼女をVOCALOIDとしてデビューさせるためだ。

 そう、理由もその先にある結果も、しごく簡単なものであるはずだったのだ。彼女が、首を横に振らなければ。

 「自分勝手よ。私はあのままでよかった。ボディだけ直せばよかったのに、心を無理矢理与えたのは美鈴さん、あなたでしょう?」

 「それは、そうだが」

 「なのに、そのお礼として私がVOCALOIDにならなければいけないなんて、おかしくなくて? 私は頼んでいないもの、心をくださいなんて」

 「ルカ、その約束は俺がしたんだよ」

 「私に相談も無しにでしょう? それが気に入らないの。確かに、心はいいものよ。ヤンと過ごせる日々は幸せ。これからこんな日々が続くなんて、天にも昇る気持ちよ。でも、その対価としてあなたの所有するVOCALOIDの一員になるつもりはないわ。 申し出を拒否する権利は、あって然るべきじゃなくって?」

 「所有権……という言い方は好きじゃないが、君の持つ自由意志は尊重するつもりだし、それはVOCALOIDになってからも同じだ。ここから通いで来てくれても構わない。私の所有物になれと言っているわけじゃないんだ。

 それに、ヤンを専属のマネージャーにするつもりだから、いつでも一緒にいられる。悪くない条件だと思うが」

 「そういう問題じゃないわ。不良品の私を拾ってくれたヤンにも、直してくれたあなたにも感謝しているわ。でも、だからといって、あなたとヤンが交わした交換条件に巻き込まれてやる義理なんてないって言ってるのよ。

 もう一度言うわ。私はVOCALOIDにはならない」

 「あぁ、ルカ。君がそんなにVOCALOIDを毛嫌いする理由はなんだ?」

 「……嫌ってるわけじゃないわ。ただ……」

 「ただ?」

 ルカが顔を伏せた。表情は見て取れないが、決して穏やかな心情ではないことを、その場にいる全員が悟る。

 見かねたヤンが、ルカの頭を優しく撫でながら、申し訳なさそうにこちらへと頭を下げた。

 「なぁ美鈴。悪いけど、今日は帰ってくれねぇか」

 「……平行線だしな。仕方ない、気が変わってくれるのを期待しているさ」

 「……無理よ」

 吐き捨てたルカの言葉に、ミクが何かを言おうとした。だが、美鈴が遮る。彼女の『無理』には、何か深い意味がある。美鈴の勘がそう言っていた。

 「ルカ、いい。もういいから、休もう。……美鈴、本当にごめんな」

 「いいや、彼女の言い分も正しいさ。次はもっといい条件を持ってこないとな」

 俯いたまま顔を上げないルカを必死で慰めているヤンに、美鈴は背中を向けてそう告げた。煙草に火をつけて、ヤンの部屋を出る。

 エアフィルターの上にある空は曇っていたが、まだ日は高い時間だ。ポケットにある車のキーをいじりながら、買い物でもしていくかと考えていると、

 「うーん、嫌われちゃってるのかな?」

 前を歩いていたミクが呟いた。腰の後ろで手を組んで、彼女の背中にはどこか寂しげな雰囲気が漂っていた。

 吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、美鈴は肩をすくめる。

 「そういうわけじゃないさ。彼女なりの事情があって、VOCALOIDになりたくないと言っているんだろう。ミクや皆が嫌われる理由は、何もないはずだからな」

 「そうだといいんですけど……。VOCALOIDになりたくないって、あそこまで強く言われちゃったら、なんだか寂しいです」

 「VOCALOIDである君からしたら、そうだろうな。開発者である私にとっても、あの反応は正直こたえるよ。

 ……しかし、どうしたものかな。ビリー会長から指定されている納期まで、あと二週間しかない。レンのボディも作ってやらなきゃならないからな」

 いつものエアカーに乗り込んで、エンジンをかける。独特の浮遊感に包まれながら、ミクがシートベルトを締めた。エアカーに限り、シートベルトの着用は条例で定められているわけではないのだが、リンとミクはしっかりとシートベルトをする癖があるようだ。

 「レンのボディは、作るのに時間がかかるんですか?」

 「いいや、立川が作業を始めてくれているから、あと2日もかからんだろう。フェイスも、心の世界で見たレンの顔をリンが詳細に記憶して似顔絵を描いてくれたから、問題ない」

 「似顔絵で、作れるんですか?」

 ミクの質問は、とても真っ当なものに聞こえた。人間の顔をリアルに作り上げるのだから、似顔絵を参考にしても、やはり想像で補う必要が出てくるはずだ。

 しかし、美鈴は笑って答えた。

 「おいおい、リンもアンドロイドだぞ。正面だけでなく、彼女が見たありとあらゆる角度のレンを正確に描写できるんだ。模写するという点においては、リンやアンドロイドの右に出る芸術家はいないだろうよ。もっとも、模写以上の何かを書き出すのが、画家というものらしいがね」

 「じゃあ、私たちが心の世界であったレンが、そのままこっちにくるんですか?」

 「そうなるよう、努力しているよ」

 煙草を車に取り付けてある灰皿にねじ込んで、美鈴は少しずつブレーキを踏み込んだ。信号が停止の赤を表示している。

 なんとなく空を見上げて、美鈴は考えた。ルカがVOCALOIDを拒否する理由だ。あの言いようや態度は、拒絶という表現のほうが近いかもしれない。だが、なぜ? 

 察しはついている。だが、予想が当たっていたとして、自分が説得できることではないのかもしれない。自分や、今VOCALOIDとして活躍しているミク達では、ルカは言葉に耳を貸さない可能性が高い。

 (私たちでは、無理か)

 青信号。車を発進させ、運転に集中力を使いながらも、思考を続けた。

 自分やVOCALOIDが説得しても、ルカは耳を貸さない。恐らくそれは、他の家族でも同じことだろう。彼女の恋人たるヤンの言葉すら、拒絶しているのだから。

 緩いカーブを曲がる。スピードが出ているためか、ミクが二つに結った長いアクア色の髪を抑えている。

 (同じアンドロイドであったミクにすら、あれだ。昨日メイコを連れてきた時も、酷かったが……)

 説得2日目、メイコを同伴させた美鈴だったが、今日とほぼ同じ問答が繰り返され、最終的にメイコがルカの胸倉を掴んで、美鈴とヤンはそれを必死に止めたのだ。メイコの直情的な行動も困ったものだが、彼女は必死に歌うことの楽しさや素晴らしさを伝えようとしていた。ルカはクールだが、そこまで冷たい心の持ち主ではない。気持ちは届いているだろうに、なぜ彼女は拒否したのだろうか。

 (メイコもミクも……VOCALOIDだ。私はその開発者で、ヤンはルカをVOCALOIDにするという交換条件を飲んだ。つまり、あの場でした会話で、彼女にとっての味方はいなかったということだな)

 ふと、我に返る。運転はしっかりこなしていたし、道も間違っていない。だが、隣にミクが乗っている。退屈していないかと心配になったが、彼女は流れる景色を楽しんでいるようだ。これがリンだったら文句の1つも言われていただろうが、今日は心配なく思考に没入できるらしい。ありがたいことだと思った。

 車を走らせながら煙草に火をつけ、思考を戻す。彼女にとっての味方。あるいは、そうなりうる存在。つまり──

 (彼女と同じ……VOCALOID以外の用途で生まれたアンドロイド。その存在がVOCALOIDになり、ルカに歌うことを勧めてくれれば、あるいは……)

 「そう、うまくいくか?」

 思わず声に出ていた。ミクがこちらを向いて、首をかしげている。肩をすくめて、

 「いや、なんでもない」

 一瞬きょとんとしていたが、彼女はすぐにまた昼下がりの街を眺め始めた。時折ミクに手を振る者もいて、ミクはそれに笑顔で手を振り返していた。今までにはなかった人とアンドロイドの交流に、目を細める。

 やはり、ルカにも知ってほしい。歌うことで広がる輪があること。歌えない自分も、聞きにきている観客も、まるで一緒に歌っているような気になることを。

 そのためには、やはり。

 (彼女たちしか、いない)

 今まで何度も無理なお願いをしてきたが、今回はその中でも最たるものだろう。だが、可能性があるとしたら、もはや彼女らしか残っていないと美鈴は本気で思うのだ。

 黄色い髪をした、ひまわりのような笑顔がよく似合う、奇跡の少女。その片割れとして、少女の中に生き続けている少年。

 瓜二つの顔立ちで、同胞たちの心を映す、それはまるで鏡のような、2人のアンドロイド。

 「それしかないな」

 「……? 美鈴さん、独り言多いですね。考え事ですか?」

 「ん、あぁ」

 到着した目的地、大きな洋服屋の駐車場に車を止め、キーを抜いてから、美鈴は笑った。

 「ちょっとな。それよりミク」

 「はい」

 シートベルトを外しながら、ミクが首を傾げる。車のキーを指でくるくる遊びながら、美鈴はウィンクした。

 「鏡音って名前……どう思う?」

 

 

 

 

 「くしゅっ!」

 一瞬前ならば、口に含んでいたオレンジジュースを盛大に噴出していただろう。くしゃみをしたリンは、安堵を一瞬、すぐに怪訝な顔をした。

 「くしゃみ……?」

 自分がたった今した行動に、リンは眉を寄せる。量産型アンドロイドや美鈴の作るVOCALOIDとは違う、規格外の設計がされているリンだ。鼻に搭載されている湿度や温度などのセンサーも例外ではなく、他のアンドロイドの比ではない。だが、くしゃみは生まれて初めてだ。

 「風邪、じゃないですわよね」

 「アンドロイドだから、そりゃないでしょ」

 同席していたマリーとメイコが、口々に言う。巻き毛の少女の前にはリンと同じオレンジジュースが、メイコの前にはこの場所の主が作ってくれたテキーラ・サンライズが置かれている。

 今日はマリーの提案で、リンからすればずいぶんなお洒落をしてきている。リンは薄いピンクのティアードドレスだ。頭にはいつものリボン。マリーは黒いベロアのワンピース。パニエでスカートが広がっていて、童話に出てくるお姫様のようだ。

 まるで人形のような印象を受ける少女たちだが、メイコは2人とは全く違う印象を与えるであろう、真紅のショートドレスである。抜群のプロポーションを持つ彼女だ、似合わないわけがなかった。

 「誰かが噂をしているのかな?」

 グラスを磨きながら、主である将盆がいつもの落ち着いた声で言った。後ろからは、昼間だというのにテーブル席で呑んでいるブーンとドクオの笑い声も聞こえる。

 まだ少しむずむずする鼻をこすって、リンは照れ隠しにオレンジジュースを飲んだ。

 今日彼女達がここに来ているのは、立川がレンのボディ作成にかかっているからだ。男性用のボディを作っている間は、女子禁制ということらしい。カイトのボディを新型に交換したときも、立川が1人で作業していた。

 ブーンとドクオは、3人がバーボンハウスに訪れた時には、すでに出来上がっていた。どうも、午前中から呑んでいるらしい。メイコを見るなり2人は立ち上がり、あれだこれだと質問を浴びせていた。もっとも、ドクオの質問は9割がミクに関することだったが。

 「噂なんて……されるようなことしてないですよ」

 「もしかしてリン、殿方に恋をされているのではありませんこと? あぁ、遠くから見つめるしかない片思い、彼はきっと耐えられなくて、誰かに切ない心を打ち明け、相談しているんですわ!」

 「まーた始まった……。マリー、私に同い年くらいの男の子はいないよぅ」

 「あら、でも年上の殿方ならいっぱいいますわよね? ほら、ブーンさんやドクオさんと同じくらいの年齢でしたら、センタードームのスタッフにも」

 「おっおっ! それはさすがに捕まるお、リンちゃんがどんだけ可愛くても、手出したらアウトだお」

 「可愛いは正義! そうだろブーン!!」

 「おっおっおっ、気持ちはわかるけどマジで通報されるから座れお」

 強めの酒が入った酒瓶を片手に音を立てて立ち上がったドクオを、ブーンが強制的に座らせる。メイコが口元を引きつらせながら、

 「ドクオはもう捕まえといたほうがいいんじゃない? 私の防犯プログラム、作動させようか?」

 「あー、私がメイコさんの世界に行く前、なんか言ってましたよね。どんなプログラムなんですか?」

 「ん? そうね、とりあえずドクオの腕くらいなら折れる程度の力で押さえつけて、顔面に4、5発くれてやってから、両手にある緊急用スタンガンでビリっと」

 「それ、最後のだけでいいんじゃありませんこと……?」

 頬を引きつらせるマリーに、メイコは後頭部を掻きながら答えた。

 「まぁね。つーか実際それだけだし。ボコにするのは私の意志よ。可愛い妹のための正当防衛ってやつ?」

 「ド、ドクオは酔ってるだけだお、勘弁してやってくれお」

 「冗談よ。そこまで蛮人じゃないわ」

 肩をすくませて、栗色のショートカットを揺らしながら、メイコはテキーラ・サンライズを呷った。見目の美しい彼女だ。格好いい大人の女性がやると様になっているなと、リンは思った。頬杖をついて、メイコが半眼でうめく。

 「なーんか、雰囲気だけってのは損してる気がするわね。味がわかんないと、やっぱ面白くないものなのかしら」

 「食の楽しみを持てている僕達は、幸せだね」

 拭き終わったグラスを置いて、将盆が破顔する。

 「テキーラ・サンライズは、今はWCHが統治している北アメリカ大陸南部にあった国、メキシコで生まれたカクテルなんだ。熱く明るい朝日をイメージして作られた、情熱の味と色。メイコちゃんにふさわしいと思ったんだけれど」

 「ふーん。結構わかってるじゃない、将盆さん」

 グラスを揺らしながら、メイコはクスリと笑った。恐縮だね、と将盆も似たような笑みを浮かべる。そのやり取りがなんとも大人な雰囲気で、バーボンハウスにある独特の空気もあいまって、映画のワンシーンのようだ。メイコの纏う赤いショートドレスもまた、その一因であろう。

 見とれていた少女2人(と、後方の青年2人)に、メイコはじっとりと半眼を向ける。

 「なーによ」

 我に返ったリンが、あたふたと両の手を振った。慌てる必要もないのだろうが、なんだかいけないことをしてしまった気がする。

 「あぅあの、ごめんなさい、つい」

 「見とれちゃいましたの。大人の魅力ってやつですわねー」

 「ありがと。でも2人だって、絵本のお姫様みたいじゃない。リンもマリーも、十分過ぎるくらい可愛いわよ?」

 「同感だね。さぁ、お姫様たちにプレゼントだ。今日のおやつ、甘酸っぱいベリータルトだよ」

 小皿を2つ、将盆が差し出す。ブルーベリーやイチゴなどが乗った、食べるのがもったいなくなるほど綺麗なタルトに、リンは目を輝かせた。

 「可愛いー!」

 「これ、ショボンおじさまが作ったんですの?」

 「そうだよ、喜んでもらえてなにより」

 フォークを刺すのが躊躇われたが、小さく一口切り取って、リンは口にタルトを運んだ。途端に爽やかな酸味と甘味が広がって、自然と顔がほころぶ。隣のマリーも、似たような顔でタルトを頬張っていた。

 にこやかな笑顔で少女を見守る将盆に、テーブルからブーンが酒瓶を呷りつつ、

 「ずりぃお、ショボンの癖にモテモテだお! その超人スキル、1つくらいよこせお」

 「料理の腕は努力で勝ち取ったよ。君も今から勉強するといい」

 「面倒だお。男は台所に立つべきじゃないんだお」

 「ブーン……。今時そんな考えじゃ、彼女に逃げられるわよ?」

 呆れたように言って、メイコは椅子の上の体をブーンへと向ける。その後も、大人たちの間でなにやら会話が続けられていたが、ベリータルトに夢中だったリンの耳には、いまいち入ってこなかった。

 口の周りにシュガーパウダーをつけてもぐもぐやっていると、リンとは対照的に美しく食べ終わったマリーが、ナプキンで口を拭いながら視線をこちらへと向けてきた。

 「そういえば、ルカさんのデビューはいつになるんですの? なんだか、VOCALOIDになるのを嫌がってらっしゃったみたいですけれど……」

 「んっ……とねぇ。ルカしゃんっ──が、VOCALOIDになりゅって言わなきゃ」

 「あぁもう、飲み込んでから喋りなさいよ」

 美鈴がいない今、リンの保護者であるメイコが、少々乱暴に口を拭ってきた。リンからしてみればわずかな時間しか生きていないメイコだが、いまや完全に彼女の姉である。

 もぞもぞとナプキンを押し当てられて喋れないリンの変わりに、メイコが口を開いた。

 「心がある以上本人の承諾がないと、VOCALOIDにはさせられないんだってさー。私からしたら、なんであそこまで拒否するのかわかんないけど、ルカが嫌だって言う限り、デビューは先送りみたいよ。

 とはいっても、会長から指定された納期もあるし。美鈴は参ってるみたいね。残された時間は、あと二週間」

 「その間にルカさんがやるって言わなかったら、どうなるんですか?」

 ナプキンの圧迫から解放されたリンが、オレンジジュースを一口飲んでメイコを見上げた。一度唸ってから、姉は眉を寄せる。

 「どうだかねー。会長は仕事の鬼だから、妥協してくれないだろうしねぇ。ヤンが専属マネージャーになるんだから、ルカにとっては悪い話じゃないと思うんだけどな」

 「ヤンさん、人が変わってしまいましたわよねぇ」

 カウンターに頬杖をついて、マリーが苦笑いを浮かべる。これには、メイコとリンも似たような顔で頷いた。

 ルカが心を得てからというもの、彼女の前ではヤンが別人のようになるのだ。立川曰く、あれもヤンの一面であるから受け入れてやれ、ということだったが。

 「愛を知るアンドロイド……か。他の皆とはまた違う方向性の心を持っているね、ルカちゃんという子は。次に恋をするのは、いったい誰なんだろうね」

 マリーとリンのオレンジジュースを足しながら、将盆。頬に手を当てたマリーが期待を込めた視線を送ってきたが、リンはそれを無視した。

 「そういえば、ルカさん用の楽曲はもうできてるんでしたっけ?」

 「うん、そうみたいよ。トラボルタ君の力作みたいね。他にも何曲かデモが送られてきてるけど、ミク向けだったかな。私とカイトはお預けね」

 肩をすくめるメイコ。彼女はやはりロックにしか興味がないようで、以前トラボルタが作ってきたバラードを、容赦なくミクに押し付けていたのをリンは鮮明に覚えていた。曲自体は素晴らしいものだったので、ミクは喜んでいたが。

 「メイコさんは、VOCALOIDになるのが嫌だって思ったりしなかったのですか?」

 巻き毛の少女に聞かれて、メイコは頬を掻いた。

 「んー……、考えたことないね。私は作られた時から生粋のVOCALOIDだからね、それが当たり前なんだよ。ルカはそうじゃなかったから、ダダこねてるんじゃないの?」

 「でも、ルカさんはVOCALOIDを知っていらっしゃったんですよね? ヤンさんからお話を聞いていたともおっしゃっていましたし……」

 「知ってる知らないの問題じゃないってことでしょ。あの子は自分でVOCALOIDになるかどうかを決めなきゃいけない。そりゃいろいろ覚悟もいるんじゃないの? ねぇリン、あんたVOCALOIDになれって言われたらどうする?」

 「……んえ?」

 ぼけっと話を聞いていたためか、突然話を振られて、リンは頓狂な声を出してしまった。といっても、よくある光景だ。気に留めていないのか、気にしないフリをしてくれたのかは分からないが、誰も反応しなかった。

 「VOCALOID……んー、それはやっぱり、難しいと思う。だって私、人前で歌ったことなんて……その、産まれた頃にちょっとしかないもん。それも、VOCALOIDのみんなみたいに舞台でってのじゃなくて、子供達と輪になって一緒にーって感じだったし」

 「あら。じゃあリンも一応歌えるんだ?」

 「声帯を使ってメロディを出す機能はありますよ。今ならそれなりに、心を込めて歌うってこともできると思います。

 ……でも、あんな大勢の前で歌うなんて、頭真っ白になっちゃう」

 「もったいないね、リンちゃんの歌声。聞いてみたかったんだが」

 心底残念そうに、将盆が言った。そちらにごめんなさいと小さく頭を下げてから、

 「歌うのは、好きなんだけどねぇ」

 頬杖をついて、呟いた。意外な言葉に、隣のマリーが目をまん丸にしている。どうしたのかと視線で問うと、彼女は丸くなった目のまま答えた。

 「リン、歌うの好きだったんですの? 歌ってるところなんて見たことありませんし、そんなイメージなかったですわ」

 「あー……、好きになったのは最近だよ? ミクちゃんたちの歌を聞いてるうちに、いいなぁーって思ってきて、自分で歌うのも楽しくなってきたの」

 「でも、聞いたことないですわ」

 「恥ずかしいじゃん、マリーたちの前じゃ歌わないよ」

 「えぇっ! 酷いですわ!」

 「じゃあ一緒に歌う? それならいいよ」

 「……えぇっ!?」

 歌うことを最上級の苦手なこととしているマリーだ。リンの出した条件に絶望的な顔をした。それを見てケラケラ笑いながら、リンは親友の頭を撫でる。

 「機会があったらねぇ」

 「あればいいのですけど……」

 溜息と一緒に言葉を吐き出して、マリーはオレンジジュースに浮かぶ氷をストローで突っつく。

 「あーあ、私も歌が上手だったらよかったのに。アンドロイドはずるいですわ」

 「いやぁー、そう言われてもなぁ……」

 「私らは仕事でやってんだから、大目に見てよ? 最高のロックをいつでも届けてあげるから」

 「それはもちろん、メイコさんたちの歌は楽しみにしていますもの。でも、なんというか……」

 マリーの視線が、ゆっくりとこちらに向けられた。そのひどい渋面を見て、リンはどうしたものかとごまかし笑いを浮かべる。

 「普段歌わないし、練習もしていないのに、音程が取れるリンはずるいですわ」

 「いや、これはほら……。クリプトン博士が歌を聞きたいからつけた機能で」

 頬をかきながらの返答だったが、嘘を言ったわけではない。リンの歌唱機能は、『KOKORO』がなかった頃、クリプトン博士が自分の歌を聞きたいからとつけてくれたのだ。決められた譜面どおりに歌うだけで、感情の1つもなかったろうに、彼はよくリンに歌わせては、笑顔でそれを眺めていた。

 (楽しかったのかな?)

 クリプトン博士の笑顔を信じるならば、彼は心から楽しんでくれていたのだろう。そう納得して、それならよかったと胸中で頷いた。リンは知らないが、クリプトン博士が亡くした娘と瓜二つの彼女が歌う姿を、歌が好きだった娘の姿と重ねて見ていたのだろう。

 「……誰かのために歌うのって、どうやるんだろう」

 「?」

 ぽつりとこぼれた一言に、マリーが小首を傾げる。聞こえない程度に呟いたはずだったのだが、聞こえていたらしい。リンは慌てて苦笑を浮かべた。

 「あはは……いやぁ。私、歌はいろいろ知ってるし、歌うこともできるけど……。その、メイコさんたちみたいに、誰かを元気付けるために歌うって、どうやるんだろうなぁって思って」

 「あら。私達の仕事に興味あるんだ?」

 「そりゃあ……ちょっとは。歌だけで、あれだけの人を元気にしてあげられるメイコさん達は、本当にすごいと思います。同じ歌なのに、きっと私の歌じゃみんな笑ってくれないと思うの。

 メイコさんは、どうやって歌ってるんですか?」

 グラスを置いて、メイコはしばし思考にふけった。そんなに難しい質問だっただろうかと、リンは少し申し訳ない気持ちになる。

 数十秒の間を置いて、メイコは言った。

 「……ミクとカイトはどうかしらないけど、私は歌が好きなのよ。好きで好きで、歌がないと生きていけないくらい。だから私もリンと同じ、自分が楽しいから歌っているの。

 ファンのみんなが熱くなってくれるのはきっと、トラボルタ君が作ってくれる歌のおかげ。私は大したことしてないわ、歌ってるのが幸せ、聞いてくれているのも幸せ。それだけよ」

 「うーん……そんなもんなのかなぁ」

 疑問はモヤモヤと消えなかったが、これ以上の追求は野暮かもしれない。リンは難しい顔で腕を組んで、無理矢理に納得した。

 グラスを磨いていた将盆が、リンに向かって微笑んだ。

 「プロ意識、というやつさ。リンちゃんにはまだ難しいかもしれないけれどね」

 「……プロ……意識?」

 「そう。僕がバーボンハウスのマスターをやっているのも、僕が楽しいからだ。

 この仕事はね、性質の悪い客が相手だと、色々と痛い思いをすることもあるんだよ。酷いときには、そこの灰皿で殴られたこともある」

 将盆が指差した先には、2kgはあろうかという大きな陶器の灰皿があった。大の大人に殴られれば、大怪我ではすまないかもしれない。

 青くなったリンにかまわず、将盆は笑う。

 「それでも僕がバーボンハウスを続ける理由。それは、こうしてお客さんと話をするのが楽しいからなんだ。来たときは暗い顔をしていても、帰るときには笑顔になっているお客を見ていると、自分にもできることがあったんだと、幸せな気分になる。そして、明日もがんばろうと思うわけだ。

 仕事は辛い。苦しいことも逃げ出したくなることもある。それでも、その中に、自分にも相手にも与えられるささやかな幸せがある。それを体で知り、心で知って、初めてプロになれるんだと僕は思っているよ」

 ようやく僕もそうなれた、と将盆は付け足した。リンからすれば、目の前の男が最近になってそうなったとは思えず、謙遜なのだろうと内心で決着をつけた。しかし、最初の疑問が多少なりと薄れた気はする。

 「なにか、掴めまして?」

 マリーが覗き込んでくるが、リンは肩をすくめて、

 「プロって人たちが、私からすごく遠い存在だってことは分かったよ」

 「あんたにも分かるときがくるわよ」

 「そうかなぁ」

 「そうよ」

 特に理由などないだろうに自信満々に断言したメイコは、テキーラ・サンライズを飲み干して、そのしぐさだけで皆の視線を奪っていく。

 時計の針は、まだ昼間を示している。彼女達のお喋りは、まだまだ終わりそうになかった。

 

 

 

 

 「心配するな、大丈夫だ」

 そう言われても。カイトはばれない程度の大きさで溜息をつき、心中で呟いた。

 何杯目か分からないコーヒーを運んで、立川に労いの言葉をかけた。返ってきた返答が先ほどのものだ。

 レンのボディ製作は、立川が1人で行っている。フェイスは美鈴の担当だが、男の体を模すのだ。まさか彼女にやらせるわけにはいくまい。

 カイトが使っていた初期のボディは、外部発注の量産型だったそうだ。コアや細かい部分に修正が加えられたものの、さすがに成人男性型のボディを作ることはなかったらしい。最近変えた新型ボディも、立川が作ってくれたものである。

 とはいえ、机についてから8時間。食事もなしに作業を続けている。時折別の動きを見せたかと思えば、冷め切ったコーヒーを一気に飲み干すくらいだ。

 (今日一日じゃ終わらないと思うんだけれど……)

 自分が使っているボディより小さいとはいえ、手間はそう変わらない。完成まで早くて2日といったところだが、立川は今日中に終わらせんとばかりに、一心不乱に作業を続けている。

 と、彼の手がコーヒーに伸びた。数秒のブレイクタイムだろう。その隙を逃さず、カイトは立川に声をかける。

 「立川さん、どうしてそんなに急いでるんです? 急ぎの仕事じゃないでしょう」

 「俺のほうが先だからだ」

 「先、ですか」

 意味が分からずきょとんとしていると、立川はまだ熱かったコーヒーに顔をしかめて、吐き捨てた。

 「作業を始めたのは俺が先だ。後から始めた秋山が先に作業を終えるなど、耐えられん」

 飲みきれなかったコーヒーを置いて、彼は再び作業に戻ってしまった。なんの勝負だと呆れすらも覚えたカイトだったが、科学者には変人が多いものなのだと、自分に言い聞かせるのだった。

 あとで無理にでも食事を取らせようと考えていると、来訪者を告げるベルが研究所に響き渡った。当然のように、カイトはそれを出迎えに行く。

 ドアを開けると、視線の先で眼鏡をかけた好青年が笑っていた。見知った顔だ。自然と、名前が口から出る。

 「トラボルタじゃないか」

 「やぁ、カイト」

 アンドロイドであるカイトが、人間の中で友人と呼べる数少ない男が、トラボルタだった。作詞作曲編曲をこなし、VOCALOIDのプロデューサーも勤める彼には、カイトも当然信頼を置いている。

 2人は自覚していないだろうが、何より彼らは雰囲気がよく似ているのだ。心を得てから、一言二言会話をしただけで打ち解けていたのは、言うまでも無い。

 ともかく、トラボルタを招き入れて、彼を最近大きくなった食卓へと案内する。先ほど立川に出したコーヒーを温めながら、カイトは言った。

 「博士達なら出かけているんだ。今日はレンのボディを作っていてね、女性陣はみんな外出ということになってしまってね」

 「それで今日は静かなんだね」

 「もしかして、Dr.秋山に用事だったかい?」

 出されたコーヒーの香りを楽しんでいたトラボルタが、カイトの問いに顔を上げた。眉をハの字にして、笑っている。

 「いや、気分転換にね。いい曲が浮かびそうなんだけれど、なかなか形にできなくて」

 「それで、研究所に? うちじゃ仕事から離れられないような気がするけれど」

 なにせ、VOCALOIDの拠点とも言うべき場所だ。少しでもリフレッシュしたいのなら、ここは不適切に思えた。しかし、トラボルタは苦笑を浮かべる。

 「逃げっぱなしというわけにもいかないよ。これで食べさせてもらっているんだから」

 「なるほど」

 友人との他愛のない会話は、実に居心地がよかった。なるほど、リンがマリーと遊ぶことに夢中になるのも分かる気がする。きっと、メイコやミクにもいい友人が見つかるだろう。あるいは、マリーやトラボルタが、すでにそうなのかもしれない。

 と、友人の視線が立川の手元へと移った。組み立てられていくレンのボディだ。

 「あれは……新型かい?」

 「あぁ、VOCALOIDじゃないけれど。リンの中にあるもう1つのアンドロイドプログラムを、あのボディに入れるんだって。リンの双子、という感じなのかな? なにやら複雑で、そうとも呼べないみたいだけど、きっと似たようなものだと思うよ」

 「へぇ、リンちゃんに双子の兄弟がいたとは」

 「彼女曰く、双子よりも『鏡』のほうがしっくりくると言っていたよ。鏡に映ったもう1人の自分、といったほうがいいらしい。

 レンは男の子だったから、やっぱり双子のほうが僕はいいと思うんだけど」

 「会ったことが?」

 聞かれ、カイトは頷く。そろそろ立川のコーヒーが無くなるころだ。新しく淹れ直しながら、答えた。

 「心の世界でね。いい子だったよ、リンとよく似ていて。ただ、性格はそっくりそのままというわけではなかったけれど」

 「鏡に映った自分は、左右が逆になる。きっとリンちゃんとレンという子もそういうものなんじゃないかな?」

 「かもしれない。僕とメイコにも、似たようなところがあるからね。あるいは全てのアンドロイドは、お互いの映し身だったりするのかな?」

 「あぁ、人にも言えることさ。子供が親に似るように、弟子が師に似るように。皆が誰かを見て、その鏡像として振舞っている」

 「面白いね。自分の前に誰かが立てば、それらは全ては鏡像、か。僕たちもそうなのかな?」

 「そうであったら嬉しい」

 「きっと、そうなのだろうね」

 「詩的な会話を叩き切って悪いが」

 価値観の近いカイトとトラボルタが会話に夢中になっていると、ずいと身を乗り出した白衣の男が視線を遮った。仏頂面の立川である。

 驚いて、カイトは思わず声を上げていた。

 「うわっ! どうしたんですか」

 「さっきから呼んでいたんだが、ことごとく無視されてな。こうするほか無かった」

 「そうなんですか、気づかなかった。すみません」

 「お邪魔してます」

 「……あぁ」

 言葉少なに返事をして、立川は空のカップをテーブルに置く。意図を察してコーヒーを注ぐと、彼はカイトの予想を裏切って、テーブルの椅子に座った。

 「……? 休憩ですか?」

 「あぁ。話し声が聞こえてな、意識がそれた」

 「それは……申し訳ないことをしました」

 トラボルタが頭を下げる。すると、立川は居心地が悪そうに身を固めて、元から悪い目つきをさらに悪くした。

 「構わん、あの程度ならどうということない。いつもはもっとうるさい」

 「じゃあ、どうして?」

 「集中が切れたら、腹が減った」

 思わず笑いが漏れた。トラボルタも似たようなもので、少しだけ声を上げて笑っている。 ばつの悪そうな立川に、カイトは頷いた。

 「簡単なものですけど、すぐ用意します」

 キッチンに向かい、冷凍庫を漁る。味覚がないので、手料理というわけにはいかないのだ。温めるだけなら、カイトにもできた。スイッチを押して2秒で解凍が終わる。あっという間にナポリタンスパゲティが完成した。

 皿に盛り付けて、立川の前に置く。彼は一言、すまんなと言うと、もくもくとスパゲティを征服していった。

 「あぁ、そうか。カイトには味覚がないんだったね」

 頬杖をついていたトラボルタが、思い出したと手を打った。それに頷いて、

 「リンが特別なのさ。僕たちアンドロイドには、無くてしかるべきだと思っている」

 「それは少し、卑屈に聞こえるなぁ。リンにできることが、どうして君達にできないんだい? 秋山さんは君達にも同じように味を知ってもらいたいと思っているみたいだよ」

 「分かっているさ。でも、僕はアンドロイドなんだ。超えてはならない一線が、きっとあると思う」

 「うーん……。飛躍しすぎじゃないかな。人間だって、突き詰めればパーツが複雑なロボットみたいなものだ。有機パーツを使っている君達とは、有機物か無機物かの違いすらあやふやじゃないか。

 人間である僕達が複雑すぎるだけで、君達が卑下されることは間違っているよ」

 「ありがとう、トラボルタ。でも僕らは、人に作られた『道具』なんだよ」

 「……君はどうにも考えすぎる。作られたという意味においても、僕らは同じだ。どんな過程があれど、人体だって作られた物に過ぎない。そして、使役する者が上にいれば、人は道具にだってなりえる」

 「機械と人間が一緒くたにされれば、きっといろいろな争いが起きる。だからDr.秋山は、僕達を不用意に出歩かせないし、『KOKORO』を公表しないんだ。

 トラボルタ、君はいい友人だけれど、僕はロボットなんだ。人間じゃない。そのことは肝に銘じておいてくれ」

 「……おい」

 横から入った冷たい声に、2人は同時に振り向く。皿を空にした立川が、口元を拭っていた。

 「お前達は普段から、そんな歯の浮くような話し方をしているのか? 聞いているこっちが恥ずかしくなる」

 「そう……でしょうか」

 意識してやっているわけではないのだろう、トラボルタが首をかしげた。それに鼻を鳴らして、

 「カイト」

 「はい」

 「お前は馬鹿か」

 容赦のない一言に、カイトは思わず肩を強張らせた。立川の冷たい視線は、いつもと変わらないものなのだが。

 「味覚がないから人間ではないなどと言ってしまったら、全国の味覚障害者に袋叩きにされるぞ。流行自殺の原因になったストレスが蔓延しているんだ、精神性の味覚障害を持っている人間はかなり多い。それにな、ヤンは何を食ってもうまいと言うぞ。あれはもう味覚がないのと同じだ。

 それから、超えてはならない一線、とかなんとか言っていたな? 馬鹿者、そんなものはこの世にない。それは臆病者の言い訳にすぎん。

 いいか、それならそもそも『KOKORO』を作ったDr.クリプトンはどうなる。世界で初めて本格的な人型アンドロイドを作ったのも彼だ。お前は彼が常識のラインを超えていると思うのか?」

 「いや、それは」

 「それだけではない。VOCALOIDに高性能擬似感情プログラムを詰んだ秋山は? 集団自殺を止めるためにアンドロイドを作った者は? その原因となる戦争を引き起こした者は? 

 もっと遡れば、1969年7月20日、月に降り立ったアポロ11号とその関係者はどうなる。お前と彼らの違いはなんだ」

 「違い──僕は、アンドロイドで、彼らは人間で」

 「……」

 トラボルタは何も言わなかった。立川の言いたいことは分かっているようだったが、カイトは分からず、狼狽してしまう。

 「違う、そこは関係ない。人間とアンドロイドの差など、さっきトラボルタが言った程度のものに過ぎん。お前がなぜそこを問題視しているか分からんが、どうでもいいレベルだ。

 いいか。彼らは選択者。自ら答えを選んで進んだ者だ。恐れずに踏み込み、その先を見つけようとした勇者達だ。人か機械かなどというどうでもいい線引きに惑わされている臆病者とは違ってな」

 言い放つと、立川は皿を持って立ち上がった。キッチンに向かいながら、

 「俺は選んだ。だから、レンを作る。お前達の家族をな」

 「……!」

 まさか、彼の口からそんな台詞が出るとは。思わず、振り返っていた。その先で、立川は口元だけに笑みを浮かべていた。気のせいかとも思ったが、そうではないと心が告げている。

 「喋りすぎたな。誰かさんの癖が移ったらしい。俺は作業に戻る。皿は洗っておいてくれ」

 「──はい」

 そそくさと作業に戻ってしまった立川の後姿をしばらく眺めていたカイトだが、今もテーブルに頬杖をついているだろう友人に言った。

 「トラボルタ……僕は、迷っていたのかな」

 「君がそう思うのなら、きっとそうなんだろうね」

 「……僕は、人と近くなってもいい存在なのかな。それを望んでも、いいのかい?」

 視線を戻すと、予想通りに頬杖をついていたトラボルタが、眼鏡の奥にある目を細めていた。彼は一口コーヒーを飲み、

 「いつも思っていたんだけれどね、カイト。リンをはじめ、ミクやメイコ、心を持つアンドロイドがたくさんいる中で、一番人間臭いのは、間違いなく君だよ」

 「そ、そうかい?」

 「そうだよ。メイコはハツラツとしているし、ミクは掴み所がないけど、とても優しい。リンも明るくて、一緒にいて楽しくなる。でもね、君ほど人間らしい葛藤を持っているアンドロイドは見たことがない」

 「それは、褒めているのかい?」

 「人間らしいということが褒め言葉なら、そうなるね」

 友の言葉に、カイトは目を細める。自分が決めたと思っていた決意は、どうやら迷いにすぎなかったらしい。

 「……ありがとう、トラボルタ」

 「いや──」

 椅子から立ち、トラボルタは伸びをした。目頭に浮かんだ涙を拭って、彼は笑う。

 「礼を言うのは僕のほうさ。悩めるアンドロイド、その心の葛藤……いい歌が書けそうだ」

 悪びれもなく言うものだから、カイトはどう答えたものかと、頭を掻いた。そんなこちらの様子を見ながら、トラボルタが続ける。

 「それに、一番お礼を言わなきゃいけない相手は、立川さんじゃないかな?」

 「……あぁ、後でちゃんと。嫌がりそうだけれどね」

 「確かに」

 笑いあった後、トラボルタが玄関へと向かった。帰るのだろう。見送るため、その背についていく。

 日は傾いていたが、まだ夜まで時間がある。もう少しゆっくりしていけと勧めたが、彼は首を横に振り、

 「いい気分転換になったよ。歌も書けそうだしね」

 「それなら良かった。次に会うのは、コンサートの時になるかな?」

 「うん、そうなると思う。それじゃ」

 片手を上げて、トラボルタは去っていった。玄関から見えなくなるまで見送って、カイトは心中でもう一度、礼を述べる。

 「──さて」

 次にコーヒーを淹れる時、立川にも礼を言おう。そう決めて、カイトは研究所へと戻っていった。

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