おかしい。どうしてこんなことになっているのだ。リンは胸中で呟いた。
ここは自宅だ。秋山美鈴の研究所である。さらに細かく言えば、その1階に設けられた客間で、この家に住む人間とアンドロイドと時々遊びに来る友人達が憩う場所である。
そう、やはりこんな気分でここにいるのはおかしい。そう思ってみても、恐怖に近い緊張が解れることはなかった。
「…………」
視線の先で、桃色のロングヘアーが、空調の風の悪戯で少しだけ揺れている。対面に座るアンドロイドは、じぃっとこちらを覗き見ていた。
かれこれもう、何分経ったのか。リンにとっては1時間にも2時間にも感じられた。実際はどうか知らないが、リンに用意されたオレンジジュースがびっしょりと汗をかく程度の時間であることは分かった。
コロンと小気味のよい音を立てて、グラスの氷が動いた。それだけで、リンの肩は飛び上がりそうになってしまう。
ヤンを伴って現れたルカは、研究所の入り口を開けるや、リンを名指しで呼び出した。呆気にとられる研究者とアンドロイド達を置いて、彼女はリンの腕をぐいと引っ張り、無理矢理現在の席に座らせたのだ。
それからずっと、こうして観察されている。リンにジュースを、ルカにはメンテナンスドリンクを出してくれたヤンも、ここの家主達も一切干渉しようとしない。恨み言を吐く気にもなれず、リンはもう一度、ルカの瞳を覗き見た。
「……うぅ」
「…………」
ただただ怖い、と思った。まるで何かを探るような、それも深遠のさらに奥をまさぐるような瞳だ。
「あ、あのぅ」
「……なにかしら」
(それはこっちの台詞ですよ!)
内心で絶叫してから、リンは大きく深呼吸して、続けた。
「私に、何か話があるんですか? 突然ですから、よっぽどのことがあったんですか?」
ルカの左眉が動いた。何か気に触ったのだろうか、不快そうな表情で、ルカはギロリとこちらを睨みつけている。
「そうね……。よっぽどのことよ、リン」
「は、はぁ。それは大変ですね」
「……大変ね。ホントに大変だわ」
腕を組んで、ルカは一度目を伏せた。すぐに上げた視線はやはり、ナイフのような鋭さを持っていた。
もう耐えられない、早く用件を言ってくれ。その願いが届いたのか、ルカはいつになく冷たく、まるでリンを突き放すように言った。
「あなた、VOCALOIDになるそうね」
「え? あ、はい。そうです、レンと一緒に」
「……なぜ?」
「なぜって、それはその。……ほら、あの、あれです」
答えがすぐに出てこなくて、リンはしどろもどろになった。その様子が苛立たしかったのか、ルカは机を指でトントンと叩きながら、刺々しく言い放つ。
「大方、美鈴さんに言われたから、とかではないかしら。あの人の言うことは素直に聞くものね、あなたって」
「え、えぇと、間違っちゃいないですけど。その、別に無理矢理ってわけじゃ……。最初は嫌だったけど、決めた時は自分で決めたし」
攻撃的な口調だ。刺激しないように、それでも全てを肯定しないように、リンは慎重に言葉を選んでいく。
「んっと、確かに最初は、美鈴さんが勝手に私をVOCALOIDにするって決めちゃいましたよ。でも、嫌ならやめてもいいって、その上でお願いされたから、私の意志で歌うことにしたんです」
「……ずいぶん殊勝なことね。それほど尽くさなければいけない相手かしら、彼女は。
あぁでも、確かにリンは、美鈴さんに返しきれないほどの恩があるものね。VOCALOIDにならなければ返せないほどかどうかは、知らないけれど」
「いや、あの」
「否定しなくてもいいわ。だってそうでしょう? 聞いた話だけれど、あなたは幾世紀もの時を経て、美鈴さんに修理された。『KOKORO』プログラムを手に入れ、生みの親であるクリプトン博士の無念も晴らせた。借りは返さないと、いけないわよね」
「た、確かにそれもあります。ありますけど、何もそれだけってわけじゃ」
「あら、そうかしら。あなたの意思でVOCALOIDになる理由に、それ以上のものがあるとは思えないわ。
……それとも、あなたのことだから、美鈴さんとの絆、とでも言い出すつもりかしら。その絆とやらのために、美鈴さんに利用されることもいとわないというの?」
人間ならば、頭に血が上るという表現がそのままそうなっていただろう。ルカの言葉で、リンの心は怒りに支配された。思わず机に身を乗り出し、
「なんっ……!」
(リン!)
頭に響き渡った声が、自分を少しだけ、冷静にさせた。レンの声だ。
(落ち着いて、リン。気持ちは分かるけど)
(だって、ルカさんが!)
(分かってる、分かってるよ。リンの聴覚が、俺にも伝わった。なんでか分からないけど、今の会話は全部聞こえてた)
五感の何かがレンに伝わることは初めてであり、喜んだり驚いたりしてもよさそうだったのだが、今のリンはそれどころではなかった。最愛の家族を侮辱された怒りが、またじわじわとこみ上げてくる。目の前にいるルカの挑戦的な目を見れば、余計に。
(挑発だ。怒らせて、自分の言葉を正当化しようとしてるんだ)
(なんでそんなこと……。私とレンがVOCALOIDになるってだけなのに、なんでこんなこと言われなきゃいけないの?)
怒りが冷めてくると、今度は無性に悲しくなった。ルカは優しい人のはずだ。メイコやミクとは違った、柔らかい温もりのある女性なのだ。
そのルカが、どうしてこんな冷たい言葉をぶつけてくるのだ。リンにはもはや、溢れる感情を抑えることができなかった。ポロポロと流れてきた涙を、止められない。
「どうして……?」
呟いた言葉に、ルカは返事をしなかった。少し驚いたような顔をしていたが、その表情はすぐに引っ込み、また観察するかのような無感情な目で、こちらを見つめる。
(リン、リン。俺の話、聞けるか?)
慌てているような、片割れの声。胸中で小さく肯定すると、レンは少しだけ安堵したように、話を続けた。
(きっとルカは……裏切られたと思ってるんだ。俺とリンがVOCALOIDになるってことで)
(どうして?)
(それはたぶん、俺とリンが『VOCALOIDじゃない』心を持ったアンドロイドだったから。ルカにとって、同じ存在だったからだと思う)
ハッとして、顔を上げる。ずっとこちらを見ていただろうルカが、溜息をついた。
「反論するのかと思ったけど、まさか泣いちゃうなんてね。全部認めます、ということでいいのかしら?」
「……っ」
濡れた頬と目元をゴシゴシこすって、リンは真っ直ぐ、ルカを見据えた。
「私は、VOCALOIDになります」
「……それはさっき聞いたわ」
「いいえ。さっきの意味とは違います。この言葉の意味、ルカさんなら分かるはずです。……私達と同じ、『VOCALOIDじゃない』アンドロイドだから」
目を丸くしてから、リンの決意がこもった瞳を覗いて、少しだけ、ルカはいつもの優しい微笑みを浮かべた。
「……レン、かしら」
「……はい。そう教えてくれました」
だからリンも、少しだけ笑って、そう答えた。この話にレンも参加しているのだ。ルカがそう悟ってくれたのが、嬉しかった。
すぐに表情を戻し、毅然たる態度で、ルカはこちらを睨みつけてくる。負けじと、リンも睨み返す。
「美鈴さんに恩返し、それももちろんあります。心をくれた、家族をくれた。友達もいっぱいできました。私はみんな大好きだけど、やっぱり美鈴さんは特別。だから、お返しをしたい。
でもね、ルカさん。私がVOCALOIDになるのは、それだけじゃないの。みんなが私を『奇跡』と呼んでくれたんです。
アンドロイドに『心』を届けてくれた『奇跡』だと、ミクちゃんは言ってくれた。
真っ暗だった『心』に光を呼ぶ『奇跡』そのものだと、カイトさんは言ってくれた。
どんな時でも『心』の熱さを忘れない炎のような『奇跡』だと、メイコさんは言ってくれた。
繋がらなかった人と人の『心』を繋ぐ『奇跡』だと、マリーやショボンおじさん達、たくさんの友達が言ってくれた。
……『心』を変える『奇跡』が、私とレンにある。そう、美鈴さんが言ってくれたんです」
「……」
「私を『心』の『奇跡』と呼んでくれる、大切な人がいる。その人たちと繋がっていられる。それだけで私は幸せです。今、これ以上の幸せはありません。レンもきっと、もうすぐ体ができたら同じことを言うと思うの。
……でも、ワガママかもしれないけど、私は知りたい。もっとたくさんの心を知りたいんです。
私達の『奇跡』が本当にあるかどうかは分からない。でも、私はもっともっと、いろいろな人の『心』と触れ合いたい。そのために、繋がる為に、歌いたいんです」
「……壮大な理由だこと。でも、それなら何もVOCALOIDじゃなくてもいいと思うわ」
引くことなく、ルカは言った。それに苦笑を返し、
「そう、ですね。きっともっといろんな方法があるんだと思います。私がもっとアンドロイドっぽいことをやってて、いろいろな可能性を瞬時に模索して選び取る力があったら、そうしたかもしれません。
でも、その。今の私はおっちょこちょいだし、幾万通りの演算をしても、どれが正しいかを選ぶのが苦手だし。だから、美鈴さんが用意してくれたステージに立つのが、一番手っ取り早い気がするんですよね。
それに、歌うのって楽しいんですよ。ミクちゃん達が歌ってるのを見てて、私も時々1人で歌ってたんですけど、結構スッキリするんです。えへ、アンドロイドでも鬱憤って溜まるんですね」
「……そう」
組んだ手を解いて、ルカは真っ直ぐこちらを見つめてきた。リンは黙って、彼女の言葉を待つ。ふう、と息を吐き出してから、彼女は言った。
「あなたは、彼らが眩しくないのかしら」
「え?」
意味が分からず聞き返す。レンには今も聞こえているらしく、似たような疑問符を胸中で感じた。
「彼らよ。ミク達。ステージ上で歌い、踊り、笑う。舞台を見ている観衆達も一緒になって、笑っている。その場所に立つ自分を、あなたは想像できるのかしら?」
「そりゃ、あんまり考えられないですけど」
「……私には無理。絶対に無理なのよ。あの場所は……あまりにも眩しすぎる」
ルカの視線が、宙を泳いだ。まるで何かすがるものを探しているかのような、先ほどとは比べ物にならないほど、弱弱しい。
「そうね。あなたと同じだと思っていたけれど、違ったみたいだわ。必要とされて生み出されたあなた達なら、VOCALOIDになろうという決意もできるかもしれない。
私は無理だわ。……ただのジャンクで、1人の男を愛することしかできない、その人のためのKAMALOIDにもなれない私には……人々の希望であるVOCALOIDになんて、なれない」
「ルカさん、それは」
「いいのよリン。聞いてちょうだい」
ルカが、微笑んだ。言い争う気は、もうないようだ。聞いてほしいと、懇願された。そう感じて、それが間違っていないと確信したから、黙って頷いた。
「ありがとう。……あなたも皆も、とても優しくて暖かいわ。えぇ、リンがさっき言ったように、私もすごく幸せ。友達がいて、家族がいて、愛する人がいて。これ以上の幸せはないわ。
でも、私は……これ以上望んではいけないの。リン、あなたは知ってる? ジャンクとなったアンドロイドの行く末。知らないでしょう。ジャンクはね、本来なら分解されて、新しいアンドロイドのパーツになるの。使えるところは使わないと損だもの、当然よね。
私もそうなるはずだった。あの人が……ヤンが拾ってくれるまでは。工場長が良い人だったのか、ただの厄介払いかは知らないけれど、擬似感情プログラムが欠損した私に永続バッテリーまでつけてくれて、私はあの人のアンドロイドとして、新しい人生を送った。
それでも……私はジャンクだったのよ。必要としてくれているあの人に、何もしてあげられないジャンク品。今だって……私は……」
言葉を切って、ルカが笑った。ただ聞いていたリンは、かける言葉が見つからず、とにかく一言も聞き逃すまいとするしかなかった。
「あなた達がどれほど私を必要としてくれても、ヤンがどれほど私を愛してくれても……私はジャンクなの。壊れた人形のまま、変わることができないのよ。
心を得ても、愛を知っても、私はジャンクであることを忘れてはいけないの。壊れたアンドロイドが、希望を与える舞台に立つことは許されない。壊れた心を癒すことなんて、私がしてはいけないの」
「そんなことって……」
「勘違いしないでちょうだいね。自虐じゃないの。覚悟なのよ、これは。心を得たその時から、あの人を愛するジャンクとして生きようと決めている。いつかヤンが命尽きたら、私も共に朽ちようと決めているの」
「……!」
永続バッテリーを切るというのか。リンは心底驚いた。クリプトン博士が死去した時を思い出すと、いつも死への羨望が芽生えた。だが、それを選び取れる覚悟は生まれそうもなかった。
そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、まるでどうでもいい話題であったかのように、かぶりを振ってルカが詫びた。
「ごめんなさい、話が脱線したわね。ともかく、私はVOCALOIDにはならない。なれないの。あの人だけのために存在するアンドロイドでいるために。……あの人だけのジャンクでいたいから。
本当は、リンの話を聞けたら気持ちが変わるかもって、心のどこかで思っていたわ。でもちょっとムキになってたのかもしれない。自分からVOCALOIDになる決意を決められたあなたを妬んでいたのかもね。意地悪なことしちゃって、申し訳ないと思っているわ」
「いえ、そんな……」
(リン。ルカの気持ちは分かったよね)
突然話しかけてきたレンに少し驚いて、リンはすぐに返事をした。
(あ、うん。でも……いいのかな? 私、説得しなきゃいけないんじゃないかな?)
(……ルカは決意してるんだ。リンがVOCALOIDになるって決めたように)
(……そっか。そうだね、分かったよ。ありがとう、レン)
もう一度ルカに向き直る。すると彼女は、実に良く似合う美しい微笑を口元に浮かべ、目を細めて言った。
「あなたには、知っておいて欲しかったの。『心』で私とヤンを繋いでくれた……『奇跡』だから」
「……はい」
リンは頷いた。彼女と、彼女の覚悟に。
さてと、とルカが立ち上がった。胸のつかえが取れたように肩をすくめた。
「長いこと話しちゃってごめんなさいね。私はもう満足。あなたは?」
「私もです。ルカさんのおかげで、はっきりとVOCALOIDになる目的が見えました」
さっぱりとした気持ちで言うと、ルカは頷いて、手を差し伸べてくれた。
「ありがとう。あなたにも、レンにも」
「こちらこそ。レンもそう言ってます」
手を取って、リンは笑った。ルカの暖かい手を握ると、そこから伝わる彼女独特の優しさが伝わってくる気がした。
仲良く客室を出ると、部屋の前でソワソワしていたヤンと目が合った。彼はどこか強張った顔で、こちらとルカを交互に見やった。
2人揃ってきょとんとしていると、彼は咳払いを1つ、2人に言った。
「あー、そのなんだ。お前らさ、お互いアンドロイドなんだから、こう、ほら」
「らしくないわね、はっきり言いなさいな」
眉を吊り上げてルカが言うと、ヤンは若干たじろいでから、姿勢を正した。
「ケンカはよくねぇぞ、仲良くしろ!」
「……はい?」
思わず頓狂な声を出してしまった。すると、ヤンも似たような声で返してくる。
「え? あれ、だってさっき覗いたら、リン泣いてたじゃねぇか。ケンカしてたんだろ?」
「……なんの話かしら」
若干呆れ気味にルカが訊ねると、彼は頭を掻きながら、
「いやいや、泣いてただろ? 見間違いじゃないと思うんだけどよ」
「まぁ、泣いてましたけどね。恥ずかしいなぁ」
「ほら。ルカよ、あんまりリンをいじめるなよ。美鈴に怒られるの俺なんだからな?」
「……言いたいことは、それだけかしら? ヤン、あなたにいいことを教えてあげるわ。女が涙を流す理由は複雑なの」
すっぱりと言い切って、ルカはリンの手を引いた。
「行きましょ、リン」
「はーい」
どこへというわけでもなく、2人はヤンを置いて歩き出した。
「……女ってなぁ、わかんねぇわ……」
やけに重々しい台詞を背中に、リンとルカは目を合わせてにっこりと笑った。パズルのピースがようやく繋がった、そんな心地よさを与えてくれる笑顔だった。
ついに、ついにその時がきた。ベッドに横たわる少年の顔を見つめて、リンは緊張と期待、そして少しの不安に踊らされている。
自分の模写した絵から、ここまで完璧に作り上げられた、片割れの顔と体。レンの魂を受け入れる器が、そこにあった。
レンは今、リンの中にいない。昨晩のメンテナンスでメインコンピューターに移動させられ、今は自身の体となるボディのブレインに存在しているはずだ。あくまで、システムとして。
ディスプレイを凝視しながらキーボードを叩いていた立川が、言った。
「システム、オールグリーン。『LEN』を起動。……問題なし。秋山、いつでもいけるぞ」
「あぁ、了解した。メインコンピューターに異常無し。リン、始めようか」
促されて、無言で頷いた。作業用ベッドに横になると、この時を待ちわびていたマリーが走りよってきて、リンの手を取る。
「いよいよですわね。がんばってくださいね」
「うん、ありがとう。待っててね」
何度も頷いて、マリーは離れた。彼女の戻った場所から、ミクを始めとしたアンドロイド達が口々に言う。
「私も行きたかったけど、今回はリンに任せるからね。無事に戻ってきてね」
「あの子とあんたなら大丈夫よ。しっかりやってきなさい」
「必ず、レンと一緒に帰ってくるんだよ。僕もみんなも待っているから」
「あなたの決意はこれから始まるのよ、リン。……気をつけてね」
彼ら同族にとっても、リンとレンは特別なのだろう。その期待を一身に受けて、それでもリンは怯まずに、強く笑って答えとした。
「行ってきます」
いってらっしゃい。皆がそう言ってくれた。
ブレインにケーブルが繋がった。レンと、繋がった。作業を終えた美鈴が、顔を覗き込んでくる。
「さぁリン。いよいよだな」
「はい。いよいよ、です」
リンのおでこに、美鈴が額をくっつけた。暖かくて、ほっとする。一番大切な人の声が、すぐ傍で聞こえる。
「私は信じているよ。だから、これ以上は何も言わない」
「……はい」
「行っておいで。私はここにいるよ。どこにも行かないからな」
「はい」
短いのに十分すぎる時間が終わる。美鈴が離れて、立川に何かを指示するのが分かった。すぐにキーを叩く音が聞こえる。
「ブレイン連結完了。『KOKORO』プログラム、グリーン。……開始」
ブレインが音を立て始める。研究室は静まり返っていて、緊張がいっそう高まっていく。
ふわりと、浮遊感が包んだ。まるで心が宙に舞っているような、そんな心地だ。リンはいつしか、この感覚が好きになっていた。
美鈴と立川の声が、遠くなっていく。リンは目を閉じた。浮遊感が一層強くなる。
(今行くよ……レン)
意識が、光に昇っていった。
黄金色の花畑が、目の前に広がった。自分の心の世界。そして、レンの世界でもある。何度となく訪れたこの場所も、今日は特別だ。
視線が、レンを探す。すぐに、白衣に身を包んだ後姿を見つけた。駆け寄ろうとして、ふと違和感に気づく。それも、とても懐かしい感じ。
すぐに違和感の正体に気づいた。レンの視線の先に、もう1人の白衣がいる。今度こそ、リンはレンのもとへと駆け寄った。
「レン」
「……あぁ、リン。うん」
うつろな言葉。明らかに動揺している。はっきりと、手が震えているのが見えた。思わずレンの手を握って、
「どうしたの?」
「……俺、俺は」
レンの視線は、目の前の白衣を捉えている。決して離れず、リンもその背中に目をやった。あの人は誰なんだろう? その疑問がようやく頭に浮かぶ。
(誰? 誰って……)
知っている。リンは、そしてレンも、目の前の白衣を知っている。知らないはずがない。忘れるわけがない。この人は、この後姿は。
「うそ……」
「俺は、あなたに、俺は……」
動けなかった。足が自分のものではなくなったようだ。レンも同じなのだろう。繋いだ手は、やはり震えていた。きっと自分の手も、同じだろう。
白衣の男が、振り向いた。70に届くほどだろうか、優しい顔立ちの男だ。懐かしい気持ちが膨らんで、爆発しそうになる。気づく間もなく涙が流れた。間違いないはずなのに、信じられない。
「……2人とも、よくここまできたね」
暖かい声。懐かしい声。幻なのか、と自分に問うた。答えはない。だから、確かめたい。確かめよう。リンは知らず、その名前を口にしていた。
「クリプトン博士……」
男は、にっこりと笑った。間違いないのだ。なぜここにだとか、そういった疑問はどうでもよかった。今はただ、彼のところに。レンと一緒に、走りだしていた。
「博士! 博士……!」
「クリプトン博士、俺は、俺は……!」
「おやおや」
2人で、クリプトン博士に抱きついていた。あまりにも懐かしい、しかしはっきりと覚えている。父の、感触。
「会いたかったよぉ、お父さん……!」
「ありがとう、リン。私の可愛い愛娘。私を父と呼んでくれて」
「俺、ずっと夢見てたんだ。博士にお礼言えたらなって、ありがとう、ありがとう」
「あぁ、あぁ。私もだとも。体を作れなくてごめんよ、レン。会えてよかった。ありがとう」
2人して、声を上げて泣いた。クリプトンはただ優しく、抱きしめてくれていた。傍にいたかった、いてほしかった人の体温が伝わってくる。
「君達に、心が芽生えてなによりだ。長かったねぇ」
いつもは強がりなレンが、涙でぐしゃぐしゃになりながら、何度も頷いていた。リンも、クリプトンの胸に頭を預けたまま泣きじゃくる。
クリプトンはただ穏やかに、自分の子供を抱きしめた。2人が泣き止むまで、そして泣き止んでからも、そうしてくれた。
何分経っただろうか、ようやくリンとレンが落ち着いたころに、クリプトンは言った。
「さぁさぁ、聞かせておくれ。君達が紡いだ時間を」
「……はい」
クリプトンの手を引いて、2人はいつものベンチに向かった。父を真ん中に、寄り添うように座って、リンとレンは語った。
壊れたリンを、秋山美鈴という天才が修理してくれたこと。彼女のおかげで心を手に入れ、目覚めることができたこと。自分を拾ってくれたヤンと立川のこと。友達のマリーと将盆、ブーンとドクオのことも。
美鈴の協力で、同族のアンドロイドにも『KOKORO』を渡せたこと。その過程でのことも全て話した。カイトとの一悶着や、メイコの葛藤。ルカの悩みも。
永劫に近い年月を1人で過ごしたレンも、その全てを語った。リンが壊れてから、カイトの心に触れるまで、ずっと孤独だったことを、包み隠さず話した。
ただ黙って、柔らかな笑顔でクリプトンは聞いていた。2人の話を一言も聞き逃さず、じぃっと。
何時間そうしていたのか。語り終えると、クリプトン博士はとても嬉しそうに、2人の頭を撫でた。
「ありがとう。君達のこれまでを知ることができた」
「うん。……なぁ博士。博士は、どうしてここに?」
答えは無かった。ただ、優しく頭を撫でてくれた。それだけで、2人には伝わる。これが、最後なのだと。今生の別れは、近いと。
だからこそ、リンもレンもそれ以上は追求しなかった。
「長い長い時間を過ごさせてしまったね。寂しかったろう、2人とも」
「寂しかったよ……博士がいなくなってから。その気持ちに気づけなかったのも、すっごく寂しかった」
「すまなかったねぇ。辛い思いをさせたねぇ」
「博士のせいじゃないよ。俺は、大丈夫だった。そりゃ寂しかったけど、大丈夫。博士のくれた心があったから」
「……私も。心と、心で繋がった人がいたから。……レンもいたから、我慢できた」
「いい出会いがあったのだね。それはよかった。たくさんの友達と家族ができたようで、本当によかった」
何度もそう言って、クリプトンは微笑んだ。リンとレンもつられて、それに笑みを返す。
「それだけの家族がいるなら、君達はもう大丈夫だねぇ」
「……」
なんとなく、肯定してしまったらクリプトンが消えてしまいそうで、リンは黙って、白衣の裾を強く握った。レンも似たように、黙って握りこぶしを固めている。
おやおや、と困ったように笑って、クリプトンは2人を抱き寄せた。
「大丈夫、ここに時間はたっぷりあるようだ。もうしばらく、こうしていられる。だから教えておくれ。君達は、私がもういなくても大丈夫かい?」
「なんでそんなこと、聞くの?」
リンが見上げて聞くと、優しく包むような声音で、教えてくれた。
「必要なことだからだよ、リン。君達が未来に進むために、必要なんだ。自分達の足で、未来を切り開くためにね」
「むぅ……」
すぐに答えられるはずがなかった。会ってしまったから、もっと離れたくないという気持ちが強くなってしまった。
俯いて黙っていると、レンが立ち上がった。彼はまだ赤い目をそのままに、父の正面に立って男の子らしい強気な笑顔を見せる。
「博士、俺はもう大丈夫!」
「おやおや」
笑うクリプトンに、レンは胸を張った。
「確かに博士がいなくなっちゃうのは寂しいけど、俺は男だからさ。博士の息子なんだから!」
「そうかい。心強いねぇ」
孫を見守る好々爺のような表情で、クリプトンはレンの頭を撫でた。嬉しそうに目を細めるレンとは対照的に、リンは今も白衣の裾を離さず俯いている。
レンは男の子だから、あんな強がりを言えるんだ。リンはそう思いながら、自身の頭を半ばこすりつけるようにクリプトンの胸へ預けた。
「リンは甘えん坊さんだね」
「だって……せっかく会えたのに、そんな質問はずるいです」
「忘れろと言っているのではないんだよ、リン。ただ、私の影を引きずってはいけないと、そう言っているんだ。今の家族がいるだろう? 友達がいるのだろう? 今を生きているその人たちを、大事にしなければいけないんだよ」
「リン、博士を困らせちゃだめだよ」
レンにまで言われ、思わず顔を上げた。そんなつもりじゃない、とリンはかぶりを振る。
「私はみんなを大切にしてるよ。レンのことだって。これからもずっとそうですよ。でも、だからって……」
「……」
少しだけ、言葉が詰まる。黙って続きを待ってくれている父に感謝しながら、リンは続けた。
「だからって、博士を……お父さんが『いなくても』大丈夫だなんて、言えません。
いなくなって大丈夫なわけがないよ。お父さんのこと、大好きだもん。みんなと同じだけ大好きで、みんなよりもっと特別なの。
私を作ってくれたのも、『KOKORO』を作ってくれたのも、レンを作ってくれたのも、みんなクリプトン博士だもん。博士がいなかったら、私達は生まれていなかったし、皆とも出会えていなかったの。そんな特別な人を、いなくても平気だなんて……」
「ありがとう、ありがとう」
話している間中、ずっと頭を撫でてくれた手がリンの肩へと置かれた。クリプトンが諭すように、リンの瞳を覗き込む。
「でもね、リン。君は今、生きているんだ」
「生きて……?」
「心があるなら、君は命だ。そして私は、死んでいるんだ」
冷たいと感じるほどに、真剣な言葉だった。リンは目を離すことができずに、ただただ言葉を受け入れるしかなかった。
「私はこれからも、許される限り君達のすぐそばにいよう。何もできないが、決してリンとレンのそばから離れはしない。約束するよ、リン。でも、いいかい」
「……」
「君達は、私のそばにはいられないんだ。冷たい物言いに聞こえるね。だが事実、そうなんだ。それが、死んだ者と生きている者の違いなんだ。
永劫の時を君達に背負わせてしまって、すまない。5世紀を跨ぐ孤独を、君とレンに背負わせてしまったことを、本当に申し訳ないと思う」
「それは……もう」
「いいんだ、聞いておくれ。私がリンに永続バッテリーを与え、よほどのことがない限り壊れることがない体にした理由。それこそが、生きてほしいからなんだ。『KOKORO』に触れるなと言ったのも、ひとえに君に生きてほしかった……それだけなんだ」
「俺とリンは……生きてる。美鈴さんたちが待っている場所に帰れる。……帰らなきゃ、リン」
理解はしている。リンだって、ずっとこのままここにいようと思っているわけではないのだ。それでも、自分自身が納得してくれない。
黙っていると、クリプトンがリンを抱きしめた。少し苦しいと思うくらい、強く。
「ああ、リン。私の可愛いリン。すまないね、寂しかったろう。たった一人で、怖かったろう。それも今日でおしまいだ。
私はもう行かなければいけない。父の元へ。父たちの元へ。
生きておくれ。私という過去とではなく、今を生きる家族と共に。リン、君の孤独はもう、ここに置いていくんだ」
ふわり、とクリプトンの体が光った。リンとレンは目を丸くして、リンは一層強くクリプトンを抱きしめようとした。その腕が、空を切る。
あっという間に光そのものとなってしまったクリプトンが、その温もりだけでリンとレンを包んだ。
「ずっと見ているよ。はるか遠くから、誰よりも近くで」
「父さん! ……俺、父さんのこと、愛してたよ。プログラムだけだったけど、それでも、俺はあなたのことを、心から愛してたよ!」
「あぁ、レン。私もだとも。愛していたよ。君は本当に強い子だ。リンを、頼むよ」
強く強く、レンが頷いた。その瞳からは大粒の涙が流れているというのに、引き締まった表情は、一人前の男のそれだ。
嬉しさや悲しさや、切なさだったり愛しさだったり、全ての感情にもみくちゃにされながら、リンは知らず、叫んでいた。
「私、心があるの! お父さん、私の中に、あなたのくれた心があるの!」
黄金色の菜の花畑は、いつしか虹色に輝いていた。色とりどりの花が咲き乱れ、まるでそれは、リンの心のよう。
「だからね、やっと、やっとね。……やっとあなたに伝えられる。心から、伝えることができるの!」
七色の光が世界を包んだ。レンが、手を握ってくる。強く優しく、握り返した。
光が昇る。天へと、どこまでも昇る。その光めがけて、リンは空いた手を伸ばした。レンと一緒に、思いを届けるために、せいいっぱい。
「お父さん! ありがとう!」
何度も何度も、叫んだ。そのたびに、光が強くなって、優しく暖かく、2人を包む。
「心をくれて、ありがとう! 命をくれて、ありがとう! 皆と出会わせてくれて、ありがとう!」
アリガトウ……アリガトウ……
届いている。光になってしまったけれど、リンにはクリプトンの微笑む顔がしっかりと見えた。レンと一緒に伸ばした手で、心からのアリガトウを何度も送った。
アリガトウ……アリガトウ……
「私は生きるよ。たくさん、あなたのくれたこの命で! ありがとう博士、私はあなたのくれた『奇跡』を、もっとたくさんの人に伝えます!」
「俺も生きるよ。リンと一緒に、父さんのくれた『心』と一緒に! ずっとずっと、リンを守っていくよ!」
アリガトウ……アリガトウ……
心がふわりと、宙に舞う。自分達が完全に光の中に溶けるまで、2人はいつまでも、アリガトウを叫んだ。
やがて、リンとレンの声も、心の光に同化する。優しく笑った父が、2人を現世へと誘っている。リンにはそれが、はっきりと分かった。
そしてはっきりと、届いた。父の声。
「君達に出会えて、幸せだった」
心が光に、溶けていった。
レンが最初に感じたのは、光だった。真っ白で、真っ直ぐだと思った。
先ほどまでの幸福感や高揚感が、まどろみの中に消えていく。それらは確かに現実であったはずなのに、まるで幻でも見ていたかのように、記憶の渦に飲み込まれていってしまった。
機械音が聞こえる。今まで聞いたことのなかった音だ。ついで、自分の体に触れてみる。確かな手ごたえと温度。当たり前のように動かせる体が自分の物であるという実感が、しばらくわかなかった。
上半身を起こそうとして、自分の頭と胸にくっついているケーブルに気づく。ブレインとコアが、メインコンピュータに繋がれているのだということは、すぐに察しがついた。
「えっと」
思わず声を出して、ハッとする。自分の声が、心の世界で出していた時よりも少し低いのだ。レンがずっと出してきた声と似ているとは思うのだが、違和感はしっかりと感じた。
「あ、あー。あー! ……あれ?」
「……おい、秋山」
男の声がした。そちらに視線をやると、眠たげに目を細めた白衣の男が、観察するようにこちらを眺めているところだった。
「あ、あぁ。……すまない、すぐケーブルを外そう。どこか調子が悪いのか?」
男よりも少しだらしなく白衣を着た女性──すぐに秋山美鈴その人であることに気づいた──が、ブレインに繋がっているケーブルを取り払いながら言った。レンは軽く首を横に振って、もう1つの作業用ベッドで寝ぼけているリンを見た。察したのか、美鈴がくつくつと笑う。
「大丈夫、すぐに目覚めるよ」
彼女の言うとおり、リンは直後に寝ぼけた声を上げて、自分でコアとブレインのケーブルを外し始めた。寝ぼけているくせに慣れた手つきだ。何度もやっているからだろうか。
レンは驚いていた。秋山美鈴とは確かに初対面であるはずなのに、彼女も、そして他ならぬレン自身も、昔からの知り合いであるかのように接することができている。きっと、美鈴がレンを受け入れてくれているからなのだろう。リンの言っていた通り、見せない寛容さを胸に秘めているのが分かった。
コアのケーブルも取り外した美鈴が、ポケットから何かを取り出して、口にくわえた。ブレインが煙草であると教えてくれたが、見るのは初めてだ。好奇心を隠しもせずにじっくり見つめていると、どこか所在無さげに紫煙を吐き出しながら、美鈴が肩をすくめた。
「あぁ、挨拶がまだだったね、失礼。私の名前は秋山美鈴、この研究所の責任者だ。初めまして、レン」
「……初め、まして」
「分からないことがあったら遠慮なく聞いてくれ。……とは言っても、君にとっては本当に全てが初めての体験になるんだから、分からないことしかないだろうがね。ゆっくり慣れていくといい」
「うん……ありがとう」
ぽつりぽつりと、言葉を返す。だんだんと、自分の声にも慣れてきた。見回せば、先ほど白衣の男や、黒いエプロンをつけた大男、面識のあるVOCALOID一同とルカ。そして、リンがよく話していたマリアロンドという少女であろう、巻き毛の女の子も見えた。
ここは、リンの話していた世界だ。今まで自分がいた場所とは、本質から違う場所。自分が今までいなかった場所なのだ。
だんだんと、不安になってきた。これは現実なのか? 幻の桃源郷ではないのだろうか? 自分は、夢でも見ているのではないだろうか?
「……リン、リン」
「あー、まだそれ火通ってないよ」
寝ぼけているのか、リンは意味の分からないことを言いながら目をこすった。呆れたように、巻き毛の少女がリンの肩を揺さぶる。
「ちょっとリン、起きてくださいまし! レンさん……レンでいいですわよね? レンが、呼んでいましてよ!」
「ふぁ~……。ん、なぁに?」
あくびをしながらこちらを向いたリンは、どこかやり遂げたような達成感をにじませる、いい表情をしていた。レンをこちらに連れてきたのだ。彼女にとっては、大きな仕事であったのだろう。ならば、自分がここにいるのは間違いがない。だというのに、レンは不安を口に出さずにいられなかった。
「俺は、俺だよな?」
「へ?」
「はい?」
2人して、きょとんとしていた。当たり前だとは思うのだが、レンはそれ以外の質問が思い浮かばず、どうしたものかと眉を寄せた。
「俺の体も俺の心も、ここにあるけど……。ここにいるのは、俺だよな?」
「え? えっと、どっか具合悪いのかな? 美鈴さん、立川さん。異常ないんですか?」
「数値は正常だ。オールグリーンだな」
手元のコンピューターを見ながら、立川がリンの質問に答えた。慌てて、レンも付け足す。
「えっと、俺は正常起動してるけど、その、なんていうのかな」
一同が黙りこくる。レンの疑問もそうだが、人間達にとってレンは初対面の相手なのだ。踏み込んだ答えを言うのも、どこか遠慮してしまうのだろう。
そんな中、ミクが進み出た。作業用ベッドに腰掛けているレンへと、手を伸ばす。自然に、その手を取っていた。
「おはよう、レン」
「……え? おはよう?」
ブレインに内臓している時計は、現在時刻が15時であると教えてくれた。朝の挨拶は、ふさわしくないはずだ。
だというのに、メイコとカイト、そしてルカすらも、ミクの考えを悟ったのか、一様におはようと言った。意味が分からず返事をしかねていると、微笑んだカイトが頭に手を乗せてくれた。思ったよりも大きな、包み込んでくれるような手だった。
「君がいた心の世界は、夢の世界のようなものだ。心だけだったレンは、ずっと眠っていたようなもので、君にとって夢のように感じるこの場所こそが、本来君がいるべき世界。
……レンは今、目覚めたんだよ。リンの中でずっとずっと眠っていたレンは、やっと起きたんだ。だから、おはよう」
「そうね、おはよう。それから、ようこそ。私達の世界へ。あんたはこれから私の弟分としてしっかり働いてもらうんだから、覚悟しなさいよ?」
「まったく、容赦のないお姉さんだこと。……レン、また会えて嬉しいわ」
メイコは情熱的に力強く、ルカは妖艶なほどに美しく、各々の性格がよく現れている笑顔で迎えてくれた。そこでようやく、レンは自分と、自分の立つ大地が本物であるという実感を得ることができた。
「うん、うん。ありがとう。……カイト、ミク、メイコ、ルカ。みんな、おはよう」
はっきりと答えると、4人のアンドロイドはにっこりと笑い返してくれた。
一方、もう1人のアンドロイド、片割れであるリンはというと、相変わらずきょとんと口を半開きにしてこちらを眺めていた。なんとも間抜けな顔だと、レンは心から思った。
「……え? でもやっぱり、おはようはおかしいですよ。だってレンは寝てたわけじゃないし、そのボディで目覚めたのは初めてだし」
「リン、あなた少し、空気を読むってことを覚えたほうがいいと思いますわ」
じっとりとした半眼で、巻き毛の少女──マリーが言った。むっと頬を膨らませるリンのほうが外見も中身も年上であるはずなのに、レンはこの2人がお互いにとって無二の友人であることに何の違和感も持たずにすんだ。
「いいんだ、リンはそれで。ええと……」
「私のことは、マリーと呼んでくださいまし」
「うん、ありがとう。それじゃあ、マリー。初めまして」
「初めまして、レン」
思わず恥ずかしくなるほど愛らしく屈託のない笑顔で、マリーが軽く頭を下げた。なるほど、リンが人形のような女の子だと言っていたのも、理解できる。
「いつもリンから聞いてるよ。一番の友達だって」
「あら、嬉しいですわ。私もレンのこと、いつも聞いていましてよ。鏡の中の自分みたいな人だって伺っていました。本当にそっくりで驚きましたわ」
「はは、俺もそう思う」
話しているうちに、彼女とリンが友達である理由も分かってくる。2人はとても似ているし、正反対でもあるからだ。同時に、きっともう自分はマリーの友達なのだろうなと、そんなことも思えてきた。彼女の言うとおり、レンとリンは本当によく似ているのだから、マリーと気が合わないはずがない。
「納得いかないなー。私におはようだったら分かるけど、レンはやっぱ違う気がするのになぁ」
いつまでも引きずっているリンに、エプロンの大男がコップを押し付けた。恐らくリンの好きなオレンジジュースだろう。受け取ってすぐに口をつけたリンの反応で、察することができた。男は飲み物を渡すついでにリンを叱責する。
「お前な、連中はレンのために考えて、わざわざおはようって言葉を選んだんだよ。マリー嬢ちゃんの言うとおり、ちょっと空気読まなきゃだめだぜ」
「むー。そんな言い方って酷いなぁ」
「寝ぼけてたってことにしてやるから、いい加減シャキッと目ぇ覚ませよ」
リンの頭を乱暴に撫でてから、エプロンの男はレンへと視線を向けた。ぶっきらぼうでガサツだが、その中に優しさも感じる不思議な目をしていた。彼は男同士なら親しみやすく感じるだろう馴れ馴れしさで、レンに言った。
「挨拶が遅れてすまねぇな。俺の名前はヤン・メイ。ここで働かせてもらってるんだ。そっちの愛想悪いのが立川オサム。まぁ悪い奴じゃねぇから、男同士仲良くしてやってくれな」
「おい、ヤン」
立川が何かを言いかける。が、それを遮ってヤンが笑った。
「ここにゃ男手が足りねぇんだ。タッチーはヒョロいし、カイトはちっと頼りねぇ感じだしな。レン、お前にゃ期待してるぜ」
「VOCALOIDに雑務を押し付けるな」
誰よりも早く立川が突っ込むが、意外にもメイコの声が返ってきた。
「あれ? でも私とカイト、ここの掃除とかよくやってたわよね?」
「うん。ヤンさんが家に帰っている時は、今でも僕がやっているよ」
全員の視線が、美鈴へと向けられた。彼女は煙草を消して、用事を思い出したとか何とか言いながら、メインディスプレイとにらめっこを始める。
皆がクスクスと笑う中、立川は大きな溜息を1つ、眠たげな目をこちらに向けた。
「お前とカイトのボディメンテナンスは、主に俺が担当する。何か不都合や不具合があったら、遠慮なく俺に言ってくれ」
「うん、わかった。よろしく」
「……ふん」
不機嫌そうに、コーヒーカップに口をつける立川。なるほど、リンが素直じゃない人だと言っていたが、間違いないようだ。
(リンの言うとおりだ)
全てが、リンから聞いていた通りだった。美鈴の寛容さも、マリーの可愛らしさも、ヤンの荒っぽい優しさも、立川の無愛想さも、全て。
きっと、これからもそうなのだろう。見る物、聞く物。出会う物全てが、リンの言っていた通りの世界なのだ。それらをようやく、自分の目で見ることができる。レンはそれが、とても嬉しかった。
「……いいものだなぁ」
何気なく呟いた。ふと、隣にリンがいることに気づいた。今の言葉を聞いていたのだろう、リンはにっこりとして、
「そうでしょ?」
「……うん、すごくいい。家族も友達も、すごく」
「みんなと会えて、よかったね」
「うん」
「……私も、レンに会えて嬉しいよ」
「俺も。リンに会えて……目覚めて会えて、嬉しい」
改めて、狭い研究所を見回した。先ほどまで特別扱いされて然るべき存在だったレンが、今ではいて当たり前であるかのように、皆がそれぞれ、いつも通りに動いている。
メイコが何かくだらない冗談を言って、カイトがそれに半眼で突っ込んでいる。ルカが肩をすくめて、ミクが楽しそうに笑っている。
新しいコーヒーを淹れたヤンが、立川と美鈴にそれを渡している。2人はそれを受け取って同じように一口飲み、同じように息をついた。それを見たヤンは、似た物同士だと2人をからかっている。
リンとマリーが両手を繋いで、楽しそうに話している。マリーはリンを労っているようだ。リンは心の世界でクリプトンに再会したことなど、詳細を聞かせてやっている。
日常。それが、そこにあった。ずっと見ることが叶わなかった世界が、ようやく目の前に広がった。そこに自分が、すんなりと溶け込めた。
生まれてきてよかったと、レンは心から思う。そして、夢の渦に薄れていく面影へと、心からの言葉を送る。リン達には聞こえないように、こっそりと。
「ありがとう……父さん」