先日行われた創作論破Webオンリーイベント「才華集論」のため、書き下ろした青錆の番外編です。
番外編ですので、こちらの話はスキップして頂いても問題ありません。
ページ分け編集がしてある同じ内容が、ぷらいべったーにも掲載されております。お好きな方でご鑑賞ください。
本編をまだお読みでない方も、プロローグ知識のみでも、十分お楽しみいただけます。
是非ともご鑑賞くださいませ。
◇
カタリロンパ
番外編
「城の中のラプンツェル、青い春を知る。」
◇
1
「おはようございます、レナード卿」
「んぅ…………」
無機質な声が耳をつんざいて、脳が無理やり覚醒させられる。諦めて起きるためにもぞもぞ動いていると、すかさず追い打ちをかけるように機械音声が部屋に鳴り響く。
「ストレスレベルチェックと体温チェックを行なってください」
「…………ななじゅう、いち……。さんじゅうごどろく……」
「ストレスレベルが適正値を超過しています。環境改善案を提出してください。中途覚醒が前回比率3%増加しています。睡眠時間が足りていません。早寝を心掛けてください」
「……んなこと、言われても…………」
毎日一言一句ほとんど変わらない小言を、他でもない血の通わぬ存在に言われるのは流石に癪に障る。思わず飛び出た自らの不満の声にはっとして、しかしAIは構わず続けた。
「本日は4月9日。現在時刻、午前10時3分です。本日の予定は、14時からお客様との
「…………めんかい?」
この生活になってから、文字通り初めて聞くその単語をそのまま繰り返す。
「シュヴァンの解説ではなくて、ですか……?」
「日本の私立高等学校、希望ヶ峰学園からいらしています。昨日ベルリンに到着し、現在ホテルを出発、シュヴァン城に向かっておられます」
「…………………………」
「お支度が済み次第、すみやかに朝食を摂ってください。あと5分以内にナイトハルト氏を向かわせます」
「あ、あ、い、行きます。すみません、すぐ、行きますので……」
何が何だか。突っ込みどころがこれでもかと思いつく台詞を聞きながら、AIの脅し文句に慌てて身支度を済ませる。シャツに袖を通して、スラックスのベルトをはめて、そこにスペアキーを下げる。部屋の外は寒いので、いつものコートを手に取り羽織ってそのまま扉を開けた。
「おはようございます、シュヴァネンブルグ卿」
「……おは、よう……ございます……。フィッシャー、さん……」
廊下に出るなりその場に待ち構えるように立っていた彼と挨拶を交わす。彼は僕の監視役兼世話係。
連邦政府文化メディア委員会のエリートのひとりが、まさかこんな僻地で子守を担当しているとは夢にも思わないだろう。彼も今の仕事には大層不満を抱えているようで……。
僕は彼と出会って以来、このしかめ面以外の表情を目にしたことがなかった。
「食欲は?」
「……りんご、で……」
「……良い加減、卵のひとつくらいは召し上がっていただきたいのですが?」
「……ごめん、なさい……」
厳しい口調でそう言い捨てると、彼はすぐさま僕の背を押して移動を促す。一緒に食堂へ向かうと、彼はそのまま用意していたのであろうりんごをひとつ手に取って、すり下ろしてくれた。
「良い食事を」
「ありがとうございます……」
ご丁寧に添えられたスプーンでりんごを掬って口に含む。ほとんど咀嚼を必要としないこれが、もっぱらの主食だった。食べ慣れた味を用意された分飲み込むために奮闘していれば、フィッシャーさんが朝の薬を並べてくれる。その作業が終わり、彼も二度目の朝食を摂る。黙々とした食事の時間が進んでいく中、突然彼のスマートウォッチに通知が入った。
「…………本当に礼儀がなってないな」
それは、僕がこれまで見た中でも最も不機嫌そうな表情だった。そのまま別段断りもなく離席したので、僕は並べられた薬を全て飲み込んで朝食を終わらせる。
午前中はいつも掃除の時間。まだ日差しがきつくないうちに、目を覚ますのを兼ねて身体を動かすのだ。……さてと。いつも通りに動こうと立ち上がると、そこで勢いよく食堂の扉が開いた。
「いやあ全く! 見渡す限りどこも映えるねえ! さすが世界に誇る文化遺産! はるばる海を超えてきた価値がある!」
「……………………」
唖然。
それは、場違いで見ず知らずの人間だった。
この城を訪ねて来る人は、多い時では1日に30人ほどいる。けれど、その人々の多くがこのシュヴァン城の見学と、僕の解説を目当てにやって来る人々である。誰も彼もお淑やかで、とても親切で、礼儀正しい人たちだった……。なので、僕の知る限りインターネット上でしか見ない類の人物に、この場で耳にすることのない言語に。呆気に取られてしまったのだ。
慌てた様子でフィッシャーさんがやってきて、その男を捕まえた。
「勝手な行動は謹んでください! 私の指示に従って頂くお約束です!」
「そうだけど、用事は早いとこ済ませてしまいましょーよ。お互い暇じゃないでしょ? ……あ、失礼。これからあなたの仕事をまるっと奪っちまうんでしたね」
「あなたのような人たちに、卿をお任せすることに、今、凄まじい嫌悪感を抱いています」
「まあでもあんたの上司が決めた事だからねえ、今更言っても」
……なんの話をしているのか? その言い合いは、流暢な日本語と拙いながらも正確な日本語。この城でこの言語がここまで飛び交うことがあっただろうか。
そういえば、今日は14時頃から"
彼はフィッシャーさんの腕を振り切って、僕を視界に捉えてにんまり笑う。思わず後ずさって、しまったと思った頃には、ずかずかと距離を縮められていた。
「やあ、君が
2
その日はいつもの一日がはじまるはずだった。
いつものようにやっと起き上がって、サポートAIに促されるままメディカルチェックとストレスチェックを済ませて、フィッシャーさんにいつも通り嫌そうに朝食の準備をしてもらって、……なんとか、半個ぶんのすりおろしたりんごを完食して……。
けれど、食事を済ませたころに、フィッシャーさんが今までほとんど見ないくらい不機嫌そうな顔をして、スマートウォッチを見つめていたのを覚えている。彼が無言で席を立ってしばらくしたら……そう、あの人がいきなり入り込んできて、僕の手を引っ張って……。そうしてクルマ、という乗り物に乗せられて、初めて見る景色を窓越しにたくさん見た。人があんな風に暮らしているということを、知識としては知っていたけれど。あんなに色んな人が、色んな世代の人たちがごったがえして、行き交って、それぞれみんな、生きているのだと思ったら……すごく、恐くなって、気持ち悪くなってしまって。クルマから降りるなり、朝胃に入ったばかりの食事を、久しぶりに全部戻してしまった。そこまで付き添ってくれていたフィッシャーさんがてきぱき対応してくれたけど、やはり本当に嫌そうだった。申し訳なくて、恐いのと気持ち悪いのが全然消えなくて……。そこから先のことはあまり覚えてない。
でも……そう、たぶん、僕、
◇
「……あ。気が付いた? 具合はどうかしら」
「…………」
目を開けると、僕はベッドの上に横たわっていた。初めて見る、知らない女の人が僕をじっと見つめている。状況が飲み込めなくて、そのままぐるりと辺りを見回してみる。個室のようだ。とても狭い……。壁際にある机の上には、見慣れたパソコンが置いてあった。僕が部屋に置いていたものと同じモデルだと思う……。
僕が部屋を見るばかりで返事もしないのを、女の人は心配そうに眉を下げた。
「日本語は大丈夫……なんだったよね?」
「だれ……ですか…………?」
「あら、やだ。私ったら……。そうね、自己紹介が先だわ。……はじめまして。
「…………」
思わず口をついて飛び出てしまった言葉が、よく考えれば失礼過ぎて申し訳なくなった。
ミソラハ、さん……。クラスの、担当……。キボウガミネ…………。
「あなたのことは……ええと、シュヴァネンブルク卿、と呼んだ方がいいのかしら……?」
嫌というほど耳にした呼び名を聞いて、僕はぞわりとした。……ここは、シュヴァンじゃない。シュヴァンの外。あの城の敷地の外に、僕は、今、いる。
……それなのに、その肩書きは付いて回るのだろうか……。
「……言いにくいと思うので……ファーストネームで……大丈夫ですよ……」
「分かったわ。じゃあ、レナード君ね」
AIしか呼ばないその聞き慣れない響きにむずがゆさを感じながら、僕は身を起こす。彼女はあっと身体を支えてくれた。
「起き上がって大丈夫?」
「はい……」
起き上がっていつものように、メディカルチェックをしようと左手首に触れる。いつもの固い感触無く、自分の皮膚がそこにあった。
「……? うでわ……」
「ああ、腕の機械はあの人……フィッシャーさんが回収したわ。希望ヶ峰では専門医に任せることになるから……」
……何から何まで、今までの生活と異なるようだ。
まずは自分の状況を、この人に確認しなければ……。記憶の中で最後に会った、あの男の人よりかは話が通じそうで助かった。
「あの……。きぼうがみね、と、いうと……」
「えぇと……そうね。どこまで聞いてるかしら? あなたを迎えに来たおじさんは、どこまで説明してくれた?」
「説明……と、いうものは、特に……なにも……」
「…………。ごめんなさいね、毎回言っても、直してくれなくて」
返事を聞くなり彼女の眉には皺が寄った。けれども、それも一瞬で、僕がまばたきをしたころにはさきほどと変わらない優しい微笑みを浮かべていた。それから、彼女はそれがもう慣れたことなのだといわんばかりに、いちから丁寧にひとつずつ解説してくれた……。
まず、僕は来期の"
「とりあえず……ざっくり事情を説明すると、こんな感じね。何か聞きたいことはある?」
彼女は説明に一息入れると、改めて僕に質問してきた。
そもそも自分に、国境を越えるほどの才覚があるとは思えない。"理解力"が気に入られたとはいうものの、それがどんな能力なのかも不明で実感が無い……。シュヴァンは、フィッシャーさんは、僕は今後どうなるのか……。……正直、まだまだ聞きたいことは山ほどある。
けれど、それらより先に把握しておくべき情報が他にあった。
「えっと、……この、部屋は……」
「ここは学生寮のあなたの個室になります。向こうの扉に洗面台と、シャワー。その奥にお手洗いもあるわ。あ、そうそう。今まで使っていたパソコンや、着替えは送ってもらったのだけど……。他に何か必要なものがあったら、遠慮なく言ってね」
なるほど。極力僕に不便を感じさせないように配慮してもらえるみたいだ。……どちらかといえば……僕を刺激しないように、という点での対処なのであろうが。
……ともかく。
こうして、僕の学園生活がゆるやかに始まったのだった。
3
「おはよう、レナード君」
「……おはよう、ございます……」
一日ぶりに見る彼女の姿に、少し驚きながらもしっかりと挨拶を返した。時計を見れば、もうすぐ午前11時になるところ。やっと頭が起きてきて、着替えを済ませた直後だった。
「今朝は食堂には来ていなかったみたいだけど、朝食はどうしたの?」
「……まだ……。さっき、起きた、ばかりで……」
「そう。だと思って、少し残り物を貰ってきたわ。どうぞ」
「…………」
彼女はそう言って手に持っていたトレイをベッド脇の小さなテーブルに乗せた。僕の食欲が毎朝ど底辺なのは、フィッシャーさんから聞いているのだろう。常人が一食のうち胃に収めるであろう量より、だいぶ少ない量の料理が皿に乗っていた。それでも今の僕には、到底完食出来そうにない。
半分食べるのにどのくらい時間がかかるだろう、とぼんやり考えていれば、ミソラハさんはひとこと言って近くの椅子に腰掛けた。
「ごめんなさいね。一人でいきなり外国に連れて来られて……勝手も分からなくて大変だと思うけど、先輩たちを頼って大丈夫だからね」
「…………」
はい、とフォークを差し出されたので、それを手に取る。握りしめたはいいものの、どれから手をつけたものか。まだ覚醒しきっておらず、頭がぼんやりしている。
人を頼る、というのも。正直言って、どうすればいいのか分からなかった。シュヴァンに会いたい。帰りたい。目が覚めてから、シュヴァンの声が聞こえない。それはそうだ、ここにシュヴァンはもういない。物理的に遠い地に連れて来られてしまったのだから……。
「……何か不満がある? それとも帰りたい?」
「いっ……いえ! 僕……の、立場は、もう、分かっている、ので……」
どうせ帰りたいと申告したところで、それだけでしょう。
僕の望みは聞き入れられるだけで、それが叶うことはない。分かっている。どうあがいても僕には、数年ここで過ごすことしか許されていないのだ。
「ほかの……ひと……が、いる……ん、ですね……」
「…………」
絞り出すようにそう言えば、彼女は驚いたように口を噤んでしまった。それから首を右に左に傾けて、困惑したように肩を落とす。
「そう……ね。そうか……。うん……。共同生活は初めてだったわね。ごめんなさい……気が回らなくて……」
「いえ、あの、ミソラハさん、は……別に、謝らなくても……」
それを決めたのはこの人ではない。もちろんフィッシャーさんでもない。僕を監視の外に置くだなんて判断を、委員会の人たちが許すはずがない。もっと上の、それこそ
「へやの、そと……に、出るのは、……」
言い掛けた言葉が、喉につかえて出て来ない。心臓がどくどくと嫌な音を鳴らしているのが分かった。僕の意志と関係なく小刻みに揺れる手に、ぎゅっと力を込めて肩を抱く。縮こまった方が落ち着くから、背中を丸めて息を吐いた。
それでもミソラハさんは、僕の続きの言葉を汲んでくれた様子でゆっくりと頷く。
「分かったわ。じゃあ、ご飯は毎日、私が持って来るようにするね」
「え、ぁ、で、でもっ……。ミソラハさん、の、お仕事、が……」
「私はあなたの担任の先生よ。今はまだ学園に私の生徒はあなただけなの。確かに仕事はあるのだけれど……はっきり言うと暇なのよ! ふふ、気分転換にお話相手になってくれない?」
僕はすぐに理解した。その言葉は本当で、けれど
躊躇われたが、有難いことこの上ないのは事実だった。僕はその提案を素直に受けることにした。
「そうだ、これから学園で過ごしてもらうにあたって……。あなたの学力レベルを、今のうちに把握しておかないと。新入生はみんな日本の義務教育は終えてるから、レナード君も、そこを合わせないとね」
僕の返事を待たず空気を変えるように、彼女はぱんと両手を合わせる。
ミソラハさんは、傍に置いてあった数冊の本を手に取って、僕に見せた。……初日からそこにあったことに気付くのに、僕はこの瞬間まで掛かってしまったようだ。
「時間があったら、この問題集を一通りやってみて。……あ、翻訳アプリを使うから、ドイツ語でも大丈夫よ。ブロック体で書いて欲しいけど……」
「い、いえ。あの、日本語、で、書けます……」
正直言って、僕に学力なんてものは皆無だと思う。まして異国の……。これが水準に達していなかったら、僕はどうなるのだろうか。ここでもひとりさみしく学んでいくんだろうな……。
……とにかく、いい暇つぶしを見つけたと思った。
4
「まだ外は怖いかしら?」
「…………」
あれから、数日。つい一昨日まで体調を崩してしまって、連日寝込んでしまっていた。昨日から少しずつ落ち着いて、ミソラハさんが窓を開けたり、外を見せてくれたりしていたのだが……。それでも僕がベッドから動かないのを見て、困ったように彼女は笑うのだった。
返事もしない僕を優しい眼差しで見つめながら、彼女は手に持っていたトレイを僕の目の前に置いた。
「これ、は……?」
「お粥っていうの。普通に炊いたお米を煮込んでくたくたにした料理よ。日本では身体が弱っていたり、食欲がなかったりした時の定番の料理ね」
「わざわざ、用意……して、くださったん、ですか……?」
「すりおろしたりんごだけじゃ、栄養が足りないわ。知り合いに管理栄養士がいてね、アドバイスをもらって作ってみたの」
「ミソラハさん、が……?」
美空羽さんと目の前の料理を交互に見る。彼女はにっこりと微笑んだ。ゆっくりスプーンを手に取ると、彼女はそのままの笑みでこくりと頷く。
スプーンで掬ってみる。なるほど、
「どうかしら? お口に合う?」
思った通り、とろとろの食感。固形物というよりは、粘度の高い液体だ。こくりとそのまま飲み込める。あたたかいものが食道を通って胃に収まったのが分かった。温度のある飲み物を飲んだ時と同じような、ほっとする感覚……。
「おいしいです……。りんごより、とても、食べやすくて……」
「よかった」
たくさん食べてね、とまた彼女は微笑む。僕はまたひとくち、ひとくちとスプーンで掬って、喉に通した。
お腹が膨れる、という感覚はこういうことかと、僕はこの日初めて認識出来た。
◇
ごちそうさまでしたと手を合わせる。日本式の挨拶だ。おそるおそる隣の彼女を見上げれば、「おそまつさまでした」と返ってきた。どうやら合っていたみたいだ。
空になった食器を嬉しそうに見つめながら、彼女はトレイを横に移動させる。
「昨日、少しお医者さんたちの話を聞いてきたわ。レナード君、9月の入学式までに……15kg太りましょう」
「えっ……ひと月で3kg……は、む、無理……ですよ!?」
「最低でも5ヶ月で5kgは増やしましょう」
「そう……言われても……食べれ、なくて……」
今日はとても食が進んだとはいえ、現に食べ終わったのはこんな時間だ。明日の僕も、ものを口に出来るとは限らない。
……手っ取り早いのは、もりもり食べて過度な運動をしないことだろう。食材も野菜だけではなく肉類も食べて、少し脂質が多めの食事を摂れるようにして……理論的には日々の食事にプラス230kcal。確かに、5ヶ月で5kgは十分現実的な範囲ではある……。
けれどそれは、
「お薬を見させてもらって……ちょっと減らそうと思うの。そうしたら少しは食欲がわくと思うわ」
「……飲んでるのが、どういう……薬っていうの、あんまり僕、知らないんですけど……」
「強めの抑制剤が多いかなあって印象ね。今までは、寝ていることの方が多かったんじゃない?」
「……そう……です、ね…………」
強い抑制剤……。そんなもの飲まされていたのか……。……まあ、僕の
「……それ、たぶん……減らされると、困るやつ……です……」
「一般的にはもう少し元気な方が健全だわ」
「それは僕に、求められて、ないと、思うので……」
正直に返事をすれば、彼女は一瞬目を丸くして、すぐに怒ったような顔になってしまった。
何か変なことを言っただろうか? 間違えてしまったのだろうか? 理由が分からなくて狼狽えていれば、彼女はまたすぐに微笑んで「これ、下げちゃうわね」とトレイを持って行ってしまった。
美空羽さんが出て行って。考えても分からないことを考えるのはやめて……ひとまず僕は、例の問題集を広げてみた。随分前に同じような問題を解いた気がする。一冊ずつ、さっそく始めてみると、案外楽しくて夢中になってしまった……。
5
「おはよう、レナード君」
「おはよう、ございます……」
さらに数日経ち。ようやく、美空羽さんとこの空間にもだいぶ慣れてきた。相変わらず体調を崩す日もあったけれど、最近は起きている時の方が多い気がした。
「ちょっと起き上がれるようになってきた?」
「おとといより、具合は良いです……」
「9月までにはC判定くらいにしたいわね!」
「……基準値が、分からないのですけど……。結構無茶言ってます、よね……?」
けれども、美空羽さんは明るく笑い飛ばすように。
「大丈夫大丈夫! ここは
「……それなりに、学生生活が困らない程度で、いいですから……」
……まただ。時折美空羽さんは僕の返事に面白くなさそうな顔をする。けれどすぐに優しく微笑んで、「そんなことないわ」と言うのだ。
きっと僕の返答が気に入らないのだろうけれど……。でも、所詮は他人のことである。彼女がそこまで親身になってくれる理由もない。何度考えても、やっぱりこの疑問の答えは浮かんでこない。
ふと視線を変えると、記入済みの問題集が目に入った。
「あ、そうだ……。あの、この前の、やつ。終わりました……」
「あら、早いわね。ありがとう。ちょっと見させてもらうね……」
美空羽さんはそう言って、早速一冊を手に取って捲る。記入漏れが無いかの確認だろう。そのままぱらぱらと見ていくと、あるページで手が止まった。
「こ、国語は……やらなくても良かったのよ?」
「……はぁ、でも……。おもしろかったので……」
とてもいい暇つぶしになった。簡単なものばかりだったけれど……ちょっとしたパズルみたいなものだ。ベッドから起き上がれなくても、ペンが持てれば進められたのも良かった。体調が悪くて寝込んでいても、暇なときは暇だ。何も出来ずただ横になる時間も、苦痛といえばそう。だから、紛らわせられるものがあって助かったのは本当だった。
「え、ちょ……。あれ? レナード君て、学校……行ってないわよね? 教材だけは揃えたって、フィッシャーさんに聞いていたんだけど……」
「はあ……。そう、ですね……。勉強は……はい、自分で……」
「教師は特に雇ってないって聞いたけど……」
「はい……特には……。解答ページに付いている、解説読んだら、分かったので……別に、必要も、なかったですから……」
ぺらり、ぺらりと問題集を捲っていく音が響く。美空羽さんの表情はさらに難しくなっていった。
……あまりに突飛な解答をした覚えはないが……?
「……現代文はともかく、古文や漢文は、そっちの教材にない……わよね?」
「それは……おもしろそうだったので……。その辺の本も、すこしお願いして……いろいろ、調べたことがあって……。あ、あの。すみません……。やらない方が良かった、です……か?」
大層困惑した彼女の様子に、僕はかえって心配になって聞いてみた。義務教育の基準に合わせるため、僕の学力レベルを計っておく……。なるほどそうか、本来僕のような留学生は、日本語の勉強は必須ではないから、ということか……?
僕がひとつ、もっともらしい答えを頭の中で導き出したところで、美空羽さんは問題集を見つめながら首を振った。
「……う、ううん。びっくりしただけ。……そっか、これが"
「……いや……。……そん、な、ことは…………」
おそらく褒められたのだろう。けれども、僕には今まで比較対象が居なかったし、今も居ないようだし……。それが褒め言葉なのだと、すんなり受け入れることが出来なかった。……本当に。ただただ、良い暇潰しだなあとしか思わなかったんだよな……。
問題集の解答欄が全て埋まっているのを確認すると、美空羽さんは本を閉じて僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ねえ、レナード君。頑張って図書室に行ってみない?」
「え……」
「少しずつ、部屋から出る練習をしましょう。学生生活は、この部屋の中じゃ成立しないわ。……平日の授業中は、人もほとんどいないし……。ちょっとずつ人に慣れておきましょう」
「……としょ、しつって、学園の……施設、です、よね……?」
「たくさん本があるわ。もしかしたら、今まで全く触れたことのない知識もあるかも。どう? 興味がわかない?」
「興味……は、あります……。すごく……」
でも……と続くはずの言葉は、突然のことに掻き消えてしまった。美空羽さんが、僕の手を握りしめたのだ。
柔らかく、温かい、肌の感触……。
それがなんだか、とてつもなく恐ろしく思えて、僕は咄嗟に振り払ってしまった。
「あ…………」
「あ……ごめんなさい、私ったら……。触れられるのは嫌よね、本当にごめんなさい……」
「……い、いえ……。ぼ、ぼく、こそ…………」
心臓がばくばくと鳴っているのが分かった。その動悸が気持ち悪くて、咄嗟に胸を押さえてしまう。息苦しさに耐えていれば、美空羽さんがそっと背を撫でてくれたが、僕はそれも怖くて……。
でも今度は拒否出来ずに、ただこの波がおさまるのを待つしかなかった。
6
こそこそと壁に隠れながら、周囲に人がいないかを念入りに確認して少しずつ進んで行く……。
そう、今日は美空羽先生に言われた通り。ようやく部屋の外に出てみた。幾度目かのチャレンジである。そう、目指すは図書室。
あの日、彼女に提案されてからドアの前に立って、ノブに手を掛けて……。この隔たりの一歩先の出来事をシュミレートしては戻り、シュミレートしては戻り……。そうして今日、意を決してドアを開いた勢いのまま、現在に至るというわけ。何度も考えた作戦の通りに身体を動かしていく。やっとのことで、個室がある建物の一階に降りてみれば、そこに学園施設の案内図があったので助かった。
覚えた道順通りに廊下を進む。彼女が言っていたとおり、昼間は授業中のようで、出歩く人はほとんどいなかった。それでも通り過ぎる人や背後を去っていく人を目にすると、冷や汗をかいてしまう。階段を登ってしばらく行けば、ようやく目的地が見えて来た。これまでの道中、こんなに身体を動かしたのはいつぶりだろう。シュヴァンで最後に掃除した時だから……2ヶ月ほど……? 発作が出ないように、薬を飲んできていてよかった。右に左に、また念入りに人が居ないか確認して、最後の廊下を一気に抜ける。
逃げ込むように図書室に入れば、わあと思わず声が漏れてしまった。……パッと見た区画だけでも、シュヴァンの書庫と同規模な……いや、
久しぶりに、夢中で本を選んで回った。
◇
「レナード君」
はっとして振り向けば、にこやかな笑みを浮かべた美空羽先生がそこに立っていた。
「遊びに来てくれたのね。面白そうな本はあったかしら?」
「えっと……」
彼女の質問に、僕は抱えた数冊の本にちらりと目を落とす。そういえば、夢中で手に取ってしまったものだが……。ずっとここで過ごすということは、多少なりとも他者と遭遇する確率は上がるわけで……。
どうしようかと抱えた本を見つめていると、美空羽先生は一歩近付いて手招きをした。
「大丈夫。一緒に貸し出し手続きをしましょう。持ち帰って、個室でゆっくり読むのがいいわ」
彼女に促されるがままに図書室の隅へ移動する。カウンターと機械が置いてある場所だ。先生は「読みたい本はこれ?」と僕に確認すると、そのまま僕の手から本を預かって、機械の上に置いた。これが"貸し出し手続き"のようだったが……。勝手が何も分からず、僕はそのまま全て美空羽先生に任せてしまって……。気が付いたら、既に手続きは終わっていた。
「はい、これ」
本と共に渡されたカードには、僕の名前と、希望ヶ峰の名前、校章が記載されていた。身分証のようなものだろうか? 僕には使う機会がなかったので持ったことはないけれど……。
「学生証。仮のだけどね。正確にはまだ新入生じゃないから……」
そう断ってから、美空羽先生は仮学生証での貸し出し手続きを改めて教えてくれた。貸し出し機器にこの仮学生証を読み取らせて……次に借りたい本に付いているコードを読み取らせて……画面の冊数が正しいことを確認して……下の完了表示を押す……。
「読み終わって返す時は、そっちの返却台にまとめて置いて、冊数が合っていれば返却完了だからね。隣の棚に置いてくれれば、図書委員の子達が元の棚に戻しておいてくれるわ。貸し出し期限は二週間で、延長したい時はまた貸し出し機器で借りる時と同じようにスキャンしてね」
「…………」
「分かった? 初めての機械がたくさんで、ちょっと難しかったかしら……」
「……あ、だ、だい、じょうぶ……です……。分かりました……」
僕は渡された仮学生証にまた目を落として、それを見つめる。永遠に変わることのない文字列がそこに表示されていた。
「……あの……」
「うん? なあに?」
「……僕……その、名前……。……って、偽名……とかでも、いいんでしょうか……」
言い終わって、僕は自分が何を言ったのかを理解した。名前を変えろ? 何を言っているのか。身分証に偽名を使うことが許されるのか?
とんでもない我儘を言ってしまったと、気付いた頃にはもう遅く。その台詞はしっかり彼女の耳に入ってしまっていた。
「たまにそういう子たちもいるから、もちろん大丈夫よ。……けど、急にどうして?」
「…………」
「綴りが違う? それとも発音が違った?」
「いえ、あの……。あんまり……好き、じゃ、なくって……」
「居心地悪いかな」
「…………」
なんて……言えば良いんだろう。分からない。今までそれを聞き入れられたことも、そんなことを言った試しも無かった。自分でも何故こんなことを口に出したのか分からなかった。……いや、本当は。本当はずっと、……そう、思っていたのかもしれない。
「嫌?」
「い、や…………です……」
「そっか」
察したように、促すように。彼女から出た台詞に便乗して。同じ言葉を繰り返した。
思っていたよりも随分呆気ない、そんな反応をして。……それからすぐに、ぱっと明るく微笑んだ。
「じゃあ名前変えちゃおう!」
「い、…………良い、ん……です、か……?」
「もちろん。だってレナード君、お父さんは日本人なんでしょう? お父さんの苗字を使っても、それはちゃんとあなたの名前だわ」
「お、とう、さん…………」
「……あ、ごめん。
「い、いえ。聞かされては、いるので……知ってます……」
お父さん。お父さん、か……。僕の、知らない人……。父親……。苗字は、確か……。
「……
「そうそう、珍しいから覚えやすいと思うわ。下の名前はどうしよっか。もしかして、ファーストネームも嫌かな?」
「…………嫌です……」
被せるように拒絶の言葉を口に出せば、彼女はやさしく微笑んだ。きっと僕の台詞は、全てお見通しなのだろう。
「じゃあ思い切って愛称とかにしちゃう? それか、他に慣れてる呼び名でも良いわ。少しでも楽しく過ごせるようにしちゃいましょう!」
「じゃあ、レイ……で……」
呼び名……。レナード……レイ……0…………。
そういえば、ゲームのハンドルネームも、それで決めたんだっけ……。言いやすいし、なんだかすごく、嬉しい響き。分からないけど……きっと誰かがそう呼んでくれてた時があったのかもしれないな……。
「レイ君? うん、良いじゃない! じゃあ決まりね。
「た、ぶん……? 国の方に、そういう、記録があると思うので、それを見てもらえれば……」
漢字のことは正直あまり詳しくない。文字そのものに意味がついている便利な文字、という認識だ。簡単な漢字はおおよそ頭に入っているが、名前に使うもの、というと適切なものがわからない。
……けれど、とにかく。僕の要望がひとつ叶った。それがなんだか、とても……不思議な感じで。
せっかく借りて持ってきた本を、部屋の机に置いたまま……。その日、僕はぼんやりと窓の外にある青空を見つめるだけだった。
7
「おはよう、青錆君」
「……おは、…………す……」
あれから。美空羽先生は、僕のことを「青錆」と呼ぶようになった。まだ耳慣れないこそばゆい感覚がしたが、新しい人生が始まったようでとても晴々しい気分だった。
「今日は具合が良くないかしら……」
「……いえ……。まだちょっと……ねぼけて、…………」
昨日は久々に少しゲームを触ってみた。部屋に置いてあったパソコンは、やっぱり以前僕が使っていたそのものを送ってくれていたようで……。ゲームデータをインストールから始める必要無く、スムーズにログイン出来た。ゲームのフレンドから改めて"0"と呼ばれて、ああ、僕はこれから現実でもその名前で生活するんだなあとしみじみ思った。顔も名前も知らない画面の向こうの相手には、何の気も遣わずにやり取りすることが出来て……。ほんとうに。久しぶりに、没頭してしまったのだ。
「夜更かし癖も頑張って改善していきましょ! ほらカーテン開けて! 朝日を浴びるといいのよ」
「セロトニン……とかですか……」
「そうそう! 知ってるならなおのこと、実践実践!」
先生に促されるまま、部屋のカーテンをめくってみる。眩い光が部屋に差し込む。今日も快晴のようだ。思わず瞑ってしまった目を無理やり少しずつ開いてみれば、だんだん慣れて来て視界がはっきりした。そういえば、フィッシャーさんも似たようなことを言って……だから、午前中は外掃除に行くことが多かったんだっけな。
窓の外から下を見れば、ちらほらと人がいるのが分かった。学園の生徒たち……先輩たちだ。図書室への道のりで、何度かすれ違ったことがある先輩たちは……誰もが明るい表情で、活気に満ち溢れていた。
「先輩達が気になる?」
「たのしそう……」
「そうね。普通の学校より自由度が高いから、その分好きなことに時間を費やせてると思うわ」
「…………」
「青錆君も。学園の中でなら、どこへ行ったって良いのよ?」
自由って、なんだろう? 別に僕は……今までのようにシュヴァンの中で、求められた仕事をこなすだけでだって、じゅうぶん……。…………。そう、じゅうぶん。僕としては、この上無いくらい自由にさせてもらっているつもりだ。
「いいです……。ここで……」
昨日持って来ていた本を取り出して、ベッドの上から動かず開く。僕に許されている範囲でなら、とっくに自由にしている。だから僕は、これまで通りでいい。これ以上はいくらなんでも求めすぎだ。自分自身の身体と、環境と、その他取り巻くすべてを見たら……"今"がいちばん、自由なのに変わり無い。
「じゅうぶん、好きにさせてもらってますから……」
「青錆君」
「……え? なに……うわ!?」
先生はまたいつものように顔を顰めたかと思えば、突然
僕はそのまま、大人とはいえ女の人の力にも勝てないまま、彼女に手を引かれ足を動かすほかなかった。
◇
「先生……っ、先生! 美空羽先生! まって、まってください!」
何度訴えたか分からない懇願をようやく聞き入れられた時にはもう、屋外に出ていた。眩い光にくらんで、今度は僕が彼女の手を掴む。
「見て、青錆君」
涼しい風が頬を撫でて、草木の香りが鼻をくすぐった。言われるがままに慣れてきた目を向ければ、そこは。
「う、……わあ……」
まさに、この世の楽園という単語が相応しい景色だった。
色とりどりの輝きを放つ美しい花々が、そよ風に揺られている。丁寧に剪定された木々のシルエットも、葉が触れ合う音も、草と花の香りも、すべて……。全てが生のエネルギーに満ち溢れているような……そこはそんな庭園だった。
「庭師や美化委員……。園芸系の才能の生徒たちがお世話している中庭よ。どう? とってもすてきでしょう?」
「きれい……」
「もっと近くでご覧なさいな」
ほら、と促されて、一歩踏み出す。近くの花壇に膝をついて、揺れる花を見つめた。小さくて愛らしい花を咲かせている。とてもきれいだ。水やりのあとだろうか? 土は少し湿っていて、葉に水滴がついている。なんという花だろうか? 向こうの花壇も、隣も。木々が咲かせている花も。まるで自分のうつくしさを自慢げに魅せるように、個性豊かな様々な色を主張する花たちは、初めて見たものばかりだった。
「先生、ありがとうございます……。こんな綺麗なところ、僕……はじめて見ました……」
「
「…………」
したり顔で。彼女がそう言うので、僕は少し考えてみた。ここよりうつくしい場所。確かに、シュヴァンはいつだって違った美しさを魅せてくれる。けど……僕がいま、ここで感じたものは、彼とはまた別の意味の美しさだ。
「君がいた世界はほんのちいさな場所なのよ。世界はもっと広いんだって、もっときれいな場所がたくさんあるんだって、それを知らないのは……もったいないと思わない?」
彼女の言う通りかもしれない。だって、実際僕は、こうして学園に連れ出されるまで……
「青錆君。君はここで、いろんな人とお話出来るわ。今まで生きていた世界では出会わない人たち……。それこそ、ひと一人が一生のうち出会える世界より、きっと、ずっとずっと多くの、あらゆる道を歩んでいる人たちと」
「……いい……のかな……」
「もちろん。たくさん知らないことを知って、学んで。
彼女はそう言って、まっすぐに僕の目を見据えた。今まで会ったどの人の目とも違う、わからないそれ……。僕はすぐに、彼女のたったいまの言葉の意味を実感した。彼女こそがまさに、この場にいる「出会わないはずの世界のひと」の一人なのだと。
「それが、君の"才能"を育てるということなのよ」
「知って、蓄え、役に立てる」。それが、僕の持っているその"才能"とやらの活用方法。今はまだ、知識が足りない。これを役立てる方法が分からない。本当にそんな能力があったとして、これでは宝の持ち腐れだ。
……なるほど、"希望ヶ峰学園"。"才能を育てる場所"……。
僕の行末は、今はまだ分からないけれど。ひとまずここにいる間は、彼女の言う通りにしていきたいと思った。
いつか、こんな僕も……。
誰かの役に立てる日が来るのだろうか。
そうだったら、嬉しいな。
◇◇◇
カタリロンパ
番外編
「城の中のラプンツェル、青い春を知る。」
完