カタリロンパ   作:カタリベガタリ

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 結局、笛吹き男は捕まらず終いで、ここのところの章平の目論見は正直上手くいっていない。思えば生真面目な彼のことだ。誰にも合鍵を預けていない自室にこもって、全ての人間関係を遮断しているのだろう……。

 むくりとベッドからようやく起き上がる。ピンポンと軽快なチャイムが鳴って、章平はまだ眠い目を擦りながら寝巻きのまま扉を開ける。もちろん、そこにいたのはいつも通り。朝の支度を手伝いに来た有子だ。

 ここ最近は、有子はほとんどの時間を女子たちと過ごしているようだった。同性同士気楽だろうし、特にこれと言って不満点は無いのだが……。朝晩、起床の支度と就寝準備を手伝ってもらう以外、二人きりで過ごすことはめっきり減った。簡単な会話を少しするだけで……以前はどう話していたのかさえ分からなくなってしまうほどに、章平は得も言われぬ気まずさを感じていた……。

 

「おはよう、ショウくん」

「おはようありす」

 

 毎日欠かさず挨拶を交わしているとはいえ、それだけだ。以前からこのような距離感だったろうか? そういえば、最近だけでなく……以前からすでに、二人きりの時間は減っていた気がする。少し前の事件の時も、知らない間に夜更かしをしていたと言っていたし……あの城主といつの間にあんなに距離を縮めていたのか分からない。それは章平があちこちふらふらと行動していたから……。……それだけの理由では、なさそうだった。

 いつもと同じルーティン。朝の支度が終われば、部屋を出て食堂へ向かう。扉を開くと香ばしいかおりが鼻をくすぐり、白雪姫と妖精が厨房で言い合っている。朝はゆったりめだった加連も菊音も、最近は早起きのようで、ついに章平たちが一番のお寝坊さんとなっていた。他の生徒たちはにこやかに談笑して食事の準備が完了するのを待っている。……そこにあの笛吹き男の姿は無い。もう慣れ始めたその景色をとても寂しく思って、しかし章平はまだどうすることも出来ていない。席に着けば食事の用意が速やかになされ、いつものように挨拶をしようと手を合わす。

 

「やあやあ、皆様お揃いでおはようございます!」

 

 そこで突然現れたのは――全ての元凶である白黒の狐。

 章平は思わずびくりと肩を震わせて、こんな小さなぬいぐるみに驚いてしまった。瞬きをする間に、突然目の前に現れたのだから当然といえば当然なのだが――……。

 他の生徒も章平と同じく身構えて、狐が現れた机の上を取り囲んだ。白雪がきっと睨み付ける。

 

「あんた、また何の用で姿を現したのよ? まさか――」

「ええ、もちろん。そのまさかです。今回も"動機"をご用意させていただきました!」

 

 ご機嫌にステッキを振り回して、狐紳士はニタニタ笑う。――正確には、ぬいぐるみの表情は変わらないのだが――そんな風に感じさせるような、悪趣味な音声のトーンなのだ。

 

「それでは皆さん、視聴覚室へご移動ください」

 

 次に繰り出された言葉が、思いがけないものだったので――生徒たちは互いに顔を見合わせてから、素直にその疑問をぬいぐるみにぶつけた。

 

「視聴覚室? なんで?」

「行けば分かります、行けば……」

 

 含みを持たせて、静々と去っていくぬいぐるみ。生徒たちはお互いに顔を見合わせて、しかし選択肢はひとつだけだった。女リーダーである白雪姫を先頭にして、レディーファースト。珍しくぞろぞろと大所帯で廊下を移動することになった……。

 

 

 

◇

 

 

 

 この教室に入ったのは、章平にとっては捜査時間以来である。それ以外この施設に、これといって用事は無かったのだから仕方あるまい。しかし――……。その程度の使用頻度であっても明らかな、今までとは違う存在を、入室するなり確認した。

 

「何あれ?」

 

 真っ先に反応したのは、靴職人だった。呆れたような、怒ったような、そんな風な声を出して怪訝な顔をして見せる。それは、思っていたよりずっと大型の、布を被せられたな(・)に(・)か(・)だった。

 最後の一人が入室したのを確認すると、ぽてぽてと再び狐紳士が姿を表す。

 

「お待ちしておりましたよ」

「てか赤柳ちゃんは?」

「先にいるとおもってたけど、いないね」

「彼には別時間に説明致しますよ。団体行動をするつもりが全く無いようなので……。んもぅ、ほんと困ったさんですよねえ」

「誰のせいで……」

 

 てっきりフルーティストも合流するものだと思い込んでいた章平は、そこに望む人物が居なかったことに落胆した。靴職人も考えは同じだったようで……。質問に対する答えはがっかりするものだった。

 改めて赤ずきんが、教室のど真ん中に鎮座する謎の物体を指差す。

 

「ねえ、それ何?」

「よくぞ聞いてくださいました。これこそが今回の"動機"……」

 

 仰々しく大振りで動いてからモノヴォルは、ばさりと勢いよくその布を剥ぎ取る。そこから出てきたのは――……。

 

「テレレテッテレー! ペアレンツテレフォン〜!」

 

 聴き馴染みのある特徴的な声を真似したかのようにそう言って、その機械を指し示す。それは、今までそこには無かった古(・)い(・)電(・)話(・)機(・)のような機械だった。

 

「固定電話?」

「え〜ダイヤル式じゃん、初めて見た……」

「これが……なに?」

「皆様ご自身のご(・)両(・)親(・)と(・)お(・)話(・)出(・)来(・)る(・)電話でございますよ」

 

 新しい道具に、生徒たちは口々に感想を述べる。今ではもう全く見かけない古いタイプの電話機に、皆興味津々だ。

 

「このカードリーダーに、皆様の電子生徒手帳をピッとスキャンして頂くと、あらふしぎ〜! 皆様それぞれの親御さんに繋がり、お話することが出来ます! 一度の使用に制限時間が設けられていますので、連続で何時間もお話することは出来ないのですが……。まあ、一回15分あれば十分でしょう?」

「え……別に使わないんだ、ダイヤル……」

 

 旧式のシステムが物珍しくて興味津々だった生徒たちの目は、すっかり残念そうな眼差しに変わる。

 電話番号はどのように判別するのだろう。電子生徒手帳にそんな機能が付随されていたのか。ハイテクな機器だなあ……。章平はそんなことを考えながら、生徒たちのやりとりを聞き流し佇んでいた。

 

「両親と話せるってどういうこと? 家族と話せるの?」

「ご両親はご両親、血の繋がった肉親です……あっ! 血の繋がったご両親が分からない方のこと忘れていましたね!」

「ねぇ、うるさいんだけど〜」

 

 失言という割には嬉しそうに口を押さえながら、紳士の狐はぱたぱたと足を動かす。表情はにこやかなままほぼ名指しの孤児は、ご丁寧に期待された文句を言う。それに満足したのか、モノヴォルは再びくししと笑ってステッキをこつんと鳴らす。

 

「まあ例え解(・)ら(・)ず(・)と(・)も(・)、お(・)話(・)す(・)る(・)こ(・)と(・)は(・)出(・)来(・)ま(・)す(・)からね! 加連君もきっと楽しんで頂けますよ!」

「は? どゆこと……」

 

 意味深長なセリフを放ち、にまりと笑う。当の本人が反応するより早く、狐はまたくるりとステッキを回して話を進めていく。

 

「……ああ、そうそう。皆様おひとり一度は必ずご利用くださいね。というのも、今回の"動機"としてお出しさせていただいたので、使って貰わなくちゃあ意味が無いんですよ。良いですか? 一度は必ず使用してくださいね。ワタクシ、使用記録を閲覧出来ますからね。どなたが使用していないのか分かりますから……」

「いーから! 分かったから、とっとと失せなさい!」

 

 追加のルールを押し付けながらべらべらとまた長い話が始まったのを、白雪が声を張り上げて中断させる。狐は少し名残惜しそうにしゅんと耳をへたれ込ませながらも、「では、失礼致します」と存外素直に教室の外へ出て行った。

 そして、生徒たちの間にはしばしの沈黙が訪れる。

 

「…………」

「どーする?」

「どうするも何も……。一回は使わなきゃいけないんでしょう? とりあえず今済ませるわよ」

「やだ」

 

 仕方ない、早く済ませるか……という空気の中、断固として拒絶の意思を唱えたのは、小さな赤ずきんだった。

 

「……せつなちゃん?」

「どしたんだぃ?」

 

 有子が様子を伺うようにしゃがみ込む。隣の人魚姫も、奥の漁師も、どうしたのだろうと少女を見下ろした。しばらく俯いていた赤ずきんは、ぱっといつもの明るい笑顔を表して、えへへと頭を掻く。

 

「いまはいーかな。ぼく、気が向いたらてきとーにやるよ」

 

 言いながら、くるりと踵を返して引き止める間もなく出て行ってしまう。彼女のその声色は、いつもの赤ずきんと似ても似つかないものだった。

 彼女の背を見送って、生徒たちはお互いの顔を見合わせる。

 

「……仕方ない。世絆ちゃんは置いておくとして、あたしたちは先に済ませちゃいましょうか」

「今やんの? みんなが見てる間に?」

「何よ。あんた、なんか文句あんの?」

「……いやぁ、だって……。ね? 俺ぇ……話したことも、会ったことすらないんだよねぇ〜……ん……」

 

 照れ臭そうに身体をくねらせて、苦笑いを浮かべる靴職人。いつもの彼らしくない、どこかそわそわとした感じで視線も泳ぎに泳いでいる。数回瞬きした後、白雪姫は僅かに眉を下げた。

 

「……ごめんなさい、うっかりしていたわ。配慮が足りなかったわね」

「んぇへへ〜……白雪ちゃんに謝られるの、なんか調子狂うねぇ〜」

「あんたって奴はね、あんたって奴は……!」

 

 無論、その後はいつもの調子のふたりである。おちゃらけるように首を左右にゆらゆらさせる加連と、わなわなと怒りを堪えて震える白雪。いつもの感じに戻ったことに顔を緩ませながら、生徒たちも彼らのやり取りを見つめる。すたすたと加連が黒電話に近寄り、生徒たちを振り返った。

 

「え、とりあえずさーあ? 俺やってみるから! ちょ、みんな見ててくんない? なんか一人じゃ、絶対やれないかも、おれぇ……」

「何だぃ、加連。緊張してんのかぃ?」

「そりゃするでしょ? うは〜! どんな声してんのかな!?」

「これまたテンション爆上げだねー」

 

 好奇心に満ち満ちた様子で興奮気味の靴職人が、意を決してペアレンツテレホンの受話器を取る。そして、ポケットから出した自身の電子生徒手帳を、カードリーダーにかざす……。

 

「………………」

 

 しばしの、無言。生徒たちは固唾を飲んで見守る。初めて両親の声を聞いたはずの加連の反応は、そうとは思えないほどに、ほとんど無に近かった。

 

「どう?」

「……うーん……」

 

 見守るだけの時間に耐えかねて、白雪が尋ねる。加連はイマイチな、鈍い反応を示して首を傾げつつ、そのまま受話器を元に戻した。

 

「……なんも聞こえないやぁ……」

 

 それは、本気で落胆した時の表情だった。生徒たちはぱちぱちと瞬きをして、それから互いの顔を見合わせる。

 

「何も、ってどういうこと?」

「なんもはなーんも。無音だよ」

「何それ、貸して?」

 

 今度は菊音が電子生徒手帳をかざし、耳に受話器を当てる。程なくして彼女の眉が不機嫌そうに動いて、すぐさま受話器を置いた。生徒たちがわっと近寄る。

 

「どう?」

「聞こえた?」

「……聞こえた」

「マジかよぃ!?」

「本当に聞こえたの?」

「ほんとだよ」

 

 念入りに確認する声には、煩わしそうにアントルメンティエは首を揺らす。白雪の怪訝な表情も無理はない。確か、以前……彼女のトラウマについての話を聞いたはずだ。

 

「前話したと思うけど、家が火事になってさ。俺らの親って、もう死んじゃってんだよね」

「普通に考えて、死人の声が聞こえるわけ無いわよね」

「じゃあなんで……」

 

 奇妙なことが起こっている。……しかしそれは、グレーテルの勘違いや聞き違いでは無さそうだ。思えば、あの監督者のぬいぐるみの存在そのものも、不可解な事象である。依然として自立駆動している狐は、はたから見てもただのぬいぐるみにしか見えない。この空間のことも不可解だ。出口が開かないのは置いておくにしても、16人もの人間をどうやって攫ってきたのか。何故一向に助けや様子を見にくる事がないのか。しかしそのことは、現実味のない問題で……。

 こんなとんでもないことを再現するのは、首謀者にとって朝飯前なのだろう――。

 

「気色わりーから、俺も部屋帰る……」

「大丈夫? 菊音ちゃん……」

 

 心配そうに声を掛けた加連に軽く手を振って、彼女はひと足先に視聴覚室を出て行った。

 パティシエを見送って、章平たちは再び電話に向き合う。それからお互いに顔を見合わせた。

 

「とりあえず……こういう順番で一回ずつやってみよっか?」

「そうね、必ず触らなければならないのなら、後でも先でも一緒だもの」

「だなぃ! こーゆーのは、後回しにしねぇ方がいいぜぃ!」

「ええ、さっさと済ませましょう」

「じゃあ、わたしから……」

 

 有子の提案に、その場に残った一同が頷けば、順番待ちが始まる。ひとり、ふたりと代わる代わる受話器を握って、何とも言えない表情で置く……。電話の音を聞いている間、「えっ」だの「ん?」だの、思わず出てしまった声以外には会話も特になく……ただ、受話器を握る一人を残りの生徒が見守っていた。そうして何とも言えない空気の中、最後に章平の番が回ってきた。絶妙に眉を顰めて元の位置に帰ってきた漁師を横目に、件の電話に近付く。

 意を決して。カードリーダーに電子生徒手帳をかざし、章平は恐る恐る受話器を手に取る。そうして静かに耳に当てた……。少しの間沈黙があり、やがてぷつりと音がしたかと思うと、続いて人の声が聞こえてきた。

 

「……ショウちゃん?」

「えっ」

 

 その声に、章平は驚愕してしまう。思わずぎゅっと受話器を握る手に力を入れてしまう。

 

「お……かあ、さん?」

「ショウちゃん、やっぱりショウちゃんなの? ねえ、いまどこにいるの? ショウちゃん、ママもパパも心配していて――……」

 

 ――ぷつ。

 言葉の途中で、音声が途切れる。そして再び静寂が訪れた。……今のやり取りだけで一度の使用制限時間を過ぎてしまったらしい。章平は一度受話器を置いて、もう一度手にする。耳を当ててしばらくすれば、再びぷつりと音がして――。

 

「ショウちゃん、ショウちゃんだよね? いまどこにいるの? お迎えに行くから、ママに教えて?」

「…………」

 

 やはりその声色は、口調は、話し方は……間違いなく、記憶の中にある自分の母親そのものだった。けれど、言いようのない違和感を覚えて、胸がざわつく。もちろん母と話した時に、このような不快感を抱いたことはない。しかし今感じたこの気色悪さは――間違いなく、電話の声を聞いたことによるものだ。

 

「ショウちゃん? どうしたの?」

「ごめん、おかあさん……」

 

 母のようなその声に、一言断りを入れてから章平は自ら電話を切った。音声が途切れても、胸に残るもやもやとした何かは消えない。

 有子が心配そうに駆け寄ってきて、ぎゅっと章平の手を握った。変わらないそのぬくもりが、章平を安堵させる。

 

「大丈夫? ショウくん……」

「うん……」

「あんた、よく2回もやったわね……」

「あんな気持ち悪いのになぃ……」

「なんか、ヘンだなぁって思ったんだけど、よく、分からなくて……」

「どゆことー?」

 

 一人だけ真相を把握出来ない加連が、怪訝そうな顔でまた首を傾ける。白雪は肩をすくめて、彼にも分かるように解説することにした。

 

「こっちが喋る前に、相手はあたしが誰なのか知った風な感じで話し出したの。気持ち悪いでしょ、本当に親だったとして、あたしからの電話だなんてどうやって判断するの?」

「あ……そっか、電話番号とかじゃ、分かんないよねぇ」

 

 あの電話の番号は知らないが、それが生徒たち個人に結びつくものだとは考えられない。白雪姫の不快感は当然のことだと章平も思った。

 

「とにかく、あたしたちはノルマを終えたしもう大丈夫でしょ」

「そうですね。気持ち悪いなら、触らなければいいだけだもの……」

 

 さっさと終わりにしましょうという女リーダーの声に、全員がこくりと頷いた。触らなければ祟りなし。この"動機"に何の意味があるのかだなんて、皆目見当も付かないが……しかし、今は得体の知れない不信感だけで、特に変なことは起こっていない。人魚姫の言う通りにするのが良い。放っておけばいいだけなぶん、前回のなす術もないものより数倍マシなものだ。

 そんなこんなで、その日章平たちは視聴覚室を後にした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 ペアレンツテレフォンが設置されてから、しばらく経った日の朝。章平は相変わらず有子の助けを借りて朝の支度をしていた。シャツのボタンを留めながら、有子がぽそりと呟く。

 

「なんかさ、最近……雰囲気よくないね」

「うん……」

 

 有子の言葉に、素直に同意する。なんだかみんなよそよそしい感じがする。皆がそんなだから、章平も話し掛けるのが憚られて、ぐるぐるその場を回ってから別の場所に移動する……なんてことが多いほどだ。

 支度が終わり、一緒に部屋から出る。朝食を摂るために移動する道中でも、有子は神妙な顔をしていた。

 

「ショウくん、テレホン……あの後やった?」

「へ?」

 

 有子からおそるおそる飛び出した言葉が思いがけないものだったので、章平は思わず足を止めて有子の顔をまじまじと見つめた。

 

「やってない……けど、どうしたんだい? ありす……」

 

 もちろん、そんな事実は身に覚えがない。あの2回――たった2回で、章平は不愉快な気分になったのだ。またやろうと思うこと自体がおかしな話で……。

 

「わたし、なんか……。気持ち悪くて、また2回くらい、やっちゃったんだ……」

「ええ!」

 

 思わぬ告白に、章平は素っ頓狂な声を上げてしまった。得体の知れない声というだけで不気味なのに、妙な気分を誘うあのテレホン。あれを、進んで複数回使用するなんて。章平にはその理由が分からなかったが、彼らはまだ10代のこどもたちである。単純に、親を恋しく思う気持ちからそうなっているのだ。

 

「やめたほうがいいと思うよ……」

「そう、だよね……。うん、そうなんだけど……」

 

 分かってはいるんだよ……。そう呟きながら、有子はまた歩を進める。章平は有子のことを心配に思いながら、その後ろを気を付けて着いていくのだった。

 

 

◇

 

 

 そうしていつもの通りに食堂へ辿り着くと、やはり笛吹き男以外の生徒が揃っており、すぐに朝食会が始まった。

 しかし……なんだか重い空気である。最近はあまり会話も弾まない気がする。これまでは、脱出の計画についての話や、そんなことより気分を明るくするためのなんてことない雑談があったけれど……。あまり、それをしようという雰囲気ではない。物々しい感じ……。

 

「あのさあ、みんな。ちょっといーい?」

 

 唐突にそう声を上げたのは、靴職人だった。自分の皿をしばらくじっと見つめたまま、彼はカトラリーを傍らに置く。

 

「舞踏会やんない?」

「え?」

「ぶとーかい?」

 

 彼の様子がいつもとはまるで違う、緊張感をもたらすものだったので――一体何が飛び出すのかと思えば。無表情のまま神父が口にしたのは、意外にも遊びの誘いだった。

 

「そそ。みんなでおめかしして〜踊るのよさ」

 

 そう言って加連は、上機嫌にふりふりと腰を振って優雅にリズムをとる。ようやく朗らかな微笑みを浮かべて戯けて見せる様子は、章平がよく目にする彼の姿そのものだった。

 

「ダンス会とかじゃなくて、なんで舞踏会? ドレスとか着るってこと?」

「んなもん、どこにあるんだぃ?」

「俺の部屋! 女の子のは、白雪ちゃんの部屋にあるよ〜ん」

「は?」

 

 調子良く職人が放った言葉に、一同は怪訝な顔をして聞き返す。白雪は飲んでいたカップをソーサーに置いて一息ついてから、補足を述べた。

 

「皆、服貸せって迫られたでしょ? あれから、ずっとちまちま作ってたのよ」

「ど、ドレスを!? 全員分!?」

「今いるみんな分は出来たよぉ〜。だからほらぁ、せっかくだし! ねぇ〜?」

 

 白雪姫の言葉に、生徒たちは目を白黒させて驚く。職人の方は、それが何でもないことかのようにのんびりと頷いて見せた。一人分のドレスを作るのだって、大変なことであるはずだ。章平は被服の授業を思い出す。簡単な巾着を縫うのでさえ、とても大変な時間が掛かってしまったのだ。それも有子や先生の手をたくさん借りて……。章平が同じことをしようとすれば、彼のようにはいくまい。それこそ、途方もない時間を費やすことになるはずだ。

 

「そっか……。加連、縫い物してたんだなぃ」

「うん、そう〜……。んぇえ! なになになに? こたニキ、やめてよぉ〜」

 

 大男が急に立ち上がったかと思うと、そのままゆるやかに回っている妖精の元まで近づいて、その赤毛を大きな手でくしゃくしゃに乱した。

 

「ちったあ、気晴らしになったかぃ?」

「……ん。たのしかったよー」

「ならよかった!」

 

 慈愛の眼差しで見つめられた妖精は、ただただ気恥ずかしそうに、けれど満更でもない様子で。乱れた髪を整えながらこくりと頷く。

 

「うし! じゃあ舞踏会すっぞ!」

「いえーい」

 

 勢いよく伊海田が宣言すると、わあっと歓声が上がる。何にしろ、気晴らしは必要だし……皆楽しいことをしたいというのは、同じ気持ちのようだ。

 

「場所は……体育館がいいかしら」

「そうだな。ステージは音楽流す設備もあった気がする」

「ほいじゃ、みんな一回ドレス着においでよ。お手本あるとはいえさぁ、やっぱ着心地悪いとやじゃん?」

 

 靴職人はそういうとご機嫌に口笛を鳴らして出ていく。そうか、もう衣装は準備してあるのか……。一同は彼の仕事の速さに改めて息を呑んだ。そういえば、仕事が早いことで有名な職人である。

 

「そしたら……早速、邪魔しようかねぃ?」

「そうした方がいいわね。やっぱりお直しするってなった時に、また時間必要でしょ」

「よーし! じゃ、きーまり! ゴハン食べたら俺ん部屋しゅーごーね!」

「女の子たちは、あたしの部屋に行きましょう」

「はーい!」

 

 食後のイベントが早速決まったので、久しぶりに楽しみな気持ちが湧いて出たのであった。

 

 

◇

 

 

 そうして、食事会が終わり、女子たちは片付けをし——章平は、加連に捕まれて伊海田と共に歩いていた。

 今朝来た道を戻り、自身の部屋を通り過ぎ、ある個室の前に辿り着く。加連の部屋である。

 

「へいへーい、んじゃあおふたりさん、おいでませ〜」

「わあ!」

「おお……」

 

 加連が自分の部屋の扉を開くと、中には煌びやかな衣装に身を包んだトルソーが数体あった。どれもこれも華やかで、パーティードレスと呼ぶに相応しいタキシードである。

 

「わあー! 靴屋くん、すごいねえ! すてきなお洋服だなあ!」

「えっへへん、気に入ってもらえました〜?」

「うん! ぼく、このひと目で、これがとってもすきになってしまったよ!」

「すげぇ〜! お前、これほんとに手作りなんかぃ!?」

「そぉよ〜。今回は時間もたっぷりあったかんねぇ、イチから手作りなのよさ〜」

 

 伊海田が一際大きいサイズのタキシードに近づき、やや興奮気味に振り返る。

 

「オレぁこっちだよなぃ?」

「そそ、こたニキはそれね。佐渡ちゃんのはこっち〜」

 

 家主は残りのトルソーから一着脱がせると、章平の元へ戻ってきた。

 

「ほいじゃあ、佐渡ちゃん着て見て〜。手伝ったげる〜」

「ありがとう!」

 

 伊海田が着替える傍ら。加連に手伝ってもらい、章平は煌びやかな衣装に身を包んだ。着心地は、最高。窮屈さを感じないし、布の手触りはとても良い。縫い目の不快な感覚も無ければ、サイズも大きすぎず小さすぎず……ぴったりだった。

 

「うんうん、いーかんじ! 佐渡ちゃんどうぉ? ちょっと動いてみて」

「動いても、全然ヘンじゃないよ! こんなに綺麗な衣装なのに、重たくないし、すごく動きやすいや!」

 

 章平とて、舞台に上がる際にはそれなりの綺麗な衣装を着せられていた。装飾の重みなのか、それらは普段着と比べて重力を感じる動きにくいものなのだったが……靴職人お手製のこの衣装は、どうやらそれに当てはまらないらしい。見た目だけでなく機能性も、章平はいたく気に入った。ぴょんぴょこ跳ねて飛び回る章平に、妖精は嬉しそうに笑う。

 

「良かったぁ〜。バッチリそ〜ね! 手直しして欲しいとこあるー?」

「ぜんぜんないよう!」

「あはは、佐渡ちゃんてば、ほんとにウサちゃんみたいね〜」

 

 ぴょこぴょこと跳ねながら、まるで魔法のようだと章平は思った。この一着を身に付けただけで、気分がとても良い。最近はずっと重い空気感だったのが、このおかげで明るくなったのも大きい。

 章平の方に問題がない事を確認して、職人は後ろを振り返った。同じく煌びやかな衣装に身を包んだ大男が、輝いた眼差しをしている。

 

「こたニキはどぅお?」

「すげぇぜ! めちゃくちゃピッタリだぃ! 動きやすいし、最高だぜぃ!」

「よかった〜。こたろのが1番不安だったんよねぇ。腕周りとか、ムキムキだからさぁ」

「そう! オレなぁ、市販のやつなかなか合わねぇんだよなぃ……。長袖はぴっちぴちでよぃ……。でもこいつぁスゲェぜ! オーダーメイドってやつだなぃ! 流石職人サマだぜぃ!」

「もぉ〜〜〜そんな褒めても靴しか出ないよん♡」

「靴も出たぁーっ! うお! カッケ!!」

 

 傍らの箱を取り出して、妖精は調子づきながら蓋を開ける。フォーマルな大きいサイズの靴が詰まっていた! デザインはスタイリッシュで、章平も思わず見惚れてしまうものだ。漁師の普段の快活な印象も崩さずに、しっくりくるものだと素直に思う。

 

「章平ちゃんのもあるよぉ」

「え!」

 

 隣の箱を開けられて、そうっと覗き込む。もちろん、中に入っている靴はとても素晴らしい品だった。

 

「うわあ! すごいすごい! とってもきれい!」

「これ履いてみていいかぃ?」

「どぞどぞぞ〜もちもち〜」

 

 男三人、はしゃぎまくりである。

 ふと、章平は部屋の隅に置いてあるトルソーに目を向けた。舞踏会用に加連が製作したであろう、煌びやかな男性用の礼服が一着、着せてある。

 

「ねえ、靴屋くん」

 

 それは、誰が見ても"彼"を思い起こす、真っ白なタキシードだった。

 もちろん、他の生徒のものなのかもしれない。だが、男子生徒の体躯を思えば、"それ"が誰用に作られたものなのかは察しがつく。背丈や、肉付き、腕や脚の丈の長さは、どう見ても、一人にしかぴったり合わなさそうだ。

 

「舞踏会、……彼も……」

「呼ぶよ、もちろん。……ま、来てくれるかどうかは、分かんないけどねえ」

 

 思わず口をついて出たような呟きにも、靴職人ははっきりと答えた。章平が振り向くと、その顔はどこか寂しそうに笑っていた。

 

 

◇

 

 

 衣装の確認が終わったので、一旦揃って加連の部屋から出る。そしてすぐさま解散となった。すたこらと部屋に戻っていく加連を見送って、隣の大男を見上げて、どうせだしと揃って歩き出す。すると、反対側からも話し声が聞こえてきた。

 

「加連くんって、ほんとうに器用だねえ」

「ええ、本当に」

「すっごいすてきだった!」

「あれを着るのが楽しみですね」

 

 女子たちは白雪の部屋で試着をしていたようだ。はしゃぎながら廊下を移動しているのか、わいわいと楽しげな声が聞こえてくる。

 

「あれっ」

「ショウくん」

「こたろ〜!」

「よう、せつなちゃん」

「ありすたちは、もうお着替えが終わったのかい?」

「うん、衣装については、白雪さんが詳しかったから」

「作ってるの真横で見てたからね。さっき言ってたのは、職人さんに伝えておくわ」

「ありがとう!」

「おねがいしまあす〜」

 

 キャッキャと楽しげにはしゃぎながら、また各々の自由時間。散り散りになっていく生徒たちを、章平は有子と共に見守った。

 

「みんなでお着替えじゃなかったんだねえ」

「レディが男の前で着替えられるわけないでしょ。あたしが許さないわよ」

「白雪ってば頼りになるねえ」

 

 まだ残っていた白雪姫に突っ込まれ、ああそうかと瞬きをする。大人になるにつれ、男女の区別は顕著になっていっているような気がする。いつまでも小さい頃のままではいられないのだ。

 それは——章平がどうしても受け入れたくないことうちの、ひとつだった。

 

 

 

◇

 

 

 

 さて、衣装の試着が終わり、自由時間。章平は廊下を歩いていた。

 やっと皆が少しずつ持ち前の明るさを取り戻しつつあるな、と思う。靴職人の功績はかなり大きい。章平も何か出来ることをしたいと思いつつ、まだ自身に何が出来るのかが定かではない……。

 朝方有子が言っていたことが気になって、章平も少しテレフォンを触ってしまった。やはりあの奇妙な母親に似た声がするのを聴いて、静かに受話器を置き——もう一度受話器を取り——……。我に帰った頃に、慌ててまた受話器を置いた。一度やり始めると、また何度も受話器を掴んでしまう。危ない危ない。もう触るのはやめよう。そそくさと章平は視聴覚室を出る。特に重要な手掛かりを掴めるようなものでもないのだ。

 しかし、何度も繰り返してしまう気持ちは分からなくもなかった。音声を耳にするたび——何かうずうずするような、衝動に駆られるような——焦燥感というのだろうか、そういった感情が湧き起こされるような気がした。

 いやいや、とにかく落ち着こう。そう思って、章平は水でも飲もうと食堂に向かった。部屋に置いていた残りも少なくなってきたし、ついでに何本か、ペットボトルの水を貰っておこう。そう思いながら、すぐさま目当てのものを目指して、厨房へ向かう。

 

「あれっ」

 

 ふら、と揺れる影。どうやら先客がいたようだ。もちろん、その人を章平は知っていた。他の誰でもない、見間違えるはずもない。それは、章平にとってかけがえのない友人だ。

 

「ふえ……!」

 

 言いかけて、口を噤む。その渾名はもう口にしないと、禁忌とした名だったから……というのも、そうだったが。彼のその様子が目を疑うもので、章平は思わず一瞬、硬直してしまったのだ。

 ……そう。赤(・)柳(・)は(・)、そ(・)の(・)手(・)に(・)包(・)丁(・)を(・)持(・)っ(・)て(・)、今(・)ま(・)さ(・)に(・)自(・)身(・)の(・)首(・)を(・)切(・)り(・)裂(・)こ(・)う(・)と(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。

 

「だめ――!!」

 

 章平が目の前の光景がなんなのか理解した時には、既に事は終わっていた。からん、と刃物が床を滑って、戸棚の縁にぶつかる。がばと顔を上げ押し倒した彼を見る。首も、顔も、手も、胸も。真っ白な制服は真っ白なまま。二人の間で紅は、彼のネクタイとうさぎの瞳だけだった。

 

「さど……」

「ふえ…………。……どう、して? きみは、こんなことを……」

 

 いつもの通りに呼びそうになった口を噤んで。章平は代わりに理由を尋ねた。笛吹き男はぼんやりとしている。心ここに在らず……と言ったふうな様子に、章平はますます眉を下げた。

 

「ころさないと……。ころさないと、いけないんだ」

「なにを……言ってるんだい?」

「ころせばおわる。おわれば、すべておわってしまえば、そうしたら……そうすれば……そうしてやっと、お(・)母(・)様(・)が(・)……。お(・)母(・)様(・)が(・)褒(・)め(・)て(・)く(・)だ(・)さ(・)る(・)……!」

 

 思わず手の力を緩めそうになったのを、またぎゅっと力を込める。いつもはきりりとしていた彼の、今は正気も無い虚ろな瞳の顔立ちは、何故だかとても幼く見えた。

 

「じゃま、しないでくれ……さど。頼むよ……。僕だって、僕だってほんとはずっと、分かってんだ……」

「なにを……」

 

 "分(・)か(・)っ(・)て(・)る(・)"。何を、だなんて聞くまでもなかった。それはふたつあるうちのひとつ。コロシアイの終了条件――……。レナードの口から、モノヴォルの口から、章平たちはあの時初めて知った事実だったが……当然、その"秘密"の持(・)ち(・)主(・)本(・)人(・)であれば、もうずっと前から、いつでも確認出来たことだ。彼が既にそれを知っていて、それを実行出来なかったことを、ずっと心の引っ掛かりにしていたのだというのは……全くもって、想像に難くない話だった。

 

「違うよ、違う……。ふえ…………っ、きみ、が……。きみが、そうやって苦しむ必要、ないんだよ……。きみが犠牲になる必要なんて、ないんだ……! だから、だからねえ、お願い……。そんなかなしいこと、言わないでおくれよ……!」

 

 章平は思わず少年を抱き締めた。抵抗はされなかった。彼は、ただされるがままに拘束を受け入れた。てんで彼は正気じゃない。い(・)つ(・)も(・)の(・)彼(・)は、ここにいなかった。

 彼は"笛吹き男"などではない。彼だけじゃない、他の皆も。今(・)こ(・)の(・)瞬(・)間(・)、そ(・)れ(・)ぞ(・)れ(・)の(・)想(・)い(・)を(・)抱(・)え(・)て(・)生(・)き(・)て(・)い(・)る(・)人(・)間(・)だ(・)。童話の中の、おとぎ話の中の、空想のものなんかじゃない。現実を生きる人間なのだ。

 ――だからこそ。そうだとしっかり認知しているからこそ。彼の名前を、呼ばなくてはらない。他の誰でもない彼のことを、彼のことを……彼を――……!

 けれども、うさぎは。

 

 自分のこともそ(・)う(・)な(・)の(・)だ(・)と、認めるのが恐いのだ。

 

「でも、それでも、ぼくは――」

「僕さえしねば、ぜんぶおわる。おわるよ、さど。だからもう、なんにも。心配しなくていいんだ……」

「違う! 違うよ、ぼくは……! ぼくはっ……」

 

 そんな悲しいことを、言わないで欲しい。レナードのときだって、そうだった。「自分が死ねば解決する」だなんて。そんなことを、目の前のと(・)も(・)だ(・)ち(・)には、言って欲しくなかった。章平もかつて、同じことを考えたことがある。考えたけれど――それは、とても辛くて悲しいことだと、ようやく、やっと。理解したのだ。

 

「ぼくは、きみに……生きててほしいよ、し(・)こ(・)く(・)く(・)ん(・)……!」

 

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 はっと、気がつく。

 咄嗟に口にしたもの。名前。思わず章平は自分の唇に触れる。そうして、自分が何と声にしたのかを理解して、身体が震えた。息が詰まった。けれど——彼(・)の方は、大きく瞳を揺らして——それはまるで、呪(・)い(・)が解けたようだった。

 章平の言葉を耳に入れた彼(・)は、ぱち、と瞬きをして、虚な瞳に生気が戻って来る。

 

「…………佐渡」

 

 そっと、章平の肌に手を触れる。その温度は、とても愛しくて、儚かった。

 

「…………今のは、幻聴か……?」

 

 なので、章平はにっこり微笑んで彼の瞳を見つめた。

 

「……ううん」

 

 戻ってきた光が、なぜだかとても懐かしいような気さえして。またぎゅっと腕に力を込めて、章平は顔を綻ばせる。

 

「違う。違うよ。ぼくだよ。正真正銘、このぼくさ! ……しこく、くん!」

「佐渡、お前…………」

「え、へへ……。びっくりしたかい? しこくくん。ちゃんと呼べるよ。これからずっと、何度だって……。しこくくんって、ぼくは、ぼくはちゃんと、き(・)み(・)を見るよ」

 

 そうは言ったものの。しかしやはりそう口にするには、まだ少し苦しい。上手く息が出来なくなって、心臓が早鐘を打つ。けれど無理矢理、章平はそれでも声を絞り出すのだ。きっといまだけ、いまはまだ大変だけれど、そのうちきっとそれも慣れる。逃げることも大事だけれど、逃げてばかりではいけないのだ。ぶつかった壁にも、絶対に乗り越えなきゃならないものが存在する。章平にとって、それがこのことだったというだけの話だ。

 

「だから、ねえ……。しこく、くん……。もう、こんなことしないで。諦めないで。きみはきみのことを、もう絶対、諦めないでおくれよ……」

「お前は、すごい奴なんだな……」

 

 そう言った彼の顔は、眩しいものを見つめるような、そんな表情だった。初めて向けられた目に、章平は目をぱちぱちとさせる。章平が首を傾げているうちに、彼は体勢を整えて――いつもそうしていたように――章平に、正面から向き合う。

 

「……すまない。迷惑を掛けてしまった。止めてくれてありがとう……」

「……うん。うん!」

 

 ありがとう、と言われたことがどんなに嬉しかったことか。章平自身も身に覚えのある、黒い感情。本当に"終わり"を望んでいるのなら、「止めてくれてありがとう」だなんて言葉は出てこない。だから、彼がそ(・)う(・)で(・)な(・)い(・)ことにホッとして、まだ未来を信じているのだという事実が嬉しかったのだ。

 バツの悪そうな顔で、「片付けようか」と言ったのを、章平は快く受け入れた。倒れた拍子に飛んで行った包丁も、積まれた食材がいくらか落ちてしまったのも、丁寧に拾い上げ、二人で元通りに片付けた。

 それは今までの捜査とは違って、何の仄暗さもない、初めての二人の共同作業だった。

 

 

 

◇

 

 

 

 ようやく全てを元通りに片付け終わった後。ふうと息をついて、二人してお互いの顔を見合わせた。そうして目が合ったことに思わず笑い合った。

 

「お前が誠実に、障害を乗り越えたことに敬意を表して。……僕も、お前に伝えなければならないことがある」

「そうなのかい? なんでも言ってくれたまえよ!」

 

 表情を変えて。改まって、彼は真っ直ぐに章平を見つめてくる。その澄んだ湖の色の瞳に、章平だけが映り込んでいた。

 当然、なんでも受け入れるつもりで章平はにこやかに返した。真面目な話なのだろうことは察せられた。けれど、それがなんだって、今更関係ない――……。

 

「僕はお前の顔が分からない」

「? そうなんだ」

 

 物々しい空気で発せられた言葉の意味が、章平にはあまり理解出来なかった。ただただ、本当に。そうなんだ、としか思えなかった。章平がそんな様子なものだから、彼は少し拍子抜けしたような顔をしてから、またきりと眉を吊り上げる。本当に分かったのだろうかと考えていそうな顔だった。

 

「僕には、誰の顔も判別出来ない。お前と他人の区別がつかない。お前が人混みに紛れたら見付けられないし、お前が今と違う服を着て僕に話し掛けても分からないかもしれない。お前と似た雰囲気の他者と親しげに語るかもしれない。お前のことが分からなくて誰だと言ってしまうかもしれない。……それでも僕は、お前にとって友人か?」

「うん! もちろん、お友達なのさ!」

「……………………」

 

 章平があまりにあっけらかんとしてそう返すので、赤柳は面食らったようだった。けれど、章平にとってそんなことは、どうでも良いことだった。何故なら、彼が彼であること。それだけが章平にとって、最も重要で大事なことなのだ。

 

「しこくくんのことが、ぼくは大好きだから。きみがぼくのことを分からなくても、誰かとぼくを間違えてしまっても、ぼくにとってきみは変わらずしこくくんなのだから、ぼくはきみが大好きなままだよ!」

「……僕のことを、友人だと思ってくれるのか?」

「きみがしこくくんで、しこくくんがきみなのだから、きみはぼくの大切なお友達だよ!」

 

 彼が不思議なことを尋ねるので、章平はそのまま自分の気持ちを口にした。素直な言葉は、ストレートに彼に伝わったようで……。それを耳に入れると、彼は瞬きを数回した後、頬の筋肉を弛ませた。

 

「……ふ。……お前にとっては、僕の障害ですら……取るに足らないことなんだな」

「しこくくん?」

「いや、気にするな。僕が勝手に不安に思っていただけだ。お前は最初からずっと、何も変わらず僕を信じてくれていたのにな」

「うん! これからもずっと、ずっとぼくは、しこくくんが大好きだよ」

「……ありがとう。僕も、佐渡が好きだよ」

 

 ぱちぱちと、瞬きをして。章平は今聞いた言葉が、間違いのないことだと分かってとても嬉しく思った。こんなに優しく微笑む彼の顔を、初めて見た。本当に嬉しい時、しこくくんはこうやって笑うんだ……。章平は、今この瞬間、今日のことを一生忘れないだろうなと思った。

 

「ただ……佐渡。この障害のせいで本当に僕が、お前のことを認識出来ていないようなら……いつものように、呼び掛けてくれないか」

「うん、それは……もちろん! そうするつもり、だけど……」

「顔は分からなくても、お前の声なら、判別出来ると思うんだ」

「……! うん! うん、そうだね! そのときは、そうするよ!」

 

 そうか、しこくくんは音楽家なのだもの。お耳がとっても良いんだね! 章平はそのことに気がついて、なんだかとても嬉しくなった。

 これまで会えなかったぶん、気持ちが前のめりになってしまう。まだこの時間を終わらせたくなくて、章平は再び話しかけた。

 

「あのねえっ、しこくくん! ぼくはね、考えたことがあってねえ。聞いてくれるかい?」

「ああ……。なんの話だ?」

 

 章平が尋ねると、彼は快く頷いてくれる。嬉しい気持ちを、まずは横に置いといて。章平は優しい色の瞳をじっと見つめる。

 

「これまで、みんなばらばらになっちゃったろう? だからね、ぼく、もっとみんなのことを知っていこうと思うんだ。みんなのお話をね、聞くの! いつもぼくばっかりお話しているから、ちょっぴりむつかしいかもしれないけれど……」

 

 まずは事情説明。いきなり本題に入っても、訳が分からず戸惑ってしまうかもしれないので、ことの経緯を説明することにした。自分の考えがどうして変化したのかをきちんと話していると、……目の前の彼は驚いたようにまじまじと章平を見つめていた。

 

「……しこくくん?」

 

 どうしたのかと、章平は一度言葉を止めて彼の顔を伺う。声を掛ければ、また彼は瞬きをして動き出した。

 

「……ああ、すまない。そうか……。僕が止まっている間、お前はずっと……。……うん。佐渡、それは……僕も、良い考えだと思うよ」

「本当かい? えへへ、よかったあ! しこくくんが言うなら、間違いないね!」

 

 赤柳はそう頷いて、また頬を緩める。彼は存外穏やかに笑う人だった。章平は今日この瞬間、それを知れたことがもっとも嬉しい出来事だと感じた。いつもは何を言われても怒っているような、そんな険しい表情だった彼が……こんな微笑みを自分に向けてくれる。そのことが本当に、本当に嬉しく思えたのだ。

 

「佐渡の言う通り、深く相手を知って打ち解けられれば、絆が生まれる。それは簡単には切れない大切なものになるだろうよ」

「うん、そうだよね! ぼくもそう思ったんだ! だからね、ぼく、しこくくんのお話も聞いてみたいなあと思っていてね」

「僕の話……」

「そう! ずっとねえ! そうしようと思っていたのだけれど……。ああ、違う違う! そう、しこくくんは笛を吹く人なんだったよね。でも……しこくくんが、笛をこうしてみんなに聞かせる発表会をするようになったきっかけは何だったんだい? ぼくもね、よく発表会をするから、前からね、気になってはいたのだけれど……」

「……きっかけ、か……。難しいな……」

「あ、あのね! ぼくはね! 学校の発表会で、先生に誘われてから、いろんなところでするようになったんだよう!」

「そうか、佐渡は先生に抜擢されたのか」

「うん! しこくくんは?」

「僕は……」

 

 彼の話が聞きたくて、章平はずずいと更に顔を近付ける。期待に満ちた眼差しから視線を逸らして、赤柳は目を伏せた。

 

「……何だろう。僕は、ただ……。ピアノが弾きたくなかった。……ただ、それだけな気がする。僕は……逃げてばかりだからな……」

「しこくくんは、ピアノが嫌いなのかい?」

「いや、好きだよ。すごく好きだ。でも……上手く弾けないから、自分で弾くのは……嫌い、だな」

「上手じゃないと嫌なのかい?」

「……上手く弾くのは……僕には出来ないことなんだ。だから、やらない……。やりたくない……」

「そうなんだあ……。あ、じゃあやっぱり、笛を吹くのは好きなんだね!」

「…………」

 

 彼のことを、話を聞けるのが嬉しくて仕方がなかった。だから、章平はずっとにこにこと笑みを浮かべていたことだろう。それとは対照的に、目の前の彼は少しずつ……そう、少しずつだが――確実に、その顔を曇らせていっていた。

 

「……しこくくん?」

「……佐渡、ごめん」

 

 突然口を噤んでしまう彼の顔を、章平は覗き込んでみる。その空気を察するより先に、彼は謝罪の言葉を口にした。

 

「この話は、今は……したくない」

 

 悲しそう。そんな表情をして、章平に断りを入れてから、彼はその場を去って行ってしまった。章平は、その背中を見送って……それから、どうして彼が自分に謝ったのだろうと考えていた。嫌な気分にさせてしまった。それなのに、謝らせてしまった。次に会ったら、ぼくもごめんねと言おう。悲しい気持ちにさせてしまったのは、ぼくのほうだから……。

 

 

 

◇

 

 

 

 あまりに不穏な感じで別れてしまったので、その日の夜は章平もそわそわしていた。けれど、彼が見せてくれた笑顔は本物のはずだ。不安を抱えつつも、章平はいつの間にか眠りの世界に旅立ち、夜を明かした。

 赤柳が章平に心を開き始めてくれたことは、疑いようもない事実だった。それは何より喜ばしいことで、これからの第一歩目だ。……しかし……まだ生徒たちと彼の間には、依然として溝が存在している。なので、今後は章平が間に立って、彼らの仲を取り持つ必要があるだろう。

 事態はまだ深刻ではない。最悪な未来は回避出来た。焦らず、ゆっくり考えていこう。まずは段階を踏むべきだと考えた章平は、彼との密会にも近いこの行為を生徒たちに隠しておこうと思った。別にやましいことではないけれど、皆にも彼にも、話をするための準備は必要だ。章平が積極的に彼に声を掛けて、皆にも話をつけておく……というのが最善だろう。うまく出来るかは分からないが、そのためにもっと話をしようと決めて。

 いつものように有子と支度をして、食堂に向かう。生徒たちは舞踏会という楽しいイベントを目前に明るい雰囲気だ。そのことも章平の気持ちを前向きにさせた。やはり気分良く過ごすことが何よりである。そのまま食事を終え、自由時間。章平は少し校内を動き回った。何故かといえば、人を捜していたからだ。そう、たった今ちょうど目の前に現れた、あの真っ白な制服を着た彼を——……。

 

「しこくくん!」

「佐渡」

 

 赤柳は章平をその目に映すと、心なし明るい顔を見せて、しかしすぐに戸惑うように視線を散らせ、それから曖昧な微笑みを浮かべた。

 

「しこくくん、もう平気かい?」

「ああ、大丈夫だよ。僕は正気だ。……すまなかったな、本当に」

 

 なるほど、先程の微妙な反応は、章平に対する罪悪感がまだ大きいことによる気まずさからのようだった。

 

「しこくくんが謝ることなんて、なんにもないよう! それよりしこくくん、今日もお話してくれるかい?」

「ああ……。ありがとう、佐渡。僕もお前と話がしたいと思っていたんだ」

 

 彼の表情は、以前までとはまるで違った。人を寄り付かせないような、誰にも心を開くものかと固く誓ったような、そんな態度だった彼は、今はすっかりやわらかくなって、朗らかに章平の言葉に頷いた。それは態度を変えたというより――きっと、元はこういう子なのだ。飾り立てない、役割を羽織らない、そのままの彼。それがとても愛しくて、章平はまたずずいと一歩踏み込む。

 

「なんのお話がいいかな? しこくくんは、やっぱり音楽のお話が好きなのかい?」

「……どう、かな。自分でも、何がいいのか分からないんだ」

「ううん。そうなのかい? じゃあ……ほかのお友達とは、どんなお話をしていたんだい?」

「友達……か……」

 

 まただ。昨日と同じく、彼は表情を曇らせてしまう。ううん、嫌な気持ちにさせたいわけじゃないのに……。むしろ、その反対だ。もっと楽しい気持ちを共有したい。みんなが明るくいられるのなら、最悪を回避出来るはずなのだ。だけど……。やはり、章平にはうまく出来ないようだ。

 

「しこくくんは、お話が苦手かい? それとも、やっぱりぼくとじゃないほうがいいのかな?」

「いや! ……いや、佐渡。お前じゃないほうがいいだなんて、そんなことはないよ。お前だから、……お前とが良いんだ、僕は」

「えへ! そっかあ! うれしいなあ。ぼくは、しこくくんとお話するのすごく好きだよ!」

 

 慌てて訂正する赤柳。そんな風に彼が動揺した様子を見せたことがなかったので、彼にとってそこまで慌てるべきことだったのかと、なんだか嬉しく思えた。

 章平がにっこり微笑みかけると、赤柳も表情を和らげる。それから静かに目を伏せた。

 

「僕がいま、お前とうまく話が出来ないのは……そうだな、話題……のせい、が大きいかもしれない」

「わだい? ええと……笛のお話や、音楽のお話? ごめんよう、しこくくん……。ぼくはてっきり、きみは音楽家のひとだから……そういうお話が好きなんだと思っていたんだ……」

「ううん、謝らないでくれ。そんなの僕だって……僕が佐渡の立場でも、そう思うよ。だからこれは、僕が悪いんだ……」

 

 赤柳はそう言って、また悲しそうに目を伏せてしまう。章平はおずおずと、確認のため……そう、あくまで確認のために、もう一度同じ話題を口にした。

 

「しこくくんは、笛のこと……嫌い……?」

「すこし、違う。僕のフルートはいつも、誰かを不幸にしてしまうんだ」

 

 悲しそうに、苦しそうに、彼はそう打ち明けた。章平はこの前知ったことを思い出す。"ハーメルン事件"……本当にそんな大変なことが起きたとは、想像することさえ難しいけれど――やさしい彼が、そのことをずっと心に抱えているのだということは理解出来た。

 

「お母様も、父さんも、大切な友人も。みんなみんな、僕のフルートで振り回してしまった」

 

 それは——彼が、ずっと内に秘めていたもの。

 

「僕はこの才能を、誇らしくは思えない」

 

 彼は今この瞬間、自分の内側の最も深い部分をさらけ出してくれたのだ。そう気がつくのに、時間は要らなかった。

 しかし、章平にとってそれはあまりに意外な言葉だったので……なんと返したら良いのか分からなかった。自身の才能に関して、章平には特に思い入れも、まして実感すら無い。だからこそ、それに振り回され困惑する気持ちが分からなかったのだ。

 

「……でも……」

 

 今までそうだったように、章平は素直に自分の気持ちを言葉にすることにした。

 

「みんな、しこくくんの音楽が……すてきだって、すきだって、言ってるよ。ぼくは、まだきいたことがないから、ちゃんと言えないけれど……。でも、それって多くの人の、こころの支えになっているんだと思うんだ」

 

 その言葉は下手な同情や共感より、ずっと相手を想うことだと思ったのだ。彼がこうして学園に招待されたという事実が、彼のフルートの才能を輝かしいものだと証明している。すべての人に疎まれるものなら、彼の音楽を賞賛する声すらないはずだ。

 

「物語もねえ、そうだよ! 誰かを傷付けてしまう物語だってあるのさ! でも、そんなお話でもね、多くの人のこころに残って、そうして語り継がれていくんだ。それって大事なことだと、ぼくは思うよ! うまく……言えないけど、でも……。しこくくんの笛もね、そういうものだよ!」

 

 感情というものは、人それぞれ、千差万別。人の数だけ存在するものだ。みんな違ってみんな良いと、ある詩人は詠んだけれど……章平もその通りだと想う。誰かを傷つけてしまうものも、それでも誰かの心を救うものかもしれないのだ。

 

「……ありがとう」

 

 思いがけない言葉が彼の口から飛び出したので、章平は目をぱちくりとさせて、まじまじと彼を見つめた。それが理解不能を表現しているのだと判断したのか、彼は改めて章平の顔を見つめて口を開いた。

 

「励ましてくれて」

「でも……しこくくん。嫌な気持ちに、なったろう?」

 

 先程の憂げな表情を思い出せば、そのことは容易に想像出来た。無神経な言葉を投げ掛けてしまったのだ。何故なら――章平は、そう思う彼の気持ちが分からないのに、ただの想像でものを語ってしまったのだ。

 章平の返しに彼は少し悩んで僅かに頷いてから、また顔を上げた。

 

「……でも、お前がそうやって、自分の言葉で一生懸命、僕を励まそうとしてくれたことは……その心遣いは、僕はとても、嬉しいと思うんだ」

「しこくく……」

「だからね、ありがとう。佐渡」

 

 思わず、息をするのを忘れた。それほど目を奪われる光景だったのだ。

 その声色も、表情も、仕草も。全てが愛しく思えて、なんだかとても満ち足りた気分に支配された。見惚れて動かない章平を不審に思って、彼が眉を動かすまでそれは続いた。心配そうに呼び掛けてくる彼の声にはっと気付いて、慌ててうんと頷く。なんだか顔が熱いような、心がむずむずするような、変な気持ち。けれどそれは、別に不快なものではなかった。むしろ良いと思えるもので……。いまの彼の表情を、また見たいとそう思った。

 

 

 

◇

 

 

 フルーティストと別れた後は、章平は浮ついた心地でいた。彼と話せたことで、気持ちが前向きになっている。この調子で、自分が率先して皆との仲を取り持とうという目標も、実現する未来が見えてきた。良いことばかり起こる。このままいけば、みんなで脱出するというのも夢のままで終わることはなさそうだ。

 そうして良い気分のまま今日という日を終わらせた翌日。いつもの通りに支度をして朝食を済ませて、それから一旦、自室で過ごす。今日も彼を探しに行っても良かったが、そろそろ皆の方にも声を掛けておきたいなと思い始める。ようしと立ち上がって外に出ようとする……。

 ちょうどその時、ピンポンとチャイムの音が鳴って、すぐさまはあいと返事をして扉を開く。訪問者は有子だ。

 

「ショウくん。菊音ちゃんがおやつ作ってくれたんだって。それから、加連くんが相談があるって言ってて……一緒に行かない?」

「うん、行くよう!」

 

 有子も章平も、お互いの個室の合鍵を所持している。しかし、章平の記憶の中で、それが使われたことはなかった。章平も特に使う事なく――先程のように、チャイムを鳴らして呼び出して、返事が無ければ留守だと判断して――これまで過ごしている。それで特に問題も無ければ不都合も無いのだ。おそらく有子は緊急時用としての運用を想定しているであろう。それの出番が無いのは良いことだ。

 有子と二人で食堂に入れば、聞いた通り。作りたての焼き菓子の香りが鼻を魅了した。章平以外の生徒は、赤柳以外揃っている。有子がお待たせと声を掛けたのを見るに、わざわざ彼女が呼びに来てくれたのだろう。

 章平が席に着くと、早速加連が口を開く。

 

「舞踏会に向けてちゃんと準備していきたいんだけどさぁ? 衣装とあと何があれば良いと思うー?」

 

 相談事、というと何かと思ったが——なるほど、これから本格的に舞踏会の企画を遂行していくようだ。

 座っている生徒たちひとりひとりに、珍しく小皿に取り分けられたお菓子を菊音が配膳していく。章平の分も置かれたので、靴職人の話を遮らないように小声でお礼を言った。

 パティシエお手製の菓子をつまみながら、生徒たちはううんと唸る。焼き菓子の美味しさもそうだが……ここでは、とびきり素敵な会にするための悩みから出たものだった。

 

「ダンスするんだし……なんか音楽もいるよね? 視聴覚室にCDもあったから、それを使うのはどうかな?」

 

 楽しげに有子が会話に混ざるのを見つめながら、また一口咀嚼する。口の中に香ばしいかおりと甘みが広がって、舌がとろけた。

 

「会場はやっぱり、広いから体育館かしら。飾り付けもしたいですよね……」

「おっ! そだなぃ!」

「いいねいいね。体育館にして、飾り付けも豪華にして〜……」

「広いから色々作らなきゃだねえ!」

「カーテンとか、俺ちゃん布見繕っておくよん」

 

 生徒たちが口々にあれもこれもという様を、章平は微笑ましく見守った。楽しいことがあると、やっぱり皆前向きな気持ちになれて良いなと思う。

 

「あとパーティーだし、菓子もいるよな」

「いる! いるいるー!」

「お菓子は菊音ちゃんに任せていいかな? あ、お手伝いはするよ! もちろん!」

「ありがとう。……でもなあ、こういうのじゃなく、もっと凝ったもの作りたいよね」

「じゃあ、ちょっと計画練ろうよ。材料も見て行って……」

「お、いいな」

「うーん、俺ちゃん一旦布見に行っていい? 手持ちのやつでなんとか出来ないかなー」

「ならあたしも、職人さんの助手ってことになるわね」

「じゃ、ぼくおかざり考えるねえ!」

「私もせつなちゃんと一緒に考えようかしら」

「……あ、じゃあオレはCD見てくるぜぃ」

「良さげな音楽にしろよ、伊海田」

「おう! 赤柳にちょいと相談しよっかねぃ〜」

「あ、しこくくんなら、ぼくも……」

 

 章平が声をかけようとすると、伊海田は早速と食堂を出て行ってしまった。追いかけようか、迷う。温厚で気さくな彼が気にかけてくれるのなら、仲介役は特段必要にならないだろう。

 いま、この中で役割が無いのは章平だけだった。

 

「うーん、ぼくは……どうしようかな……」

「ショウくんもお菓子……。ああ、でもまだ作る段階じゃないねえ……」

「力仕事はまだいらねーかな」

「では、佐渡君には、赤柳君へのパーティーのお誘いをお願いしましょうか」

「うん! えっと、それはたぶん、大丈夫だよ!」

「あらあ! しょうへーちゃん、はなしがはやあい!」

 

 しこくくんなら、きっと断ったりしないと思うんだ。章平はそう思って、深く頷いた。そうだ、今度お話するときにお誘いしよう!

 とても良い考えだが、やはり役割はないままだった。ううんと考えていると、グレーテルが好きに過ごしてもいいんじゃないかと言ってくる。今まで通りに過ごすことも良いけれど……やはり、皆で頑張っている最中、自分も出来ることがしたい。

 しゅんとしていると、あっと有子が声を上げる。

 

「そうだ、ショウくんのお話も久しぶりに聞きたいな。良さそうなお話をいくつか考えておいてよ」

「お話かい?」

「あ! そーだねえ! ぼく、しょうへいちゃんの語(・)り(・)、聞いたことないやあ」

「そっかあ! じゃあ、皆がわくわくするお話がいいかなあ……」

「それはとても良い考えだわ。佐渡君、この前図書室で選んでいたお話……。あの中から探すのはどうかしら?」

「うん! そうだね、面白いものがあったらいいなあ!」

 

 ひとまず、今後の準備に向けて一通り方針が固まった。やることもだいぶ明確になった生徒たちは、善は急げと言わんばかりに解散することになった。もちろん、章平も来たる舞踏会のための物語を選ばなければならない。行き先は決まっていた。

 

 

◇

 

 

 章平は図書室で本を漁っていた。舞踏会でのお披露目のことももちろんあるが、この前から良い物語を探していて、結局人探しやら事件やら裁判やらで中断してしまっていて――そのあとは、赤柳のことが気掛かりでそれどころではなかったのだ。彼と少し話が出来て、数名の生徒も疑念を払拭しつつある。そう、いまやっと、本漁りをする余裕が章平の中に生まれたというわけだ。

 

「うーむ……ぅ……」

 

 学園の図書室は、学問的なものが多く……。文学の本もたくさん蔵書があったが、なかなかピンとくるものが見つからない。久々にじっくり腰を据えて本と睨めっこを繰り返す。大抵の物語は全て章平の頭の中に入っている。新たな出会いをするのは——それこそ、今この瞬間に発表される物語くらいだ。だから今更、物語を探すという行為を行う必要は無いのだが……。本を読む、ということが目的なのだ。紙に印字された文字を目で追って、ページを捲る作業。それは、読書の醍醐味のひとつである。その行為を章平はとても好んでいた。たったそれだけの簡単な行為で、色々な世界に旅立てるのだ。

 まだ、どのお話にしようかというのも、思いつかないからなあ……。頭の中を整理するという意味でも、章平にとってその行為は重要なものだ。久しぶりに発表会をしてほしいと言われたものだから、どうしようか悩みに悩んで――……気付けば、時計の針がくるくる回りに回っていた。

 

◇

 

 満足、満足。ようやく納得のいく物語に巡り会えたので、大事に両腕に抱えて運ぶ。ベッド脇のテーブルにある明かりだけを灯して、布団を被ってふかふかな気持ちでこのページを捲るのは、どんなに素敵なことだろう。そんな優雅な夜を過ごせば、きっとみんなにぴったりの、良い物語を思い付くだろう。舞踏会はまだ準備を始めたばかりだし、すぐ開催されるものでもない。あのフルーティストとのことと同じ、焦らなくて大丈夫だ。

 そうして章平が気分の良いまま図書室から一歩出た、その時だった。

 

 ――ジリリリリ!

 

「えっ」

 

 突然非常ベルが廊下に響き渡る。付近に誰もいないのか、何事かと辺りを見回しても人陰が飛び出してくることはない。突然の警報音に章平が戸惑っていると、すぐさま放送が切り替わり――あの、ぬいぐるみの声が響いた。

 

 ――ファンファン! 火事です。生徒の皆さんは、避難……するまでもなく、超高性能の消火設備がございますからまもなく鎮火致しますのでご安心くださいね。はい……うーん……。よし! 消火完了です。ふ〜お騒がせしました。それでは、皆様、引き続き学園生活をお送りください。

 

 ぷつり、とそこで放送は終了する。なんだったんだろう? 火災が発生する……ということは、ただ事ではないはずだ。みんなは無事だろうか? 章平は途端に不安に駆られて、図書室を出る。火事が起こりそうな場所といえば、まず厨房だろう。早速寄宿舎の方へ向かうべく、廊下を進む。

 すると、前方に人影があるのを確認した。ふらふらと、覚束無い足取りで前を歩いているのは……。

 

「しこくくん?」

「佐渡……」

 

 彼が振り返る。その顔を見た途端、何故か、章平はぞくりと嫌な予感に襲われた。思わず本を投げ出して駆け寄る。つい、この間までのどこかゆめうつつな……そんな彼の様子に、居ても立っても居られなくなった。

 

「どうしたんだい? 何が……」

 

 覗き込むまでもなく、彼の顔は蒼白だ。必死に冷静さを取り戻そうとしている。それだけで……彼が何を目撃したのかを全て察せられた。

 

「……何処だい?」

「プールの、男子更衣室、だ……」

 

 赤柳の肩を強く摩ってから、章平はすぐさま廊下の角へ向かう。

 目の前に現れたふたつの扉のうち、青い方の前に駆けて行って、懐から電子生徒手帳を取り出して翳して、……以前のようにその扉が開くと、そこには。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 ……"超(・)高(・)校(・)級(・)の(・)漁(・)師(・)"伊(・)海(・)田(・)航(・)太(・)郎(・)が、すべての生命活動を停止して倒れていた。

 

 

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