最低限の照明しかつけられていない研究フロアは、どこかもの悲しげな雰囲気を醸し出していた。しかし、それは研究に携わらない第三者の目から見る場合にのみ言えることなのだろう。
フロアに、白衣が2人。長い茶色の髪は、この研究所の所有者である、秋山美鈴。もう1人、男のほうは、薄汚れた白衣を着ている。目元に浮かべられている鋭さから、冷たい性格であることが窺えた。
2人は揃って、右目に装着するタイプである顕微鏡をつけている。遥か昔から、手術などで使われていた代物らしい。今はそれより高性能なものがあるのだが、アナログにこだわりを持つ人間は、好んでこちらを使いたがる。
この2人は、アナログにこだわる人間なのだろう。特に男、立川オサムほど、旧式の物に愛情を注ぐ男はこの世に存在しないだろうと、美鈴は半ば本気で思っていた。
現役である天才科学者と、すでに科学者であることをやめながら、類稀なる腕を持つ男は、並べられたテーブルに向かい、細かな作業をしている。
この現代において、存在を未だに知られていない超高性能マイクロチップの作成。1つはすでに、2階で拗ねているであろうリンのブレインに搭載されている。彼女には悪いことをしたな、などと脳裏によぎったが、美鈴は持ち前の集中力で思考を跳ね除けた。
2人とも、作業が始まってから終始無言であった。集中力を一瞬でも切らせば、これまでの作業が台無しになる。1日で出来上がればいいのだが、残念ながらそれは2人とも諦めていた。
汗が額を伝うが、それを拭う余裕などない。淡々と、自分が作業用アンドロイドにでもなったような錯覚を覚えながらも、ひたすら目の前の小さなチップに向かっていた。
細かい作業など、人の手でやるべきではない。だが、美鈴はその当たり前の正論を否としていた。
自分の手で出来ない作業を機械に任せるなど、安心できるものか。それが、天才であり奇人とも言われる美鈴の持論なのだ。それ故に、彼女に弟子入りを頼む者も、助手になろうというものもいない。
孤高の天才、などとずいぶんな呼ばれ方をされることがしばしばあるが、どうでもいいことだ。必要であれば、今回のように協力を頼むこともある。隣の立川など、そこらの現役科学者を凌ぐ腕を持っている。VOCALOIDに直接かかわりがなければ、彼に応援を頼むことはよくある話だ。
作業が一段落して、顔を上げた。右目の顕微鏡を取ると目から涙が流れた。酷使しすぎかとも思ったが、作業はこれからなのだ。この程度でへばってくれるなよと、自分に活を入れる。
隣を見ると、同じく一息ついたのだろう、立川が額の汗を拭っていた。
「まったく馬鹿げているな。ただのマイクロチップに細工するだけで、ニコツーのマザーを超える容量を手に入れられるなど、誰が考え付くというんだ」
「悪いが、私が考え付いてしまってね。細工といっても、新しいパーツを継ぎ足すんだ。適当にいじったわけじゃない」
「適当にいじるなど、科学者にはありえんだろう」
いちいち反論してくる立川に、美鈴は肩をすくめた。落ち着いたのか、立川がこちらを向く。
「しかし、これほどの容量を積めるチップを、何に使う気だ? 例のVOCALOIDだとは思うが、これ以上改良してなんになる。高性能擬似感情プログラムだけじゃ、物足りないとでもいうのか」
そういえばまだ説明していなかったな、などと考え、美鈴は頷いた。黙っていてくれと言えば、この男は口外しない。科学者の中には、秘密にしておきたい研究成果を持つ者などうじゃうじゃいる。それは立川も分かっていることだし、報酬には口封じの意味で上塗りされている部分もある。
メインコンピューターのディスプレイを操作し、あるファイルを開いた。中にはプログラムのファイルではなく、画像ファイルが入っている。隣で訝しげな顔をしている立川をおいて、美鈴は適当なファイルをクリックした。
最近撮った写真だった。黄色いセミロングの髪に、白いリボンをつけた少女が写っている。元気そうな姿から、彼女が健康であることも窺えた。
ただ、それだけだった。次の写真も、その次も、少女が料理をしていたり、少し怒っていたり、そんな場面ばかりだった。
「おい……。お前、何を見せている。俺が聞きたいのは、このマイクロチップの使い道だ」
「あぁ、だから、彼女だ。正確には、今現在の彼女に至るために使われたマイクロチップを、私達は作っている。忘れたわけじゃないだろう? それとも、もうボケたのか?」
やはり怪訝そうに、立川はその画面を睨んだ。自分の知っている人間に、思い当たる節はない。しかし、次の瞬間、彼の脳裏に記憶が蘇った。
「おい、これは、まさか」
「そうだ。お前が拾ってきたアンドロイドだよ」
「バカな……。あんなボロを、ここまで修理した挙句に、さらに高性能な感情プログラムを載せたとでもいうのか?」
言うと思ったと、美鈴はクツクツと笑った。食い入るように画面を見る立川の驚きの表情は、彼女の期待を裏切らなかった。なので、次の言葉を言うのも楽しみになってしまう。
出し惜しみはするほうではないので、単刀直入に美鈴は言った。
「彼女の持つプログラムは、私が作ったものではないんだよ」
「なに? 今の時代、お前以外にこれを作れる奴がいるのか? それほどの腕なら、知名度も高いはずだろう」
「焦るな。自分で言うのもなんだが、今の時代には、私を超える腕を持つ科学者はいないさ」
「ならばお前しか……」
「今の時代には、だ」
立川の顔色が、変わる。自分の拾ってきたアンドロイドに隠された秘密を、理解したのだろう。それは当然、ありえないことだ。一瞬混乱した思考をまとめるのに苦労したのか、彼は頭を抑えて、
「もう何にも驚かん。で、これはいつのアンドロイドなんだ?」
「あぁ、500年前だな。まだ緑豊かだったころだ」
「馬鹿な……」
今度は、立川が笑った。信じられないのだが、美鈴が言うのだから間違いない。自分が手を出しているマイクロチップの果てに何があるのか、考えられもしなかった。
その答えは、すぐに美鈴が教えてくれた。
「彼女の積んでいるプログラムは、擬似感情プログラムじゃないんだ。彼女……リンのブレインには、心が入っている」
「ハッ。心か。冗談にしか聞こえないが、かなり高度な感情プログラムなのだろうな。どの程度受け答えができる? まともな会話にくらいはなるんだろう? 今度の新作も、そのくらいの能力はあったはずだが」
「あぁ……そうか。そうだな、知っておくのもいいだろう。一息入れるついでに、彼女に飯でも作ってもらおう」
そう言うと、美鈴は階段へと向かった。上の階に向かって一言叫ぶが、返事がない。一寸遅れて聞こえてきたのは、甲高い少女の声だった。聞き覚えのある声の主は、作業を始める前に訪れた、センタードームの管理者の娘だとか、とんでもない肩書きだった気がする。
「今、リンを連れて行きますわ!」
「すまない、頼む」
若干の間を置いて現れたのは、白いフリルのついたスカートとピンクのカーデガンを着た、巻き毛の少女。例の会長の娘だったはずだ。
その彼女が手を引いているもう1人の少女を見て、立川は愕然とした。
しょんぼりと肩を落とす、さきほどの写真に写っていた少女。アンドロイドの見せる表情ではない。だが、この程度では判断できないと、立川の理性が告げていた。
ほんの一瞬で、その理性すらも黙らされてしまうのだが。
「呼びましたか? ……え、あれ? もう1人の人も一緒? ちょっと、言ってくださいよ!」
慌てた様子で巻き毛の少女の手を離し、背筋をピンと伸ばした彼女は、立川に向かってぎこちなく一礼した。
「は、始めまして! えっと、その、リンって言います。よろしくお願いします!」
「彼女が、500年前に作られた、唯一心を持つアンドロイド、リンだ。信じられないだろうが、彼女はロボットだ」
「まさか……」
あまりにも、自分の想像を超えていた。こんなことは有り得ない。自分の視線の先で、緊張からなのだろう、頬を赤くして背筋を硬くしている少女が、まさかアンドロイドであるなど、信じられるわけがない。あるとすれば、それは。
「奇跡、だとでもいうのか」
「そうだな。そう、奇跡、さ。それも、人の手で作り上げられたな」
言われた瞬間、自分の中で何かが吹っ切れたのを、立川は感じた。手の震えも止まっている。もう理解の範疇はとっくに超えているが、この際丸呑みにしてしまったほうが楽だ。
そう思うと、いやに思考がすっきりとした。ついでに、美鈴がマイクロチップを作ろうとしている理由も、ようやく把握できた。天井を見上げて深呼吸を1つ、興奮しかけた自分をクールダウンさせる。
「なるほど。つまるところ、このリンとかいうアンドロイドに……。分かった、分かったからそんな目で見るな。リンが搭載している感情プログラムの容量が既存のマイクロチップでは不可能で、この馬鹿げた容量を入れられるチップを作るわけだな? それを3個ということは、これまでのMEIKOとKAITO、それと次の新作にでも入れるんだろう?」
「ほう。ずいぶんと頭が回るようになったな。ずばりそのままだ」
「まったく……。お前はいつも、科学者としての俺を呼び起こす」
思わず笑いが漏れた。こんなにも手応えのある仕事は、現役のころにはまるでなかった。自分の実力を発揮する舞台がないことが嫌で科学者をやめた自分に、もう一度腕を振るえるチャンスが舞い込んできたのだ。
心を持つアンドロイド。目の前の少女がそうだとは、今もまだ信じ切れていない。だが、もし自分の腕、自分の才でこの『心』を作り上げることができるとするなら、これほど嬉しいことはない。
娯楽用のぬるい擬似感情プログラムが嫌いだった。それは、完璧ではないからというのが理由だ。今から手をかけるのは、完璧な『心』なのだ。
「やってやろう。これができるまで等とぬるいことは言わん。この先も俺を使え。心とやらを作ってやる」
作りかけのマイクロチップを、台ごとカバーで覆った美鈴は、立川の反応が予想通りであると言わんばかりに笑った。リンと傍らの巻き毛の少女は、ポカンとこちらを眺めているだけだ。
「言うと思ったさ。だからこそ、お前に頼んだんだからな。金のことは後で話そう。言い値を出してやる」
もはや金のことなどどうでもよくなっていたのだが、律儀にそう付け加えて、美鈴はリンたちへと向き直った。それだけで、2人は意図を察したのか、慌ててキッチンへと引っ込んでいく。
ほどなくして、包丁の音が聞こえてきた。それだけを確認したかったのだろうか、美鈴は食卓であろう小さなテーブルの前に、設備で使っていた椅子を適当に2つ、付け足す。
「作業用の椅子しかないから、高さが合わないかもしれんが」
「構わん。ところで、あのアンドロ、いや、リンなんだが。料理が作れるようにプログラムされているのか? 心なんてものを作った人間に、そんな余裕があるとは思えん。しかも、500年も前となると」
「あぁ」
こちらの言葉を手を向けて遮り、美鈴は椅子に座り、立川にも座るように薦めた。
まだ何か隠している。自分をからかうためなのだろうと分かっていながらも、立川はそれを知りたいという気持ちの方が強いため、素直にからかわれてやることにした。普段なら、プライドの高い彼なら怒っているところだが。
焦らしているのだろう。少しの間を置き、美鈴はニヤリと笑って言った。
「当初は下手だったがな。ようやく自信のつく味を作れるようになったらしい」
「では、プログラムは搭載されていないのか。ふむ、心があるがゆえに、料理の味にも自信がついたということか? しかし、その程度で驚かそうなどと、俺もなめられたものだ」
鼻で笑い、さらに一言付け加えて一蹴しようとして、立川は理性も吹き飛んで立ち上がり、叫んでしまった。
「味、味と言ったか、秋山!」
ガラン、と大きな音がキッチンから聞こえてきた。驚いて鍋でも落としたのだろうか。他の音が聞こえないあたり、中身は空だったようだが、そのおかげで我に返った立川は、頭を横に振ってから、聞きなおす。
「あのアンドロイドには、味覚もあるというのか? 確証は?」
「落ち着け。彼女に味覚があると知ったのは、以前センタードームに出かけた時だ。VIP席で飲み物を2つ頼んでしまってな。オレンジジュースだったんだが。当然私は失敗したと思ったよ。味のあるものを心があるアンドロイドに渡したら、妙に気を使わせてしまうとね。
だが、ジュースを渡した私に、彼女は平然と言った。『オレンジジュースは好きですよ』、とね」
座ることも忘れて、立川は視線をキッチンへと向けていた。あの向こうで料理をしている黄色い髪のアンドロイドは、自分達の常識を無視した存在なのだ。
さらに、信じられないことは、彼女は遥か5世紀も前に作られた存在だということだ。
「500年も前に……そんな技術があるはずが……」
「最初は私もそう思ったさ」
煙草の煙をくゆらせて、美鈴は再び、立川に座るよう薦めた。席に着くのを見て、彼女は再び語り始める。
「だが、最近は考えを改めるようにした。そう、お前が言うように、500年も昔にそんな技術があるはずながない。でもな立川、よく思い出せ。お前と相棒があの研究所に入った時、500年前の施設だと思ったか?
そうだ。答えはそこさ。世界に技術がなくとも、彼女を作った科学者、Dr.クリプトンにはあったということだ。あの施設の機械、全てが彼の手で作り上げられたんだろうな。それも、たった1機のアンドロイド、リンのためだけに。
馬鹿げた話だが、Dr.クリプトンの残した彼女に関するファイルを見ていると、そうであるとしか思えない。彼の科学者人生は、いつしかリンのためだけに向けられていたんだ」
「だが、そんな天才がいたという記述はどこにもない。そこまでの技量を持っていながら、なぜ世に名前が知れなかった? 当時なら、そうだ、ノーベル賞があっただろう。あれくらい受賞していてもおかしくないはずだ」
「あぁ、Dr.クリプトンは、自分の技術の全てを、一切公開しなかったそうだよ。富も名声もいらない。ただ彼女、リンだけを欲したそうだ。その理由も、最近分かった。
彼が本当に欲しかったのは、家族だそうだ。これはリンにも言っていないんだが、彼はそこらの町工場で働いている時に、家族を事故でなくしている。家族構成は妻と娘の2人らしいが、交通事故で、即死だったそうだよ。
運がいいのか悪いのか、彼は1人生き残ってしまってね。怪我が治って退院してから、Dr.クリプトンの孤独な科学者人生が始まったらしい。あてもない作業かと思っていたが、彼の才能と信念があってか、わずか6年でリンを作り上げたそうだ。心は、無かったようだが」
何度目になるのだろう、立川は額を押さえてため息をついた。そんな天才、実在していいのだろうか。町工場で働いていたということは、彼はまだ自分の才能に気づいていなかったに違いない。
それを、家族が死んだという転機だけで、わずか6年の間で研究設備とアンドロイドを作り上げるほどに開花させた。それはもう、人間の領域ではない。
「では、あのリンは、Dr.クリプトンの娘に似ているのか?」
「髪の色こそ違うがね。他は瓜二つさ」
「……有機パーツはどこから仕入れた? 当時は原料の解明もされていないはずだ」
「彼女のボディは、故障した部分は取り替えてある。だが、オリジナルのボディーは今の材質と違う。そうだな、オリジナルだよ。Dr.クリプトンのね」
「馬鹿な……! 有機パーツまでも作りあげるとしたら、その構成から調べなければならんだろう。それを、何の資料もない状態で、0から作り上げるとしたら、10年、いや、もっとかかるはずだろう!」
「だから、もう分かっているはずだぞ、立川。彼を私達と同じ杓子で測ってはダメだ」
呆れ笑いを浮かべて、美鈴は煙草を消した。キッチンから香るチーズの匂いで、今日はグラタンか、などと呑気に言ってのける。その様子は、自分の才能を遥かに凌いでいる者への嫉妬の欠片も感じない。
クリプトン博士。この天才秋山美鈴に当然のように認められ、我ながら冷徹だと思っていた立川の理性を簡単に吹き飛ばしてみせた男は、家族を取り戻したいという欲のために、真に無欲になったとでもいうのだろうか。
それほどの才能があれば、途中でいくらでも乗り換えられたはずだ。先進国と呼ばれていた国々が、我先にとロボット開発に勤しんでいた時代に、たった1人でアンドロイドを作り上げ、さらに心までも築いたのだ。金にしようとすれば、いくらでもなる。
薔薇色の人生というやつに、まるで興味を持たなかったというのか。それこそが、彼の才能の起因だというのか。
「だとすれば……科学者は、一体何を目指せというのだ……?」
「あぁ、立川。考えすぎるなよ。さっきも言ったが、彼は私達とは違う。科学者としての根本から、リンには悪いが……、狂っていると言っていいんだからな。
だってそうだろう? 私達が研究をするのは、自らの才を世界に認めさせたいからだ。富はその結果でついてくる。科学者なら皆同じだ。お前が科学者を辞めたのだって、自分の才を認められず、力量に合った仕事をもらえなかったからだろう?
彼は違う。そうだな、今ならはっきりそう思うよ。彼は科学者なんかじゃあない。探求者だ」
探し、求める者。なるほど、富も名誉も捨てて、立川からすればちっぽけな願いのために、それこそ無からリンを生み出したクリプトン博士は、科学者よりも探求者のほうが、呼び方としてしっくりくる。
そんなことを考えていると、巻き毛の少女が、水の入ったグラスを4つ運んできた。礼を言った美鈴の言葉から、彼女はマリアとかマリーと呼ばれているらしい。
マリーに遅れて、リンも戻ってきた。どこか暗い表情で、キッチンミトンをつけた手でグラタンを2つ、持っている。美鈴の前にグラタンをおき、彼女に礼を言われると、先ほどまでとは打って変わって、パッと顔色を明るくさせた。
「なんだ? 落ち込んでいたように見えたが」
美鈴の言葉に、今度は頬を膨らませる。アンドロイドだとは、やはり思えない。理解したつもりだったが、立川はやはり、心のどこかで信じ切れていなかったのだろう。
「だ、だって、美鈴さんがすごく冷たくするから」
「そんなつもりはないんだが、そうか、そう思われたなら、すまない。どうしても、閃きがくると、そっちに意識が飛んでいってしまってね」
「まぁ、そういう性格だとは知ってましたけど」
隠しもせずに本音を突きつけ、美鈴が苦笑いする。悪意のないところを見ると、リンの性格は良くも悪くも正直者、といったところなのだろう。
ふと、リンと目が合った。瞬間、彼女はおどおどし始め、ミトンをつけたままの手をあたふたさせて、残りのグラタンを持ってきたマリーを見たり、大声で笑い出した美鈴を見たりと落ち着きがない。
なにごとだろうかと思った立川に、美鈴が笑いすぎて浮かんだ涙を袖で拭いながら、
「立川。そんな、女の子を観察するような目で見るもんじゃないぞ」
「あら、立川さんと言いますの? 挨拶が遅れましたわ。私、マリアロンド・ヴェル・ラダビノードと申します。マリーと呼んでくださいな。よろしくお願いします」
返事をするより先に、マリーが笑顔で一礼した。そういえば、挨拶をすっかり忘れていた。
「あぁ……。立川だ。立川オサム」
呆けたように自己紹介をすると、またも美鈴が笑いを堪えている。してやられたようで、どこか悔しさを感じる。同時に、そこまでの余裕を取り戻せた自分に、安堵感も感じた。
背中を押されて、逃げ腰になっていた背筋をピンと伸ばして、それこそロボットのような声で、リンが声を発する。
「あ、はい! 私はリンって言います、よろしくお願いします! ……って、さっき私、挨拶しましたよね?」
「おいおい、早く座れって意味だったんだが?」
こうなると知っていてやったのだろう。飽きもせずに笑う美鈴に、リンは顔を真っ赤にした。
「美鈴さん!」
どうやら、本気で怒ったようだ。それでも笑う美鈴とマリーを順に見て、立川はとりあえず、科学者としての探究心をしまい、口元だけで笑うことにした。
「それで、まずはどいつから仕上げるんだ?」
食事を終え、リンの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、立川が訊ねた。
リンはマリーと共に食器を片付け、今は二階で遊んでいるようだ。時々笑い声が聞こえてきて、そのたびに彼女がアンドロイドであることを疑いかけてしまう。
まして、今自分が手がけているマイクロチップで、彼女に近い擬似感情プログラムを作り上げられるとなると、それこそ嘘のように感じるのだ。
「そうだな、まずは起動テストがてら、新型からにしようか」
カップを置き、左ひじをテーブルについた美鈴が答える。
リンについての説明をしたのが美鈴でなければ、立川は疑いどころか、冗談ですませたかもしれなかった。
彼女が言うからこそ、真実味があるのだ。秋山美鈴には、それが真実であってもおかしくないと思わせるだけの力がある。
「新型か。MEIKOで女性型のロックシンガー、KAITOが男性型のバラードシンガーだったな。次はなにがくるんだ?」
「あぁ、正統派アイドル、歌に振り付けもつけた、少女型だ。ようやくアイドルというものを作れた気がするな。
外見年齢、いわゆる公式の設定年齢は16歳で、おしとやかな女の子だ」
「……産みの親とは正反対だな」
「言うじゃないか。だが、プログラミングするだけで、私が教育するわけじゃない。それに、完成したマイクロチップに『KOKORO』プログラムをうつしたら、どんな性格になるかは分からないんだ」
「……うつす? コピーするのか?」
言うと、美鈴はコーヒーを含んで、喉を鳴らした。一呼吸置いてから、煙草に火をつける。
「いや、そうじゃないんだ。これもまた信じられないことなんだが、『KOKORO』プログラムは、伝染する」
「伝染だと? それではまるで、ウイルスだ。それとも、まさか『KOKORO』は他のアンドロイドに害をなすために作られたのか?
……いや、それではさっきの家族云々の話に意味がなくなる。あるいは、複製する必要性をなくしたのか。他のアンドロイドにも『KOKORO』を自動で入力できるように? しかし、それではリンのコピーが……」
「立川、あぁ、説明するから落ち着け。まったく、私もお前も、本当に科学者なんだな。考え出したらブレーキがきかん」
紫煙を吐き出し、灰皿に灰を落としてから、美鈴は今もメイコとカイトが眠っているカプセルを指差した。
「伝染、という言い方が悪かったな。しかし他になんと言っていいのか。そうだな、これはリンの受け売りなんだがな。言うなれば、アンドロイドが『KOKORO』を求めている、というところか?
あれは少し前のことなんだが、リンとメイコを同時にメインコンピューターに接続しているときに、『KOKORO』がメイコにアクセスしてな。あるいは逆だったのかもしれんが、なにせいきなりだ。気が動転して覚えていないんだが、ブレインが耐え切れずショートしかけたんだ」
「リンがアクセスした可能性は?」
「あぁ、本人に聞いたよ。むしろ怒られた。私はそんなことしていない、とね。
それに、カイトにもその兆候はあったみたいだ。リンと繋いだことはないが、メインコンピューターのコピーのほうにアクセスしたのかもしれない。むしろアレには、もっと大きな影響が見られる」
手を組んであごを乗せて、立川が視線で促す。頷いて、
「リンに、聞いたそうだ。『KOKORO』を持っているんだね、と。はい、と答えた彼女に、カイトはこう言った。
『羨ましいな。僕にはない』、だそうだ。信じられるか? 私はいまだに信じられん。ブレインのプログラミングも、擬似感情プログラムも、私が作った。人を羨む行動なんて、プログラムしていないんだからな」
「それで……チップを搭載したアンドロイドとリンを、同時に起動させるつもりなのか? ずいぶんと博打に出るな。下手を踏めば、両方のブレインが飛ぶぞ」
「だからこその大容量チップじゃないか」
笑って、美鈴は煙草を消した。
「負荷を最低限に抑える必要がある。もっともこれは、アンドロイドを作るうえで当たり前の工程なんだが、その度合いが比べ物にならない。
自分で言うのもなんだが、マザーコンピューターを越える情報搭載量を持つ例のチップを使わなければ、『KOKORO』を私たちの手で他のVOCALOIDに使うのは不可能だ。
もちろん、あのチップを使ったところで、可能性は100%じゃないんだがね。リンが壊れることはない、断言しよう」
「なぜ言い切れる?」
冷めかけたコーヒーを喉に流し込み、立川。その目はいつもより強く細められ、絶対の可能性に対する嫌疑が見て取れた。
美鈴が肩をすくめる。
「Dr.クリプトンは、それだけの化け物ってことさ。リンは一度、『KOKORO』を受け入れきれずに故障した。しかし、その内臓データは損傷せずに残っていた。彼女が500年前のことを正確に覚えているのがその証拠だ」
「リンの記憶データは、別の場所に保存されている……ということか?」
「ご明察。だが、その場所はそこらのちんけなコンピューターなんかじゃあないんだ。これは私も驚いた。ありえないとすら思ったがね、彼女に起こることは、もう全て真実なんだ。
疑っても意味がない。リンという奇跡を前にしたら、全てを信じなければならない」
明らかに苛立ち、立川が人差し指でテーブルを叩いた。眉は寄せられ、声も獣の唸り声のように低くなる。
「もったいぶるな。俺はそういう態度が一番嫌いだ」
「あぁ、知っている。分かっててやった、すまんな」
一瞬、本気で帰ろうかと思った立川だったが、美鈴が突然虚空を指差し、思わせぶりに笑うので、天才という名の変人を相手にしていることを思い出し、溜息をついた。
彼の内心を見透かしているのかいないのか、美鈴が再び指先を立川が見たところで、言った。
「リンの記憶は、『ここ』にある」
「……明確に言え」
「だから、『ここ』さ。それだけじゃない、どこにでもある」
言いたいことは分かった。だが、直接説明されなければ、どうせ自分は納得しないだろう。立川は無言で続きを促した。
「彼女のデータは、大気にある。ブレインの起動時もそれを体内に取り込むことで、呼び出しているそうだ。どういう手法でやっているかなど、見当もつかないがね。
大気に残されたデータは、たとえ空気が汚染されたとしても、流れによって移動したとしても、全て吸い出されでもしないかぎり、永遠にこの星を循環し続けるらしい」
「では……宇宙では活動できないのか?」
「起動させずに宇宙へ連れ出し、向こうで起動したら、ただのアンドロイドだ。
だが、起動している間は、彼女のブレインに記憶は残っている。そのまま移動すれば何も問題はないさ。
ようするに、彼女のボディがいくら大破しても、リンの中にある大気とのアクセス方法さえ残っていれば、記憶は蘇らせられるということだな」
立川は腕を組み、話の中身を自分に染み込ませていった。そんなことが可能なのだろうか? 奇跡の一言で片付けるには、あまりにももったいない。仕組みさえ理解できれば、科学は大きく進歩するのではないか?
だが、彼は考えるのを止めた。目の前の天才にすら分からないことが、凡人に毛が生えた程度の自分に分かるわけがないのだ。
「それで……話は戻すが。新型のほうが壊れたらどうするんだ? また作り直すこともできるだろうが」
「その時はその時で考えるさ。リンでうまくいったんだから、次も大丈夫だとは思うけれどもね。
あぁ、今日は徹夜になりそうだな。立川、すまんがちょっとだけ付き合ってくれないか?」
そう言うと美鈴は立ち上がった。階段越しにリンたちを呼びながら、車の鍵をポケットに突っ込む。
「どこに行く?」
「リンとマリア嬢を、少し預かってもらおうと思ってね。徹夜で作業をすると、リンに余計な心配をかけてしまう」
「……行ってこい。俺は先に進めている」
「そうか? じゃあすまん、頼む」
家を預けることには何の心配もないのか、下りてきた少女2人と談笑しながら、美鈴は出ていった。
マイクロチップのある台に向かい、顕微鏡を右目につける。ここからはまた、細かい作業が始まるだろう。想像を絶する集中力が必要とされる仕事だ。
息を1つ吐き出し、立川は少しずつ、作業に没頭していった。余計な思考が徐々に締め出されていき、意識は面から点へと変わっていく。
彼の集中しきった神経は、美鈴が帰る瞬間まで途切れることはなかった。
夜の街を照らす街灯が、視界から流れていく。
美鈴とリン、マリーを乗せたエアカーは、ハイウェイを走っていた。目的地まで、1時間ほどかかるらしい。
親戚の家だと、美鈴は言っていた。家族の話は聞いたことがほとんどなかったが、彼女の口調から、これから会いに行く人物とは親しいようだ。
「美鈴さん、そのおじさんって、どんな人なの?」
助手席で風を浴び、白いリボンをパタパタさせながら、リンが聞いてきた。マリーはオープンカーが初めてなのか、運転席と助手席の間から顔を出して、髪の毛を押させて笑っている。
「あぁ、将盆(しょうぼん)おじさんは、すごく変わっている。どう変わっているかは、会ってみればわかるさ。
背が高くて筋肉質だから怖く感じるかもしれないが、とても優しい人だ。昔は何かスポーツでもしてたのだろうけど、聞いてもなぜか答えてくれない。まぁ、おじさんに限ってやましいことではないと思うがね。
センタードームから少し離れたところで、バーを経営している。店員はいないし、アンドロイドも使っていない。客が多いわけでもないから、必要ないと言っていたな」
「今日は、そのおじさまのお家に泊まるのですね。突然お邪魔するのですから、手伝いくらいしたいですわ」
マリーの提案に、リンも笑顔で同意した。
「私もそうしたいな。マリーとなら、お皿洗うくらいできますよ」
美鈴が煙草を右手に持って、煙を吐きながら笑った。
「そうか、将盆おじさんも喜ぶだろう。だが、あまり気にしなくてもいいぞ? おじさんのことだ、2人くらい増えても気にしないだろうからな」
エアカーが左に寄る。ハイウェイを降り、下道を走り出すと、スピードがとても遅く感じられた。前にも車がいるから、速度を上げるわけにはいかないのだが。
全身に浴びていた風がなくなったからか、マリーが後部座席にしっかりと座るのが、気配で感じられる。そういえば、と美鈴が口を開いた。
「マリア嬢、君の家は確か、この辺りじゃなかったか?」
「え? そうですわね。このすぐ近くですけれど。どうかしました?」
首を傾げるマリーに、車を走らせながら答える。隣から感じるリンの視線が大きな期待を含んでおり、くすぐったく感じた。
「なに、いずれリンがお邪魔するだろうから、覚えておきたくてね」
「まぁ! じゃあ、お家の前を通りませんこと? すぐですから、教えてあげますわ」
同意すると、また運転席と助手席の間から体を乗り出し、マリーが道案内を始めた。
彼女の言うとおり、家はハイウェイを降りてすぐのところにあった。この程度ならリンでも覚えられるだろうが、車に乗れないのだから、やはり美鈴が覚えておくことになるだろう。
家の前を通るとき、いつまでも続くような錯覚に陥る外壁と、宮殿のように堂々と佇んでいる豪邸に、リンが息をのんだ。
「わぁ……マリーの家、おっきいねぇ……」
「大きすぎて、部屋は余りすぎてますけれど。お手伝いさんもクリーンアンドロイドも、お掃除が大変そうですわ」
「これだけでかいと、かくれんぼなんて一生終わらないだろうな」
笑う美鈴に、豪邸の姫はしれっと言ってのけた。
「そうですわね。この間お友達とやったら、朝から夜までかかりましたわ」
「やったんだ……」
小さな研究所暮らしの2人は、マリーの家で遊ぶときは一部屋だけで遊べるものにしようと心に誓った。
どれだけ遠ざかっても見えていた豪邸は、やがて建物の海に飲まれて消えていった。もうしばらく走れば、目的のバーにつくようだ。
「バーなんて、大人の響きですわねー。素敵な殿方や令嬢が、カクテルのグラスを軽くぶつけて、殿方に『君の瞳に乾杯』なんて言われるんですわね。
たまにハットを深く被った怪しげな魅力を持つ男性が、わき腹を抑えて駆け込んでくるんですわ。それから、息が切れているにもかかわらず、マスターがいるカウンターに座って、『……なんでもいい、強いのだ』なんて。マスターは何も聞かずに、一番強いお酒をビンごと出すんですの。それを一気に呷る男らしさは、筆舌にしがたいですわ!
そこに飛び込んでくる、怪しい影! ホルスターから銃が抜かれて、ハットの殿方はその音だけで反応して、反撃するんですわ! あぁ、私、テンション上がってきましたわ!」
「途中から西部劇になってるよ、マリー……」
手を胸の前で組んで、目をキラキラさせているマリーに、リンはやはり苦笑いだった。
「ほら、ついたぞ」
美鈴が車を止める。駐車場はないので路上に止めたが、車の通りは少ない。咎められることはないだろう。
到着した先の外見から、マリーの妄想にあった店とは違ったらしい。彼女は店を見るなり、がっかりと肩を落とした。
色とりどりのネオンが鮮やかな大通りから少しそれたところにあるため、ずいぶんと暗い印象を受けるその店は、決して大きいわけではなかった。窓ガラスは入り口の右に一枚だけ、注意して見れば店内が見渡せるほどの透明度を持っていた。
入り口には、唯一の意思表示にも見えるOPENの看板が下がっていた。そこから視線を上げると、夜だというのにずいぶんと暗く、それでも間近で見れば分かる程度に、この店の名前が照らし出されていた。営業していることは、きっと遠目からは分からないだろう。
看板は横文字で、ライトさえ浴びればお客を呼び込むだろう気迫で、
『BOURBON HOUSE』
と書かれていた。舐めまわすように全体を見渡す2人の背中を押して、美鈴が店の中に入る。慌てて、少女たちも続いた。
入って最初に目についたのは、色とりどりに輝くリキュールのビンだった。下から照らされているのか、宝石のように輝くビンたちに、リンとマリーの瞳は同時に奪われている。
壁はおそらく、ダークグリーン。暗くて見えにくいが、目が慣れてくれば分かることだろう。
店内には他に客がおらず、これで経営が成り立っているかが不安になるほどの静けさだった。一昔前のスピーカーから、ジャズが流れている。
ドアが鈴を鳴らして閉まると、カウンターから野太い声が、まるでドアに返事でもするかのように返ってくきた。
「ようこそ、バーボンハウスへ」
声のほうを見て、2人の少女は、またも同時に体を硬直させた。
身長は、190はあるだろうか。大きな体にカフェエプロンをつけて、グラスを磨いている。腕も太く、かなりの腕力があるだろうことは一目で分かった。
その体のわりに顔つきはどこか優しく、眉は困ったようにハの字になっている。丸みのある顔には年齢相応のしわが刻まれていた。
彼は美鈴を見ると、自分の娘を見たときのように、にっこりと笑った。
「いらっしゃい、美鈴ちゃん」
「将盆おじさん、『ちゃん』はないでしょう……。私もいい年なんですから」
「そうかい? 残念だな、気に入ってたんだが。そちらの2人のお嬢さんは?」
いつもの相槌をして、美鈴は2人の背中をまた押す。挨拶を急かされているのはすぐに分かったが、リンは一瞬だけ間を開けてしまったので、マリーが先に、恭しく礼をした。
「マリアロンド・ヴェル・ラダビノードと申します」
「あ、えぇっと、リンです、よろしくお願いします」
「はい、よろしく。今日は、遊びに来てくれたのかな?」
聞かれた美鈴は、とりあえず2人をカウンターに座らせたあと、立ったまま煙草に火をつけた。
それだけで何かを汲み取ったのか、将盆が頷いて、リンとマリーにジュースを出してくれた。透明に近い黄金色の液体は、ライトアップされてキラキラと輝いている。
「リンゴのジュースだけど、よかったかな?」
笑顔で頷く2人の少女に、マスターも微笑んで磨いていたグラスを手に取った。
「美鈴ちゃんは、その一服が終わったら帰るのかい?」
またもちゃんづけで呼ばれていることに、美鈴はもう触れなかった。何を言っても変わらないだろうことは、もう理解しているらしい。
スタンド式の灰皿に灰を落としながら、美鈴が頷く。
「いきなりすいません。リンとマリア嬢を、今日だけお願いします」
「分かった。しかし、このリンという子は、美鈴ちゃんと一緒に暮らしているんだろう?
君がお人形遊びをしていた頃、人形に着せていた服と似たようなものを着せているから、間違いはないと思うんだけれど」
「……おじさん、その話はあんまり……」
リンとマリーは、クールな天才科学者の意外な一面を見たような気がして、想像しては目を合わせて笑っていた。
咳払いをして、美鈴が答える。
「まぁ、確かにリンはうちの子ですがね。アンドロイドなんですよ、彼女」
「あぁ、そうだったのか」
驚くだろうと思っていた少女たちだったが、将盆はチラッとリンを見ただけで、それ以上の追求はしなかった。アンドロイドに興味がないのか、それにしてもさっぱりと聞き流されたので、色々聞かれたときの答えを用意していたリンは、逆に落ち着かなかった。
帰るそぶりを見せた美鈴に、将盆がグラスを置いた。
「気をつけてお帰り。迎えは何時でも構わないからね」
「ありがとう、おじさん。それじゃあ」
カラン、と軽い音を立てて、ドアが閉まった。美鈴のいなくなった店内はやけに静かで、店の主も喋ることなくグラスを磨き始めたので、リンはストローでジュースの氷を突っつくくらいしかやることがなくなった。
彼女のためというわけでもないだろうが、いつの間にかジュースを飲み干していたマリーが、口を開いた。
「おじさま、リンがアンドロイドだって聞いても驚かないんですのね」
マリーのグラスが空だと気づいたのか、将盆は新しいグラスにジュースを注いで、彼女に渡しながら答えた。
「確かにアンドロイドっぽくはないね、リンちゃんは。だけれど、バーボンハウスに足を運んでくれたものは、人間でも機械でも、心を持つアンドロイドであっても、歓迎するだけなんだよ」
「私に心があるって、知ってたんですか?」
自分の胸を押さえて、リンが驚きの声を上げた。マスターは磨き終わったグラスを棚に戻したあと、リンの目を覗き込んだ。
「君の瞳は、機械の瞳じゃないからね」
「……?」
「こんな仕事をしていると、色々な人間に出会うものでね。
恋人に振られた人も、これから結婚する人も、余命がわずかな人もいた。笑顔売りができてもなお、自殺を考えている人間もたくさんいたのさ。
その中には、心をなくしてしまった人もいた。それはまるで、機械の目だったよ。光がない。このビンの色が映っているかも怪しい。そんな瞳だった。
だけれど、リンちゃんは違うね。キラキラしていて、とても素敵な瞳だ」
自分の目は、そんなに輝いていただろうか。リンは鏡に映った自分を思い出していたが、ヒスイ色の瞳は、そこまで明るくなかった気がした。
首を傾げるリンの横では、マリーが頬に両手をやって羨ましそうな声を上げている。
「リン、殿方に口説かれてますわよー」
「口説かれてる? って、さっきマリーが車で言ってた、君の瞳になんとかってやつ?」
「おっと、確かに、はたから聞いたらそう取られてしまうね。美鈴ちゃんのお気に入りに手を出すつもりはないから、前言は撤回させてもらうよ」
「……?」
巻き毛の親友とマスターのやりとりを理解できないリンは、頬杖をついて頭に疑問符を浮かべる。
しばらく、リンのことや研究所のこと、マリーの家のことなどを話しては笑っていた3人だが、思い出したようにリンが手を叩いたので、会話が止まった。
「そうだ、おじさん、お手伝いすることってありますか? お世話になるから、何かやらせてください!」
「あ、そうでしたわね。洗い物とか……お客さん、いませんけれど」
2人の提案に、将盆は苦笑した。もともとが困ったような顔なので、それが本当に苦笑いなのかは、分からなかったが。
「ありがとう。それじゃあ、どうしようか……。マリーちゃんが言ったとおり、お客さんもいないのでね。今こうしてお話に付き合ってくれているだけで、十分ありがたいんだけれど」
「そっかぁ……。じゃあ、お話します?」
リンが言うと、将盆は、こんどはそうだと分かるほどニッコリと笑った。それを確認するや、マリーが質問を投げかける。
「おじさまのお名前、将盆って素敵な響きですけれど、変わっていますわ。どういう意味なんですの?」
「名前の由来かい? それがね、僕にも分からないんだ。なにせ、両親は幼い頃に死んでしまってね。あ、気を使わなくていいよ、もうかなり昔のことだから。
覚えているのは、小さい頃、友達によくからかわれていたことだね。顔がこんなだから、名前を少し縮めて、『困り顔のショボン』なんて呼ばれていた。あだ名はいつもショボンだったよ、意地悪なやつも、一番の友達もそう呼んでいた」
「いじめられてたんですか?」
リンが聞くと、グラスに水を注いで、一気に飲み干したあと、大柄なマスターが答えた。
「うん、そうだね。だから、体を鍛えて見返してやろうと思ったんだ。だけど、結局ケンカになることはなかった。からかっていただけだから、本気でいじめていた子はいなかったよ」
「おじさま、すごいムキムキですけれど、どうやって鍛えたんですの?」
「それは秘密さ」
意味ありげに笑って、自分で飲んだグラスを洗う。
水で濡れた手をタオルで拭うと、将盆は店にかけてあったOPENの札をひっくり返した。今日は店じまいということだろう。
再びキッチンの奥に行くと、スナック菓子とチョコレートを皿に盛って、2人の少女の前に置いた。
「さぁ、どうぞ」
時間はまだ遅すぎるというわけでもないが、普段は夜に菓子を食べることを禁止されているマリーにとって、目の前のそれは禁忌でありながら強い誘惑をもっていた。
すでにチョコレートを口に入れて目を細めているリンを羨ましそうに見ながら、それでも手はなかなか伸びない。彼女の良心が邪魔をしているのだろう。
それを見かねて、将盆が笑って言った。
「今夜のことは、誰にも言わないよ。ここは夢の世界だと思って、好きなだけ召し上がれ」
パッと顔色を明るくして、マリーも菓子に手を伸ばした。満足げに頷いて、将盆も1つ、菓子を手に取り、口に運ぶ。
この日、リンとマリーの夢の世界の魔法は、時計が深夜2時を告げるまでの間、解けることはなかった。
エアカーから降りた美鈴は、1階の研究室に入った。そして、若干驚いた。
まだ作業を続けていると思っていた立川が、椅子の背もたれにぐったりと寄りかかって目をつむっていたからだ。作業台のマイクロチップは、1枚だけ丁寧にカバーがかけてある。彼が作っていたほうだ。
「立川、寝ているのか?」
「……秋山か? 起きているぞ。疲れただけだ」
体を起こし、頭を振る立川をおいて、カバーのかかっているチップを見る。
「だいぶ終わった。あと少しだ」
「ずいぶん早いじゃないか」
答えながら、美鈴は右目に顕微鏡をつけた。チップを覗くと、確かにほとんどの工程が終わっている。美鈴であれば、あと2時間もすれば終わらせられそうだ。
「お前……なんで科学者を辞めた? これだけの腕があれば、一生食っていくなんて簡単だろう」
「やりがいのない仕事を続けるなど、俺には耐えられなかっただけだ」
顕微鏡を外し、美鈴は呆れたように腰に手を当てた。凡人から見れば、立川は間違いなく秀才だろう。自分の求めるものに対して努力する量は、常人では考えられない。
だが、興味がないと分かると、すぐに捨ててみせる。それが一生に関わるものであっても、関係なしにだ。
「興味を引けるものだったから、ここまで集中できた。しかし、ブランクが酷かったな……。目も手も、ろくに動かない。
悪いが、少し寝るぞ。俺の車にいる」
「あぁ、朝まで寝てていいぞ。リン達は、明日の夜にならないと帰ってこないから、それまでに終わらせればいいんだからな」
「起きてみたらお前がチップ2つを終わらせているなど、耐えられん」
言い捨てて去っていく立川を肩をすくめて見送り、美鈴は自分の作業に向かう。
新型の名前は、もう決めてある。驚くリンの顔を早く見たいなどと考え、それらの雑念が徐々に消えていく感覚に精神を委ね、集中の渦に自分を静めていった。